枕草子49段 職の御曹司の西面の

をのこは 枕草子
上巻中
49段
職の御曹司の西面
馬は

(旧)大系:49段
新大系:46段、新編全集:47段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず、混乱を招くので、三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:57段
 

新大系段冒頭:職の御曹司の西おもての


 
 職の御曹司の西面の立蔀のもとにて、頭の弁、物をいと久しういひ立ち給へれば、さしいでて、「それはたれぞ」といへば、「弁候ふなり」と宣ふ。
 「なにかさも語らひ給ふ。大弁みえば、うちすて奉りてむものを」といへば、いみじう笑ひて、「たれかかかる事をさへいひ知らせけむ。『それ、さなせそ』と語らふなり」と宣ふ。
 

 いみじうみえ聞こえて、をかしきすぢなど立てたることはなう、ただありなるやうなるを、みな人のさのみ知りたるに、なほ奥ふかき心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前にも啓し、またさ知ろしめしたるを、つねに、「『女は己をよろこぶもののために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ』となむいひたる」といひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。
 「遠江の浜柳」といひかはしてあるに、若き人々は、ただいひに見苦しきことどもなど、つくろはずいふに、「この君こそうたてみえにくけれ。こと人のやうに、歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」などそしる。
 

 さらにこれかれに物いひなどもせず、「まろは、目はたたざまにつき、眉は額ざまに生ひあがり、鼻はよこざまなりとも、ただ口つき愛敬づき、おとがひの下、くびきよげに、声にくからざらむ人のみなむ思はしかるべき。とはいひながら、なほ顔いとにくげならむ人は心憂し」とのみ宣へば、ましておとがひほそう、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前にさへぞあしざまに啓する。
 

 物など啓せさせむとても、そのはじめいひそめてし人をたづね、下なるをも呼びのぼせ、常に来ていひ、里なるは、文書きても、みづからもおはして、「おそくまゐらば、『さなむ申したる』と申しに参らせよ」と宣ふ。
 「それ、人の候ふらむ」などいひゆづれど、さしもうけひかずなどぞおはする。
 「あるにしたがひ、さだめず、何事ももてなしたるをこそよきにすめれ」とうしろ見聞こゆれど、「我がもとの心の本性」とのみ宣ひて、「改まらざるものは心なり」と宣へば、「さて『憚りなし』とはなにをいふにか」とあやしがれば、笑ひつつ、「なかよしなども人にいはる。かく語らふとならば、なにか恥づる。見えなどもせよかし」と宣ふ。
 「いみじくにくげなれば、さあらむ人をばえ思はじと宣ひしによりて、え見え奉らぬなり」といへば、「げににくくもぞなる。さらばな見えそ」とて、おのづから見つべき折も、おのれ顔ふたぎなどして見給はぬも、まごころに空ごとし給はざりけりと思ふに、三月つごもりがたは、冬の直衣の着にくきやあらむ、うへのきぬがちにてぞ、殿上の宿直姿もある。
 

 つとめて、日さし出づるまで、式部のおもとと小廂にねたるに、奥の遣戸をあけさせ給ひて、上の御前、宮の御前出でさせ給へば、おきもあへずまどふを、いみじく笑はせ給ふ。
 唐衣をただ汗衫の上にうち着て、宿直物もなにもうづもれながらある、上におはしまして、陣より出で入る者ども御覧ず。殿上人のつゆ知らでより来て物いふなどもあるを、「けしきな見せそ」とて、笑はせ給ふ。
 

 さて立たせ給ふ。「ふたりながら、いざ」と仰せらるれど、「いま、顔などつくろひたててこそ」とて、参らず。
 入らせ給ひて後も、なほめでたきことどもなどいひあはせてゐたる、南の遣戸のそばの、几帳の手のさし出でたるにさはりて、簾のすこしあきたるより、くろみたる物の見ゆれば、説孝がゐたるなめりとて、見も入れで、なほこと事どもをいふに、いとよく笑みたる顔のさし出でたるも、なほ説孝なめりとて見やりたれば、あらぬ顔なり。
 あさましと笑ひさわぎて、几帳ひきなほし隠るれば、頭の弁にぞおはしける。
 みえ奉らじとしつるものを、といとくちをし。
 もろともにゐたる人は、こなたにむきたれば顔も見えず。
 

 立ち出でて、「いみじく名残なくも見つるかな」と宣へば、「説孝と思ひ侍りつれば、あなづりてぞかし。などかは、見じと宣ふに、さつくづくとは」といふに、「女は寝起き顔なむいとかたき、といへば、ある人の局にいきて、かいばみして、またも見やするとて来たりつるなり。まだ上のおはしましつる折からあるをば、知らざりける」とて、それより後は、局の簾うちかづきなどし給ふめりき。