平家物語 巻第二 山門滅亡:概要と原文

山門滅亡1
堂衆合戦
平家物語
巻第二
山門滅亡2
さんもんめつぼう2
善光寺炎上

〔概要〕
 
 異国の仏法も衰微してきたようにか、天台宗総本山の比叡山も堂衆合戦(内部紛争)で荒廃。何者のしわざであったか、山を離れた僧(坊)の坊(宿坊=宿泊施設)の柱に書きつけられていた。(以上米沢本。高野本では何者のしわざであったかがなく離山した僧の和歌とする)

①祈り来し 我が立つ杣の 引きかへて
  人なき峰と なりやはてなむ

 これは伝教大師こと天台宗開祖・最澄の祈りの句

②「阿耨多羅 三藐三菩提の ほとけたち

 わかたつそまに 冥加あらせたまへ」(新古今1920)

 を思い出して詠まれたものか、とてもやさし(※)く聞こえたのだった。

 ※杣(そま)=①②材木を切り出す山、①切り出した材木、①②切り出す人。材木は命の灯と合わさり温かい生活を象徴。こう見ると、①の和歌は立つに発つ人々を掛け、求めてきた人々の役に立ち、私が立つ山はもう用済みになったのかという意味に解せられる。末尾の「なむ(だろうか)」の心は、哀愁の感嘆と、本当に役立ったのかという疑問反語の掛詞。いや役立っていないという刹那短絡的解釈も少し違い、そこもさらったのが②の句。

 またこの「わがたつソマ」のような対句が前後に配置される場合一体として見る。明示がないのは教養人向けの暗示。上記「やさし」は「いとやさしうぞ」で、「いと」「ぞ」と重ねた強調と相まって解釈を要する語だが、普遍的語義及び仏法と開祖と衰微荒廃をいう文脈から、堂衆=一般宗徒のように一皮むくと野蛮ではなく優しく慈悲の心があることと解すべきものである。「殊勝」という解釈は上から目線で優しくなく仏法衰微いう作者の目線に反し不適当。ひるがえり歌詞を明示しない著者はやさしくない自覚あり。

 


 

 その後は山門いよいよ荒れ果てて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶もまれなり。谷々の講演摩滅して、堂々の行法も退転す。修学の窓を閉ぢ、座禅の床を空しうせり。四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月も曇れり。
 三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香の煙も絶えやしにけん。堂舎高く聳えて、三重の構へを青漢の内にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白霧の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に湿し、夜の月燈をかかげて、軒の隙より漏り、暁の露、珠を垂れて、蓮座のよそほひを添ふとかや。
 

 それ末代の俗に至つては、三国の仏法も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡をとぶらへば、昔仏の法を説き給ひし竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼野干のすみかとなつて、礎のみや残るらん。白鷺池には水絶えて、草のみ深くしげれり。
 退凡下乗の卒塔婆も苔のみ埋みて傾きぬ。震旦にも天台山、五台山、白馬寺、玉泉も、今は住侶なきさまに荒れ果てて、大小乗の法門も、箱の底にや朽ちぬらん。我が朝にも南都の七大寺荒れ果てて、八宗九宗も跡絶え、愛宕、高雄も、昔は堂塔軒を並べたりしかども、一夜のうちに荒れ果てて、天狗の住みかとなり果てぬ。さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法も、治承の今に及んで、滅び果てぬるにや。心ある人の歎き悲しまぬはなかりけり。何者のしわざにやありけん、離山しける僧の坊の柱に、一首の歌をぞ書き付けける。 
 

♪11
 祈り来し 我が立つ杣の 引きかへて
  人なき峰と なりやはてなむ

 
 これは伝教大師、当山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の仏達に祈り申されし事を思ひ出でて詠みたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえし。
 

 八日は薬師の日なれども、南無と唱ふる声もせず、卯月は垂迹の月なれども、幣帛を捧ぐる人もなく、緋の玉垣神さびて、注連縄のみや残るらん。
 

山門滅亡1
堂衆合戦
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山門滅亡2
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善光寺炎上