古事記 サホ姫の涙と蛇の夢~原文対訳

共謀 古事記
中巻④
11代 垂仁天皇
サホ姫サホ彦兄妹物語
②サホ姫の涙と蛇の夢
サホ姫自白
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
故天皇。 かれ天皇、 しかるに天皇は
不知其之謀而。 その謀を知しらしめさずて、 その謀をお知り遊ばされず、
枕其后之御膝。 その后の御膝を枕まきて、 皇后の膝を枕として
爲御寢坐也。 御寢したまひき。 お寢やすみになりました。
     
爾其后。 ここにその后、 そこでその皇后は
以紐小刀。 紐小刀もちて、 紐のついた小刀をもつて
爲刺
其天皇之御頸。
その天皇の御頸おほみくびを
刺しまつらむとして、
天皇のお頸くびを
お刺ししようとして、
三度擧而。 三度擧ふりたまひしかども、 三度振りましたけれども、
不忍哀情。 哀かなしとおもふ情に
え忍あへずして、
哀かなしい情に堪えないで
不能刺頸而。 御頸をえ刺しまつらずて、 お頸をお刺し申さないで、
泣涙
落溢
於御面。
泣く涙、
御面おほみおもに
落ち溢あふれき。
お泣きになる涙が
天皇のお顏の上に
落ち流れました。
     
乃天皇驚起。 天皇驚き起ちたまひて、 そこで天皇が驚いてお起ちになつて、
問其后曰。 その后に問ひてのりたまはく、 皇后にお尋ねになるには、
吾見異夢。 「吾あは異けしき夢いめを見つ。 「わたしは不思議な夢を見た。
從沙本方
暴雨零來。
沙本さほの方かたより、
暴雨はやさめの零ふり來て、
サホの方から俄雨が降つて來て、
急洽吾面。 急にはかに吾が面を沾ぬらしつ。 急に顏を沾ぬらした。
     
又錦色小蛇。 また錦色の小蛇へみ、 また錦色にしきいろの小蛇が
纒繞我頸。 我が頸に纏まつはりつ。 わたしの頸くびに纏まといついた。
如此之夢。 かかる夢は、 こういう夢は
是有何表也。 こは何の表しるしにあらむ」
とのりたまひき。
何のあらわれだろうか」
とお尋ねになりました。
共謀 古事記
中巻④
11代 垂仁天皇
サホ姫サホ彦兄妹物語
②サホ姫の涙と蛇の夢
サホ姫自白

八鹽折の小刀と小蛇の夢(八俣の大蛇)

 
 
 サホ彦が持っていた「八鹽折之紐小刀」の「八鹽折」とは、出雲でスサノオが退治した八俣大蛇で出てきた形容詞である(八鹽折之酒)。だからその小刀を振るわれた天皇の夢に小蛇が出てきたのであり、スサノオ同様に幼稚なホムチワケ(情況からサホ彦の子)が出雲大神に行って何やらしゃべり出し、蛇の娘と一夜を共にするのである。

 

 なお、ここでのサホ姫は、首を狙って小刀を三度も振った時点で、殺人未遂罪が成立する(いわゆる着手未遂)。ただし自己の意思で中止しているので、刑は必ず減刑または免除される(必要的減免)。よって免除と言いたいが、そもそも訴追されないだろう。それがこの国のやり方で、法の理解である(人の支配)。法の支配でいう法とは、人が立てる法律のことではない。普遍の法、摂理(プロビデンス)・天道のことである。根本的に人が作った法律に人が支配されることはない。だから法の支配の「法」を人の法律とみなす時点で、必然、恣意的な人の支配(法治主義=法律万能主義・法律の恣意的運用)なのである。プロビデンスは天道と同義であり(目と見ているの枕詞)、法も摂理も、キリスト教や仏教の専売特許ではない(そんな許しは存在しえない)。法体系の理解は、寝転がって悟る漠としたものではなく、世界の法則の総体的理解による。法が最も重んじるのは、フェアネス(公平・公正)、それと正義(言葉をその通り定義・解釈・運用すること)。言葉・公を自己都合でいじり回すのが不正で悪。人の正しさは人道に則ることで、精神を経済(金)に劣後させないことである。金は人の道具。しかし今は金の支配の様相を呈している。それが資本主義。つまり人以前。そういう道もある。だからそれらは、人道も人権も口先だけでその理想を根本的に認めない。それが心の貧しさ。それを卑しさという。貧しさと野蛮さは社会的に同義である。みなが満ちて豊かなら必死に争い奪いあう動機が全くない。