伊勢物語 60段:花橘 あらすじ・原文・現代語訳

第59段
東山
伊勢物語
第二部
第60段
花橘
第61段
染河

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・源氏物語との関連
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  まめ かはらけ 
 
  袖の香 山に入り
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 昔、ある男が宮仕えに忙しく、妻に良くしなかったところ、良くしてくれる人についてよその国に出て行った。
 さて、男がある時、大分の宇佐に仕事でいくと、出迎え役の妻として、なんとその妻が出現した。
 
 男「女、主に(盃を)かわりなさい。でなければ飲めない」(女主人ではない。全く脈絡がないし、62段・69段との相似性を完全無視)
 女、そこで、サケのサカナ(アテ)として、橘(ミカン)をとり、これをサカヅキに当て
 

 さつき待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする その心は
  さっきまで 待っていたのに 袖にされ 何の因果か わたしはかなし
 

 と言って、思い余って尼になり、山に入ってしまったのであった。
 
 (なお、この歌は男の歌ではない、女の歌。
 内容がそうだし、一方的に男が懐かしむ意味も文脈も意味不明。まして女主人とは誰でどういう繋がりだ? 誰かは知らんが昔の人? んなわけない)
 

 盃を相手に出し「主はあなた」。
 だけども、サツキでサカヅキからカをなくし、果無しで悲し。実りない。
 果がない。花もかげば懐かしい香がするから、かがない。
 

 つまり、酒の肴の橘とは花のこと。だから花・橘とつけている。それに五月でミカンのミの季節ではない。
 いわば、花の賀≒香。断ち花で切花。
 この花は、男が思い出されるその花を、酒の席に供じるためのものであった。
 

 男の言う「飲めない(飲まじ)」とは、その新しい関係を受け入れないという意味を含んでいる(この話は飲めない)。というかそちらがメイン。
 女が杯に当てて返したことは、縁を切るという儀式的な意味(ただし嫌いだからではなく、新しい関係を見られた以上、事実上修復不能だから)。
 

 このように、言葉に普通の思い込みと違う繊細な意味を含ませ、そちらを本意にすることが、この物語最大の特徴。それをみやびという。
 それに、ここでの肴のアテという読みは、貴(あて)なるにかかり、それは大体、みやびの意味なのだから(見や美)。
 文脈全体でよく通るよう解釈しなければならない。ただバラバラ繋ぎ合わせれば、ただ支離滅裂になるだけ。意味がない即ちナンセンス。
 
 ~
 

 本段は宇佐への使の話で、69段は伊勢への使の話。
 69段では「むかし男」が、会ってすぐの斎宮に、まるで夫婦のようにもてなされるという描写がある。(斎宮の親=帝によくもてなせと言われ)
 そして「斎宮」が「尼になり」という、本段末尾と符合する記述が102段104段にある。
 斎宮(女)が、神と相容れない尼になるのは、死ぬほど穢れたと思ったからだが、それは本段の文脈。
 
 本段の歌は古今139に詠人不知で収録されるが、古今がこの伊勢を参照している(一般はそうみないが)。
 伊勢単体で古今を凌ぐ影響力をもつのに、その著者が、古今を一々参照しチマチマ作る動機がない。
 しかも万葉すら直接引用は一度もしてないのに。本段の歌もそう。
 加えて業平は登場するたび非難し(63段等)、その歌をよくもない(77段)、もとより歌を知らない(101段)、その名は忘れたとする(82段)。
 
 他方、歌集の古今が伊勢を参照する動機はいくらでもある。
 まず何よりその詞書(古今最長の詞書が突出し筒井筒、次が東下り)、歌の配置(分厚い恋愛等)が、伊勢からの多大な影響を如実に表す。
 

 つまり伊勢の歌は既に強く流布していたが、それを業平のものと勝手に古今がみなした。それでそれっぽいのは諸々業平の歌ということにされている。
 なぜみなしたかというと、第一に二条の后の話が描かれる(細部は知らん)、加えて女の話が沢山でてくる。あの噂の業平に違いない。そのレベル。
 だから業平主人公説は、細部の整合性を悉く無視する。しかしそこまで安易な話ではない。
 花橘・宇佐の使は、明らかに62段、狩の使とリンクさせた前準備であり、女主人などという解釈はありえないナンセンス。
 
 本来、伊勢の著者を業平ではないとみたその時点で、伊勢の歌を業平の歌とみなすことはできない。
 女の話が沢山出てくるのは色好みというより、男が後宮に勤めていたから。縫殿の六歌仙。女とかかわるのは仕事だから。
 
 しかし伊勢斎宮とはそうではない。後宮の女ではないから。昔男が契りという言葉を出した女は二人だけ。筒井筒=梓弓の女と、伊勢斎宮。
 その二人のリンクが、前段で清水での妻の死を悼んだ話と、直後のこの話。
 どちらも(さびしくなって)他の男になびいて、女として自分で死んでしまった話。梓弓の子は清水(きよみず)で、ここでの妻は尼になった。
 
 
 

源氏物語との関連

 
 
 突如何のことかと思うかもしれないが、本段は実は極めて重要。全く目立たないが。
 花橘・宇佐の使が、続く62段(古の匂は)と完全リンクし、69段(狩の使)の伏線。つまり、伊勢斎宮と昔男との前世を暗示した内容。
 だから69段で伊勢斎宮と初見で夫婦のような近い距離になる。
 それで最後に盃を交わすのである(続末の盃:そこに歌を二人で記した超みやびな代物。もちろん盃は、本段のものと掛かっている)。
 でないと、凡人ならともかく、伊勢斎宮と初対面でそうなることは事実上も立場上もありえない。
 

 他方で、紫式部の記した源氏物語の歌では、橘の花・袖の香が前世・夫婦の文脈でしばしば登場、そして本段末尾のように、尼になろうとする女が描かれる。
 詳しくは、源氏の和歌一覧を参照。源氏以前に、橘の花の香を、明確に夫婦の前世で具体化したのは、伊勢しかない。
 源氏の主人公、スーパー才能色男とそれで泣く女達、一貫して前世と現世を憂う内容。つまり源氏は、伊勢を受けて書かれた。としかいえない。
 そして紫はしばしば昔の思い出の象徴・橘の花を出し、尼になる尼になる、憂い憂いと描くのだから、彼女は、伊勢斎宮の宿世を受けた存在。
 

 だから二人は特別扱いになっている。つまり伊勢(と竹取)の著者と紫は。古典の双璧。
 竹取も含めて見ているから、かぐやのように主人公は光るとした。かぐやと対比していることは源氏原文で直接説明されている。
 紫が特別なのは、この段をその文脈で一般は誰も見ないし疑問にも思わないから。彼女だけそう見て注意を惹かれたのは、二人の記憶が刻まれていたから。
 したがって、この物語が「伊勢物語」という名称に固定されたのは、まずもって彼女による。そもそも、伊勢自体は後半の内容で、全体の象徴ではない。
 源氏中に「伊勢物語」「在五が物語」どちらもあるが先に出したのは伊勢表記、「業平」「在五」は共に「朽たす」に掛けるので、実は朽そという暗示。
 

 源氏の最初の妻が葵、次が紫ということは、伊勢の昔男の最初の幼馴染の妻、筒井筒=梓弓の女が果てた後の、次の候補が斎宮ということとパラレル。
 そして源氏の上では、関係を成就させたと。
 

 花橘は万葉語で、本段ように五月と合わせ用いられる。昔男が万葉語を持ち出す時は、古の関係を暗示(典型は梓弓や、沖つ白波龍田山)。
 なお、万葉すら直接引用していないので、伊勢は古今やら業平の歌を引用して作っているのではない。
 

 五月の 花橘を 君がため 玉にこそ貫け 散らまく惜しみ(08/1502)

 五月山 花橘に 霍公鳥 隠らふ時に 逢へる君かも(10/1980)

 暇なみ 五月をすらに 我妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ (08/1504)

 霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の(19/4169)
 

 風に散る 花橘を 袖に受けて 君がみ跡と 偲ひつるかも(10/1966)

 鶉鳴く 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの宿(17/3920)

 玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし(17/3984)
 

 「玉」とは魂、「玉を貫く」とは、玉緒の暗示。つまり運命の糸(魂の意図・見えない繋がり)。
 ここでの「袖」は他生の縁の暗示。「古」はもちろん前の世。
 

 上記の「霍公鳥(ほととぎす)」も花橘とセットの言葉で、源氏では要所で用いる。
 「ほととぎす 君につてなむ ふるさとの 花橘は 今ぞ盛りと」(源氏♪576)
 「橘の香を なつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ」(源氏♪168)
 

 香というのも、この特有の文脈で前世と現世のつながりを意味し、光る源氏死後、次の主人公、薫というのはそういう名前。
 

 「鶉鳴く」は、123段の深草の女の歌として出しており、つまり伊勢斎宮の隠居先。
 

 なおここで、宇佐という具体的な昔の言葉が入っているが、これはまず何かの記録を見て書いている。そこで確実な符合・類似性を見てとった。
 恐らく柿本人麻呂の時の記録。それが文屋の前世。本と文。歌聖で歌仙。なので万葉の歌も自然に繰れるのである。どちらも恋歌を多く作って。
 そしてどちらも卑官で帝の代作を勤めている。狩の使はその随行員。だから百人一首1(天智)と15(光孝)で、完全パラレルの内容なのである。

 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
 

 帝を前にし、瞬間的にこの一見ふざけた歌を詠める、それは本人しかない。
 いや、ふざけていると思われないという確信のもと、滑稽さを出した。なぜなら代作自体どうでもいい、というか馬鹿みたいな行為だから。
 そうしたらやりすぎて、114段で光孝の機嫌を損ねて慌てたという話。
 上級貴族が代作をすることは作法上ないし、名前を控える動機がない。
 
 歌を詠めたことがモテ要素というがどうか。31音で歌うもなにもほぼつぶやき。聞いたと思ったらもう終わる。歌を嗜む社会は自由恋愛でもない。
 和歌は感覚ではない、理性と知性。その上の感性で完成させる。そういう教養を好むならわかる。でもそういうのは、最早モテとかじゃない。理解。
 だから、そういうのが好きな紫式部が熱心に書いたからといって、モデルがモテたわけでは必ずしもない。陰の評判は知らないが、文屋の表現はそう。
 むしろ幼い頃からの妻に振られて泣いて、物凄い頭の悪い淫奔に乗っ取られ死にそうになった。それに現に和歌もわからん有象無象に侮辱されとるがな。
 草木を枯らす山風を嵐という歌だって、文字足しただけじゃんw百人一首で一番下らないw ってはあ? 嵐からの木枯らしの掛かりも見えん素人がさあ。
 
 バカでも分かるようしろいうから基本示すと、バカだろwとクサしてくる。そういうのを触ると障るアンタッチャブルという。最低の下賤。地獄かここは。
 まー知らんのはどうでもいいけど、今の感覚から推測すると、自分でぶち壊したのが多い。本段のように。
 「心もまめならざりけるほどの」とは、心の機微がまだよくわからなかった頃という意味。この言葉はどちらにもかかっているが、メインは男。
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第60段 花橘
   
 むかし、男ありけり。  昔、をとこ有けり。  昔男有けり。
  宮仕へいそがしく、 宮づかへいそがしく、 宮づかへもいそがしくて。
  心もまめならざりけるほどの 心もまめならざりけるほどの 心もまめならざりければ。
  家刀自、 いへとうじ、 家とうじ「と新」[イニナシ]
  まめに思はむといふ人につきて、 まめにおもはむといふ人につきて、 まめに思はんといひける人につきて。
  人の国へいにけり。 人のくにへいにけり。 人の國へいにけり。
       
   この男、  このおとこ、  この男
  宇佐の使にていきけるに、 宇佐のつかひにていきけるに、 うさの使にていきけるに。
  ある国の祇承の官人の妻にて あるくにのしぞうの官人のめにて ある國のしぞうの官人のめに
  なむあると聞きて、 なむあるときゝて、 なんあると聞て。
  女あるじにかはらけとせよ。 女あるじにかはらけとらせよ、 女あるじに。かはらけとらせよ。
  さらずは飲まじといひければ、 さらずはのまじ、といひければ、 さらばのまんといひければ。
  かはらけ取りいだしたりけるに、 かはらけとりていだしたりけるに、 かはらけとらせて。いだしたりけるに。
  肴なりける橘をとりて、 さかなゝりけるたちばなをとりて、 さかななりけるたち花をとりて。
       

109
 さつき待つ
 花橘の香をかげば
 さ月まつ
 花たちばなのかをかげば
 さ月まつ
 花橘の香をかけは
  昔の人の
  袖の香ぞする
  昔の人の
  袖のかぞする
  昔の人の
  袖のかそする
       
  といひけるにぞ、思ひ出でて、 といひけるにぞ思ひいでゝ、 といへりけるにぞ。思ひ出て
  尼になりて、山に入りてぞありける。 あまになりて、山にいりてぞありける。 あまになりて。山には入にける。
   

現代語訳

 
 

まめ

 

むかし、男ありけり。宮仕へいそがしく、
心もまめならざりけるほどの(△ざりければ)家刀自、まめに思はむといふ人につきて人の国へいにけり。

 
 ※「まめ」が繰り返されが、このような用法は、この物語ではよくある同音異義。「色好みと知る知る」(42段)「恨むる人を恨みて」(50段
 ここで塗籠本(△)は表現をずらすが、このようなことは不適切。男がまめでないのか、家刀自(家内)がまめでないのか違いがでる。
 流れでみれば男だが、文章としては家刀自につくとも見うる。したがって、男がまめでないことを主にしつつ、女もそうだったと解する。
 このような男女どちらも読み込む用法は、「つれなかりける人」(34段)などにもある。
 
 
むかし男ありけり
 むかし男がいた。
 

宮仕へいそがしく
 宮仕えが忙しく
 

心もまめならざりけるほどの(△ざりければ)
 心もまめでなかった頃、
 

 まめなり 【忠実なり・実なり】
 :現代のマメそのまま。マジメ、誠実、細やかな配慮。
 →ここでは、前段末尾(櫂がない歌)から、頼りがいがない薄情な、というような意味。
 ほどの、と合わさり、そこまで気を回せない、男性として成熟していない頃という意味。
 
 この言葉は昔男=著者にとって、とても大事な言葉。ポリシー。だから反省を込めている。
 参考:「むかし、男ありけり。いとまめに、じちようにて、あだなる心なかりけり」(103段
 →とてもマジメで実直で、浮気な心などありません。
 浮気しまくりとされているが、それは違います。女の子(仕事場の御達)と仲良くしていただけです。仲良くに深い意味はないです。
 

 ほど:頃合
 

家刀自
 家内が
 
 一般に主婦とされるが、家内・家にいる人が本来。家乃至から家刀自とし家掃除する人の暗語と思う。女中(ハウスキーパー)も含む(44段)。
 ここでは文脈からも妻だが、それは前後全体をみないとわからない。そうみないから女主人とかにしてしまう。
 

まめに思はむといふ人につきて
 ま(じ)めに思うよと言う人について
 

人の国へいにけり
 人の国に行ってしまった。
 
 

かはらけ

 

この男、宇佐の使にていきけるに、
ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、
女あるじにかはらけとせよ、さらずは飲まじといひければ、

 
 
この男
 
 (これは、冒頭の男か、まめに思はむという人、この時点では不明だが、
 「男」の符合、「宮仕え」が神宮とかかり、続く文脈からも、冒頭の男)
 

宇佐の使にていきけるに
 
 大分県の宇佐神宮(八幡宮)。神託事件の所(769年。物語の80年ほど前)。
 

ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて
 ある国の接待役が、その妻ということを聞いて
 

 しぞう 【祇承】
 :地方にあって、勅使を接待する役。
 

女あるじにかはらけとせよ
 女、主にカワラケ役をかわりなさい
 
 (女主人× 文脈から突如出現する意味が不明。安直にひっかかりすぎる。この時代、句読点はないだろうに)
 

 かはらけ 【土器】
 :酒杯のやりとり。酒宴。
 →これを替わらせとかけている。
 

さらずは飲まじといひければ
 そうしなければ飲めないといえば、
 
 つまり
 「あるじ」とは「まめに思はむといふ人」といって女を連れて行った人。=ある国の祇承の官人。
 
 「飲まじ」とは、そういう関係・他人に使われている関係をオレは受け入れない、と言っている。
 
 
 なお、これは44段(馬の餞)で、家刀自に盃させた話とも表現がリンクしている。文脈は違うが。
 
 

袖の香

 

かはらけ取りいだしたりけるに、肴なりける橘をとりて、
 
さつき待つ 花橘の香をかげば
 昔の人の 袖の香ぞする
 
といひけるにぞ、

 
 
かはらけ取りいだしたりけるに
 しかし女、かわらずに、カワラケ(盃)を取り出し
 

肴(さかな)なりける橘をとりて
 酒の肴の橘をとって
 
 :こうじみかん。花は夏、実は秋。
 酸味が強いとされ、酒の肴(アテ)にはならないだろう。
 
 つまりこれ自体が、かわらけ(盃)。それにアテている。
 そのアテになりける橘をとって、
 さかづきを、さつきにかけて、かがないと解く、そのこころは「かなし」
 

さつき(五月)待つ
 ついさっきまで待っていた
 
 待つと歌っているのは男ではない。家刀自として、この話で家で待つのは女しかない。
 それに男が歌っているなら、まず古今では業平認定されただろう。
 

花橘の香をかげば
 花の香りをかげば
 

昔の人の
 昔の人の(アマずっぱい)
 

袖の香ぞする
 袖の香がする
 

 袖にする:親しくしていた人、特に異性を冷淡にあしらう。 おろそかにする。
 

といひけるにぞ
 と言って、
 
 そのつれなさで、
 
 

山に入り

 

思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。

 
 
思ひ出でて
 思いアマって、出て行って
 

尼になりて山に入りてぞありける
 尼になって山に入ってしまった。
 
 つまり好きだったが相手にされずもてあまし、寂しさあまって他の所にいった。それなのに全然離れた所でまた会った。
 お話だからと思うかもしれないが、こういうのを、運命とか宿世(宿命×前世)という。
 それを何の因果か、とかいう。
 

 前段で「思い入り」「出でて」は、「死に入り」にかかった言葉。
 そこでの行先は東山だったが、ここではどこかの山。