紫式部日記 11 十一日の暁に 逐語分析

十日産室に 紫式部日記
第一部
十一日加持祈祷
彰子出産
目次
冒頭
1 十一日の暁に
2  御簾なども
3  僧正、定澄僧都
4  院源僧都
5  殿のうち添へて
6  「ゆゆしう、かうな」
7 人げ多く混みては
8  殿の上、讃岐の宰相の君
9  殿のよろづにののしらせ
10 いま一間にゐたる人びと
11  いと年経たる人びとの
12 また、この後ろの際に
13  行きちがひみじろく人びとは
14 殿の君達
15  頂きにはうちまきを

 

原文
(黒川本)
現代語訳
(渋谷栄一)
〈適宜当サイトで改め〉
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉

1

 十一日の暁に、  十一日の明け方に、 【暁に】-底本「あか月も」。『全注釈』『集成』『新大系』『学術文庫』は「暁に」と校訂、『新編全集』は「暁も」のままとする。
北の御障子、 北側の御障子を  
二間はなちて、 二間取りはなって、  
廂に移らせたまふ。 中宮様は廂の間にお移りあそばす。  

2

御簾なども
えかけ
あへねば、
御簾なども
十分に掛けることが
できないので、
 
御几帳を
おし重ねて
おはします。
御几帳を
幾重にも重ね並べて
おいでになる。
 

3

僧正、 雅慶僧正や 【僧正】-雅慶。東寺の正法務。倫子の父源雅信の四歳年下の叔父。八十九歳。
定澄僧都、 定澄僧都、 【定澄僧都】-底本「きやうてふ」の「き」は草仮名「知」または「千」を「支」または「木」と見誤ったことから生じた本文転化。権大僧都興福寺別当。七十四歳。『集成』『新大系』『新編全集』『学術文庫』は注釈では「定澄」または「定澄の誤写か」としながらも本文では「きやうてふ」のままとする。『全注釈』は本文も「定澄」と改める。
法務僧都など 法務僧都の済信などが 【法務僧都】-「法務」は諸大寺で庶務を総理する僧職名。済信。倫子の異母兄。
さぶらひて
加持まゐる。
伺候して
御加持申し上げる。
 

4

院源僧都、 院源僧都は、 【院源僧都】-法性寺の座主。
昨日
書かせたまひし
殿が昨日
お書きあそばした
 
御願書に、 ご安産の願文に対して、  
いみじきことども さらに
たいそう尊い文言を
 
書き加へて、 書き加えて、 【書き加へて】-底本「かきかへて」。諸校訂本、文意により改める。
読み上げ続けたる 読み上げ続けている  
言の葉の
あはれに尊く、
文言が
実に尊く聞こえ、
 
頼もしげなること
限りなきに、
頼もしそうなことは
この上ないうえに、
 

5

殿の
うち添へて、
殿が
一緒になって、
 
仏念じ
きこえたまふ
ほどの
仏を念じ
申し上げていらっしゃる
様子が
 
頼もしく、 心強くて、  
さりともとは
思ひながら、
いくら何でもとは
思いながらも、
 
いみじう
悲しきに、
ひどく
悲しいので、
 
みな人 居あわせた女房たちはみな  
涙を
えおし入れず、
涙を
こらえることができず、
【涙をえおし入れず】-底本「涙をゑをしいれす」。『全注釈』『集成』『新大系』は「涙をえほしあへず」(涙をかわかすひまもない)と訂正する。『新編全集』『学術文庫』は底本に従って「涙をえおし入れず」(涙を押しとどめることができず)と校訂する。

6

「ゆゆしう、 「縁起でもありません、  
かうな」 そうお泣きなさるな」  
など、 などと、  
かたみに
言ひながらぞ、
お互いに
言いながらも、
 

せきあへ
ざりける。
涙を抑えることが
でき
ないのであった。
 

7

 人げ多く
混みては、
 人が大勢
混んでいては、
 
いとど
御心地も
ますます
中宮様の御気分も
 
苦しう
おはします
らむとて、
苦しく
いらっしゃる
だろうということで、
 

南、東面に
出ださせたまうて、
殿は女房たちを
南面や東面に
お出だしになって、
 
さるべき
かぎり、
しかるべき女房
だけが、
 
この二間のもとには
さぶらふ。
中宮様のいらっしゃる二間の側に
伺候する。
 

8

殿の上、 殿の北の方と  
讃岐の宰相の君 讃岐の宰相の君、 【讃岐の宰相の君】-底本「さぬきと宰相君」。諸校訂本、文意に従って改める。前出の宰相の君。道綱の娘。〈蜻蛉日記の著者の孫。藤原豊子
内蔵の命婦、 内蔵の命婦は、 【内蔵の命婦】-道長家の女房。教通の乳母。
御几帳の内に、 御几帳の内側におり、  
仁和寺の僧都の君、 さらに仁和寺の僧都の君と 【仁和寺の僧都の君】-済信。前出の法務僧都。
三井寺の内供の君も 三井寺の内供の君も 【三井寺の内供の君】-永円。彰子の母倫子の姉の子、従兄。
召し入れたり。 中に呼び入れた。  

9

殿の
よろづに
ののしらせたまふ
御声に、
殿が
万事につけ
指図なさる大きな
お声に、
 
僧も
消たれて
音せぬ
やうなり。
僧侶たちの読経の声も
圧倒されて
聞こえない
くらいである。
 

10

 いま一間に
ゐたる人びと、
 もう一間に
控えていた女房たちは、
【一間】-底本「一さ」。「さ」は字母「万」の誤写。諸校訂本「一間」と校訂。
大納言の君、 大納言の君、 大納言の君】-中宮付きの上臈の女房。源扶義の娘廉子。
小少将の君、 小少将の君、 小少将の君】-中宮付きの上臈の女房。源時通の娘。〈前出
宮の内侍、 宮の内侍、 【宮の内侍】-中宮付きの上臈の女房。橘良芸子
弁の内侍、 弁の内侍、 【弁の内侍】-帝付きの女房で中宮付きの女房を兼務。出自不詳。
中務の君、 中務の君、 【中務の君】-中宮付きの女房。源致時の女従三位隆子か。
大輔の命婦、 大輔の命婦、 【大輔の命婦】-中宮付きの女房。大江景理妻。
大式部のおもと、 大式部のおもと、  
殿の宣旨よ。 この人は殿の宣旨ですよ。 【大式部のおもと殿の宣旨】-「大式部のおもと」と「殿の宣旨」は同一人物。道長付きの上臈の女房。

11

いと年経たる
人びとの
かぎりにて、
たいそう長年
中宮様にお仕えしてきた女房たち
ばかりが、
 
心を惑はしたる
けしきどもの、
心配で心配でたまらないでいる
様子などは、
 
いと
ことわりなるに、
まことに
もっともであるが、
 
まだ
見たてまつりなるる
ほど
なけれど、
わたしなどは
中宮様にお馴染み申し上げて
まだ日も
浅いけれど、
 
類なく
いみじと、
又となく
大変なことだと、
 
心一つに
おぼゆ。
先の人達と心一つに
思われた。
〈態度には出さないが同じ心。自分一つではなく先の人達と一つ。それでも「おぼゆ」というのが観察性。式部は常に宮中に紛れ込んだ傍観者的存在としてあり、これが紫式部日記最大の特徴の客観描写性。本段末尾「いかに見苦しかりけむと後にぞをかしき」参照。次段では「あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ」とあるが、式部は一貫して観察目線がある〉
×心中はっきりと(渋谷・全集同旨)
×人知れず(集成)
×私は私なりに(全注釈)
新旧大系説明なし

12

 また、  また一方で、  
この
後ろの際に
立てたる
几帳の外に、
〈この〉
後ろの境目に
立ててある
几帳の外側には、

△わたしたちのいる

〈中の様子を知っている以上そこにいるが、客観描写に徹している〉


尚侍の
中務の乳母、
中宮様の妹君たちの乳母〈即ち〉
尚侍研子様付きの
中務の乳母、

【尚侍】-道長の次女妍子。十五歳。
【中務の乳母】-藤原惟風妻、高子。
姫君の
少納言の乳母、
姫君威子様付きの
少納言の乳母、
【姫君】-道長の三女威子。十歳。
【少納言の乳母】-素姓不明。
いと姫君の
小式部の乳母
幼い姫君嬉子様付きの
小式部の乳母
【いと姫君】-道長の四女嬉子。二歳。
【小式部の乳母】-藤原泰通妻。
など
おし入り来て、
などが
入り込んで来て、
 
御帳二つが
後ろの細道を、
え人も通らず。
二つの御帳台の
後ろの狭い通路は、
人も通ることがでない。
 

13

行きちがひ
みじろく人びとは、
行き来したり
身動きする女房たちは、
 
その顏なども
見分かれず。
顏なども
見分けられない。
 

14

 殿の君達、  殿の御子息の
頼通・教通たち、
 
宰相中将<兼隆>、 宰相中将藤原兼隆、 【宰相中将】-藤原兼隆。道長の甥。
四位の少将<雅通> 四位少将源雅通 【四位の少将】-源雅通。倫子の甥。
などをば
さらにもいはず、
などは
言うまでもなく、
 
左宰相中将<経房>、 左宰相中将源経房、 【左宰相中将】-源経房。
宮の大夫など、 中宮大夫藤原斉信などは、 【宮の大夫】-中宮大夫藤原斉信。
例は
け遠き人びとさへ、
いつもは
あまり親しくない方々までが、
 
御几帳の上より
ともすれば
覗きつつ、
御几帳の上から
ともすれば
顔を覗き込んだりして、
 
腫れたる
目どもを
見ゆるも、
泣き腫らした
〈女子達がその〉目を
見られていたのも、
×わたしたちの
よろづの恥
忘れたり。
すべて恥ずかしさを
忘れていた。
【よろづの恥】-『全注釈』は「よろづ恥」と校訂する。

15

頂きには
うちまきを
雪のやうに
降りかかり、
頭の上には
魔よけの散米が
雪のやうに
降りかかっており、
 
おししぼみたる
衣の
いかに
見苦しかりけむと、
涙でくしゃくしゃになっている
衣装が
どんなに
見苦しかったことであろうと、
 
後にぞ
をかしき。
後になって考えると
おかしかった。