伊勢物語 99段:ひをりの日 あらすじ・原文・現代語訳

第98段
梅の造り枝
伊勢物語
第四部
第99段
ひをりの日
第100段
忘れ草

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  女の顔 のちは誰と知りにけり 
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、内裏で騎乗の天覧会の日。
 向こう正面にある車の下簾から、女の顔が仄かに見えていたので、
 中将である男が(業平こと馬頭が馬術そっちのけで、そっちに目を奪われ、そういうことで頭が一杯になったので)詠んでやる。
 

 見ずもあらず 見もせぬ人の恋ひしくは あやなくけふや ながめ暮さむ
  見ず知らずの 見もしない人が恋しくて つまんないや 眺めるだけじゃ (ウシシ)
 
 ♂:なんや頭悪いこと言うてますけど、こいつどうします?
 ♀:いてまえ。イザいてまえ戦士達よ、釘バットで集合セヨ。
 
 あ、もう絶滅した? バッキャロー猛牛魂は永久に不滅です?
 高子それちゃう、バッファローや。永久に放映されない方や。いや、姿見せないけど、実力を秘めているだけだから。
 

 それで返し
 (誰とは書いていないが、付き添っている男=著者。39段の源の至と完全に同じ構図。女車に言い寄る不逞の輩を撃滅せんと、出撃する)
 

 知る知らぬ 何かあやなく わきていわむ 思ひのみこそ しるべなりけれ
 知る知らぬ? 何や聞こえん 弁えろ 一々いわすな 阿保馬頭男 この思いこそ 思い知れ
 

 のちは誰と知りにけり
 
 誰かわかります? 二条の后ね。思わせぶりで書くわけねーだろ。
 書くと熱烈云々で穢されるから書いてねーの。ま、凡人には分からんがな。
 76段では一緒に出ているが、絶対に相容れない内容だから書いている。
 (業平は「翁」、かつ、伊勢ではなく藤原の氏神に当てつける内容)
 
 ここでは、御前の面前でその女に言い寄ったというしょうもない話。
 そしてかつて、藤原の女と人前でクサした女に言い寄った。
 まっ、そこそこやべーだろ? それ以上のことやらかしてるがな(79段。自分の姪の女御を孕ませ親王として産ませ、ちぢ困っている話)。
 
 な~にが熱烈な恋愛だ。入内後も馬のことが忘れられないだ? 外野がガヤガヤうっせーんだよ。オヤジ願望を投影したストーカー賛美も大概にせーよ。
 伊勢は在五・在原の、人格完全否定しとるがな(63段65段)。在五中将の女に「けぢめみせぬ心」。これこの段まんまだろ。あー違う?
 そうして昔男と業平が相容れないと、妄想を維持すべく、著者と昔男は別人だ、などと大前提を無視し、都合の良いことを言いだす。
 その時点で、もう伊勢は業平のものとは言えないんだって。ほんと、わかってないよな。
 女に言い寄る=業平の歌集とみなしたから、手当たり次第、業平の歌と認定してるんでしょうが。
 
 全否定した輩を全体通して語る意味がねーだろ。苦痛でしかない。
 そしたら次は著者は複数とか言い出した。もうね。頭悪すぎとは言わないが、
 素人はだまっとれ――
 
 ~
 

 本段で特徴的なのは「車」。
 
 前に車が出てきた時はセットで、二条の后が出てきた(76段。そこにも業平も出てきた。「近衛府にさぶらひける翁」)。
 その前には、女車に天下の色好み源の至がちょっかいを掛けて、なぜか車に同乗していた男が、至を叱責した描写が39段にある。
 そこでは名は一切伏せていたが、葬式に女車を率いていく内容であったから、西の対に二条の后が(男と)人を偲びに行った構図と同じ。
 加えて76段の二条の后の祝儀の話を出した次の段で、高子とかけて、別の女御「たかき子」の法要の話をし、基本的に女方内の目線で語っている。
 そして95段では、端的に「二条の后に仕うまつる男」とする。これが著者。縫殿の人。古今にも二条の后に近い歌があるだろう。こっちが本物。
 
 だから、ここでも著者が情況を説明している。
 二条の后と男が一緒にいるらしい、それでどこかの種馬との禁断の恋愛などと知らん者達が騒ぎ立てた。それが今まで続いている。
 
 本段の歌を、古今476は詞書も含めて収録しているが、業平と確実に認定できる数少ない歌だから、喜んで食いついたと。
 しかしその内容は、ありえない醜態と知能の低さを露呈している。撰者達はその意味もわからなかった。
 伊勢で恋愛の内容だから内容も間違いないはずと安易に思った。ま、その程度の実力。
 ただし貫之は別。配置を見ると他の撰者達とは違う見解をもっていた。それが古今4・8・9の配置。3・5・7の歌のレベルも確実に8の歌。
 明らかに古今に絶大な影響を及ぼした伊勢。それなのに先頭が業平ではなく、明らかに役不足の在原元方から始めるのも、明らかに貫之の意図。
 
 そして、この歌も業平の作とは限らない。
 むしろ前段からの流れでみれば、著者の翻案。だから二つの歌で掛かっている。
 おそらく至と同じように歌など歌っていない。普通こういう状況で歌わんだろ。
 つーか、和歌を詠むって、物凄く頭脳使うことだってわかるよな? 馬頭には逆立ちしたって無理。
 
 業平の評判は、伊勢を乗っ取っているだけだから。
 その証拠に伊勢以外にないだろ、歌が。たとえあっても無視できるレベル。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第99段 ひをりの日
   
   むかし、右近の馬場のひをりの日、  むかし、右近の馬場のひをりの日、  昔。右近のむまばのひをりの日。
  むかひに立てたりける車に、 むかひにたてたりけるくるまに、 むかひにたてたりける車に。
  女の顔の、 女のかほの 女のかほの。
  下簾よりほのかに見えければ、 したすだれよりほのかに見えければ、 したすだれよりほのかに見ゆれば。
中将なりける男のよみてやりける、 中将なりけるおとこのよみてやりける。 中將なる人のよみてやる。
       

174
 見ずもあらず
 見もせぬ人の恋ひしくは
 見ずもあらず
 見もせぬ人のこひしくは
  見すも非す
  みもせぬ人の戀しき(く古今)は
  あやなくけふや
  ながめ暮さむ
  あやなくけふや
  ながめくらさむ
   綾なくけふや
   詠め暮さん
       
  かへし、 返し、 かへし。をんな。
       

175
 知る知らぬ
 何かあやなくわきていわむ
 しるしらぬ
 なにかあやなくわきていはむ
 しるしらぬ
 何か綾なくわきて言む
  思ひのみこそ
  しるべなりけれ
  おもひのみこそ
  しるべなりけれ
  思ひのみ社
  しるへ成(か一本)けれ
       
  のちは誰と知りにけり。 のちはたれとしりにけり。  
   

現代語訳

 
 

女の顔

 

むかし、右近の馬場のひをりの日、
むかひに立てたりける車に、女の顔の、下簾よりほのかに見えければ、
中将なりける男のよみてやりける

見ずもあらず 見もせぬ人の恋ひしくは
 あやなくけふや ながめ暮さむ

 
 
むかし、右近の馬場のひをりの日
 

 うこん【右近】
 :右近衛府(うこんゑふ)の略。
 

 ひをり【引折・日折】
 :内裏の馬場で競馬・騎射をすること。
 陰暦5月5日に左近の舎人、6日に右近の舎人が行った。
 
 ただ舎人は下士官なので、将官等はのんびり閲覧するに過ぎない。現代と同じ。
 

むかひに立てたりける車に
 向こう正面に立っていた車に
 
 むかひ:帝などがいる正面の向こう側。
 

女の顔の下簾よりほのかに見えければ
 女の顔が下簾からほのかに見えたので
 

中将なりける男のよみてやりける
 中将である男が詠んでやった。
 
 中将なりける男:いうまでもなく業平。
 在五中将(63)×在原なりける男(65)。
 
 武術の場で劣情を催したナンパ野郎の構図。
 
 女の車に寄ってくるのは、
 天下の色好み・源の至と全く同じ構図(39段)。
 そこでは至が車に蛍を投げ入れ、女車にのっていた人を守るため、同乗していた男が至を叱責した。
 
 加えて、次に女車は二条の后とセットで登場し、
 そこでは「近衛府にさぶらひける翁=業平」が登場した(76段)。
 
 そして、著者は女方のことを内側からしばしば描写し(65段等)、
 「二条の后に仕えている男」(95段)と表現される(内容も、まず後宮内部しかない)。
 
 以上をまとめると、女車に乗っているのは、二条の后と、著者(むかし男)という流れである。
 スゲーふりでしょ。
 
 

見ずもあらず 見もせぬ人の恋ひしくは
 見ず知らずの 見もせぬ人が 恋しくて
 

あやなくけふや ながめ暮さむ
 眺めるだけじゃ つまらんのう
 

 あやなし【文無し】
 ①道理・理屈に合わない。理由がわからない。
 ②つまらない。無意味である。取るに足りない。
 
 

のちは誰と知りにけり

 

かへし、
 
知る知らぬ 何かあやなくわきていわむ
 思ひのみこそ しるべなりけれ
 
のちは誰と知りにけり。

 
 
かへし(△おんな)
 
 ここで塗籠は女を補うが、こういうのはまず、悉く誤り。
 書いていないのには意味があるって、何でわからんかな。
 著者の意向なんて関係ないのな。自分達がそう思うから書いた。それだけ。
 39段の構図で学習してないのかね。よく読めや。記述いじくるなんて万年はえーんだよ。
 だから定家は名が残っているの。
 
 忠実な複写は、それ自体、安易な想像と比べ物にならない価値がある。コピペは一番最初の基本。
 参照するのが自分らの目線で微妙に歪んでたらどうすんだよ。話にならんだろ。今はそういう現状。
 主体を一言、入替えたら展開が真逆になるだろ。こんなこと何度もあるわ。男に女物の服を贈るとかさあ(16段44段)。んなわけあるかよ。
 塗籠や真名の記述を本筋として捉えるのは論外。都合がいい内容なので、半ば意図的かもしれんけど。
 

知る知らぬ 何かあやなく わきていわむ
 知る知らない 何やつまらん あえて言わすな 弁えろドア○が。
 

 わきて【分きて・別きて】
 :とりわけ。特に。ことに。
 

思ひのみこそ しるべなりけれ
 この思いこそ しるべとせーよ おめーも知ってるお方だっつの
 
 (かつて全力でクサした人に忘れて言い寄るって論外だろ。76段
 いやつーかこの構図、63段とおそろしーほど符合してるだろ)
 

 しるべ【知る辺・導】:
 ①道の案内。また、その人・もの。
 ②教え導くこと。また、その人・もの。
 ③知り合い。知人。
 

のちは誰と知りにけり
 のちに誰と知ったようだ。
 
 しかし誰だったのだろうか、セツコではないよな。
 
 一応解説すると、天覧試合で后(正確にいえば、天皇の囲っている女)に言い寄ったが、それは正面から丸見えだった、ってことだから。
 
 しかしこいつはバカすぎて、目先のことしか見れないから、そういう関係もわからんわけ。
 その一端が79段で、自分の姪の女御に業平のラブ注入したとかいう話の中ある親王が産まれた話な。
 
 だから、この業平と二条の后が熱烈な恋愛関係とかいうのは、ありえないからな。
 こういう緻密な言葉の積み重ねを一切無視し、かたや目に入りやすい、古今がまき散らした実に安易な認定を盲信し続け、業平の物語って何だよそれ。
 単純に見せられ続けてたら、そういう反応しちゃうんだわなあ。流れなんて無視して業平業平。
 そういう実験あるでしょ。
 伊勢→ピコーン!→業平!みたいな。違うからな。それは思考ではない。単なる反応。ちったー頭使ってくれや。