和歌のよみ方~作法と技法

和歌総覧 古典の改め
和歌のよみ方
   

 
 
 和歌を読むには、詠む人の発想を知らなければならない。
 自分達の感覚で読めたと思っても意味がない。
 和歌の本質は、この国の古の精神・心、「和」。それが無いのは、ただの短歌。
 しかし貫之によれば、それを知る者は古今当時においてすら一人二人である。よって、古今にあるから直ちに古歌本来の用法とはならない。
 

 読む対象の歌人が、史上最高クラスである時は、一般の発想ではないことを理解しなければならない。そうでないと古典・クラシック足りえないからである。
 古典とは、古の教典であり、クラシックとは、時代を超えて残った超一流の歌曲という意味である。したがって、単発の歌はここに含まれないのが道理。
 どの世界で、当時の一般人の感覚を記したものが、国の礎たる古典になっている国があるか。そう思うのが本当の意味で歴史の浅い国である。
 以下の説明は、このような歌を対象にしており、そうではない人々の作品までは対象にしない。そういう歌は自分達で納得できればそれでいいので。
 

 上述した和歌史上最高クラスとは、人麻呂・赤人・文屋・小町・貫之・紫の6人である。定家、あるいは西行・芭蕉も入るかもしれない。それ以外はない。
 これらの人物の理解と一般の理解とは次元が違う。だから卑しい地位・身分不詳を超えて、絶大な影響力を持つのである。
 高位の者が歌の実力をもつことは基本ない。それが貫之の仮名序の評でもあるし、俗の超越・普遍の美のために生きる姿勢が古典の詩の本質だからである。
 

 万葉の編纂者は、家持などではありえない。人麻呂の歌集であり、その没後門下の赤人の編纂である。
 家持は全体の配置からして、全体各巻に後付けし簒奪・私物化した(顕著な部分では、家持付加部分で四季の配分が乱れる)。
 

 また伊勢の著者は、その記述から二条の后に仕えた文屋でしかなく、63段から在五を非難し、101段で歌を元より知らないとしているので、業平は含めない。
 その一つの裏づけが古今の貫之の配置。現状のように根拠がない一般の業平認定に、貫之は配置で対抗した。
 文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行により連続を崩す。
 加えて、唯一の二条の后に至近の文屋、その下を固める貫之の8・9の配置。
 さらに、源氏物語での無名の主人公と中将のライバル関係、及び絵合での「在五中将」の名と、無名の「年経にし伊勢をの海人」の名の論争。
 「年経にし伊勢をの海人」とは、「伊勢の海の深き心」の海ほど深い心、誰にもはかりきれない心とかけ、伊勢の生み人・無名のむかしのことである。
 主人公とセットなのに微妙な立場の藤壺(かがやく日の宮)とは、伊勢と対比して言及された竹取の光るかぐやのことであり、衣通姫のりうである小町。
 
 

作法

 
 
 作法とは、文章や詩歌などの作り方であり、人間生活における対人的な言語動作の法式(マナー)である。つまり心得。
 
 みやびな歌をよむには、マナー(態度)を理解しなければならない。心得は心であるから、あらゆる技術の根幹にある。
 みやびとは何か。雅(上品)で、見や美。
 宮中(宮城)の作法ではない。そのような心のもち方ということである。
 純粋にそのような境遇にいてみやびになることはない。常に不自然か野放図である。
 
 美の要素は二つ、①自然で、②洗練されていること。
 ①は、これみよがしにしないこと。一部のみ目につかない。さりげない。バランスがとれていること。流れが良い。ありのままの心。
 ②は、人の見えない所で細部にまで配慮し、よく考え、シンプルにすること。
 
 これらを実現するには、自分の自然体のレベル、トータルの人間性レベルを上げるしかない。
 言葉はその人の人間性・思考そのものだから。
 

 古典の言葉とそうではない人の言葉は目線が違う。だから「無知の知」という4文字すら難儀に思う。
 これは当時の昔の人々なら分かる・言文が一致していたという意味ではない。そもそもの思想が違う。
 つまり人類は、この世のことすらごく一部しか知らないのに、なぜか全知で全て解決済みかのように思っているという、ありふれた状態が理解できない。
 だから竹取でかぐやが影になったことも、どこかに隠れたなどと曲げる。源氏の冒頭の「思い上がり」を気位が高いなどと変えるのは、まだ良い方である。
 物事をありのまま認知できない。自分達の従前の認識に沿うようにしか認知できない。しかし人を超越したレベルを認める、それが超越的なレベルの人々。
 
 なお、奈良平安時代に言文(口語と文語)が一致していたというのは誤り。都合の良い見立て。
 当初は漢字のみの真名が基本で、そこから(読み下しを済ませた文章として、より口語に近づけて)仮名が派生した流れを完全に無視している。
 つまりそもそも人類を超越した思想自体に理解が及ばないことを、言葉の用法の問題に落とし込み、合理化したからそういう説明になっている。
 その典型が古事記で天の使者を射殺し、その矢が神により投げ返され心に命中した天皇の祖先の記述で、不遜に矢を向けた雄略天皇とその軍勢を屈服させる神(一言主大神=鏡の神)の解釈であり、竹取でやはり天の使を射殺せんとする帝の軍勢を屈服させる天人とその王たる存在である。
 そして普通の教科書は、このような文脈をもって当時の人々はどのように考えていたのだろうかなどという。このような天皇の扱いは一般ではない。それは他の作品と比較してあまりに自明だろう。それゆえに古事記・万葉・竹取が別格の作品として残っていることも認められない。
 
 即興の歌詠みなどは、これ見よがしの余興。お遊びなら、そういうのもあるだろう。
 しかしクラシックの世界で、即興で最高傑作が作れられることなど、あるだろうか。
 だからその場で詠めと言われたら、その程度の和歌を返す。
 そういう人に説明しても意味はワカらないからである。
 そういう人が解らなくても、実力者なら解る。それが上の古今の貫之の配置であり、紫の伊勢竹取評。
 しかし特別な紫が、伊勢竹取に一般は目も及ばぬ(天の高さと海の深さ)としているのも無視し、陳腐な色恋物語と見るのが、当時から一般の見方という描写である。
 
 

技法

 
 
 和歌の技法は、和歌の修辞(法)などとも言われ、色々説明されるが、大事なのは、枕詞・(序詞)・掛詞くらい。
 縁語は、後付けの説明に過ぎない(これだけ言葉が違う)。
 

 本歌取り・引き歌は、先例引用参照のこと。
 和歌特有という訳ではない。しかし肝心である。古歌の知識なくして最高クラスの作品はない。
 

 本歌とは、万葉の「あるの歌に曰く(或本歌曰)」という表現によっていると思われる。これが本歌の由来で、古歌の知識である。
 根拠が、特有の符号が、古に通じる者にのみ通じる符号(暗語・暗号)が、和歌では大事である。
 なぜわかりにくくする? いや、知っていて当然だからである。教養ある者なら。それが理解できない人に、引き歌とされたのだろう。
 別に細かい知識ではなく、万葉は、和歌で真っ先に参照する王道中の王道。
 中でも人麻呂と赤人の巻を基本的におさえる。「或本歌曰」も人麻呂と赤人のもの(万葉3/363。作者と明示的にセットにされるのは赤人のここだけ)。
 そこでいう本とは、人麻呂参照本や人麻呂歌集に準ずる本である。これらは全て人麻呂・赤人主要巻にのみにしかなく、家持主体の17巻以降には皆無。
 古来より王道(基本)を極める者が古来の最高の賢者で王たる者(最高の人)。王道なしとは古来の王道の用法ではない。哲学があれば、王道はある。
 

 読みの理解が、詠みの理解にかかっているなら、詠む時の発想をワカらなければならない。古来の傑作の歌の知識が豊富に頭になければならない。
 それが和歌を詠む時の取っ掛かりである。だから掛かりというものがどれだけ大事か。単なる同音異義ではない。
 技巧という時、その実質は掛かりが全てと言ってもいい。
 掛かりとは、掛詞や対の詞の配置により、当然導かれる解釈(係り)のことをいう。
 

 技法・テクニックという以上、高い技術が前提。それがほぼ全て掛かり;暗示の深さなのである。31文字を表面的にしか用いれないなら話にならない。
 縁語などの、衣で袖、潮で浜、海で海の家、程度の何とでも言える概念で、技巧を凝らしたとかいうのは無理。浅瀬で貝で 貝あさり位なら少しは。
 そもそも、衣だから縁語で袖だよな、などと思うおぼつかなさで大した歌など詠めることなどない。この分類に一体何の意味があるのだろう。
 区分する意味しかない。区分したところで意味もない。詠む時の発想ではないから。まず自分で詠まない学者的な人が生み出した概念だろう。
 詞の響きや緻密な掛かり、その用語の古来の文脈を当然に想定して詠むのである。それが古来の教養(古のよし)。