平家物語 巻第一 我身栄花:概要と原文

禿髪 平家物語
巻第一
我身栄花/吾身栄花
わがみのえいが
祗王

〔概要〕
 
 平家の荘園は日本の半分を超えた。(Wikipedia「平家物語の内容」から引用
 


 
 我が身の栄華を極むるのみならず、一門ともに繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大将、次男宗盛、中納言右大将、三男知盛、三位の中将、嫡孫維盛、四位少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十四人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。
 

 昔、奈良帝の御時、神亀五年、朝家に中衛大将をはじめおかれ、大同四年に中衛を近衛と改められしよりこの方、兄弟左右に相並ぶ事、わづかに三四箇度なり。
 文徳天皇の御時は、左に良房右大臣の左大将、右に良相大納言の右大将、これは閑院左大臣冬嗣の御子なり。
 朱雀院の御宇には、左に実頼小野宮殿、右に師輔九条殿、貞信公の御子なり。
 後冷泉院の御時は、左に教通大二条殿、右に頼宗堀河殿、御堂関白の御子なり。
 二条の院の御宇には、左に基房松殿、右に兼実月輪殿、法性寺殿の御子なり。
 これ皆、摂籙の臣の御子息、凡人にとつてはその例なし。殿上のまじはりをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色、雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になつて兄弟左右に相並ぶ事、末代とは言ひながら、不思議なりし事どもなり。
 

 そのほか、御娘八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。
 一人は桜町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年約束ばかりにて、平治の乱れ以後、ひき違へられて、花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給ひて、公達あまたましましけり。そもそもこの成範卿を桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心すき給へる人にて、常は吉野の山を恋ひ、町に桜を植ゑ並べ、その内に屋をたてて住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて七箇日に散るを、名残を惜しみ、天照御神に祈り申されければにや、三七日まで名残ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齢を保ちけり。
 一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生あつて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相国の御娘なる上、天下の国母にてましませば、とかう申すに及ばず。
 一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。これは高倉院御在位の御時、御母代とて、准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて、おもき人にてましましけり。
 一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。
 一人は七条の修理大夫信隆卿に相具し給へり。
 一人は冷泉大納言隆房卿の北の方。
 また安芸国厳島の内侍が腹に一人おはしけるは、後白河法皇へ参らせ給ひて、女御のやうでぞましましける。
 そのほか九条院の雑仕常葉が腹に一人、これは花山院殿の上臈女房にて、廊の御方とぞ申しける。
 日本秋津島はわづかに六十六か国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国に越えたり。そのほか荘園、田畠、いくらといふ数を知らず。
 綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集して、門前市をなす。楊州の黄金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝、ひとつとして欠けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもて遊びもの、恐らくは、帝闕も仙洞も、これには過ぎじとぞ見えし。
 

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