平家物語 巻第八 征夷将軍院宣 原文

太宰府落 平家物語
巻第八
征夷将軍院宣
せいいしょうぐんのいんせん
猫間

 
 さるほどに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝、ゐながら征夷将軍の院宣をかうぶる。御使ひは左史生中原泰定とぞ聞こえし。
 

 十月四日、関東へ下着。兵衛佐殿、「そもそも頼朝武勇の名誉長ぜるによつて、征夷将軍の院宣をかうぶりながら、私ではいかでか請け取り奉るべき。若宮の拝殿にして請け取り奉るべし」とて、若宮へこそ参り向かはる。
 

 八幡は鶴岡に立たせ給へり。地形石清水に違はず。廻廊あり、楼門あり、作り道十余町を見下したり。
 「そもそも院宣をば、誰してか請け取り奉るべき」と評定あり。
 三浦介義澄して請け取り奉るべし。その故は八箇国に聞こえたりし弓矢取り、三浦平太郎為嗣が末葉なり。その上父大介も君のために命を捨てし兵なれば、かの義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞ聞こえし。院宣の御使ひ泰定は、家の子二人、郎等十人具したりけり。三浦介も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田三郎宗実、比企藤四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して一人づつ俄かににしたてられたり。
 

 三浦介がその日の装束には、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、腰をかがめて院宣を受け取り奉る。
 

 左史生申しけるは、「宣請け取りは誰人ぞ。名乗れや」と言ひければ、三浦とは名乗らで、本名三浦荒次郎義澄とこそ名乗つたれ。院宣をば乱箱に入れられたり。兵衛佐殿に奉る。ややあつて乱箱をば返されけり。重かりければ、泰定これを見るに、謝金百両入れられたり。
 

 大宮の拝殿にして、泰定に酒を勧めらる。斎院の次官親義陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置きたり。大宮の侍たつし狩野工藤一﨟資経これを引く。次に古き萱屋をしつらうて入れられたり。厚綿の衣二領に、小袖十重長持に入れて設けたり。紺藍摺白布千端を積めり。盃盤豊かにして美麗なり。
 

 次の日兵衛佐の館に向かふ。内外とに侍あり。ともに十六間までありけり。
 外侍には、家の子郎等ども肩を並べ、膝を組みなみゐたり。内侍には、一門の源氏上座して、末座に大名、小名ゐながれたり。源氏の座上に泰定を据ゑらる。
 ややあつて寝殿に向かふ。上には高麗縁の畳を敷き、広廂には紫縁の畳を敷いて、泰定を据ゑらる。
 御簾高く揚げさせて、兵衛佐殿出でられたり。布衣に立烏帽子なり。顔大きに勢短きかりけり。容貌優美にして言語分明なり。
 まづ仔細を一事述べたり。
 「そもそも平家頼朝が威勢に恐れて、都を落つ。その跡に木曾義仲、十郎蔵人打ち入つて、我が高名顔に、官加階を思ふさまになり、あまつさへ国を嫌ひ申す条奇怪なり。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎が常陸守になつて、頼朝が下知に従はず。急ぎ追討すべきの由の院宣賜はるべき」の由申さる。
 左史生申しけるは、「泰定もやがてこれにて名簿を参らすばうは候へども、御使の身の上で候へば、まかり上り候うて、やがてしたためて参らせ候はん。弟で候ふ史大夫重能も、この儀を申し候ふ。」
 兵衛佐殿笑つて、「当時頼朝が身として、各の名簿思ひもよらず。さりながらげにも申されば、さこそ存ぜめ」とぞ宣ひける。
 やがて今日上洛すべき由を申せば、今日ばかりは逗留あるべしとて留めらる。
 

 次の日また兵衛佐の館へ向かふ。萌黄の糸縅の腹巻一領、白う作りたる太刀一振、滋籐の弓に野矢そへて賜ぶ。馬十三匹引かる。三匹に鞍置いたり。十二人の家の子郎等どもにも、直垂、小袖、大口、馬、物の具に及べり。馬だにも三百匹までありけり。鎌倉出の宿より鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつ米を置かれたりければ、たくさんなるによつて、施行に引きけるとぞ聞こえし。
 

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