紫式部日記 17 よろづの物のくもりなく 逐語分析

御湯殿の儀式 紫式部日記
第一部
女房たちの装い
中宮職の御産養
目次
冒頭
1 よろづの物のくもりなく白き御前に
2 いとどものはしたなくて
3 のどやかにて
4 ゆるされぬ人も
5 扇など、みめには
6 心ばへある本文
7 人の心の、思ひおくれぬけしきぞ
8 裳、唐衣の縫物をばさることにて

 

原文
(黒川本)
現代語訳
(渋谷栄一)
〈適宜当サイトで改め〉
注釈
【渋谷栄一】
〈適宜当サイトで補注〉

1

 よろづの物の
くもりなく白き
御前に、
 すべての物が
〈曇りなく白い〉
中宮様の御前で、

△一点の曇りもなく真白な
人の
様態、色合ひ
などさへ、
〈人々の
姿形、色合い〉
などまでが、
△女房たちの
 容姿や容貌
〈渋谷訳は色合いを容貌とするが、通説はそのまま色と解する。色合(全集)、顔と髪の色(集成)、容色(全注釈)〉
けちえんに
現れたるを
見わたすに、
はっきりと
現れているのを
見わたすと、
〈けちえん・掲焉:著しい・目立つ・際立っている・けつえん。渋谷校訂原文は掲焉とするが、諸本に従い「けちえん」とする〉

よき墨絵に
髪どもを
生(お)ほし
たる
やうに
 
見ゆ。
〈(御前の有様は)
素敵な墨絵に
髪などを
生やした〉
ように
〈色々と映えて〉
見える。
△まるで上手な墨絵に黒髮を描き生やした
〈おほす(生ほす):生やす、伸ばす、生育する・させる。旧大系「おほい(覆い)たる」。しかし実質的には説明はせず(新旧大系)。
「墨絵」は「くもりなき白」を紙に見立て浮き出た中宮の様。髪を生やした様に見えるとは、墨絵に髪を描いた例えではなく、一義的には良い絵になるほど中宮の髪などが映えていると解し(良い絵になる=様になるという慣用句)、二義的にはこれは出産時の「御頂きの御髮下ろし」に掛け最早髪が生えた式部の微妙なギャグと解する。独自。続く「ものはしたなくて輝かしき」も同旨。それをぼかして「髪ども(髪など)」。学説はを「墨・髪ども・おほし」を即物的に捉え過ぎている〉
   

 全集は「墨絵は墨描きの絵。墨描きは彩色絵(つくりえ)の下絵を墨で線描きすること。白一色の衣装で髪だけが黒い女房たちの姿を、線描きの墨絵に髪を生やしたようだとたとえた」とする。しかし直後に「輝かしき心地」とあるのにあえて線の細い線描きに例えたと見るのは無理がある。

 集成は「墨描きの絵。墨の濃淡により描く水墨画とは異なる。墨絵に彩色したものが「作り絵」。白い中で黒髪は墨絵に髪を黒く塗ったように思われたのである」とする。しかし水墨画とは違うとしつつ結局「墨絵に髪を黒く塗ったように思われた」なら何のための前置きか(全注釈も「墨書き絵に、めいめいの人物の黒髪を(着色して)生やしたように見える」と同旨)。そもそも色塗りで髪を生やしたという見立ては最高峰文学の説明として敬意に欠くと思う。また全集と集成は違うことを断言しているから、その時点でどちらかは違う。

 学説は文献学・歴史学の先にある文学的解釈になると途端に妙な理屈を断定調で押し通すが、文学部とは一体。

2

いとど
もの
はしたなくて、
ますます
〈妙に〉
きまりが悪くて、
〈もの:何となく(接頭語)。接頭語「うち」のように適宜通るように訳す〉
輝かしき
心地すれば、
まぶしい
気持ちがするので、
 
昼は
をさをさ
さし出でず。
昼間は
ほとんど
〈人前に出ない〉
〈をさをさ:ほとんど・めったに・なかなか(~ない)〉
御前に顔も出さないでいる。
〈さしいづ:出仕する意味の他、光が差す意味もありそれにも掛けたと見る。つまりまぶしくて見ていられない。独自〉

3

のどやかにて、 のんびりとした気分で、 〈上記文脈で〉
東の対の
局より
参う上る人びとを
見れば、
東の対の
部屋から
参上する〈人々〉を
見みると、

×各自の部屋
×女房たち〈渋谷訳「上房」だが誤入力だろう〉

ゆるされたるは、
禁色を
許された女房は、
【色聴されたる】-禁色を許された上臈の女房。
〈渋谷校訂原文「聴され」を諸本に従い「ゆるされ」とする。以下同じ。禁色(きんじき)は、青赤(集成)を筆頭に様々な色(全集)。青赤は古事記に出てくる(紅紐之青摺衣服)〉
織物の唐衣、
同じ袿ども
なれば、
織物の唐衣に、
同じく白地の袿を
着ているので、
 
なかなか
麗しくて、
かえって一様に
端麗に見えて、
 
心々も
見えず。
めいめいの趣向が
分からない。
 

4

ゆるされぬ
人も、
禁色を聴されない
女房でも、
〈諸本に従い原文「聴され」から改め〉 
少し大人びたるは、 少し年のいった人は、  
かたはらいたかるべきことは
とて、
はた目におかしなことは
するまいと思って、
 
ただ
えならぬ
三重
五重の袿に、
ただ
〈えも言われぬ〉
三重襲ね、あるいは
五重襲ねの袿の上に、
 
△何とも美しい
 
〈袿(うちき):唐衣の下に着る上半身の着物。唐衣は十二単の一番上〉
表着は織物、
無紋の唐衣
すくよかにして、
表着は織物で
無紋の唐衣を
きちんと着て、
  

〈すくよか(健よか)なり:しっかり・まじめ〉
かさねには
綾、薄物をしたる
人もあり。
襲ねには
綾や薄物を用いている
人もいる。

かさね(重ね・襲):重袿(かさね うちき:複数重ねて着る袿。ドレープ的な立体感により格と優雅さと特別感を出す。三重は女版三揃い)。なお「襲ね」を諸本に従い平仮名「かさね」に改めた〉

〈綾:色や模様ある絹織物〉

〈うすもの:薄い絹織物〉

5

扇など、
みめには
おどろおどろしく
輝やかさで、
桧扇なども、
見た目には
〈仰々しく
きらきらとさせないで

〈おどろおどろし:仰々しい、恐ろしい〉

・ぎょうぎょうしく派手にはしないものの

〈かがやかさで:かがやかさ(未然)+で(打消接続)。後述8「きらきらと」の意味。これ見よがしのザマス系にせず添えているだけ〉

由なからぬ
さまにしたり。
いかにもな
風にしている〉。

△風情あるさまにしてあった

〈よし+なからぬ:いわく+ありげな。独自。「えーそれ立派でござりまするねー」「えーわかりまするかー?」(前者:何やそれよーわからんが私の方が良いからはよ聞いてこんかい。後者:中々見る目あるわな、しかし初見でこの深い意味はわかるまい。7参照)

諸本により「由」→「よし」に改め〉

6

心ばへある
本文
うち書きなどして、
祝意を表わした
詩歌などを
扇に書き付けたりして、
 
言ひ合はせたる
やうなるも、
それが申し合わせた
ように同じようなのも、
 
心々と
思ひしかども、
各自思い思いのものをと
思っていたが、
 
齢のほど
同じまちのは、
年齢が
同じくらいの者は
同じようなものになってしまうのは、
 
をかしと
見かはしたり。
おかしなものだと
扇を見比べていた。
 

7

人の心の、
思ひおくれぬ
けしきぞ、
あらはに
見えける。
女房たちの思いの、
人に負けまい
との様子が
はっきりと
見えたのであった。
 

8

 裳、唐衣の
縫物をば
さることにて、
 裳や唐衣の
刺繍は
いうまでもなく、
 
袖口に
置き口をし、
袖口に
装飾をし、
 
裳の縫ひ目に
白銀の糸を
伏せ組みのやうにし、
裳の縫い目には
銀の糸を
伏せ縫いにして組紐のようにし、
〈伏せ組:蛇腹伏せ・蛇腹縫い。糸が太くより合わさり組まれた模様で蛇の腹(蛇の胴体)のようになる。ここでは蛇的でなく以下のような状態〉
箔を飾りて、
綾の紋にすゑ、
銀箔を飾って
白綾の紋様を押し付け、
 
扇どものさまなどは、 桧扇の様子などは、  
ただ、
雪深き山を、
まるで
雪の深く積もった山を、
 
月の明かきに
見わたしたる
心地しつつ、
月が明るく
照らしわたしている
感じがし、
 
きらきらと
そこはかと
見わたされず、
きらきらと輝いて眩しくて
はっきりそれと
見わたされないで、

〈きらきらと:「輝かしき心地」「おどろおどろしく輝かさで」から、これは物理的な光とは解さず、装いが派手な様子と解する〉

〈そこはかと:はっきりと(…ない・せず)。そこはか=そこは彼(独自)。この彼は彼方のような抽象方向。あれ。

そこはかと見わたされず:主語は「裳、唐衣の縫物」。つまり服装観察。人定観察で見渡しているのではない。
△どれが誰とはっきり見渡すことができず(集成)
△(どこに誰がいるのやら)はっきり見通しもきかず(全注釈)〉

鏡をかけたるやうなり。 ちょうど鏡を掛け並べてあるようだ。