伊勢物語 112段:須磨のあま あらすじ・原文・現代語訳

第111段
まだ見ぬ人
伊勢物語
第四部
第112段
須磨のあま
第113段
短き心

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意) 古今708
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  ねむごろにいひ契れる女 →伊勢斎宮
 
  思はぬ方にたなびき →尼になった+山里行き
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男(著者)が、伊勢斎宮が思いもよらず尼になり山里に行ったこと(102段)を受けて、一首したためる。
 (須磨の海女と懇ろに契っていたのではない。尼に掛けただけ)
 
 ~
 

 むかし、男、ねむごろにいひ契れる女の、ことざまになりにければ
 

 ねんごろに言い契るとは、69段(狩の使)の時の表現を受けている。
 夫婦のような間柄になり(いと懇にいたはり…かくて懇に)、また今度二人で会おうとしたこと(男われてあはむ…女方よりいだすさかづき)。
 
 ことざま(異様)は、102段で世を思い倦み、尼になったこと。
 その尼と海女を掛けて歌う。
 

 須磨のあまの 塩焼く煙 風をいたみ
  思はぬ方に たなびきにけり

 
 塩を作る際に風で煙が思わぬ方向に流れたと。
 海女だからシオの流れは読めるが、風の流れは読めないと。
 

 しかしそれより、この歌は万葉に基づく。
 

 志賀の海人の 塩焼煙 風をいたみ 立ちは上らず 山にたなびく万葉集07/1246

 須磨のあまの 塩焼煙 風をいたみ 思はぬ方に たなびきにけり伊勢112
 

 つまり、山里に行ったことを、思わぬ方に行ったと掛けている。
 棚引くは流れていく意味で、女とかかれば、まあ大体、落ちるという意味。
 これを風を読めないとかけ、嫁の目もないとな。
 
 須磨はアマと韻を踏むが、津(摂津)の国、それを三重(伊勢)の津と掛けている。
 この情景は、著者がかつて芦屋の灘に住み、海女達の情景を歌ったことがあったので(87段・布引の滝)、その時に見た景色だろう。
 

古今708

 
 
 本段の歌が古今708で詠み人知らずで収録されているが、以上の一体的かかりから、古今が伊勢(著者の歌)を参照したと見るほかない。
 何より、古今705-709までの一連の歌が、伊勢にある歌で連続していることが、伊勢を参照したことの間接的表明でもある。
 

 逆に見るのは無理。一部分をまとめてとって、バラバラに配置する意味が不明。
 伊勢の一連の一体をなす文脈を見ないまま、伊勢が古今の歌を都合に合わせ挿入したと見るのは無理。
 都合が良すぎるし、伊勢をあまりに軽視している。
 

 伊勢の内容と古今の認定は完全に矛盾するのだから(伊勢は業平を特定し非難する。63段101段等、登場段全て)、どちらかが完全に間違っている。
 そして両者は年代も全くかぶらない上(伊勢は、905年の古今より25~50年ほど前の内容。この時代、一生近い長さに相当)、出典も伊勢以外不明。
 だから伊勢が先。古今が伊勢の内容を全く取り違えて、現状の認識になっている。
 内容を読めていない。だから一体の話として筋を見れず、悉くバラバラに分断している。
 
 古今はオリジナルではない。あくまで既にある歌を集めた物。だから古今以前の作品に対しては、出典足りえない。
 伊勢が、百人一首後半の歌を参照しているというようなもの。同じ歌があるなら伊勢が参照したのではない。後の方が参照した。当然のこと。
 50年ほど前の内容を、この情報が乏しい時代に、他人が体験記(一代記)を装って記したと見るのも無理。つまり成り立ちえない。
 極めてプライベートな内容(二条の后関連)、後宮の内部の目線で、具体的かつ細かな描写(65段=業平が暴れた等々)がいくつも記されている。
 
 かたや業平認定が単なるこじつけ・誤認定と見るのに、何も無理はない。
 現状のように、実は根拠がないのに、それを無視して自明の前提にする人々の多さからも、当時はより一層そうだったと見るのに難くない。
 頻繁に後宮と女方と女達の描写をしているのに、後宮の人物の描写と見ず、ひたすら口説いているとしか見ない時点で無理。品性として卑しい。
 
 

 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第112段 須磨のあま(蟹)
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  昔男。
  ねむごろにいひ契れる女の、 ねむごろにいひちぎれる女の、 ねんごろにいひちぎれる女の
  ことざまになりにければ、 ことざまになりにければ ことざまに成にけるを。
       

193
 須磨のあまの
 塩焼く煙
 風をいたみ
 すまのあまの
 しほやく煙
 風をいたみ
 すまのあまの
 鹽燒けふり
 風をいたみ
  思はぬ方に
  たなびきにけり
  おもはぬ方に
  たなびきにけり
  思はぬ方に
  棚引にけり
   

現代語訳

 
 

ねむごろにいひ契れる女

 

むかし、男、
ねむごろにいひ契れる女の、ことざまになりにければ

 
 
むかし男
 むかし男(が)
 

ねむごろにいひ契れる女の
 懇ろに言い契った女が
 

 69段(狩の使)
 かの伊勢の斎宮なりける人…いと懇にいたはりけり…かくて懇にいたづきけり…
 
 男、われてあはむといふ…
 女方よりいだすさかづきの皿に、歌を書きていだしたり。とりて見れば、
 かち人の渡れどぬれぬ江にしあれば
 (男)またあふさかの


 

ことざまになりにければ
 おかしなことになってしまったので
 

 102段あてなる女の尼になりて…世の中を思ひ倦んじて…山里に住みけり…斎宮の宮なり

 104段むかし、ことな(成)る事なくて尼になれる人ありけり。かたちをやつしたけれど…これは斎宮
 

 ことざま
 【異様】普通とは異なる様子。別の人。
 【事様】物事の、人の様子。
 
 

思はぬ方にたなびき

 

須磨のあまの 塩焼煙 風をいたみ
 思はぬ方に たなびきにけり

 
 万葉集07/1246 
 志賀の海人の 塩焼煙 風をいたみ 立ちは上らず 山にたなびく
 しかのあまの しほやくけぶり かぜをいたみ たちはのぼらず やまにたなびく

 須磨のあまの 塩焼煙 風をいたみ 思はぬ方に たなびきにけり伊勢112
 
 つまり、山里に行ったことを、思わぬ方に行ったと掛けている。
 
須磨のあまの 塩焼く煙 風をいたみ
 すまの海女の 塩焼く煙 風が激しく
 

 いたみ
 :甚し(激しい)+み(接尾)、とされる。
 

思はぬ方に たなびきにけり
 思わぬ方に 棚引いた(流れてく)
 
 あーいかんー! でもいったー!