伊勢物語 124段:我と等しき あらすじ・原文・現代語訳

第123段
深草に
伊勢物語
第四部
第124段
我と等しき人
第125段
つひにゆく道

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 

いかなりけることにか 
どのようなことであったか 
(前段で斎宮の元に行かなかったこと。伊勢は連続している)
 

我とひとしき 人し なけれ ば 
〇私と同じ立場の 人でも なかった のだから(具体的体験)
×私と同じ心の  人は  いない のだから(一般抽象論)


 

あらすじ

 
 
 この段は、前段から続く内容。
 そこでは著者(昔男)が、深草にいるかつての伊勢斎宮(帝の娘・尼になった)に見舞文を出し、本段はその後日談で最終章。
 
 著者は業平ではない。114段で死亡確定。そこから文脈は途切れていない。
 しかし114段がなくても業平ではない。著者は在五を全否定している(63段「けぢめ見せぬ心」以降全ての登場段)。そもそも「在五」自体蔑称。
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第124段 われとひとしき人
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  昔男。
  いかなりけることを いかなりける事を、 いかなる事を
  思ひける折にかよめる。 おもひけるおりにかよめる。 思ひけるおりにや(か一本)ありけん。
       

208
 思ふこと
 いはでぞたゞに止みぬべき
 思ふ事
 いはでぞたゞにやみぬべき
 思ふこと
 いはてそたゝにやみぬへき
  我とひとしき
  人しなければ
  我とひとしき
  人しなければ
  我と等しき
  人しなけれは
   

現代語訳

 
 

いかなりけること

 

むかし、男、
いかなりけることを思ひける折にかよめる。

 
 
むかし男
 
 著者。
 業平ではない。成立論や本段解説末尾参照。
 

いかなりけることを
 どのようなことを

(前段で女のもとに行かなかったこと:ゆかむと思ふ心なくなりにけり

 

 「いかなり(いかなる・どのような)」の一言で、これまでの内容をひっくるめた表現。

 「ける」は、文脈で連続するため訳出が難しいが、上記の括弧内の過去の含みを持たせた意味として見る。

 

思ひける折にか よめる
 思った折であったか、詠んだ(ことには)。
  

 「いかなりけること」とは、ただ単に、いかなる・どのようなこと、というだけの意味ではない。
 それだと「いかなること」になるのが素直。
 本段だけの切り離された意味ではなく、前段からの意味を掛けている。それを区別しているために続く「にか」(であったか)という問いかけを置いている。(典型的な文法説明では「か」の疑問)
 
 前段で深草の女(伊勢斎宮)の元に行かなかったこと。
 それを「いかなり」に掛けている。これを引っ掛けという。引っ掛けには、少しひねった読者の反応の試み・ダマシという意味がある。ユーモアや試されることは学者の性分には合わないだろうから、全く認知されていない。

 「いかなる事かありけむ、いさゝかなることにつけて」(21段)

 「かきつばたといふ五文字を句のかみにすゐて、旅の心をよめ」というのに「唐衣」から始めるような昔男の手法(唐衣きつゝ馴にしつましあれば)。
 本段で「等し」と「人し」で並べることも引っ掛け。
 「いかなりける」で行かないことという否定はどこから出てくるのか。前段の文脈から出てくる。文法の理解と文脈の理解は異なるのだろうか。
  
 「いかなりけることを思ひける」の「思ひ」とは、
 二人で「あはむ」と69段(狩の使)で約束したのに、前段で「ゆかむと思ふ心なくなりにけり」になってしまったこと。
 その上で「いなかりけることを思ひける折にかよめる」とは、そうした前段までの経緯に対し、どんなことを思って詠んだかというと。という意味。
 69段で女の方から上の句「かち人の渡れどぬれぬ江にしあれば」を書いた盃を出してきて、そこに書き付けた下の句「またあふさかの関は越えなむ」の趣旨と以降の句はパラレルになっている。
 
 

我とひとしき人しなければ

 

思ふこと いはでぞたゞに 止みぬべき
 我とひとしき 人しなければ

 
 
思ふこと いはで ぞ
 たゞに 止みぬべき

 思うことは言わないで
 それだけに とめておかなければ。
 

 末尾の「べき」は「ぞ」の強意の係り結びで変化した「べし」。言わずにとどめておくべきこと。後述のように一般論ではない。

 

我とひとしき 人しなければ
 私と同じ立場の 人でもなかったのだから

 身分の違いで釣り合わないというよりそうではなく、立場上自分一人では思うままに決められないからと解する。


 「ひとし」と「人し」と音を並べているように、意味は違くても音で並べていることに注意(21段「いかなる」「いささかなる」)。

 「し」は、「ただし」「必ずしも」と同じ「し」で、副助詞で強意とされ、逆説のような意味となる。
 
 「人しなければ」の「なけれ」は「(同じ人は)いない」ではなく「なかった」という過去の体験。

 自分と同じ人は一人もいないのだからという当たり前すぎる一般論ではなく、今までの各段の具体的内容を踏まえた記述。そうでないと意味がない。伊勢物語は一般抽象論の寄せ集めなのか。

  

 これは物語全体の連関・一貫性を認めるかどうかの根本的な立場の違いがある。

 昔男業平論者は各段の一貫性と連関を認めると維持できなくなるので、各段に意味の連続を認めない一般抽象論の方向に行く(典型は23段24段の田舎男女の連続を無視する)。

 昔男を業平とする根拠は古今の業平認定しかなく、その古今の認定は伊勢を根拠なく業平歌集と丸ごとみなした根拠しかないのだが、その根拠のなさが社会の情報化が進んだことで明らかになり論理上維持できなくなったので、近年「どこかにあるはずの業平原歌集」と、どういう神経でか言いだし始めた。つまり業平認定の理論的根拠は学者達の想像しかない。当時の貴族社会の頭の悪すぎる姑息なレッテル貼りを正当化し続け、その永年の過ちを受け入れることができない。例えるなら、年金社会保障制度の甘い見立てが素人目にも一見明白に破綻しているのに、国家単位で断じてそれを認めず、言を左右に維持し続けようとするのと同じ組織的心理的病理の原理が働いている。今はまだ一般の目が容易に届かない長々とした学説奥深くの議論にとどまっているが、西洋近代化の流れのように、旧来の迷妄・空虚な業平礼賛史観は必ず維持できなくなる。