源氏物語 空蝉:巻別和歌2首・逐語分析

帚木 源氏物語
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3帖 空蝉
夕顔

 
 源氏物語・空蝉(うつせみ)巻の和歌2首を抜粋し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。

 

 内訳:1×2(源氏空蝉=伊予介の後妻=人妻)※最初最後
 

空蝉・和歌の対応の程度と歌数
和歌間の文字数
即答 0  40字未満
応答 0  40~100字未満
対応 2首  ~400~1000字+対応関係文言
単体 0  単一独詠・直近非対応

※分類について和歌一覧・総論部分参照。

 

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 上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。

 なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
 


  原文
(定家本校訂)
現代語訳
(渋谷栄一)
24
贈:
空蝉
身をかへてける
のもとに
なほ人がらの
なつかしきかな
〔源氏〕 あなたは蝉が殻を脱ぐように、
衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったが
その木の下で
やはりあなたの人柄が
懐かしく思われますよ
25
答:
空蝉
羽に置く露の
隠れて
忍び忍びに
濡るる袖かな
〔空蝉〕空蝉の
羽に置く露が
木に隠れて見えないように
わたしもひそかに、
涙で袖を濡らしております

 

かな・かなの対句=蝉の鳴き声

 

 空蝉巻和歌の内容は、先頭・中心・最後(空蝉・木・かなかな)が対句になっており、この入念な対句により末尾「かな・かな」をひぐらしの鳴き声に掛けたと見るべきものである(独自)。

 

 これは以下に示す三首、空蝉巻直後の夕顔巻最後の和歌によっても再度確実に裏付けられており、たまたまの符合ではない。

 これが著者の第一の技巧・対句と、第二の技巧・対の配置である。

 

 逢ふまでの  形見ばかりと 見しほどに
 ひたすら袖の  朽ちにけるかな〔源氏〕

  

 蝉の羽も  たちかへてける  夏衣
 かへすを見ても  ねは泣かれけり〔空蝉〕

 

 過ぎにしも  今日別るるも  二道に
 行く方知らぬ  秋の暮かな〔源氏〕

 

 源氏の「かなかな」に挟まれ、空蝉の「ねは泣かれにけり」で蝉の音・鳴き声を表していることを、両者の配置で表している。ただしこのような高次の配置による解釈は学説一般共に全く認知されていない。ちなみに25番空蝉の「濡るる袖かな」の歌は、伊勢集442(伊勢の御の和歌)と全く同じ引歌だが、引用自体は技巧ではない。古歌王道の歌詞を用い、一般の理解がない理解を独自に示す復古性が和歌の肝心で(引用自体で復古性を示すのではない)、語調が古風なだけのは普通の作品。この肝心をほとんど誰も理解できないために、貫之が古今仮名序で「こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき」という。

 

 現状の学説によれば、「源氏に見せる気はなくて書いたもの。伊勢集中の和歌を用いた」(旧大系)「伊勢集に見える古歌だと知られている。とすれば空蝉は古歌をそのまま引用することによってかろうじて返し歌に仕立てたことになる。歌をもって終りとする奇抜な巻末になっている」(新大系)「空蝉が書き添えた古歌。『伊勢集』にある歌とされるが、この和歌の無い写本もあって問題は複雑」(渋谷注)とするように、現状の解釈は、ほぼ先例検索(文献学)とその通説解釈に頼っている。

 このような解釈水準(仮名序の六歌仙評のように対の配置を全く読解できない)からすると、まず間違いなく類説はないし、もっと言えばコペルニクス的解釈と自負している(以下も同様)。

 

空蝉の意義:当初の著者

 

 空蝉は後妻で、碁を打ち、娘を登場させる点で、当初紫式部のリアルな男性への振舞いを投影させたであろう特別な人物。最後の浮舟と対になり、また源氏が巻一首のみ相手をする人物は、関谷と絵合で連続する空蝉・紫の上のみであり、空蝉→紫の上→浮舟、と著者の投影が引き継がれている。

 

伊勢物語・続松の盃とパラレルの贈答:逢坂の関で再会

 

 源氏が夜寝られず手習いのように書いた和歌の手紙(さしはへたる御文にはあらで畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ)を空蝉の弟が懐に入れて持ち返り、その片つ方に、空蝉が書き足した、という実に古風なやり取りの和歌で空蝉巻が終わる。

 

 この二首につき、全集はいずれも独詠とするが、それでは両者の機微を捉えきれない。

 これは伊勢69段・狩の使における続松の盃(伊勢斎宮が上の句を記した盃が女方から昔男のもとに届き、そこに男が下の句を書き付けた(=契約=契り))とパラレルになっている(かち人の渡れどぬれぬ江にしあれば+またあふさかの関は越えなむ)。そして空蝉と源氏はこの後、関谷の逢坂の関で運命的に再会するのだから、伊勢物語を参照したという他ない。そしてこの盃の歌をいずれも独詠とするのは的外れだろう。ちなみに盃を送ってきたのは女方とあり斎宮とは書いていない。

 

 本件和歌では、盃ではなく畳紙(たたみがみ・たとうがみ:衣類を包む紙。懐に入れ諸々に用いる懐紙ともされる紙で、旧大系はこの畳紙を懐紙とする)になっている。文字を記せるような盃ほど強い契りの象徴とまではいえないにしても、畳紙つまりメモ用紙でも、双方会いたい意図で連記している以上、(天から見て)法的に単独行為ということにはならず、書き込みにより申込みと承諾(つまり贈答歌)となる。よって見せる気がないから独詠とするのは不適当。ただし単純な贈答とすると、本件和歌の特殊性を可視化できなくなるので独詠要素も付記し、変則的贈答とした。

 

 なお、ここでの「畳紙」は語義上空蝉の残していった衣の保管に掛けたかとも考えたが、源氏原文で「懐紙」は小物を包む1例のみ(紅の紙に若やぎ書きて、この君の懐紙に取りまぜ、押したたみて出だし)、「畳紙」は11例で専ら手習用(メモ用紙)の扱いになっている。「懐」「畳」の字義からすると逆のようにも思えるが、この紙の区別は詳しい人に任せる。

 

 全集は「二者間に詠み交す意識がまったくないのに偶然にも通じ合うような場合は、独詠の範疇に含めた」(源氏6・581p)とし、本和歌二首も恐らくこの基準が適用されたことになるが、そのような例示の場合こそまさに運命というのであり、学者的・現実社会的な一般論としてはともかく、運命・因果・前世からの契りが最大のテーマのこの物語と、後に運命的再会を逢坂の関で果たす二人のこの歌を、単純な独詠とするのは不適当と言わざるをえない(しかし何事も些細な所まで完璧を求めるのは不合理だろう)。

 並みの作品ならともかく、源氏の肝心の和歌は従来の単純な贈答分類では捉えきれない。むしろ要所で典型からずらすことを意図しているから、それを従来の枠にはめて説明しようとするアプローチは著者の意図に反するとすら言える。