源氏物語 7帖 紅葉賀:あらすじ・目次・原文対訳

末摘花 源氏物語
第一部
第7帖
紅葉賀
花宴

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 

 紅葉賀(もみじのが)のあらすじ

 前半
 世間は朱雀院で開かれる紅葉賀に向けての準備でかまびすしい。桐壺は最愛の藤壺が懐妊した喜びに酔いしれ、一の院の五十歳の誕生日の式典という慶事をより盛大なものにしようという意向を示しているため、臣下たちも舞楽の準備で浮き立っている。
 ところが、それほどまでに望まれていた藤壺の子は桐壺帝の御子ではなく、その最愛の息子光源氏の子であった。このことが右大臣側の勢力、特に東宮の母で藤壺のライバル、また源氏の母を迫害した張本人である弘徽殿女御に発覚したら二人の破滅は確実なのだが、若い源氏は向こう見ずにも藤壺に手紙を送り、また親しい女官を通して面会を求め続けていた。
 一方で、藤壺は立后を控え狂喜する帝の姿に罪悪感を覚えながらも、一人秘密を抱えとおす決意をし、源氏との一切の交流を持とうとしない。源氏はそのため華やかな式典で舞を披露することになっても浮かない顔のままで、唯一の慰めは北山から引き取ってきた藤壺の姪に当たる少女若紫(後の紫の上)の無邪気に人形遊びなどをする姿であった。
 帝は式典に参加できない藤壺のために、特別に手の込んだ試楽(リハーサル)を宮中で催すことに決める。源氏青海波の舞を舞いながら御簾の奥の藤壺へ視線を送り、藤壺も一瞬罪の意識を離れて源氏の美貌を認める。源氏を憎む弘徽殿女御は、舞を見て「まことに神が愛でて、さらわれそうな美しさだこと。おお怖い。」と皮肉り、同席していたほかの女房などは「なんて意地の悪いことを」と噂する。紅葉の中見事に舞を終えた翌日、源氏はそれとは解らぬように藤壺に文を送ったところ、思いがけず返事が届き胸を躍らせた。五十の賀の後、源氏は正三位に。頭中将は正四位下に叙位される。この褒美に弘徽殿女御は「偏愛がすぎる」と不満を露わにし、東宮に窘められる。
  翌年二月、藤壺は無事男御子(後の冷泉帝)を出産。桐壺帝は最愛の源氏にそっくりな美しい皇子を再び得て喜んだが、それを見る源氏と藤壺は内心罪の意識に苛まれるのだった。

 後半
 前半とは趣を変えて、喜劇的な箸休めの小話が語られる。
 桐壺帝に仕える年配の女官で血筋、人柄の申し分ない源典侍には、希代の色好みという評判があった。好奇心旺盛な源氏と頭中将は冗談半分で彼女に声をかけていたが、年をわきまえずあからさまな媚態を振りまく彼女に辟易としている。
 源典侍のもとに泊まった夜、源氏は何者かの襲撃を受け太刀をとって応戦するが、掴み掛かってみると相手は頭中将であった。わざと修羅場を演じて源典侍を仰天させた二人は、調子に乗って掴み合いをするうちにぼろぼろになってしまう。大笑いしながら帰った翌日、職場で顔を合わせた二人は昨日の騒動を思い出して、互いにそ知らぬ顔で笑いをかみ殺すのだった。
 その年の秋、藤壺は中宮に立后。一番早くに入内し、長年仕えていて今東宮の生母である弘徽殿女御は、「長年仕える自分を差し置いて、なぜ藤壺が中宮に」と激怒。桐壺帝に窘められる。源氏も宰相(参議)に進むが、ますます手の届かなくなった藤壺への思慕はやむことがなかった。

(以上Wikipedia紅葉賀より。色づけは本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#紅葉賀(17首:別ページ)
主要登場人物
 
第7帖 紅葉賀(もみじのが)
 光る源氏の
 十八歳冬十月から
 十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語
 
第一章 藤壺① 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う
第二章 紫   源氏、紫の君に心慰める
第三章 藤壺② 二月に男皇子を出産
第四章 源典侍 老女との好色事件
第五章 藤壺③ 藤壺は中宮、源氏は宰相となる
 
 
第一章 藤壺の物語
 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う
 第一段 御前の試楽
 第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌を贈答
 第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸
 第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う
 
第二章 紫の物語
 源氏、紫の君に心慰める
 第一段 紫の君、源氏を慕う
 第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う
 第三段 故祖母君の服喪明ける
 第四段 新年を迎える
 
第三章 藤壺の物語(二)
 二月に男皇子を出産
 第一段 左大臣邸に赴く
 第二段 二月十余日、藤壺に皇子誕生
 第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る
 第四段 源氏、紫の君に心を慰める
 
第四章 源典侍の物語
 老女との好色事件
 第一段 源典侍の風評
 第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす
 第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される
 第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう
 
第五章 藤壺の物語(三)
 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる
 第一段 七月に藤壺女御、中宮に立つ
 定家注釈
 校訂付記
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
十八歳から十九歳 参議兼近衛中将
呼称:源氏中将・中将の君・源氏の君・宰相の君・男君
頭中将(とうのちゅうじょう)
葵の上の兄
呼称:頭中将・中将・頭の君
桐壺帝(きりつぼのみかど)
光る源氏の父
呼称:帝・主上・内裏
弘徽殿女御(こうきでんのにょうご)
桐壺帝の女御、東宮の母
呼称:春宮の女御・弘徽殿・女御
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
桐壺帝の后、光る源氏の継母
呼称:藤壺・宮・母宮
葵の上(あおいのうえ)
光る源氏の正妻
呼称:大殿・妹君・姫君
紫の上(むらさきのうえ)
兵部卿宮の娘、藤壺宮の姪
呼称:若草・姫君・女君
源典侍(げんないしのすけ)
好色な老女
呼称:典侍・内侍・女

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  紅葉賀(もみじのが)
 
 

第一章 藤壺の物語 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う

 
 

第一段 御前の試楽

 
1  朱雀院の行幸は、神無月の(校訂01)十日あまりなり。
 世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、御方々、物見たまはぬことを口惜しがりたまふ。
 主上も、藤壺の見たまはざらむを、飽かず思さるれば、試楽を御前にて、せさせたまふ。
 
 朱雀院への行幸は、神無月の十日過ぎである。
 常の行幸とは違って、格別興趣あるはずの催しであったので、女御や更衣の御方々が、御覧になれないことを残念にお思いになる。
 主上も、藤壺の宮が御覧になれないのを、もの足りなく思し召されるので、その試楽を御前において、お催しあそばす。
 
2  源氏中将は、青海波(自筆本奥入01・奥入04)をぞ舞ひたまひける。
 片手には大殿の頭中将。
 容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。
 
 源氏の中将は、「青海波」をお舞いになった。
 一方の舞手には大殿の頭の中将。
 容貌、心づかい、人よりは優れているが、立ち並んでは、やはり花の傍らの深山木である。
 
3  入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。
 詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。
 おもしろくあはれなるに、帝、涙を拭ひたまひ、上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。
 詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ。
 
 入り方の日の光が、鮮やかに差し込んでいる時に、楽の声が高まり、感興もたけなわの時に、同じ舞の足拍子、表情は、世にまたとない様子である。
 朗唱などをなさっている声は、「これが、仏の御迦陵頻伽のお声だろうか」と聞こえる。
 美しくしみじみと心打つので、帝は、涙をお拭いになさり、上達部、親王たちも、皆落涙なさった。
 朗唱が終わって、袖をさっとお直しになると、待ち構えていた楽の音が賑やかに奏されるとき、お顔の色が一段と映えて、常よりも光り輝いてお見えになる。
 
4  春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、〔弘徽殿女御〕「神など、空にめでつべき容貌かな。
 うたてゆゆし」とのたまふを、若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。
 藤壺は、「おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」と思すに、夢の心地なむしたまひける。
 春宮の女御は、このように立派に見えるのにつけても、おもしろからずお思いになって、〔弘徽殿女御〕「神などが、空から魅入りそうな、容貌だこと。
 嫌な、不吉だこと」とおっしゃるのを、若い女房などは、厭味なと、聞きとがめるのであった。
 藤壺の宮は、「大それた心のわだかまりがなかったならば、いっそう素晴らしく見えたろうに」とお思いになると、夢のような心地がなさるのであった。
5  宮は、やがて御宿直なりける。  宮は、そのまま御宿直なのであった。
6  〔帝〕「今日の試楽は、青海波に事みな尽きぬな。
 いかが見たまひつる」
 〔帝〕「今日の試楽は、「青海波」に万事尽きてしまったな。
 どう御覧になりましたか」
7  と、聞こえたまへば、あいなう、御いらへ聞こえにくくて、  と、お尋ね申し上げなさると、心ならずも、お答え申し上げにくくて、
8  〔藤壺〕「殊にはべりつ」とばかり聞こえたまふ。  〔藤壺〕「格別でございました」とだけお返事申し上げなさる。
9  〔帝〕「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。
 舞のさま、手づかひなむ、家の子は殊なる。
 この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。
 試みの日、かく尽くしつれば、紅葉の蔭やさうざうしくと思へど、見せたてまつらむの心にて、用意せさせつる」など聞こえたまふ。
 
 〔帝〕「相手役も、悪くはなく見えた。
 舞の様子、手捌きは、良家の子弟は格別であるな。
 世間で名声を博している舞の男たちも、確かに大したものであるが、大様で優美な趣きを、表すことができない。
 試楽の日に、こんなに十分に催してしまったので、当日の紅葉の木陰は、寂しかろうかと思うが、お見せ申したいとの気持ちで、念入りに催させた」などと、お話し申し上げなさる。
 
 
 

第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌を贈答

 
10  つとめて、中将君、  翌朝、源氏中将の君、
11  〔源氏〕「いかに御覧じけむ。
 世に知らぬ乱り心地ながらこそ。
 
 〔源氏〕「どのように御覧になりましたでしょうか。
 何とも言えないつらい気持ちのまま舞ましたので。
 
 

84
 もの思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の
 袖うち振りし 心知りきや
  つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が
  袖を振って舞った気持ちはお分りいただけましたでしょうか
 
12  あなかしこ」  恐れ多いことですが」
13  とある御返り、目もあやなりし御さま、容貌に、見たまひ忍ばれずやありけむ、  とあるお返事、目を奪うほどであったご様子、容貌に、お見過ごしになれなかったのであろうか、
 

85
 〔藤壺〕
 「唐人の 袖振ることは 遠けれど
 立ち居につけて あはれとは見き
 〔藤壺〕
 「唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが
  その立ち居舞い姿はしみじみと拝見いたしました
 
14  大方には」  並々のことには」
15  とあるを、限りなうめづらしう、「かやうの方さへ、たどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の、かねても」と、ほほ笑まれて、持経のやうにひき広げて見ゐたまへり。
 
 とあるのを、この上なく珍しく、「このようなことにまで、お詳しくいらっしゃり、唐国の朝廷まで思いをはせられるお后としてのお和歌を、もう今から」と、自然とほほ笑まれて、持経のように広げてご覧になっていた。
 
 
 

第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸

 
16  行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり。
 春宮もおはします。
 例の、楽の舟ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と、尽くしたる舞ども、種多かり。
 楽の声、鼓の音、世を響かす。
 
 行幸には、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉なさった。
 春宮もお出ましになる。
 恒例によって、楽の舟々が漕ぎ廻って、唐楽、高麗楽と、数々を尽くした舞は、幾種類も多い。
 楽の声、鼓の音が、四方に響き渡る。
 
17  一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに、春宮の女御は、あながちなりと、憎みきこえたまふ。
 
 先日の源氏の君の夕映えのお姿、不吉に思し召されて、御誦経などを方々の寺々におさせになるのを、聞く人ももっともであると感嘆申し上げるが、春宮の女御は、大仰であると、ご非難申し上げなさる。
 
18  垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと、世人に思はれたる有職の限り、調へさせたまへり。
 宰相二人、左衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。
 舞の師どもなど、世になべてならぬを取りつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひける。
 
 垣代などには、殿上人や、地下人でも、優秀だと世間に評判の高い精通した人たちだけをお揃えあそばしていた。
 宰相二人、左衛門督と右衛門督が、左楽と右楽とを指揮する。
 舞の師匠たちなど、世間で一流の人たちをそれぞれ招いて、各自家に引き籠もって練習したのであった。
 
19  木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろし(校訂02)と聞こえて、吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。
 かざしの紅葉、いたう散り空きて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さし替へたまふ。
 
 木高い紅葉の下に、四十人の垣代たちの、何とも言い表しようもなく見事に吹き鳴らしている笛の音に響き合っている松風、本当の深山颪と聞こえて、吹き乱れ、色とりどりに散り乱れる木の葉の中から、「青海波」の光り輝いて舞い出る様子、何とも恐ろしいまでに見える。
 插頭の紅葉がたいそう散って薄くなって、顔の照り映える美しさに圧倒された感じがするので、御前に咲いている菊を折って、左大将が差し替えなさる。
 
20  日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。
 もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
 
 日の暮れかかるころに、ほんの少しばかり時雨が降って、空の様子までが折の情趣を見知り顔であるのに、そうした非常に美しい姿で、菊が色とりどりに変色し、その素晴らしいのを冠に插して、今日は又とない秘術を尽くした入綾の舞納めの時には、ぞくっと寒気がし、この世の舞とは思われない。
 何も分るはずのない下人どもで、木の下、岩の陰、築山の木の葉に埋もれている者までが、少しでも物の情趣を理解できる者は感涙を落としたのであった。
 
21  承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひたまへるなむ、さしつぎの見物なりける。
 これらにおもしろさの尽きにければ、こと事に目も移らず、かへりてはことざましにやありけむ。
 
 承香殿の女御の第四皇子、まだ童姿で、「秋風楽」をお舞いになったのが、これに次ぐ見物であった。
 これらに興趣も尽きてしまったので、他の事には関心も移らず、かえって興ざましであったろうか。
 
22  その夜、源氏中将、正三位したまふ。
 頭中将、正下の加階したまふ。
 上達部は、皆さるべき限りよろこびしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。
 
 その夜、源氏の中将、正三位になられる。
 頭中将、正四位下に昇進なさる。
 上達部は、皆しかるべき人々は相応の昇進をなさるのも、この君の昇進につれて恩恵を蒙りなさるので、人の目を驚かし、心をも喜ばせなさる、前世が知りたいほどである。
 
 
 

第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う

 
23  宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、隙もや、とうかがひありきたまふをことにて、大殿には騒がれたまふ。
 いとど、かの若草たづね取りたまひてしを、「二条院には人迎へたまふなり(校訂03)」と人の聞こえければ、いと心づきなしと思いたり。
 
 藤壺の宮は、そのころご退出なさったので、例によって、お会いできる機会がないかと、窺い回るのに夢中であったので、大殿では穏やかではいらっしゃれない。
 その上、あの若草の君を尋ねてお迎えになったのを、「二条院では、女人をお迎えになったそうです」と、人が申し上げたので、まことに気に食わないとお思いになっていた。
 
24  〔源氏〕「うちうちのありさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心うつくしく、例の人のやうに怨みのたまはば、我もうらなくうち語りて、慰めきこえてむものを、思はずにのみとりないたまふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし。
 人の御ありさまの、かたほに、そのことの飽かぬと(校訂04)おぼゆる疵もなし。
 人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも、知りたまはぬほどこそあらめ、つひには思し直されなむ」と、「おだしく軽々しからぬ御心のほども、おのづから」と、頼まるる方はことなりけり。
 
 〔源氏〕「内々の様子はご存知なく、そのようにお思いになるのはごもっともであるが、性格が素直で、普通の女性のように恨み言をおっしゃるのならば、自分も腹蔵なくお話して、お慰め申し上げようものを、心外なふうにばかりお取りになるのが不愉快なので、起こさなくともよい浮気沙汰まで起こるのだ。
 相手のご様子は、不十分で、どこそこが不満だと思われる欠点もない。
 誰よりも先に結婚した方なので、愛しく大切にお思い申している気持ちを、まだご存知ないのであろうが、いつかはお思い直されよう」と、「安心できる軽率でないご性質だから、いつかは」と、期待できる点では格別なのであった。
 
 
 

第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める

 
 

第一段 紫の君、源氏を慕う

 
25  幼き人は、見ついたまふままに(校訂05)、いとよき心ざま、容貌にて、何心もなくむつれまとはしきこえたまふ。
 「しばし、殿の内の人にも誰れと知らせじ」と思して、なほ離れたる対に、御しつらひ二なくして、我も明け暮れ入りおはして、よろづの御ことどもを教へきこえたまひ、手本書きて習はせなどしつつ、ただほかなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる。
 
 幼い人は、馴染まれるにつれて、とてもよい性質、容貌で、無心に懐いてお側離れず付きまとい申されなさる。
 「暫くの間は、邸内の者にも誰それと知らせまい」とお思いになって、今も離れた対の屋に、お部屋の設備をまたとなく立派にして、ご自分も明け暮れお入りになって、ありとあらゆるお稽古事をお教え申し上げなさり、お手本を書いてお習字などさせては、まるで他で育ったご自分の娘をお迎えになったようなお気持ちでいらっしゃった。
 
26  政所、家司などをはじめ、ことに分かちて、心もとなからず仕うまつらせたまふ。
 惟光よりほかの人は、おぼつかなくのみ思ひきこえたり。
 かの父宮も、え知りきこえたまはざりけり。
 
 政所、家司などをはじめとして、特別に担当を分けて、何の心配もないようにお仕えさせなさる。
 惟光以外の人は、はっきり分からずばかりに思い申し上げていた。
 あの父宮も、ご存知ないのであった。
 
27  姫君は、なほ時々思ひ出できこえたまふ時、尼君を恋ひきこえたまふ折多かり。
 君のおはするほどは、紛らはしたまふを、夜などは、時々こそ泊まりたまへ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出でたまふを、慕ひきこえたまふ折などあるを、いとらうたく思ひきこえたまへり。
 
 姫君は、やはり時々お思い出しなさる時は、尼君をお慕い申し上げなさる時々が多い。
 君がおいでになる時は、気が紛れていらっしゃるが、夜などは、時々はお泊まりになるが、あちらこちらの方々にお忙しくて、暮れるとお出かけになるのを、後をお慕いなさる時などがあるのを、とてもかわいいとお思い申し上げていらっしゃった。
 
28  二、三日内裏にさぶらひ、大殿にもおはする折は、いといたく屈し(校訂06)などしたまへば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、歩きも静心なくおぼえたまふ。
 僧都は、かくなむ、と聞きたまひて、あやしきものから、うれしとなむ思ほしける。
 かの御法事などしたまふにも、いかめしうとぶらひきこえたまへり。
 
 二、三日宮中に伺候し、大殿にもいらっしゃる時は、とてもひどく塞ぎ込んだりなさるので、気の毒で、母親のいない子を持ったような心地がして、外出も落ち着いてできなくお思いになる。
 僧都は、これこれしかじかと、お聞きになって、不思議な気がする一方で、嬉しいことだとお思いであった。
 あの尼君の法事などをなさる時にも、丁重にご弔問なさっていた。
 
 
 

第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う

 
29  藤壺のまかでたまへる三条の宮に、御ありさまもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、中納言の君、中務などやうの人びと対面したり。
 「けざやかにももてなしたまふかな」と、やすからず思へど、しづめて、大方の御物語聞こえたまふほどに、兵部卿宮参りたまへり。
 
 藤壺がご退出していらっしゃる三条の宮に、ご様子も知りたくて、参上なさると、王命婦、中納言の君、中務などといった女房たちが応対に出た。
 「他人行儀なお扱いであるな」と、おもしろくなく思うが、気を落ち着けて、世間一般のお話を申し上げなさっているところに、兵部卿宮が参上なさった。
 
30  この君おはすと聞きたまひて、対面したまへり。
 いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、「女にて見むはをかしかりぬべく」、人知れず見たてまつりたまふにも、かたがたむつましくおぼえたまひて、こまやかに御物語など聞こえたまふ。
 宮も、この御さまの常よりことになつかしううちとけたまへるを、「いとめでたし」と見たてまつりたまひて、婿になどは思し寄らで、「女にて見ばや」と、色めきたる御心には思ほす。
 
 この君がいらっしゃるとお聞きになって、お会いなさった。
 宮はとても風情あるご様子をして、色っぽくなよなよとしていらっしゃるのを、「女性として見るにはきっと素晴らしいに違いなかろう」と、こっそりと拝見なさるにつけても、あれこれと睦まじくお思いになられて、懇ろにお話など申し上げなさる。
 宮も、君のご様子がいつもより格別に親しみやすく打ち解けていらっしゃるのを、「じつに素晴らしい」と拝見なさって、娘婿でいらっしゃるなどとはお思いよりにもならず、「女としてお会いしたいものだ」と、色っぽいお気持ちにお考えになる。
 
31  暮れぬれば、御簾の内に入りたまふを、うらやましく、昔は、主上の御もてなしに、いとけ近く、人づてならで、ものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるも、つらうおぼゆるぞわりなきや。
 
 日が暮れたので、御簾の内側にお入りになるのを、羨ましく、昔は、お上の御待遇で、とても近くで、直接にお話申し上げなさったのに、すっかり疎々しくいらっしゃるのを、辛く思われるとは、理不尽なことであるよ。
 
32  〔源氏〕「しばしばもさぶらふべけれど、事ぞとはべらぬほどは、おのづからおこたりはべるを、さるべきこと(校訂07)などは、仰せ言(校訂08)もはべらむこそ、うれしく」  〔源氏〕「しばしばお伺いすべきですが、特別の事でもない限りは、参上するのも自然滞りがちになりますが、しかるべき御用などをば、お申し付けございましたら、嬉しく……」
33  など、すくすくしうて出でたまひぬ。
 命婦も、たばかりきこえむかたなく、宮の御けしきも、ありしよりは(校訂09)、いとど憂きふしに思しおきて、心とけぬ御けしきも、恥づかしくいとほしければ、何のしるしもなくて、過ぎゆく。
 「はかなの契りや」と思し乱るること、かたみに尽きせず。
 
 などと、堅苦しい挨拶をしてお出になった。
 命婦も、手引き申し上げる手段もなく、宮のご様子も以前よりは、いっそう辛いことにお思いになっていて、お打ち解けにならないご様子も、気おくれしおいたわしくもあるので、何の効もなく、月日が過ぎて行く。
 「何とはかない御縁か」と、お悩みになること、お互いに嘆ききれない。
 
 
 

第三段 故祖母君の服喪明ける

 
34  少納言は、「おぼえずをかしき世を見るかな。
 これも、故尼上の、この御ことを思して、御行ひにも祈りきこえたまひし仏の御しるしにや」とおぼゆ。
 「大殿、いとやむごとなくておはします。
 ここかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まことに大人びたまはむほどは、むつかしきこともや」とおぼえける。
 されど、かくとりわきたまへる御おぼえのほどは、いと頼もしげなりかし。
 
 少納言は、「思いがけず嬉しい運が回って来たことよ。
 これも、亡き尼上が、姫君様をご心配なさって、御勤行にもお祈り申し上げなさった仏の御利益であろうか」と思われる。
 「大殿は、本妻として歴としていらっしゃる。
 あちらこちら大勢お通いになっているのを、本当に成人されてからは、厄介なことも起きようか」と案じられるのだった。
 しかし、このように特別になさっていらっしゃるご寵愛のうちは、とても心強い限りである。
 
35  御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせたてまつりたまふを、また親もなくて生ひ出でたまひしかば、まばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の地の限り織れる御小袿などを着たまへるさま、いみじう今めかしくをかしげなり。
 
 ご服喪は、母方の場合は三箇月であると、晦日には忌明け申し上げさせなさるが、他に親もなくてご成長なさったので、派手な色合いではなく、紅、紫、山吹の無地の織物の御小袿などを召していらっしゃる様子、たいそう当世風でかわいらしげである。
 
 
 

第四段 新年を迎える

 
36  男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。
 
 男君は、朝拝に参内なさろうとして、お立ち寄りになった。
 
37  〔源氏〕「今日よりは、大人しくなりたまへりや」  〔源氏〕「今日からは大人らしくなられましたか」
38  とて、うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。
 いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。
 三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
 
 と言って、微笑んでいらっしゃる、とても素晴らしく魅力的である。
 早くも、お人形を並べ立てて、忙しくしていらっしゃる……。
 三尺の御厨子一具と、お道具を色々と並べて、他に小さい御殿をたくさん作り集めて、差し上げなさっていたのを、辺りいっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。
 
39  〔紫君〕「儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」  〔紫君〕「追儺をやろうといって、犬君がこれを壊してしまったので、直しておりますの」
40  とて、いと大事と思いたり。
 
 と言って、とても大事件だとお思いである。
 
41  〔源氏〕「げに、いと心なき人のしわざにもはべるなるかな。
 今つくろはせはべらむ。
 今日は言忌(校訂10)して、な泣いたまひそ」
 〔源氏〕「なるほど、とてもそそっかしい人のやったことらしいですね。
 直ぐに直させましょう。
 今日は不吉な言葉は慎んで、お泣きなさるな」
42  とて、出でたまふけしき、ところせきを、人びと端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見たてまつりたまひて、雛のなかの源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどしたまふ。
 
 と言って、お出かけになる様子の、辺り狭しのご立派さを、女房たちは端に出てお見送り申し上げるので、姫君も立って行ってお見送り申し上げなさって、お人形の中の源氏の君を着飾らせて、内裏に参内させる真似などなさる。
 
43  〔少納言乳母〕「今年だにすこし大人びさせたまへ。
 十にあまりぬる人は、雛遊びは忌みはべるものを。
 かく御夫などまうけたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、見えたてまつらせたまはめ。
 御髪参るほどをだに、もの憂くせさせたまふ」
 〔少納言乳母〕「せめて今年からでも、もう少し大人らしくなさいませ。
 十歳を過ぎた人は、お人形遊びはいけないものでございますのに。
 このようにお婿様をお持ち申されたからには、奥方様らしくおしとやかにお振る舞いになって、お相手申し上げあそばしませ。
 お髪をお直しする間さえ、お嫌がりあそばして……」
44  など、少納言聞こゆ。
 御遊びにのみ心入れたまへれば、恥づかしと思はせたてまつらむとて言へば、心のうちに、〔紫君〕「我は、さは、夫まうけてけり。
 この人びとの夫とてあるは、醜くこそあれ。
 我はかくをかしげに若き人をも持たりけるかな」と、今ぞ思ほし知りける。
 さはいへど、御年の数添ふしるしなめりかし。
 かく幼き御けはひの、ことに触れてしるければ、殿のうちの人びとも、あやしと思ひけれど、いとかう世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。
 
 などと少納言も、お諌め申し上げる。
 お人形遊びにばかり夢中になっていらっしゃるので、これではいけないと思わせ申そうと思って言うと、心の中で、〔紫君〕「わたしは、それでは、夫君を持ったのだわ。
 この女房たちの夫君というのは、何と醜い人たちなのであろう。
 わたしは、こんなにも魅力的で若い男性を持ったのだわ」と、今になってお分かりになるのであった。
 何と言っても、お年を一つ取った証拠なのであろう。
 このように幼稚なご様子が、何かにつけてはっきりっと目立つので、殿の内の女房たちも、変わっていると思ったが、とてもこのように夫婦らしくないお添い寝相手なのだろうとは思わなかったのである。
 
 
 

第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産

 
 

第一段 左大臣邸に赴く

 
45  内裏より大殿にまかでたまへれば、例の、うるはしうよそほしき御さまにて、心うつくしき御けしきもなく、苦しければ、  宮中から大殿にご退出なさると、いつものように、端然と威儀を正したご態度で、やさしいそぶりもなく窮屈なので、
46  〔源氏〕「今年よりだに、すこし世づきて改めたまふ御心見えば、いかにうれしからむ」  〔源氏〕「せめて今年からでも、もう少し夫婦らしく態度をお改めになるお気持ちが窺えたら、どんなにか嬉しいことでしょう」
47  など聞こえたまへど、「わざと人据ゑて、かしづきたまふ」と聞きたまひしよりは、「やむごとなく思し定めたることにこそは」と、心(校訂11)のみ置かれて、いとど疎く恥づかしく思さるべし。
 しひて見知らぬやうにもてなして、乱れたる御けはひには、えしも心強からず、御いらへなどうち聞こえたまへるは、なほ人よりはいとことなり。
 
 などとお申し上げなさるが、「わざわざ女の人を側に置いて、かわいがっていらっしゃる」と、お聞きになってからは、「重要な夫人とお考えになってのことであろう」と、隔て心ばかりが自然と生じて、ますます疎ましく気づまりにお感じになられるのであろう。
 つとめて見知らないように振る舞って、君の冗談をおっしゃっるご様子には、強情も張り通すこともできず、お返事などちょっと申し上げなさるところは、やはり他の女性とはとても違うのである。
 
48  四年ばかりがこのかみにおはすれば、うち過ぐし、恥づかしげに、盛りにととのほりて見えたまふ。
 〔源氏〕「何ごとかはこの人の飽かぬところはものしたまふ。
 我が心のあまりけしからぬすさびに、かく怨みられたてまつるぞかし」と、思し知らる。
 同じ大臣と聞こゆるなかにも、おぼえやむごとなくおはするが、宮腹に一人いつきかしづきたまふ御心おごり、いとこよなくて、「すこしもおろかなるをば、めざまし」と思ひきこえたまへるを、男君は、「などかいとさしも」と、ならはいたまふ、御心の隔てどもなるべし。
 
 四歳ほど年上でいらっしゃるので、姉様で、気後れがし、女盛りで非の打ちどころがなくお見えになる。
 「どこにこの人の足りないところがおありだろうか。
 自分のあまり良くない浮気心から、このようにお恨まれ申すのだ」と、お考えにならずにはいられない。
 同じ大臣と申し上げる中でも、御信望この上なくいらっしゃる方が、宮との間に儲けて大切にお育てなさったための気位の高さは、とても大変なもので、「少しでも疎略にするのは、失敬である」とお思い申し上げていらっしゃるのを、夫君は、「どうしてそんなにまでも」という、いつもにおなりになっている、お互いの心の隔てなのであろう。
 
49  大臣も、かく頼もしげなき御心を、つらしと思ひきこえたまひながら、見たてまつりたまふ時は、恨みも忘れて、かしづきいとなみきこえたまふ。
 つとめて、出でたまふところにさしのぞきたまひて、御装束したまふに、名高き御帯、御手づから持たせてわたりたまひて、御衣のうしろひきつくろひなど、御沓を取らぬばかりにしたまふ、いとあはれなり。
 
 大臣も、このように頼りない君のお気持ちを、辛いとお思い申し上げになりながらも、お目にかかりなさる時には、恨み事も忘れて、大切にお世話申し上げなさる。
 翌朝、お帰りになるところに、お顔をお見せになって、お召し替えになる時、高名の御帯を、お手ずからお持ちになってお越しになって、お召物の後ろを引き結び直しなどや、お沓までも手に取りかねないほど世話なさる、大変なお気の配りようである。
 
50  〔源氏〕「これは、内宴などいふこともはべるなるを、さやうの折にこそ」  〔源氏〕「これは、内宴などということもございますそうですから、そのような折にでも」
51  など聞こえたまへば、  などとお申し上げなさると、
52  〔左大臣〕「それは、まされるもはべり。
 これはただ目馴れぬさまなればなむ」
 〔左大臣〕「その時には、もっと良いものがございます。
 これはちょっと目新しい感じのするだけのものですから」
53  とて、しひてささせたてまつりたまふ。
 げに、よろづにかしづき立てて見たてまつりたまふに、生けるかひあり、「たまさかにても、かからむ人を出だし入れて見むに、ますことあらじ」と見えたまふ。
 
 と言って、無理にお締め申し上げなさる。
 なるほど、万事にお世話して拝見なさると、生き甲斐が感じられ、「たまさかであっても、このような方をお出入りさせてお世話するのに、これ以上の喜びはあるまい」と、お見えでいらっしゃる。
 
 
 

第二段 二月十余日、藤壺に皇子誕生

 
54  参座しにとても、あまた所も歩きたまはず、内裏、春宮、一院ばかり、さては、藤壺の三条の宮にぞ参りたまへる。
 
 参賀のご挨拶といっても、多くの所にはお出かけにならず、内裏、春宮、一院ぐらいで、その他では、藤壺の三条の宮にお伺いなさる。
 
55  〔女房〕「今日はまたことにも見えたまふかな」  〔女房〕「今日はまた格別にお見えでいらっしゃるわ」
56  〔女房〕「ねびたまふままに、ゆゆしきまでなりまさりたまふ御ありさまかな」  〔女房〕「ご成長されるに従って、恐いまでにお美しくおなりでいらっしゃるご様子ですわ」
57  と、人びとめできこゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほすことしげかりけり。
 
 と、女房たちがお褒め申し上げているのを、宮は、几帳の隙間からわずかにお姿を御覧になるにつけても、物思いなさることが多いのであった。
 
58  この御ことの、師走も過ぎにしが、心もとなきに、この月はさりともと、宮人も待ちきこえ、内裏にも、さる御心まうけどもあり、つれなくて立ちぬ。
 「御もののけにや」と、世人も聞こえ騒ぐを、宮、いとわびしう、「このことにより、身のいたづらになりぬべきこと」と思し嘆くに、御心地もいと苦しくて悩みたまふ。
 
 御出産の予定が、十二月も過ぎてしまったのが、気がかりで、今月はいくら何でもと、宮家の人々もお待ち申し上げ、主上におかれても、そのお心づもりでいらっしゃるのに、何事もなく過ぎてしまった。
 「御物の怪のせいであろうか」と、世間の人々もお噂申し上げるのを、宮は、とても身にこたえてつらく、「このお産のために、命を落とすことになってしまうにちがいない」と、お嘆きになると、ご気分もとても苦しくてお悩みになる。
 
59  中将君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなくて所々にせさせたまふ。
 「世の中の定めなきにつけても、かくはかなくてや止みなむ」と、取り集めて嘆きたまふに、二月十余日のほどに、男御子生まれたまひぬれば、名残なく、内裏にも宮人も喜びきこえたまふ。
 
 中将の君は、ますます思い当たって、御修法などを、はっきりと事情は知らせずに方々の寺々におさせになる。
 「世の無常につけても、このままはかなく終わってしまうのだろうか」と、あれやこれやとお嘆きになっていると、二月十日過ぎのころに、男御子がお生まれになったので、すっかり心配も消えて、宮中でも宮家の人々もお喜び申し上げなさる。
 
60  「命長くも」と思ほすは心憂けれど、「弘徽殿などの、うけはしげにのたまふ」と聞きしを、「むなしく聞きなしたまはましかば(校訂12)、人笑はれにや」と思し強りてなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。
 
 「長生きを」とお思いなさるのは、つらいことだが、「弘徽殿などが、呪わしそうにおっしゃっている」と聞いたので、「死んだとお聞きになったならば、物笑いの種になろう」と、お気を強くお持ちになって、だんだん少しずつ気分が快方に向かっていかれたのであった。
 
61  主上の、いつしかとゆかしげに思し召したること、限りなし。
 かの、人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人まに参りたまひて、
 お上が、早く御子を御覧になりたいとおぼし召されること、この上ない。
 あの、密かなお気持ちとしても、ひどく気がかりで、人のいない時に参上なさって、
62  〔源氏〕「主上のおぼつかながりきこえさせたまふを、まづ見たてまつりて詳しく(校訂13)奏しはべらむ」  〔源氏〕「お上が御覧になりたくあそばしてますので、まず拝見して詳しく奏上しましょう」
63  と聞こえたまへど、  と申し上げなさるが、
64  〔藤壺〕「むつかしげなるほどなれば」  〔藤壺〕「まだ見苦しい程ですので」
65  とて、見せたてまつりたまはぬも、ことわりなり。
 さるは、いとあさましう、めづらかなるまで写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。
 宮の、御心の鬼にいと苦しく、「人の見たてまつるも、あやしかりつるほどのあやまりを、まさに人の思ひとがめじや。
 さらぬはかなきことをだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべきにか」と思しつづくるに、身のみぞいと心憂き。
 
 と言って、お見せ申し上げなさらないのも、ごもっともである。
 実のところ、とても驚くほど珍しいまでに生き写しでいらっしゃる顔形、紛うはずもない。
 宮が、良心の呵責にとても苦しく、「女房たちが拝見しても、不審に思われた月勘定の狂いを、どうして変だと思い当たらないだろうか。
 それほどでないつまらないことでさえも、欠点を探し出そうとする世の中で、どのような噂がしまいには世に漏れ出ようか」と思い続けなさると、わが身だけがとても情けない。
 
66  命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。
 若宮の御ことを、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、
 命婦の君に、まれにお会いになって、切ない言葉を尽くしてお頼みなさるが、何の効果があるはずもない。
 若宮のお身の上を、無性に御覧になりたくお訴え申し上げなさるので、
67  〔王命婦〕「など、かうしもあながちにのたまはすらむ。
 今、おのづから見たてまつらせたまひてむ」
 〔王命婦〕「どうして、こうまでもご無理を仰せあそばすのでしょう。
 そのうち、自然に御覧あそばされましょう」
68  と聞こえながら、思へるけしき、かたみにただならず。
 かたはらいたきことなれば、まほにもえのたまはで、
 と申し上げながら、悩んでいる様子は、お互いに一通りでない。
 気が引ける事柄なので、正面切っておっしゃれず、
69  〔源氏〕「いかならむ世に、人づてならで、聞こえさせむ」  〔源氏〕「いったいいつになったら、直接に、お話し申し上げることができるのだろう」
70  とて、泣いたまふさまぞ、心苦しき。
 
と言って、お泣きになる姿が、お気の毒である。
 
 

86
 〔源氏〕
 「いかさまに 昔結べる 契りにて
 この世にかかる なかの隔てぞ
 〔源氏〕
「どのように前世で約束を交わした縁でこの世にこのような二人の仲に隔てがあるのだろうか
 
71  かかることこそ心得がたけれ」  このような隔ては納得がいかない」
72  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
73  命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放ちきこえず。
 
 命婦も、宮がお悩みでいらっしゃる様子などを拝見しているので、そっけなく突き放してお扱い申し上げることもできない。
 
 

87
 〔王命婦
 「見ても思ふ 見ぬはたいかに 嘆くらむ
 こや世の人の まどふてふ闇
 〔王命婦〕
「御覧になっている方も物思をされています、御覧にならないあなたは、またどんなにお嘆きのことでしょう。
 
 これが世の人が言う親心の闇というものでしょうか
 
74  あはれに、心ゆるびなき御ことどもかな」  おいたわしい、お心の休まらないお二方ですこと」
75  と、忍びて聞こえけり。
 
 と、こっそりとお返事申し上げたのであった。
 
76  かくのみ言ひやる方なくて、帰りたまふものから、人のもの言ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命婦をも、昔おぼいたりしやうにも、うちとけむつびたまはず。
 人目立つまじく、なだらかにもてなしたまふものから、心づきなしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひのほかなる心地すべし。
 
 このように何とも申し上げるすべもなくて、お帰りになるものの、宮は世間の人々の噂も煩わしいので、無理無体なことにおっしゃりもし、お考えにもなって、命婦をも、以前信頼していたように、気を許してお近づけなさらない。
 人目に立たないように、穏やかにお接しになる一方で、気に食わないとお思いになる時もあるはずなのを、とても身にこたえて思ってもみなかった心地がするようである。
 
 
 

第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る

 
77  四月に内裏へ参りたまふ。
 ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起き返りなどしたまふ。
 あさましきまで、まぎれどころなき御顔つきを、思し寄らぬことにしあれば、〔帝〕「またならびなきどちは、げにかよひたまへるにこそは」と、思ほしけり。
 いみじう思ほしかしづくこと、限りなし。
 源氏の君を、限りなきものに思し召しながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、飽かず口惜しう、ただ人にてかたじけなき御ありさま、容貌に、ねびもておはするを御覧ずるままに、心苦しく思し召すを、「かうやむごとなき御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、疵なき玉」と思しかしづくに、宮はいかなるにつけても、胸のひまなく、やすからずものを思ほす。
 
 四月に参内なさる。
 日数の割には大きく成長なさっていて、だんだん寝返りなどをお打ちになる。
 驚きあきれるくらい、間違いようもないお顔つきを、ご存知ないことなので、「他に類のない美しい人どうしというのは、なるほど似通っていらっしゃるものだ」と、お思いあそばすのであった。
 たいそう大切にお慈しみになること、この上もない。
 源氏の君を、限りなくかわいい人と愛していらっしゃりながら、世間の人々がご賛成申し上げそうにもなかったことによって、坊にもお据え申し上げられずに終わったことを、どこまでも残念に、臣下としてもったいないご様子、容貌で、ご成人していらっしゃるのを御覧になるにつけ、おいたわしくおぼし召されるので、「このように高貴なお方から、同様に光り輝いてお生まれになったので、疵のない玉だ」と、お思いあそばして大切になさるので、宮は何につけても、胸の痛みの消える間もなく、不安な思いをしていらっしゃる。
 
78  例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き出でたてまつらせたまひて、  いつものように、中将の君が、こちらで管弦のお遊びをなさっていると、お抱き申し上げあそばされて、
79  〔帝〕「御子たち、あまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。
 されば、思ひわたさるるにやあらむ。
 いとよくこそおぼえたれ。
 いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ」
 〔帝〕「御子たちは、大勢いるが、そなただけを、このように小さい時から明け暮れ見てきた。
 それゆえ、思い出されるのだろうか。
 とてもよく似て見える。
 とても幼いうちは皆このように見えるのであろうか」
80  とて、いみじくうつくしと思ひきこえさせたまへり。
 
 と言って、たいそうかわいらしいとお思い申し上げあそばされている。
 
81  中将の君、面の色変はる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがた移ろふ心地して、涙落ちぬべし。
 もの語りなどして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、わが身ながら、これに似たらむはいみじういたはしうおぼえたまふぞ、あながちなるや。
 宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。
 中将は、なかなかなる心地の、乱るやうなれば、まかでたまひぬ。
 
 中将の君は、顔色が変っていく心地がして、恐ろしくも、かたじけなくも、嬉しくも、哀れにも、あちこちと揺れ動く思いで、涙が落ちてしまいそうである。
 お声を上げたりして、にこにこしていらっしゃる様子が、とても恐いまでにかわいらしいので、自分ながら、この宮に似ているのは大変にもったいなくお思いになるとは、身贔屓に過ぎるというものであるよ。
 宮は、どうにもいたたまれない心地がして、冷汗をお流しになっているのであった。
 中将は、かえって複雑な思いが、乱れるようなので、退出なさった。
 
82  わが御かたに臥したまひて、「胸のやるかたなきほど過ぐして、大殿へ」と思す。
 御前の前栽の、何となく青みわたれるなかに、常夏のはなやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもとに、書きたまふこと、多かるべし。
 
 ご自分の部屋の方でお臥せりになって、「胸のどうにもならない悩みが収まってから、大殿へ出向こう」とお思いになる。
 お庭先の前栽が、どことなく青々と見渡される中に、常夏の花がぱあっと色美しく咲き出しているのを、折らせなさって、命婦の君のもとに、お書きになること、多くあるようだ。
 
 

88
 〔源氏〕
 「よそへつつ 見るに心は なぐさまで
 露けさまさる 撫子の花
 〔源氏〕
「思いよそえて見ているが、気持ちは慰まず、
涙を催させる撫子の花の花であるよ
 
83  花に咲かなむ(自筆本奥入02)、と思ひたまへしも、かひなき世にはべりければ」  花と咲いてほしい、と存じておりましたが、効ない二人の仲でしたので」
84  とあり。
 さりぬべき(校訂14)隙にやありけむ、御覧ぜさせて、
 とある。
 ちょうど人のいない時であったのであろうか、御覧に入れて、
85  〔王命婦〕「ただ塵ばかり、この花びらに」  〔王命婦〕「ほんの塵ほどのお返事でも、この花びらに」
86  と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、  と申し上げるが、ご本人にも、もの悲しく思わずにはいらっしゃれない時なので、
 

89
 〔藤壺〕
 「袖濡るる 露のゆかりと 思ふにも
 なほ疎まれぬ 大和撫子」
 〔藤壺〕
「袖を濡らしている方の縁と思うにつけても、
やはり疎ましくなってしまう大和撫子です」
 
87  とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、よろこびながらたてまつれる、「例のことなれば、しるしあらじかし」と、くづほれて眺め臥したまへるに、胸うち騒ぎて、いみじくうれしきにも涙落ちぬ。
 
 とだけ、かすかに中途で書き止めたような返歌を、喜びながら差し上げたが、「いつものことで、返事はあるまい」と、力なくぼんやりと臥せっていらっしゃったところに、胸をときめかして、たいそう嬉しいので、涙がこぼれた。
 
 
 

第四段 源氏、紫の君に心を慰める

 
88  つくづくと臥したるにも、やるかたなき心地すれば、例の、慰めには西の対にぞ渡りたまふ。
 
 つくづくと物思いに沈んでいるにつけても、晴らしようのない気持ちがするので、いつものように、気晴らしには西の対にお渡りになる。
 
89  しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露に濡れたる心地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。
 愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、なまうらめしかりければ、例ならず、背きたまへるなるべし。
 端の方についゐて、
 取り繕わないで毛羽だっていらっしゃる鬢ぐきや、うちとけた袿姿で、笛を慕わしく吹き鳴らしながら、お立ち寄りになると、女君、先程の花が露に濡れたような感じで、寄り臥していらっしゃる様子、かわいらしく可憐である。
 愛嬌がこぼれるようで、おいでになりながら早くお渡り下さらないのが、何となく恨めしかったので、いつもと違って、すねていらっしゃるのであろう。
 端の方に座って、
90  〔源氏〕「こちや」  〔源氏〕「こちらへ」
91  とのたまへど、おどろかず、  とおっしゃるが、素知らぬ顔で、
92  〔紫君〕「入りぬる磯の(自筆本奥入03)」  〔紫君〕「お目にかかることが少なくて」
93  と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、いみじうされてうつくし。
 
 と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる様子、たいそう色っぽくてかわいらしい。
 
94  〔源氏〕「あな、憎。
 かかること口馴れたまひにけりな。
 みるめに飽くは(自筆本奥入04)、まさなきことぞよ」
 〔源氏〕「まあ、憎らしい。
 このようなことをおっしゃるようになりましたね。
 みるめに人を飽きるとは、良くないことですよ」
95  とて、人召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。
 
 と言って、人を召して、お琴取り寄せてお弾かせ申し上げなさる。
 
96  〔源氏〕「箏の琴は、中の細緒の堪へがたきこそところせけれ」  〔源氏〕「箏の琴は、中の細緒が切れやすいのが厄介だ」
97  とて、平調におしくだして調べたまふ。
 かき合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば、え怨じ果てず、いとうつくしう弾きたまふ。
 
 と言って、平調に下げてお調べになる。
 調子合わせの小曲だけ弾いて、押しやりなさると、いつまでもすねてもいられず、とてもかわいらしくお弾きになる。
 
98  小さき御ほどに、さしやりて、ゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。
 いとさとくて、かたき調子どもを、ただひとわたりに習ひとりたまふ。
 大方らうらうじうをかしき御心ばへを、「思ひしことかなふ」と思す。
 「保曾呂俱世利(奥入05・自筆本奥入05)」といふものは、名は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、かき合はせ、まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。
 
 お小さいからだで、左手をさしのべて、弦を揺らしなさる手つき、それがとてもかわいらしいので、愛しいとお思いになって、笛を吹き鳴らしながらお教えになる。
 とても賢くて、難しい調子などを、たった一度で習得なさる。
 何事につけても才長けたご性格を、「期待していた通りである」とお思いになる。
 「保曽呂俱世利」という曲目は、名前は嫌だが、素晴らしくお吹きになると、合奏させて、まだ未熟だが、拍子を間違えず上手のようである。
 
99  大殿油参りて、絵どもなど御覧ずるに、「出でたまふべし」とありつれば、人びと声づくりきこえて、  大殿油を燈して、絵などを御覧になっていると、「お出かけになる予定」とあったので、供人たちが咳払いし合図申し上げて、
100  〔供人〕「雨降りはべりぬべし」  〔供人〕「雨が降って来そうでございます」
101  など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。
 絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、
 などと言うので、姫君、いつものように心細くふさいでいらっしゃった。
 絵を見ることも止めて、うつ伏していらっしゃるので、とても可憐で、お髪がとても見事にこぼれかかっているのを、かき撫でて、
102  〔源氏〕「他なるほどは恋しくやある」  〔源氏〕「出かけている間は寂しいですか」
103  とのたまへば、うなづきたまふ。
 
 とおっしゃると、こっくりなさる。
 
104  〔源氏〕「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど(校訂15)、幼くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづ、くねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ(校訂16)、しばしかくもありくぞ。
 おとなしく見なしては、他へもさらに行くまじ。
 人の怨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさまに見えたてまつらむと思ふぞ」
 〔源氏〕「わたしも、一日でもお目にかからないでいるのは、とてもつらいことですが、お小さくいらっしゃるうちは、安心とお思い申し上げて、まずは、ひねくれて嫉妬する人の機嫌を損ねまいと思って、うっとうしいので、暫く間はこのように出かけるのですよ。
 大人におなりになったら、他の所へは決して行きませんよ。
 人の嫉妬を受けまいなどと思うのも、長生きをして、思いのままに一緒にお暮らし申したいと思うからですよ」
105  など、こまごまと語らひきこえたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくもいらへきこえたまはず。
 やがて御膝に寄りかかりて、寝入りたまひぬれば、いと心苦しうて、
 などと、こまごまとご機嫌をお取り申されると、そうは言うものの恥じらって、何ともお返事申し上げなさらない。
 そのままお膝に寄りかかって、眠っておしまいになったので、とてもいじらしく思って、
106  〔源氏〕「今宵は出でずなりぬ」  〔源氏〕「今夜は出かけないことになった」
107  とのたまへば、皆立ちて、御膳などこなたに参らせたり。
 姫君起こしたてまつりたまひて、
 とおっしゃると、皆立ち上がって、御膳などをこちらに運ばせる。
 姫君を起こして上げなさって、
108  〔源氏〕「出でずなりぬ」  〔源氏〕「出かけないことになった」
109  と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。
 もろともにものなど参る。
 いとはかなげにすさびて、
 とお話し申し上げなさると、機嫌を直してお起きになった。
 ご一緒にお食事を召し上がる。
 ほんのちょっとお箸を付けなさって、
110  〔紫君〕「さらば、寝たまひねかし」  〔紫君〕「では、お寝みなさいませ」
111  と、危ふげに思ひたまへれば(校訂17)、かかるを見捨てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ。
 
 と不安げに思っていらっしゃるので、このような人を放っては、どんな道であっても出かけることはできない、と思われなさる。
 
112  かやうに、とどめられたまふ折々なども多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿に聞こえければ、  このように、引き止められなさる時々も多くあるのを、自然と漏れ聞く人が、大殿にも申し上げたので、
113  〔女房〕「誰れならむ。
 いとめざましきことにもあるかな」
 〔女房〕「誰なのでしょう。
 とても失礼なことではありませんか」
114  〔女房〕「今までその人とも聞こえず、さやうにまつはしたはぶれなどすらむは、あてやかに心にくき人にはあらじ」  〔女房〕「今まで誰それとも知れず、そのようにくっついたまま遊んだりするような人は、上品な教養のある人ではありますまい」
115  〔女房〕「内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、ものめかしたまひて、人やとがめむと隠したまふななり。
 心なげにいはけて聞こゆるは」
 〔女房〕「宮中辺りで、ちょっと見初めたような女を、ご大層にお扱いになって、人目に立つかと隠していられるのでしょう。
 分別のない幼稚な人だと聞きますから」
116  など、さぶらふ人びとも聞こえあへり。
 
 などと、お仕えする女房たちも噂し合っていた。
 
117  内裏にも、かかる人ありと聞こし召して、  お上におかれても、「このような女の人がいる」と、お耳に入れあそばして、
118  〔帝〕「いとほしく、大臣の思ひ嘆かるなる」など、のたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御いらへも聞こえたまはねば、「心ゆかぬなめり」と、いとほしく思し召す。
 
 〔帝〕「気の毒に、大臣がお嘆きだというが、……」 と、仰せられるが、恐縮した様子で、お返事も申し上げられないので、「お気に入らないようだ」と、かわいそうにお思いあそばす。
 
119  〔帝〕「さるは、好き好きしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、またこなたかなたの人びとなど、なべてならずなども見え聞こえざめるを、いかなるもののくまに隠れありきて、かく人にも怨みらるらむ」とのたまはす。
 
 〔帝〕「その一方では、好色がましく振る舞って、ここに見える女房であれ、またここかしこの女たちなどと、浅からぬ仲に見えたり噂も聞かないようだが、どのような人目につかない所にあちこち隠れ歩いて、このように人に怨まれることをしているのだろう」と仰せられる。
 
 
 

第四章 源典侍の物語 老女との好色事件

 
 

第一段 源典侍の風評

 
120  帝の御年、ねびさせたまひぬれど、かうやうの方、え過ぐさせたまはず、采女、女蔵人などをも、容貌、心あるをば、ことにもてはやし思し召したれば、よしある宮仕へ人多かるころなり。
 
 帝のお年は、かなりお召しあそばされたが、このような方面は、無関心ではいらっしゃれず、采女や、女蔵人などでも、容貌や気立ての良い者を、格別にもてなし、お目をかけあそばされていたので、教養のある宮仕え人の多いこの頃である。
 
121  はかなきことをも言ひ触れたまふには、もて離るることもありがたきに、目馴るるにやあらむ、「げにぞ、あやしう好いたまはざめる」と、試みに戯れ事を聞こえかかりなどする折あれど、情けなからぬほどにうちいらへて(校訂18)、まことには乱れたまはぬを、「まめやかにさうざうし」と思ひきこゆる人もあり。
 
 ちょっとしたことでも、お話しかけになれば、知らない顔をする者はめったにいないので、見慣れてしまったのであろうか、「なるほど、不思議にも好色な振る舞いのないようだ」と、試しに冗談を申し上げたりなどする折もあるが、恥をかかせない程度に軽くあしらって、本気になってお取り乱しにならないのを、「真面目ぶってつまらない」と、お思い申し上げる女房もいる。
 
122  年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく、心ばせあり、あてに、おぼえ高くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたには重からぬあるを、「かう、さだ過ぐるまで、などさしも乱るらむ」と、いぶかしくおぼえたまひければ、戯れ事言ひ触れて試みたまふに、似げなくも思はざりける。
 あさまし、と思しながら、さすがにかかるもをかしうて、ものなどのたまひてけれど、人の漏り聞かむも、古めかしきほどなれば、つれなくもてなしたまへるを、女は、いとつらしと思へり。
 
 年をたいそう取っている典侍で、人柄も重々しく、才気があり、高貴で、人から尊敬されてはいるものの、たいそう好色な性格で、その方面では腰の軽いのを、「こう、年を取ってまで、どうしてそんなにふしだらなのか」と、興味深くお思いになったので、冗談を言いかけてお試しになると、不釣り合いなとも思わないのであった。
 あきれた、とはお思いになりながら、やはりこのような女も興味があるので、お話しかけなどなさったが、人が漏れ聞いても、年とった年齢なので、そっけなく振る舞っていらっしゃるのを、女は、とてもつらいと思っていた。
 
 
 

第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす

 
123  主上の御梳櫛にさぶらひけるを、果てにければ、主上は御袿の人召して出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、この内侍、常よりもきよげに、様体、頭つきなまめきて、装束、ありさま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、「さも古りがたうも」と、心づきなく見たまふものから、「いかが思ふらむ」と、さすがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、かはぼりのえならず画きたるを、さし隠して見返りたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、いみじうはつれそそけたり。
 
 お上の御髪梳りに伺候したが、終わったので、お上は御袿係の者をお召しになってお出になりあそばした後に、他に人もなくて、この典侍がいつもよりこざっぱりとして、姿形、髪の具合が艶っぽくて、衣装や、着こなしも、とても派手に洒落て見えるのを、「何とも若づくりな」と、苦々しく御覧になる一方で、「どんな気でいるのか」と、やはり見過ごしがたくて、裳の裾を引っ張って注意をお引きになると、夏扇に派手な絵の描いてあるのを、顔を隠して振り返ったまなざし、ひどく流し目を使っているが、目の皮がげっそり黒く落ち込んで、ひどく髪がぼさぼさになっている。
 
124  〔源氏〕「似つかはしからぬ扇のさまかな」と見たまひて、わが持たまへるに(校訂19)、さしかへて見たまへば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森の画を(校訂20)塗り隠し(校訂21)たり。
 片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、〔源典侍〕「森の下草老いぬれば(自筆本奥入06)」など書きすさびたるを、「ことしもあれ、うたての心ばへや」と笑まれながら、
 〔源氏〕「年に似合わない派手な扇だな」と御覧になって、ご自分のお持ちのと取り替えて御覧になると、赤い紙で顔に照り返すような色合いで、木高い森の絵を金泥で塗りつぶしてある。
 その端の方に、筆跡はとても古めかしいが、風情がなくもなく、「森の下草が老いてしまったので」などと書き流してあるのを、「他に書くこともあろうに、嫌らしい趣向だ」と微笑まれて、
125  〔源氏〕「森こそ夏の(自筆本奥入07)、と見ゆめる」  〔源氏〕「『森こそ夏の』、といったようですね」
126  とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけむと苦しきを、女はさも思ひたらず、  と言って、いろいろとおっしゃるのも、不釣り合いで、人が見つけるかと気になるが、女はそうは思っていない。
 
 

90
 〔源典侍〕
 「君し来ば 手なれの駒に 刈り飼はむ
 盛り過ぎたる 下葉なりとも」
 〔源典侍〕
「あなたがいらしたならば良く手馴れた馬に秣を刈ってやりましょう、
盛りを過ぎた下草であっても」
 
127  と言ふさま、こよなく色めきたり。
 
 と詠み出す様子、この上なく色気たっぷりである。
 
 

91
 〔源氏〕
 「笹分けば 人やとがめむ いつとなく
 駒なつくめる 森の木隠れ
 〔源氏〕「笹を分けて入って逢いに行ったら人が注意しましょう、いつでもたくさんの馬を手懐けている森の木陰では
 
128  わづらはしさに」  厄介なことだからね」
129  とて、立ちたまふを、ひかへて、  と言って、お立ちになるのを、袖を取って、
130  〔源典侍〕「まだかかるものをこそ思ひはべらね。
 今さらなる、身の恥になむ」
 〔源典侍〕「まだこんなつらい思いをしたことはございません。
 今になって、身の恥に」
131  とて泣くさま、いといみじ。
 
 と言って泣き出す様子、とても大げさである。
 
132  〔源氏〕「いま、聞こえむ。
 思ひながらぞや」
 〔源氏〕「そのうち、お便りを差し上げましょう。
 心にかけていますよ」
133  とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、〔源典侍〕「橋柱(自筆本奥入08)」と怨みかくるを、主上は御袿果てて、御障子より覗かせたまひけり。
 「似つかはしからぬあはひかな」と、いとをかしう思されて、
 と言って、振り切ってお出になるのを、懸命に取りすがって、「橋柱です」と恨み言を言うのを、お上はお召し替えが済んで、御障子の隙間から御覧あそばしたのであった。
 「似つかわしくない仲だな」と、とてもおかしく思し召されて、
134  〔帝〕「好き心なしと、常にもて悩むめるを、さはいへど、過ぐさざりけるは」  〔帝〕「好色心がないなどと、いつも困っているようだが、そうは言うものの、見過ごさなかったのだな」
135  とて、笑はせたまへば、内侍は、なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡れ衣(自筆本奥入09)をだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせず。
 
 と言って、お笑いあそばすので、典侍はばつが悪い気がするが、恋しい人のためなら、濡衣をさえ着たがる類もいるそうだからか、大して弁解も申し上げない。
 
136  人びとも、「思ひのほかなることかな」と、扱ふめるを、頭中将、聞きつけて、「至らぬ隈なき心にて、まだ思ひ寄らざりけるよ」と思ふに、尽きせぬ好み心も見まほしうなりにければ、語らひつきにけり。
 
 女房たちも、「意外なことだわ」と、取り沙汰するらしいのを、頭中将が、聞きつけて、「知らないことのないこのわたしが、まだ気がつかなかったことよ」と思うと、いくつになっても止まない好色心を見たく思って、言い寄ったのであった。
 
137  この君も、人よりはいとことなるを、「かのつれなき人の御慰めに」と思ひつれど、見まほしきは、限りありける(自筆本奥入10)をとや。
 うたての好みや。
 
 この君も、人よりは素晴らしいので、「あのつれない方の気晴らしに」と思ったが、本当に逢いたい人は、お一人であったとか。
 大変な選り好みだことよ。
 
 
 

第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される

 
138  いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。
 見つけきこえては、まづ怨みきこゆるを、齢のほどいとほしければ、慰めむと思せど、かなはぬもの憂さに、いと久しくなりにけるを、夕立して、名残涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみありきたまへば、この内侍、琵琶をいとをかしう弾きゐたり。
 御前などにても、男方の御遊びに交じりなどして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼえける折から、いとあはれに聞こゆ。
 
 たいそう秘密にしているので、源氏の君はご存知ない。
 お見かけ申しては、まず恨み言を申すので、お年の程もかわいそうなので、慰めてやろうとお思いになるが、その気になれない億劫さで、たいそう日数が経ってしまったが、夕立があって、その後の涼しい夕闇に紛れて、温明殿の辺りを歩き回っていられると、この典侍、琵琶をとても美しく弾いていた。
 御前などでも、殿方の管弦のお遊びに加わりなどして、殊にこの人に勝る人もない名人なので、恨み言を言いたい気分でいたところから、とてもしみじみと聞こえて来る。
 
139  〔源典侍〕「瓜作りになりやしなまし(奥入01・自筆本奥入11)」  〔源典侍〕「瓜作り人にでもなってしまいましょうかしら」
140  と、声はいとをかしうて歌ふぞ、すこし心づきなき。
 「鄂州にありけむ昔の人も(奥入02・自筆本奥入17)、かくやをかしかりけむ」と、耳とまりて聞きたまふ。
 弾きやみて、いといたう思ひ乱れたるけはひなり。
 君、「東屋(奥入03・自筆本奥入12)」を忍びやかに歌ひて寄りたまへるに、
 と、声はとても美しく歌うのが、ちょっと気に食わない。
 「鄂州にいたという昔の人も、このように興趣を引いたのだろうか」と、耳を止めてお聞きになる。
 弾き止んで、とても深く思い悩んでいる様子である。
 君が、「東屋」を小声で歌ってお近づきになると、
141  〔源典侍〕「押し開いて来ませ」  〔源典侍〕「押し開いていらっしゃいませ」
142  と、うち添へたるも、例に違ひたる心地ぞする。
 
 と、後を続けて歌うのも、普通の女とは違った気がする。
 
 

92
 〔源典侍〕
 「立ち濡るる 人しもあらじ 東屋に
 うたてもかかる 雨そそきかな」
 〔源典侍〕「誰も訪れて来て濡れる人もいない東屋に、
嫌な雨垂れが落ちて来ます」
 
143  と、うち嘆くを、我ひとりしも聞き負ふまじけれど、「うとましや、何ごとをかくまでは」と、おぼゆ。
 
 と嘆くのを、自分一人が怨み言を負う筋ではないが、「嫌になるな。
 何をどうしてこんなに嘆くのだろう」と、思われなさる。
 
 

93
 〔源氏〕
 「人妻は あなわづらはし 東屋の
 真屋のあまりも 馴れじとぞ思ふ」
 〔源氏〕
「人妻はもう面倒です、あまり親しくなるまいと思います」
 
144  とて、うち過ぎなまほしけれど、「あまりはしたなくや」と思ひ返して、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。
 
 と言って、通り過ぎたいが、「あまりに無愛想では」と思い直して、相手によるので、少し軽薄な冗談などを言い交わして、これも珍しい経験だとお思いになる。
 
145  頭中将は、この君のいたうまめだち過ぐして、常にもどきたまふがねたきを、つれなくてうちうち忍びたまふかたがた多かめるを、「いかで見あらはさむ」とのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。
 「かかる折に、すこし脅しきこえて、御心まどはして、懲りぬやと言はむ」と思ひて、たゆめきこゆ。
 
 頭中将は、この源氏の君がたいそう真面目ぶっていて、いつも非難なさるのが癪なので、何食わぬ顔でこっそりお通いの所があちこちに多くあるらしいのを、「何とか発見してやろう」とばかり思い続けていたところ、この現場を見つけた気分、まこと嬉しい。
 「このような機会に、少し脅かし申して、お心をびっくりさせて、これに懲りたか、と言ってやろう」と思って、油断をおさせ申す。
 
146  風ひややかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまどろむにやと見ゆるけしきなれば、やをら入り来るに、君は、とけてしも寝たまはぬ心なれば、ふと聞きつけて、この中将とは思ひ寄らず、「なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめ」と思すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、見つけられむことは、恥づかしければ、  風が冷たく吹いて来て、次第に夜も更けゆくころに、少し寝込んだろうかと思われる様子なので、静かに入って来ると、君は、安心してお眠りになれない気分なので、ふと聞きつけて、この頭中将とは思いも寄らず、「いまだ未練のあるという修理大夫であろう」とお思いになると、年配の人に、このような似つかわしくない振る舞いをして、見つけられるのは何とも照れくさいので、
147  〔源氏〕「あな、わづらはし。
 出でなむよ。
 蜘蛛(校訂22)のふるまひは、しるかりつらむ(自筆本奥入13)ものを。
 心憂く、すかしたまひけるよ」
 〔源氏〕「ああ、厄介な。
 帰りますよ。
 『あの人が後から来る』ということは、分かっていましたから。
 ひどいな、おだましになるとは」
148  とて、直衣ばかりを取りて、屏風のうしろに入りたまひぬ。
 中将、をかしきを念じて、引きたてまつる屏風のもとに寄りて、ごほごほとたたみ寄せて、おどろおどろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、先々もかやうにて、心動かす折々ありければ、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、「この君をいかにしきこえぬるか」とわびしさに、ふるふふるふ、つとひかへたり。
 「誰れと知られで出でなばや」と思せど、しどけなき姿にて、冠などうちゆがめて走らむうしろで思ふに、「いとをこなるべし」と、思しやすらふ。
 
 と言って、直衣だけを取って、屏風の後ろにお入りになった。
 頭中将は、おかしさを堪えて、お引き廻らしになってある屏風のもとに近寄って、ばたばたと畳み寄せて、大げさに振る舞ってあわてさせると、典侍は、年取っているが、ひどく上品ぶった艶っぽい女で、以前にもこのようなことがあって、肝を冷やしたことが度々あったので、馴れていて、ひどく気は動転していながらも、「この君をどうなされてしまうのか」と心配で、震えながらしっかりと取りすがっている。
 「誰とも分からないように逃げ出そう」とお思いになるが、だらしない恰好で、冠などをひん曲げて逃げて行くような後ろ姿を思うと、「まことに醜態であろう」と、おためらいなさる。
 
149  中将、「いかで我と知られきこえじ」と思ひて、ものも言はず、ただいみじう怒れるけしきにもてなして、太刀を引き抜けば、女、  頭中将は、「何とかして自分だとは知られ申すまい」と思って、何とも言わない。
 ただひどく怒った形相を作って、太刀を引き抜くと、女は、
 
   〔源典侍〕「あが君、あが君」  〔源典侍〕「あなた様、あなた様」
 
150  と、向ひて手をするに、ほとほと笑ひぬべし。
 好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそ、さりもありけれ、五十七、八の人の、うちとけてもの言ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御なかにてもの怖ぢしたる、いとつきなし。
 かうあらぬさまにもてひがめて、恐ろしげなるけしきを見すれど、なかなかしるく見つけたまひて、「我と知りて、ことさらにするなりけり」と、をこになりぬ。
 「その人なめり」と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜きたるかひなをとらへて、いといたうつみたまへれば、ねたきものから、え堪へで笑ひぬ。
 
 と、向かって手を擦り合わせて拝むので、あやうく笑い出してしまいそうになる。
 好ましく若づくりして振る舞っている表面だけは、まあ見られたものであるが、五十七、八歳の女が、着物をきちんと付けず何か言ってあわてている様子、実に素晴らしい二十代の若者たちの間にはさまれて怖がっているのは、何ともみっともない。
 このように別人のように装って、恐ろしい様子を見せるが、かえってはっきりとお見破りになって、「わたしだと知ってわざとやっているのだな」と、馬鹿らしくなった。
 「あの男のようだ」とお分かりになると、とてもおかしかったので、太刀を抜いている腕をつかまえて、とてもきつくおつねりになったので、悔しいと思いながらも、堪え切れずに笑ってしまった。
 
151  〔源氏〕「まことは、うつし心(校訂23)かとよ。
 戯れにくしや。
 いで、この直衣着む」
 〔源氏〕「ほんと、正気の沙汰かね。
 冗談事も出来ないね。
 さあ、この直衣を着よう」
152  とのたまへど、つととらへて、さらに許しきこえず。
 
 とおっしゃるが、しっかりとつかんで、全然お放し申さない。
 
153  〔源氏〕「さらば、もろともにこそ」  〔源氏〕「それでは、一緒に」
154  とて、中将の帯をひき解きて、脱がせたまへば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、ほころびはほろほろと絶えぬ。
 中将、
 と言って、中将の帯を解いてお脱がせになると、脱ぐまいと抵抗するのを、何かと引っ張り合ううちに、開いている所からびりびりと破れてしまった。
 中将は、
 

94
 〔頭中将〕
 「つつむめる 名や漏り出でむ 引きかはし
 かくほころぶる 中の衣に
 〔頭中将〕
「隠している浮名も洩れ出てしまいましょう、引っ張り合って破れてしまった二人の仲の衣から
 
155  上に取り着ば、しるからむ(自筆本奥入14)」  上に着たら、明白でしょうよ」
156  と言ふ。
 君、
 と言う。
 君は、
 

95
 〔源氏〕
 「隠れなき ものと知る知る 夏衣
 着たるを薄き 心とぞ見る」
 〔源氏〕「この女との仲まで知られてしまうのを承知の上でやって来て夏衣を着るとは、何と薄情で浅薄なお気持ちかと思いますよ」
 
157  と言ひ交はして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出でたまひぬ。
 
 と詠み返して、恨みっこなしのだらしない恰好に引き破られて、揃ってお出になった。
 
 
 

第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう

 
158  君は、「いと口惜しく見つけられぬること」と思ひ、臥したまへり。
 内侍は、あさましくおぼえければ、落ちとまれる御指貫、帯など、つとめてたてまつれり。
 
 源氏の君は、「実に残念にも見つけられてしまったことよ」と思って、臥せっていらっしゃった。
 典侍は、情けないことと思ったが、落としていった御指貫や、帯などを、翌朝お届け申した。
 
 

96
 〔源典侍〕
 「恨みても いふかひぞなき たちかさね
 引きてかへりし 波のなごりに
 〔源典侍〕「恨んでも何の甲斐もありません、次々とやって来ては帰っていったお二人の波の後は
 
159  底もあらはに(自筆本奥入16)」  『涙川の底もあらわになりました』でございます」
160  とあり。
 「面無のさまや」と見たまふも憎けれど、わりなしと思へりしもさすがにて、
 とある。
 「臆面もないありさまだ」と御覧になるのも憎らしいが、困りきっていた様子もやはりかわいそうなので、

97
 〔源氏〕
 「荒らだちし 波に心は 騒がねど
 寄せけむ磯を いかが恨みぬ」
 〔源氏〕「荒々しく暴れた波――頭中将には驚かないが、それを寄せつけた磯――あなたをどうして恨まずにはいられようか」
161  とのみなむありける。
 帯は、中将のなりけり。
 わが御直衣よりは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。
 
 とだけあった。
 帯は、中将のものであった。
 ご自分の直衣よりは色が濃い、と御覧になると、端袖がないのであった。
 
162  〔源氏〕「あやしのことどもや。
 おり立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多からむ」と、いとど(校訂24)御心をさめられたまふ。
 
 〔源氏〕「見苦しいことだ。
 夢中になって浮気に耽る人は、このとおり馬鹿馬鹿しい目を見ることも多いのだろう」と、ますます自重せずにはいらっしゃれない。
 
163  中将、宿直所より、「これ、まづ綴ぢつけさせたまへ」とて、おし包みておこせたるを、「いかで取りつらむ」と、心やまし。
 「この帯を得ざらましかば」と思す。
 その色の紙に包みて、
 中将が、宿直所から、「これを、まずはお縫い付けあそばせ」といって、包んで寄こしたのを、「どうやって、持って行ったのか」と憎らしく思う。
 「この帯を獲らなかったら、大変だった」とお思いになる。
 同じ色の紙に包んで、
 

98
 〔源氏〕
 「なか絶えば かことや負ふと 危ふさに
 はなだの帯を 取りてだに見ず」
 〔源氏〕「あなた方の仲が切れたらわたしのせいだと非難されようかと思ったが、この縹の帯などわたしには関係ありません」
 
164  とて、やりたまふ。
 立ち返り、
 といって、お遣りになる。
 折り返し、
 

99
 〔頭中将〕
 「君にかく 引き取られぬる 帯なれば
 かくて絶えぬる なかとかこたむ
 〔頭中将〕「あなたにこのように取られてしまった帯ですから、こんな具合に仲も切れてしまったものとしましょうよ
 
165  え逃れさせたまはじ」  お逃れあそばすことはできませんよ」
166  とあり。
 
 とある。
 
167  日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。
 いと静かに、もの遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公事多く奏しくだす日にて、いとうるはしくすくよかなるを見るも、かたみにほほ笑まる(校訂25)。
 人まにさし寄りて、
 日が高くなってから、それぞれ殿上の間に参内なさった。
 とても落ち着き払って、素知らぬ顔をしていらっしゃると、頭の君もとてもおかしかったが、公事を多く奏上し宣下する日なので、実に端麗に真面目くさっているのを見るのも、お互いについほほ笑んでしまう。
 人のいない隙に近寄って、
168  〔頭中将〕「もの隠しは懲りぬらむかし」  〔頭中将〕「秘密事は懲りたでしょう」
169  とて、いとねたげなるしり目なり。
 
 と言って、とても憎らしそうな横目づかいである。
 
170  〔源氏〕「などてか、さしもあらむ。
 立ちながら帰りけむ人こそ、いとほしけれ。
 まことは、憂しや、世の中よ」
 〔源氏〕「どうして、そんなことがありましょう。
 そのまま帰ってしまったあなたこそ、お気の毒だ。
 本当の話、『嫌なものだよ、男女の仲とは』ですよ」
171  と言ひあはせて、「鳥籠の山なる(自筆本奥入15)」と、かたみに口がたむ。
 
 と言い交わして、「鳥籠の山にある川の名は漏らすな」と、互いに口固めしあう。
 
172  さて(校訂26)、そののち、ともすればことのついでごとに、言ひ迎ふるくさはひなるを、いとどものむつかしき人ゆゑと、思し知るべし。
 女は、なほいと艶に怨みかくるを、わびしと思ひありきたまふ。
 
 さて、それから後、ともすれば何かの折毎に、話に持ち出す種とするので、ますますあの厄介な女のためにと、お思い知りになったであろう。
 女は、相変わらずまこと色気たっぷりに恨み言をいって寄こすが、興醒めだと逃げ回りなさる。
 
173  中将は、妹の君にも聞こえ出でず、ただ、「さるべき折の脅しぐさにせむ」とぞ思ひける。
 やむごとなき御腹々の親王たちだに、主上の御もてなしのこよなきにわづらはしがりて、いとことにさりきこえたまへるを、この中将は、「さらにおし消たれきこえじ」と、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。
 
 中将は、妹の君にも申し上げず、ただ、「何かの時の脅迫の材料にしよう」と思っていた。
 高貴な身分の妃からお生まれになった親王たちでさえ、お上の御待遇がこの上ないのを憚って、とても御遠慮申し上げていらっしゃるのに、この中将は、「絶対に圧倒され申すまい」と、ちょっとした事柄につけても対抗心を燃やし上げなさる。
 
174  この君一人ぞ、姫君の御一つ腹なりける。
 帝の御子といふばかりこそあれ、我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹にて、またなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際と、おぼえたまはぬなるべし。
 人がらも、あるべき限りととのひて、何ごともあらまほしく、たらひてぞものしたまひける。
 この御仲どもの挑みこそ、あやしかりしか。
 されど(校訂27)、うるさくてなむ。
 
 この君一人が、姫君と同腹なのであった。
 帝のお子というだけだ、自分だって、同じ大臣と申すが、ご信望の格別な方が、内親王腹にもうけた子息として大事に育てられているのは、どれほども劣る身分とは、お思いにならないのであろう。
 人となりも、すべて整っており、どの面でも理想的で、満ち足りていらっしゃるのであった。
 このお二方の競争は、変わっているところがあった。
 けれども、煩わしいので省略する。
 
 
 

第五章 藤壺の物語(三) 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる

 
 

第一段 七月に藤壺女御、中宮に立つ

 
175  七月にぞ后ゐたまふめりし。
 源氏の君、宰相になりたまひぬ。
 帝、下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、と思ひきこえさせたまふに、御後見したまふべき人おはせず。
 御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事しりたまふ筋ならねば、母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて、強りにと思すになむありける。
 
 七月に、后がお立ちになるようであった。
 源氏の君は、宰相におなりになった。
 帝は、御譲位あそばすご配慮が近くなってきて、この若宮を春宮に、とお考えあそばされるが、御後見なさるべき方がいらっしゃらない。
 御母方が、みな親王方で、皇族が政治を執るべき筋合ではないので、せめて母宮だけでも不動の地位におつけ申して、そのお力にとお考えあそばすのであった。
 
176  弘徽殿、いとど御心動きたまふ、ことわりなり。
 されど、
 弘徽殿女御が、ますますお心穏やかでないのは、道理である。
 けれども、
177  〔帝〕「春宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。
 思ほしのどめよ」
 〔帝〕「春宮の御世が、もう直ぐになったのだから、ゆるぎない皇太后の御地位である。
 ご安心されよ」
178  とぞ聞こえさせたまひける。
 「げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがたきことなりかし」と、例の、やすからず世人も聞こえけり。
 
 とお慰め申し上げあそばすのであった。
 「なるほど、春宮の御母として二十余年におなりの女御を差し置き申して、先をお越し申されることは難しいことだ」と、例によって、穏やかならず世間の人も噂するのであった。
 
179  参りたまふ夜の御供に(校訂28)、宰相君も仕うまつりたまふ。
 同じ宮と聞こゆるなかにも、后腹の皇女、玉光りかかやきて、たぐひなき御おぼえにさへものしたまへば、人もいとことに思ひかしづききこえたり。
 まして、わりなき御心には、御輿のうちも思ひやられて、いとど及びなき心地したまふに、すずろはしきまでなむ。
 
 参内なさる夜のお供に、源氏の宰相君もお仕え申し上げなさる。
 同じ宮と申し上げる中でも、后腹の内親王で、玉のように美しく光り輝いて、類ない御寵愛をさえ蒙っていらっしゃるので、世間の人々もとても特別に御奉仕申し上げた。
 言うまでもなく、切ないお心の中では、御輿の中も思いやられて、ますます手も届かない気持ちがなさると、じっとしてはいられないまでに思われた。
 

100
 〔源氏〕
 「尽きもせぬ 心の闇に 暮るるかな
 雲居に人を 見るにつけても」
 〔源氏〕
「尽きない恋の思いに何も見えない、はるかに高い地位につかれる方を仰ぎ見るにつけても」
180  とのみ、独りごたれつつ、ものいとあはれなり。
 
 とだけ、独り言が口をついて出て、何につけ切なく思われる。
 
181  皇子は、およすけたまふ月日に従ひて、いと見たてまつり分きがたげなるを、宮、いと苦し、と思せど、思ひ寄る人なきなめりかし。
 げに、いかさまに作り変へてかは、劣らぬ御ありさまは、世に出でものしたまはまし。
 月日の光の空に通ひたるやうに、ぞ世人も思へる。
 
 皇子は、ご成長なさっていく月日につれて、とてもお見分け申しがたいほど似ていらっしゃるのを、宮は、まことに辛い、とお思いになるが、気付く人はいないらしい。
 なるほど、どのように作り変えたならば、負けないくらいの方がこの世にお生まれになろうか。
 月と日が似通って光り輝いているように、世人も思っていた。
 
 
 

【定家注釈】

 
   定家本の注釈は帖末の奥入(歌謡や漢詩句、故事等)と本文中の付箋(和歌・漢詩句)とから成るものであるが、本巻には付箋が無いので、自筆本奥入の注記(和歌)を掲載した。  
 
  奥入01 山城の 狛のわたりの 瓜作り な なよや らいしなや さいしなや 瓜作り 瓜作り はれ 瓜作り 我を欲しといふ いかにせむ な なよや らいしなや さいしなや いかにせむ いかにせむ はれ いかにせむ なりやしなまし 瓜たつまでに や らいしなや さいしなや 瓜たつま 瓜たつまでに(催馬楽‐山城・自筆本奥入11)  
  奥入02 文集巻第十
  夜聞歌者 宿鄂州
  夜泊鸚鵡州 江秋月澄徹 隣船有歌者
  発調堪愁絶 歌罷継以泣 々聲通復咽
  尋聲見其人 有婦顔如雪 獨倚帆墻立
  娉婷十七八 夜涙似真珠 雙々堕明月
  借間誰家婦 歌泣何凄切 一間一霑中
  低眉竟不説(白氏文集「夜聞歌者」・自筆本奥入17)
 
  奥入03 東屋の 真屋のあまりの その 雨そそぎ 我立ち濡れぬ 殿戸開かせ 鎹も錠もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ おし開いて来ませ 我や人妻(催馬楽-東屋・自筆本奥入12)  
  奥入04 青海波 多久行説 小野篁作
     桂殿迎初歳
     桐楼媚早年
     剪花梅樹下
     蝶鴛画梁辺
      此楽嵯峨天皇御時改平調為盤渉調(自筆本奥入01)
 
  奥入05 保曽呂俱世利 楽名狛笛右楽也(自筆本奥入05)  
  自筆本奥入02 わが宿に蒔きし撫子いつしかも花に咲かなむよそへても見む(古今六帖3618・源氏釈)  
  自筆本奥入03 潮満てば入りぬる磯の草なれや見らくすくなく恋ふらくのおほき(拾遺集967・源氏釈)  
  自筆本奥入04 伊勢の海人の朝な夕なにかづくてふ海松布に人を飽くよしもがな(古今集683・源氏釈)  
  自筆本奥入06 大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし(古今集892・源氏釈)  
  自筆本奥入07 ひまもなく茂りにけりな大荒木の森こそ夏の陰は知りけり(出典未詳・源氏釈)  
  自筆本奥入08 思ふこと昔ながらの橋柱ふりぬる身こそかなしかりけれ(一条摂政集11・源氏釈)  
  自筆本奥入09 憎からぬ人の着せけむ濡れ衣は思ひにあへず今乾きなむ(後撰集956・源氏釈)  
  自筆本奥入10 恋しさの限りだにある世なりせばつらきをしひて嘆かざらまし(古今六帖2571)  
  自筆本奥入13 わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも(古今集墨滅歌1110・源氏釈)  
  自筆本奥入14 紅のこ染めの衣下に着て上にとり着ばしるからむかも(古今六帖3261・源氏釈)  
  自筆本奥入15 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答えよわが名漏らすな(古今集墨滅歌1108・源氏釈)  
  自筆本奥入16 別れての後ぞかなしき涙河底もあらはになりぬと思へば(新勅撰937)  
 
 

【校訂付記】

 
   本文の校訂には、本行本文を尊重し、その改訂には本文中の訂正跡を参照した。  
 
  校訂01 神無月の--神な1月(+の<朱>)(「の」を補入)  
  校訂02 深山おろし--(+み)山をろし(「み」を補入)  
  校訂03 たまふなり--給へ(へ$ふ)な1り(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂04 飽かぬと--あ可ぬ尓(尓$と<朱>)(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂05 ままに--(+まゝ尓)(「ままに」を補入)  
  校訂06 いたく屈し--い多く(=い多うイ、+く)し(「く」を補入)  
  校訂07 さるべきこと--さるへ(+き)事(「き」を補入)  
  校訂08 仰せ言--おほ春(春$せ)事(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂09 ありしよりは--ありしより(+ハ)(「は」を補入)  
  校訂10 言忌--(+古と<朱>)いミ(「こと」を補入)  
  校訂11 なく思し定めたることにこそは」と、心--(+な1くお1ほしさ多めたる事にこ2そハと古ゝろ<朱>)(朱筆補入に従う)  
  校訂12 ましかば--まし(+△、△#)ハ(文意により「か」を補う)  
  校訂13 詳しく--(+くハしく)(「詳しく」を補入)  
  校訂14 さりぬべき--さ可(可$里<朱>)ぬへき(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂15 あれど--△(△#あ)れと(墨滅訂正に従う)  
  校訂16 むつかしければ--むつ1ハ(ハ=かイ)し个れ者(傍記に従う)  
  校訂17 思ひたまへれば--思給つ連者(「つ」は「へ」の誤写であろう)  
  校訂18 いらへて--ハ(ハ$い<朱>)らへて(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂19 持たまへるに--も多せ(せ#<朱>)まへる尓(削除に従う)  
  校訂20 画を--可多え2(え2$を<朱>)(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂21 隠し--かへ(へ$く<朱>)し(ミセケチ訂正に従う)  
  校訂22 蜘蛛--(+く)も1(「く」を補入)  
  校訂23 うつし心--う津く(く$<朱>)し心(削除に従う)  
  校訂24 いとど--い1と(+と)(「と」を補入)  
  校訂25 ほほ笑まる--お本(お本$本ゝイ<朱>、イ$<墨>)盈ま類(異本訂正に従う)  
  校訂26 さて--(+さ<朱>)て2(「さ」を補入)  
  校訂27 されど--され(+と<朱>)(「と」を補入)  
  校訂28 御供に--御とん(ん$も<朱>)尓(ミセケチ訂正に従う)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。