古事記 三重の由来~原文対訳

尾津前の一松の歌 古事記
中巻⑤
12代 景行天皇
倭建の歌物語
6 三重の由来
思国歌
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)
自其地幸。  其地より幸でまして、  其處からおいでになつて、
到三重村之時。 三重の村に到ります時に、 三重みえの村においでになつた時に、
亦詔之。
吾足如
三重勾而
甚疲
また詔りたまはく、
「吾が足
三重の勾まがりなして、
いたく疲れたり」とのりたまひき。
また
「わたしの足は、
三重に曲つた餅のようになつて
非常に疲れた」と仰せられました。
     
故號其地謂三重。 かれ其地に名づけて三重といふ。 そこでその地を三重といいます。
     
尾津前の一松の歌 古事記
中巻⑤
12代 景行天皇
倭建の歌物語
6 三重の由来
思国歌

吾足如三重勾而甚疲の解釈(三十:年齢)

 
 
 これは、俺の足は、三十も曲がった(三十半ば過ぎた)ので、甚く×痛く疲れたという自虐表現と解する(ヤマトタケル享年39)。
 

 通説は「足が三重に折れ曲がったようになって」と解しているが、そんなことは事実上ありえないし、そういう慣用表現もないので、そういう意味ではない。一見しておかしな内容は、解釈として間違っている。つまり文脈を誤解している。
 

 つまり「如三重勾」は独立した表現で(文脈での意味を通すには吾にかけるしかない)、「甚疲」が吾と足(痛く)に掛かっている。痛いに掛けているから、直前の段で「當藝野上」トゲの上という言葉がある。
 そこでは「因甚疲衝御杖稍歩」(杖を衝いて少しずつ歩く)とあり、この杖は年寄りの象徴で、年を取って満足に歩けなくなったという描写。「吾心恆念自虚翔行然。今吾足不得歩」も、前はあちこち飛び回っていたが(物理的な飛行ではない)今はもうダメという意味。
 

 ただし自然老化ではなく、過負荷や劣悪な生活環境によると見る。享年39ヤマトタケルの親の景行(12代)の寿命が137とあるが、2代から4代までは、特に戦争の描写もなく40代で連続死亡した記述があるから、三十だからもう老人というのも半ば冗談で通る記述であり、そのような環境下での100歳以上の寿命は、超人性を付与するための、それとわかる誇張と見るのが自然。

 

 武田注釈は「三重勾」を「餅米をこねて、ねじまげて作つた餅」とするが、文脈上に根拠がない。またそう言うためには、最低でも「三重勾」にあたる餅が、古事記の時点であったと言えなければならない。それに何より解釈は文面上の根拠をもってするものであり、大きな文脈に即していることが肝心である。みだりに補わない。補う対象がそこだけに新たに出現するものは端的に誤りであり、読者の連想であり、著者の見解とはいえない。