平家物語 巻第七 聖主臨幸 原文

維盛都落 平家物語
巻第七
聖主臨幸
せいしゅりんこう
異:維盛都落・忠度都落
忠度都落

 
 或いは聖主臨幸の地なり。鳳闕むなしく礎を残し、鸞與ただ跡をとどむ。或いは后妃遊宴のみぎりなり。せうばうの嵐声悲しみ、えきていの露色うれふ。さうきやうすゐちやうのもとゐ、よくりんてうしよのたち、くわいきよくのざ、えんらんのすみか、たじつのけいえいをむなしうして、へんしのくわいしんとなり果てぬ。いはんやらうじうのほうひつにおいてをや。いはんやざふにんのをくしやにおいてをや。よえんの及ぶ所、在々所々すじつちやうなり。きやうごたちまちに滅びて、こそたいのつゆけいきよくにうつり、ぼうしんすでに衰へて、かんやうきうのけぶり、へいけいをかくしけんも、かくやとぞおぼえける。日頃はかんこくじかうのさがしきをかたうせしかども、ほくてきのためにこれを破られ、いまはこうかけいゐの深きを頼みしかども、とういのためにこれをとられたり。あにはかりきや、たちまちにれいぎ卿をせめいだされて、泣く泣くむちのさかひに身を寄せんと。昨日は雲の上にて天を下すしんりようたりき。今日はいちぐらのほとりにみづを失ふこぎよのごとし。くわふくみちを同じうし、じやうすゐたなごころをかへす。いま目の前にあり。たれかこれを悲しまざらん。保元の昔は春の花と栄えしかども、寿永の今はまた秋の紅葉と落ち果てぬ。
 

(忠度都落)

 
 去んぬる治承四年七月、大番のために上洛したりける畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、寿永まで、召し籠められてありしが、その時すでに斬らるべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは、「御運だに尽きさせ給ひなば、これら百人千人が首を斬らせ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等、いかに歎き悲しみ候ふらん。もし不思議に運命開けて、また都へ立ち帰らせ給はん時は、有り難き御情けでこそ候はんずれ。ただ理を曲げて本国へかへし遣はさるべう候ふらん」と申されければ、大臣殿、「この儀もっとも然るべし」とて、暇を賜ぶ。
 これ等首を地につけ、涙を流いて申しけるは、「去んぬる治承より今まで、かひなき命を扶けられ参らせて候へば、いづくまでも御供に候ひて、行幸の御行方を見参らせん」と頻りに申しけれども、大臣殿、「汝等は魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべきやうなし。急ぎ下れ」と仰せられたりければ、力なく涙を押さへて下りけり。これらも二十余年の主なれば、別れの涙押さへ難し。
 

維盛都落 平家物語
巻第七
聖主臨幸
せいしゅりんこう
異:維盛都落・忠度都落
忠度都落