平家物語 巻第十一 鏡 原文

一門大路渡
異本末尾:鏡
平家物語
巻第十一

かがみ
文之沙汰

 
 さるほどに、四月二十八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝、従二位し給ふ。
 越階とて二階を越ゆるこそありがたき朝恩なるに、これはすでに三階なり。三位をこそし給ふべかりしが、平家のし給ひたりしをいまうてなり。
 

 その夜子の刻に、内侍所、しるしの御箱、太政官庁より温明殿へいらせおはします。主上行幸なつて、三か夜臨時の御神楽ありけり。右近将監小家能方、別勅を承つて、弓立宮人といふ神楽の秘曲をつかまつて勧賞かうむりけるこそめでたけれ。この歌は、祖父八条判官資忠といひし伶人のほかは知れる者なし。余りに秘して我が子の親方には教へずして、堀河院御在位の時、伝へ参らせて、死去したりしを、君親方に教へさせおはします。家をうしはなじと思し召されける御志感涙おさへがたし。
 

 そもそもこの内侍所と申す御鏡は、昔天照大神、天岩戸に閉ぢ籠らんとせさせ給ひし時、いかにもして我が御かたちをうつしおき、御子孫に見せ奉らんとて、御鏡を鋳給へり。これなほ御心にかなはずとて、また鋳かへさせおはします。先の御鏡は紀伊国日前国懸社これなり。後の御鏡をば御子天忍穂耳尊に授け参らせ給ひて、「殿を同じうして住み給へ」とぞ仰せられける。さて天照大神、天岩戸に閉ぢ籠させ給ひて、天下暗闇となつたりしかば、八百万の神達、神集まりに集まり、岩戸の口にて御神楽を奏し給ひしかば、天照大神、感に堪へさせ給はずして、岩戸を細めに開けて御覧ぜられけるに、互ひに顔の白く見えけるよりして、面白しといふ詞は始まりけるとぞ聞こえし。その時こやね手力雄といふ大力の神によつて、ゑいというて開け給ひて後はたてられずといへり。
 

 第九代の帝開化天皇の御時までは、一つ殿にあがめられたりしを、第十代の帝崇神天皇の帝の御宇六年に及んで、霊威に恐れ参らせ給ひて、天照大神を大和国磯がきのひろきに遷し参らさせ給ひし時、この御鏡をも別殿へ遷し奉つて、このころは温明殿にぞましましける。
 

 遷都、遷幸の後百六十年を経て、村上天皇の御宇、天徳四年九月二十三日の夜、子の刻に大内中重に始めて焼亡ありき。火は左衛門の陣より出でたれば、内侍所のおはします温明殿もほど近し。如法夜半の事なれば、内侍も女官も参り合はず。賢所を出だし奉るにも能はず。小野宮殿急ぎ参らせ給ひて、「内侍所すでに焼けさせ給ひぬ。世ははやかうにこそ」とて、御涙にむせばせ給ふ所に、内侍所は自ら炎の中を飛び出でさせ給ひて、南殿の桜の梢にかからせ給ひて、光明赫奕として朝の日の山の端を出づるに異ならず。
 小野殿、「世は未だ失せざりけり」とたのもしう思し召し、右の膝をつき、左の袖を広げて、泣く泣く申させ給ひけるは、「昔、天照大神、百王をまぼらんと御誓ひありけむ、その御誓ひ未だ改まらずは、神鏡実頼が袖に宿らせ給へ」と申させ給ひける。御詞の未だ終はらざる先に、神鏡飛び移らせおはします。すなはち御袖に包んで、太政官の朝所へ渡し奉り給ふ。この世には請け取り奉らんと思ひ寄る人も誰かあるべき。神鏡もまた宿らせ給ふべからず。上代こそなほもめでたけれ。
 

一門大路渡
異本末尾:鏡
平家物語
巻第十一

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文之沙汰