古事記 登岐士玖能迦玖能木實=橘~原文対訳

相楽と弟国 古事記
中巻④
11代 垂仁天皇
後日談
②時じくのかくの木の実
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

常世の実=霊界の実(態)

     
又天皇。  また天皇、  また天皇、
以三宅連等之祖。 三宅みやけの連むらじ等が祖、 三宅の連等の祖先の
名多遲麻毛理。 名は多遲摩毛理たぢまもりを、 タヂマモリを
遣常世國。 常世とこよの國に遣して、 常世とこよの國に遣して、
令求
登岐士玖能
迦玖能木實。
〈自登下八字以音〉
時じくの
香かくの
木この實みを
求めしめたまひき。
時じくの
香かぐの
木の實を
求めさせなさいました。
     

多遲摩毛理。
かれ
多遲摩毛理
たぢまもり、
依つて
タヂマモリが
遂到其國。 遂にその國に到りて、 遂にその國に到つて
採其木實。 その木の實を採りて、 その木を採つて、

縵八縵。
矛八矛。
縵八縵かげやかげ
矛八矛ほこやほこを、
蔓つるの形になつているもの八本、
矛ほこの形になつているもの八本を
將來之間。 將もち來つる間に、 持つて參りましたところ、
天皇既
崩。
天皇既に
崩かむあがりましき。
天皇はすでに
お隱れになつておりました。
     
爾多遲摩毛理。 ここに多遲摩毛理たぢまもり、 そこでタヂマモリは

縵四縵。
矛四矛。
縵四縵かげよかげ
矛四矛ほこよほこ
を分けて、
蔓つる四本
矛ほこ四本
を分けて
獻于大后。 大后に獻り、 皇后樣に獻り、

縵四縵。
矛四矛。
縵四縵かげよかげ
矛四矛ほこよほこを、
蔓四本
矛四本を
獻置天皇之
御陵戸而。
天皇の御陵の戸に
獻り置きて、
天皇の御陵のほとりに
獻つて、
     
擎其木實。 その木の實を擎ささげて、 それを捧げて
叫哭以白。 叫び哭おらびて白さく、 叫び泣いて、
常世國之。
登岐士玖能
迦玖能木實。
持參上侍。
「常世の國の
時じくの香かくの木この實みを
持ちまゐ上りて侍さもらふ」
とまをして
「常世の國の
時じくの香かぐの木の實を
持つて參上致しました」
と申して、
遂叫哭死也。 遂に哭おらび死にき。 遂に叫び死にました。
     

橘=ミカン=未完=続く。

     
其登岐士玖能
迦玖能木實者。
是今橘者也。
その時じくの
香かくの木の實は
今の橘なり。
その時じくの
香の木の實というのは、
今のタチバナのことです。
相楽と弟国 古事記
中巻④
11代 垂仁天皇
後日談
②時じくの香の木の実

解説

 
 
 武田注釈は、ここの「常世」を海外(大陸)の国とするが、字義でも文脈でも、とこしえ(永遠)の霊界のことでしかない。
 天皇が所望したのは、自分と妻は死んだらどうなるのか(一緒になれるか)知りたかったのである。それで后(文脈上サホ姫だろうか)にも献上している。
 しかしその霊界の知識を持ち帰ると死んでいたというオチ。こういうギャグが古事記の基本スタイル。しかし死んだからといってその知識が手に入るわけではない。あたかも海外の国や宇宙に行ったからといって、その実情がそれで分かるわけではないように。
 

 今も昔も、生きながら霊界のことを見てくる・見れるという人々は、ごく少数いる(幻術士とか)。実地研究(あづさ弓)によるとイタコは基本、定型句を覚えている人々だが、そうではない人々。それらは晴明のような存在で、権力者に近いこともしばしばある。

 死なないとわからないのではなく、意識体(霊体に近い状態になる精神技術・トランス・フォーム)となって見る。そもそも霊的状態は、論理的に純粋意識状態であるから。物理次元に近いと式神(使い魔)や物の怪・魂・亡霊の類になる。

 肉体から離れて意識が存在しないというのは、その人の世界観で、実証的なものではない。天動説と同じ。自分達の近視眼的な目線で見れば天が回っている。しかし高い天の視点から見ると、物理的な地上が極小で回っていることは自明だが、低い自分達の視点でしかものを見れない・認められない人には、それが受け入れられない。

 ただしそれを見たと言うからには、それ最低でも物理的現実で誰より実証性を重んじないと話にならない。それはこの物理世界の理解が人によって異なり、それが当を得ているかにかかわらず、誰でも語れるのと同じことである。だから論理的にいって、この世界で論理的思考の乏しい人が、常世について語っても、自身の局所的体験を絶対視する描写しかできない(過度の一般化)。しかしその描写が普遍的に妥当しないから存在しない、ということには論理的にならない。

 

 本当なら既に証明されているはずというのは、人類に未解明のことは存在しないという思い上がった考え方。それに既に証明はされている(ハーバードの脳外科医が脳死状態で当人の知りえない外部の情況を詳細に認識し、当時存在を知らなかった大人の亡き妹を夢で認識して蘇生した事例)。証明とは、証拠に基づく確実な論証であり、多数決のことではない。彼はその情況の完璧な絶妙さから、完全無欠の証明を人類に示すために下された存在。いわば使徒。

 なぜ霊が実在なら見えないのかという問いは、なぜ地上が動いていると見えないのかと同じで、その人の常識にはないから。見えないと存在しないなら、電波も空気も存在しない。それは認識の問題。客観というのも認識の集合のことである。認識しないとその人の世界では事実ではない。

 そして世界全体の事実や法則は、各人の認識や多数決で左右されない。多数決が機能するのは多数がまともである場合。その結論が毎回おかしいなら、多数がおかしい。だから紙きれを投じて変わることは本質的にない。それで変わると思えるのがその程度の思考。まして体制側から与えられた制度。与えられた選択肢を選ぶだけで解決するなら投票率90%程度の国を見ればいい。形骸的な民主だから正しいというものではない。民主は本質的に依存隷従の解消のための理念。

 

縵八縵・矛八矛

 
 これは謎かけで、八(八百万)につながる知識。八千矛という既出語を暗示する矛八矛、その上にある縵八縵は万八万、千と同様、それに掛かる百を補う。

 訳では縵を「かげ」や「つる」とするが、これは「緩慢」を合わせた「マン」の音で、緩やかの意味の他、無地の絹・合奏・つれびきの意味があるとされる。
 それでここでは、絹と来ぬ、合奏と合葬、つれびきを掛けているだろう。それを意識しないと、突如后を出して半分こにしない。しかも物理的な実を半分にしているのではないあら、実とは内実の知識のことを象徴させて言っているのである。