源氏物語 6帖 末摘花:あらすじ・目次・原文対訳

若紫 源氏物語
第一部
第6帖
末摘花
紅葉賀

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 末摘花(すえつむはな)のあらすじ

 乳母子の大輔の命婦から亡き常陸宮の姫君の噂を聞いた源氏は、「零落した悲劇の姫君」という幻想に憧れと好奇心を抱いて求愛した。親友の頭中将とも競い合って逢瀬を果たしたものの、彼女の対応の覚束なさは源氏を困惑させた。さらにある雪の朝、姫君の顔をのぞき見た光源氏はその醜さに仰天する。その後もあまりに世間知らずな言動の数々に辟易しつつも、源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、また素直な心根に見捨てられないものを感じて、彼女の暮らし向きへ援助を行うようになった。

 二条の自宅で源氏は鼻の赤い女人の絵を描き、さらに自分の鼻にも赤い絵の具を塗って、若紫【幼少の紫の上】と兄妹のように戯れるのだった。

(以上Wikipedia末摘花(源氏物語)より。色づけと【】は本ページ)

 ※末摘花は紅の赤鼻と掛け、下手に触ると痛い目を見ると解く。その心は、上から上手に摘(つま)んであげるとよいでしょう。
 

目次
和歌抜粋内訳#末摘花(14首:別ページ)
主要登場人物
 
第6帖 末摘花(すえつむはな)
 光る源氏の
 十八歳 春正月十六日頃から
 十九歳 春正月八日頃までの物語
 
第一章 末摘花の物語
 第一段 亡き夕顔追慕
 第二段 故常陸宮の姫君の噂
 第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く
 第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く
 第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う
 第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる
 第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問
 第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る
 第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
 第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
 
第二章 若紫の物語
 第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる
 定家注釈
 校訂付記
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
十八歳から十九歳 参議兼近衛中将
呼称:君
紫の上(むらさきのうえ)
兵部卿宮の娘、藤壺宮の姪
呼称:紫のゆかり・紫の君・姫君
末摘花(すえつむはな)
常陸親王の一人娘
呼称:御女・姫君・常陸宮・女君
頭中将(とうのちゅうじょう)
葵の上の兄
呼称:頭の君・中将・君
大輔の命婦(たいふのみょうぶ)
呼称:命婦

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  末摘花(すえつむはな)
 
 

第一章 末摘花の物語

 
 

第一段 亡き夕顔追慕

 
1  思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど、思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。
 
 どんなに思ってもなお飽き足りなかった、夕顔の露のように先立たれた時の悲しみを、年月を経ても、お忘れにならず、こちらもあちらも、気の置ける方々ばかりで、気取って思慮深さを競い合っているのに比べて、人なつこく気を許していたかわいらしさに、似る者なく恋しくお思い出しなさる。
 
2  いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、こりずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと、思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。
 
 何とかして、大層な評判はなく、とてもかわいらしげな女性で、気の置けないようなのを、見つけたいものだと、性懲りもなく思い続けていらっしゃるので、少しでも風流人らしく評判されるあたりには、漏れなくお耳を留めにならないことはないのだが、それではと、お考え立たれるほどの人には、ほんの一くだりの手紙をおやりになるらしいが、お靡き申さずよそよそしく振る舞う人は、めったにいないらしいというのには、まったく見飽きたことであるよ。
 
3  つれなう心強きは、たとしへなう情けおくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける……。
 
 すげなく強情な女は、いいようのないほど情愛に欠けた真面目一方など、大して人情の機微を知らないようで、そのくせ最後までそれを貫き通せず、すっかり挫けて、いかにも平凡な男におさまったりなどする者もいるので、中途でやめておしまいになる女も多いのであったが……。
 
4  かの空蝉を、ものの折々には、ねたう思し出づ。
 荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。
 火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。
 おほかた、名残なきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。
 
 あの空蝉の女を、何かの折節には、妬ましくお思い出しになる。
 荻の葉の女も、適当な機会がある時は、気をお引きなさる時もきっとあるのだろう。
 燈火に照らされてしどけなかった姿は、もう一度そうして逢って見たいものだとお思いになる。
 総じて、すっかりお忘れになることは、おできないご性分なのであった。
 
 
 

第二段 故常陸宮の姫君の噂

 
5  左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔の命婦とて、内裏に(校訂01)さぶらふ、わかむどほりの兵部大輔なる女なりけり。
 いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。
 母は筑前守の妻にて、下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。
 
 左衛門の乳母といって、大弍の乳母の次に大切に思っていらっしゃる者の娘で、大輔の命婦といって、内裏に仕えている者は、皇族の血筋を引く兵部大輔という人の娘であった。
 とても大層な色好みの若女房であったのを、源氏の君も召し使ったりなどしていらっしゃる。
 母親は、筑前守と再婚して、赴任していたので、父君の家を里として通っている。
 
6  故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御女、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、あはれのことやとて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。
 
 故常陸親王が、晩年に儲けて、大層大切にお育てなさった姫君が、心細く遺されて暮らしているのを、何かの折にお話申し上げたところ、気の毒なことよと、お心に留めてお問い聞きなさる。
 
7  〔命婦〕「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。
 かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ、語らひはべる。
 琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、
 〔命婦〕「お気立てや器量など、詳しくは存じません。
 控え目で、人とよそよそしくいらっしゃるので、何か用のある宵などに、几帳越しにお話しております。
 七絃琴を親しい話相手と思っています」と申し上げると、
8  〔源氏〕「三つの友(自筆本奥入01・奥入01・05)にて、今一種やうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。
 父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手にはあらじ、となむ思ふ」とのたまへば、
 〔源氏〕「三つの友として、七絃琴はその一つだが、いま一つは女には不向きだろう」と言って、「わたしに聞かせよ。
 父親王が、その方面でとても造詣が深くていらしたので、並大抵の手腕ではあるまい、と思う」とおっしゃると、
9  〔命婦〕「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」  〔命婦〕「そのようにお聞きあそばすほどのことではございませんでしょう」
10  と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、  と言うが、好奇心が惹かれるようにわざと申し上げるので、
11  〔源氏〕「いたうけしきばましや。
 このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ。
 まかでよ」
 〔源氏〕「ひどくもったいぶるね。
 このごろの朧月夜にこっそり行こう。
 そこに退出していよ」
12  とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。
 
 とおっしゃるので、面倒なと思うが、内裏あたりでものんびりとした春の所在ない折なので退出した。
 
13  父の大輔の君は他にぞ住みける。
 ここには時々ぞ通ひける。
 命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。
 
 父親の大輔の君は他に住んでいるのであった。
 ここ常陸宮邸には時々通って来るのであった。
 命婦は、継母の家には住みつかず、姫君の家と懇意にして、ここには来るのであった。
 
 
 

第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く

 
14  のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。
 
 おっしゃったとおりに、十六夜の月が美しい頃にいらっしゃった。
 
15  〔命婦〕「いと、かたはらいたきわざかな。
 ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、
 〔命婦〕「とても、困りましたことですわ。
 楽の音が冴え渡って聞こえる夜でもございませんようなので」と申し上げるが、
16  〔源氏〕「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。
 むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」
 〔源氏〕「もっと、あちらに行って、ほんの一音でも、お勧め申せよ。
 聴かないで帰るようなのは、悔しいから」
17  とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。
 よき折かな、と思ひて、
 とおっしゃるので、くつろいだ自分の部屋でお待ちいただいて、気がかりでもったいないと思うが、寝殿に参上したところ、まだ格子を上げたままで、梅の香の素晴らしいのを眺めていらっしゃる。
 ちょうど良い折だわ、と思って、
18  〔命婦〕「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。
 心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、
 〔命婦〕「お琴の音は、どんなに聴き優る折でございましょうと、思わずにはいられません今夜の風情に、心惹かれまして。
 日頃は気ぜわしくお伺いして、お聴かせ頂けないのが残念でございます」と言うと、
19  〔姫君〕「聞き知る人こそあなれ。
 百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」
 〔姫君〕「『琴の音を分かる人がいる』と言いますね。
 宮中にお出入りしている人が聴くほどでも……」
20  とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。
 
 と言って、お琴を取り寄せるので、人ごとながら、源氏の君はどのようにお聴きになるだろうかと、どきどきする。
 
21  ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。
 何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。
 
 かすかに掻き鳴らしなさるのが、趣のあるように聞こえる。
 特に上手といったほどでもないが、琴の音色が他とは違って格式高い楽器なので、聴きにくいともお思いにならない。
 
22  〔源氏〕「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。
 かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。
 
 〔源氏〕「とてもひどく一面に荒れはた寂しい邸に、あれほどの宮様が、古めかしく格式ばって、大切にお育てしていたのであろう面影もすっかりなくなって、姫はどれほど物思いの限りを尽くしていらっしゃることだろう。
 このような所にこそ、昔物語にもしみじみとした話がよくあったものだ」などと思い続けて、言い寄ってみようかしら、とお思いになるが、唐突だとお思いになるであろうかと、気がひけて、躊躇なさる。
 
23  命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、  命婦は、よく気の利く者で、たくさんお聴かせ申すまい、と思ったので、
24  〔命婦〕「曇りがちにはべるめり。
 客人の来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。
 いま心のどかにを。
 御格子参りなむ」
 〔命婦〕「曇りがちのようでございます。
 お客が来ることになっておりました、嫌っているようにも受け取られては。
 そのうちまた、ゆっくりと。
 御格子を下ろしましょう」
25  とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、  と言って、あまりお勧めしないで、帰って来たので、
26  〔源氏〕「なかなかなるほどにても止みぬるかな。
 もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」
 〔源氏〕「中途半端な所で終わってしまったね。
 十分に聴き分けられる程もなくて、残念に……」
27  とのたまふ。
 けしき、をかしと思したり。
 
 とおっしゃる。
 ご様子は、ご関心をお持ちでいる。
 
28  〔源氏〕「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」  〔源氏〕「同じことなら、もっと近い所で立ち聴きさせよ」
29  とのたまへど、「心にくくて」と思へば、  とおっしゃるが、「もっと聞きたいと思う程度に」と思うので、
30  〔命婦〕「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」  〔命婦〕「さあ、いかがなものでしょうか、とてもひっそりとした様子に思い沈んで、気の毒そうでいらっしゃるようなので、案じられまして」
31  と言へば、「げに、さもあること。
 にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、
 と言うと、「なるほど、それももっともだ。
 急に自分も相手も親しくなるような身分の人は、その程度の者なのだ」などと、お気の毒に思われるご身分のお方なので、
32  〔源氏〕「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。
 
 〔源氏〕「やはり、わたしの気持ちをそれとなく伝えてくれよ」と、言い含めなさる。
 
33  また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。
 
 他に約束なさっているお方があるのだろうか、とてもこっそりとお帰りになる。
 
34  〔命婦〕「主上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。
 かやうの御やつれ姿を、いかでかは(校訂02)御覧じつけむ」
〔命婦〕「お上が、き真面目でいらっしゃると、ご困惑あそばしていらっしゃるのが、おかしく存じられます時々がございます。
 このようなお忍び姿を、どうして御覧になれましょうか」
35  と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、  と申し上げると、引き返して来て、ちょっと微笑んで、
36  〔源氏〕「異人の言はむやうに、咎なあらはされそ。
 これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」
 〔源氏〕「他人が言うように、欠点を言い立てなさるな。
 これを好色な振る舞いと言ったら、どこかの女の有様は、弁解できないだろう」
37  とのたまへば、あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかしと思ひて、ものも言はず。
 
 とおっしゃるので、あまりに好色めいているとお思いになって、時々このようにおっしゃるのを、命婦は恥ずかしいと思って、何とも言わない。
 
38  寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。
 透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。
 「誰れならむ。
 心かけたる好き者ありけり」と思して、蔭につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。
 
 寝殿の方に、姫君の様子が聞けようかとお思いになって、静かにお立ち退きになる。
 透垣がわずかに折れ残っている物蔭にお立ち添いになると、以前からそこに立っている男がいるのであった。
 「誰だろう。
 姫君に懸想している好色人がいたのだなあ」とお思いになって、物蔭に寄って隠れなさると、実は頭中将なのであった。
 
39  この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条の院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。
 あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、下待つなりけり。
 
 この夕方、内裏から一緒に退出なさったのだが、源氏の君がそのまま大殿邸にも寄らず、二条の院でもなくて、別かれて他に行ったので、どこへ行くのだろうと好奇心が湧いて、自分も行く所はあったのだが、君の後を付けて窺うのであった。
 中将は粗末な馬で、狩衣姿の身軽な恰好で来たので、君はお気付きにならないが、自分の予想とは違って、あのような別の建物にお入りになったので、合点が行かずにいた時に、琴の音に耳をとられて立っていたが、帰りにはお出になるだろうかと、待ち受けていたのであった。
 
40  君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、  君は、その男を誰ともお分かりにならず、自分とは知られまいと、抜き足で通り抜けようとなさると、急に近寄って来て、
41  〔頭中将〕「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。
 
 〔頭中将〕「わたしを置いてきぼりあそばされた悔しさに、お見送り申し上げたのですよ。
 
 

70
 もろともに 大内山は 出でつれど
 入る方見せぬ いさよひの月」
 ご一緒に宮中を退出しましたのに
 行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月のようですね」
 
42  と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
 
 と恨まれるのが癪だが、頭の君だとお分かりになると、少しおかしくなった。
 
43  〔源氏〕「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、  〔源氏〕「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、
 

71
 「里わかぬ かげをば見れど ゆく月の
 いるさの山を 誰れか尋ぬる」
 〔源氏〕
 「どの里も遍く照らす月は空に見えても
  その月が隠れる山まで尋ねて来る人はいませんよ」
 
44   かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。
 
  このようにわたしが後を付け廻したら、どうあそばされますか」とお尋ねなさる。
 
45  〔頭中将〕「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。
 後らさせたまはでこそあらめ。
 やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」 
 〔頭中将〕「本当は、このようなお忍び歩きには、随身によって埒も開こうというものです。
 置いてきぼりあそばさないのがよいでしょう。
 身をやつしてのお忍び歩きには、軽率な間違いも出て来ましょう」
46 と(校訂03)、おし返しいさめたてまつる。
 かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。
 
 と、逆にご忠告申し上げる。
 このようにばかり見つけられるのを、悔しくお思いになるが、頭の君があの夕顔の遺児の撫子を見つけ出せないのを、大きな手柄だと、ご内心お思い出しになる。
 
 
 

第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く

 
47  おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。
 
 お二方とも約束した女の所にも、照れくさくて、別れて行くこともおできになれず、一台の車に乗って、月の風情ある雲に隠れた道中を、笛を吹き合って大殿邸にお着きになった。
 
48  前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に御直衣ども召して、着替へたまふ。
 つれなう、今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛取り出でたまへり。
 いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。
 御琴召して、内にも、この方に心得たる人びとに弾かせたまふ。
 
 先払いなどもおさせになさらず、こっそりと入って、人目につかない渡殿にお直衣を持って来させて、お召し替えになる。
 何食わぬ顔で、今来たようなふうをして、お笛を吹き興じ合っていらっしゃると、左大臣が、いつものようにお聞き逃さず、高麗笛をお取り出しになって来た。
 大変に上手でいらっしゃるので、大層興趣深くお吹きになる。
 お琴を取り寄せて、御簾の内でも、この方面に堪能な女房たちにお弾かせになる。
 
49  中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御けしきのなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮などもよろしからず思しなりたれば、もの思はしく、はしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。
 絶えて見たてまつらぬ所に、かけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱れたり。
 
 中務の君は、特に琵琶はよく弾くが、頭の君が思いを寄せていたのを振り切って、ただこの君のたまにかけてくださる情愛の慕わしさを、お背き申し上げられないでいると、自然と人の知るところとなって、大宮などもけしからぬことだとお思いになっているので、何となく憂鬱で、そこに居ずらい気持ちがして、おもしろくなさそうに物に寄り伏している。
 まったくお目にかかれない所に、暇をもらって行ってしまうのも、やはり心細く思い悩んでいる。
 
50  君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、やう変へてをかしう思ひつづけ、「あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめて、いみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ」などさへ、中将は思ひけり。
 この君のかう気色ばみありきたまふを、「まさに、さては、過ぐしたまひてむや」と、なまねたう危ふがりけり。
 
 君たちは、先程の七絃琴の音をお思い出しになって、見すぼらしかった邸宅の様子なども、一風変わって興趣あると思い続け、「もし仮に、とても美しくかわいい女が、寂しく年月を送っているような時、結ばれて、ひどくいじらしくなったら、世間の評判になるほどなのは、自分ながら体裁の悪いことだろう」などとまで、頭中将は思うのであった。
 この君がこのように懸想しあるいていらっしゃるのを、「とても、あのままで、お済ましになれようか」と、小憎らしく心配するのであった。
 
51  その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。
 いづれも返り事見えず 、おぼつかなく心やましきに(校訂04)、「あまりうたてもあるかな。
 さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは、心づきなく、悪びたり」と、中将は、まいて心焦られしけり。
 例の、隔てきこえたまはぬ心にて、
 その後、こちらからもあちらからも、きっと恋文などをおやりになったのだろう。
 どちらへもお返事がなく、気になっていらいらするので、「あまりにもひどいではないか。
 あのような生活をしている人は、物の情趣を解する風情を、ちょっとした草木や、空模様につけても、それにかこつけたりなどして、気立てが自然と推量される折々もあるようなのが、かわいらしいというものであろうに、重々しいといっても、とてもこうあまりに引っ込み思案なのは、おもしろくなく、よろしくない」と、中将は、君以上にやきもきするのであった。
 いつものように、お隔て申し上げなさらない性格から、
52  〔頭中将〕「しかしかの返り事は見たまふや。
 試みにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」
 〔頭中将〕「これこれのお返事は御覧になりますか。
 試しにちょっと手紙を出してみたが、中途半端で、終わってしまった」
53  と、憂ふれば、「さればよ、言ひ寄りにけるをや」と、ほほ笑まれて、  と、残念がるので、「やはりそうか、懸想文を贈ったのだな」と、つい微笑まれて、
54  〔源氏〕「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」  〔源氏〕「さあ、しいて見たいとも思わないからか、見ることもない」
55  と、答へたまふを、「人わきしける(校訂05)」と思ふに、いとねたし。
 
 と、お返事なさるのを、「分け隔てしたな」と思うと、まことに悔しい。
 
56  君は、深うしも思はぬことの、かう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、「言多く言ひなれたらむ方にぞ靡かむかし。
 したり顔にて、もとのことを思ひ放ちたらむけしきこそ、憂はしかるべけれ」と思して、命婦をまめやかに語らひたまふ。
 
 源氏の君は、必ずしも深く思い込んでいるのではないが、このようにつれないのを、興醒めにお思いになってしまったが、このようにこの中将がしきりに言い寄っているのを、「言葉数多く懸想文を贈った者の方に靡くだろう。
 得意顔して、最初に関係した者を振ったような恰好にされたら、まことおもしろくなかろう」とお思いになって、命婦に真剣に相談なさる。
 
57  〔源氏〕「おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き。
 好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。
 さりとも(校訂06)、短き心ばへつかはぬものを。
 人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。
 心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、
 〔源氏〕「はっきりせずに、よそよそしいご様子なのが、まことにたまらない。
 浮気心からとお疑いなのだろう。
 いくら何でも、すぐ変わる心は持ちあわせていないのに。
 相手の気持ちがゆったりとしたところがなくて、心外なことばかりあるので、自然とわたしの方の落度のようにもなってしまいそうだ。
 気長にあって、親兄弟などのお世話をしたり恨んだりする者もなく、気兼ねのいらない人は、かえってかわいらしかろうに」とおっしゃると、
58  〔命婦〕「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿り(自筆本奥入02・奥入02)には、えしもや(校訂07)と、つきなげにこそ見えはべれ。
 ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、ありがたうものしたまふ人になむ」
 〔命婦〕「さあ、おっしゃるような興趣あるお立ち寄り所には、とてもどうかしらと、お相応しくなく見えます。
 ひたすら恥ずかしがって、内気な点では、世にも珍しいくらいのお方で」
59  と、見るありさま語りきこゆ。
 
 と、見た様子をお話し申し上げる。
 
60  〔源氏〕「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。
 いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」と思し忘れず、のたまふ。
 
 〔源氏〕「気が利いていて、才覚だったところはないようだ。
 とても子供のようにおっとりしているのが、かわいいものだ」と、夕顔の女をお忘れにならず、おっしゃる。
 
61  瘧病みにわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。
 
 瘧病みをお患いになったり、秘密の恋愛事件があったりして、お心にゆとりのないような状態で、春夏が過ぎた。
 
 
 

第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う

 
62  秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず、心やましう、負けては止まじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。
 
 秋のころ、静かにお思い続けになって、あの砧の音も耳障りであったのまでが、自然に恋しくお思い出されるにつけて、常陸宮邸には度々お手紙を差し上げなさるが、相変わらず一向にお返事がないばかりなので、世間知らずで、おもしろくなく、負けてはなるものかという御意地までが加わって、命婦をご催促なさる。
 
63  〔源氏〕「いかなるやうぞ。
 いとかかる事こそ、まだ知らね」
 〔源氏〕「どういうことか。
 いったいこのようなことは、今までにない」
64  と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、  と、とても不愉快に思っておっしゃるので、お気の毒に思って、
65  〔命婦〕「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。
 ただ、おほかたの御ものづつみのわりなきに、手を(校訂08)えさし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、
 〔命婦〕「かけ離れて、不釣り合いなご縁だとも、申し上げたことはありません。
 ただ、万事につけて内気な性格が強すぎて、お返事なさらないのだろうと存じます」と申し上げると、
66  〔源氏〕「それこそは世づかぬ事なれ。
 物思ひ知るまじきほど、独り身をえ心にまかせぬほどこそ、ことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむ、と思ふこそ。
 そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。
 何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきなり。
 いとうたて心得ぬ心地するを、かの御許しなくとも(校訂09)、たばかれかし。
 心苛られし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」
 〔源氏〕「それが世間知らずというものだ。
 分別のつけられない年頃や、自分独りでは身を処せられない間は、もっともなことだが、何事もじっくりお考えになられるのだろう、と思うからだ。
 どことなく、所在なく心細くばかり思われるのを、同じような気持ちでお返事下さったら、願いが叶った気がしよう。
 何やかやと、色めいたことではなくて、あの荒れた簀子に佇んでみたいのだ。
 とても嫌な理解できない思いがするから、あの方のお許しがなくても、うまく計らってくれ。
 気がせいて、けしからぬ振る舞いは、決してせぬ」
67  など、語らひたまふ。
 
 などと、ご相談なさる。
 
68  なほ世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など(校訂10)、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、「なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむ」と思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、「聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。
 父親王おはしける折にだに、旧りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅分くる人も跡絶えたるに……」。
 
 やはり世間一般の女性の様子を、一通りのこととして聞き集め、お耳を留めなさる癖がついていらっしゃるので、もの寂しく寝ないでいる夜などで、ちょっとした折に、このような女性がと申し上げたことに、このように殊更におっしゃり続けるので、「何となく気が重く、女君のご様子も、恋愛の経験や、風流らしくもないのに、かえって手引したことによって、きっと気の毒なことになりはしないか」と思ったが、君がこのように本気になっておっしゃるので、「聞き入れないのも、いかにも変わり者のようだろう。
 父親王が生きていらしたころでさえ、時代遅れの所だと言って、ご訪問申し上げる人もなかったのだが、まして、今となっては浅茅生を分けて訪ねて来る人もまったく絶えているのに……」。
 
69  かく世にめづらしき御けはひの、漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑み曲げて、「なほ聞こえたまへ」と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。
 
 このように世にも珍しいお方から、時々お手紙が届くのを、なま女房どもも笑顔をつくって、「やはりお返事をなさいませ」と、お勧め申し上げるが、あきれるくらい内気なご性格で、全然御覧になろうともなさらないのであった。
 
70  命婦は、「さらば、さりぬべからむ折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずは、さても止みねかし。
 また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめたまふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。
 
 命婦は、「それでは、適当な機会に、物越しにお話申し上げなさって、お気に召さなかったら、そのまま終わってしまってよし。
 また、ご縁があって、一時的にでもお通いになるとしても、誰もお咎めなさるはずの方もいない」などと、色事にかけては軽率な性分でふと考えて、父君にも、このようなことなど、話さなかったのであった。
 
71  八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ。
 「いとよき折かな」と思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。
 
 八月二十日過ぎ、夜の更けるまで待ち遠しい月の出の遅さに、星の光ばかりがさやかに照らし、松の梢を吹く風の音も心細くて、昔のことをお話し出しなさって、お泣きになったりなどなさる。
 「ちょうど良い機会だわ」と思って、ご案内を差し上げたのだろうか、いつものようにお忍びでいらっしゃった。
 
72  月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。
 「すこし、け近う今めきたる気をつけばや」とぞ(校訂11)、乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。
 人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。
 命婦を呼ばせたまふ。
 今しもおどろき顔に、
 月がようやく出て、荒れた垣根の状態を気味悪く眺めていらっしゃると、琴を勧められて、かすかにお弾きになるのは、悪くはない。
 「もう少し、親しみやすい、今風の感じを加えたいものだ」と、蓮っ葉な性分から、じれったく思っていた。
 人目のない邸なので、安心してお入りになる。
 命婦をお呼ばせになる。
 今初めて、気がついた顔して、
73  〔命婦〕「いとかたはらいたきわざかな。
 しかしかこそ、おはしましたなれ。
 常に、かう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』と、のたまひわたるなり。
 いかが聞こえ返さむ。
 なみなみのたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを。
 物越しにて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」
 〔命婦〕「とても困りましたわ。
 これこれということで、お越しあそばしたそうですわ。
 いつも、このようにお恨み申していらっしゃったが、一存ではまいらぬ旨ばかりを、お断り申しておりますので、『自身でお話をおつけ申し上げよう』と、かねておっしゃっていたのです。
 どのようにお返事申し上げましょうか。
 並大抵の軽いお出ましではありませんので、お気の毒なことで。
 物越しにでも、おっしゃるところを、お聞きあそばしませ」
74  と言へば、いと恥づかしと思ひて、  と言うと、とても恥ずかしい、と思って、
75  〔姫君〕「人にもの聞こえむやうも知らぬを」  〔姫君〕「人とお話する仕方などは知らないのに」
76  とて、奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。
 うち笑ひて、
 と言って、奥の方へいざってお入りになる振る舞いは、とてもうぶなありさまである。
 微笑んで、
77  〔命婦〕「いと若々しうおはしますこそ、心苦しけれ。
 限りなき人も、親などおはして、あつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」と教へきこゆ。
 
 〔命婦〕「とても、子供じみていらっしゃいますのが、気がかりですわ。
 ご身分の高い方も、ご両親様が生きていらっしゃって、手を掛けてお世話申していらっしゃる間なら、子供っぽくいらっしゃるのも結構ですが、このような心細いお暮らし向きで、相変わらず世間を知らずに引っ込み思案でいらっしゃるのは、よろしうございません」とお教え申し上げる。
 
78  さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、  何と言っても、人の言うことには強く拒まないご性質なので、
79  〔姫君〕「答へきこえで、ただ聞け、とあらば。
 格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。
 
 〔姫君〕「お返事申さずに、ただ聞いていよ、というのであれば。
 格子など閉めてお会いするならいいでしょう」とおっしゃる。
 
80  〔命婦〕「簀子などは便なうはべりなむ。
 おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」
 〔命婦〕「簀子などでは失礼でございましょう。
 強引で、軽薄なお振る舞いは、間違っても……」
81  など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御茵うち置きひきつくろふ。
 
 などと、うまく言い含めて、二間の端にある障子を、自分で固く錠鎖して、お座蒲団を敷いて整える。
 
82  いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。
 乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。
 若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。
 よろしき御衣たてまつり替へ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。
 
 とても恥ずかしくお思いになっているが、このような方に応対する心得なども、まったくご存じなかったので、命婦がこのように言うのを、そういうものなのであろうと思って任せていらっしゃる。
 乳母のような老女などは、部屋に入って横になって、うつらうつらしている時分である。
 若い女房で、二、三人いるのは、世間で評判高いお姿を、拝見したいものだとお思い申し上げて、期待して緊張し合っている。
 結構なご衣装にお召し替え申し、身繕い申し上げると、ご本人は、何の頓着もなくいらっしゃる。
 
83  男は(校訂12)、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、栄えあるまじきわたりを、あな、いとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、「うしろやすう、さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ」と思ひける。
 「わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出でこむ」など、やすからず思ひゐたり。
 
 男君は、まことこの上ないお姿を、お忍びで心づかいしていらっしゃるご様子、何とも優美で、「風流を解する人にこそ見せたいが、見栄えもしない邸で、ああ、お気の毒な」と、命婦は思うが、ただおっとりしていらっしゃるのを、「安心で、出過ぎたところはお見せ申さるまい」と思うのであった。
 「自分がいつも責められ申していた責任逃れに、お気の毒な姫の物思いが生じてきはしまいか」などと、不安に思っている。
 
84  君は、人の御ほどを思せば、「されくつがへる今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう」と思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、衣被の香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、「さればよ」と思す。
 年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。
 「わりなのわざや」と、うち嘆きたまふ。
 
 君は、相手のご身分を推量なさると、「しゃれかえった当世風の風流がりやよりは、この上なく奥ゆかしい」と思い続けていたところ、たいそう勧められて、いざり寄っていらっしゃる様子、もの静かで、えびの薫香がとてもやさしく薫り出して、おっとりとしてしているので、「やはり思ったとおりであった」とお思いになる。
 長年恋い慕っていた胸の中など、言葉巧みにおっしゃり続けるが、まして身近な所でのお返事はまったくない。
 「どうにも困ったことだ」と、つい嘆息なさる。
 
 

72
 〔源氏〕
 「いくそたび 君がしじまに まけぬらむ
 ものな言ひそと 言はぬ頼みに
 〔源氏〕
 「何度あなたの沈黙に負けたことでしょう
  ものを言うなとおっしゃらないことを頼みとして
 
85  のたまひも捨ててよかし。
 玉だすき(自筆本奥入10・付箋①)苦し」
 嫌なら嫌とおっしゃってくださいまし。
 「玉だすき」のどちらつかずでは苦しい」
86  とのたまふ。
 女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、「いと心もとなう、かたはらいたし」と思ひて、さし寄りて、聞こゆ。
 
 とおっしゃる。
 姫君の御乳母子で、侍従といって、才気走った若い女房は、「とてもじれったくて、見ていられない」と思って、お側によって、お返事申し上げる。
 
 

73
 〔侍従〕
 「鐘つきて とぢめむことは さすがにて
 答へまうきぞ かつはあやなき」
 〔侍従〕
 「鐘をついて論議を終わりにするようにもう何もおっしゃるなとはさすがに言いかねます。
 
 ただお答えしにくいのが、何ともうまく説明できないのです」
 
87  いと若びたる声の、ことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、「ほどよりはあまえて」と聞きたまへど、  とても若々しい声で、格別重々しくないのを、人伝てではないように装って申し上げるので、「ご身分の割には馴れ馴れしいな」とお聞きになるが、
88  〔源氏〕「めづらしきが、なかなか口(校訂14)ふたがるわざかな。
 
 〔源氏〕「珍しいことなのが、かえって言葉に窮しますよ。
 
 

74
 言はぬをも 言ふにまさると 知りながら
 おしこめたるは 苦しかりけり」
  何もおっしゃらないのは口に出して言う以上なのだとは知っていますが、
  やはりずっと黙っていらっしゃるのは辛いものですよ」
 
89  何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。
 
 何やかやと、とりとめのないことであるが、関心を引くようにも、まじめなようにもおっしゃるが、何の反応もない。
 
90  「いとかかるも、さまかはり、思ふ方ことにものしたまふ人にや」と、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。
 
 「まことにこんなに言うにも、態度が変わっていて、思う人が別にいらっしゃる方なのだろうか」と、癪になって、そっと押し開けて中に入っておしまいになった。
 
91  命婦、「あな、うたて。
 たゆめたまへる」と、いとほしければ、知らず顔にて、わが方へ往にけり。
 この若人ども、はた、世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ、思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ、思ひける。
 
 命婦は、「まあ、ひどい。
 油断させていらっしゃって」と、気の毒なので、知らない顔をして、自分の部屋の方へ行ってしまった。
 先程の若い女房連中は、言うまでもない、世に例のない美しいお姿の評判の高さに、お咎め申し上げず、大げさに嘆くこともせず、ただ、思いも寄らない急なことで、何のお心構えもないのを、案じるのであった。
 
92  正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、「今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたる」と、見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほし、とおぼゆる御さまなり。
 何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。
 
 ご本人は、まったく茫然自失して、恥ずかしく身の竦むような思いの他は何も考えられないので、「最初はこのようなのがかわいいのだ。
 まだ世間ずれしていない人で、大切に育てられているのが」と、大目に見られる一方で、合点がゆかず、どことなく気の毒な感じに思われるご様子である。
 どのようなところにお心が惹かれるのであろうか、つい溜息をつかれて、夜もまだ深いうちにお帰りになった。
 
93  命婦は、「いかならむ」と、目覚めて、聞き臥せりけれど、「知り顔ならじ」とて(校訂15)、「御送りに」とも、声づくらず。
 君も、やをら忍びて出でたまひにけり。
 
 命婦は、「どうなったのだろう」と、目を覚まして、横になって聞き耳を立てていたが、「知らない顔していよう」と考えて、「お見送りを」と、指図もしない。
 君も、そっと目立たぬようにお帰りになったのであった。
 
 
 

第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる

 
94  二条の院におはして、うち臥したまひても、「なほ思ふにかなひがたき世にこそ」と、思しつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを(校訂16)、心苦しとぞ思しける。
 思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、
 二条の院にお帰りになって、横におなりになっても、「やはり思うような女性に巡り合うことは難しいものだ」と、お思い続けになって、軽々しくないご身分のほどを、気の毒にお思いになるのであった。
 あれこれと思い悩んでいらっしゃるところに、頭中将がいらっしゃって、
95  〔頭中将〕「こよなき御朝寝かな。
 ゆゑあらむかしとこそ、思ひたまへらるれ」
 〔頭中将〕「ずいぶんなおん朝寝ですね。
 きっと理由があるのだろうと、存じられますが」
96  と言へば、起き上がりたまひて、  と言うと、起き上がりなさって、
97  〔源氏〕「心やすき独り寝の床にて、ゆるびにけりや。
 内裏よりか」
 〔源氏〕「気楽な独り寝のため、つい寝過ごしてしまった。
 内裏からですか」
98  とのたまへば、  とおっしゃると、
99  〔頭中将〕「しか。
 まかではべるままなり。
 朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。
 やがて帰り参りぬべうはべる」
 〔頭中将〕「ええ。
 退出して来た途中です。
 朱雀院への行幸は、今日、楽人や、舞人が決定される旨、昨晩承りましたので、大臣にもお伝え申そうと思って、退出して来たのです。
 すぐに帰参しなければなりません」
100  と、いそがしげなれば、  と、急いでいるようなので、
101  〔源氏〕「さらば、もろともに(校訂17)」  〔源氏〕「それでは、ご一緒に」
102  とて、御粥、強飯召して、客人にも参りたまひて、引き続けたれど、一つにたてまつりて、  と言って、お粥や、強飯を召し上がって、客人にも差し上げなさって、お車を連ねたが、一台に相乗りなさって、
103  〔頭中将〕「なほ、いとねぶたげなり」  〔頭中将〕「まだ、ひどく眠そうですね」
104  と、とがめ出でつつ、「隠いたまふこと多かり」とぞ、恨みきこえたまふ。
 
 と、咎め咎めして、〔頭中将〕「お隠しになっていることがたくさんあるのでしょう」 と、お恨み申し上げなさる。
 
105  事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。
 
 事柄が多く取り決められる日なので、宮中に一日中おいでになった。
 
106  かしこには、文をだにと、いとほしく思し出でて、夕つ方ぞありける。
 雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、思されずやありけむ。
 かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、「いといとほしき御さまかな」と、心憂く思ひけり。
 正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。
 
 あちらには、せめて後朝の文だけでもと、お気の毒にお思い出しになって、夕方になってお出しになったのだ。
 雨が降り出して、面倒な上に、雨宿りしようとは、とてもなれなかったのであろうか。
 あちらでは、後朝の文の来る時刻も過ぎて、命婦も、「とてもお気の毒なご様子だわ」と、情けなく思うのであった。
 ご本人は、お心の中で恥ずかしくお思いになって、今朝来るはずのお文が暮れてから来たのも、かえって、非礼ともお気づきにならないのであった。
 
 

75
 〔源氏〕
 「夕霧の 晴るるけしきも まだ見ぬに
 いぶせさそふる 宵の雨かな
 〔源氏〕
「夕霧が晴れる気配をまだ見ないうちに、
 さらに気持ちを滅入らせる宵の雨まで降ることよ。
 
 
107  雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」  雲の晴れ間を待つ間は、何とじれったいことでしょう」
108  とあり。
 おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、
 とある。
 いらっしゃらないらしいご様子を、女房たちは失望して悲しく思うが、
109  〔女房〕「なほ、聞こえさせたまへ」  〔女房〕「やはり、お返事は差し上げあそばしませ」
110  と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え形のやうにも続けたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ、例の教へきこゆる。
 
 と、お勧めしあうが、ますますお思い乱れていらっしゃる時で、型通りにも返歌がおできになれないので、「夜が更けてしまいます」と言って、侍従が、いつものようにお教え申し上げる。
 
 

76
 〔姫君〕
 「晴れぬ夜の 月待つ里を 思ひやれ
 同じ心に 眺めせずとも」
 〔姫君〕
「雨雲の晴れない夜の月を待っている人を思いやってください。
 
 わたしと同じ気持ちで眺めているのでないにしても」
 
111  口々に責められて、紫の紙の、年経にければ、灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。
 見るかひなううち置きたまふ。
 
 口々に責められて、紫色の紙で、古くなったので、灰の残った古めいた紙に、筆跡は何といっても文字がはっきりと書かれた、一時代前の書法で、天地を揃えてお書きになっている。
 見る張り合いもなくお置きになる。
 
112  いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。
 
 どのように思っているだろうか、と想像するにつけても、気が落ち着かない。
 
113  〔源氏〕「かかることを、悔しなどは言ふにやあらむ。
 さりとていかがはせむ。
 我は、さりとも、心長く見果ててむ」と、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。
 
 〔源氏〕「このようなことを、後悔されるなどと言うのであろうか。
 そうかといってどうすることもできない。
 自分は、それはそれとしてともかくも、気長に最後までお世話しよう」と、お思いになるが、そのお気持ちを知らないので、あちらではひどく嘆くのであった。
 
114  大臣、夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて、大殿におはしましぬ。
 行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りて、のたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころのことにて過ぎゆく。
 
 左大臣が、夜になって退出なさるのに、伴われなさって、大殿にいらっしゃった。
 行幸の事をおもしろいとお思いになって、ご子息達が集まって、お話なさったり、それぞれ舞いをお習いになったりするのを、そのころの日課として日が過ぎて行く。
 
115  ものの音ども、常よりも耳かしかましくて、かたがたいどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。
 
 いろいろな楽器の音が、いつもよりもやかましくて、お互いに競争し合って、いつもの合奏とは違って、大篳篥や、尺八の笛の音などが大きな音を幾度も吹き立てて、太鼓までを高欄の側にころがし寄せて、自ら打ち鳴らして、演奏していらっしゃる。
 
116  御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、盗まはれたまへれ(校訂18)、かのわたりには、いとおぼつかなくて(校訂19)、秋暮れ果てぬ。
 なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。
 
 お暇もないような状態で、切に恋しくお思いになる所だけには、暇を盗んでお出掛けになり続けたが、あの姫君の辺りには、すっかり御無沙汰で、秋も暮れてしまった。
 やはり頼りにした甲斐がない状態で月日が過ぎて行く。
 
 
 

第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問

 
117  行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。
 
 行幸が近くなって、試楽などで騒いでいるころ、命婦は参内していた。
 
118  〔源氏〕「いかにぞ」など、問ひたまひて、いとほしとは思したり。
 ありさま聞こえて、
 〔源氏〕「どうであるか」などと、お尋ねになって、気の毒だとはお思いになっていた。
 ご様子を申し上げて、
119  〔命婦〕「いとかう、もて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ、心苦しく」  〔命婦〕「とてもこのように、お見限りのお気持ちは、側でお仕えしている者たちまでが、お気の毒で」
120  など、泣きぬばかり思へり。
 「心にくくもてなして止みなむと思へりしことを、朽たいてける、心もなくこの人の思ふらむ」をさへ思す。
 
 などと、今にも泣き出しそうに思っている。
 「奥ゆかしい姫君と思われているところで止めておこうとしたのを、台無しにしてしまったのを、思いやりがないとこの人も思っていることだろう」とまでお思いになる。
 
121  正身の、ものは言はで、思しうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふも、いとほしければ、  ご本人が、何もおっしゃらないで、もの思いに沈んでいらっしゃるだろう有様、それをご想像なさるにつけても、お気の毒なので、
122  〔源氏〕「いとまなきほどぞや。
 わりなし」と、うち嘆いたまひて、「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」
 〔源氏〕「忙しい時だよ、やむをえない」と、嘆息なさって、「人情というものを少しも理解してないような気性を、懲らしめようと思っているのだよ」
123  と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や。
 思ひやり少なう、御心のままならむも、ことわり」と思ふ。
 
 と、にっこりなさっているのが、若々しく美しそうなので、自分もつい微笑まれる気がして、「困ったこと、人に恨まれなさる、お年頃だわ。
 相手の気持ちを察することが足りなくて、ご自分のお気持ち次第というのも、もっともだ」と思う。
 
124  この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。
 
 この行幸のご準備の時期を過ぎてから、時々お越しになるのであった。
 
125  かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに、離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、もの憂きぞ、わりなかりけると、ところせき御もの恥ぢを見あらはさむの御心も、ことになうて過ぎゆくを、またうちかへし、「見まさりするやうもありかし。
 手さぐりのたどたどしきに、あやしう、心得ぬこともあるにや。
 見てしがな」と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし。
 うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。
 
 あの紫のゆかり――藤壺宮の姪を、手に入れなさってからは、そのかわいがりを一心になさって、六条辺りのお方にさえ、一段と遠のきなさるらしいので、ましてや荒れた邸の姫には、気の毒と思う気持ちは絶えずありながらも、億劫になるのはしかたのないことであったと、大げさな恥ずかしがりやの正体を見てやろうというお気持ちも、特別なくて過ぎて行くのを、又一方では、思い返して、「よく見れば良いところも現れて来はしまいか。
 手だ触った感触でははっきりしないので、妙に、腑に落ちない点があるのだろうか。
 見てみたいものだ」とお思いになるが、あからさまに見るのも気が引ける。
 気を許している宵時に、静かにお入りになって、格子の間から御覧になったのであった。
 
126  されど、みづからは見えたまふべくもあらず。
 几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四、五人ゐたり。
 御台、秘色やうの唐土のものなれど、人悪ろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人びと食ふ。
 
 けれども、ご本人の姿はお見えになるはずもない。
 几帳など、ひどく破れてはいたが、昔ながらに置き場所を変えず、動かしたりなど乱れてないので、よく見えないが、女房たちが四、五人座っていた。
 お膳や、青磁らしい食器は舶来物だが、みっともなく古ぼけて、お食事もこれといった料理もなく貧弱なのを、退がって来て女房たちが食べている。
 
127  隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣の言ひ知らず煤けたるに、汚なげなる褶引き結ひ着けたる腰つき、かたくなしげなり。
 さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。
 かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。
 
 隅の間の方に、とても寒そうな女房が、白い着物で譬えようもなく煤けた上に、汚らしい褶を纏っている腰つきは、いかにも不体裁である。
 それでも、櫛を前下がりに挿している額つきは、内教坊や内侍所辺りに、このような連中がいたことよと、おかしい。
 夢にも、宮家でお側にお仕えしているとはご存知なかった。
 
128  〔女房〕「あはれ、さも寒き年かな。
 命長ければ、かかる世にも遇ふものなりけり」
 〔女房〕「ああ、何とも寒い年ですね。
 長生きすると、このような辛い目にも遭うのですね」
129  とて、うち泣くもあり。
 
 と言って、泣く者もいる。
 
130  〔女房〕「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。
 かく頼みなくても過ぐるものなりけり」
 〔女房〕「故宮様が生きていらっしゃったころを、どうして辛いと思ったのでしょう。
 このように頼りない状態でも生きて行けるものなのですね」
131  とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
 
 と言って、飛び上がりそうにぶるぶる震えている者もいる。
 
132  さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、立ち退きて、ただ今おはするやうにて、うち叩きたまふ。
 
 あれこれと体裁の悪いことを、愚痴をこぼし合っているのをお聞きになるのも、気が咎めるので、退いて、ちょうど今お越しになったようにして、戸をお叩きになさる。
 
133  〔女房〕「そそや」など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。
 
 〔女房〕「それ、それ」などと言って、燈火の向きを変え、格子を外してお入れ申し上げる。
 
134  侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。
 いよいよあやしう、ひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。
 
 侍従は、斎院にお勤めする若い女房なので、最近はいないのであった。
 ますます奇妙で野暮ったい者ばかりで、勝手の違った感じがする。
 
135  いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。
 空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、灯もしつくる人もなし。
 かの、ものに襲はれし折思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。
 
 ますます、辛いと言っていた雪が、空を閉ざして激しく降って来た。
 空模様は険しく、風が吹き荒れて、大殿油が消えてしまったのを、点し直す人もいない。
 あの、魔物に襲われた時を自然とお思い出しになられて、荒れた様子は劣らないようだが、邸の狭い感じや、人気が少しあるなどで安心していたが、ぞっとするように、気持ち悪く寝つかれそうにない夜の有様である。
 
136  をかしうもあはれにも、やうかへて、心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何の栄えなきをぞ、口惜しう思す。
 
 趣がありしみじみと胸を打つものがあり、普通とは違って、心に印象深く残るはずの風情なのに、ひどく引っ込み思案ですげないので、何の張り合いもないのを、残念にお思いになる。
 
 
 

第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る

 
137  からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。
 踏み開けたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、
 やっと夜が明けた気配なので、格子をお手づから上げなさって、前の前栽の雪を御覧になる。
 踏み開けた跡もなく、広々と荒れわたって、ひどく寂しそうなので、振り捨てて帰って行くのも気の毒なので、
138  〔源氏〕「をかしきほどの空も見たまへ。
 尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」
 〔源氏〕「風情のある空を御覧なさい。
 いつまでも打ち解けて下さらないお心が、困ったものです」
139  と、恨みきこえたまふ。
 まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。
 
 と、お恨み申し上げなさる。
 まだほの暗いが、雪の光にますます美しく若々しくお見えになるのを、年老いた女房どもは、喜色満面に拝し上げる。
 
140  〔女房〕「はや出でさせたまへ。
 あぢきなし。
 心うつくしきこそ」
 〔女房〕「早くお出であそばしませ。
 いけませんわ。
 素直なのが何といっても……」
141  など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることを、えいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。
 
 などとお教え申し上げると、何と言っても、人の申すことをお拒みになれないご性質なので、何やかやと身繕いして、いざり出でなさった。
 
142  見ぬやうにて、外の方を眺めたまへれど、後目はただならず。
 「いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからむ」と思すも、あながちなる御心なりや。
 
 見ないようにして、外の方を御覧になっていらっしゃるが、横目づかいは尋常でない。
 「どんなであろうか、馴れ親しんで見たときに、少しでも良いところを発見できれば嬉しかろうが」と、お思いになるのも、身勝手なお考えというものであるよ。
 
143  まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。
 うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。
 ふと目ぞとまる。
 普賢菩薩の乗物とおぼゆ。
 あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。
 色は雪恥づかしく白うて真青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。
 痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。
 「何に残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うち見やられ(校訂20)たまふ。
 
 まず第一に、座高が高くて、胴長にお見えなので、「やはりそうであったか」と、失望した。
 引き続いて、ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。
 ふと目がとまる。
 普賢菩薩の乗物と思われる。
 あきれて高く長くて、先の方がすこし垂れ下がって赤色づいていることは、特に異様である。
 顔色は、雪も恥じるほど白くまっ青で、額の具合がとても広いうえに、それでも下ぶくれの容貌は、おおよそ驚く程の面長なのであろう。
 痩せ細っていらっしゃることは、気の毒なくらい骨ばって、肩の骨など痛々しそうに着物の上から透けて見える。
 「どうしてすっかり見てしまったのだろう」と思う一方で、異様な恰好をしているので、そうはいっても、ついつい目が行っておしまいになる。
 
144  頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。
 着たまへるものどもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。
 
 頭の恰好や、髪の垂れ具合は、美しく素晴らしいとお思い申していた方々にも、少しも引けを取らず、袿の裾にたくさんあって引きずっている部分は、一尺ほど余っているだろうと見える。
 着ていらっしゃる物まで言い立てるのも、口が悪いようだが、昔物語にも、人のお召し物についてはまっ先に述べているようだ。
 
145  聴し色のわりなう上白みたる一襲、なごりなう黒き袿重ねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらに香ばしきを着たまへり。
 古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御装ひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。
 されど、げに、この皮なうて、はた、寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。
 
 聴し色の薄紅色がひどく古びて色褪せた一襲に、すっかり黒ずんだ袿を重ねて、表着には黒貂の皮衣の、とてもつやつやとして香を焚きしめたのを着ていらっしゃる。
 昔風の由緒ある御装束ではあるが、やはり若い女性のお召し物としては、似つかわしくなく仰々しいことが、まことに目立っている。
 しかし、なるほど、この皮衣がなくては、さぞ寒いことだろう、と見えるお顔色なのを、お気の毒とご覧になる。
 
146  何ごとも言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。
 いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。
 
 何もおっしゃことができず、自分までが口が利けなくなった気持ちがなさるが、いつもの沈黙を開かせようと、あれこれとお話かけ申し上げなさるが、ひどく恥じらって、口を覆っていらっしゃるのまでが、野暮ったく古風に、大げさで、儀式官が練り歩く時の臂つきに似て、それでもやはりちょっと微笑んでいらっしゃる表情、中途半端で落ち着かない。
 お気の毒でかわいそうなので、ますます急いでお出になる。
 
147  〔源氏〕「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。
 ゆるしなき御けしきなれば、つらう」など、ことつけて、
 〔源氏〕「頼りになる人がいないご境遇ですから、縁を結んだわたしには、心を隔てず打ち解けて下さいましたら、本望な気がします。
 打ち解けて下さらないご態度なので、情けなくて」などと、姫君のせいにして、
 

77
 〔源氏〕
 「朝日さす 軒の垂氷は 解けながら
 などかつららの 結ぼほるらむ」
 〔源氏〕
「朝日がさしている軒のつららは解けましたのに
 どうしてあなたの心は氷のまま解けないでいるのでしょう」
 
148  とのたまへど、ただ「むむ(校訂21)」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。
 
 とおっしゃるが、ただ「うふふっ」とちょっと笑って、とても容易に返歌も詠めそうにないのもお気の毒なので、お出になった。
 
149  御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらも、よろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して、ものあはれなるを、「かの人びとの言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。
 げに、心苦しくらうたげならむ人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。
 あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし」と思ひながら、「我ならぬ人は、まして見忍びてむや。
 わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしと、たぐへ置きたまひけむ魂のしるべなめり」とぞ思さるる。
 
 お車を寄せてある中門が、とてもひどく傾いていて、夜目にこそ、それとはっきり分かっていながら、何かと目立たないことが多かったが、とてもお気の毒に寂しく荒廃しているなかで、松の雪だけが暖かそうに降り積もっている、山里のような感じがして、物哀れに思われるが、「あの人たちが言っていた「葎の門」とは、このような所だったのだろう。
 なるほど、気の毒でかわいらしい女性をここに囲っておいて、気がかりで恋しいと思いたいものだ。
 大それた恋は、そのことで気が紛れるだろう」と、「理想的な葎の門に不似合いなご器量は、取柄がない」と思う一方で、「自分以外の人は、なおさら我慢できようか。
 わたしがこのように通うようになったのは、故親王が心配に思って結び付けた霊の導きによるようである」とお思いになる。
 
150  橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。
 うらやみ顔に、松の木のおのれ起き返りて、さとこぼるる雪も、「名に立つ末の」と見ゆるなどを、「いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな」と見たまふ。
 
 橘の木が埋もれているのを、御随身を呼んで払わせなさる。
 羨ましそうに、松の木が自分独りで起き返って、ささっとこぼれる雪も、「名に立つ末の松山」と見えるのなどを、「さほど深くなくとも、多少分かってくれる人がいたらなあ」と御覧になる。
 
151  御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。
 娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて(校訂22)、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。
 翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。
 御供の人、寄りてぞ開けつる。
 
 お車が出るはずの門は、まだ開けてなかったので、鍵の番人を探し出すしたところ、老人でとてもひどく年とった者が出て来た。
 その娘だろうか、孫であろうか、どちらともつかない大きさの女が、着物は雪に映えて黒くくすみ、寒がっている様子、たいそうで、奇妙な容器に火をわずかに入れて、袖で覆うようにして持っていた。
 老人が、中門を開けられないので、近寄って手伝っているのが、いかにも不体裁である。
 お供の人が、近寄って開けた。
 
 

78
 〔源氏〕
 「降りにける 頭の雪を 見る人も
 劣らず濡らす 朝の袖かな
 〔源氏〕
「老人の白髪頭に積もった雪を見ると
 その人以上に、今朝は涙で袖を濡らすことだ
 
152  『幼き者は形蔽れず(自筆本奥入13・奥入03)』」  『幼い者は着る着物もなく』」
153  とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。
 「頭中将に、これを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ」と、術なう思す。
 
 と口ずさみなさるにつけても、鼻の赤色に現れて、とても寒いと見えたおん顔つきが、ふと思い出されて、微笑まずにはいらっしゃれない。
 「頭中将に、この鼻を見せた時には、どのような譬えを言うだろう。
 いつも探りに来ているので、やがて見つけられてしまうだろう」と、しかたなくお思いになる。
 
154  世の常なるほどの、異なることなさならば、思ひ捨てても止みぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。
 
 世間並の、平凡な顔立ちならば、見捨ててしまってもよいのだが、はっきりと御覧になってしまった後は、かえってひどく気の毒で、実意をもった格好で、いつも訪問なさる。
 
155  黒貂の皮ならぬ、絹(校訂23)、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下思しやりてたてまつりたまふ。
 かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見にて育まむ」と思ほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり。
 
 黒貂の皮衣ではない、絹や、綾、綿など、老女房たちが着るための衣類や、あの老人のための物まで、召使たちの上下の身分をお考えに入れて差し上げなさる。
 このような暮らし向きのことを世話されても恥ずかしがらないのを、気安く、「そのような方面の後見人としてお世話しよう」とお考えになって、一風変わった、普通ではしないところまで立ち入ったお世話もなさるのであった。
 
156  〔源氏〕「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。
 劣るべきほどの人なりやは。
 げに品にもよらぬわざなりけり。
 心ばせの(校訂24)なだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、ものの折ごとには思し出づ。
 
 〔源氏〕「あの空蝉の女が、気を許していた宵の横顔は、かなりひどかった容貌ではあるが、身のもてなしに隠されて、悪くはなかった。
 この姫君はあの女に劣る身分の人であろうか。
 なるほど女の良しあしは身分によらないものであったよ。
 気立てがやさしくて、いまいましくしっかりしていたが、根負けしてしまったなあ」と、何かの折ふしにはお思い出しになられる。
 
 
 

第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる

 
157  年も暮れぬ。
 内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり。
 御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべき事ある折は、参う上りけり。
 
 年も暮れた。
 宮中の宿直所にいらっしゃると、大輔の命婦が参上した。
 お櫛梳きなどの折には、色恋めいたことはなく、気安いとはいえ、やはりそれでも冗談などをおっしゃって、召し使っていらっしゃるので、お呼びのない時にも、申し上げるべき事がある時には、参上するのであった。
 
158  〔命婦〕「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」  〔命婦〕「妙な事がございますが、申し上げずにいるのもいけないようなので、思慮に困りまして……」
159  と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、  と、微笑みながら全部を申し上げないのを、
160  〔源氏〕「何ざまのことぞ。
 我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、
 〔源氏〕「どのような事だ。
 わたしには隠すこともあるまいと、思うが」とおっしゃると、
161  〔命婦〕「いかがは。
 みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。
 これは、いと聞こえさせにくくなむ」
 〔命婦〕「どういたしまして。
 自分自身の困った事ならば、恐れ多くとも、まっ先に。
 これは、とても申し上げにくくて……」
162  と、いたう言籠めたれば、  と、ひどく口ごもっているので、
163  〔源氏〕「例の、艶なる」と憎みたまふ。
 
 〔源氏〕「例によって、様子ぶっているな」とお憎みになる。
 
164  〔命婦〕「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。
 
 〔命婦〕「あちらの宮からございましたお手紙で」と言って、取り出した。
 
165  〔源氏〕「まして、これは取り隠すべきことかは」  〔源氏〕「なおいっそう、それは隠すことではないではないか」
166  とて、取りたまふも、胸つぶる。
 
 と言って、お取りになるにつけても、どきりとする。
 
167  陸奥紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。
 いとよう書きおほせたり。
 歌も、
 陸奥国紙の厚ぼったい紙に、薫香だけは深くたきしめてある。
 とてもよく書き上げてある。
 和歌も、
 

79
 〔姫君〕
 「唐衣 君が心の つらければ
 袂はかくぞ そぼちつつのみ」
 〔姫君〕
 「あなたの冷たい心がつらいので
 わたしの袂は涙でこんなにただもう濡れております」
 
168  心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥の重りかに古代なるうち置きて、おし出でたり。
 
 合点がゆかず首を傾けていらっしゃると、上包みに、衣装箱の重そうで古めかしいのを置いて、押し出した。
 
169  〔命婦〕「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。
 されど、朔日の御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返し(校訂25)はべらず。
 ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」と聞こゆれば、
 〔命婦〕「これを、どうして、見苦しいと存ぜずにいられましょう。
 けれども、元日のご衣装にと言って、わざわざございましたようなのを、無愛想にはお返しできません。
 勝手にしまい込んで置きますのも、姫君のお気持ちに背きましょうから、御覧に入れた上で」と申し上げると、
170  〔源氏〕「引き籠められなむは、からかりなまし。
 袖まきほさむ人もなき身に(自筆本奥入04・付箋②)いとうれしき心ざしにこそは」
 〔源氏〕「しまい込んでしまったら、つらいことだったろうよ。
 『袖を枕にして乾かしてくれる人』もいないわたしには、とても嬉しいお心遣いだ」
171  と(校訂26)のたまひて、ことにもの言はれたまはず。
 「さても、あさましの口つきや。
 これこそは手づからの御ことの限りなめれ。
 侍従こそとり直すべかめれ。
 また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。
 心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、
 とおっしゃって、他には何ともおっしゃれない。
 「それにしても、何とまあ、あきれた詠みぶりであることか。
 これがご自身の精一杯のようだ。
 侍従が直すべきところだろう。
 他に、手を取って教える先生はいないのだろう」と、何とも言いようなくお思いになる。
 精魂こめて詠み出された苦労を想像なさると、
172  〔源氏〕「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」  〔源氏〕「まことに恐れ多い歌とは、きっとこのようなのを言うのであろうよ」
173  と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。
 
 と、苦笑しながら御覧になるのを、命婦、赤面して拝する。
 
174  今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、褄々ぞ見えたる。
 「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、
 流行色の薄紅色だが、我慢できないほどの艶の無い古めいた直衣で、裏表同じく濃く染めてあり、いかにも平凡な感じで、端々が見えている。
 「あきれた」とお思いになると、この手紙を広げながら、端の方にいたずら書きなさるのを、横から見ると、
 

80
 〔源氏〕
 「なつかしき 色ともなしに 何にこの
 すゑつむ花を 袖に触れけむ
 〔源氏〕
「格別親しみを感じる花でもないのに
 どうしてこの末摘花のような女に手をふれることになったのだろう
 
175  色濃き花と見しかども(自筆本奥入05・付箋③)」  『色の濃い「はな」』だと思っていたのだが」
176  など、書きけがしたまふ。
 花のとがめを、なほ(校訂27)あるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。
 
 などと、お書き汚しなさる。
 「紅花」の非難を、やはりわけがあるのだろうと、思い合わされる折々の、月の光で見た容貌などを、気の毒に思う一方で、またおかしくも思った。
 
 

81
 〔命婦〕
 「紅の ひと花衣 うすくとも
 ひたすら朽す 名をし立てずは
 〔命婦〕
「紅色に一度染めた衣は色が薄くても
 どうぞ悪い評判をお立てなさることさえなければ……
 
177  心苦しの世や」  お気の毒なこと」
178  と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。
 人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。
 人びと参れば、
 と、とてももの馴れたように独り言をいうのを、上手ではないが、「せめてこの程度に通り一遍にでもできたならば」と、返す返すも残念である。
 身分が高い方だけに気の毒なので、名前に傷がつくのは何といってもおいたわしい。
 女房たちが参ったので、
179  〔源氏〕「取り隠さむや。
 かかるわざは人のするものにやあらむ」
 〔源氏〕「隠すとしようよ。
 このようなことは、常識のある人のすることでないから」
180  と、うちうめきたまふ。
 「何に御覧ぜさせつらむ。
 我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。
 
 と、つい呻きなさる。
 「どうして、御覧に入れてしまったのだろうか。
 自分までが思慮のないように」と、とても恥ずかしくて、静かに下がった。
 
181  またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、  翌日、内裏に出仕していると、君が台盤所にお立ち寄りになって、
182  〔源氏〕「くはや。
 昨日の返り事。
 あやしく心ばみ過ぐさるる」
 〔源氏〕「そらよ。
 昨日の返事だ。
 妙に心づかいされてならないよ」
183  とて、投げたまへり。
 女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。
 
 と言って、お投げ入れになった。
 女房たちは、何事だろうかと、見たがる。
 
184  〔源氏〕「ただ梅の花の色のごと、三笠の山の(自筆本奥入14・奥入04)をとめをば捨てて」  〔源氏〕「ちょうど紅梅の色のように、三笠の山の少女は捨ておいて」
185  と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。
 心知らぬ人びとは、
 と、風俗歌の一節を口ずさんでお出になったのを、命婦は「とてもおかしい」と思う。
 事情を知らない女房たちは、
186  〔女房〕「なぞ、御ひとりゑみは」と(校訂28)、とがめあへり。
 
 〔女房〕「どうして、独り笑いなさって」と、口々に非難しあっている。
 
187  〔命婦〕「あらず。
 寒き霜朝に、掻練好める花の色あひや見えつらむ。
 御つづしり歌のいとほしき」と言へば、
 〔命婦〕「何でもありません。
 寒い霜の朝に、掻練り好きの鼻の色がお目に止まったのでしょうよ。
 ぶつぶつとお歌いになるのが、困ったこと」と言うと、
188  〔女房〕「あながちなる御ことかな。
 このなかには、にほへる鼻もなかめり」
 〔女房〕「あまりなお言葉ですこと。
 この中には赤鼻の人はいないようですのに」
189  〔女房〕「左近の命婦、肥後の采女(校訂29)や混じらひつらむ」  〔女房〕「左近の命婦や、肥後の采女が交じっているでしょうか」
190  など、心も得ず言ひしろふ。
 
 などと、合点がゆかず、言い合っている。
 
191  御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。
 
 お返事を差し上げたところ、宮邸では、女房たちが集まって、感心して見るのであった。
 
 

82
 〔源氏〕
 「逢はぬ夜を へだつるなかの 衣手に
 重ねていとど 見もし見よとや」
 〔源氏〕
「逢わない夜が多いのに間を隔てる衣とは
 ますます重ねて見なさいということですか」
 
192  白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。
 
 白い紙に、さりげなくお書きになっているのは、かえって趣きがある。
 
193  晦日の日、夕つ方、かの御衣筥に、「御料」とて、人のたてまつれる御衣一領(校訂30)、葡萄染の織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。
 「ありし色あひを悪ろしとや見たまひけむ」と思ひ知らるれど、「かれはた、紅の重々しかりしをや。
 さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。
 
 大晦日の日、夕方に、あの御衣装箱に、「御料」と書いて、人が献上した御衣装一揃い、葡萄染めの織物の御衣装、他に山吹襲か何襲か、色さまざまに見えて、それを命婦が差し上げた。
 「先日差し上げた衣装の色合いを良くないと思われたのだろうか」と思い当たるが、「あれだって、紅色の重々しい色だわ。
 よもや見劣りはしますまい」と、老女房たちは判断する。
 
194  〔老女〕「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」  〔老女〕「お歌も、こちらからのは、筋が通っていて、手抜かりはありませんでした」
195  〔老女〕「御返りは、ただをかしき方にこそ」  〔老女〕「ご返歌は、ただ面白みがあるばかりです」
196  など、口々に言ふ。
 姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。
 
 などと、口々に言い合っている。
 姫君も、並大抵のわざでなく詠み出したもとなので、手控えに書き付けて置かれたのであった。
 
 
   [第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる  [第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
     
197  朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ、例の、所々遊びののしりたまふに、もの騒がしけれど、寂しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会果てて、夜に入りて、御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。
 
 正月の数日も過ぎて、今年は、男踏歌のある予定なので、例によって、家々で音楽の練習に大騷ぎなさっているので、何かと騒々しいが、寂しい宮邸が気の毒にお思いやらずにはいらっしゃれないので、七日の日の節会が終わって、夜になって、御前から退出なさったが、御宿直所にそのままお泊まりになったように見せて、夜の更けるのを待って、お超しになった。
 
198  例のありさまよりは、けはひうちそよめき、世づいたり(校訂31)。
 君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。
 「いかにぞ、改めてひき変へたらむ時」とぞ、思しつづけらるる。
 
 いつもの様子よりは、感じが活気づいており、世間並みに見えた。
 姫君も、少しもの柔らかな感じを身につけていらっしゃる。
 「どうだろうか、もし去年までと違っていたら」と、自然と思い続けられる。
 
199  日さし出づるほどに、やすらひなして、出でたまふ。
 東の妻戸、おし開けたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。
 
 日が昇るころに、わざとためらっているように見せて、お帰りになる。
 東の妻戸、それが押し開けてあるので、向かい合っている渡殿の廊が、屋根もなく壊れているので、日脚が、側近くまで射し込んで、雪が少し積もった反射で、とてもはっきりと奥まで見える。
 
200  御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。
 「生ひなほりを見出でたらむ時」と思されて、格子引き上げたまへり。
 
 お直衣などをお召しになるのを、物蔭から見て、少しいざり出て、お側に臥していらっしゃる頭の恰好や、髪の掛かった様子、それはとても見事である。
 「成長なさったのを見ることができたら」と自然とお思いになって、格子を引き上げなさった。
 
201  いとほしかりしもの懲りに、上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐき(校訂32)のしどけなきをつくろひたまふ。
 わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥、掻上の筥など、取り出でたり。
 さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、されてをかしと見たまふ。
 
 気の毒に思った苦い経験から、すっかりとはお上げにならないで、脇息を寄せて、ちょっともたせかけて、鬢の乱れているのをお繕いなさる。
 めっぽう古めかしい鏡台で……、唐の櫛匣や、掻上げの箱などを、取り出してきた。
 何と言っても、夫君のお道具までがちらほらとあるのを、風流でおもしろいと御覧になる。
 
202  女の御装束、「今日は世づきたり」と見ゆるは、ありし筥の心葉を、さながらなりけり。
 さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。
 
 女の御装束、それが「今日は世間並みになっている」と見えるのは、先日お贈りした衣装箱の中身を、そのまま着ていたからであった。
 そうともご存知なく、しゃれた模様のある目立つ上着だけを、妙なとお思いになるのであった。
 
203  〔源氏〕「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。
 侍たるるものは(自筆本奥入06)さし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」とのたまへば、
 〔源氏〕「せめて今年は、お声を少しはお聞かせ下さい。
 『待たれる鴬はさしおいても』、お気持ちの改まるのが、待ち遠しいのです」と、おっしゃると、
204  〔姫君〕「さへづる春は(自筆本奥入07・付箋④)」  〔姫君〕「囀る春は……」
205  と、からうして(校訂33)わななかし出でたり。
 
 と、ようやくのことで、震え声に言い出した。
 
206  〔源氏〕「さりや。
 年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る(自筆本奥入08・付箋⑤)」
 〔源氏〕「そうよ。
 年を取った甲斐があったよ」と、お微笑みなさって、「夢かと思います」
207  と、うち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。
 口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。
 見苦しのわざやと思さる。
 
 と、口ずさんでお帰りになるのを、見送って物に添い臥していらっしゃる。
 口を覆っている横顔から、やはり、あの「末摘花」が、とても鮮やかに突き出している。
 「みっともない代物だ」とお思いになる。
 
 
 

第二章 若紫の物語

 
 

第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる

 
208  二条の院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、「紅はかうなつかしきもありけり」と見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。
 古代の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかり(校訂34)けるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。
 「心から、などか(校訂35)、かう憂き世を見あつかふらむ。
 かく心苦しきものをも見てゐたらで」と、思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。
 
 二条の院にお帰りになると、紫の君、それはとてもかわいらしい幼な娘で、「紅色でもこうも慕わしいものもあるものだ」と見える着物の上に、無紋の桜襲の細長、それをしなやかに着こなして、あどけない様子でいらっしゃる姿が、何ともかわいらしい。
 古風な祖母君のお躾のなごりで、お歯黒もまだであったのを、お化粧をさせなさったので、眉がくっきりとなっているのも、かわいらしく美しい。
 「自ら求めて、どうして、こうもうっとうしい事にかかずらっているのだろう。
 こんなにかわいい人とも一緒にいないで」と、お思いになりながら、例によって、一緒にお人形遊びをなさる。
 
209  絵など描きて、色どりたまふ。
 よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。
 我も描き添へたまふ。
 髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、画に描きても見ま憂きさましたり。
 わが御影の鏡台に映れるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。
 姫君、見て、いみじく笑ひたまふ。
 
 絵などを描いて、色をお付けになる。
 いろいろと美しくお描き散らしになるのであった。
 自分もお描き加えになる。
 髪のとても長い女性をお描きになって、鼻に紅を付けて御覧になると、絵に描いても見るのも嫌な感じがした。
 ご自分の姿が鏡台に映っているのが、たいそう美しいのを御覧になって、自分で紅鼻に色づけして、赤く染めて御覧になると、これほど美しい顔でさえ、このように赤い鼻が付いているようなのは当然醜いにちがいないのであった。
 姫君、見て、ひどくお笑いになる。
 
210  〔源氏〕「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、  〔源氏〕「わたしが、もしこのように不具になってしまったら、どうですか」 と、おっしゃると、
211  〔紫君〕「うたてこそあらめ」  〔紫君〕「嫌ですわ」
212  とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。
 そら拭ごひをして、
 と言って、そのまま染み付かないかと、心配していらっしゃる。
 拭い取るまねをして、
213  〔源氏〕「さらにこそ、白まね。
 用なきすさびわざなりや。
 内裏にいかにのたまはむと(校訂36)すらむ」
 〔源氏〕「少しも、消えないぞ。
 つまらないいたずらをしたものよ。
 帝にはどんなにお叱りになられることだろう」
214  と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、  と、とても真剣におっしゃるのを、本気で気の毒にお思いになって、近寄ってお拭いになると、
215  〔源氏〕「平中がやうに色どり添へたまふな。
 赤からむはあへなむ」
 〔源氏〕「平中のように墨付けなさるな。
 赤いのはまだ我慢できましょうよ」
216  と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。
 
 と、ふざけていらっしゃる様子、とても睦まじい兄妹とお見えである。
 
217  日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。
 階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。
 
 日がとてもうららかで、もうさっそく一面に霞んで見える梢などは、花の待ち遠しい中でも、梅は蕾みもふくらみ、咲き始まっていたのが、特に目につく。
 階隠のもとの紅梅は、とても早く咲く花なので、もう色づいていた。
 
 

83
 〔源氏〕
 「紅の 花ぞあやなく うとまるる
 梅の立ち枝は なつかしけれど
 〔源氏〕
「紅の花はわけもなく嫌な感じがする
  梅の立ち枝に咲いた花は慕わしく思われるが
 
218  いでや」  いやはや」
219  と、あいなくうちうめかれたまふ。
 
 と、不本意に溜息をお吐かれになる。
 
220  かかる人びとの末々、いかなりけむ。
 
 このような人たちの将来は、どうなったことだろうか。
 
 
 

【定家注釈】

 
 
  奥入01 琴詩酒伴皆抛我雪月花時(白氏文集「寄殷協律」、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入02 婦が門 夫が門 行き過ぎかねてや 我が行かば 肱笠の 肱笠の 雨も降らなむ 郭公 雨やどり 笠やどり 舎りてまからむ 郭公(催馬楽「婦が門」、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入03 文集 秦中吟 夜深烟火尽 霰雪白紛々 幼者形不蔽(白氏文集「秦中吟」、自筆本奥入)  
  奥入04 求子の歌を春日にては三笠の山と歌ふ(自筆本奥入)  
  奥入05 文集六十二 北窓三友
   今日北窓下 自問何所為 欣然得三友 三友者為誰 琴罷輒挙酒 酒罷輒吟詩 三友逓相引 脩隈無已時 一弾△〈カナフ〉中心 一詠暢四支 猶恐中有問 以酔弥縫之(白氏文集「北窓三友」、自筆本奥入)
 
 
  付箋① 思はずは思はずとやは言ひはてぬなど世の中の玉襷なる(古今六帖3216、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋② 白雪は今日はな降りそ白妙の袖まきほさむ人もなき身に(古今六帖755、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋③ 紅を色濃き花と見しかども人の飽くだに移ろひにけり(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋④ 百千鳥さへづる春はものごとに改まれども我ぞふりゆく(古今集28、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋⑤ 夢とこそ思ふべけれどおぼつかな寝ぬに見しかば分きぞかねぬる(後撰集714、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋⑥ 我にこそ辛さは君が見すれども人に墨つく顔のけしきよ(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋⑦ 匂はねど微笑む梅の花をこそ我もをかしと折りて眺むれ(好忠集26、源氏釈・自筆本奥入)  
 
 

【校訂付記】

 
 
  校訂01 内裏に--(+うちに)(「うちに」を補入)  
  校訂02 いかでかは--いかて可(+ハ)(「は」を補入)  
  校訂03 なむ」と--なと(「む」の脱字であろう、諸本により「む」を補入した)  
  校訂04 心やましきに--心やましき(+丹)(「に」を補入した)  
  校訂05 人わきしける--人王起ゝ(ゝ#し)氣る(「ゝ」を抹消して「し」と訂正)  
  校訂06 さりとも--佐りと(「も」の脱字であろう、諸本により「も」を補訂した)  
  校訂07 えしもや--えに(に/$<朱>)しも1や(「に」を朱筆でミセケチにする)  
  校訂08 手を--て(+を)(「を」を補入)  
  校訂09 御許しなくとも--御ゆるしな2う(う$く)とも(「う」をミセケチにし「く」と訂正)  
  校訂10 など--な2と尓(尓/$<朱>)(「尓」を朱墨でミセケチにする)  
  校訂11 ばや」とぞ--ハや(+と)そ(「と」を補入)  
  校訂12 男は--おとゝ(ゝ$)こハ(「ゝ」をミセケチにする)  
  校訂13 まけ--さ(さ$万<朱>)(「さ」を朱筆でミセケチにして「万」と訂正)  
  校訂14 口--くれ(れ#ち)(「れ」を抹消して「ち」と訂正)  
  校訂15 とて--と(+て)(「て」を補入)  
  校訂16 御ほどを--御ほと(+を)(「を」を補入)  
  校訂17 もろともに--もろと(+も1)尓1(「も」を補入)  
  校訂18 たまへれ--給へ(+連)(「れ」を補入)  
  校訂19 おぼつかなくて--を本つ可なく(+て)(「て」を補入)  
  校訂20 見やられ--ミや(+ら)連(「ら」を補入)  
  校訂21 むむ--むく(=む)(「む」と傍記、「く」は「ゝ」の誤写か、傍記に従う)  
  校訂22 深うて--ふかう(+て)(「て」を補入)  
  校訂23 絹--(+きぬ)(「きぬ」を補入)  
  校訂24 心ばせの--心ハせ(+の)(「の」を補入)  
  校訂25 え返し--者(者$盈<朱>)可へし(「は」を朱筆でミセケチにして「え」と訂正)  
  校訂26 うれしき心ざしにこそは」と--(/+うれしき心さし尓こ2そハと<朱>)(朱筆で12文字補入)  
  校訂27 なほ--(/+なを)(「なを」を補入)  
  校訂28 御ひとりゑみは」と--御ひと里ゑミハ(+と)(「と」を補入)  
  校訂29 采女--うね1ゑ(ゑ/$遍)(「ゑ」をミセケチにし「へ」と訂正)  
  校訂30 一領--ひとく(+多り)(「たり」を補入)  
  校訂31 世づいたり--(+よ)徒い多1り(「よ」を補入)  
  校訂32 御鬢ぐき--御ひん(ん/$)くき(「ん」を朱墨で削除)  
  校訂33 からうして--かし(し$らイ、イ#)うして(「し」をミセケチにして「ら」と訂正)  
  校訂34 まだしかり--さ(さ$万)た志可り(「さ」をミセケチにして「ま」と訂正)  
  校訂35 などか--な2と(+可)(「か」を補入)  
  校訂36 のたまはむと--の給者む(+と)(「と」を補入)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。