原初の古典の原典を読解し、大意の把握、更なる理解を開拓する。
古典の象徴作品を通し、古今を通じ色あせない古歌の実質を知る。
竹取物語、伊勢物語、いろは歌、源氏物語、百人一首、古今集、万葉集、古事記を収録。これを古い聖書読解の布石にする(宗教とは無関係)。
その他、大和物語、土佐日記、蜻蛉日記、枕草子、和泉式部日記、紫式部日記、紫式部集、更級日記、宇治拾遺物語、平家物語、徒然草、奥の細道。
別格の古典は、常に古の神秘の詩句を継承してきたが、その神秘は最古の神話に基づく(myth; mystery; my-story)。
ふりにしの レイン(reign)と掛けてみよ(御世・見よ)と解く 神のしるし(sign)の RAINBOW(design, signature)
その見えざる手を認めない人にとって神秘と奇跡は、宙に浮いて回る天体や人体のように原理は再現できなくとも理解されていると思う、まぐれの産物。
いにしえのイニシエーション。なまえでナーメ(name)、「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(創世記11:1)。The word of Lord is the world.
象徴的古語(百敷など)について、通説や教科書・辞書が原理を決めており、絶対の正解と思う皮相的な先入観を、古典を読む際は改める必要がある。
解釈できず、しるよし(知る由)を領るよし、うゐ(憂い)を有為とし、自分達の理解にひきつけた特殊概念を場当たりで当てつける無秩序な読解を改める。
「月影」の影の非実体性を解せず月光と曲げる通説。しかし月影は、月の陰影・面影・幻影(物理→心象)。高次の和歌は心象表現。解釈にはルールがある。
読者達の感覚ではなく著者の総体的文脈に基づく。分解するほど文脈は見えなくなるというのが道理。語尾や活用から文脈を定義するのが本末転倒の背理法。
通説は貫之の「女もしてみん」を女の私もしてみようと解するが、女を装った根拠は文脈になく、女もしてみようと平易な平仮名で啓蒙したという以外ない。
貫之は仮名序で女を装ってないし、初のかな和歌集古今で女子は上位20人中伊勢の御と小町の2人のみ、さらに土佐以前に女流文学作品は認定されていない。
貫之を女とし、紫式部集先頭の「はやうよりわらは友だちなりし人」で同性と決めて、枕詞「めぐり逢ひて」を字余りと流す、現状の解釈法は根本的に背理。
「めぐり逢」の源氏唯一の運命的恋歌用法(澪標「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」)を無視して、紫式部集先頭の枕詞「めぐり」は月の縁語という文脈と無関係にできる説明で理解は深まったのだろうか。枕詞・先頭は全体の集約で象徴。象徴の重みが全く解らない現状の解釈。
「月影」を源氏物語で源氏のこととしつつ(須磨「月影の宿れる袖はせばくとも とめても見ばやあかぬ光を」)、紫式部集1(めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜はの月かげ)で同性の女友達の歌とする通説。整合性はあるだろうか。詞書の「友だち」は歌の従たる説明で本体ではない。それに和歌の文脈で幼馴染とくれば、素養ある人が想起すべきは筒井筒であり、紫式部集1の枕詞及び歌本体は正にその文脈を象徴している(出会いと別れと月夜)。また光隠れたというその前に本文のない雲隠巻なるものがあるという。
光と影、つまり紫式部の物語と彼女を象徴する和歌は、古文と和歌にとって些末な解釈なのだろうか。自明なことは解釈する必要も、解釈という必要もない。そしてそれは単語が分かれば意味が分かるというものではないし、当時は自明だった訳でもない。だから貫之は古の事と歌の心をも知る人は一人二人とした。
その光は即物的な光ではない心の光。その影は面影。月影は(儚い人の)面影。源氏はいわば月、月は幻の象徴であるから、源氏最期の巻名が幻であり、この幻は最後の夢と対になる。これがあらゆる面で完璧な解釈。
ドメイン | PV | 大学・研究教育機関名 |
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yale.edu | 14 | イェール大学 |
affrc.go.jp | 14 | 農水省 農林水産研究情報総合センター |
u-tokyo.ac.jp | 5 | 東京大学 |
hiroshima-u.ac.jp | 5 | 広島大学 |
otsuma.ac.jp | 5 | 大妻女子大学 |
open.ed.jp | 4 | 沖縄県立総合教育センター |
u-paris2.fr | 3 | パリ第二大学 |
kyoto-u.ac.jp | 3 | 京都大学 |
scu.edu.tw | 3 | 台湾東呉大学 |
chiben.ac.jp | 3 | 智辯学園 |
nara-edu.ac.jp | 3 | 奈良教育大学 |
archives.go.jp | 2 | 国立公文書館 |
tohoku.ac.jp | 2 | 東北大学 |
shiga-med.ac.jp | 2 | 滋賀医科大学 |
pref-shiga.ed.jp | 2 | 滋賀県立校 |
sugiyama-u.ac.jp | 2 | 椙山女学園大学 |
fku.ed.jp | 2 | 福岡県立校 |
kitakyu-u.ac.jp | 2 | 北九州市立大学 |
columbia.edu | 1 | コロンビア大学 |
ucla.edu | 1 | カリフォルニア大学ロサンゼルス校:UCLA |
unistra.fr | 1 | ストラスブール大学 |
elte.hu | 1 | ブダペスト大学:エトヴェシュ・ロラーンド大学 |
unt.edu | 1 | ノーステキサス大学 |
mext.go.jp | 1 | 文部科学省 |
asahikawa-nct.ac.jp | 1 | 旭川高専 |
kanto-gakuin.ac.jp | 1 | 関東学院大学 |
kyutech.ac.jp | 1 | 九州工業大学 |
yamaguchi-pu.ac.jp | 1 | 山口県立大学 |
cuc.ac.jp | 1 | 千葉商科大学 |
ntu.edu.tw | 1 | 台湾大学 |
tsukuba.ac.jp | 1 | 筑波大学 |
twcu.ac.jp | 1 | 東京女子大学 |
nanzan-u.ac.jp | 1 | 南山大学 |
sozo.ac.jp | 1 | 豊橋創造大学 |
do-johodai.ac.jp | 1 | 北海道情報大学 |
rku.ac.jp | 1 | 流通経済大学 |
u-ryukyu.ac.jp | 1 | 琉球大学 |
kokugakuin.ac.jp | 1 | 國學院大學 |
※非常に高いレベルから厚く支持を受けているとお分かり頂けると思う。上記構図は年単位でもおおむね投影されている。
一番上の14:14は全体の国内外の対比とその性質を象徴していると思う(農林水産研究情報総合センターは農水省の図書館。沖縄県立総合教育センターと名称と数(14と4)が完全に対をなし、他にも要所で対がある)。
大学ではイェールが群を抜いているが、それでも数字が完璧に対になり国内の配列を見ても順当。と言う訳で、これが日本と米国(世界の集約=シンボルがオールスター)の知的先進性の差で、それが視覚化されたと思ってもらっていいと思う。
その他のアイビーリーグはかわるがわる。アイビーというだけあり古を重んじる。日本は古を知的に軽んじる。コロンビアは割と見るが、ハーバードはほぼ見ない。UCLAはたまに熱くなる。だから上の面子は良く集約されている。まれにオックスフォード・ケンブリッジからのアクセスもあり(ちなみに米国でもイェールの近くにオックスフォード、ハーバードはケンブリッジという所にある、カルテット)、パリのナンバー大学はたまに見る。フランスが文でドイツは理、イェールが文でハーバードは理、東京が文で京都は理。ドメインもu-tokyoとkyoto-uで完全な反転形。東京の文が権威マッチョになるのは道路の様に左右反転しているから(西洋が左脳で東洋が右脳)。という理。東の反転マッチョ典型の象徴があの象徴的な作家。
理科理科しいのは興味ないが、天体と人体(の思想・アーキテクチャー)、宇宙と時空間には興味がある。目に見えない次元、ユニバーサルなルール。根本的なひな型(アーキタイプ)、全て支配し支える高次の法、永遠の摂理。
高次は別次元・異次元と同義で、人智及ばない精妙さ、低次はその因果を直接認知できない世界。国内レベルで異次元異次元いうのが低次元。
東大が国内大学筆頭に来たが、このサイトで東大の印象は乏しかったので、これはまず見えざる手(超常的調整作用)が働いている。いやお前の手だろという人は全体で判断してもらいたい。わからなければ双方その程度でいい。
旧帝大は東京5・京都3・東北2で順当。順当過ぎてむしろ怖い。よって確実に(以下略)
なお、カウントでは東京・広島・大妻が並ぶが、これは最上部の14:14のように意味が異なると解する。
このサイトを熱心に見てくれる方、先進的な先生方はとても有難いことと思う。ただ最初に記した伊勢物語の各段解釈は今のところ自分でも目もあてられない乱文でわざわざ拒絶反応を送ってくる方もいるので、普通の人にはお勧めできない。しかしとりわけ伊勢と紫式部にまつわる記述で乱れることがあっても、俯瞰した理論面では世界最先端で、特に伊勢の成立著者の立論は磐石で穴がないと自負している。でなければ無名サイトを作って1年で来た最初のメールが米国有力大学の教授からの論文引用希望というのはありえないし、上記アクセス構成もそれを裏付けている。ちなみにこのメールの数日後、匿名男性から書いてることが滅茶苦茶だからもっと勉強した方がいいというのが来た。さぞ熱心に言われるままにお勉強されたようで、世に出た自説もあるのだろう。
学説に基づく辞書・教科書の説明は、文献学・歴史学の先にある文学的文言の解釈について推測の域を超えない。それを超える多角的説明は、第三者が家の中を描写する位無理なこと。キーをどれだけ曲げて見せても解くことはできない。「けぢめ見せぬ」で分け隔てしない、「おぼろけ」で並大抵でない、「露」で恩恵と言葉を自在に膨らませ曲げる。これらは枢要人物の形容(在五、紫式部、道長)で些末な描写ではない。権威にかかわれば全て礼賛、批判は間違いとみなす忠臣蔵的・官僚優等生的発想。自分達で決めれば何でもありで正しくできると思う。それが無法、古くは末法。「けぢめ見せぬ」の通説の解はまさに末法。これが今の古文和歌理論の根本にある言語的病理、即ち背理。
取りたい結論・願望的見立てに沿うように言葉を悉く曲げ、あることをないと言い、ないことをあると言い、致命的問題を問題ないといい、手数を増やし問題を複雑にする問題をわざわざ作り出し、状況は良くなっていると言を左右にすることを解釈と勘違いしている。これが背理。それを権威的に定義化・ドグマ化・教化して認知を病む。その病理をここで改める。