原初の古典の原典を読解、大意を把握し、更なる理解を開拓する。
古典の象徴作品を通し、古今を通じ色あせない古歌の実質を知る。
竹取物語、伊勢物語、いろは歌、源氏物語、百人一首、古今集、万葉集、古事記、論語。これらを古い聖書読解の布石にする(宗教とは無関係)。
その他、大和物語、土佐日記、蜻蛉日記、枕草子、和泉式部日記、紫式部日記、紫式部集、大鏡、更級日記、平家物語、宇治拾遺物語、徒然草、おくのほそ道。
各大学ドメインからの閲覧実績は以下に掲載(大学:406校 (海外123、国内283), 高専:26校, 高校以下:79校)。海外の大学は世界と各国を代表するレベルの大学で、こうした分布から当サイトの構成は大学の一般的な研究以上の水準とおわかりいただけるかと思います。また各大学からのアクセスは中々有意な集計ではないでしょうか。私の理論的な成果はページ下の表とそれをエッセンス化したフッター部の研究概要参照。
2024年と2025年で一日平均2000PV超、最近は3000PV前後、一日1200~1700ユニークユーザー、年平均で75万PVほど。
サイトマップすらG社に登録できないジンドゥーのサブドメインサイトで中々健闘と思いますが、いかんせん限界なので独自ドメインでリニューアルし、皆さんがより高速で網羅的に検索・索引・引用を可能にし、古事記・万葉・竹取伊勢・古今の構造から古文の根幹を網羅的に一貫させ、相応の実力の根拠もない上流貴族本位の、著者中心ではなく自分達中心で積み上げた印象論・論理的必然がない感想文的理解を、根本から改める私の理論面も学術形式にし検索にかからせていきます。
とはいえ千年来、貴族社会本位・体制秩序として許容範囲内の限度での一方的正当化・既成事実化を担って来た人々、つまり竹取のように身分秩序を徹底反転・滑稽化させ物語の祖ともされた古典の方を権威に反発する幼稚な文体とみなし、伊勢物語では一切の事実と整合しない一方的・政治的業平認定とその稚拙な政治心理的背景を解せず遊離した業平賛美が中枢まで食い込み、いかに自分達の文脈にこじつけ古典を後付けとみなし原典の文言を曲解・解体するかを後撰以降試み続けてきた人々には、多角的事実を総合させた論理(一つに天を冠し掲げながら、その権威の源泉をもたらした天への信仰など最早完全に知ったことではない社会に対する超越的秩序の提示とその著者論)を受け入れることなど思考枠組み的に原理的に不可能でしょうから、そうした集団的予断を良しとしない、封建主義・権威主義を自覚的に批判し先進化させる骨太の学問的・理論的歴史を共有してきた、普通に考えれば海外の研究層が対象です。
文学部出身でもなく2019年まで古文と和歌に関わりもなかったのですが、ふとしたきっかけで竹取と伊勢物語を原文で読み始め、解説なしで意味がわかり、特に伊勢物語、和歌の歴代不動の定説が業平賛美ありきのこじつけであること
(「在五」初出の伊勢63段の語意を誰一人蔑称と解せず通称とし、「在五」の「けぢめ見せぬ心」を「分け隔てしない(誰とでも寝る感心な)心」とする、かな和歌理論根本にある驚天動地の狂気じみたドグマ。これはおじさん達の妄想ではなく大真面目な定説。というより歴代妄想が化体したもの。業平認定は曲解なく成り立たない原文に一切基づかない感覚論。寄せ集めの勅撰=古今が何を参照したかなど関係なく原典で正典と思い込む印籠の如きもの。勅撰が間違っているなどと不敬なことを思ってはならない。諸事実に照らし人類的見地から明らかな間違いでも正しいと一方的に理論づける、それが全体主義的な美しい国の伝統的学問。それは社会秩序上維持されるべきもの。批判的検証などはなく、正しさを裏付ける目的においてのみなされる。古今より数十年前で一貫した文体の伊勢物語の方が著者複数の寄せ集め派生物、類型的に断片的な古今が先で主と自分達の見立てをもとに自在にみなし認定。最早何が書いてあっても関係ない。当時その意味はない、こういう意味だ、それが正しい、それ以外は信ずるに足らん僻事だと一方的に示せばいい。そうした歴代御用系の政治的結論ありきの人定も、世を経て人目(あるいは歴代天皇の目)に触れるにつれ立ちいかなくなり、伊勢を業平が書いた業平歌集と主張することは流石にやめたが、そうして何の理論的根拠もなくなった昔男業平認定を何が何でも維持するため(当初の政治的決定の過ちを認めず)、著者は業平を思慕した者だと原文完全無視の曲解を展開し始めた。源氏物語で直接言及して議論され厳然としてある伊勢物語、和歌の教典とされ続けてきた伊勢物語をあえて無視し、古今の自然分布を逸脱した長大な伊勢物語関連の詞書の文献根拠も示さず、どこかにあるはずの業平原歌集と言い始めた。源氏物語・絵合にあるように業平物語性を否定するための伊勢物語呼称だが、その意味も誰も考えないし源氏学者もそこに意味はみない。これが狭い専門性の限界。西洋では専門分野を横断、さらに統合できる学者の方がハイレベルというのは一般認識。しかし枝葉末節を突き詰める我々は山や海の外の話など知ったこっちゃないが、それを上回る理論的成果を出せるわけでもない。古今以来伊勢を丸ごと業平歌集とみなし押し切ってきた理論的根拠が完全に失われたことも最早誰もわからない、みなそう言ってきたというだけで信じ続ける空虚な権威主義)
がわかり、2020年にこのサイトを立て(経緯とか動機は略歴参照)、1年3カ月で米国の大学(リトルアイビーの一校)の教授から伊勢物語の立論で論文引用したいから名前を教えてほしいというメールを頂き(実際引用されたかは確認してないので不明ですが)、個々の解釈で雑な表現はあるにしても総体的な立論・構成では海外の論文に引用されるに足るレベルと言ってよいでしょう。
最近は、国内外大学のシラバスサイトやGoogle Classroom経由の利用も増え(ここ10年で大学も多くClassroomを導入したとか。よくは知りませんが)、まれに古文の教科書会社からアクセスもあります。
あとは各作品の和歌一覧抜粋して、原文全文該当部と直接リンクさせたことですね。
これは私のサイトが今までのところ世界で唯一でしょう。しかも代表的な作品を網羅している。どの大学・研究機関のサイトにも、学術本にもないでしょう。和歌の一覧があるメジャー本は源氏物語の新編全集くらいですか。他作品もあるかもしれませんが、しかし全集も常に巻末に和歌のリストがあるわけではないし、そのリストからすぐ原文を参照できるわけでもない(源氏は分冊)。
それに物理的な本では、当該文言の容易な網羅的参照が無理あるいは困難なのです。それで分析も甘くなる。注釈も最早文献学でそれが的を得てればいいですが微妙な所になると文献を漁りばかりで、著者の本文を多角的に読解する姿勢がない。自分達の感想文的な観念分類を当てて理解したことにする。これが歴代暗記主義的教育の成果の一つ。与えられた答えを覚え世界の理解に近づいたと思う。自分達で世の理を決めていると思う低次の理、それがヒトの理屈。理を曲げると書く。矮小化して曲げる。論理も理屈も違いがわからない。これが右も左もわからない。自分達で決めれば何でもありにできると思う。それが無法。どんなに文言が曲げられても曲解と思わない。これが無理解。「法の支配」の「法」は人の制定法のことでは本来ない。人が服する不文律たる摂理。そうした大陸法に対する英米法・コモンローの根本精神(人の権力も上回る摂理)を解する精神的土台も素養もない即物的な人々が、自分達本位の先進性・理性を示そうと援用してきた。「俺の支配・俺らの支配」が「俺らの決めた法による支配」になっても何も変わらないことが無思慮極まり思い至りもしない。その程度なら違憲審査制度など生じることもないが、あるものを取って付けられて我々も先進国と誇ってるだけなのでそんなことは考えない。権威主義を高度な精神性と混同し権威恭順を誇る近代的な自分達より不合理なものと思う。人の創造理論から生まれた近代理念を援用し先進国の証として誇りながら、その思想的背景を、普遍的な人道理論で何ら貢献しない自分達より知性と理性レベルの低い不合理なものとみなし、その知的な至らなさに思い至る由もない(無知の無知)。
自然法則の一端を解明した人を凄いとだけ思うのは本来違う。なぜ漫然と偶然の産物とみなしている諸作用を、人の高度な知能を駆使して解く必要があるのですか? 近視眼的で即物的で刹那的で、自分達本位の天動説的理解で、あまりに人類の傲慢と表裏一体の至らなさに無自覚ではないでしょうか。動物や昆虫社会が局所的に組織化され生産活動を営んだとして、それをその種の高度の知性の成果と人はみなすでしょうか? その種に設計図として内在する本能的素質とだけ見るのではないですか? 自分達が再現できない自律作用は全て偶然。自分達の認識するものだけが意図的。これが次元が違うということです。その高次の(メタな)因果と意図について認識も理解も及ばず、自分達をとりまく世界的情況を客観視できず、自分達相応、それ以下にきまぐれなものとみなすということ。
古典でいえば、170kmの変化球が四隅に決まってもそれは偶然で、捉えがたいのはそれは時代が違うだけで、品詞活用などの自分達のミクロなツールセットにひきつけて見切ったことにしてきた界隈のようなものです。自分達が意味を認識しなければ意味がないことにできる。狭い世界では。しかし先述の「支配」はそうした人の支配認識と無関係に、有無を言わさず上回る作用ということです。
学問・研究というと入試界隈の皆さんは難解な用語を羅列したり重箱の隅をつつくことを連想するようですが、そうではなく一見してすぐには筋の捉えがたい事象を多角的・明瞭に筋を通し説明する、それが学習の先にある学問であり、その先にある高次の論理的思考なのです。いかにもな難しい言葉を多用すればいい訳ではない。むしろ単純なことを一々膨らませていては高次の分析には絶対到達できない。
実態の伴わない言葉をいくら重ねても説明したことにはならない。しかしそれが現実にはそれが多く起こっている。受け売りばかりの権威主義的な慢心のツケを社会全体が負い続け、そのツケは拡大していく。
管理人の古文・和歌のバックボーンは略歴を参照。
主な研究成果は、以下の表とページフッター部の研究概要参照。