平家物語 巻第四 鼬之沙汰:概要と原文

源氏揃 平家物語
巻第四
鼬之沙汰
いたちのさた
信連

〔概要〕
 
 後白河法皇が鳥羽に幽閉され早二年。イタチが鳥羽殿中で走り騒ぎ、陰陽頭の安倍泰親に観させると、「三日のうち御喜び、並びに御歎き」とのことだった。

 


 
 さるほどに法皇は、「成親、俊寛がやうに、遠き国遥かの島へも遷されんずるや」と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年にならせ給ふ。
 

 同じき五月十二日の午の刻ばかりに、鳥羽殿には鼬おびたたしう走り騒ぐ。法皇大きに驚かせ給ひて、御占形を遊ばいて、近江守仲兼が、その頃はいまだ鶴蔵人と召されけるを召して、「これもつて陰陽頭安倍泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せける。仲兼これを給はつて、陰陽頭安倍泰親がもとへ行く。
 折節宿所にはなかりけり。白河なる所へといひければ、それへ尋ね行いて、勅定の趣仰すれば、きつと勘へて、やがて勘状を参らせけり。
 仲兼これを取つて鳥羽殿に参り、門より参らうどすれば、守護の武士ども許さず。案内は知つたり、築地を越え、大床の下を這うて、切り板より、泰親が勘状をこそ参らせけれ。法皇これを開いて叡覧あれば、「いま三日が仲の御喜び、並びに御歎き」とぞ申したる。法皇、「これほどの御身になつても、御喜びはしかるべし。またいかなる御目に合はせ給ふべきやらん」とぞ仰せける。
 

 同じき十三日前右大将宗盛卿、法皇の御事をたりふし申されければ、入道相国やうやうに思ひ直つて、法皇をば鳥羽殿を出だし奉り、都へ御幸なし奉り、八条烏丸の美福門院の御所へ入れ奉る。いま三日が中の御喜びとは、泰親これをぞ申しける。
 

 かかりける所に、熊野の別当湛増、飛脚をもつて、高倉宮の御謀叛の由都へ申したりければ、前右大将宗盛卿大きに騒いで、入道相国、折節福原におはしけるに、この由申されたりければ、聞きもあへず、やがて都に馳せ上り、是非に及ぶべからず。高倉宮からめ取つて、土佐の畑へ流せ」とこそ宣ひけれ。
 

 上卿は三条大納言実房、職事には頭弁光雅とぞ聞こえし。ぶしには源大夫判官兼綱、出羽判官光長承つて、都合その勢三百余騎、宮の御所へぞ向かひける。
 

 この源大夫判官と申すは、三位入道の次男なり。しかるをこの人数に入れられけるは、高倉宮の御謀叛を三位入道勧め申したりしとは、平家いまだ知らざりけるによつてなり。
 

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