源氏物語 47帖 総角:あらすじ・目次・原文対訳

椎本 源氏物語
第三部
第47帖
総角
早蕨

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 総角(あげまき)のあらすじ

 薫24歳の秋八月から冬十二月の話。

 秋八月、八の宮〔源氏の異母弟〕の一周忌法要が営まれ、〔源氏の妻から生まれた柏木の子〕はこまごまと心をくばった。その夜、薫は大君〔の宮の長女〕に近づき意中を訴えるが、大君に拒まれ、そのまま夜通し語り合って別れる。大君は父宮の遺志を継ぎ宇治の主として独身を貫く決意をしており、その一方で妹の中君を薫と結婚させようと考えている。大君の衣服には薫の強い香が染み付いており、中君は薫との仲を疑う。

 一周忌が済んで間もなく宇治を訪れた薫は、大君の結婚を望む老女房の弁たちの手引きで大君の寝所に入るが、大君はいち早く気配を察し中君を残して隠れてしまう。薫は、後に残された中君に気付き、二人そのまま語り明かすことになった。

 大君の意思を知った薫は中君を匂宮と結婚させようと考え、九月のある夜ひそかに匂宮〔今上帝の三宮。源氏の異母兄(朱雀帝)の孫〕を宇治に案内し、中君と逢わせてしまう。薫は事実を打ち明け大君に結婚を迫るが、大君は承知しなかった。匂宮は三日間中君の元に通い続けたが、母后・明石の中宮〔源氏の子〕に反対され、足止めされてしまいその後は身分柄思うように宇治を訪問することができない。大君と中君は、匂宮の訪れが途絶えたことを嘆き悲しんだ。十月、匂宮は宇治川に舟遊びや紅葉狩りを催して中君に会おうと計画したが、多くの人が集まり盛大になりすぎ、かえって目的を果たせなかった。父は匂宮の遠出をやめさせるために、夕霧の六の君との結婚を取り決める。

 これを聞いた大君は心労のあまり病に臥し、薫の懸命の看病もむなしく、十一月、薫に看取られる中で草木の枯れていくように息絶えた。26歳だった。その日は豊明節会の日で、宇治は吹雪の夜であった。

 大君と結ばれぬまま終わった薫は深い悲嘆に沈み、宇治に籠って喪に服した。薫の悲しみを人伝てに聞いた明石の中宮は、「ここまで想われる女人の妹姫なら、匂宮が通うのも無理はない」と思い直し、匂宮に「二条院へ妻として迎えても良い」と認めた。匂宮は、中君を京の二条院に引き取る決意をした。

(以上Wikipedia総角(源氏物語)より。色づけと〔〕は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#総角(31首:別ページ)
主要登場人物
 
第47帖 総角(あげまき)
 薫君の中納言時代
 二十四歳秋から歳末までの物語
 
第一章 薫と大君の実事なき暁の別れ
第二章 大君、中の君を残して逃れる
第三章 中の君と匂宮との結婚
第四章 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
第六章 大君の病気と薫の看護
第七章 君の死と薫の悲嘆
 
 
第一章 大君の物語
 薫と大君の実事なき暁の別れ
 第一段 秋、八の宮の一周忌の準備
 第二段 薫、大君に恋心を訴える
 第三段 薫、弁を呼び出して語る
 第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)
 第五段 薫、大君の寝所に迫る
 第六段 薫、大君をかき口説く
 第七段 実事なく朝を迎える
 第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う
 
第二章 大君の物語
 大君、中の君を残して逃れる
 第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問
 第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める
 第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す
 第四段 大君、弁と相談する
 第五段 大君、中の君を残して逃れる
 第六段 薫、相手を中の君と知る
 第七段 翌朝、それぞれの思い
 第八段 薫と大君、和歌を詠み交す
 
第三章 中の君の物語
 中の君と匂宮との結婚
 第一段 薫、匂宮を訪問
 第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う
 第三段 薫、中の君を匂宮にと企む
 第四段 薫、大君の寝所に迫る
 第五段 薫、再び実事なく夜を明かす
 第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く
 第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜
 第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜
 
第四章 中の君の物語
 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
 第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める
 第二段 薫、明石中宮に対面
 第三段 女房たちと大君の思い
 第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
 第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる
 第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く
 第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える
 第八段 匂宮、中の君を重んじる
 
第五章 大君の物語
 匂宮たちの紅葉狩り
 第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り
 第二段 一行、和歌を唱和する
 第三段 大君と中の君の思い
 第四段 大君の思い
 第五段 匂宮の禁足、薫の後悔
 第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う
 
第六章 大君の物語
 大君の病気と薫の看護
 第一段 薫、大君の病気を知る
 第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る
 第三段 中の君、昼寝の夢から覚める
 第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く
 第五段 薫、大君を見舞う
 第六段 薫、大君を看護する
 第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る
 第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う
 第九段 薫、大君に寄り添う
 
第七章 大君の物語
 大君の死と薫の悲嘆
 第一段 大君、もの隠れゆくように死す
 第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり
 第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆
 第四段 雪の降る日、薫、大君を思う
 第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問
 第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
 第七段 歳暮に薫、宇治から帰京
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

薫(かおる)
源氏の子〔と一般にみなされる柏木の子、頭中将の孫〕
呼称:中納言・中納言殿・中納言の君・客人・殿・君
匂宮(におうのみや)
今上帝の第三親王
呼称:兵部卿宮・宮・男
今上帝(きんじょうてい)
朱雀院の御子
呼称:帝・主上・内裏
大君(おおいきみ)
八の宮の長女
呼称:姉宮・姫宮・姫君・女君
中君(なかのきみ)
八の宮の二女
呼称:中の宮・宮・女君・御方・山里人
明石中宮(あかしのちゅうぐう)
匂宮の母
呼称:后宮・中宮・大宮・后

 
 以上の内容は、薫の〔〕以外、全て以下の原文のリンクから参照。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  総角(あげまき)
 
 

第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ

 
 

第一段 秋、八の宮の一周忌の準備

 
   あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋はいとはしたなくもの悲しくて、御果ての事いそがせたまふ。
 おほかたのあるべかしきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。
 ここには法服の事、経の飾り、こまかなる御扱ひを、人の聞こゆるに従ひて営みたまふも、いとものはかなくあはれに、「かかるよその御後見なからましかば」と見えたり。
 
 何年も耳馴れなさった川風も、今年の秋はとても身の置き所もなく悲しくて、一周忌の法要をご準備なさる。
 一通りの必要なことどもは、中納言殿と、阿闍梨などがご奉仕なさったのであった。
 こちらでは法服のこと、経の飾りや、こまごまとしたお仕事を、女房が申し上げるのに従ってご準備なさるのも、まことに頼りなさそうにお気の毒で、「このような他人のお世話がなかったら」と見えた。
 
   みづからも参うでたまひて、今はと脱ぎ捨てたまふほどの御訪らひ、浅からず聞こえたまふ。
 阿闍梨もここに参れり。
 名香の糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほどなりけり。
 結び上げたるたたりの、簾のつまより、几帳のほころびに透きて見えければ、そのことと心得て、「わが涙をば玉にぬかなむ」とうち誦じたまへる、伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」とか、「貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ。
 
 ご自身でも参上なさって、今日を限りに喪服をお脱ぎになるときのお見舞いを、丁重に申し上げなさる。
 阿闍梨もここちらに参上していた。
 名香の糸を引き散らして、「こうして過ごして来たことよ」などと、お話しなさっている時であった。
 結び上げた糸繰り台が、御簾の端から、几帳の隙間を通して見えたので、そのことだと察して、「わたしの涙を玉にして糸に通して下さい」と口ずさんでいらっしゃるのは、伊勢の御もこうであったろうと、興深くお思い申し上げるにつけても、内側の人は、知ったかぶりにお返事申し上げなさるようなのも遠慮されて、「糸ではないのに」とか、「貫之が生きていての別れでさえ、心細いものとして詠んだというのも」などと、なるほど古歌は、人の心を晴らすよすがであったのをお思い出しなさる。
 
 
 

第二段 薫、大君に恋心を訴える

 
   御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、客人、  御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどをお書き出しなさる筆のついでに、客人が、
 

653
 「あげまきに 長き契りを 結びこめ
 同じ所に 縒りも会はなむ」
 「総角に末長い契りを結びこめて
  一緒になって会いたいものです」
 
   と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれど、  と書いて、お見せ申し上げなさると、いつもの、と煩わしいが、
 

654
 「ぬきもあへず もろき涙の 玉の緒に
 長き契りを いかが結ばむ」
 「貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に
  末長い契りをどうして結ぶことができましょう」
 
   とあれば、「あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。
 
 とあるので、「一緒になれなかったら生きている甲斐もありません」と、恨めしそうに物思いにお耽りになる。
 
   みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。
 
 ご自身のお身の上については、このように何とはなしに話をそらせて相手をなさらないので、すらすらと意中を申し上げることもできず、宮のご執心を真面目に申し上げなさる。
 
   「さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。
 まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。
 
 「それ程までご執心でないことを、このようなことに少し積極的でいらっしゃるご性格で、一度申し出されては後に引かない意地からかと、あれやこれやと、十分にお気持ちをお探り申し上げております。
 ほんとうに不安なようではありませんので、どうしてこのようにむやみに、お避けになるのでしょう。
 
   世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。
 ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」
 男女の仲の様子などを、ご存知でないようには拝見しませんのに、いやに、よそよそしくばかりおあしらいなさるので、これほど心から信頼申し上げている気持ちと違って、恨めしい気がします。
 どのようにお考えになっているのかなどを、はっきりとお聞き致したいものですね」
   と、いとまめだちて聞こえたまへば、  と、たいそう真面目になって申し上げなさるので、
   「違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。
 それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。
 げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、こののたまふめる筋は、いにしへも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、かかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。
 さるは、すこし世籠もりたるほどにて、深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、いかなるべき世にかあらむ」
 「お気持ちに背くまいとの気持ちなればこそ、こうしてまでおかしな世間の例にもなる状態で、隔てなくお相手しているのでございます。
 それをお分かりにならなかったことこそ、浅い気持ちがあるような気がします。
 おっしゃるように、このような住まいなどに、情けの深い人は、ありたけの物思いをし尽くすでしょうが、何事にも後れて育ちましたので、このおっしゃるような方面は、故人も、一向に何一つ、こういう場合にはああいう場合にはなどと、将来のことを予想して、おっしゃっておくこともなかったので、やはり、このような状態で、世間並みの生活を諦めるようお考え置きであった、と思い合わされますので、何ともお答え申し上げようがなくて。
 一方では、少し生い先長い年頃で、山奥暮らしはお気の毒にお見えになるお身の上を、まことにこのように枯木にはさせたくないものだと、人知れず面倒見ずにはいられなく思っているのですが、どのようになる縁なのでしょうか」
   と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。
 
 と、嘆息して途方に暮れていらっしゃったときの様子、たいそうおいたわしく感じられる。
 
 
 

第三段 薫、弁を呼び出して語る

 
   けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと、ことわりにて、例の、古人召し出でてぞ語らひたまふ。
 
 てきぱきと一人前に振る舞っても、どうして賢くことをお決めになれようかと、もっともに思われて、いつものように、老女を召し出して相談なさる。
 
  「年ごろは、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ、この御事どもを、心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを、思しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに、思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。
 
 「今までは、ただ来世の事を願う気持ちで参っておりましたが、何となく心細そうにお思いであったようなご晩年に、この姫君たちのことを、考え通りにお世話申し上げるようにおっしゃり約束したのですが、お考え置き申されたご様子とは違って、お二人の気持ちが、とてもとても困ったことに強情なのは、どのようにお考え置きになっていた人が別であったのかと、疑わしくまで思われます。
 
   おのづから聞き伝へたまふやうもあらむ。
 いとあやしき本性にて、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうまでも聞こえ馴れにけむ。
 世人もやうやう言ひなすやうあべかめるに、同じくは昔の御ことも違へきこえず、我も人も世の常に心とけて聞こえはべらばや、と思ひよるは、つきなかるべきことにても、さやうなる例なくやはある」
 自然とお聞き及びになっていることもありましょう。
 とても妙な性質で、世の中に執着することはなかったが、前世からの因縁でしょうか、こんなにまでお親しみ申したのでしょう。
 世間の人もだんだんと噂するらしくもあるから、同じことなら故人のご遺言にお背き申さず、わたしも姫君も、世間の普通の男女のように心をお交わし申したい、と思い寄りましたのは、不似合いなことであっても、そのような例もないわけではありません」
   などのたまひ続けて、  などとおっしゃり続けて、
   「宮の御ことをも、かく聞こゆるに、うしろめたくはあらじと、うちとけたまふさまならぬは、うちうちに、さりとも思ほし向けたることのさまあらむ。
 なほ、いかに、いかに」
 「宮のお身の上を、このように申し上げるのに、不安でないと、気をお許しにならないご様子なのは、内々で、やはり他にお考えの人がいるのでしょうか。
 さあ、どうなのですか、どうなのですか」
   とうち眺めつつのたまへば、例の、悪ろびたる女ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて、言よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心のうちには、「あらまほしかるべき御ことどもを」と思へど、  と嘆きながらおっしゃるので、いつもの、良くない女房連中などは、このようなことには、憎らしいおせっかいを言って、調子を合わせたりなどするようであるが、まったくそうではなく、心の中では、「理想的なお二人方の縁談だわ」と思うが、
 
 

第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)

 
   「もとより、かく人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に何やかやなど、思ひよりたまへる御けしきになむはべらぬ。
 
 「もともと、このように人と違っていらっしゃるお二方のご性格のせいでしょうか、どうしてもどうしても、世間の普通の人のように、何やかやと世間並みの結婚を、お考えになっていらっしゃるご様子でございません。
 
   かくて、さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の頼もしげある木の本の隠ろへもはべらざりき。
 身を捨てがたく思ふ限りは、ほどほどにつけてまかで散り、昔の古き筋なる人も、多く見たてまつり捨てたるあたりに、まして今は、しばしも立ちとまりがたげにわびはべりて、おはしましし世にこそ、限りありて、かたほならむ御ありさまは、いとほしくもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ。
 
 こうして、仕えております誰彼も、今まででさえ、何の頼りになる庇護もございませんでした。
 身を捨てがたく思う者たちだけは、身分身分に応じて暇をもらって離れ去り、昔からの古い縁故の人も、多くはお見限り申した邸に、まして今では、立ち止まりがたそうに困り合っておりまして、ご在世中にこそ、格式もあって、不釣合なご結婚は、お気の毒だわなどと、昔気質の律儀さから、おためらいになっていました。
 
   今は、かう、また頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも、世になびきたまへらむを、あながちにそしりきこえむ人は、かへりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあらめ。
 いかなる人か、いとかくて世をば過ぐし果てたまふべき。
 
 今では、このように、他に頼りのいないお身の上の方たちで、どのようにもどのようにも、成り行き次第に身を任せなさるのを、むやみに悪口を申し上げるような人は、かえって物の道理を知らず、言いようもないことでしょう。
 どのような人が、まことにこうして一生をお送りなさることができましょうか。
 
   松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の捨てがたさによりてこそ、仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれ、などやうの、よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべきこと多くはべるめれど、たわむべくもものしたまはず、中の宮をなむ、いかで人めかしくも扱ひなしたてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。
 
 松の葉を食べて修業する山伏でさえ、生きている身の捨て難いことによって、仏のお教えも、それぞれの流派をつくって行っている、などというような、よくないことをご忠告申し上げ、若いお二方のお気持ちがお迷いになることが多くございますようですが、志操を曲げようともなさらず、中の宮を、何とか一人前にして差し上げたい、とお思い申し上げていらっしゃるようでございます。
 
   かく山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの、年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも、疎からず思ひきこえさせたまひ、今はとざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、かの御方を、さやうにおもむけて聞こえたまはば、となむ思すべかめる。
 
 このように山奥にお訪ね申し上げなさるようなお志の、幾年もお世話していただくご行為に対しても、親しくお思い申し上げなさって、今ではあれやこれやと、こまごまとした方面のこともご相談申し上げていらっしゃるようで、あの御方を、おっしゃるようお望み申してくださるならば、とお思いのようです。
 
   宮の御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御ことならじ、とはべるめる」  宮のお手紙などがございますようなのは、全然真剣な気持ちからではあるまい、とお考えのようです」
   と聞こゆれば、  と申し上げると、
   「あはれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは、聞こえ通はむの心あれば、いづ方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきを、さまではた、思しよるなる、いとうれしきことなれど、心の引く方なむ、かばかり思ひ捨つる世に、なほとまりぬべきものなりければ、改めてさはえ思ひなほすまじくなむ。
 世の常になよびかなる筋にもあらずや。
 
 「おいたわしいご遺言を聞きおき、露の世に生きている限りは、お付き合いを願いたいとの気持ちなので、どちらの方とご一緒になっても、同じことになるでしょうが、そのようにまで、お考えになっているというのは、まことに嬉しいことですが、心の惹かれる方は、これほど捨て切った世なのですが、やはり執着してしまうものなので、今さらそのようには考え改められません。
 世間並みのあだっぽい恋ではないのですよ。
 
   ただかやうにもの隔てて、こと残いたるさまならず、さし向ひて、とにかくに定めなき世の物語を、隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らずもてなしたまはむなむ、兄弟などのさやうに睦ましきほどなるもなくて、いとさうざうしくなむ、世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、心に籠めてのみ過ぐる身なれば、さすがにたつきなくおぼゆるに、疎かるまじく頼みきこゆる。
 
 ただこのような物を隔てて、言い残した状態でなく、差し向かいで、とにもかくにも無常の世の話を、隔て心なく申し上げて、お隠しになるお心の中をすっかり打ち明けてお相手してくださるなら、兄弟などのように親しい人もなくて、とても淋しいので、世の中の思うことの、しみじみとしたこと、おもしろいこと、悲しいことも、その時々の思いを、胸一つに収めて過ごしてきた身の上なので、何と言っても頼りなく思われるので、親しくお頼み申し上げるのです。
 
   后の宮、はた、なれなれしく、さやうにそこはかとなき思ひのままなるくだくだしさを、聞こえ触るべきにもあらず。
 三条の宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。
 その他の女は、すべていと疎くつつましく、恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
 
 后の宮は、親しく、そのように何ということなく思いのままのこまごまとしたことを、申し上げられる方ではありません。
 三条の宮は、母親と申し上げるほどでもないお若々しさですが、分限がありますので、気安くお親しみ申し上げることはできません。
 その他の女性は、すべてたいそう疎々しく、気が引けて恐ろしく思われて、自ら求めて結婚相手もなく心細いのです。
 
   なほざりのすさびにても、懸想だちたることは、いとまばゆくありつかず、はしたなきこちごちしさにて、まいて心にしめたる方のことは、うち出づることは難くて、怨めしくもいぶせくも思ひきこゆるけしきをだに見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわざなれ。
 宮の御ことをも、さりとも悪しざまには聞こえじと、まかせてやは見たまはぬ」
 いい加減な好き心からも、懸想めいたことは、とても気恥ずかしくて性に合わず、体裁悪い不器用さで、まして心に思い詰めている方のことは、口に出すのも難しくて、恨めしくも鬱陶しくもお思い申し上げる様子をさえ見ていただけないのは、自分ながらこの上なく愚かしいことだ。
 宮のお事をも、悪くお計らい申し上げまいと、お任せ下さいませんか」
   など言ひゐたまへり。
 老い人、はた、かばかり心細きに、あらまほしげなる御ありさまを、いと切に、さもあらせたてまつらばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。
 
 などとおっしゃっていた。
 老女は、老女で、これほど心細いので、理想的なご様子を、とても切に、そうして差し上げたいと思うが、どちらも気恥ずかしいご様子の方々なので、思いのままには申し上げられない。
 
 
 

第五段 薫、大君の寝所に迫る

 
   今宵は泊りたまひて、物語などのどやかに聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたまひつ。
 あざやかならず、もの怨みがちなる御けしき、やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うちとけて聞こえたまはむことも、いよいよ苦しけれど、おほかたにてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくももてなしがたくて、対面したまふ。
 
 今夜はお泊まりになって、お話などをのんびりと申し上げたくて、ぐずぐずして日をお暮らしになった。
 はっきりとではないが、何か恨みがましいご様子、だんだんと無性に昂じて行くので、厄介になって、気を許してお話し申し上げることも、ますますつらいけれど、全体的にはめったにいない親切なご性格の方なので、ひどくすげないお扱いもできなくて、面会なさる。
 
   仏のおはする中の戸を開けて、御燈明の火けざやかにかかげさせて、簾に屏風を添へてぞおはする。
 外にも大殿油参らすれど、「悩ましうて無礼なるを。
 あらはに」など諌めて、かたはら臥したまへり。
 御くだものなど、わざとはなくしなして参らせたまへり。
 
 仏のいらっしゃる間の中の戸を開けて、御燈明の光を明るく照らさせて、簾に屏風を添えておいでになる。
 外の間にも大殿油を差し上げるが、「疲れて無作法なので。
 丸見えでは」などと制止して、横に臥せっていらっしゃった。
 果物などを、特別なふうにではなく整えて差し上げさせなさった。
 
   御供の人びとにも、ゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。
 廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、しめじめと物語聞こえたまふ。
 うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに愛敬づきて、もののたまへるさまの、なのめならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。
 
 お供の人びとにも、風流なお肴などをお出させなさった。
 廊のような所に集まって、こちらの御前は人の気配を遠ざけて、しみじみとお話申し上げなさる。
 気をお許しになるはずもないものの、優しそうに愛嬌がおありで、物をおっしゃる様子が、一方ならず心に染みいって、胸が切なくなるのもたわいない。
 
   「かくほどもなきものの隔てばかりを障り所にて、おぼつかなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあるかな」と思ひ続けらるれど、つれなくて、おほかたの世の中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞き所多く語らひきこえたまふ。
 
 「このように何でもない隔て物だけを障害にして、もどかしく思っては過ごしてきた不器用さが、あまりにも馬鹿らしいな」と思い続けられるが、さりげなく平静を装って、世間一般の事柄を、しみじみと興味を惹くように、いろいろとおもしろくたくさんお話し申し上げなさる。
 
   内には、「人びと、近く」などのたまひおきつれど、「さしも、もて離れたまはざらなむ」と思ふべかめれば、いとしも護りきこえず、さし退つつ、みな寄り臥して、仏の御燈火もかかぐる人もなし。
 ものむつかしくて、忍びて人召せど、おどろかず。
 
 内側では、「女房たち、近くに」などとおっしゃっておいたが、「そんなにも、よそよそしくなさらないで欲しい」と思っているようなので、たいしてお守り申さず、尻ごみ尻ごみしながら、皆寄り臥して、仏の御燈明を明るくする人もいない。
 何となく気づまりで、こっそりと人をお呼びになるが、目を覚まさない。
 
   「心地のかき乱り、悩ましくはべるを、ためらひて、暁方にもまた聞こえむ」  「気分が悪く、苦しうございますので、少し休んで、明け方に再びお話し申し上げましょう」
   とて、入りたまひなむとするけしきなり。
 
 と言って、お入りになろうとする様子である。
 
   「山路分けはべりつる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ承るに慰めてこそはべれ。
 うち捨てて入らせたまひなば、いと心細からむ」
 「山路を分け入って来ましたわたしは、あなた以上にとても苦しいのですが、このようにお話し申し上げたりお聞きしたりすることによって慰められております。
 わたしを捨ててお入りになったら、たいそう心細いでしょう」
   とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。
 いとむくつけくて、半らばかり入りたまへるに、引きとどめられて、いみじくねたく心憂ければ、
 と言って、屏風を静かに押し開けてお入りになった。
 たいそう気味悪くて、半分程お入りになったところ、引き止められて、ひどく悔しく気にくわないので、
   「隔てなきとは、かかるをや言ふらむ。
 めづらかなるわざかな」
 「隔てなくとは、このようなことを言うのでしょうか。
 変なことですね」
   と、あはめたまへるさまの、いよいよをかしければ、  と、非難なさる様子が、ますます魅力的なので、
   「隔てぬ心をさらに思し分かねば、聞こえ知らせむとぞかし。
 めづらかなりとも、いかなる方に、思しよるにかはあらむ。
 仏の御前にて誓言も立てはべらむ。
 うたて、な懼ぢたまひそ。
 御心破らじと思ひそめてはべれば。
 人はかくしも推し量り思ふまじかめれど、世に違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」
 「隔てない心を全然お分かりでないので、お教え申し上げましょうとね。
 変なことだとも、どのようなことに、お考えなのでしょうか。
 仏の御前で誓言も立てましょう。
 嫌な、お恐がりなさるな。
 お気持ちを損ねまいと初めから思っておりますので。
 他人はこのようにも推量して思うまいでしょうが、世間の人と違った馬鹿正直者で通しておりますからね」
   とて、心にくきほどなる火影に、御髪のこぼれかかりたるを、かきやりつつ見たまへば、人の御けはひ、思ふやうに香りをかしげなり。
 
 と言って、奥ゆかしいほどの火影で、御髪がこぼれかかっているのを、掻きやりながら御覧になると、姫君のご様子は、申し分なくつやつやと美しい。
 
 
 

第六段 薫、大君をかき口説く

 
   「かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は障り所あるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、さてや止みなまし。
 いかに口惜しきわざならまし」と、来し方の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、言ふかひなく憂しと思ひて泣きたまふ御けしきの、いといとほしければ、「かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふ折もありなむ」と思ひわたる。
 
 「このように心細くひどいお住まいで、好色の男は邪魔者もないのだが、自分以外に訪ねて来る人もあったら、そのままにしておくだろうか。
 どんなに残念なことだろうに」と、将来はもちろんのこと今までの優柔不断さまで、不安に思われなさるが、言いようもなくつらいと思ってお泣きになるご様子が、たいそうおいたわしいので、「このようにではなく、自然と心がとけてこられる時もきっとあるだろう」と思い続ける。
 
   わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしらへきこえたまふ。
 
 無理やり迫るのも気の毒なので、体裁よくおなだめ申し上げなさる。
 
   「かかる御心のほどを思ひよらで、あやしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など、見あらはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らるるに、さまざま慰む方なく」  「このようなお気持ちとは思いよらず、不思議なほど親しくさせて頂いたことを、不吉な喪服の色など、見ておしまいになられる思いやりの浅さに、また自分自身の言いようのなさも思い知らされるので、あれこれと気の慰めようもありません」
   と恨みて、何心もなくやつれたまへる墨染の火影を、いとはしたなくわびしと思ひ惑ひたまへり。
 
 と恨んで、何の用意もなく質素な喪服でいらっしゃる墨染の火影を、とても体裁悪くつらいと困惑していらっしゃった。
 
   「いとかくしも思さるるやうこそはと、恥づかしきに、聞こえむ方なし。
 袖の色をひきかけさせたまふはしも、ことわりなれど、ここら御覧じなれぬる心ざしのしるしには、さばかりの忌おくべく、今始めたることめきてやは思さるべき。
 なかなかなる御わきまへ心になむ」
 「まことにこのようにまでお嫌いになるわけもあるのかと、恥ずかしくて、申し上げようもありません。
 喪服の色を理由になさるのも、もっともなことですが、長年お親しみなさったお気持ちの表れとしては、そのような憚らねばならないような、今始まったような事のようにお思いなさってよいものでしょうか。
 かえってなさらなくてもよいご分別です」
   とて、かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて、折々の思ふ心の忍びがたくなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、「恥づかしくもありけるかな」と疎ましく、「かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな」と、聞きたまふこと多かり。
 
 と言って、あの琴の音を聴いた有明の月の光をはじめとして、季節折々の思う心の堪えがたくなってゆく有様を、たいそうたくさん申し上げなさると、「気恥ずかしいことだわ」と疎ましく思って、「このような気持ちでありながら何喰わぬ顔で真面目顔していらっしゃっのだわ」と、お聞きになることが多かった。
 
   御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥したまへり。
 名香のいと香ばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、わづらはしく、「墨染の今さらに、折ふし心焦られしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さりともすこしたわみたまひなむ」など、せめてのどかに思ひなしたまふ。
 
 お側にある低い几帳を、仏の方に立てて隔てとして、形ばかり添い臥しなさった。
 名香がたいそう香ばしく匂って、樒がとても強く薫っている様子につけても、人よりは格別に仏を信仰申し上げていらっしゃるお心なので、気が咎めて、「服喪中の今、折もあろうに堪え性もないようで、軽率にも、当初の気持ちと違ってしまいそうなので、このような喪中が明けたころに、姫君のお気持ちも、そうはいっても少しはお緩みになるだろう」などと、つとめて気長に思いなしなさる。
 
   秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづからあはれ多かるを、まして峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞きわたさる。
 常なき世の御物語に、時々さしいらへたまへるさま、いと見所多くめやすし。
 いぎたなかりつる人びとは、「かうなりけり」と、けしきとりてみな入りぬ。
 
 秋の夜の様子は、このような場所でなくてさえ、自然としみじみとしたことが多いのに、まして峰の嵐も籬の虫の音も、心細そうにばかり聞きわたされる。
 無常の世のお話に、時々お返事なさる様子、実に見ごたえのある点が多く無難である。
 眠たそうにしていた女房たちは、「こうなったのだわ」と、様子を察して皆下がってしまった。
 
   宮ののたまひしさまなど思し出づるに、「げに、ながらへば、心の外にかくあるまじきことも見るべきわざにこそは」と、もののみ悲しくて、水の音に流れ添ふ心地したまふ。
 
 父宮がご遺言なさったことなどをお思い出しなさると、「なるほど、生き永らえると、意外なこのようなとんでもない目に遭うものだわ」と、何もかも悲しくて、水の音に流れ添う心地がなさる。
 
 
 

第七段 実事なく朝を迎える

 
   はかなく明け方になりにけり。
 御供の人びと起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、旅の宿りのあるやうなど人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。
 光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるをもろともに見たまふ。
 女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。
 かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、
 いつのまにか夜明け方になってしまった。
 お供の人びとが起きて合図をし、馬どもが嘶く声も、旅の宿の様子など供人が話していたのを、ご想像されて、おもしろくお思いになる。
 光が見えた方面の障子を押し開けなさって、空のしみじみとした様子を一緒に御覧になる。
 女も少しいざり出でなさったが、奥行きのない軒の近さなので、忍草の露もだんだんと光が見えて行く。
 お互いに実に優美な姿態、容貌を、
   「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」  「何というのではなくて、ただこのように月や花を、同じような気持ちで愛で、無常の世の有様を話し合って、過ごしたいものですね」
   と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、  と、たいそう親しい感じでお語らい申されると、だんだんと恐ろしさも慰められて、
   「かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」  「このように面と向かっての体裁の悪い恰好でなく、何か物を隔ててなどしてお答え申し上げるならば、ほんとうに心の隔てはまったくないのですが」
   といらへたまふ。
 
 とお答えなさる。
 
   明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。
 夜深き朝の鐘の音かすかに響く。
 「今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。
 
 明るくなってゆき、群鳥が飛び立ち交う羽風が近くに聞こえる。
 まだ暗いうちの朝の鐘の音がかすかに響く。
 「今は、とても見苦しいですから」と、とても無性に恥ずかしそうにお思いになっていた。
 
   「ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。
 また、人はいかが推し量りきこゆべき。
 例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。
 よにうしろめたき心はあらじと思せ。
 かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」
 「事あり顔に朝露を分けて帰ることはできません。
 また、人はどのように推量申し上げましょうか。
 いつものように穏便にお振る舞いになって、ただ世間一般と違った問題として、今から後も、ただこのようにしてくださいませ。
 まったく不安なことはないとお思いください。
 これほど一途に思い詰める心のうちを、いじらしいとお分かりくださらないのは効ないことです」
   とて、出でたまはむのけしきもなし。
 あさましく、かたはならむとて、
 と言って、お帰りなるような様子もない。
 あきれて、見苦しいことと思って、
   「今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。
 今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」
 「今から後は、そのようなことなので、仰せの通りにいたしましょう。
 今朝は、またお願い申し上げていることを聞いてくださいませ」
   とて、いとすべなしと思したれば、  と言って、ほんとうに困ったとお思いなので、
   「あな、苦しや。
 暁の別れや。
 まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを」
 「ああ、つらい。
 暁の別れだ。
 まだ経験のないことなので、なるほど、迷ってしまいそうだ」
   と嘆きがちなり。
 鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。
 
 と嘆きがちである。
 鶏も、どこのであろうか、かすかに鳴き声がするので、京が自然と思い出される。
 
 

655
 「山里の あはれ知らるる 声々に
 とりあつめたる 朝ぼらけかな」
 「山里の情趣が思い知られます鳥の声々に
  あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね」
 
   女君、  女君、
 

656
 「鳥の音も 聞こえぬ山と 思ひしを
 世の憂きことは 訪ね来にけり」
 「鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが
  人の世の辛さは後を追って来るものですね」
 
   障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。
 名残恋しくて、「いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。
 
 障子口までお送り申し上げなさって、昨夜入った戸口から出て、お臥せりになったが、眠ることはできない。
 名残惜しくて、「ほんとにこのようにせつなく思うのだったら、幾月も今までのんびりと構えていられなかったろうに」などと、帰ることを億劫に思われなさる。
 
 
 

第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う

 
   姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、とみにもうち臥されたまはで、「頼もしき人なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人どもも、よからぬこと何やかやと、次々に従ひつつ言ひ出づめるに、心よりほかのことありぬべき世なめり」と思しめぐらすには、  姫宮は、女房がどう思っているだろうかと気が引けるので、すぐには横におなりになれず、「頼みにする親もなくて世の中を生きてゆく身の上のつらさを、仕えている女房連中も、つまらない縁談の事を何やかやと、次々に従って言い出すようだから、望みもしない結婚になってしまいそうだ」と思案なさる一方で、
   「この人の御けはひありさまの、疎ましくはあるまじく、故宮も、さやうなる御心ばへあらばと、折々のたまひ思すめりしかど、みづからは、なほかくて過ぐしてむ。
 我よりはさま容貌も盛りにあたらしげなる中の宮を、人なみなみに見なしたらむこそうれしからめ。
 人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後見てむ。
 みづからの上のもてなしは、また誰れかは見扱はむ。
 
 「この人のご様子や態度が、疎ましくはなさそうだし、故宮も、そのような気持ちがあったらと、時々おっしゃりお考えのようだったが、自分自身は、やはりこのように独身で過ごそう。
 自分よりは容姿も容貌も盛りで惜しい感じの中の宮を、人並みに結婚させたほうが嬉しいだろう。
 妹の身の上のことなら、心の及ぶ限り後見しよう。
 自分の身の世話は、他に誰が見てくれようか。
 
   この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべきを、恥づかしげに見えにくきけしきも、なかなかいみじくつつましきに、わが世はかくて過ぐし果ててむ」  この人のお振舞が、いい加減ででたらめならば、このように親しんできた年月のせいで、気を緩める気持ちもありそうなのだが、立派すぎて近づきがたい感じなのも、かえってひどく気後れするので、自分の人生はこうして独身で終えよう」
   と思ひ続けて、音泣きがちに明かしたまへるに、名残いと悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
 
 と思い続けて、つい声を立てて泣き泣き夜を明かしなさったが、そのため気分がとても悪いので、中の宮が臥していらっしゃった奥の方に添ってお臥せりになる。
 
   例ならず、人のささめきしけしきもあやしと、この宮は思しつつ寝たまへるに、かくておはしたれば、うれしくて、御衣ひき着せたてまつりたまふに、御移り香の紛るべくもあらず、くゆりかかる心地すれば、宿直人がもて扱ひけむ思ひあはせられて、「まことなるべし」と、いとほしくて、寝ぬるやうにてものものたまはず。
 
 いつもと違って、女房がささやいている様子が変だと、この宮はお思いになりながら寝ていらっしゃったが、こうしていらっしゃったので、嬉しくて、御衣を引き掛けて差し上げなさると、御移り香が隠れようもなく、薫ってくる感じがするので、宿直人がもてあましていたことが思い合わされて、「ほんとうなのだろう」と、お気の毒に思って、眠ってしまったようにして何もおっしゃらない。
 
   客人は、弁のおもと呼び出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞こえおきて出でたまひぬ。
 「総角を戯れにとりなししも、心もて、尋ばかりの隔ても対面しつるとや、この君も思すらむ」と、いみじく恥づかしければ、心地悪しとて、悩み暮らしたまひつ。
 人びと、
 客人は、弁のおもとを呼び出しなさって、こまごまと頼みこんで、ご挨拶をしかつめらしく申し上げおいてお出になった。
 「総角の歌を戯れの冗談にとりなしても、自分から、一尋ほどの隔てはあったにしてもお会いしたものと、この君もお思いだろう」と、ひどく恥ずかしいので、気分が悪いといって、一日中横になっていらっしゃった。
 女房たちは、
   「日は残りなくなりはべりぬ。
 はかばかしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、折悪しき御悩みかな」
 「法事までの日数が少なくなりました。
 しっかりと、ちょっとしたことでさえも、他にお世話いたす人もいないので、あいにくのご病気ですこと」
   と聞こゆ。
 中の宮、組などし果てたまひて、
 と申し上げる。
 中の宮は、組紐など作り終えなさって、
   「心葉など、えこそ思ひよりはべらね」  「心葉などを、どうしてよいか分かりません」
   と、せめて聞こえたまへば、暗くなりぬる紛れに起きたまひて、もろともに結びなどしたまふ。
 中納言殿より御文あれど、
 と、無理におせがみ申し上げなさるので、暗くなったのに紛れてお起きになって、一緒に結んだりなどなさる。
 中納言殿からお手紙があるが、
   「今朝よりいと悩ましくなむ」  「今朝からとても気分が悪くて」
   とて、人伝てにぞ聞こえたまふ。
 
 と言って、人を介してお返事申し上げなさる。
 
   「さも、見苦しく、若々しくおはす」  「いかにも、見苦しく、子供っぽくいらっしゃいます」
   と、人びとつぶやききこゆ。
 
 と、女房たちはぶつぶつ申し上げる。
 
 
 

第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる

 
 

第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問

 
   御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても、かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひのほかなる身の憂さと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。
 
 御服喪などが終わって、お脱ぎ捨てになったのにつけても、片時の間も生き永らえようとは思わなかったが、あっけなく過ぎてしまった月日の間をお思いなると、ひどく思ってもいなかった身のつらさと、泣き沈んでいらっしゃるお二方のご様子が、まことにお気の毒である。
 
   月ごろ黒く馴らはしたる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮は、げにいと盛りにて、うつくしげなる匂ひまさりたまへり。
 御髪など澄ましつくろはせて見たてまつりたまふに、世の物思ひ忘るる心地してめでたければ、人知れず、「近劣りしては思はずやあらむ」と、頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
 
 幾月も黒い喪服を着馴れていらしたお姿が、薄鈍色になって、たいそう優美なので、中の宮は、なるほど女盛りで、可憐な感じが勝っていらっしゃった。
 御髪などを洗い清めさせて整わせて拝見なさると、この世の憂いが忘れる気がして素晴らしいので、心中密かに、「近づいて見劣りがすることはないだろう」と、頼もしく嬉しくて、今は他に見譲る人もいなくて、親代わりになって大切にお世話申し上げなさる。
 
   かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣も改めたまへらむ長月も、静心なくて、またおはしたり。
 「例のやうに聞こえむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはしくおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。
 
 あの方は、ご遠慮申し上げなさった服喪期間中もお改まりになっていような九月も、待ちきれず、再びおいでになった。
 「いつものようにお会い申したい」と、またご挨拶があるので、気分が悪くなって、厄介に思われるので、何かと言い訳申し上げてお会いなさらない。
 
   「思ひの外に心憂き御心かな。
 人もいかに思ひはべらむ」
 「意外に冷たいお心ですね。
 女房たちもどのように思うでしょう」
   と、御文にて聞こえたまへり。
 
 と、お手紙で申し上げなさった。
 
   「今はとて脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」  「今を限りと脱ぎ捨てました時の悲しみに、かえって前より塞ぎこんでおりまして、お返事申し上げられません」
   とあり。
 
 とある。
 
   怨みわびて、例の人召して、よろづにのたまふ。
 世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。
 
 恨みのやりばがなくて、いつもの女房を召して、いろいろとおっしゃる。
 世にまたとない心細さの慰めとしては、この君だけをお頼み申し上げていた女房たちなので、思い通りに結婚なさって、世間並の住まいにお移りなどなさるのを、とてもおめでたいことと話し合って、「ただお入れ申そう」と、皆しめし合わせているのであった。
 
 
 

第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める

 
   姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、「かく取り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめたき心もやあらむ。
 昔物語にも、心もてやは、とあることもかかることもあめる。
 うちとくまじき人の心にこそあめれ」と思ひよりたまひて、
 姫宮、その様子を深くご存知ないが、「このように特別に一人前に親しくしているらしいので、気を許して、気がかりな考えがあるかもしれない。
 昔物語にも、自分から、とかく事件が起こることはあろうか。
 気を許してはならない女房の心であるようだ」と思い至りなさって、
   「せめて怨み深くは、この君をおし出でむ。
 劣りざまならむにてだに、さても見そめては、あさはかにはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめては、慰みなむ。
 言に出でては、いかでかは、ふとさることを待ち取る人のあらむ。
 本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは、かたへは人の思はむことを、あいなう浅き方にやなど、つつみたまふならむ」
 「せめて恨みが深いなら、この妹君を押し出そう。
 たとえ見劣りする相手でも、そのように見初めては、いい加減には扱わないお心のようだから、わたし以上に、少しでも見初めたらきっと慰むことであろう。
 言葉に表しては、どうして、急に乗り換える人があろうか。
 希望通りでないと、承知する様子のないらしいのは、一つには、こちらの思うことを、筋違いに浅い思慮ではないかなどと、遠慮なさるだろう」
   と思し構ふるを、「けしきだに知らせたまはずは、罪もや得む」と、身をつみていとほしければ、よろづにうち語らひて、  とご計画なさるが、「そのそぶりさえお知らせなさらなかったら、恨みを受けよう」と、我が身につまされてお気の毒なので、いろいろとお話になって、
   「昔の御おもむけも、世の中をかく心細くて過ぐし果つとも、なかなか人笑へに、かろがろしき心つかふな、などのたまひおきしを、おはせし世の御ほだしにて、行ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さばかりのたまひし一言をだに違へじ、と思ひはべれば、心細くなどもことに思はぬを、この人びとの、あやしく心ごはきものに憎むめるこそ、いとわりなけれ。
 
 「故人のご意向も、世の中をこのように心細く終えようとも、かえって物笑いに、軽々しい考えをするな、などと遺言なさったが、在世中の御足手まといで、勤行のお心を乱した罪でさえ大変であったのに、今はの際に、せめてそのようにおっしゃった一言だけでも違えまい、と思いますので、心細いなどとも格別思わないが、この女房たちが、妙に強情者のように憎んでいるらしいのは、ほんとに訳が分かりません。
 
   げに、さのみやうのものと過ぐしたまはむも、明け暮るる月日に添へても、御ことをのみこそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、君だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまもおもだたしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」  女房の言うように、私と同じように独身でお過しになるのも、明け暮れの月日がたつにつけても、あなたのお身の上ばかりが、惜しくおいたわしく悲しい身の上とお思い申し上げていますが、せめてあなただけでも世間並みに結婚なさって、このようなわが身の有様も面目が立って、慰められるようお世話申し上げたい」
   と聞こえたまはば、いかに思すにかと、心憂くて、  と申し上げなさると、どのようにお考えなのかと、情けなくなって、
   「一所をのみやは、さて世に果てたまへとは、聞こえたまひけむ。
 はかばかしくもあらぬ身のうしろめたさは、数添ひたるやうにこそ、思されためりしか。
 心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつるより、いかなるかたにか」
 「お一人だけが、そのように独身で終えなさいとは、申されたでしょうか。
 頼りないわが身の不安さは、よけいあるように、お思いのようでした。
 心細さの慰めには、このように朝夕にお目にかかるより他に、どのような手段がありましょうか」
   と、なま恨めしく思ひたまひつれば、げにと、いとほしくて、  と、何やら恨めしそうに思っていらっしゃるので、なるほどと、お気の毒になって、
   「なほ、これかれ、うたてひがひがしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞや」  「やはり、誰も彼もが困った強情者のように言い思っているらしいのにつけても、途方に暮れておりますよ」
   と、言ひさしたまひつ。
 
 と、言いかけてお止めになった。
 
 
 

第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す

 
   暮れゆくに、客人は帰りたまはず。
 姫宮、いとむつかしと思す。
 弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、怨みたまふをことわりなるよしを、つぶつぶと聞こゆれば、いらへもしたまはず、うち嘆きて、
 日が暮れて行くのに、客人はお帰りにならない。
 姫宮は、とても困ったことだとお思いになる。
 弁が参って、ご挨拶などをもお伝え申し上げて、お恨みになるのもごもっともなことを、こまごまと申し上げると、お返事もなさらず、お嘆きになって、
   「いかにもてなすべき身にかは。
 一所おはせましかば、ともかくも、さるべき人に扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ。
 ある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは、はかばかしきことかは。
 人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは」
 「どのように振る舞ったらよいものか。
 どちらかの親が生きていらっしゃったら、どうなるにせよ、親からお世話され申して、運命というものにつけても、思い通りにならない世の中なので、すべてよくあることとして、物笑いの非難も隠れるというもの。
 仕えている女房は皆年をとり、賢そうに自分自身では思いながら、いい気になって、お似合いのご縁だと言い聞かせるが、これが、しっかりしたことだろうか。
 一人前でもない考えで、ただ勝手に言っているばかりだ」
   と見たまへば、引き動かしつばかり聞こえあへるも、いと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。
 同じ心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋には、今すこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、「あやしくもありける身かな」と、ただ奥ざまに向きておはすれば、
 とお考えになると、引き動かさんばかりにお勧め申し上げ合うのも、まことにつらく嫌な感じがして、従う気になれない。
 同じ気持ちで何事もご相談申し上げなさる中の宮は、このような結婚に関する話題には、もう少しご存知なくおっとりして、何ともお分かりでないので、「変わった身の上だわ」と、ただ奥の方に向いていらっしゃるので、
   「例の色の御衣どもたてまつり替へよ」  「いつもの服装にお召し替えなさいませ」
   など、そそのかしきこえつつ、皆、さる心すべかめるけしきを、あさましく、「げに、何の障り所かはあらむ。
 ほどもなくて、かかる御住まひのかひなき、山梨の花ぞ」、逃れむ方なかりける。
 
 などと、お勧め申し上げながら、皆、お目にかからせようという考えのようなので、あきれて、「なるほど、何の支障があるだろうか。
 手狭な所で、このようなご生活の仕方ない、山梨の花」、逃げることもできないのであった。
 
   客人は、かく顕証に、これかれにも口入れさせず、「忍びやかに、いつありけむことともなくもてなしてこそ」と思ひそめたまひけることなれば、  客人は、こうあからさまに、誰それにも口を出させず、「こっそりと、いつから始まったともなく運びたい」と初めからお考えになっていたことなので、
   「御心許したまはずは、いつもいつも、かくて過ぐさむ」  「お許しくださらないならば、いつもいつも、このようにして過ごそう」
   と思しのたまふを、この老い人の、おのがじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。
 
 とお考えになりおっしゃるが、この老女が、それぞれと相談しあって、あからさまにささやき、そうは言っても、浅はかで老いのひがみからか、お気の毒に見える。
 
 
 

第四段 大君、弁と相談する

 
   姫宮、思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。
 
 姫宮、お困りになって、弁が参ったのでおっしゃる。
 
   「年ごろも、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきまでうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて、恨みたまふめるこそわりなけれ。
 世に人めきてあらまほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思はまし。
 
 「長年、世間の人と違ったご好意とばかりおっしゃっていたのを聞いており、今となっては、何でもすっかりお頼み申して、不思議なほど親しくしていたのですが、思っていたのと違ったお気持ちがおありで、お恨みになるらしいのは困ったことです。
 世間の人のように夫を持ちたい身の上ならば、このような縁談も、どうしてお断りなどしましょう。
 
   されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦しきを。
 この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。
 げに、かかる住まひも、ただこの御ゆかりに所狭くのみおぼゆるを、まことに昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなしたまへかし。
 身を分けたる心のうちは皆ゆづりて、見たてまつらむ心地なむすべき。
 なほ、かうやうによろしげに聞こえなされよ」
 けれども、昔から思い捨てていた考えなので、とてもつらいことです。
 この妹君が盛りをお過ぎになるのも残念です。
 なるほど、このような住まいも、ただこの君のためにも不都合にばかり思われますが、ほんとうに亡き宮をお思い出し申し上げるお気持ちならば、同じようにお考えになってください。
 身を分けた妹に心の中はすべて譲って、お世話申し上げたい気がするのです。
 やはり、このようによろしく申し上げてくださいね」
   と、恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたまひ続くれば、いとあはれと見たてまつる。
 
 と、恥ずかしがっているが、望んでいることをおっしゃり続けたので、まことにおいたわしいと拝する。
 
   「さのみこそは、さきざきも御けしきを見たまふれば、いとよく聞こえさすれど、さはえ思ひ改むまじ、兵部卿宮の御恨み、深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく後見きこえむ、となむ聞こえたまふ。
 それも思ふやうなる御ことどもなり。
 二所ながらおはしまして、ことさらに、いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに、えしも、かく世にありがたき御ことども、さし集ひたまはざらまし。
 
 「そのようにばかりは、以前にもご様子を拝見しておりますので、とてもよく申し上げましたが、そのようにはお考え改めることはできず、兵部卿宮のお恨みの、深さが増すようなので、またそれはそれで、とても十分にご後見申し上げたい、と申されています。
 それも願ってもないことです。
 ご両親がお揃いで、特別に、たいそうお心をこめてお育て申し上げなさるにしましても、とても、このようにめったにないご縁談ばかりも、続いて来ないでしょう。
 
   かしこけれど、かくいとたつきなげなる御ありさまを見たてまつるに、いかになり果てさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしくめでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひきこゆる。
 
 恐れ多いことですが、このようにとても頼りなさそうなご様子を拝見すると、果てはどのようにおなりあそばすのだろうかと、不安で悲しくばかり拝見していますが、将来のお心は分かりませんけれど、お二方ともご立派で素晴らしいご運勢でいらっしゃったのだと、何はともあれお思い申し上げます。
 
   故宮の御遺言違へじと思し召すかたはことわりなれど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやおはしまさむと思して、戒めきこえさせたまふめりしにこそ。
 
 故宮のご遺言に背くまいとお考えあそばすのはごもっともなことですが、それは、婿にふさわしい方がいらっしゃらず、身分の不釣合なことがおありだろうとお考えになって、ご忠告申し上げなさったようなのではございませんか。
 
   この殿の、さやうなる心ばへものしたまはましかば、一所をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからましと、折々のたまはせしものを。
 ほどほどにつけて、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。
 
 この殿の、そのようなお気持ちがおありでしたら、お一方を安心してお残し申せて、どんなに嬉しいことだろうと、時々おっしゃっていました。
 身分相応に、愛する人に先立たれなさった人は、身分の高い人も低い人も、思いの他に、とんでもない姿でさすらう例さえ多くあるようです。
 
   それ皆例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。
 まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御ありさまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、あながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに、行ひの本意を遂げたまふとも、さりとて雲霞をやは」
 それはみな憂き世の常のようですので、非難する人もございません。
 まして、これほどに、特別に誂えたような方のご様子で、ご愛情も深くめったにないように求婚申し上げなさるのを、むやみに振り切りなさって、お考えおいていたように、出家の本願をお遂げなさったとしても、そうかといって雲や霞を食べて生きらえましょうか」
   など、すべてこと多く申し続くれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥したまへり。
 
 などと、総じて言葉数多く申し上げ続けると、とても憎く気にくわないとお思いになって、うつ伏しておしまいになった。
 
 
 

第五段 大君、中の君を残して逃れる

 
   中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと、見たてまつりたまひて、もろともに例のやうに大殿籠もりぬ。
 うしろめたく、いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし籠もり隠ろへたまふべきものの隈だになき御住まひなれば、なよよかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、まだけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したまへり。
 
 中の宮も、ひとごとながらおいたわしいご様子だわと、拝見なさって、一緒にいつものようにお寝みになった。
 気がかりで、どのように対処しようか、と思われなさるが、わざとらしく引き籠もって身をお隠しになる物蔭さえないお住まいなので、柔らかく美しい御衣を、上にお掛け申し上げなさって、まだ暑いころなので、少し寝返りして臥せっていらっしゃった。
 
   弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。
 「いかなれば、いとかくしも世を思ひ離れたまふらむ。
 聖だちたまへりしあたりにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや」と思すに、いとどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。
 
 弁は、おっしゃったことを客人に申し上げる。
 「どうして、ほんとにこのように結婚を思い断っていらっしゃるのだろう。
 聖めいていらした方の側にいて、無常をお悟りになったのか」とお思いになると、ますます自分の心と似通っていると思われるので、利口ぶった憎い女とも思われない。
 
   「さらば、物越などにも、今はあるまじきことに思しなるにこそはあなれ。
 今宵ばかり、大殿籠もるらむあたりにも、忍びてたばかれ」
 「それでは、物越しに会うのでも、今はとんでもないこととお考えなのですね。
 今夜だけは、お寝みになっている所に、こっそりと手引きせよ」
   とのたまへば、心して、人疾く静めなど、心知れるどちは思ひ構ふ。
 
 とおっしゃるので、気をつけて、他の女房を早く寝静めたりして、事情を知っている者同志は手筈をととのえる。
 
   宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにうち吹くに、はかなきさまなる蔀などは、ひしひしと紛るる音に、「人の忍びたまへる振る舞ひは、え聞きつけたまはじ」と思ひて、やをら導き入る。
 
 宵を少し過ぎたころに、風の音が荒々しく吹くと、頼りない邸の蔀などは、きしきしと鳴る紛らわしい音に、「人がこっそり入っていらっしゃる音は、お聞きつけになるまい」と思って、静かに手引きして入れる。
 
   同じ所に大殿籠もれるを、うしろめたしと思へど、常のことなれば、「ほかほかにともいかが聞こえむ。
 御けはひをも、たどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ」と思ひけるに、うちもまどろみたまはねば、ふと聞きつけたまて、やをら起き出でたまひぬ。
 いと疾くはひ隠れたまひぬ。
 
 同じ所にお寝みなっているのを、不安だと思うが、いつものことなので、「別々にとはどうして申し上げられよう。
 ご様子も、はっきりとお見知り申していらっしゃるだろう」と思ったが、少しもお眠りになることもできないので、ふと足音を聞きつけなさって、そっと起き出しておしまいになった。
 とても素早く這ってお隠れになった。
 
   何心もなく寝入りたまへるを、いといとほしく、いかにするわざぞと、胸つぶれて、もろともに隠れなばやと思へど、さもえ立ち返らで、わななくわななく見たまへば、火のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ顔に、几帳の帷を引き上げて入りぬるを、いみじくいとほしく、「いかにおぼえたまはむ」と思ひながら、あやしき壁の面に、屏風を立てたるうしろの、むつかしげなるにゐたまひぬ。
 
 無心に寝ていらっしゃるのを、とてもお気の毒に、どのようにするのかと、胸がどきりとして、一緒に隠れたいと思うが、そのように立ち戻ることもできず、震えながら御覧になると、灯火がほのかに明るい中に、袿姿で、いかにも馴れ馴れしく、几帳の帷子を引き上げて中に入ったのを、ひどくおいたわしくて、「どのようにお思いになっているだろう」と思いながら、粗末な壁の面に、屏風を立てた背後の、むさ苦しい所にお座りになった。
 
   「あらましごとにてだに、つらしと思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ」と、いと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて、落ちとまる身どもの悲しきを思ひ続けたまふに、今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど、ただ今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。
 
 「将来の心積もりとして話しただけでも、つらいと思っていらっしゃったのを、まして、どんなに心外にお疎みになるだろう」と、とてもおいたわしく思うにつけても、すべてしっかりした後見もいなくて、落ちぶれている二人の身の上の悲しさを思い続けなさると、今を限りと山寺にお入りになった父宮の夕方のお姿などが、まるで今のような心地がして、ひどく恋しく悲しく思われなさる。
 
 
 

第六段 薫、相手を中の君と知る

 
   中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、やうやうあらざりけりと見る。
 「今すこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや」とおぼゆ。
 
 中納言は、独り臥していらっしゃるのを、そのつもりでいたのかと嬉しくなって、心をときめかしなさると、だんだんと違った人であったと分かる。
 「もう少し美しくかわいらしい感じが勝っていようか」と思われる。
 
   あさましげにあきれ惑ひたまへるを、「げに、心も知らざりける」と見ゆれば、いといとほしくもあり、またおし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたければ、これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど、なほ本意の違はむ、口惜しくて、  驚いてあきれていらっしゃるのを、「なるほど、事情を知らなかったのだ」と見えるので、とてもお気の毒でもあり、また思い返しては、隠れていらっしゃる方の冷淡さが、ほんとうに情けなく悔しいので、この人をも他人のものにはしたくないが、やはりもともとの気持ちと違ったのが、残念で、
   「うちつけに浅かりけりともおぼえたてまつらじ。
 この一ふしは、なほ過ぐして、つひに、宿世逃れずは、こなたざまにならむも、何かは異人のやうにやは」
 「一時の浅い気持ちだったとは思われ申すまい。
 この場は、やはりこのまま過ごして、結局、運命から逃れられなかったら、こちらの宮と結ばれるのも、どうしてまったくの他人でもないし」
   と思ひ覚まして、例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明かしたまひつ。
 
 と気を静めて、例によって、風情ある優しい感じでお話して夜をお明かしになった。
 
   老い人どもは、しそしつと思ひて、  老女連中は、十分にうまくいったと思って、
   「中の宮、いづこにかおはしますらむ。
 あやしきわざかな」
 「中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう。
 不思議なことだわ」
   と、たどりあへり。
 
 と、探し合っていた。
 
   「さりとも、あるやうあらむ」  「いくら何でも、どこかにいらっしゃるだろう」
   など言ふ。
 
 などと言う。
 
   「おほかた例の、見たてまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき御容貌ありさまを、などて、いともて離れては聞こえたまふらむ。
 何か、これは世の人の言ふめる、恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ」
 「総じていつも、拝見すると皺の延びる気がして、素晴らしく立派でいつまでも拝見していたいご器量や態度を、どうして、とてもよそよそしくお相手申し上げていらっしゃるのだろう。
 何ですか、これは世間の人が言うような、恐ろしい神様が、お憑き申しているのでしょうか」
   と、歯はうちすきて、愛敬なげに言ひなす女あり。
 また、
 と、歯は抜けて、憎たらしく言う女房がいる。
 また、
   「あな、まがまがし。
 なぞのものか憑かせたまはむ。
 ただ、人に遠くて、生ひ出でさせたまふめれば、かかることにも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはしますに、はしたなく思さるるにこそ。
 今おのづから見たてまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてむ」
 「まあ、縁起でもない。
 どんな魔物がお憑きになっているものですか。
 ただ、世間離れして、お育ちになったようですから、このようなことでも、ふさわしくとりなして差し上げなさる人もなくていらっしゃるので、体裁悪く思わずにはいらっしゃれないのでしょう。
 そのうち自然と拝しお馴れなさったら、きっとお慕い申し上げなさるでしょう」
   など語らひて、  などと話して、
   「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」  「すぐにうちとけて、理想的な生活におなりになってほしい」
   と言ふ言ふ寝入りて、いびきなど、かたはらいたくするもあり。
 
 と言いながら寝入って、いびきなどを、きまり悪いくらいにする者もいる。
 
   逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひを、人やりならず飽かぬ心地して、  逢いたい人と過ごしたのではない秋の夜であるが、間もなく明けてしまう気がして、どちらとも区別することもできない優美なご様子を、自分自身でも物足りない気がして、
   「あひ思せよ。
 いと心憂くつらき人の御さま、見習ひたまふなよ」
 「あなたも愛してください。
 とても情けなくつらいお方のご様子を、真似なさいますな」
   など、後瀬を契りて出でたまふ。
 我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど、なほつれなき人の御けしき、今一たび見果てむの心に、思ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。
 
 などと、後の逢瀬を約束してお出になる。
 自分ながら妙に夢のように思われるが、やはり冷たい方のお気持ちを、もう一度見極めたいとの気で、気持ちを落ち着けながら、いつものように、出て来てお臥せりになった。
 
 
 

第七段 翌朝、それぞれの思い

 
   弁参りて、  弁が参って、
   「いとあやしく、中の宮は、いづくにかおはしますらむ」  「ほんとうに不思議に、中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう」
   と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、「いかなりけむことにか」と思ひ臥したまへり。
 昨日のたまひしことを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。
 
 と言うのを、とても恥ずかしく思いがけないお気持ちで、「どうしたことであったのか」と思いながら横になっていらっしゃった。
 昨日おっしゃったことをお思い出しになって、姫宮をひどい方だとお思い申し上げなさる。
 
   明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。
 思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
 
 すっかり明けた光を頼りにして、壁の中のこおろぎすが這い出しなさった。
 恨んでいらっしゃるだろうことがとてもお気の毒なので、お互いに何もおっしゃれない。
 
   「ゆかしげなく、心憂くもあるかな。
 今より後も、心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ」
 「奥ゆかしげもなく、情けないことだわ。
 今から後は、油断できないものだわ」
   と思ひ乱れたまへり。
 
 と思い乱れていらっしゃった。
 
   弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあらはして、「いとあまり深く、人憎かりけること」と、いとほしく思ひほれゐたり。
 
 弁はあちらに参って、あきれはてたお気の強さをすっかり聞いて、「まことにあまりにも思慮が深く、かわいげがないこと」と、気の毒に思い呆然としていた。
 
   「来し方のつらさは、なほ残りある心地して、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむ、まことに恥づかしく、身も投げつべき心地する。
 捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶるに、身をもえ思ひ捨つまじけれ。
 かけかけしき筋は、いづ方にも思ひきこえじ。
 憂きもつらきも、かたがたに忘られたまふまじくなむ。
 
 「今までのつらさは、まだ望みの持てる気がして、いろいろと慰めていたが、昨夜は、ほんとうに恥ずかしく、身を投げてしまいたい気がする。
 お見捨てがたい気持ちで遺していかれたおいたわしさをお察し申し上げるのは、また、一途に、わが身を捨てることもできません。
 好色がましい気持ちは、どちらにもお思い申していません。
 悲しさも苦しさも、それぞれお忘れになられたくなく思います。
 
   宮などの、恥づかしげなく聞こえたまふめるを、同じくは心高く、と思ふ方ぞ異にものしたまふらむ、と心得果てつれば、いとことわりに恥づかしくて。
 また参りて、人びとに見えたてまつらむこともねたくなむ。
 よし、かくをこがましき身の上、また人にだに漏らしたまふな」
 宮などが、立派にお手紙を差し上げなさるようですが、同じことなら気位高く、という考えが別におありなのだろう、と納得がいきましたので、まことにごもっともで恥ずかしくて。
 再び参上して、あなた方にお目にかかることもしゃくでね。
 よし、このように馬鹿らしい身の上を、また他人にお漏らしなさいますな」
   と、怨じおきて、例よりも急ぎ出でたまひぬ。
 「誰が御ためもいとほしく」と、ささめきあへり。
 
 と、恨み言をいって、いつもより急いでお出になった。
 「どなたにとってもお気の毒で」と、ささやき合っていた。
 
 
 

第八段 薫と大君、和歌を詠み交す

 
   姫君も、「いかにしつることぞ、もしおろかなる心ものしたまはば」と、胸つぶれて心苦しければ、すべて、うちあはぬ人びとのさかしら、憎しと思す。
 さまざま思ひたまふに、御文あり。
 例よりはうれしとおぼえたまふも、かつはあやし。
 秋のけしきも知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃く紅葉ぢたるを、
 姫君も、「どうしたことだ、もしいい加減な気持ちがおありだったら」と、胸が締めつけられるように苦しいので、何もかも、考えの違う女房のおせっかいを、憎らしいとお思いになる。
 いろいろとお考えになっているところに、お手紙がある。
 いつもより嬉しく思われなさるのも、一方ではおかしなことである。
 秋の様子も知らないふりして、青い枝で、片一方はたいそう色濃く紅葉したのを、
 

657
 「おなじ枝を 分きて染めける 山姫に
 いづれか深き 色と問はばや」
 「同じ枝を分けて染めた山姫を
  どちらが深い色と尋ねましょうか」
 
   さばかり怨みつるけしきも、言少なにことそぎて、おし包みたまへるを、「そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり」と見たまふも、心騷ぎて見る。
 
 あれほど恨んでいた様子も、言葉少なく簡略にして、包んでいらっしゃるが、「何ともなしにうやむやにして済ますようだ」と御覧になるのも、心騷ぎして見る。
 
   かしかましく、「御返り」と言へば、「聞こえたまへ」と譲らむも、うたておぼえて、さすがに書きにくく思ひ乱れたまふ。
 
 やかましく、「お返事を」と言うので、「差し上げなさい」と譲るのも、嫌な気がして、そうは言え書きにくく思い乱れなさる。
 
 

658
 「山姫の 染むる心は わかねども
 移ろふ方や 深きなるらむ」
 「山姫が染め分ける心はわかりませんが
  色変わりしたほうに深い思いを寄せているのでしょう」
 
   ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ怨じ果つまじくおぼゆ。
 
 さりげなくお書きになっていたが、おもしろく見えたので、やはり恨みきれず思われる。
 
   「身を分けてなど、譲りたまふけしきは、たびたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり。
 そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情けなきものに思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくやあらむ。
 
 「身を分けてなどと、お譲りになる様子は、度々見えたが、承知しないのに困って企てなさったようだ。
 その効もなく、このように何の変化ないのもお気の毒で、情けない人と思われて、ますます当初からの思いがかないがたいだろう。
 
   とかく言ひ伝へなどすめる老い人の思はむところも軽々しく、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中を思ひ捨てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人悪ろく思ひ知らるるを、まして、おしなべたる好き者のまねに、同じあたり返すがへす漕ぎめぐらむ、いと人笑へなる棚無し小舟めきたるべし」  あれこれと仲立ちなどするような老女が思うところも軽々しく、結局のところ思慕したことさえ後悔され、このような世の中を思い捨てようとの考えに、自分自身もかなわなかったことよと、体裁悪く思い知られるのに、それ以上に、世間にありふれた好色者の真似して、同じ人を繰り返し付きまとわるのも、まことに物笑いな棚無し小舟みたいだろう」
   など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参りたまふ。
 
 などと、一晩中思いながら夜を明かしなさって、まだ有明の空も風情あるころに、兵部卿宮のお邸に参上なさる。
 
 
 

第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚

 
 

第一段 薫、匂宮を訪問

 
   三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば、近くては常に参りたまふ。
 宮も、思すやうなる御心地したまひけり。
 紛るることなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽、他のには似ず、同じ花の姿も、木草のなびきざまも、ことに見なされて、遣水に澄める月の影さへ、絵に描きたるやうなるに、思ひつるもしるく起きおはしましけり。
 
 三条宮邸が焼けた後は、六条院に移っていらっしゃったので、近くていつも参上なさる。
 宮も、お望みどおりの思いでいらっしゃるのであった。
 雑事にかまけることもなく理想的なお住まいなので、お庭先の前栽が、他の所のとは違って、同じ花の恰好も、木や草の枝ぶりも、格別に思われて、遣水に澄んで映る月の光までが、絵に描いたようなところに、予想どおりに起きておいでになった。
 
   風につきて吹き来る匂ひの、いとしるくうち薫るに、ふとそれとうち驚かれて、御直衣たてまつり、乱れぬさまに引きつくろひて出でたまふ。
 
 風に乗って吹いてくる匂いが、たいそうはっきりと薫っているので、ふとその人と気がついて、お直衣をお召しになり、きちんとした姿に整えてお出ましになる。
 
   階を昇りも果てず、ついゐたまへれば、「なほ、上に」などものたまはで、高欄によりゐたまひて、世の中の御物語聞こえ交はしたまふ。
 かのわたりのことをも、もののついでには思し出でて、「よろづに恨みたまふも、わりなしや。
 みづからの心にだにかなひがたきを」と思ふ思ふ、「さもおはせなむ」と思ひなるやうのあれば、例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。
 
 階を昇り終えず、かしこまりなさっていると、「どうぞ、上に」などともおっしゃらず、高欄に寄りかかりなさって、世間話をし合いなさる。
 あの辺りのことも、何かの機会にはお思い出しになって、「いろいろとお恨みになるのも無理な話である。
 自分自身の思いさえかないがたいのに」と思いながら、「そうなってくれればいい」と思うようなことがあるので、いつもよりは真面目に、打つべき手などを申し上げなさる。
 
   明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきたり。
 山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、
 明け方の薄暗いころ、折悪く霧がたちこめて、空の感じも冷え冷えと感じられ、月は霧に隔てられて、木の下も暗く優美な感じである。
 山里のしみじみとした様子をお思い出しになったのであろうか、
   「このころのほどは、かならず後らかしたまふな」  「近々のうちに、必ず置いておきなさるな」
   と語らひたまふを、なほ、わづらはしがれば、  とお頼みなさるのを、相変わらず、うるさがりそうにするので、
 

659
 「女郎花 咲ける大野を ふせぎつつ
 心せばくや しめを結ふらむ」
 「女郎花が咲いている大野に人を入れまいと
  どうして心狭く縄を張り廻らしなさるのか」
 
   と戯れたまふ。
 
 と冗談をおっしゃる。
 
 

660
 「霧深き 朝の原の 女郎花
 心を寄せて 見る人ぞ見る
 「霧の深い朝の原の女郎花は
  深い心を寄せて知る人だけが見るのです
 
   なべてやは」  並の人には」
   など、ねたましきこゆれば、  などと、悔しがらせなさると、
   「あな、かしかまし」  「ああ、うるさいことだ」
   と、果て果ては腹立ちたまひぬ。
 
 と、ついにはご立腹なさった。
 
   年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思ひしに、「容貌なども見おとしたまふまじく推し量らるる、心ばせの近劣りするやうもや」などぞ、あやふく思ひわたりしを、「何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめり」と思へば、かの、いとほしく、うちうちに思ひたばかりたまふありさまも違ふやうならむも、情けなきやうなるを、さりとて、さはたえ思ひ改むまじくおぼゆれば、譲りきこえて、「いづ方の恨みをも負はじ」など、下に思ひ構ふる心をも知りたまはで、心せばくとりなしたまふもをかしけれど、  長年このようにおっしゃるが、どのような方か気がかりに思っていたが、「器量などもがっかりなさることもないと推量されるが、気立てが思ったほどでないかも知れない」などと、ずっと心配に思っていたが、「何事も失望させるようなところはおありでないようだ」と思うと、あの、おいたわしくも、胸の中にお計らいになった様子と違うようなのも、思いやりがないようだが、そうかといって、そのようにまた考えを改めがたく思われるので、お譲り申し上げて、「どちらの恨みも負うまい」などと、心の底に思っている考えをご存知なくて、心狭いとおとりになるのも面白いけれど、
   「例の、軽らかなる御心ざまに、もの思はせむこそ、心苦しかるべけれ」  「いつもの、軽々しいご気性で、物思いをさせるのは、気の毒なことでしょう」
   など、親方になりて聞こえたまふ。
 
 などと、親代わりになって申し上げなさる。
 
   「よし、見たまへ。
 かばかり心にとまることなむ、まだなかりつる」
 「よし、御覧ください。
 これほど心にとまったことは、まだなかった」
   など、いとまめやかにのたまへば、  などと、実に真面目におっしゃるので、
   「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべきけしきは見えずなむはべる。
 仕うまつりにくき宮仕へにこそはべるや」
 「あのお二方の心には、それならと承知したような様子には見えませんでした。
 お仕えしにくい宮仕えでございます」
   とて、おはしますべきやうなど、こまかに聞こえ知らせたまふ。
 
 と言って、お出ましになる時の注意などを、こまごまと申し上げなさる。
 
 
 

第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う

 
   二十八日の、彼岸の果てにて、吉き日なりければ、人知れず心づかひして、いみじく忍びて率てたてまつる。
 后の宮など聞こし召し出でては、かかる御ありきいみじく制しきこえたまへば、いとわづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなくともて扱ふも、わりなくなむ。
 
 二十八日が、彼岸の終わりの日で、吉日だったので、こっそりと準備して、ひどく忍んでお連れ申し上げる。
 后宮などがお聞きあそばしては、このようなお忍び歩きを厳しくお禁じ申し上げなさっているので、まことに厄介であるが、たってのお望みのことなので、気づかれないようにとお世話するのも、大変なことである。
 
   舟渡りなども所狭ければ、ことことしき御宿りなども、借りたまはず、そのわたりいと近き御庄の人の家に、いと忍びて、宮をば下ろしたてまつりたまひて、おはしぬ。
 見とがめたてまつるべき人もなけれど、宿直人はわづかに出でてありくにも、けしき知らせじとなるべし。
 
 舟で渡ったりするのも大げさなので、仰々しいお邸なども、お借りなさらず、その辺りの特に近い御庄の人の家に、たいそうこっそりと、宮をお下ろし申し上げなさって、いらっしゃた。
 お気づき申すような人もいないが、宿直人は形ばかり外に出て来るにつけても、様子を知らせまいというのであろう。
 
   「例の、中納言殿おはします」とて経営しあへり。
 君たちなまわづらはしく聞きたまへど、「移ろふ方異に匂はしおきてしかば」と、姫宮思す。
 中の宮は、「思ふ方異なめりしかば、さりとも」と思ひながら、心憂かりしのちは、ありしやうに姉宮をも思ひきこえたまはず、心おかれてものしたまふ。
 
 「いつもの、中納言殿がおいでです」と準備に回る。
 姫君たちは何となくわずらわしくお聞きになるが、「心を変えていただくように言っておいたから」と、姫宮はお思いになる。
 中の宮は、「思う相手はわたしではないようだから、いくら何でも」と思いながら、嫌な事があってから後は、今までのように姉宮をお信じ申し上げなさらず、用心していらっしゃる。
 
   何やかやと御消息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにかと、人びとも心苦しがる。
 
 何やかやとご挨拶ばかりを差し上げなさって、どのようになることかと、女房たちも気の毒がっている。
 
   宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁召し出でて、  宮には、お馬で、闇に紛れてお出ましいただいて、弁を召し出して、
   「ここもとに、ただ一言聞こえさすべきことなむはべるを、思し放つさま見たてまつりてしに、いと恥づかしけれど、ひたや籠もりにては、えやむまじきを、今しばし更かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」  「こちらに、ただ一言申し上げねばならないことがございますが、お嫌いなさった様子を拝見してしまったので、まことに恥ずかしいが、いつまでも引き籠もっていられそうにないので、もう暫く夜が更けてから、以前のように手引きしてくださいませんか」
   など、うらもなく語らひたまへば、「いづ方にも同じことにこそは」など思ひて参りぬ。
 
 などと、率直にお頼みになると、「どちらであっても同じことだから」などと思って参上した。
 
 
 

第三段 薫、中の君を匂宮にと企む

 
   「さなむ」と聞こゆれば、「さればよ、思ひ移りにけり」と、うれしくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の障子を、いとよくさして、対面したまへり。
 
 「これこれです」と申し上げると、「そうであったか、思いが変わったのだわ」と、嬉しくなって心が落ち着き、あのお入りになる道ではない廂の障子を、しっかりと施錠して、お会いなさった。
 
   「一言聞こえさすべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。
 いといぶせし」
 「一言申し上げねばならないが、また女房に聞こえるような大声を出すのは具合が悪いから、少しお開けくださいませ。
 まことにうっとうしい」
   と聞こえさせたまへど、  と申し上げなさるが、
   「いとよく聞こえぬべし」  「とてもよく聞こえましょう」
   とて、開けたまはず。
 「今はと移ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや。
 何かは、例ならぬ対面にもあらず、人憎くいらへで、夜も更かさじ」など思ひて、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖を捉へて引き寄せて、いみじく怨むれば、「いとうたてもあるわざかな。
 何に聞き入れつらむ」と、悔しくむつかしけれど、「こしらへて出だしてむ」と思して、異人と思ひわきたまふまじきさまに、かすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれなり。
 
 と言って、お開けにならない。
 「今はもう心が変わったのを、挨拶なしではと思って言うのであろうか。
 何の、今初めてお会いするのでもないし、不愛想に黙っていないで、夜を更かすまい」などと思って、そのもとまでお出になったが、障子の間からお袖を捉えて引き寄せて、ひどく恨むので、「ほんとに嫌なことだわ。
 どうして言うことを聞いたのだろう」と、悔やまれ厄介だが、「なだめすかして向こうへ行かせよう」とお考えになって、自分同様にお思いくださるように、それとなくお話なさる心配りなど、まことにいじらしい。
 
   宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を鳴らしたまへば、弁も参りて導ききこゆ。
 さきざきも馴れにける道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも、姫宮は知りたまはで、「こしらへ入れてむ」と思したり。
 
 宮は、教え申し上げたとおり、先夜の戸口に近寄って、扇を鳴らしなさると、弁が参ってお導き申し上げる。
 先々も物馴れした道案内を、面白いとお思いになりながらお入りになったのを、姫宮はご存知なく、「言いなだめて入れよう」とお思いになっていた。
 
   をかしくもいとほしくもおぼえて、うちうちに心も知らざりける恨みおかれむも、罪さりどころなき心地すべければ、  おかしくもお気の毒にも思われて、内々にまったく知らなかったことを恨まれるのも、弁解の余地のない気がするにちがいないので、
   「宮の慕ひたまひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる。
 音もせでこそ、紛れたまひぬれ。
 このさかしだつめる人や、語らはれたてまつりぬらむ。
 中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな」
 「宮が後をついていらしたので、お断りするのもできず、ここにいらっしゃいました。
 音も立てずに、紛れ込みなさった。
 この利口ぶった女房は、頼み込まれ申したのだろう。
 中途半端で物笑いにもなってしまいそうだな」
   とのたまふに、今すこし思ひよらぬことの、目もあやに心づきなくなりて、  とおっしゃるので、今一段と意外な話で、目も眩むばかり嫌な気になって、
   「かく、よろづにめづらかなりける御心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりにけるおこたりに、思しあなづるにこそは」  「このように、万事変なことを企みなさるお方とも知らず、何ともいいようのない思慮の浅さをお見せ申してしまった至らなさから、馬鹿にしていらっしゃるのですね」
   と、言はむ方なく思ひたまへり。
 
 と、何とも言いようもなく後悔していらっしゃった。
 
 
 

第四段 薫、大君の寝所に迫る

 
   「今は言ふかひなし。
 ことわりは、返すがへす聞こえさせてもあまりあらば、抓みもひねらせたまへ。
 やむごとなき方に思しよるめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にかなはぬものにはべるめれば、かの御心ざしは異にはべりけるを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ、置き所なく心憂くはべりけれ。
 
 「今はもう言ってもしかたありません。
 お詫びの言い訳は、何度申し上げても足りなければ、抓ねるでも捻るでもなさってください。
 高貴な方をお思いのようですが、運命などというようなものは、まったく思うようにいかないものでございますので、あの方のご執心は別のお方にございましたのを、お気の毒に存じられますが、思いのかなわないわが身こそ、置き場もなく情けのうございます。
 
   なほ、いかがはせむに思し弱りね。
 この御障子の固めばかり、いと強きも、まことにもの清く推し量りきこゆる人もはべらじ。
 しるべと誘ひたまへる人の御心にも、まさにかく胸ふたがりて、明かすらむとは、思しなむや」
 やはり、どうにもならぬこととお諦めください。
 この障子の錠ぐらいが、どんなに強くとも、ほんとうに潔癖であったと推察いたす人もございますまい。
 案内人としてお誘いになった方のご心中にも、ほんとうにこのように胸を詰まらせて、夜を明かしていようとは、お思いになるでしょうか」
   とて、障子をも引き破りつべきけしきなれば、言はむ方なく心づきなけれど、こしらへむと思ひしづめて、  と言って、障子を引き破ってしまいそうな様子なので、何ともいいようもなく不愉快だが、なだめすかそうと落ち着いて、
   「こののたまふ筋、宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもいかにも思ひたどられず。
 知らぬ涙のみ霧りふたがる心地してなむ。
 こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさましきに、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、をこめきて作り出でたるもののたとひにこそは、なりぬべかめれ。
 かく思し構ふる心のほどをも、いかなりけるとかは推し量りたまはむ。
 
 「そのおっしゃる方面のこと、運命というものは、目にも見えないものなので、どのようにもこのようにも分かりません。
 行く先の知れない涙ばかり曇る心地がします。
 これはどのようになさるおつもりかと、夢のように驚いていますが、後世に話の種として言い出す人があったら、昔物語などに、馬鹿な話として作り出した話の例に、なってしまいそうです。
 このようにお企みになったお心のほどを、どうしてだったのかとご推察なさるでしょう。
 
   なほ、いとかく、おどろおどろしく心憂く、な取り集め惑はしたまひそ。
 心より外にながらへば、すこし思ひのどまりて聞こえむ。
 心地もさらにかきくらすやうにて、いと悩ましきを、ここにうち休まむ。
 許したまへ」
 やはり、とてもこのように、恐ろしいほどの辛い思いを、たくさんさせてお迷わしなさいますな。
 思いの外に生き永らえたたら、少し気が落ち着いてからお相手申し上げましょう。
 気分も真暗な気になって、とても苦しいが、ここで少し休みます。
 お放しください」
   と、いみじくわびたまへば、さすがにことわりをいとよくのたまふが、心恥づかしくらうたくおぼえて、  と、ひどく困っていらっしゃるので、それでも道理を尽くしておっしゃるのが、気恥ずかしくいたわしく思われて、
   「あが君、御心に従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなしくなりはべれ。
 言ひ知らず憎く疎ましきものに思しなすめれば、聞こえむ方なし。
 いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」とて、「さらば、隔てながらも、聞こえさせむ。
 ひたぶるに、なうち捨てさせたまひそ」
 「あなた様、お気持ちに添うことを類なく思っているので、こんなにまで馬鹿者のようになっております。
 何とも言えないくらい憎み疎んじていらっしゃるようなので、申し上げようもありません。
 ますますこの世に跡を残すことも思われません」と言って、「それでは、物を隔てたままですが、申し上げさせていただきましょう。
 一途に、お捨てあそばしなさいますな」
   とて、許したてまつりたまへれば、這ひ入りて、さすがに、入りも果てたまはぬを、いとあはれと思ひて、  と言って、お放し申されたので、奥に這い入って、とはいっても、すっかりお入りになってしまうこともできないのを、まことにいたわしく思って、
   「かばかりの御けはひを慰めにて、明かしはべらむ。
 ゆめ、ゆめ」
 「これだけのおもてなしを慰めとして、夜を明かしましょう。
 決して、決して」
   と聞こえて、うちもまどろまず、いとどしき水の音に目も覚めて、夜半のあらしに、山鳥の心地して、明かしかねたまふ。
 
 と申し上げて、少しもまどろまず、激しい水の音に目も覚めて、夜半の嵐に、山鳥のような気がして、夜を明かしかねなさる。
 
 
 

第五段 薫、再び実事なく夜を明かす

 
   例の、明け行くけはひに、鐘の声など聞こゆ。
 「いぎたなくて出でたまふべきけしきもなきよ」と、心やましく、声づくりたまふも、げにあやしきわざなり。
 
 いつもの、明けゆく様子に、鐘の音などが聞こえる。
 「眠っていてお出になるような様子もないな」と、妬ましくて、咳払いなさるのも、なるほど妙なことである。
 
 

661
 「しるべせし 我やかへりて 惑ふべき
 心もゆかぬ 明けぐれの道
 「道案内をしたわたしがかえって迷ってしまいそうです
  満ち足りない気持ちで帰る明け方の暗い道を
 
   かかる例、世にありけむや」  このような例は、世間にあったでしょうか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
 

662
 「かたがたに くらす心を 思ひやれ
 人やりならぬ 道に惑はば」
 「それぞれに思い悩むわたしの気持ちを思ってみてください
  自分勝手に道にお迷いならば」
 
   と、ほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、  と、かすかにおっしゃるのを、まことに物足りない気がするので、
   「いかに、こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」  「何とも、すっかり隔てられているようなので、まことに堪らない気持ちです」
   など、よろづに怨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方より出でたまふなり。
 いとやはらかに振る舞ひなしたまへる匂ひなど、艶なる御心げさうには、言ひ知らずしめたまへり。
 ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひ惑はれけれど、「さりとも悪しざまなる御心あらむやは」と慰めたり。
 
 などと、いろいろと恨みながら、ほのぼのと明けてゆくころに、昨夜の方角からお出になる様子である。
 たいそう柔らかく振る舞っていらっしゃる所作など、色めかしいお心用意から、何ともいえないくらい香をたきこめていらっしゃった。
 老女連中は、まことに妙に合点がゆかず戸惑っていたが、「そうはいっても悪いようにはなさるまい」と慰めていた。
 
   暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。
 道のほども、帰るさはいとはるけく思されて、心安くもえ行き通はざらむことの、かねていと苦しきを、「夜をや隔てむ」と思ひ悩みたまふなめり。
 まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。
 廊に御車寄せて降りたまふ。
 異やうなる女車のさまして隠ろへ入りたまふに、皆笑ひたまひて、
 暗いうちにと、急いでお帰りになる。
 道中も、帰途はたいそう遥か遠く思われなさって、気軽に行き来できそうにないことが、今からとてもつらいので、「夜を隔てられようか」と思い悩んでいらっしゃるようである。
 まだ人が騒々しくならない朝のうちにお着きになった。
 廊にお車を寄せてお下りになる。
 異様な女車の恰好をしてこっそりとお入りになるにつけても、皆お笑いになって、
   「おろかならぬ宮仕への御心ざしとなむ思ひたまふる」  「いい加減でない宮仕えのお気持ちと存じます」
   と申したまふ。
 しるべのをこがましさも、いと妬くて、愁へもきこえたまはず。
 
 と申し上げなさる。
 道案内の馬鹿らしさを、まことに悔しいので、愚痴を申し上げるお気にもならない。
 
 
 

第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く

 
   宮は、いつしかと御文たてまつりたまふ。
 山里には、誰も誰もうつつの心地したまはず、思ひ乱れたまへり。
 「さまざまに思し構へけるを、色にも出だしたまはざりけるよ」と、疎ましくつらく、姉宮をば思ひきこえたまひて、目も見合はせたてまつりたまはず。
 知らざりしさまをも、さはさはとは、えあきらめたまはで、ことわりに心苦しく思ひきこえたまふ。
 
 宮は、早々と後朝のお手紙を差し上げなさる。
 山里では、大君も中の君も現実のような気がなさらず、思い乱れていらっしゃった。
 「いろいろと企んでいらしたのを、顔にも出さなかったことよ」と、疎ましくつらく、姉宮をお恨み申し上げなさって、お目も合わせ申し上げなさらない。
 ご存知なかった事情を、さっぱりと弁明おできになれず、もっともなこととお気の毒にお思い申し上げなさる。
 
   人びとも、「いかにはべりしことにか」など、御けしき見たてまつれど、思しほれたるやうにて、頼もし人のおはすれば、「あやしきわざかな」と思ひあへり。
 御文もひき解きて見せたてまつりたまへど、さらに起き上がりたまはねば、「いと久しくなりぬ」と御使わびけり。
 
 女房たちも、「どういうことでございましたか」などと、ご機嫌を伺うが、呆然とした状態で、頼りとする姫宮がいらっしゃるので、「不思議なことだわ」と思い合っていた。
 お手紙を紐解いてお見せ申し上げなさるが、全然起き上がりなさらないので、「たいへん時間がたちます」とお使いの者は困っていた。
 
 

663
 「世の常に 思ひやすらむ 露深き
 道の笹原 分けて来つるも」
 「世にありふれたことと思っていらっしゃるのでしょうか
  露の深い道の笹原を分けて来たのですが」
 
   書き馴れたまへる墨つきなどの、ことさらに艶なるも、おほかたにつけて見たまひしは、をかしくおぼえしを、うしろめたくもの思はしくて、我さかし人にて聞こえむも、いとつつましければ、まめやかに、あるべきやうを、いみじくせめて書かせたてまつりたまふ。
 
 書き馴れていらっしゃる墨つきなどが、格別に優美なのも、一般のお付き合いとして御覧になっていた時は、素晴らしく思われたが、気がかりで心配事が多くて、自分が出しゃばってお返事申し上げるのも、とても気が引けるので、一生懸命に、書くべきことを、じっくりと言い聞かせてお書かせ申し上げなさる。
 
   紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴具して賜ふ。
 御使苦しげに思ひたれば、包ませて、供なる人になむ贈らせたまふ。
 ことことしき御使にもあらず、例たてまつれたまふ上童なり。
 ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、「昨夜のさかしがりし老い人のしわざなりけり」と、ものしくなむ、聞こしめしける。
 
 紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴を添えてお与えになる。
 お使いが迷惑そうにしているので、包ませて、お供の者に贈らせなさる。
 大げさなお使いでもなく、いつもお差し上げなさる殿上童なのである。
 特別に、人に気づかれまいとお思いになっていたので、「昨夜の利口ぶっていた老女のしわざであったよ」と、嫌な気がなさったのであった。
 
 
 

第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜

 
   その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、「冷泉院にかならずさぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。
 「例の、ことに触れて、すさまじげに世をもてなす」と、憎く思す。
 
 その夜も、あの道案内をお誘いになったが、「冷泉院にぜひとも伺候しなければならないことがございますので」と言って、お断りになった。
 「例によって、何かにつけ、この世に関心のないように振る舞う」と、憎くお恨みになる。
 
   「いかがはせむ。
 本意ならざりしこととて、おろかにやは」と思ひ弱りたまひて、御しつらひなどうちあはぬ住み処なれど、さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。
 はるかなる御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、かつはあやしき。
 
 「仕方がない。
 願わなかった結婚だからといって、いい加減にできようか」とお思い弱りになって、お部屋飾りなど揃わない住居だが、それはそれとして風流に整えてお待ち申し上げなさるのであった。
 はるばるとご遠路を急いでいらっしゃったのも、嬉しいことであるが、また一方では不思議なこと。
 
   正身は、我にもあらぬさまにて、つくろはれたてまつりたまふままに、濃き御衣のいたく濡るれば、さかし人もうち泣きたまひつつ、  ご本人は、正気もない様子で、身づくろいして差し上げられなさるままに、濃いお召し物がひどく濡れるので、しっかりした方もふとお泣きになりながら、
   「世の中に久しくもとおぼえはべらねば、明け暮れのながめにも、ただ御ことをのみなむ、心苦しく思ひきこゆるに、この人びとも、よかるべきさまのことと、聞きにくきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりとも、世のことわりをも知りたらむ。
 
 「この世にいつまでも生きていられるとも思われませんので、明け暮れの考え事にも、ただあなたのお身の上だけがおいたわしくお思い申し上げていますが、この女房たちも、結構な縁組だと聞きにくいまで言っているようなので、年をとった女房の考えには、そうはいっても、世間の道理をも知っているだろう。
 
   はかばかしくもあらぬ心一つを立てて、かくてのみやは、見たてまつらむ、と思ひなるやうもありしかど、ただ今かく、思ひもあへず、恥づかしきことどもに乱れ思ふべくは、さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言ふめる逃れがたき御契りなりけむ。
 いとこそ、苦しけれ。
 すこし思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえむ。
 憎しと、な思し入りそ。
 罪もぞ得たまふ」
 はかばかしくもない私一人の我を張って、こうしてばかりして、お置き申してよいものか、と思うようなこともありましたが、今はすぐにも、このように思いもかけず、恥ずかしい思いで思い乱れようとは、全然思ってもおりませんでしたが、これは、なるほど、世間の人が言うように逃れ難いお約束事だったのでしょう。
 まことに、つらいことです。
 少しお気持ちがお慰みになったら、何も知らなかった事情も申し上げましょう。
 憎いと、お恨みなさいますな。
 罪をお作りになっては大変ですよ」
   と、御髪をなでつくろひつつ聞こえたまへば、いらへもしたまはねど、さすがに、かく思しのたまふが、げに、うしろめたく悪しかれとも思しおきてじを、人笑へに見苦しきこと添ひて、見扱はれたてまつらむがいみじさを、よろづに思ひゐたまへり。
 
 と、御髪を撫でつくろいながら申し上げなさると、お返事もなさらないが、そうはいっても、このようにおっしゃることが、なるほど、心配で悪かれとはお考えであるまいから、物笑いに見苦しいことが加わって、お世話をおかけ申してはたいへんなことを、いろいろと考えていらっしゃった。
 
   さる心もなく、あきれたまへりしけはひだに、なべてならずをかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道のはるけさも、胸痛きまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、あはれともいかにとも思ひ分きたまはず。
 
そのような考えもなく、びっくりしていらっしゃった態度でさえ、並々ならず美しかったのだが、まして少し世間並になよなよとしていらっしゃるのは、お気持ちも深まって、簡単にお通いになることができない山道の遠さを、胸が痛いほどお思いになって、心をこめて将来をお約束になるが、嬉しいとも何ともお分かりにならない。
 
   言ひ知らずかしづくものの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親せうとなどいひつつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づかしさも、恐ろしさもなのめにやあらむ。
 家にあがめきこゆる人こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠く、もの深くてならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまの、つつましく恥づかしく、何ごとも世の人に似ず、あやしく田舎びたらむかし。
 はかなき御いらへにても言ひ出でむ方なくつつみたまへり。
 さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方の匂ひはまさりたまへる。
 
 言いようもなく大事にされている良家の姫君も、もう少し世間並に接し、親や兄弟などといっては、異性のすることを見慣れていらっしゃる方は、何かの恥ずかしさや、恐ろしさもほどほどのことであろう。
 邸内に大切にお世話申し上げる人はいないが、このような山深いご身辺なので、世間から離れて、引っ込んでお育ちになった方とて、思いもかけなかった出来事が、きまり悪く恥ずかしくて、何事も世間の人に似ず、妙に田舎人めいているだろう。
 ちょっとしたお返事も口のききようがなくて遠慮していらっしゃった。
 とはいえ、この君は利発で才気あふれる美しさは優っていらっしゃった。
 
 
 

第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜

 
   「三日にあたる夜、餅なむ参る」と人びとの聞こゆれば、「ことさらにさるべき祝ひのことにこそは」と思して、御前にてせさせたまふも、たどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人の見るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いとをかしげなり。
 このかみ心にや、のどかに気高きものから、人のためあはれに情け情けしくぞおはしける。
 
 「三日に当たる夜は、餅を召し上がるものです」と女房たちが申し上げるので、「特別にしなければならない祝いなのだ」とお思いになって、御前でお作らせなさるのも、分からないことばかりで、一方では親代わりになってお命じになるのも、女房がどう思うかとつい気が引けて、顔を赤らめていらっしゃる様子、まこと美しい感じである。
 姉のせいでか、おっとりと気高いが、妹君のためにしみじみとした情愛がおありであった。
 
   中納言殿より、  中納言殿から、
   「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕への労も、しるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。
 
 「昨夜、参ろうと思っておりましたが、せっかくご奉公に励んでも、何の効もなさそうなあなた様なので、恨めしく存じます。
 
   今宵は雑役もやと思うたまふれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り心地、いとど安からで、やすらはれはべり」  今夜は雑役でもと存じますが、宿直所が体裁悪くございました気分が、ますますよろしくなく、ぐずぐずいたしております」
   と、陸奥紙におひつぎ書きたまひて、まうけのものども、こまやかに、縫ひなどもせざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた懸籠入れて、老い人のもとに、「人びとの料に」とて賜へり。
 宮の御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえ取り集めたまはざりけるにやあらむ、ただなる絹綾など、下には入れ隠しつつ、御料とおぼしき二領。
 いときよらにしたるを、単衣の御衣の袖に、古代のことなれど、
 と、陸奥紙にきちんとお書きになって、準備の品々を、こまごまと、縫いなどしてない布地に、色とりどりに巻いたりして、御衣櫃をたくさん懸籠に入れて、老女のもとに、「女房たちの用に」といってお与えになった。
 宮の御方のもとにあった有り合わせの品々で、たいして多くはお集めになれなかったのであろうか、加工してない絹や綾などを、下に隠し入れて、お召し物とおぼしき二領。
 たいそう美しく加工してあるのを、単重の御衣の袖に古風な趣向であるが、
 

664
 「小夜衣 着て馴れきとは 言はずとも
 かことばかりは かけずしもあらじ」
 「小夜衣を着て親しくなったとは言いませんが
  いいがかりくらいはつけないでもありません」
 
   と、脅しきこえたまへり。
 
 と、脅し申し上げなさった。
 
   こなたかなた、ゆかしげなき御ことを、恥づかしくいとど見たまひて、御返りにもいかがは聞こえむと、思しわづらふほど、御使かたへは、逃げ隠れにけり。
 あやしき下人をひかへてぞ、御返り賜ふ。
 
 この方あの方とも、奥ゆかしさをなくした御身を、ますます恥ずかしくお思いになって、お返事をどのように申し上げようかと、お困りになっている時、お使いのうち何人かは、逃げ隠れてしまったのであった。
 卑しい下人を呼びとめて、お返事をお与えになる。
 
 

665
 「隔てなき 心ばかりは 通ふとも
 馴れし袖とは かけじとぞ思ふ」
 「隔てない心だけは通い合いましょうとも
  馴れ親しんだ仲などとはおっしゃらないでください」
 
   心あわたたしく思ひ乱れたまへる名残に、いとどなほなほしきを、思しけるままと、待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思ひなされたまふ。
 
 気ぜわしくいろいろと思い悩んでいらっしゃった後のために、ますますいかにも平凡なのを、お心のままと、待って御覧になる方は、ただしみじみとお思いになられる。
 
 
 

第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る

 
 

第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める

 
   宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えまかでたまふまじげなるを、人知れず御心も空にて思し嘆きたるに、中宮、  宮は、その夜、内裏に参りなさって、退出しがたそうなのを、ひそかにお心も上の空でお嘆きになっていたが、中宮が、
   「なほ、かく独りおはしまして、世の中に、好いたまへる御名のやうやう聞こゆる、なほ、いと悪しきことなり。
 何事ももの好ましく、立てたる御心なつかひたまひそ。
 上もうしろめたげに思しのたまふ」
 「依然として、このように独身でいらして、世間に、好色でいらっしゃるご評判がだんだんと聞こえてくるのは、やはり、とてもよくないことです。
 何事にも風流が過ぎて、評判を立てるようなことをなさいますな。
 主上も不安にお思いおっしゃっています」
   と、里住みがちにおはしますを諌めきこえたまへば、いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きてたてまつれたまへる名残も、いたくうち眺めておはしますに、中納言の君参りたまへり。
 
 と、里住みがちでいらっしゃるのをお諌め申し上げなさると、まことに辛いとお思いになって、御宿直所にお出になって、お手紙を書いて差し上げなさったその後も、ひどく物思いに耽っていらっしゃるところに、中納言の君が参上なさった。
 
   そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしくて、  あの姫君のお味方とお思いになると、いつもより嬉しくて、
   「いかがすべき。
 いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」
 「どうしよう。
 とてもこのように暗くなってしまったようだが、気がいらいらして」
   と、嘆かしげに思したり。
 「よく御けしきを見たてまつらむ」と思して、
 と、嘆かしくお思いになっていた。
 「よくご本心をお確かめ申したい」とお思いになって、
   「日ごろ経て、かく参りたまへるを、今宵さぶらはせたまはで、急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや思しきこえさせたまはむ。
 台盤所の方にて承りつれば、人知れず、わづらはしき宮仕へのしるしに、あいなき勘当にやはべらむと、顔の色違ひはべりつる」
 「久しぶりに、こうして参内なさったのに、今夜伺候あそばさないで、急いで退出なさるのは、ますますけしからぬこととお思いあそばしましょう。
 台盤所の方で伺ったところ、ひそかに、厄介なご用をお勤め申したために、受けなくてもよいお叱りもございましょうかと、顔が青くなりました」
   と申したまへば、  と申し上げなさると、
   「いと聞きにくくぞ思しのたまふや。
 多くは人のとりなすことなるべし。
 世に咎めあるばかりの心は、何事にかは、つかふらむ。
 所狭き身のほどこそ、なかなかなるわざなりけれ」
 「まことに聞き憎いことをおっしゃいますね。
 多くは誰かが中傷するのでしょう。
 世間から非難を受けるような料簡は、どうして、起こそうか。
 窮屈なご身分など、かえってないほうがましだ」
   とて、まことに厭はしくさへ思したり。
 
 とおっしゃって、ほんとうに厭わしくさえお思いであった。
 
   いとほしく見たてまつりたまひて、  お気の毒に拝しなさって、
   「同じ御騒がれにこそはおはすなれ。
 今宵の罪には代はりきこえて、身をもいたづらになしはべりなむかし。
 木幡の山に馬はいかがはべるべき。
 いとどものの聞こえや障り所なからむ」
 「同じご不興でいらっしゃいましょう。
 今夜のお咎めは代わり申し上げて、我が身をも滅ぼしましょう。
 木幡の山に馬はいかがでございましょう。
 ますます世間の噂が避けようもないでしょう」
   と聞こえたまへば、ただ暮れに暮れて更けにける夜なれば、思しわびて、御馬にて出でたまひぬ。
 
 と申し上げなさるので、ただもうすっかり暮れて更けてしまった夜なので、お困りになって、お馬でお出かけになった。
 
   「御供には、なかなか仕うまつらじ。
 御後見を」
 「お供は、かえっていたしますまい。
 後始末をしよう」
   とて、この君は内裏にさぶらひたまふ。
 
 と言って、この君は内裏にお残りになる。
 
 
 

第二段 薫、明石中宮に対面

 
   中宮の御方に参りたまひつれば、  中宮の御方に参上なさると、
   「宮は出でたまひぬなり。
 あさましくいとほしき御さまかな。
 いかに人見たてまつるらむ。
 上聞こし召しては、諌めきこえぬが言ふかひなき、と思しのたまふこそわりなけれ」
 「宮はお出かけになったそうな。
 あきれて困ったお方ですこと。
 どのように世間の人はお思い申すことでしょう。
 主上がお耳にあそばしたら、ご注意申し上げないのがいけないのだ、とお考えになり仰せになるのが耐えられません」
   とのたまふ。
 あまた宮たちの、かくおとなび整ひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしきけはひなむ、まさりたまひける。
 
 と仰せになる。
 大勢の宮たちが、このようにご成人なさったが、大宮は、ますます若く美しい感じが、優っていらっしゃるのであった。
 
   「女一の宮も、かくぞおはしますべかめる。
 いかならむ折に、かばかりにてももの近く、御声をだに聞きたてまつらむ」と、あはれとおぼゆ。
 「好いたる人の、おぼゆまじき心つかふらむも、かうやうなる御仲らひの、さすがに気遠からず入り立ちて、心にかなはぬ折のことならむかし。
 
 「女一の宮も、このように美しくいらっしゃるようである。
 どのような機会に、この程度にお側近く、お声だけでもお聞きいたしたい」と、しみじみと思われる。
 「好色な男が、けしからぬ料簡を起こすのも、このようなお間柄で、そうはいっても他人行儀でなく出入りして、思いどおりにできないときのことなのだろう。
 
   わが心のやうに、ひがひがしき心のたぐひやは、また世にあんべかめる。
 それに、なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思ひ絶えね」
 自分のように、偏屈な性分は、他に世にいるだろうか。
 なのに、やはり心動かされた女は、思い切ることができないのだ」
   など思ひゐたまへる。
 さぶらふ限りの女房の容貌心ざま、いづれとなく悪ろびたるなく、めやすくとりどりにをかしきなかに、あてにすぐれて目にとまるあれど、さらにさらに乱れそめじの心にて、いときすくにもてなしたまへり。
 ことさらに見えしらがふ人もあり。
 
 などと思っていらっしゃった。
 お仕えしているすべての女房の器量や気立ては、どの人となく悪い者はなく、無難でそれぞれに美しい中に、上品で優れて目にとまるのもいるが、全然乱れまいとの気持ちで、まことに生真面目に振る舞っていらっしゃった。
 わざと気を引いてみる女房もいる。
 
   おほかた恥づかしげに、もてしづめたまへるあたりなれば、上べこそ心ばかりもてしづめたれ、心々なる世の中なりければ、色めかしげにすすみたる下の心漏りて見ゆるもあるを、「さまざまにをかしくも、あはれにもあるかな」と、立ちてもゐても、ただ常なきありさまを思ひありきたまふ。
 
 だいたいが気後れするような、沈着に振る舞っていらっしゃる所なので、表面はしとやかにしているが、人の心はさまざまなので、色っぽい性分の本心をちらちらと見せるのもいるが、「人それぞれにおもしろくもあり、いとおしくもあるなあ」と、立っても座っても、ただ世の無常を思い続けていらっしゃる。
 
 
 

第三段 女房たちと大君の思い

 
   かしこには、中納言殿のことことしげに言ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおはしまさで、御文のあるを、「さればよ」と胸つぶれておはするに、夜中近くなりて、荒ましき風のきほひに、いともなまめかしくきよらにて匂ひおはしたるも、いかがおろかにおぼえたまはむ。
 
 あちらでは、中納言殿が仰々しくおっしゃったのを、夜の更けるまでいらっしゃらず、お手紙のあるのを、「やはりそうであったか」と胸をつぶしておいでになると、夜半近くなって、荒々しい風に競うようにして、たいそう優雅で美しく匂っていらっしゃったのも、どうしていい加減に思われなさろう。
 
   正身も、いささかうちなびきて、思ひ知りたまふことあるべし。
 いみじくをかしげに盛りと見えて、引きつくろひたまへるさまは、「ましてたぐひあらじはや」とおぼゆ。
 
 ご本人も、わずかにうちとけて、お分かりになることがきっとあるにちがいない。
 たいそう美しく女盛りと見えて、ひきつくろっていらっしゃる様子は、「この方以上の方があろうか」と思われる。
 
   さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、けしうはあらずと、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと思さるれば、山里の老い人どもは、まして口つき憎げにうち笑みつつ、  あれほど美しい人を数多く御覧になっているお目にさえ、悪くはないと、器量をはじめとして、多く近勝りして思われなさるので、山里の老女連中は、まして慎みなく相好を崩して微笑しながら、
   「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の人の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。
 思ふやうなる御宿世」
 「このように惜しいご様子を、並の身分の男性がお世話申し上げなさるようになったら、どんなに口惜しいことでしょう。
 思いどおりのご運勢を」
   と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやしくひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。
 
 と申し上げながら、姫宮のご性格を、妙な偏屈者のようにお振る舞いなさるのを、悪しざまに口をとがらせてご非難申し上げる。
 
   盛り過ぎたるさまどもに、あざやかなる花の色々、似つかはしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひたる姿どもの、罪許されたるもなきを見わたされたまひて、姫宮、  盛りを過ぎた身なのに、派手な花の色とりどりや、似つかわしくないのを縫いながら、身にもつかずめかしこんでいる女房連中の姿が、見られた者もいないのを見渡しなさって、姫宮は、
   「我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし。
 鏡を見れば、痩せ痩せになりもてゆく。
 おのがじしは、この人どもも、我悪しとやは思へる。
 うしろでは知らず顔に、額髪をひきかけつつ、色どりたる顔づくりをよくしてうち振る舞ふめり。
 わが身にては、まだいとあれがほどにはあらず。
 目も鼻も直しとおぼゆるは、心のなしにやあらむ」
 「わたしもだんだん盛りを過ぎた身だわ。
 鏡を見ると、痩せ痩せになってゆく。
 めいめいは、この女房連中も、自分自身を醜いと思っていようか。
 後ろ姿は知らない顔で、額髪をかき上げながら、化粧した顔づくろいをよくして振る舞っているようだ。
 自分の身としては、まだあの女房ほどは醜くはない。
 目鼻だちも尋常だと思われるのは、うぬぼれであろうか」
   とうしろめたくて、見出だして臥したまへり。
 「恥づかしげならむ人に見えむことは、いよいよかたはらいたく、今一二年あらば、衰へまさりなむ。
 はかなげなる身のありさまを」と、御手つきの細やかにか弱く、あはれなるをさし出でても、世の中を思ひ続けたまふ。
 
 と不安で、外を眺めながら臥せっていらっしゃった。
 「気後れするような方と結婚することは、ますますみっともなく、もう一、二年したらいっそう衰えよう。
 頼りない身の上を」と、お腕が細っそりとして弱々しく、痛々しいのをさし出してみても、世の中を思い続けなさる。
 
 
 

第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る

 
   宮は、ありがたかりつる御暇のほどを思しめぐらすに、「なほ、心やすかるまじきことにこそは」と、胸ふたがりておぼえたまひけり。
 大宮の聞こえたまひしさまなど語りきこえたまひて、
 匂宮は、めったにないお暇のほどをお考えになると、「やはり、気軽にできそうにないことだ」と、胸が塞がって思われなさるのであった。
 大宮がご注意申し上げなさったことなどをお話し申し上げなさって、
   「思ひながらとだえあらむを、いかなるにか、と思すな。
 夢にてもおろかならむに、かくまでも参り来まじきを。
 心のほどやいかがと疑ひて、思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を捨ててなむ。
 常にかくはえ惑ひありかじ。
 さるべきさまにて、近く渡したてまつらむ」
 「愛していながら途絶えがあろうが、どうしたことなのか、とお案じなさるな。
 かりそめにも疎かに思ったら、このようには参りません。
 心の中をどうかしらと疑って、お悩みになるのがお気の毒で、身を捨てて参ったのです。
 いつもこのようには抜け出すことはできないでしょう。
 しかるべき用意をして、近くにお移し申しましょう」
   と、いと深く聞こえたまへど、「絶え間あるべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるべきにや」と心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくてなむありける。
 
 と、とても心をこめて申し上げなさるが、「絶え間がきっとあるように思われなさるのは、噂に聞いたお心のほどが現れたのかしら」と疑われて、ご自身の頼りない様子を思うと、いろいろと悲しいのであった。
 
   明け行くほどの空に、妻戸押し開けたまひて、もろともに誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所からのあはれ多く添ひて、例の、柴積む舟のかすかに行き交ふ跡の白波、「目馴れずもある住まひのさまかな」と、色なる御心には、をかしく思しなさる。
 
 明けてゆく空に、妻戸を押し開けなさって、一緒に誘って出て御覧になると、霧の立ちこめた様子、場所柄の情趣が多く加わって、例の、柴積み舟がかすかに行き来する跡の白波、「見慣れない住まいの様子だなあ」と、物事に感じやすいお心には、おもしろく思われなさる。
 
   山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌のまほにうつくしげにて、「限りなくいつき据ゑたらむ姫宮も、かばかりこそはおはすべかめれ。
 思ひなしの、わが方ざまのいといつくしきぞかし。
 こまやかなる匂ひなど、うちとけて見まほしく」、なかなかなる心地す。
 
 山の端の光がだんだんと見えるころに、女君のご器量が整っていてかわいらしくて、「この上なく大切に育てられた姫君も、これほどでいらっしゃろうか。
 気のせいで、こちらの身内の方がとても立派に思われる。
 きめ濃やかな美しさなどは、気を許して見ていたく」、かえって堪えがたい気がする。
 
   水の音なひなつかしからず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、「かかる所に、いかで年を経たまふらむ」など、うち涙ぐみたまへるを、いと恥づかしと聞きたまふ。
 
 水の音が騒がしく、宇治橋がたいそう古びて見渡されるなど、霧が晴れてゆくと、ますます荒々しい岸の辺りを、「このような所に、どのようにして年月を過ごしてこられたのだろう」などと、涙ぐんでおっしゃるのを、まことに恥ずかしいとお聞きになる。
 
   男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世のみならず契り頼めきこえたまへば、「思ひ寄らざりしこととは思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づかしさよりは」とおぼえたまふ。
 
 男君のご様子が、この上なく優雅で美しくて、この世だけでなく来世まで夫婦のお約束申し上げなさるので、「思い寄らなかったこととは思いながらも、かえって、あの目馴れた中納言の恥ずかしさよりは」と思われなさる。
 
   「かれは思ふ方異にて、いといたく澄みたるけしきの、見えにくく恥づかしげなりしに、よそに思ひきこえしは、ましてこよなくはるかに、一行書き出でたまふ御返り事だに、つつましくおぼえしを、久しく途絶えたまはむは、心細からむ」  「あの方は愛する方が別にいて、とてもたいそう澄ましていた様子が、会うのも気づまりであったが、お噂だけでお思い申し上げていた時は、いっそうこの上なく遠くに、一行お書きになるお返事でさえ。
 気後れしたが、久しく途絶えなさることは、心細いだろう」
   と思ひならるるも、我ながらうたて、と思ひ知りたまふ。
 
 と思われるのも、我ながら嫌なと、思い知りなさる。
 
 
 

第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる

 
   人びといたく声づくり催しきこゆれば、京におはしまさむほど、はしたなからぬほどにと、いと心あわたたしげにて、心より外ならむ夜がれを、返す返すのたまふ。
 
 お供の者たちがひどく咳払いをしてお促し申し上げるので、京にお着きになる時刻が、みっともなくないころにと、たいそう気ぜわしそうに、心にもなく来られない夜もあろうことを、繰り返し繰り返しおっしゃる。
 
 

666
 「中絶えむ ものならなくに 橋姫の
 片敷く袖や 夜半に濡らさむ」
 「中が切れようとするのでないのに
  あなたは独り敷く袖は夜半に濡らすことだろう」
 
   出でがてに、立ち返りつつやすらひたまふ。
 
 帰りにくく、引き返しては躊躇していらっしゃる。
 
 

667
 「絶えせじの わが頼みにや 宇治橋の
 遥けきなかを 待ちわたるべき」
 「切れないようにとわたしは信じては
  宇治橋の遥かな仲をずっとお待ち申しましょう」
 
   言には出でねど、もの嘆かしき御けはひは、限りなく思されけり。
 
 口には出さないが、何となく悲しいご様子は、この上なくお思いなさるのであった。
 
   若き人の御心にしみぬべく、たぐひすくなげなる朝けの御姿を見送りて、名残とまれる御移り香なども、人知れずものあはれなるは、されたる御心かな。
 今朝ぞ、もののあやめ見ゆるほどにて、人びと覗きて見たてまつる。
 
 若い女性のお心にしみるにちがいない、世にも稀な朝帰りのお姿を見送って、後に残っている御移り香なども、人知れずなにやらせつない気がするのは、機微の分かるお心だこと。
 今朝は、物の見分けもつく時分なので、女房たちが覗いて拝する。
 
   「中納言殿は、なつかしく恥づかしげなるさまぞ、添ひたまへりける。
 思ひなしの、今ひと際にや、この御さまは、いとことに」
 「中納言殿は、優しく恥ずかしい感じが、加わった方であった。
 気のせいか、もう一段尊い身分なので、この方のお姿は、まことに格別で」
   など、めできこゆ。
 
 などと、お誉め申し上げる。
 
   道すがら、心苦しかりつる御けしきを思し出でつつ、立ちも返りなまほしく、さま悪しきまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせたまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。
 
 道すがら、お気の毒であったご様子をお思い出しになりながら、引き返したく、体裁悪くまでお思いになるが、世間の評判を我慢してお帰りあそばすことなので、たやすくお出かけになることはおできになれない。
 
   御文は明くる日ごとに、あまた返りづつたてまつらせたまふ。
 「おろかにはあらぬにや」と思ひながら、おぼつかなき日数の積もるを、「いと心尽くしに見じと思ひしものを、身にまさりて心苦しくもあるかな」と、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思ひ沈みたまはむにより、つれなくもてなして、「みづからだに、なほかかること思ひ加へじ」と、いよいよ深く思す。
 
 お手紙は毎日毎日に、たくさん書いて差し上げなさる。
 「いい加減なお気持ちではないのでは」と思いながら、訪れのない日数が続くのを、「まことに心配の限りを尽くすことはしまいと思っていたが、自分のこと以上においたわしいことだわ」と、姫宮はお悲しみになるが、ますますこの妹君がお悲しみに沈んでいらっしゃろうことから、平静を装って、「自分自身でさえ、やはりこのような心配を増やすまい」と、ますます強くお思いになる。
 
   中納言の君も、「待ち遠にぞ思すらむかし」と思ひやりて、我があやまちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず御けしきを見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、さりともと、うしろやすかりけり。
 
 中納言の君も、「待ち遠しくお思いだろう」と想像して、自分の責任からおいたわしくて、宮をお促し申し上げながら、絶えずご様子を御覧になると、たいそうひどく打ち込んでいらっしゃる様子なので、そうはいってもと、安心であった。
 
 
 

第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く

 
   九月十日のほどなれば、野山のけしきも思ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空のむら雲恐ろしげなる夕暮、宮いとど静心なく眺めたまひて、いかにせむと、御心一つを出で立ちかねたまふ。
 折推し量りて、参りたまへり。
 「ふるの山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。
 いとうれしと思して、もろともに誘ひたまへば、例の、一つ御車にておはす。
 
 九月十日のころなので、野山の様子も自然と想像されて、時雨めいて暗くなり、空のむら雲が恐ろしそうな夕暮に、宮はますます落ち着きなく物思いに耽りなさって、どうしようかと、ご自身では決心をしかねていらっしゃる。
 そのところを推量して、参上なさった。
 「ふるの山里はどうでしょうか」と、お誘い申し上げなさる。
 まことに嬉しいとお思いになって、一緒にお出かけになるので、例によって、一車に相乗りしてお出かけになる。
 
   分け入りたまふままにぞ、まいて眺めたまふらむ心のうち、いとど推し量られたまふ。
 道のほども、ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ。
 
 分け入りなさるにつれて、まして物思いしているだろう心中を、ますますご想像される。
 道中も、ただこのことのお気の毒さをお話し合いなさる。
 
   たそかれ時のいみじく心細げなるに、雨は冷やかにうちそそきて、秋果つるけしきのすごきに、うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、うち連れたまへるを、山賤どもは、いかが心惑ひもせざらむ。
 
 黄昏時のひどく心細いうえに、雨が冷たく降り注いで、秋の終わる気色がぞっとする感じなので、しっとりと濡れていらっしゃるお二方の芳気は、この世のものに似ず優艷で、連れ立っていらっしゃるのを、山賤連中は、どうしてうろたえぬことがあろうか。
 
   女ばら、日ごろうちつぶやきつる、名残なく笑みさかえつつ、御座ひきつくろひなどす。
 京に、さるべき所々に行き散りたる娘ども、姪だつ人、二、三人尋ね寄せて参らせたり。
 年ごろあなづりきこえける心浅き人びと、めづらかなる客人と思ひ驚きたり。
 
 女房らは、日頃ぶつぶつ言っていたが、そのあとかたもなくにこにことして、ご座所を整えたりなどする。
 京に、しかるべき家々に散り散りになっていた娘連中や、姪のような人を、二、三人呼び寄せて仕えさせていた。
 長年軽蔑申し上げてきた思慮の浅い人びとは、珍しい客人と思って驚いていた。
 
   姫宮も、折うれしく思ひきこえたまふに、さかしら人の添ひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべく、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くものしたまふを、「げに、人はかくはおはせざりけり」と見あはせたまふに、ありがたしと思ひ知らる。
 
 姫宮も、ちょうどよい折柄と嬉しくお思い申し上げなさるが、利口ぶった方が一緒にいらっしゃるのが、気恥ずかしくもあり、何となく厄介にも思うが、人柄がゆったりと慎重でいらっしゃるので、「なるほど、宮はこのようではおいででない」とお見比べなさると、めったにない方だと思い知られる。
 
 
 

第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える

 
   宮を、所につけては、いとことにかしづき入れたてまつりて、この君は、主人方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからしと思ひたまへり。
 怨みたまふもさすがにいとほしくて、物越に対面したまふ。
 
 宮を、場所柄によって、とても特別に丁重にお迎え入れ申し上げて、この君は、主人方に気安く振る舞っていらっしゃるが、まだ客人席の臨時の間に遠ざけていらっしゃるので、まことにつらいと思っていらっしゃった。
 お恨みなさるのも、そうはいってもお気の毒で、物越しにお会いなさる。
 
   「戯れにくくもあるかな。
 かくてのみや」と、いみじく怨みきこえたまふ。
 やうやうことわり知りたまひにたれど、人の御上にても、ものをいみじく思ひ沈みたまひて、いとどかかる方を憂きものに思ひ果てて、
 「冗談ではありませんね。
 こうしてばかりいられましょうか」と、ひどくお恨み申し上げなさる。
 だんだんと道理をお分かりになってきたが、妹のお身の上についても、物事をひどく悲観なさって、ますますこのような結婚生活を嫌なものとすっかり思いきって、
   「なほ、ひたぶるに、いかでかくうちとけじ。
 あはれと思ふ人の御心も、かならずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ。
 我も人も見おとさず、心違はでやみにしがな」
 「やはり、一途に、何とかこのようにはうちとけまい。
 うれしいと思う方のお気持ちも、きっとつらいと思うにちがいないことがあるだろう。
 自分も相手も幻滅したりせずに、もとの気持ちを失わずに、最後までいたいものだわ」
   と思ふ心づかひ深くしたまへり。
 
 と思う考えが深くおなりになっていた。
 
   宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめつつ、「さればよ」とおぼしくのたまへば、いとほしくて、思したる御さま、けしきを見ありくやうなど、語りきこえたまふ。
 
 宮のご様子などをお尋ね申し上げなさると、ちらっとほのめかしつつ、「そうであったのか」とお思いになるようにおっしゃるので、お気の毒になって、ご執心のご様子や、態度を窺っていることなどを、お話し申し上げなさる。
 
   例よりは心うつくしく語らひて、  いつもよりは素直にお話しになって、
   「なほ、かくもの思ひ加ふるほど、すこし心地も静まりて聞こえむ」  「やはり、このように物思いの多いころを、もう少し気持ちが落ち着いてからお話し申し上げましょう」
   とのたまふ。
 人憎く気遠くは、もて離れぬものから、「障子の固めもいと強し。
 しひて破らむをば、つらくいみじからむ」と思したれば、「思さるるやうこそはあらめ。
 軽々しく異ざまになびきたまふこと、はた、世にあらじ」と、心のどかなる人は、さいへど、いとよく思ひ静めたまふ。
 
 とおっしゃる。
 小憎らしくよそよそしくは、あしらわないものの、「襖障子の戸締りもとても固い。
 無理に突破するのは、辛く酷いこと」とお思いになっているので、「お考えがおありなのだろう。
 軽々しく他人になびきなさるようなことは、また決してあるまい」と、心のおっとりした方は、そうはいっても、じつによく気を落ち着かせなさる。
 
   「ただ、いとおぼつかなく、もの隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。
 ありしやうにて聞こえむ」
 「ただ、とても頼りなく、物を隔てているのが、満足のゆかない気がしますよ。
 以前のようにお話し申し上げたい」
   とせめたまへど、  と責めなさると、
   「常よりもわが面影に恥づるころなれば、疎ましと見たまひてむも、さすがに苦しきは、いかなるにか」  「いつもよりも自分の容貌が恥ずかしいころなので、疎ましいと御覧になるのも、やはりつらく思われますのは、どうしたことでしょうか」
   と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あやしくなつかしくおぼゆ。
 
 と、かすかにほほ笑みなさった様子などは、不思議と慕わしく思われる。
 
   「かかる御心にたゆめられたてまつりて、つひにいかになるべき身にか」  「このようなお心にだまされ申して、終いにはどのようになる身の上だろうか」
   と嘆きがちにて、例の、遠山鳥にて明けぬ。
 
 と嘆きがちに、いつものように、遠山鳥で別々のまま明けてしまった。
 
   宮は、まだ旅寝なるらむとも思さで、  宮は、まだ独り寝だろうとはお思いならず、
   「中納言の、主人方に心のどかなるけしきこそうらやましけれ」  「中納言が、主人方でゆったりとしている様子が羨ましい」
   とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。
 
 とおっしゃると、女君は、おかしなこととお聞きになる。
 
 
 

第八段 匂宮、中の君を重んじる

 
   わりなくておはしまして、ほどなく帰りたまふが、飽かず苦しきに、宮ものをいみじく思したり。
 御心のうちを知りたまはねば、女方には、「またいかならむ。
 人笑へにや」と思ひ嘆きたまへば、「げに、心尽くしに苦しげなるわざかな」と見ゆ。
 
 無理を押してお越しになって、長くもいずにお帰りになるのが、物足りなくつらいので、宮はひどくお悩みになっていた。
 お心の中をご存知ないので、女方には、「またどうなるのだろうか。
 物笑いになりはせぬか」と思ってお嘆きなると、「なるほど、心底からおつらそうな」と見える。
 
   京にも、隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし。
 六条の院には、左の大殿、片つ方には住みたまひて、さばかりいかでと思したる六の君の御ことを思しよらぬに、なま恨めしと思ひきこえたまふべかめり。
 好き好きしき御さまと、許しなくそしりきこえたまひて、内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、いよいよ、おぼえなくて出だし据ゑたまはむも、憚ることいと多かり。
 
 京にも、こっそりとお移しになる家もさすがに見当たらない。
 六条院には、左の大殿が、一画にお住みになって、あれほど何とかしたいとお考えの六の君の御事をお考えにならないので、何やら恨めしいとお思い申し上げていらっしゃるようである。
 好色がましいお振舞いだと、容赦なくご非難申し上げなさって、宮中あたりでもご愁訴申し上げていらっしゃるようなので、ますます、世間に知られない人をお囲いなさるのも、憚りがとても多かった。
 
   なべてに思す人の際は、宮仕への筋にて、なかなか心やすげなり。
 さやうの並々には思されず、「もし世の中移りて、帝后の思しおきつるままにもおはしまさば、人より高きさまにこそなさめ」など、ただ今は、いとはなやかに、心にかかりたまへるままに、もてなさむ方なく苦しかりけり。
 
 普通にお思いの身分の女は、宮仕えの方面で、かえって気安そうである。
 そのような並の女にはお思いなされず、「もし御世が替わって、帝や后がお考えおいたままにでもおなりになったら、誰よりも高い地位に立てよう」などと、ただ今のところは、たいそうはなやかに、心に懸けていらっしゃるにつれて、して差し上げようともその方法がなくつらいのであった。
 
   中納言は、三条の宮造り果てて、「さるべきさまにて渡したてまつらむ」と思す。
 
 中納言は、三条宮を造り終えて、「しかるべき形をもってお迎え申そう」とお考えになる。
 
   げに、ただ人は心やすかりけり。
 かくいと心苦しき御けしきながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思ひ悩みたまへるめるも、心苦しくて、「忍びてかく通ひたまふよしを、中宮などにも漏らし聞こし召させて、しばしの御騒がれはいとほしくとも、女方の御ためは、咎もあらじ。
 いとかく夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ。
 いみじくもてなしてあらせたてまつらばや」
 なるほど、臣下は気楽なのであった。
 このようにたいそうお気の毒なご様子でありながら、気をつかってお忍びになるために、お互いに思い悩んでいらっしゃるようなのも、おいたわしくて、「人目を忍んでこのようにお通いになっている事情を、中宮などにもこっそりとお耳に入れあそばして、暫くの間のお騒がれは気の毒だが、女方のためには、非難されることもない。
 たいそうこのように夜をさえお明かしにならないつらさよ。
 うまさく計らって差し上げたいものよ」
   など思ひて、あながちにも隠ろへず。
 
 などと思って、無理して隠さない。
 
   「更衣など、はかばかしく誰れかは扱ふらむ」など思して、御帳の帷、壁代など、三条の宮造り果てて、渡りたまはむ心まうけに、しおかせたまへるを、「まづ、さるべき用なむ」など、いと忍びて聞こえたまひて、たてまつれたまふ。
 さまざまなる女房の装束、御乳母などにものたまひつつ、わざともせさせたまひけり。
 
 「衣更など、てきぱきと誰がお世話するだろうか」などと心配なさって、御帳の帷子や、壁代などを、三条宮を造り終えて、お移りになる準備をなさっていたのを、「差し当たって、入用がございまして」などと、たいそうこっそりと申し上げなさって、差し上げなさる。
 いろいろな女房の装束、御乳母などにもご相談なさっては、特別にお作らせになったのであった。
 
 
 

第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り

 
 

第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り

 
   十月朔日ころ、網代もをかしきほどならむと、そそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ずべく申したまふ。
 親しき宮人ども、殿上人の睦ましく思す限り、「いと忍びて」と思せど、所狭き御勢なれば、おのづからこと広ごりて、左の大殿の宰相中将参りたまふ。
 さては、この中納言殿ばかりぞ、上達部は仕うまつりたまふ。
 ただ人は多かり。
 
 十月上旬ごろ、網代もおもしろい時期だろうと、お誘い申し上げなさって、紅葉を御覧になるよう申し上げなさる。
 側近の宮家の人びとや、殿上人で親しくなさっている人だけで、「たいそうこっそりと」とお思いになるが、たいへんなご威勢なので、自然と計画が広まって、左の大殿の宰相中将も参加なさる。
 それ以外では、この中納言殿だけが、上達部としてお供なさる。
 臣下の者は多かった。
 
   かしこには、「論なく、中宿りしたまはむを、さるべきさまに思せ。
 さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかるたよりにことよせて、時雨の紛れに見たてまつり表すやうもぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。
 
 あちらには、「無論、休憩をなさるでしょうから、そのようにお考えください。
 昨年の春にも、花見に尋ねて参った誰彼が、このような機会にことよせて、時雨の紛れに拝見するようなこともございましょう」などと、こまごまとご注意申し上げなさった。
 
   御簾掛け替へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積もれる紅葉の朽葉すこしはるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。
 よしあるくだもの、肴など、さるべき人などもたてまつれたまへり。
 かつはゆかしげなけれど、「いかがはせむ。
 これもさるべきにこそは」と思ひ許して、心まうけしたまへり。
 
 御簾を掛け替え、あちらこちら掃除をし、岩蔭に積もっている紅葉の朽葉を少し取り除き、遣水の水草を払わせなどなさる。
 風流な果物や、肴など、手伝いに必要な者たちを差し上げなさった。
 一方では奥ゆかしさもないが、「どうすることもできない。
 これも前世からの宿縁なのか」と諦めて、お心積もりしていらっしゃった。
 
   舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。
 ほのぼのありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人びと見たてまつる。
 正身の御ありさまは、それと見わかねども、紅葉を葺きたる舟の飾りの、錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、風につけておどろおどろしきまでおぼゆ。
 
 舟で上ったり下ったりして、おもしろく合奏なさっているのも聞こえる。
 ちらほらとその様子が見えるのを、そちらに立って出て、若い女房たちは拝見する。
 ご本人のお姿は、その人と見分けることはできないが、紅葉を葺いた舟の飾りが、錦に見えるところへ、声々に吹き立てる笛の音が、風に乗って仰々しいまでに聞こえる。
 
   世人のなびきかしづきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとことにいつくしきを見たまふにも、「げに、七夕ばかりにても、かかる彦星の光をこそ待ち出でめ」とおぼえたり。
 
 世人が追従してお世話申し上げる様子が、このようにお忍びの旅先でも、たいそう格別に盛んなのを御覧になるにつけても、「なるほど、七夕程度であっても、このような彦星の光をお迎えしたいもの」と思われた。
 
   文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。
 たそかれ時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。
 紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」といふものを吹きて、おのおの心ゆきたるけしきなるに、宮は、近江の海の心地して、遠方人の恨みいかにとのみ、御心そらなり。
 時につけたる題出だして、うそぶき誦じあへり。
 
 漢詩文をお作らせになるつもりで、博士なども伺候しているのであった。
 黄昏時に、お舟をさし寄せて音楽を奏しながら漢詩をお作りになる。
 紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」という曲を吹いて、それぞれ満足した様子であるが、宮は、近江の湖の気がして、対岸の方の恨みはどんなにかとばかり、上の空である。
 時節にふさわしい題を出して、朗誦し合っていた。
 
   人の迷ひすこししづめておはせむと、中納言も思して、さるべきやうに聞こえたまふほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、宰相の御兄の衛門督、ことことしき随身ひき連れて、うるはしきさまして参りたまへり。
 かうやうの御ありきは、忍びたまふとすれど、おのづからこと広ごりて、後の例にもなるわざなるを、重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけるを、聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるに、はしたなくなりぬ。
 宮も中納言も、苦しと思して、物の興もなくなりぬ。
 御心のうちをば知らず、酔ひ乱れ遊び明かしつ。
 
 人びとの騷ぎが少し静まってからおいでになろうと、中納言もお思いになって、そのようにお話申し上げていらっしゃったところに、内裏から、中宮の仰せ言として、宰相の御兄君の衛門督が、仰々しい随身を引き連れて、正装をして参上なさった。
 このようなご外出は、こっそりなさろうとしても、自然と広まって、後の例にもなることなので、重々しい身分の人も大していなくて、急にお出かけになったのを、お耳にあそばしびっくりして、殿上人を大勢連れて参ったので、具合悪くなってしまった。
 宮も中納言も、困ったとお思いになって、遊楽の興も冷めてしまった。
 ご心中を知らないで、酔い乱れて遊び明かした。
 
 
 

第二段 一行、和歌を唱和する

 
   今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上人など、あまたたてまつりたまへり。
 心あわたたしく口惜しくて、帰りたまはむそらなし。
 かしこには御文をぞたてまつれたまふ。
 をかしやかなることもなく、いとまめだちて、思しけることどもを、こまごまと書き続けたまへれど、「人目しげく騒がしからむに」とて、御返りなし。
 
 今日は、このままとお思いになるが、また、宮の大夫、その他の殿上人などを、大勢差し上げなさっていた。
 気ぜわしく残念で、お帰りになる気もしない。
 あちらにはお手紙を差し上げなさる。
 風流なこともなく、たいそう真面目に、お思いになっていたことを、こまごまと書き綴りなさっていたが、「人目が多く騒がしいだろう」とて、お返事はない。
 
   「数ならぬありさまにては、めでたき御あたりに交じらはむ、かひなきわざかな」と、いとど思し知りたまふ。
 よそにて隔たる月日は、おぼつかなさもことわりに、さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはして、つれなく過ぎたまひなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れたまふ。
 
 「人数にも入らない身の上では、ご立派な方とお付き合いするのは、詮ないことであったのだ」と、ますますお思い知りなさる。
 逢わずに過す月日は、心配も道理であるが、いくら何でも後にはなどと慰めなさるが、近くで大騒ぎしていらして、何もなくて去っておしまいになるのが、つらく残念にも思い乱れなさる。
 
   宮は、まして、いぶせくわりなしと思すこと、限りなし。
 網代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかきまぜもてあそぶを、下人などはいとをかしきことに思へれば、人に従ひつつ、心ゆく御ありきに、みづからの御心地は、胸のみつとふたがりて、空をのみ眺めたまふに、この古宮の梢は、いとことにおもしろく、常磐木にはひ混じれる蔦の色なども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の君も、「なかなか頼めきこえけるを、憂はしきわざかな」とおぼゆ。
 
 宮は、それ以上に、憂鬱でやるせないとお思いになること、この上ない。
 網代の氷魚も心寄せ申して、色とりどりの木の葉にのせて賞味なさるを、下人などはまことに美しいことと思っているので、人それぞれに従って、満足しているようなご外出に、ご自身のお気持ちは、胸ばかりがいっぱいになって、空ばかりを眺めていらっしゃるが、この故宮邸の梢は、たいそう格別に美しく、常磐木に這いかかっている蔦の色なども、何となく深味があって、遠目にさえ物淋しそうなのを、中納言の君も、「なまじご依頼申し上げなさっていたのが、かえってつらいことになったな」と思われる。
 
   去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後れてここに眺めたまふらむ心細さを言ふ。
 かく忍び忍びに通ひたまふと、ほの聞きたるもあるべし。
 心知らぬも混じりて、おほかたにとやかくやと、人の御上は、かかる山隠れなれど、おのづから聞こゆるものなれば、
 去年の春、お供した公達は、花の美しさを思い出して、先立たれてここで悲しんでいらっしゃるだろう心細さを噂する。
 このように忍び忍びにお通いになると、ちらっと聞いている者もいるのであろう。
 事情を知らない者も混じって、だいたいが何やかやと、人のお噂は、このような山里であるが、自然と聞こえるものなので、
   「いとをかしげにこそものしたまふなれ」  「とても素晴らしくいらっしゃるそうな」
   「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ遊びならはしたまひければ」  「箏の琴が上手で、故宮が明け暮れお弾きになるようしつけていらしたので」
   など、口々言ふ。
 
 などと、口々に言う。
 
   宰相の中将、  宰相中将が、
 

668
 「いつぞやも 花の盛りに 一目見し
 木のもとさへや 秋は寂しき」
 「いつだったか花の盛りに一目見た木のもとまでが
  秋はお寂しいことでしょう」
 
   主人方と思ひて言へば、中納言、  主人方と思って詠みかけてくるので、中納言は、
 

669
 「桜こそ 思ひ知らすれ 咲き匂ふ
 花も紅葉も 常ならぬ世を」
 「桜は知っているでしょう
  咲き匂う花も紅葉も常ならぬこの世を」
 
   衛門督、  衛門督、
 

670
 「いづこより 秋は行きけむ 山里の
 紅葉の蔭は 過ぎ憂きものを」
 「どこから秋は去って行くのでしょう
  山里の紅葉の蔭は立ち去りにくいのに」
 
   宮の大夫、  宮の大夫、
 

671
 「見し人も なき山里の 岩垣に
 心長くも 這へる葛かな」
 「お目にかかったことのある方も亡くなった
  山里の岩垣に気の長く這いかかっている蔦よ」
 
   中に老いしらひて、うち泣きたまふ。
 親王の若くおはしける世のことなど、思ひ出づるなめり。
 
 その中で年老いていて、お泣きになる。
 親王が若くいらっしゃった当時のことなどを、思い出したようである。
 
   宮、  宮、
 

672
 「秋はてて 寂しさまさる 木のもとを
 吹きな過ぐしそ 峰の松風」
 「秋が終わって寂しさがまさる木のもとを
  あまり烈しく吹きなさるな、峰の松風よ」
 
   とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、  と詠んで、とてもひどく涙ぐんでいらっしゃるのを、うすうす事情を知っている人は、
   「げに、深く思すなりけり。
 今日のたよりを過ぐしたまふ心苦しさ」
 「なるほど、深いご執心なのだ。
 今日の機会をお逃しになるおいたわしさ」
   と見たてまつる人あれど、ことことしく引き続きて、えおはしまし寄らず。
 作りける文のおもしろき所々うち誦じ、大和歌もことにつけて多かれど、かうやうの酔ひの紛れに、ましてはかばかしきことあらむやは。
 片端書きとどめてだに見苦しくなむ。
 
 と拝し上げる人もいるが、仰々しく行列をつくっては、お立ち寄りになることはできない。
 作った漢詩文の素晴らしい所々を朗誦し、和歌も何やかやと多かったが、このような酔いの紛れには、それ以上に良い作があろうはずがない。
 一部分を書き留めてさえ見苦しいものである。
 
 
 

第三段 大君と中の君の思い

 
   かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠くなるまで聞こゆる前駆の声々、ただならずおぼえたまふ。
 心まうけしつる人びとも、いと口惜しと思へり。
 姫宮は、まして、
 あちらでは、お素通りになってしまった様子を、遠くなるまで聞こえる前駆の声々を、ただならずお聞きになる。
 心積もりしていた女房も、まことに残念に思っていた。
 姫宮は、それ以上に、
   「なほ、音に聞く月草の色なる御心なりけり。
 ほのかに人の言ふを聞けば、男といふものは、虚言をこそいとよくすなれ。
 思はぬ人を思ふ顔にとりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、昔物語に言ふを、さるなほなほしきなかにこそは、けしからぬ心あるもまじるらめ。
 
 「やはり、噂に聞く月草のような移り気なお方なのだわ。
 ちらちら人の言うのを聞くと、男というものは、嘘をよくつくという。
 愛していない人を愛している顔でだます言葉が多いものだと、この人数にも入らない女房連中が、昔話として言うのを、そのような身分の低い階層には、よくないこともあるのだろう。
 
   何ごとも筋ことなる際になりぬれば、人の聞き思ふことつつましく、所狭かるべきものと思ひしは、さしもあるまじきわざなりけり。
 あだめきたまへるやうに、故宮も聞き伝へたまひて、かやうに気近きほどまでは、思し寄らざりしものを。
 あやしきまで心深げにのたまひわたり、思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身の憂さを思ひ添ふるが、あぢきなくもあるかな。
 
 何事も高貴な身分になれば、人が聞いて思うことも遠慮されて、自由勝手には振る舞えないはずのものと思っていたのは、そうとも限らなかったのだわ。
 浮気でいらっしゃるように、故宮も伝え聞いていらっしゃって、このように身近な関係にまでは、お考えでなかったのに。
 不思議なほど熱心にずっと求婚なさり続け、意外にも婿君として拝するにつけてさえ、身のつらさが思い加わるのが、つまらないことであるよ。
 
   かく見劣りする御心を、かつはかの中納言も、いかに思ひたまふらむ。
 ここにもことに恥づかしげなる人はうち混じらねど、おのおの思ふらむが、人笑へにをこがましきこと」
 このように期待はずれの宮のお心を、一方ではあの中納言も、どのように思っていらっしゃるのだろう。
 ここには特に立派そうな女房はいないが、それぞれ何と思うか、物笑いになって馬鹿らしいこと」
   と思ひ乱れたまふに、心地も違ひて、いと悩ましくおぼえたまふ。
 
 とお心を悩ましなさると、気分も悪くなって、ほんとうに苦しく思われなさる。
 
   正身は、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを頼め契りたまひつれば、「さりとも、こよなうは思し変らじ」と、「おぼつかなきも、わりなき障りこそは、ものしたまふらめ」と、心のうちに思ひ慰めたまふかたあり。
 
 ご本人は、たまにお会いなさる時、この上なく深い愛情をお約束なさっていたので、「そうはいっても、すっかりご変心なさるまい」と、「訪れがないのも、やむをえない支障が、おありなのだろう」と、心中に思い慰めなさることがある。
 
   ほど経にけるが思ひ焦れられたまはぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬるを、つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。
 忍びがたき御けしきなるを、
 久しく日がたったのを気になさらないこともないが、なまじ近くまで来ながら素通りしてお帰りになったことを、つらく口惜しく思われるので、ますます胸がいっぱいになる。
 堪えがたいご様子なのを、
   「人なみなみにもてなして、例の人めきたる住まひならば、かうやうに、もてなしたまふまじきを」  「世間並みの姫君にして上げて、ひとかどの貴族らしい暮らしならば、このようには、お扱いなさるまいものを」
   など、姉宮は、いとどしくあはれと見たてまつりたまふ。
 
 などと、姉宮は、ますますお気の毒にと拝し上げなさる。
 
 
 

第四段 大君の思い

 
   「我も世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそはあめれ。
 中納言の、とざまかうざまに言ひありきたまふも、人の心を見むとなりけり。
 心一つにもて離れて思ふとも、こしらへやる限りこそあれ。
 ある人のこりずまに、かかる筋のことをのみ、いかでと思ひためれば、心より外に、つひにもてなされぬべかめり。
 これこそは、返す返す、さる心して世を過ぐせ、とのたまひおきしは、かかることもやあらむの諌めなりけり。
 
 「わたしも生き永らえたら、このようなことをきっと経験することだろう。
 中納言が、あれやこれやと言い寄りなさるのも、わたしの気を引いてみようとのつもりだったのだわ。
 自分一人が相手になるまいと思っても、言い逃れるには限度がある。
 ここに仕える女房が性懲りもなく、この結婚をばかりを、何とか成就させたいと思っているようなので、心外にも、結局は結婚させられてしまうかもしれない。
 この事だけは、繰り返し繰り返し、用心して過ごしなさいと、ご遺言なさったのは、このようなことがあろう時の忠告だったのだわ。
 
   さもこそは、憂き身どもにて、さるべき人にも後れたてまつらめ。
 やうのものと人笑へなることを添ふるありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがいみじさなるを、我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深からぬさきに、いかで亡くなりなむ」
 このような、不幸な運命の二人なので、しかるべき親にもお先立たれ申したのだ。
 姉妹とも同様に物笑いになることを重ねた様子で、亡き両親までをお苦しめ申すのが情けないのを、わたしだけでも、そのような物思いに沈まず、罪などたいして深くならない前に、何とか亡くなりたい」
   と思し沈むに、心地もまことに苦しければ、物もつゆばかり参らず、ただ、亡からむ後のあらましごとを、明け暮れ思ひ続けたまふにも、心細くて、この君を見たてまつりたまふも、いと心苦しく、  と思い沈むと、気分もほんとうに苦しいので、食べ物を少しも召し上がらず、ただ、亡くなった後のあれこれを、明け暮れ思い続けていらっしゃると、心細くなって、この君をお世話申し上げなさるのも、とてもおいたわしく、
   「我にさへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ。
 あたらしくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人びとしくも見なしたてまつらむ、と思ひ扱ふをこそ、人知れぬ行く先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、かばかり人笑へなる目を見てむ人の、世の中に立ちまじり、例の人ざまにて経たまはむは、たぐひすくなく心憂からむ」
 「わたしにまで先立たれなさって、どんなにひどく慰めようがないことだろう。
 惜しくかわいい様子を、明け暮れの慰みとして、何とかして一人前にして差し上げたいと思って世話するのを、誰にも言わず将来の生きがいと思ってきたが、この上ない方でいらっしゃっても、これほど物笑いになった目に遭ったような人が、世間に出てお付き合いをし、普通の人のようにお過ごしになるのは、例も少なくつらいことだろう」
   など思し続くるに、「いふかひもなく、この世にはいささか思ひ慰む方なくて、過ぎぬべき身どもなりけり」と心細く思す。
 
 などとお考え続けると、「何とも言いようなく、この世には少しも慰めることができなくて、終わってしまいそうな二人らしい」と、心細くお思いになる。
 
 
 

第五段 匂宮の禁足、薫の後悔

 
   宮は、立ち返り、例のやうに忍びてと出で立ちたまひけるを、内裏に、  宮は、すぐその後、いつものように人目に隠れてとご出立なさったが、内裏で、
   「かかる御忍びごとにより、山里の御ありきも、ゆくりかに思し立つなりけり。
 軽々しき御ありさまと、世人も下にそしり申すなり」
 「このようなお忍び事によって、山里へのご外出も、簡単にお考えになるのです。
 軽々しいお振舞いだと、世間の人も蔭で非難申しているそうです」
   と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こし召し嘆き、主上もいとど許さぬ御けしきにて、  と、衛門督がそっとお耳に入れ申し上げなさったので、中宮もお聞きになって困り、主上もますますお許しにならない御様子で、
   「おほかた心にまかせたまへる御里住みの悪しきなり」  「だいたいが気まま放題の里住みが悪いのである」
   と、厳しきことども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。
 左の大臣殿の六の君を、うけひかず思したることなれど、おしたちて参らせたまふべく、皆定めらる。
 
 と、厳しいことが出てきて、内裏にぴったりとご伺候させ申し上げなさる。
 左の大殿の六の君を、ご承知せず思っていらっしゃることだが、無理にも差し上げなさるよう、すべて取り決められる。
 
   中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。
 
 中納言殿がお聞きになって、他人事ながらどうにもならないと思案なさる。
 
   「わがあまり異様なるぞや。
 さるべき契りやありけむ。
 親王のうしろめたしと思したりしさまも、あはれに忘れがたく、この君たちの御ありさまけはひも、ことなることなくて世に衰へたまはむことの、惜しくもおぼゆるあまりに、人びとしくもてなさばやと、あやしきまでもて扱はるるに、宮もあやにくにとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに、譲らるるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを。
 
 「自分があまりに変わっていたのだ。
 そのようになるはずの運命であったのだろうか。
 親王が不安であるとご心配になっていた様子も、しみじみと忘れがたく、この姫君たちのご様子や人柄も、格別なことはなくて世に朽ちてゆきなさることが、惜しくも思われるあまりに、人並みにして差し上げたいと、不思議なまでお世話せずにはいられなかったところ、宮もあいにくに身を入れてお責めになったので、自分の思いを寄せている人は別なのだが、お譲りなさるのもおもしろくないので、このように取り計らってきたのに。
 
   思へば、悔しくもありけるかな。
 いづれもわがものにて見たてまつらむに、咎むべき人もなしかし」
 考えてみれば、悔しいことだ。
 どちらも自分のものとしてお世話するのを、非難するような人はいないのだ」
   と、取り返すものならねど、をこがましく、心一つに思ひ乱れたまふ。
 
 と、元に戻ることはできないが、馬鹿らしく、自分一人で思い悩んでいらっしゃる。
 
   宮は、まして、御心にかからぬ折なく、恋しくうしろめたしと思す。
 
 宮は、薫以上に、お心にかからない折はなく、恋しく気がかりだとお思いになる。
 
   「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、例ざまにのどやかにもてなしたまへ。
 筋ことに思ひきこえたまへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ口惜しき」
 「お心に気に入ってお思いの人がいるならば、ここに参らせて、普通通りに穏やかになさりなさい。
 格別なことをお考え申し上げておいであそばすのに、軽々しいように人がお噂申すようなのも、まことに残念です」
   と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。
 
 と、大宮は明け暮れご注意申し上げなさる。
 
 
 

第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う

 
   時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮の御方に参りたまひつれば、御前に人多くもさぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ずるほどなり。
 
 時雨がひどく降ってのんびりとした日、女一の宮の御方に参上なさったところ、御前に女房も多く伺候していず、ひっそりとして、御絵などを御覧になっている時である。
 
   御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。
 限りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けはひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、
 御几帳だけを隔てて、お話を申し上げなさる。
 この上もなく上品で気高い一方で、たおやかでかわいらしいご様子を、長年二人といないものとお思い申し上げなさって、
   「また、この御ありさまになずらふ人世にありなむや。
 冷泉院の姫宮ばかりこそ、御おぼえのほど、うちうちの御けはひも心にくく聞こゆれど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、らうたげにあてなる方の、劣りきこゆまじきぞかし」
 「他に、このご様子に似た人がこの世にいようか。
 冷泉院の姫宮だけが、ご寵愛の深さや内々のご様子も奥ゆかしく聞こえるけれど、口に出すすべもなくお思い続けていたが、あの山里の人は、かわいらしく上品なところはお劣り申さない」
   など、まづ思ひ出づるに、いとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散りたるを見たまへば、をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま描きたるを、よそへらるること多くて、御目とまりたまへば、すこし聞こえたまひて、「かしこへたてまつらむ」と思す。
 
 などと、まっさきにお思い出しになると、ますます恋しくて、気紛らわしに、御絵類がたくさん散らかっているのを御覧になると、おもしろい女絵の類で、恋する男の住まいなどが描いてあって、山里の風流な家などや、さまざまな恋する男女の姿を描いてあるのが、わが身につまされることが多くて、お目が止まりなさるので、少しお願い申し上げなさって、「あちらへ差し上げたい」とお思いになる。
 
   在五が物語を描きて、妹に琴教へたる所の、「人の結ばむ」と言ひたるを見て、いかが思すらむ、すこし近く参り寄りたまひて、  在五中将の物語を絵に描いて、妹に琴を教えているところの、「人の結ばむ」と詠みかけているのを見て、どのようにお思いになったのであろうか、少し近くにお寄りなさって、
   「いにしへの人も、さるべきほどは、隔てなくこそならはしてはべりけれ。
 いと疎々しくのみもてなさせたまふこそ」
 「昔の人も、こういう間柄では、隔てなくしているものでございます。
 たいそうよそよそしくばかりおあしらいになるのがたまりません」
   と、忍びて聞こえたまへば、「いかなる絵にか」と思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れたまへるを、うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきて、こぼれ出でたるかたそばばかり、ほのかに見たてまつりたまへる、飽かずめでたく、「すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかば」と思すに、忍びがたくて、  と、こっそりと申し上げなさると、「どのような絵であろうか」とお思いになると、巻き寄せて、御前に差し入れなさったのを、うつ伏して御覧になる御髪がうねうねと流れて、几帳の端からこぼれ出ている一部分を、わずかに拝見なさるのが、どこまでも素晴らしく、「少しでも血の遠い人とお思い申せるのであったら」とお思いになると、堪えがたくて、
 

673
 「若草の ね見むものとは 思はねど
 むすぼほれたる 心地こそすれ」
 「若草のように美しいあなたと共寝をしてみようとは思いませんが
  悩ましく晴れ晴れしない気がします」
 
   御前なる人びとは、この宮をばことに恥ぢきこえて、もののうしろに隠れたり。
 「ことしもこそあれ、うたてあやし」と思せば、ものものたまはず。
 ことわりにて、「うらなくものを」と言ひたる姫君も、されて憎く思さる。
 
 御前に伺候している女房たちは、この宮を特に恥ずかしくお思い申し上げて、物の背後に隠れていた。
 「こともあろうに嫌な変なことを」とお思いになって、何ともお返事なさらない。
 もっともなことで、「考えもなく口を」と言った姫君もふざけて憎らしく思われなさる。
 
   紫の上の、取り分きてこの二所をばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく思ひ交はしきこえたまへり。
 世になくかしづききこえたまひて、さぶらふ人びとも、かたほにすこし飽かぬところあるは、はしたなげなり。
 やむごとなき人の御女などもいと多かり。
 
 紫の上が、特にこのお二方を仲よくお育て申されたので、大勢のご姉弟の中で、隔て心なく親しくお思い申し上げていらっしゃった。
 又とないほど大切にお育て申し上げなさって、伺候する女房たちも、どこか少しでも欠点がある人は、恥ずかしそうである。
 高貴な人の娘などもとても多かった。
 
   御心の移ろひやすきは、めづらしき人びとに、はかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し忘るる折なきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。
 
 お心の移りやすい方は、新参の女房に、ちょっと物を言いかけなどなさっては、あの山里辺りをお忘れになる時もない一方で、お訪ねなさることもなく数日がたった。
 
 
 

第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護

 
 

第一段 薫、大君の病気を知る

 
   待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して、「なほ、かくなめり」と、心細く眺めたまふに、中納言おはしたり。
 悩ましげにしたまふと聞きて、御とぶらひなりけり。
 いと心地惑ふばかりの御悩みにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。
 
 お待ち申し上げていらっしゃる所では、長く訪れのない気がして、「やはり、こうなのだ」と、心細く物思いに沈んでいらっしゃるところに、中納言がおいでになった。
 ご病気でいらっしゃると聞いての、お見舞いなのであった。
 ひどく気分が悪いというご病気ではないが、病気にかこつけてお会いなさらない。
 
   「おどろきながら、はるけきほどを参り来つるを。
 なほ、かの悩みたまふらむ御あたり近く」
 「びっくりして、遠くから参ったのに。
 やはり、あちらのご病人のお側近くに」
   と、切におぼつかながりきこえたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れたてまつる。
 「いとかたはらいたきわざ」と苦しがりたまへど、けにくくはあらで、御頭もたげ、御いらへなど聞こえたまふ。
 
 と、しきりにご心配申し上げなさるので、くつろいで休んでいらっしゃるお部屋の御簾の前にお入れ申し上げる。
 「まことに見苦しいこと」と迷惑がりなさるが、そっけなくはなく、お頭を上げて、お返事など申し上げなさる。
 
   宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど、語りきこえたまひて、  宮が、不本意ながらお素通りになった様子などを、お話し申し上げなさって、
   「のどかに思せ。
 心焦られして、な恨みきこえたまひそ」
 「安心してください。
 いらいらなさって、お恨み申し上げなさいますな」
   など教へきこえたまへば、  などとお諭し申し上げなさると、
   「ここには、ともかくも聞こえたまはざめり。
 亡き人の御諌めはかかることにこそ、と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」
 「妹には、格別何とも申し上げなさらないようです。
 亡き親のご遺言はこのようなことだったのだ、と思われて、おかわいそうなのです」
   とて、泣きたまふけしきなり。
 いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、
 と言って、お泣きになる様子である。
 まことにおいたわしくて、自分までが恥ずかしい気がして、
   「世の中は、とてもかくても一つさまにて過ぐすこと難くなむはべるを。
 いかなることをも御覧じ知らぬ御心どもには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、しひて思しのどめよ。
 うしろめたくはよにあらじとなむ思ひはべる」
 「夫婦仲というものは、いずれにしても一筋縄でゆくことは難しいものです。
 いろいろなことをご存知ないお二方には、ひたすら恨めしいと思いになることもあるでしょうが、じっと気長に考えなさい。
 不安はまったくないと存じます」
   など、人の御上をさへ扱ふも、かつはあやしくおぼゆ。
 
 などと、他人のお身の上まで世話をやくのも、一方では妙なと思われなさる。
 
   夜々は、ましていと苦しげにしたまひければ、疎き人の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、  夜毎に、さらにとても苦しそうになさったので、他人がお側近くにいる感じも、中の宮が辛そうにお思いになっていたので、
   「なほ、例の、あなたに」  「やはり、いつものように、あちらに」
   と人びと聞こゆれど、  と女房たちが申し上げるが、
   「まして、かくわづらひたまふほどのおぼつかなさを。
 思ひのままに参り来て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。
 かかる折の御扱ひも、誰れかははかばかしく仕うまつる」
 「いつもより、このようにご病気でいらっしゃる時が気がかりなので。
 心配のあまりに参上して、外に放っておかれては、とてもたまりません。
 このような時のご看病の指図も、誰がてきぱきとお仕えできましょうか」
   など、弁のおもとに語らひたまひて、御修法ども始むべきことのたまふ。
 「いと見苦しく、ことさらにも厭はしき身を」と聞きたまへど、思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば、さすがに、ながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり。
 
 などと、弁のおもとにご相談なさって、御修法をいくつも始めるようにおっしゃる。
 「たいそう見苦しく、わざわざ捨ててしまいたいわが身なのに」と聞いていらっしゃるが、相手の気持ちを顧みないかのように断るのもいやなので、やはり、生き永らえよと思ってくださるお気持ちもありがたく思われる。
 
 
 

第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る

 
   またの朝に、「すこしもよろしく思さるや。
 昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」とあれば、
 翌朝、「少しはよくなりましたか。
 せめて昨日ぐらいにお話し申し上げたい」というので、
   「日ごろ経ればにや、今日はいと苦しくなむ。
 さらば、こなたに」
 「数日続いたせいか、今日はとても苦しくて。
 それでは、こちらに」
   と言ひ出だしたまへり。
 いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありしよりはなつかしき御けしきなるも、胸つぶれておぼゆれば、近く寄りて、よろづのことを聞こえたまひて、
 とお伝えになった。
 たいそうおいたわしく、どのような具合でいらっしゃるのか。
 以前よりは優しいご様子なのも、胸騷ぎして思われるので、近くに寄って、いろいろのことを申し上げなさって、
   「苦しくてえ聞こえず。
 すこしためらはむほどに」
 「苦しくてお返事できません。
 少しおさまりましてから」
   とて、いとかすかにあはれなるけはひを、限りなく心苦しくて嘆きゐたまへり。
 さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、帰りたまふ。
 
 と言って、まことにか細い声で弱々しい様子を、この上なくおいたわしくて嘆いていらっしゃった。
 そうはいっても、所在なくこうしておいでになることもできないので、まことに不安だが、お帰りになる。
 
   「かかる御住まひは、なほ苦しかりけり。
 所さりたまふにことよせて、さるべき所に移ろはしたてまつらむ」
 「このようなお住まいは、やはりお気の毒です。
 場所を変えて療養なさるのにかこつけて、しかるべき所にお移し申そう」
   など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈り心に入るべくのたまひ知らせて、出でたまひぬ。
 
 などと申し上げおいて、阿闍梨にも、御祈祷を熱心にするようお命じになって、お出になった。
 
   この君の御供なる人の、いつしかと、ここなる若き人を語らひ寄りたるなりけり。
 おのがじしの物語に、
 この君のお供の人で、早くも、ここにいる若い女房と恋仲になっているのであった。
 それぞれの話で、
   「かの宮の、御忍びありき制せられたまひて、内裏にのみ籠もりおはします。
 左の大殿の君を、あはせたてまつりたまへるなる。
 女方は、年ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年のうちにありぬべかなり。
 
 「あの宮が、ご外出を禁じられなさって、内裏にばかり籠もっていらっしゃいます。
 左の大殿の姫君を、娶せ申しなさるらしい。
 女方は、長年のご本意なので、おためらいになることもなくて、年内にあると聞いている。
 
   宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、ただ好きがましきことに御心を入れて、帝后の御戒めに静まりたまふべくもあらざめり。
 
 宮はしぶしぶとお思いで、内裏辺りでも、ただ好色がましいことにご熱心で、帝や后の御意見にもお静まりそうもないようだ。
 
   わが殿こそ、なほあやしく人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩まれたまへ。
 ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、おぼろけならぬこと、と人申す」
 わたしの殿は、やはり人にお似にならず、あまりに誠実でいらして、人からは敬遠されておいでだ。
 ここにこうしてお越しになるだけが、目もくらむほどで、並々でないことだ、と人が申している」
   など語りけるを、「さこそ言ひつれ」など、人びとの中にて語るを聞きたまふに、いとど胸ふたがりて、  などと話したのを、「そのように言っていた」などと、女房たちの中で話しているのをお聞きになると、ますます胸がふさがって、
   「今は限りにこそあなれ。
 やむごとなき方に定まりたまはぬ、なほざりの御すさびに、かくまで思しけむを、さすがに中納言などの思はむところを思して、言の葉の限り深きなりけり」
 「もうお終いだわ。
 高貴な方と縁組がお決まりになるまでの、ほんの一時の慰みに、こうまでお思いになったが、そうはいっても中納言などが思うところをお考えになって、言葉だけは深いのだった」
   と思ひなしたまふに、ともかくも人の御つらさは思ひ知らず、いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり。
 
 とお思いになると、とやかく宮のおつらさは考えることもできず、ますます身の置き場所もない気がして、落胆して臥せっていらっしゃった。
 
   弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。
 恥づかしげなる人びとにはあらねど、思ふらむところの苦しければ、聞かぬやうにて寝たまへるを、中の君、もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕にて寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくうつくしげなるを見やりつつ、親の諌めし言の葉も、かへすがへす思ひ出でられたまひて悲しければ、
 弱ったご気分では、ますます世に生き永らえることも思われない。
 気のおける女房たちではないが、何と思うかつらいので、聞かないふりをして寝ていらしたが、中の宮、物思う時のことと聞いていたうたた寝のご様子がたいそうかわいらしくて、腕を枕にして寝ていらっしゃるところに、お髪がたまっているところなど、めったになく美しそうなのを見やりながら、親のご遺言も繰り返し繰り返し思い出されなさって悲しいので、
   「罪深かなる底には、よも沈みたまはじ。
 いづこにもいづこにも、おはすらむ方に迎へたまひてよ。
 かくいみじくもの思ふ身どもをうち捨てたまひて、夢にだに見えたまはぬよ」
 「罪深いという地獄には、よもや落ちていらっしゃるまい。
 どこでもかしこでも、おいでになるところにお迎えください。
 このようにひどく物思いに沈むわたしたちをお捨てになって、夢にさえお見えにならないこと」
   と思ひ続けたまふ。
 
 とお思い続けなさる。
 
 
 

第三段 中の君、昼寝の夢から覚める

 
   夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風の音などに、たとへむ方なく、来し方行く先思ひ続けられて、添ひ臥したまへるさま、あてに限りなく見えたまふ。
 
 夕暮の空の様子がひどくぞっとするほど時雨がして、木の下を吹き払う風の音などに、たとえようもなく、過去未来が思い続けられて、添い臥していらっしゃる様子、上品でこの上なくお見えになる。
 
   白き御衣に、髪は削ることもしたまはでほど経ぬれど、まよふ筋なくうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめかしさまさりて、眺め出だしたまへるまみ、額つきのほども、見知らむ人に見せまほし。
 
 白い御衣に、髪は梳くこともなさらず幾日もたってしまっているが、まつわりつくことなく流れて、幾日も少し青くやつれていらっしゃるのが、優美さがまさって、外を眺めていらっしゃる目もと、額つきの様子も、分かる人に見せたいほどである。
 
   昼寝の君、風のいと荒きに驚かされて起き上がりたまへり。
 山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに染め匂はしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。
 
 昼寝の君は、風がたいそう荒々しいのに目を覚まされて起き上がりなさった。
 山吹襲に、薄紫色の袿などがはなやかな色合いで、お顔は特別に染めて匂わしたように、とても美しくあでやかで、少しも物思いをする様子もなさっていない。
 
   「故宮の夢に見えたまひつる、いともの思したるけしきにて、このわたりにこそ、ほのめきたまひつれ」  「故宮が夢に現れなさったが、とてもご心配そうな様子で、このあたりに、ちらちら現れなさった」
   と語りたまへば、いとどしく悲しさ添ひて、  とお話しになると、ますます悲しさがつのって、
   「亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ、見たてまつらね」  「お亡くなりになって後、何とか夢にも拝したいと思うが、全然、拝見していません」
   とて、二所ながらいみじく泣きたまふ。
 
 と言って、お二方ともひどくお泣きになる。
 
   「このころ明け暮れ思ひ出でたてまつれば、ほのめきもやおはすらむ。
 いかで、おはすらむ所に尋ね参らむ。
 罪深げなる身どもにて」
 「最近、明け暮れお思い出し申しているので、お姿をお見せになるかしら。
 何とか、おいでになるところへ尋ねて参りたい。
 罪障の深い二人だから」
   と、後の世をさへ思ひやりたまふ。
 人の国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく思さるる。
 
 と、来世のことまでお考えになる。
 唐国にあったという香の煙を、本当に手に入れたくお思いになる。
 
 
 

第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く

 
   いと暗くなるほどに、宮より御使あり。
 折は、すこしもの思ひ慰みぬべし。
 御方はとみにも見たまはず。
 
 たいそう暗くなったころに、宮からお使いが来る。
 悲観の折とて、少し物思いもきっと慰んだことであろう。
 御方はすぐには御覧にならない。
 
   「なほ、心うつくしくおいらかなるさまに聞こえたまへ。
 かくてはかなくもなりはべりなば、これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや出で来む、とうしろめたきを。
 まれにも、この人の思ひ出できこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人は、えあらじと思へば、つらきながらなむ頼まれはべる」
 「やはり、素直におおらかにお返事申し上げなさい。
 こうして亡くなってしまったら、この方よりもさらにひどい目にお遭わせ申す人が現れ出て来ようか、と心配です。
 時たまでも、この方がお思い出し申し上げなさるのに、そのようなとんでもない料簡を使う人は、いますまいと思うので、つらいけれども頼りにしています」
   と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
   「後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」  「置き去りにしていこうとお思いなのは、ひどいことです」
   と、いよいよ顔を引き入れたまふ。
 
 と、ますます顔を襟元にお入れになる。
 
   「限りあれば、片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と思ひはべるぞや。
 明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰がため惜しき命にかは」
 「寿命があるので、片時も生き残っていまいと思っていたが、よくぞ生き永らえてきたものだった、と思っていますのよ。
 明日を知らない世が、そうはいっても悲しいのも、誰のために惜しい命かお分かりでしょう」
   とて、大殿油参らせて見たまふ。
 
 と言って、大殿油をお召しになって御覧になる。
 
   例の、こまやかに書きたまひて、  例によって、こまやかにお書きになって、
 

674
 「眺むるは 同じ雲居を いかなれば
 おぼつかなさを 添ふる時雨ぞ」
 「眺めているのは同じ空なのに
  どうしてこうも会いたい気持ちをつのらせる時雨なのか」
 
   「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたるを、なほあらじことと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。
 さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き人の心寄せたてまつりたまはむ、ことわりなり。
 
 「このように袖を濡らした」などということも書いてあったのであろうか、耳慣れた文句なのを、やはりお義理だけの手紙と見るにつけても、恨めしさがおつのりになる。
 あれほど類まれなご様子やご器量を、ますます、何とかして女たちに誉められようと、色っぽくしゃれて振る舞っていらっしゃるので、若い女の方が心をお寄せ申し上げなさるのも、もっともなことである。
 
   ほど経るにつけても恋しく、「さばかり所狭きまで契りおきたまひしを、さりとも、いとかくてはやまじ」と思ひ直す心ぞ、常に添ひける。
 御返り、「今宵参りなむ」と聞こゆれば、これかれそそのかしきこゆれば、ただ一言なむ、
 時が過ぎるにつけても恋しく、「あれほどたいそうなお約束なさっていたのだから、いくら何でも、とてもこのまま終わりになることはない」と考え直す気に、いつもなるのであった。
 お返事は、「今宵帰参したい」と申し上げるので、皆が皆お促し申し上げるので、ただ一言、
 

675
 「霰降る 深山の里は 朝夕に
 眺むる空も かきくらしつつ」
 「霰が降る深山の里は朝夕に
  眺める空もかき曇っております」
 
   かく言ふは、神無月の晦日なりけり。
 「月も隔たりぬるよ」と、宮は静心なく思されて、「今宵、今宵」と思しつつ、障り多みなるほどに、五節などとく出で来たる年にて、内裏わたり今めかしく紛れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさましく待ち遠なり。
 はかなく人を見たまふにつけても、さるは御心に離るる折なし。
 左の大殿のわたりのこと、大宮も、
 こうお返事したのは、神無月の晦日だった。
 「一月もご無沙汰してしまったことよ」と、宮は気が気でなくお思いで、「今宵こそは、今宵こそは」と、お考えになりながら、邪魔が多く入ったりしているうちに、五節などが早くある年で、内裏辺りも浮き立った気分に取り紛れて、特にそのためではないが過ごしていらっしゃるうちに、あきれるほど待ち遠しくいらした。
 かりそめに女とお会いになっても、一方ではお心から離れることはない。
 左の大殿の縁談のことを、大宮も、
   「なほ、さるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほかに尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、重々しくもてなしたまへ」  「やはり、そのような落ち着いた正妻をお迎えになって、その他にいとしくお思いになる女がいたら、参上させて、重々しくお扱いなさい」
   と聞こえたまへど、  と申し上げなさるが、
   「しばし。
 さ思うたまふるやうなむ」
 「もう暫くお待ちください。
 ある考えている子細があります」
   聞こえいなびたまひて、「まことにつらき目はいかでか見せむ」など思す御心を知りたまはねば、月日に添へてものをのみ思す。
 
 お断り申し上げなさって、「ほんとうにつらい目をどうしてさせられようか」などとお考えになるお心をご存知ないので、月日とともに物思いばかりなさっている。
 
 
 

第五段 薫、大君を見舞う

 
   中納言も、「見しほどよりは軽びたる御心かな。
 さりとも」と思ひきこえけるも、いとほしく、心からおぼえつつ、をさをさ参りたまはず。
 
 中納言も、「思ったよりは軽いお心だな。
 いくら何でも」とお思い申し上げていたのも、お気の毒に、心から思われて、めったに参上なさらない。
 
   山里には、「いかに、いかに」と、訪らひきこえたまふ。
 「この月となりては、すこしよろしくおはす」と聞きたまひけるに、公私もの騒がしきころにて、五、六日、人もたてまつれたまはぬに、「いかならむ」と、うちおどろかれたまひて、わりなきことのしげさをうち捨てて参でたまふ。
 
 山里には、「お加減はいかがですか。
 いかがですか」と、お見舞い申し上げなさる。
 「今月になってからは、少し具合がよくいらっしゃる」とお聞きになったが、公私に何かと騒がしいころなので、五、六日人も差し上げられなかったので、「どうしていらっしゃるだろう」と、急に気になりなさって、余儀ないご用で忙しいのを放り出して参上なさる。
 
   「修法はおこたり果てたまふまで」とのたまひおきけるを、よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、いと人ずくなにて、例の、老い人出で来て、御ありさま聞こゆ。
 
 「修法は、病気がすっかりお治りになるまで」とおっしゃっておいたが、良くなったといって、阿闍梨をもお帰しになったので、たいそう人少なで、例によって、老女が出てきて、ご容態を申し上げる。
 
   「そこはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、ものをなむさらに聞こしめさぬ。
 もとより、人に似たまはず、あえかにおはしますうちに、この宮の御こと出で来にしのち、いとどもの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入れざりし積もりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに頼むべくも見えたまはず。
 よに心憂くはべりける身の命の長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ちきこえむと思ひたまへ入りはべり」
 「どこそこと痛いところもなく、たいしたお苦しみでないご病気なのに、食事を全然お召し上がりになりません。
 もともと、人と違っておいでで、か弱くいらっしゃるうえに、こちらの宮のご結婚話があって後は、ますますご心配なさっている様子で、ちょっとした果物さえお見向きもなさらなかったことが続いたためか、あきれるほどお弱りになって、まったく見込みなさそうにお見えです。
 まことに情けない長生きをして、このようなことを拝見すると、まずは何とか先に死なせていただきたいと存じております」
   と、言ひもやらず泣くさま、ことわりなり。
 
 と、言い終わらずに泣く様子、もっともなことである。
 
   「心憂く、などか、かくとも告げたまはざりける。
 院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」
 「情けない。
 どうして、こうとお知らせくださらなかったのか。
 院でも内裏でも、あきれるほど忙しいころなので、幾日もお見舞い申し上げなかった気がかりさよ」
   とて、ありし方に入りたまふ。
 御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もなきやうにて、えいらへたまはず。
 
 と言って、以前の部屋にお入りになる。
 御枕もと近くでお話し申し上げるが、お声もないようで、お返事できない。
 
   「かく重くなりたまふまで、誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。
 思ふにかひなきこと」
 「こんなに重くおなりになるまで、誰も誰もお知らせくださらなかったのが、つらいよ。
 心配しても効ないことだ」
   と恨みて、例の阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こゆる人の限り、あまた請じたまふ。
 御修法、読経、明くる日より始めさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下の人立ち騷ぎたれば、心細さの名残なく頼もしげなり。
 
 と恨んで、いつもの阿闍梨、世間一般に効験があると言われている人をすべて、大勢お召しになる。
 御修法や、読経を翌日から始めさせようとなさって、殿邸の人が大勢参集して、上下の人たちが騒いでいるので、心細さがすっかりなくなって頼もしそうである。
 
 
 

第六段 薫、大君を看護する

 
   暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬けなど参らむとすれど、「近くてだに見たてまつらむ」とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今すこし気近き方に、屏風など立てさせて入りゐたまふ。
 
 暮れたので、「いつもの、あちらの部屋に」と申し上げて、御湯漬などを差し上げようとするが、「せめて近くで看病をしよう」と言って、南の廂間は僧の座席なので、東面のもう少し近い所に、屏風などを立てさせて入ってお座りになる。
 
   中の宮、苦しと思したれど、この御仲を、「なほ、もてはなれたまはぬなりけり」と皆思ひて、疎くもえもてなし隔てず。
 初夜よりはじめて、法華経を不断に読ませたまふ。
 声尊き限り十二人して、いと尊し。
 
 中の宮は、困ったこととお思いになったが、お二人の仲を、「やはり、何でもなくはないのだ」と皆が思って、よそよそしくは隔てたりはしない。
 初夜から始めて、法華経を不断に読ませなさる。
 声の尊い僧すべて十二人で、実に尊い。
 
   灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて見たてまつりたまへば、老人ども二、三人ぞさぶらふ。
 中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、
 灯火はこちらの南の間に燈して、内側は暗いので、几帳を引き上げて、少し入って拝見なさると、老女連中が二、三人伺候している。
 中の宮は、さっとお隠れになったので、たいそう人少なで、心細く臥せっていらっしゃるのを、
   「などか、御声をだに聞かせたまはぬ」  「どうして、お声だけでも聞かせてくださらないのか」
   とて、御手を捉へておどろかしきこえたまへば、  と言って、お手を取ってお声をかけて差し上げると、
   「心地には思ひながら、もの言ふがいと苦しくてなむ。
 日ごろおとづれたまはざりつれば、おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと、口惜しくこそはべりつれ」
 「気持ちはそのつもりでいても、物を言うのがとても苦しくて。
 幾日も訪れてくださらなかったので、お目にかかれないままにこと切れてしまうのではないかと、残念に思っておりました」
   と、息の下にのたまふ。
 
 と、やっとの声でおっしゃる。
 
   「かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること」  「こんなにお待ちくださるまで参らなかったことよ」
   とて、さくりもよよと泣きたまふ。
 御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける。
 
 と言って、しゃくりあげてお泣きになる。
 お額など、少し熱がおありであった。
 
   「何の罪なる御心地にか。
 人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ」
 「何の罪によるご病気か。
 人を嘆かせると、こうなるのですよ」
   と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへるを、むなしく見なしていかなる心地せむ、と胸もひしげておぼゆ。
 
 と、お耳に口を当てて、いろいろ多く申し上げなさるので、うるさくも恥ずかしくも思われて、顔を被いなさっているのを、死なせてしまったらどんな気がするだろう、と胸も張り裂ける思いでいられる。
 
   「日ごろ見たてまつりたまひつらむ御心地も、やすからず思されつらむ。
 今宵だに、心やすくうち休ませたまへ。
 宿直人さぶらふべし」
 「何日もご看病なさってお疲れも、大変なことでしょう。
 せめて今夜だけでも、安心してお休みなさい。
 宿直人が伺候しましょう」
   と聞こえたまへば、うしろめたけれど、「さるやうこそは」と思して、すこししぞきたまへり。
 
 と申し上げなさると、気がかりであるが、「何かわけがあるのだろう」とお思いになって、少し退きなさった。
 
   直面にはあらねど、はひ寄りつつ見たてまつりたまへば、いと苦しく恥づかしけれど、「かかるべき契りこそはありけめ」と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ方の人に見比べたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知られにたり。
 
 面と向かってというのではないが、這い寄りながら拝見なさると、とても苦しく恥ずかしいが、「このような宿縁であったのだろう」とお思いになって、この上なく穏やかで安心なお心を、あのもうお一方にお比べ申し上げなさると、しみじみとありがたく思い知られなさった。
 
   「むなしくなりなむ後の思ひ出にも、心ごはく、思ひ隈なからじ」とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちたまはず。
 夜もすがら、人をそそのかして、御湯など参らせたてまつりたまへど、つゆばかり参るけしきもなし。
 「いみじのわざや。
 いかにしてかは、かけとどむべき」と、言はむかたなく思ひゐたまへり。
 
 「亡くなった後の思い出にも、強情な、思いやりのない女だと思われまい」とお慎みなさって、そっけなくおあしらいになったりなさらない。
 一晩中、女房に指図して、お薬湯などを差し上げなさるが、少しもお飲みになる様子もない。
 「大変なことだ。
 どのようにして、お命を取り止めることができようか」と、何とも言いようがなく沈みこんでいらっしゃった。
 
 
 

第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る

 
   不断経の、暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに、阿闍梨も夜居にさぶらひて眠りたる、うちおどろきて陀羅尼読む。
 老いかれにたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。
 
 不断の読経の、明け方に交替する声がたいそう尊いので、阿闍梨も徹夜で勤めていて居眠りをしていたのが、ふと目を覚まして陀羅尼を読む。
 老いしわがれた声だが、実にありがたそうで頼もしく聞こえる。
 
   「いかが今宵はおはしましつらむ」  「どのように今夜はおいででしたか」
   など聞こゆるついでに、故宮の御ことなど申し出でて、鼻しばしばうちかみて、  などとお尋ね申し上げる機会に、故宮のお事などを申し上げて、鼻をしばしばかんで、
   「いかなる所におはしますらむ。
 さりとも、涼しき方にぞ、と思ひやりたてまつるを、先つころの夢になむ見えおはしましし。
 
 「どのような世界にいらっしゃるのでしょう。
 そうはいっても、涼しい極楽に、と想像いたしておりましたが、先頃の夢にお見えになりました。
 
   俗の御かたちにて、『世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、いささかうち思ひしことに乱れてなむ、ただしばし願ひの所を隔たれるを思ふなむ、いと悔しき。
 すすむるわざせよ』と、いとさだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべきことのおぼえはべらねば、堪へたるにしたがひて、行ひしはべる法師ばら五、六人して、なにがしの念仏なむ仕うまつらせはべる。
 
 俗人のお姿で、『世の中を深く厭い離れていたので、執着するところはなかったが、わずかに思っていたことに乱れが生じて、今しばらく願っていた極楽浄土から離れているのを思うと、とても悔しい。
 追善供養をせよ』と、まことにはっきりと仰せになったが、すぐにご供養申し上げる方法が思い浮かびませんので、できる範囲内で、修業している法師たち五、六人で、何々の称名念仏を称えさせております。
 
   さては、思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつかせはべる」  その他は、考えるところがございまして、常不軽を行わせております」
   など申すに、君もいみじう泣きたまふ。
 かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを、苦しき御心地にも、いとど消え入りぬばかりおぼえたまふ。
 
 などと申すので、君もひどくお泣きになる。
 あの世までお邪魔申した罪障を、苦しい気持ちに、ますます息も絶えそうに思われなさる。
 
   「いかで、かのまだ定まりたまはざらむさきに参でて、同じ所にも」  「何とか、あのまだ行く所がお定まりにならない前に参って、同じ所にも」
   と、聞き臥したまへり。
 
 と、聞きながら臥せっていらっしゃった。
 
   阿闍梨は言少なにて立ちぬ。
 この常不軽、そのわたりの里々、京までありきけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふあたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。
 回向の末つ方の心ばへいとあはれなり。
 客人もこなたにすすみたる御心にて、あはれ忍ばれたまはず。
 
 阿闍梨は言葉少なに立った。
 この常不軽は、その近辺の里々、京まで歩き回ったが、明け方の嵐に難渋して、阿闍梨のお勤めしている所を尋ねて、中門のもとに座って、たいそう尊く拝する。
 回向の偈の終わりのほうの文句が実にありがたい。
 客人もこの方面に関心のあるお方で、しみじみと感動に堪えられない。
 
   中の宮、切におぼつかなくて、奥の方なる几帳のうしろに寄りたまへるけはひを聞きたまひて、あざやかにゐなほりたまひて、  中の宮が、まことに気がかりで、奥のほうにある几帳の背後にお寄りになっているご気配をお聞きになって、さっと居ずまいを正しなさって、
   「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。
 重々しき道には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
 「不軽の声はどのようにお聞きあそばしましたでしょうか。
 重々しい祈祷としては行わないのですが、尊くございました」と言って、
 

676
 「霜さゆる 汀の千鳥 うちわびて
 鳴く音悲しき 朝ぼらけかな」
 「霜が冷たく凍る汀の千鳥が堪えかねて
  寂しく鳴く声が悲しい、明け方ですね」
 
   言葉のやうに聞こえたまふ。
 つれなき人の御けはひにも通ひて、思ひよそへらるれど、いらへにくくて、弁してぞ聞こえたまふ。
 
 話すように申し上げなさる。
 冷淡な方のご様子にも似ていて、思い比べられるが、返事しにくくて、弁を介して申し上げなさる。
 
 

677
 「暁の 霜うち払ひ 鳴く千鳥
 もの思ふ人の 心をや知る」
 「明け方の霜を払って鳴く千鳥も
  悲しんでいる人の心が分かるのでしょうか」
 
   似つかはしからぬ御代りなれど、ゆゑなからず聞こえなす。
 かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「今はとて別れなば、いかなる心地せむ」と惑ひたまふ。
 
 不似合いな代役だが、気品を失わず申し上げる。
 このようなちょっとしたことも、遠慮されるものの、やさしく上手におとりなしなさるものを、「今を最後と別れてしまったら、どんなに悲しい気がするだろう」と、目の前がまっくらにおなりになる。
 
 
 

第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う

 
   宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、「かう心苦しき御ありさまどもを、天翔りてもいかに見たまふらむ」と推し量られて、おはしましし御寺にも、御誦経せさせたまふ。
 所々の祈りの使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬことなくしたまへど、ものの罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験も見えず。
 
 宮が夢に現れなさった様子をお考えになると、「このようにおいたわしいお二方のご境遇を、宙空をさ迷いながらどのように御覧になっていられるだろう」と推察されて、お籠もりになったお寺にも、御誦経をおさせになる。
 所々にご祈祷の使者をお出しになって、朝廷にも私邸のほうにも、お休暇の旨を申されて、祀りや祓い、いろいろと思い至らないことのないほどなさるが、何かの罪によるお病気でもなかったので、何の効目も見えない。
 
   みづからも、平らかにあらむとも、仏をも念じたまはばこそあらめ、  ご自身でも、治りたいと思って、仏をお祈りなさればだが、
   「なほ、かかるついでにいかで亡せなむ。
 この君のかく添ひて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむかたなし。
 さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと。
 もし命しひてとまらば、病にことつけて、形をも変へてむ。
 さてのみこそ、長き心をもかたみに見果つべきわざなれ」
 「はやり、このような機会に何とかして死にたい。
 この君がこうして付き添って、余命残りなくなったが、今はもう他人で過すすべもない。
 そうかといって、このように並々ならず見える愛情だが、思ったほどでないと、自分も相手もそう思われるのは、つらく情けないことであろう。
 もし寿命が無理に延びたら、病気にかこつけて、姿を変えてしまおう。
 そうしてだけ、末長い心を互いに見届けることができるのだ」
   と思ひしみたまひて、  と思い決めなさって、
   「とあるにても、かかるにても、いかでこの思ふことしてむ」と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の宮に、  「生きるにせよ、死ぬにせよ、何とかこの出家を遂げたい」とお思いになるのを、そこまで賢ぶったことはおっしゃらずに、中の宮に、
   「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌むことなむ、いとしるしありて命延ぶることと聞きしを、さやうに阿闍梨にのたまへ」  「気分がますます頼りなく思われるので、戒を受けると、とても効目があって寿命が延びることだと聞いていたが、そのように阿闍梨におっしゃってください」
   と聞こえたまへば、皆泣き騷ぎて、  と申し上げなさると、みな泣き騒いで、
   「いとあるまじき御ことなり。
 かくばかり思し惑ふめる中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」
 「とんでもない御ことです。
 こんなにまでお心を痛めていらっしゃるような中納言殿も、どんなにがっかり申されることでしょう」
   と、似げなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口惜しう思す。
 
 と、ふさわしくないことと思って、頼りにしている方にも申し上げないので、残念にお思いになる。
 
   かく籠もりゐたまひつれば、聞きつぎつつ、御訪らひにふりはへものしたまふ人もあり。
 おろかに思されぬこと、と見たまへば、殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈りをせさせ、嘆ききこゆ。
 
 このように籠もっていらっしゃったので、次々と聞き伝えて、お見舞いにわざわざやって来る人もいる。
 いい加減にはお思いでない方だ、と拝見するので、殿上人や、親しい家司などは、それぞれいろいろなご祈祷をさせ、ご心配申し上げる。
 
   豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。
 風いたう吹きて、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。
 「都にはいとかうしもあらじかし」と、人やりならず心細うて、「疎くてやみぬべきにや」と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず。
 なつかしうらうたげなる御もてなしを、ただしばしにても例になして、「思ひつることどもも語らはばや」と思ひ続けて眺めたまふ。
 光もなくて暮れ果てぬ。
 
 豊明の節会は今日であると、京をお思いやりになる。
 風がひどく吹いて、雪が降る様子があわただしく荒れ狂う。
 「都ではとてもこうではあるまい」と、自ら招いてのこととはいえ心細くて、「他人関係のまま終わってしまうのだろうか」と思う宿縁はつらいけれど、恨むこともできない。
 やさしくかわいらしいおもてなしを、ただ少しの間でも元どおりにして、「思っていたことを話したい」と、思い続けながら眺めていらっしゃる。
 光もささず暮れてしまった。
 
 

678
 「かき曇り 日かげも見えぬ 奥山に
 心をくらす ころにもあるかな」
 「かき曇って日の光も見えない奥山で
  心を暗くする今日このごろだ」
 
 
 

第九段 薫、大君に寄り添う

 
   ただ、かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり。
 例の、近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きなせば、中の宮、奥に入りたまふ。
 見苦しげなる人びとも、かかやき隠れぬるほどに、いと近う寄りて、
 ただ、こうしておいでになるのを頼みに、皆がお思い申し上げていた。
 いつもの、近いお側に座っていらっしゃるが、御几帳などを、風が烈しく吹くので、中の宮、奥のほうにお入りになる。
 見苦しそうな人びとも、恥ずかしがって隠れているところで、たいそう近くに寄って、
   「いかが思さるる。
 心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだに聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。
 後らかしたまはば、いみじうつらからむ」
 「どのようなお具合ですか。
 心のありたけを尽くして、ご祈祷申し上げる効もなく、お声をさえ聞かなくなってしまったので、まことに情けない。
 後に遺して逝かれなさったら、ひどくつらいことでしょう」
   と、泣く泣く聞こえたまふ。
 ものおぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへり。
 
 と、泣く泣く申し上げなさる。
 意識もはっきりしなくなった様子だが、顔はまことによく隠していらっしゃった。
 
   「よろしき隙あらば、聞こえまほしきこともはべれど、ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」  「気分の良い時があったら、申し上げたいこともございますが、ただもう息も絶えそうにばかりなってゆくのは、心残りなことです」
   と、いとあはれと思ひたまへるけしきなるに、いよいよせきとどめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじと、つつみたまへど、声も惜しまれず。
 
 と、本当に悲しいと思っていらっしゃる様子なので、ますます感情を抑えがたくなって、不吉に、このように心細そうに思っているとは見られまいと、お隠しになるが、泣き声まで上げられてしまう。
 
   「いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこと多くて別れたてまつるべきにか。
 少し憂きさまをだに見せたまはばなむ、思ひ冷ますふしにもせむ」
 「どのような宿縁で、この上なくお慕い申し上げながら、つらいことが多くてお別れ申すのだろうか。
 少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」
   とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
 
 と見守っているが、ますますいとしく惜しく、美しいご様子ばかりが見える。
 
   腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕より落ちたる際の、つやつやとめでたうをかしげなるも、「いかになりたまひなむとするぞ」と、あるべきものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。
 
 腕などもたいそう細くなって、影のように弱々しいが、肌の色艶も変わらず、白く美しそうになよなよとして、白い御衣類の柔らかなうえに、衾を押しやって、中に身のない雛人形を臥せたような気がして、お髪はたいして多くもなくうちやられている、それが、枕からこぼれている側が、つやつやと素晴らしく美しいのも、「どのようにおなりになろうとするのか」と、生きていかれそうにもなく見えるのが、惜しいことは類がない。
 
   ここら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、こまかに見るままに、魂も静まらむ方なし。
 
 幾月も長く患って、身づくろいもしてない様子が、気を許そうともせず恥ずかしそうで、この上なく飾りたてる人よりも多くまさって、こまかに見ていると、魂も抜け出してしまいそうである。
 
 
 

第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆

 
 

第一段 大君、もの隠れゆくように死す

 
   「つひにうち捨てたまひなば、世にしばしもとまるべきにもあらず。
 命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさすらへなむとす。
 ただ、いと心苦しうて、とまりたまはむ御ことをなむ思ひきこゆる」
 「とうとう捨てて逝っておしまいになったら、この世に少しも生きている気がしない。
 寿命がもし決まっていて生き永らえたとしても、深い山に分け入るつもりです。
 ただ、とてもお気の毒に、お残りになる方の御事を心配いたします」
   と、いらへさせたてまつらむとて、かの御ことをかけたまへば、顔隠したまへる御袖を少しひき直して、  と、答えさせていただこうと思って、あの方の御事におふれになると、顔を隠していらっしゃったお袖を少し離して、
   「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨めしきふしにて、とまりぬべうおぼえはべる」  「このように、はかなかったものを、思いやりがないようにお思いなさったのも効がないので、このお残りになる人を、同じようにお思い申し上げてくださいと、それとなく申し上げましたが、その通りにしてくださったら、どんなに安心して死ねたろうにと、この点だけが恨めしいことで、執着が残りそうに思われます」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「かくいみじう、もの思ふべき身にやありけむ。
 いかにも、いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし。
 今なむ、悔しく心苦しうもおぼゆる。
 されども、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
 「このようにひどく、物思いをする身の上なのでしょうか。
 何としても、かんとしても、他の人には執着することがございませんでしたので、ご意向にお従い申し上げずになってしまいました。
 今になって、悔しくいたわしく思われます。
 けれども、ご心配申し上げなさいますな」
   などこしらへて、いと苦しげにしたまへば、修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験ある限りして、加持参らせさせたまふ。
 我も仏を念ぜさせたまふこと、限りなし。
 
 などと慰めて、たいそう苦しそうでいらっしゃるので、修法の阿闍梨たちを召し入れさせて、いろいろな効験のある僧全員して、加持して差し上げさせなさる。
 ご自分でも仏にお祈りあそばすこと、この上ない。
 
   「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。
 見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな」
 「世の中を特に厭い離れなさい、とお勧めになる仏などが、とてもこのようにひどい目にお遭わせになるのだろうか。
 見ている前で物が隠れてゆくようにして、お亡くなりになったのは、何と悲しいことであろうか」
   引きとどむべき方なく、足摺りもしつべく、人のかたくなしと見むこともおぼえず。
 限りと見たてまつりたまひて、中の宮の、後れじと思ひ惑ひたまふさまもことわりなり。
 あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、「今は、いとゆゆしきこと」と、引き避けたてまつる。
 
 引き止める方法もなく、足摺りもしそうに、人が馬鹿だと見ることも気にしない。
 ご臨終と拝しなさって、中の宮が、後れまいと嘆き悲しみなさる様子ももっともなことである。
 正気を失ったようにお見えになるのを、いつもの、利口ぶった女房連中が、「今は、まことに不吉なこと」と、お引き離し申し上げる。
 
 
 

第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり

 
   中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ、夢か、と思して、御殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠したまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変はりたまへるところもなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、「かくながら、虫の殻のやうにても見るわざならましかば」と、思ひ惑はる。
 
 中納言の君は、そうはいっても、まさかこんなことにはなるまい、夢か、とお思いになって、大殿油を近くに芯をかき立てて拝見なさると、お隠しになっている顔も、まるで寝ていらっしゃるように、変わっておいでになるところもなく、かわいらしげに臥せっていらっしゃるのを、「このままで、虫の脱殻のようにずっと見続けることができるものならば」と、悲しみにくれる。
 
   今はの事どもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひたる、ただありしながらの匂ひに、なつかしう香ばしきも、  ご臨終の作法をする時に、お髪をかきやると、さっと匂うのが、まるで生きていた時の匂いそのままで、懐かしく香ばしいのも、
   「ありがたう、何ごとにてこの人を、すこしもなのめなりしと思ひさまさむ。
 まことに世の中を思ひ捨て果つるしるべならば、恐ろしげに憂きことの、悲しさも冷めぬべきふしをだに見つけさせたまへ」
 「世に比類なく、どうしてこの人を、少しでも普通の女性であったと思い諦められようか。
 ほんとうに世の中を思い捨て去る道しるべならば、恐ろしそうな醜いことで、悲しさも冷めてしまいそうなところだけでも見つけさせてください」
   と仏を念じたまへど、いとど思ひのどめむ方なくのみあれば、言ふかひなくて、「ひたぶるに煙にだになし果ててむ」と思ほして、とかく例の作法どもするぞ、あさましかりける。
 
 と仏にお祈りになるが、ますます悲しみを慰めようもなくなるばかりなので、どうしようもなくて、「ひと思いにせめて火葬にしてしまおう」とお思いになって、あれこれ例の葬式をするのが、何ともいいようのないことであった。
 
   空を歩むやうにただよひつつ、限りのありさまさへはかなげにて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬるもあへなしと、あきれて帰りたまひぬ。
 
 宙を歩くようにふらふらとして、最後に空に上る様子さえ頼りなさそうで、煙も多くはお立ちにならなかったのもあっけなかったことと、茫然としてお帰りになった。
 
   御忌に籠もれる人数多くて、心細さはすこし紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はむことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みたまひて、また亡き人に見えたまふ。
 
 御忌中に籠もっている人の数が多くて、心細さは少し紛れそうだが、中の宮は、人の目や思惑も恥ずかしい身の情けなさを悲観なさって、同じく死んだ人のようにお見えになる。
 
   宮よりも御弔らひいとしげくたてまつれたまふ。
 思はずにつくづくと思ひきこえたまへりしけしきも、思し直らでやみぬるを思すに、いと憂き人の御ゆかりなり。
 
 宮からもご弔問をたいそう頻繁に差し上げなさる。
 意外でつくづくとお思い申し上げていらっしゃったお気持ちも、お直りにならずに亡くなってしまったことをお思いになると、まことにつらいご縁の方である。
 
   中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げむと思さるれど、三条の宮の思されむことに憚り、この君の御ことの心苦しさとに思ひ乱れて、  中納言は、このようにこの世がまことにつらく思われる機会に、出家の本願を遂げようとお思いになるが、三条宮がお悲しみになることに気がねし、この姫君の御事のおいたわしさに思い乱れて、
   「かののたまひしやうにて、形見にも見るべかりけるものを。
 下の心は、身を分けたまへりとも、移ろふべくもおぼえ給へざりしを、かうもの思はせたてまつるよりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてまつり通はましものを」
 「あの方がおっしゃったようにして、形見としてでも結婚すべきであったよ。
 心の底では、身を分けた姉妹でいらしても、気を移せるようには思えなかったが、このようにお悲しみ申し上げさせるよりは、いっそ深い仲になって、尽きない慰めとしてずっとお世話申し上げてゆくべきであったのに」
   など思す。
 
 などとお思いになる。
 
   かりそめに京にも出でたまはず、かき絶え、慰む方なくて籠もりおはするを、世人も、おろかならず思ひたまへること、と見聞きて、内裏よりはじめたてまつりて、御弔ひ多かり。
 
 ちょっとも京にお出にならず、ふっつりと、慰めようもなく籠もっておいでになるのを、世の人も、並々ならず悲しんでいらっしゃる、と見聞きして、帝をはじめ申して、ご弔問が多かった。
 
 
 

第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆

 
   はかなくて日ごろは過ぎゆく。
 七日七日の事ども、いと尊くせさせたまひつつ、おろかならず孝じたまへど、限りあれば、御衣の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人びとの、いと黒く着替へたるを、ほの見たまふも、
 とりとめもなく幾日も過ぎてゆく。
 七日毎の法事も、たいそう尊くおさせになっては、心をこめて供養なさるが、規則があるので、お召し物の色の変わらないのを、あの御方を特に慕っていた女房たちが、たいそう黒く着替えているのを、ちらっと御覧になるにつけても、
 

679
 「くれなゐに 落つる涙も かひなきは
 形見の色を 染めぬなりけり」
 「紅色に落ちる涙が何にもならないのは
  形見の喪服の色を染めないことだ」
 
   聴し色の氷解けぬかと見ゆるを、いとど濡らし添へつつ眺めたまふさま、いとなまめかしくきよげなり。
 人びと覗きつつ見たてまつりて、
 許し色の氷が解けないかと見えるのを、ますます濡らし加えながら物思いに沈んでいらっしゃるお姿は、たいそう艶っぽく美しい。
 女房たちが覗きながら拝見して、
   「言ふかひなき御ことをばさるものにて、この殿のかくならひたてまつりて、今はとよそに思ひきこえむこそ、あたらしく口惜しけれ」  「亡くなってしまったお方のことはしかたないとして、この殿がこのようにお親しみ申されて、これからは他人とお思い申し上げるのは、惜しく残念なことだわ」
   「思ひの外なる御宿世にもおはしけるかな。
 かく深き御心のほどを、かたがたに背かせたまへるよ」
 「意外なご運勢でいらっしゃったわ。
 こんなに深いお志を、どちらもお添いになれなかったとは」
   と泣きあへり。
 
 と言って、泣きあっている。
 
   この御方には、  この御方には、
   「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、承らむとなむ思ひたまふる。
 疎々しく思し隔つな」
 「亡くなった方のお形見として、今は何でも申し上げ、承りたいと存じております。
 よそよそしくお思いなさいませんように」
   と聞こえたまへど、「よろづのこと憂き身なりけり」と、もののみつつましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。
 
 と申し上げなさるが、「万事が嫌な身の上だ」と、何もかも気後れして、まだお会いしてお話など申し上げなさらない。
 
   「この君は、けざやかなるかたに、いますこし子めき、気高くおはするものから、なつかしく匂ひある心ざまぞ、劣りたまへりける」  「この姫君は、はきはきとした方で、もう少し子供っぽく、気高くいらっしゃる一方で、親しみがありうるおいのある人柄という点では劣っていらっしゃる」
   と、事に触れておぼゆ。
 
 と、何かにつけて思われる。
 
 
 

第四段 雪の降る日、薫、大君を思う

 
   雪のかきくらし降る日、終日にながめ暮らして、世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜の、曇りなくさし出でたるを、簾巻き上げて見たまへば、向かひの寺の鐘の声、枕をそばだてて、今日も暮れぬと、かすかなる響を聞きて、  雪が烈しく降る日、一日中物思いに沈んで、世間の人が殺風景な物という十二月の月夜の、曇りなく照りだしているのを、簾を巻き上げて御覧になると、向かい側の寺の鐘の音を、枕をそばだてて、今日も暮れたと、かすかな音を聞いて、
 

680
 「おくれじと 空ゆく月を 慕ふかな
 つひに住むべき この世ならねば」
 「後れまいと空を行く月が慕われる
  いつまでも住んでいられないこの世なので」
 
   風のいと烈しければ、蔀下ろさせたまふに、四方の山の鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。
 「京の家の限りなくと磨くも、えかうはあらぬはや」とおぼゆ。
 「わづかに生き出でてものしたまはましかば、もろともに聞こえまし」と思ひつづくるぞ、胸よりあまる心地する。
 
 風がたいそう烈しいので、蔀を下ろさせなさると、四方の山の鏡に見える汀の氷が、月の光に実に美しい。
 「京の邸をこの上なく磨いても、こんなにまではできまい」と思われる。
 「かろうじて少しでも生き返りなさったら、一緒に語りあえたものを」と思い続けると、胸がいっぱいになる。
 
 

681
 「恋ひわびて 死ぬる薬の ゆかしきに
 雪の山にや 跡を消なまし」
 「恋いわびて死ぬ薬が欲しいゆえに
  雪の山に分け入って跡を晦ましてしまいたい」
 
   「半ばなる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ」と思すぞ、心ぎたなき聖心なりける。
 
 「半偈を教えたという鬼でもいてくれたら、かこつけて身を投げたい」とお考えになるのは、未練がましい道心であるよ。
 
   人びと近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひなどの、いとあらまほしくのどやかに心深きを、見たてまつる人びと、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる。
 老いたるは、ただ口惜しくいみじきことを、いとど思ふ。
 
 女房たちを近くに呼び出しなさって、話などをおさせになる様子などが、まことに理想的でゆったりとして情愛深いのを、拝する女房たち、若い者は、心にしみて立派だとお思い申し上げる。
 年とった者は、ただ口惜しく残念なことを、ますます思う。
 
   「御心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御ことを、思はずに見たてまつりたまひて、人笑へにいみじと思すめりしを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてまつらじと、ただ御心一つに世を恨みたまふめりしほどに、はかなき御くだものをも聞こしめし触れず、ただ弱りになむ弱らせたまふめりし。
 
 「ご病気が重態におなりあそばしたことも、ただあの宮の御事を思いもかけずお迎えなさって、物笑いで辛いとお思いのようであったが、何といってもあの御方には、こう心配していると知られ申すまいと、ただお胸の内で二人の仲を嘆いていらっしゃるうちに、ちょっとした果物もお口におふれにならず、すっかりお弱りあそばしたようでした。
 
   上べには、何ばかりことことしくもの深げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何事も思すめりしに、故宮の御戒めにさへ違ひぬることと、あいなう人の御上を思し悩みそめしなり」  表面では何ほども大げさに心配しているようにはお振る舞いあそばさず、お心の底ではこの上なく、何事もご心配のようでして、故宮のご遺戒にまで背いてしまったことと、ひとごとながら妹君のお身の上をお悩み続けたのでした」
   と聞こえて、折々のたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣き惑ふこと尽きせず。
 
 と申し上げて、時々おっしゃったことなどを話し出しては、誰も彼もいつまでも泣きくれている。
 
 
 

第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問

 
   「わが心から、あぢきなきことを思はせたてまつりけむこと」と取り返さまほしく、なべての世もつらきに、念誦をいとどあはれにしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深きほどの雪のけはひ、いと寒げなるに、人びと声あまたして、馬の音聞こゆ。
 
 「自分のせいで、つまらない心配をおかけ申したこと」と元に戻したく、すべての世の中がつらいので、念誦をますますしみじみとなさって、うとうととする間もなく夜を明かしなさると、まだ夜明け前の雪の様子が、たいそう寒そうな中を、人びとの声がたくさんして、馬の声が聞こえる。
 
   「何人かは、かかるさ夜中に雪を分くべき」  「誰がいったいこのような夜中に雪の中を来きたのだろうか」
   と、大徳たちも驚き思へるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡れ濡れ入りたまへるなりけり。
 うちたたきたまふさま、さななり、と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひて、忍びておはす。
 御忌は日数残りたりけれど、心もとなく思しわびて、夜一夜、雪に惑はされてぞおはしましける。
 
 と、大徳たちも目を覚まして思っていると、宮が、狩のお召物でひどく身をやつして、濡れながらお入りなって来るのであった。
 戸を叩きなさる様子が、そうである、とお聞きになって、中納言は、奥のほうにお入りになって、隠れていらっしゃる。
 御忌中の日数は残っていたが、ご心配でたまらなくなって、一晩中雪に難儀されながらおいでになったのであった。
 
   日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべき心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やがて見直されたまはずなりにしも、今より後の御心改まらむは、かひなかるべく思ひしみてものしたまへば、誰も誰もいみじうことわりを聞こえ知らせつつ、物越しにてぞ、日ごろのおこたり尽きせずのたまふを、つくづくと聞きゐたまへる。
 
 今までのつらさも紛れてしまいそうなことだけれど、お会いなさる気もせず、お嘆きになっていた様子が恥ずかしかったが、そのまま見直していただけなかったことを、今から以後にお心が改まったところで、何の効もないようにすっかり思い込んでいらっしゃるので、誰も彼もが、強く道理を説いて申し上げ申し上げしては、物越しに、これまでのご無沙汰の詫びを言葉を尽くしておっしゃるのを、つくづくと聞いていらっしゃった。
 
   これもいとあるかなきかにて、「後れたまふまじきにや」と聞こゆる御けはひの心苦しさを、「うしろめたういみじ」と、宮も思したり。
 
 この君もまことに生きているのかいないのかの様子で、「後をお追いなさるのではないか」と感じられるご様子のおいたわしさを、「心配でたまらない」と、宮もお思いになっていた。
 
   今日は、御身を捨てて、泊りたまひぬ。
 「物越しならで」といたくわびたまへど、
 今日は、わが身がどうなろうともと、お泊まりになった。
 「物を隔ててでなく」としきりにおせがみになるが、
   「今すこしものおぼゆるほどまではべらば」  「もう少し気持ちがすっきりしましてから」
   とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納言もけしき聞きたまひて、さるべき人召し出でて、  とばかり申し上げなさって、冷たいのを、中納言もその様子をお聞きになって、しかるべき女房を召し出して、
   「御ありさまに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も今も心憂かりける月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべきことなれど、憎からぬさまにこそ、勘へたてまつりたまはめ。
 かやうなること、まだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらむ」
 「お気持ちに反して、薄情なようなお振る舞いで、以前も今も情けなかった一月余りのご無沙汰の罪は、きっとそうもお思い申し上げなさるのも当然なことですが、憎らしくない程度に、お懲らしめ申し上げなさいませ。
 このようなことは、まだご経験のないことなので、困っておいででしょう」
   など、忍びて賢しがりたまへば、いよいよこの君の御心も恥づかしくて、え聞こえたまはず。
 
 などと、こっそりとおせっかいなさるので、ますますこの君のお気持ちが恥ずかしくて、お答え申し上げることがおできになれない。
 
   「あさましく心憂くおはしけり。
 聞こえしさまをも、むげに忘れたまひけること」
 「あきれるくらい情けなくいらっしゃるよ。
 お約束申し上げたことを、すっかりお忘れになったようだ」
   と、おろかならず嘆き暮らしたまへり。
 
 と、並々ならず嘆いて日をお送りになった。
 
 
 

第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す

 
   夜のけしき、いとど険しき風の音に、人やりならず嘆き臥したまへるも、さすがにて、例の、もの隔てて聞こえたまふ。
 千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふも、「いかでかく口馴れたまひけむ」と、心憂けれど、よそにてつれなきほどの疎ましさよりはあはれに、人の心もたをやぎぬべき御さまを、一方にもえ疎み果つまじかりけり。
 ただ、つくづくと聞きて、
 夜の様子は、ますます烈しい風の音に、自分のせいで嘆き臥していらっしゃるのも、さすがに気の毒で、例によって、物を隔てて申し上げなさる。
 数々の神の名をあげて、将来長くお約束申し上げなさるのも、「どうしてこんなに口馴れていらっしゃるのだろう」と、嫌な気がするが、離れていて薄情な時のつらさよりは胸にしみて、女君の気持ちも柔らかくなってしまいそうなご様子を、一方的にも嫌ってばかりいられない。
 ただ、じっと耳を傾けていて、
 

682
 「来し方を 思ひ出づるも はかなきを
 行く末かけて なに頼むらむ」
 「過ぎ去ったことを思い出しても頼りないのに
  将来までどうして当てになりましょう」
 
   と、ほのかにのたまふ。
 なかなかいぶせう、心もとなし。
 
 と、かすかにおっしゃる。
 かえって気がふさぎ、気が気でない。
 
 

683
 「行く末を 短きものと 思ひなば
 目の前にだに 背かざらなむ
 「将来が短いものと思ったら
  せめてわたしの前だけでも背かないでほしい
 
   何事もいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」  何事もまことにこのように瞬く間に変わる世の中を、罪深くお思いなさるな」
   と、よろづにこしらへたまへど、  と、いろいろと宥めなさるが、
   「心地も悩ましくなむ」  「気分が悪くて」
   とて入りたまひにけり。
 人の見るらむもいと人悪ろくて、嘆き明かしたまふ。
 恨みむもことわりなるほどなれど、あまりに人憎くもと、つらき涙の落つれば、「ましていかに思ひつらむ」と、さまざまあはれに思し知らる。
 
 と言ってお入りになってしまった。
 女房が見ているのもとても体裁が悪くて、嘆きながら夜を明かしなさる。
 恨むのも無理もない際であるが、あまりにも無愛想なのではと、つらい涙が落ちるので、「まして私以上にどんなにおつらいであろう」と、いろいろとお気の毒に思わずにはいらっしゃれない。
 
   中納言の、主人方に住み馴れて、人びとやすらかに呼び使ひ、人もあまたしてもの参らせなどしたまふを、あはれにもをかしうも御覧ず。
 いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでものを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかに訪らひたまふ。
 
 中納言が、主人方に住みついて、人びとをやすやすと召し使い、人も大勢して食事を差し上げなどさせたりなさるのを、感慨深くもおもしろくも御覧になる。
 たいそうひどく痩せ青ざめて、茫然と物思いしているので、気の毒にと御覧になって、心をこめてお見舞い申し上げなさる。
 
   「ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこそは聞こえめ」と思へど、うち出でむにつけても、いと心弱く、かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。
 音をのみ泣きて、日数経にければ、顔変はりのしたるも、見苦しくはあらで、いよいよものきよげになまめいたるを、「女ならば、かならず心移りなむ」と、おのがけしからぬ御心ならひに思しよるも、なまうしろめたかりければ、「いかで人のそしりも恨みをもはぶきて、京に移ろはしてむ」と思す。
 
 「生前のことなど、言っても始まらないことだが、この宮だけには申し上げよう」と思うが、口に出すにつけても、まことに意気地がなく、愚かしく見られ申すのに気が引けて、言葉少なである。
 声を上げて泣きながら、日数が過ぎたので、顔が変わったのも、見苦しくはなく、ますます美しく艶やかなのを、「女であったら、きっと心移りがしよう」と、自分の良くない性癖をお思いつきになると、何となく不安になったので、「何とか世間の非難や恨みを取り除いて、京に引越させよう」とお考えになる。
 
   かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こし召して、いと悪しかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。
 おろかならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、一節を思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。
 
 このように打ち解けないけれども、帝にもお耳にあそばして、まことに具合の悪いことになるにちがいないとお困りになって、今日はお帰りあそばした。
 並々ならずお言葉を尽くしなさるが、相手にされないとはつらいものだと、それだけを知っていただきたくて、ついに気をお許しにらなかった。
 
 
 

第七段 歳暮に薫、宇治から帰京

 
   年暮れ方には、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積む雪に、うち眺めつつ明かし暮らしたまふ心地、尽きせず夢のやうなり。
 
 年の暮方では、こんな山里でなくても、空の模様がいつもとちがうのに、荒れない日はなく降り積む雪に、物思いに沈みながら日をお送りになる気持ちは、尽きせず夢のようである。
 
   宮よりも、御誦経など、こちたきまで訪らひきこえたまふ。
 かくてのみやは、新しき年さへ嘆き過ぐさむ。
 ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠もりたまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地も、たとへむ方なし。
 
 宮からも、御誦経などをうるさいまでにお見舞い申し上げなさる。
 こうしてばかりいては、新年まで嘆き過すことになろう。
 あちらこちらと、音沙汰なく籠もっていらっしゃることを申し上げられるので、今はもうお帰りになる気持ちも、何にもたとえようがない。
 
   かくおはしならひて、人しげかりつる名残なくならむを、思ひわぶる人びと、いみじかりし折のさしあたりて悲しかりし騷ぎよりも、うち静まりていみじくおぼゆ。
 
 このようにお住みつきなさって、人が多かったのがすっかりいなくなるのを、悲しむ女房たちは、大変であった時の当面の悲しかった騷ぎよりも、ひっそりとしてひどく悲しく思われる。
 
   「時々、折ふし、をかしやかなるほどに聞こえ交はしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐしたまへる日ごろの御ありさまけはひの、なつかしく情け深う、はかなきことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今は限りに見たてまつりさしつること」  「時々、折節に、風流な感じにお話し交わしなさった年月よりも、こうしてのんびりと過ごしていらした今までの、ご様子がやさしく情け深くて、風流事にも実際面にも、よく行き届いたお人柄を、今を限りに拝見できなくなったこと」
   と、おぼほれあへり。
 
 と、一同涙に暮れていた。
 
   かの宮よりは、  あの宮からは、
   「なほ、かう参り来ることもいと難きを思ひわびて、近う渡いたてまつるべきことをなむ、たばかり出でたる」  「やはり、このように参ることがとても難しいのに困って、近くにお引越し申し上げることを、考え出した」
   と聞こえたまへり。
 后の宮、聞こし召しつけて、
 と申し上げなさった。
 后の宮がお耳にあそばして、
   「中納言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべて思ひがたうこそは、誰も思さるらめ」と、心苦しがりたまひて、「二条院の西の対に渡いたまて、時々も通ひたまふべく、忍びて聞こえたまひけるは、女一の宮の御方にことよせて思しなるにや」  「中納言もこのように並々ならず悲しみに茫然としていたのは、なるほど、普通の扱いはできない方と、どなたもお思いなのではあろう」と、お気の毒になって、「二条院の西の対に迎えなさって、時々お通いになるよう、内々に申し上げなさったのは、女一の宮の御方の女房にとお考えになっているのではないか」
   と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、のたまふなりけり。
 
 とお疑いになりながらも、会えないことがないのは嬉しくて、おっしゃって来られたのであった。
 
   「さななり」と、中納言も聞きたまひて、  「そういうことになったらしい」と、中納言もお聞きになって、
   「三条宮も造り果てて、渡いたてまつらむことを思ひしものを。
 かの御代りになずらへて見るべかりけるを」
 「三条宮邸も完成して、お迎え申し上げることを考えていたが。
 あのお方の代わりとしてお世話すべきであった」
   など、ひき返し心細し。
 宮の思し寄るめりし筋は、いと似げなきことに思ひ離れて、「おほかたの御後見は、我ならでは、また誰かは」と、思すとや。
 
 などと、昔のことを思って心細い。
 宮がお疑いになっていたらしい方面は、まことに似つかわしくないことと思い離れていて、「一般的なご後見は、自分以外に、誰ができようか」と、お思いになっていたとか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 身を憂しと思ふに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ(古今集恋五-八〇六 読人しらず)(戻)  
  出典2 縒り合はせて泣くなる声を糸にして我が涙をば玉にぬかなむ(伊勢集-四八三)(戻)  
  出典3 糸に縒るものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな(古今集羇旅-四一五 紀貫之)(戻)  
  出典4 総角(あげまき)や とうとう 尋(ひろ)ばかりや とうとう 離(さか)りて寝たれども 転(まろ)び あひけり とうとう か寄りあひけり とうとう(催馬楽-総角)(戻)  
  出典5 片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずは何を玉の緒にせむ(古今集恋一-四八三 読人しらず)(戻)  
  出典6 形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上-八七五 兼芸法師)(戻)  
  出典7 わび人のわきて立ち寄る木のもとは頼む蔭なく紅葉散りけり(古今集秋下-二九二 僧正遍昭)(戻)  
  出典8 辺風吹断秋心緒 隴水流添夜涙行(辺風吹き断つ秋の心の緒 隴水流れ添ふ夜の涙の行)(和漢朗詠下-王昭君 大江朝綱)(戻)  
  出典9 晨鶏再鳴残月没 征馬連嘶行人出(晨の鶏再び鳴きて残月没りぬ 征馬連<しきり>に嘶きて行人出づ)(白氏文集巻十二-五七九 生別離)(戻)  
  出典10 群鳥の立ちにしわが名今さらにことなしぶともしるしあらめや(古今集恋三-六七四 読人しらず)(戻)  
  出典11 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ(古今集恋一-五三五 読人しらず)いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえこざらむ(古今集雑下-九五二 読人しらず)(戻)  
  出典12 夜もすがらたづさはりつる妹が袖名残恋しく思ほゆるかな(古今六帖五-二五九五)(戻)  
  出典13 総角(あげまき)や とうとう 尋(ひろ)ばかりや とうとう 離(さか)りて寝たれども 転(まろ)び あひけり とうとう か寄りあひけり とうとう(催馬楽-総角)(戻)  
  出典14 いなせとも言ひ放たれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり(後撰集恋五-九三七 伊勢)(戻)  
  出典15 世の中を憂しと言ひてもいづこにか身をば隠さむ山梨の花(古今六帖六-四二六八)(戻)  
  出典16 背くとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ(伊勢物語-一七八)(戻)  
  出典17 長しとも思ひぞ果てぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば(古今集恋三-六三六 凡河内躬恒)(戻)  
  出典18 若狭なる後瀬の山の後も逢はむ我が思ふ人に今日ならずとも(古今六帖二-一二七二)(戻)  
  出典19 季夏蟋蟀居壁(礼記-月令)(戻)  
  出典20 頼めくる君し辛くは四方の海に身も投げつべき心地こそすれ(馬内侍集-九)(戻)  
  出典21 堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎ返り同じ人にや恋ひ渡るらむ(古今集恋四-七三二 読人しらず)(戻)  
  出典22 人の見ることや苦しき女郎花秋霧にのみたち隠るらむ(古今集秋上-二三五 読人しらず)(戻)  
  出典23 秋の野になまめき立てる女郎花あなかしかまし花も一時(古今集俳諧-一〇一六 僧正遍昭)(戻)  
  出典24 行く先を知らぬ涙の悲しきはただ目の前に落つるなりけり(後撰集離別-一三三三 源済)(戻)  
  出典25 雲の居る遠山鳥のよそに見てもありとし聞けば侘びつつぞ寝る(新古今集恋五-一三七一 読人しらず)逢ふことは遠山鳥の目も合はず逢はずて今宵明かしつるかな(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)  
  出典26 明けぐれの空にぞ我は惑ひぬる思ふ心のゆかぬまにまに(拾遺集恋二-七三六 源順)(戻)  
  出典27 若草の新手枕を巻きそめて夜をや隔てむ憎からなくに(古今集六帖五-二七四九)(戻)  
  出典28 山科の木幡の山に馬はあれど徒歩よりぞ来る君を思へば(拾遺集雑恋-一二四三 柿本人麿)(戻)  
  出典29 世の人の心々にありければ思ふは辛し憂きは頼まず(古今六帖五-二六二二)(戻)  
  出典30 世の中を何に喩へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波(拾遺集哀傷-一三二七 沙弥満誓)(戻)  
  出典31 千早振る宇治の橋守汝をしぞあはれとぞ思ふ年の経ぬれば(古今集雑上-九〇四 読人しらず)(戻)  
  出典32 狭蓆(さむしろ)に衣片敷き今宵もや我や待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四-六八九 読人しらず)忘らるる身を宇治橋の中絶えて人も通はぬ年ぞ経にける(古今集恋五-八二五 読人しらず)(戻)  
  出典33 伊勢の海に釣する海人の浮けなれや心一つを定めかねつる(古今集恋一-五〇九 読人しらず)(戻)  
  出典34 石上ふるの山里いかならむ遠方の里人霞隔てて(源氏釈所引-出典未詳)初時雨ふるの山里いかならむ住む人さへや袖の濡るらむ(新千載集冬-五九九 読人しらず)(戻)  
  出典35 ありぬやと心みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧-一〇二五 読人しらず)(戻)  
  出典36 夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝な我が面影に恥づる身なれば(古今集恋四-六八一 伊勢)(戻)  
  出典37 雲の居る遠山鳥のよそに見てもありとし聞けば侘びつつぞ寝る(新古今集恋五-一三七一 読人しらず)逢ふことは遠山鳥の目も合はず逢はずて今宵明かしつるかな(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)  
  出典38 宇治山の紅葉を見ずは長月の過ぎ行く日をも知らずぞあらまし(後撰集秋下-四四〇 千兼が女)(戻)  
  出典39 いかなれば近江の海のかかりてふ人を見る目の絶えて生ひねば(奥入所引-出典未詳)(戻)  
  出典40 七夕の天の戸渡る今宵さへ遠方人のつれなかるらむ(後撰集秋上-二三八 読人しらず)(戻)  
  出典41 いかでなほ網代の氷魚に言問はむ何によりてか我を問はぬと(拾遺集雑秋-一一三四 修理)(戻)  
  出典42 大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ(古今集恋四-七四三 酒井人真)(戻)  
  出典43 散る花を嘆きし人は木のもとの寂しきことやかねて知りけむ(紫式部集-四三)(戻)  
  出典44 見し人も忘れのみ行く古里に心長くも来たる春かな(後拾遺集雑三-一〇三四 藤原義懐)(戻)  
  出典45 いで人は言のみぞよき月草のうつし心は色ことにして(古今集恋四-七一一 読人しらず)(戻)  
  出典46 こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人にくからぬ世にし住まへば(古今集雑三-六三一 読人しらず)(戻)  
  出典47 とり返すものにもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典48 うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ(伊勢物語-九〇)(戻)  
  出典49 うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ(伊勢物語-九〇)(戻)  
  出典50 初草のなど珍しき言の葉ぞうらなく人を思ひけるかな(伊勢物語-九一)(戻)  
  出典51 世の中をとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ(新古今集雑下-一八五一 蝉丸)(戻)  
  出典52 たらちねの親の諌めしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける(拾遺集恋四-八九七 読人しらず)(戻)  
  出典53 反魂香夫人魂 夫人之魂在何許(反魂の香は夫人の魂を反す 夫人の魂何れの許にか在る)(白氏文集巻四-李夫人)(戻)  
  出典54 明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しけれ(古今集哀傷-八三八 紀貫之)(戻)  
  出典55 岩くぐる山の井の水を結び上げて誰がため惜しき命とか知る(伊勢集-四二四)(戻)  
  出典56 いにしへも今も昔も行く末もかく袖ひづるたぐひあらじな(源氏釈所引-出典未詳)神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)  
  出典57 霰降る深山の里の侘しきは来てたはやすく訪ふ人ぞなき(後撰集冬-四六八 読人しらず)(戻)  
  出典58 港入りの葦分け小舟障り多み我が思ふ人に逢はぬころかな(拾遺集恋四-八五三 柿本人麿)(戻)  
  出典59 水ごもりの神に問ひても聞きてしか恋ひつつ逢はぬ何の罪ぞと(古今六帖四-二〇二二)(戻)  
  出典60 空蝉は殻を見つつも慰めつ深草の山煙だに立て(古今集哀傷-八三一 僧都勝延)(戻)  
  出典61 遺愛寺鐘欹枕聴 香鑪峯雪撥簾看(遺愛寺の鐘は枕を欹<そばだ>てて聴く 香鑪峯の雪は簾を撥<まきあげ>て看る)(白氏文集巻十六-九七八)(戻)  
  出典62 山寺の入相の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき(拾遺集哀傷-一三二九 読人しらず)(戻)  
  出典63 とり返すものにもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
  出典64 いかで我つれなき人に身をかへて苦しきものと思ひ知らせむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 まいて--まいり(り/$)て(戻)  
  校訂2 ことは--ことも(も/#は)(戻)  
  校訂3 人びとにも--人/\に(に/+も<朱>)(戻)  
  校訂4 承る--*うけ給へる(戻)  
  校訂5 わざ--(/+わさ<朱>)(戻)  
  校訂6 例の--れ(れ/+い<朱>)の(戻)  
  校訂7 戯れに--たはふれ(れ/+に)(戻)  
  校訂8 薄鈍--うすわ(わ/#に<朱>)ひ(戻)  
  校訂9 過ぐし果つ--すくしは(は/+つ)(戻)  
  校訂10 きりぎりす這ひ出で--きり/\すす(す<後出>/#<朱>)はい(い/+い<朱>)て(戻)  
  校訂11 心ゆるび--*心ゆるい(戻)  
  校訂12 心--心も(も/#<朱>)(戻)  
  校訂13 人笑へ--*人わつらへ(戻)  
  校訂14 ついでには--ついてに(に/+は<朱>)(戻)  
  校訂15 なるありさま--なる(る/+あり<朱>)さま(戻)  
  校訂16 むつかしけれど--むつま(ま/#か)しけれと(戻)  
  校訂17 かく--(/+かく<朱>)(戻)  
  校訂18 思しなむや--おほしな(な/+む)や(戻)  
  校訂19 昔物語--むかし(し/+物<朱>)かたり(戻)  
  校訂20 な取り集め--な△(△/#と)りあつめ(戻)  
  校訂21 をかしかりし--おは(は/$か<朱>)しかりし(戻)  
  校訂22 思うたまふれど--*おもふ給へれと(戻)  
  校訂23 何事も--なに事(事/+も)(戻)  
  校訂24 かうやう--か(か/+う)やう(戻)  
  校訂25 うちなびきて--うちなひ(ひ/+き<朱>)て(戻)  
  校訂26 人びと--人(人/+/\<朱>)(戻)  
  校訂27 絶えず--たゝ(ゝ/$え<朱>)す(戻)  
  校訂28 のどかに--(/+の)とかに(戻)  
  校訂29 たまへれば--給つ(つ/$へ<朱>)れは(戻)  
  校訂30 たまふが--*給るか(戻)  
  校訂31 書き続け--かきつ(つ/+ゝ<朱>)け(戻)  
  校訂32 など--*なむと(戻)  
  校訂33 涼しき--すく(く/$ゝ<朱>)しき(戻)  
  校訂34 疎くて--う(う/+と<朱>)くて(戻)  
  校訂35 あらぬはや」と--あらぬとて(とて/$は<朱>)やと(戻)  
  校訂36 せさせ--を(を/#せ)させ(戻)  
  校訂37 え聞こえ--えき(き/+こ)え(戻)  
  校訂38 聞こえたまふ--*きこえの給(戻)  
  校訂39 思さるらめ--おほさるゝ(ゝ/$ら<朱>)め(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。