古事記~ホオリの葬り 原文対訳

玉依毘賣 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
ホオリの葬り
あえずの命
の系譜
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

日子
穗穗手見命者。
 かれ
日子
穗穗出見の命は、
 この
ヒコ
ホホデミの命は
坐高千穗宮。 高千穗の宮に 高千穗の宮に
伍佰捌拾歳。 五百八拾歳
いほちまりや
そとせましましき。
五百八十年
おいでなさいました。
     
御陵者。 御陵はかは 御陵ごりようは
即在其
高千穗
山之西也。
その高千穗の
山の西にあり。
その高千穗の
山の西にあります。

 

玉依毘賣 古事記
上巻 第五部
ホデリとホオリの物語
ホオリの葬り
あえずの命
の系譜

解説

 
 
 ここで580歳という人としてありえない年月が記されているが、これは神代ということを表わし、かつ聖書を受けている。
 でないと時間感覚がおかしすぎる。
 勅命を受けるような普通の役人はそういう設定をしようがない。続く神武は137歳で、そこまでありえない数字でもない。
 
 創世記は特定の宗教と無関係の古典。古事記が特定宗教と無関係であるように。だから宗教間でまたいでいる。
 教えが先ではなく神が先。事実が先にある。
 普通に見れば、論語などと共に渡来した。古事記はそれを参照して書かれた。
 

 冒頭に別天神として最初に一瞬出てきた天中御主も、創世の主。だから神道(≒GOD LORD)。
 その主ではなく、七代目のイザナギ・イザナミがこの国を造っているのは、そこから世が下っているという表現(それだけ受肉を経ている)。
 神の系譜はそういう意味。どんな化身がいたかという意味。中身は同一。
 イザナギはイザナミを失い痛い目を見て、その目から天照が生まれた。両者は同一。
 

 実質的にこの国の創世記は古事記。著者は安万侶。
 このイニシャルが八洲国で靖国で、神の先頭に八がつくことのあらわれ。と見るのが神話的解釈。
 アレは少しでもセーフティーにするための代わり身。
 

 だから靖国の主は無名の民ということになっている、唯一の別格神社。
 しかし無名の民の集合でここまでになることなどない。この国の民にしてきた扱い、現状の扱いを見よ。その生活に税の原資の意味しか見ない。
 民を立てる(無名の)神が最高神。だから神ムスビ(=天照)に対し、高木(高ムスビ)は、よほどでないと出てこない。
 

 そしてタカムスビと天照が並んで表現されることから、この二神が男女の最高神。
 だから靖国と伊勢の分社は並んで至近にある。
 

 なぜ天照がこの国で主神扱いかというと、主は主に裏側を担当しているから。父母のいる違う世界がイザナギとイザナミの構図に出る(投影)。
 しかし世が乱れどうしようもないと、女子達(国土)の世話のために到来(受肉)する。それが世が下った源氏でいう御心で親心。
 最初からずっといろとかいうのが、自分達しか考えない輩達。世界は自然に秩序を保つよう出来ている。その摂理に逆らい続けない限り。続けるのは消える。
 神を詭弁で利用し、宴会をしつつ無数の民を死地においやった無反省な輩が靖国に入っているというのが、この国の神域にまかれたクソを象徴。
 安万侶=人麻呂は、租税すら困窮時停止せよ(下巻)としているのに出兵などない。この潤った国土で。分を弁えない餓鬼達。それはあぶり出される。
 

 なお、年齢及び御陵を出すのは、上巻ではここでのホオリのみなので、ホオリをホオムリと掛けていることになる。