宇治拾遺物語:越前敦賀の女、観音助け給ふ事

宝志和尚 宇治拾遺物語
巻第九
9-3 (108)
越前敦賀の女
くうすけ

 
 越前国に敦賀といふ所にすみける人ありけり。とかくして、身ひとつばかり、わびしからで過ぐしけり。女一人よりほかに、また子もなかりければ、このむすめぞ、またなきものに、かなしくしける。
 「この女を、我があらん折、たのもしく見置かん」とて、男あはせけれど、男もたまらざりければ、これやこれやと、四五人まではあはせけれども、なほたまらざりければ、思ひわびて、のちにはあはせざりけり。
 ゐたる家のうしろに、堂をたてて、「この女たすけ給へ」とて、観音を据ゑ奉りける。供養し奉りなどして、いくばくも経ぬほどに、父うせにけり。それだに思ひ嘆くに、引きつづくやうに、母も失せにければ、泣き悲しめども、いふかひもなし。
 

 知る所などもなくて、かまへて世を過ぐしければ、やもめなる女一人あらむには、いかにしてか、はかばかしきことあらん。親の物のすこしありけるほどは、使はるる者、四五人ありけれども、物失せ果ててければ、使はるる者、一人もなかりけり。
 物食ふこと難くなりなどして、おのづから求めいでたる折は、手づからいふばかりにして食ひては、「我が親の思ひしかひありて、助け給へ」と、観音に向かひ奉りて、なくなく申しゐたるほどに、夢に見るやう、この後ろの堂より、老いたる僧の来て、「いみじういとほしければ、男あはせんと思ひて、呼びにやりたれば、明日ぞここに来つかんずる。それが言はんにしたがひてあるべきなり」と、宣ふとみて、覚めぬ。
 この仏の助け給ふべきなめりと思ひて、水うち浴みて参りて、泣く泣く申して、夢を頼みて、その人を待つとて、うち掃きなどしてゐたり。家は大きに造りたりければ、親失せて後は、住みつき、あるべかしき事なけれど、屋ばかりは大きなりたければ、かたすみにぞゐたりける。敷くべき筵だになかりけり。
 

 かかるほどに、その日の夕方になりて、馬の足音どもして、あまた入りくるに、人、そと覗きなどするを見れば、旅人の宿借るなりけり。「すみやかにゐよ」と言へば、みな入りきて「ここよかりけり。家広し。いかにぞやなど、物言ふべきあるじもなくて、我がままにも宿りいるかな」など言ひあたり。
 

 覗きてみれば、あるじは三十ばかりなる男の、いと清げなるなり。郎等二三十人ばかりある、下種などとり具して、七八十人ばかりあらんとぞみゆる。ただゐにゐるに、筵、畳を取らせばやと思へども、はずかしと思ひてゐたるに、皮籠筵を乞ひて、皮に重ねて敷きて、幕引きまはしてゐぬ。
 そそめくほどに、日も暮れぬれども、物食ふとも見えぬは、物のなきにやあらんとぞ見ゆる。物あらば取らせてましと思ひゐたるほどに、夜うちふけて、この旅人のけはひにて、「このおはします人、寄らせ給へ。物申さん」と言へば、「何ごとにか侍らん」とて、いざり寄りたるを、何のさはりもなければ、ふと入り来て控へつ。「こはいかに」と言へど、言はすべきもなきにあはせて、夢に見し事もありしかば、とかく思ひ言ふべきにもあらず。
 

 この男は、美濃国に猛将ありけり、それがひとり子にて、その親失せにければ、よろづの物受け伝へて、親にもおとらぬ者にてありけるが、思ひける妻におくれて、やもめにてありけるを、これかれ、聟にとらんといふ者、あまたありけれども、ありし妻に似たらん人をと思ひて、やもめにて過ぐしけるが、若狭に沙汰すべきことありて行くなりけり。
 昼宿り入るほどに、かたすみにゐたる所も、何の隠れもなかりければ、いかなる者のゐたるぞと、覗きて見るに、ただありし妻のありけるとおぼえければ、目もくれ、心もさわぎて、「いつしか、疾く暮れよかし。近からんけしきも試みん」とて、入り来たるなりけり。
 

 ものうち言ひたるよりはじめ、つゆ違ふ所なかりければ、「あさましく、かかりけることもありけり」とて、「若狭へと思ひたたざらましかば、この人を見ましやは」と、うれしき旅にぞありける。
 若狭にも十日ばかりあるべかりけれども、この人のうしろめたさに、「あけば行きて、またの日帰るべきぞ」と、返す返す契りおきて、寒げなりければ、衣も着せ置き、郎等四五人ばかり、それが従者などとり具して、二十人ばかりの人あるに、物食はすべきやうもなく、馬に草食はすべきやうもなかりければ、いかにせましと、思ひ嘆きけるほどに、
 親の御厨子所に使ひける女の、ありとばかりは聞きけれども、来通ふこともなくて、よき男して、事かなひてありとばかりは聞きわたりけるが、思ひもかけぬに来たりけるが、誰にかあらんと思ひて、「いかなる人の来たるぞ」と問ひければ、「あな心うや。御覧じ知られぬは、我が身の咎にこそ候へ。おのれは故上のおはしましし折、御厨子所仕り候ひし者のむすめに候ふ。年ごろ、いかで参らんなど思ひて過ぎ候ふを、今日は、よろづを捨てて参り候ひつるなり。
 かく便りなくおはしますとならば、あやしくとも、ゐて候ふ所にもおはしまし通ひて、四五日づつもおはしませかし。心ざしは思ひ奉れども、よそながらは、明け暮れとぶらひ奉らんことも、おろかなるやうに、思はれ奉りぬべければ」など、こまごまと語らひて、「この候ふ人々はいかなる人ぞ」と問へば、「ここに宿りたる人の、若狭へとていぬるが、明日、ここへ帰り着かんずれば、その程とて、このある者どもをとどめ置きていぬるに、これにも食ふべき物は具せざりけり。ここにも、食はすべき物もなきに、日は高くなれば、いとほしと思へども、すべきやうもなくてゐたるなり」と言へば、
 「知りあつかひ奉るべき人にやおはしますらん」と言へば、「わざと、さは思はねど、ここに宿りたらん人の、物食はでゐたらんを、見過ぐさんも、うたてあるべう、また思ひ放つべきやうもなき人にてあるなり」と言へば、「さてはいと易きことなり。今日しも、かしこく参り候ひにけり。さらば、まかりて、さるべきさまにて参らん」とて、立ちていぬ。
 

 いとほしかりつる事を、思ひかけぬ人の来て、頼もしげに言ひていぬるは、いとかくただ観音の導びかせ給ふなめりと思ひて、いとど手をすりて念じ奉るほどに、すなはち物ども持たせて来たりければ、食物どもなど多かり。馬の草まで、こしらへ持ちてきたり。いふ限りなく、うれしとおぼゆ。
 この人々、もて饗応し、物食はせ、酒飲ませはてて、入り来たれば、「こはいかに。我が親の生き返りおはしたるなめり。とにかくにあさましくて、すべき方なく、いとほしかりつる恥を隠し給へること」と言ひて、悦び泣きければ、
 女も、うち泣きていふやう、「年ごろも、いかでかおはしますらんと思ひ給へながら、世の中すぐし候ふ人は、心とたがふやうにて過ぎ候ひつるを、今日、かかる折に参りあひて、いかでか、おろかには思ひ参らせん。若狭へ越え給ひにけん人は、いつか帰りつき給はんぞ。御供人はいくらばかり候ふ」と問へば、
 「いさ、まことにやあらん。明日の夕さり、ここに来べかんなる。ともには、このある者ども具して、七八十人ばかりぞありし」と言へば、「さては、その御まうけこそ、つかまつるべかんなれ」と言へば、「これだに、思ひかけずうれしきに、さきまでは、いかがあらん」と言ふ。「いかなることなりとも、今よりは、いかでか、つかまつらであらんずる」とて、たのもしく言ひ置きていぬ。
 この人々の、夕さり、つとめての食物まで沙汰し置きたり。覚えなくあさましきままには、ただ観音を念じ奉るほどに、その日も暮れぬ。
 

 またの日になりて、このある者ども「今日は殿おはしまさんずらんかし」と待ちたるに、申の時ばかりにぞ着きたる。つきたるや遅きと、この女、物ども多く持たせて来て、申しののしれば、もの頼もし。
 この男、いつしか入きて、おぼつかなかりつる事など言ひ臥したり。暁はやがて具して行くべきよしなど言ふ。
 いかなるべきことにかなど思へども、仏の「ただ任せられてあれ」と、夢に見えさせ給ひしを頼みて、ともかくも、言ふに従ひてあり。
 この女、暁発たんずるまうけなどもしにやりて、急ぎくるめくがいとほしければ、何がな取らせんと思へども、取らすべき物なし。おのづから入る事もやあるとて、紅なる生絹の袴ぞ一あるを、これを取らせてんと思ひて、我は男の脱ぎたる生絹の袴をきて、この女を呼びよせて、「年ごろは、さる人あらんとだに知らざりつるに、思ひもかけぬ折しも来あひて、恥がましかりぬべかりつる事を、かくしつることの、この世ならずうれしきも、何につけてか知らせんと思へば、心ざしばかりにこれを」とて、取らすれば、
 「あな心憂や。あやまりて人の見奉らせ給ふに、御さまなども心憂く侍れば、奉らんとこそ思ひ給ふるに、こは何しにか給はらん」とて、取らぬを、
 「この年ごろも、さそふ水あらばと、思ひわたりつるに、思ひもかけず、『具していなん』と、この人の言へば、明日は知らねども、従ひなんずれば、形見ともし給へ」とて、なほ取らすれば、「御心ざしのほどは、返す返すもおろかには思ひ給ふまじけれども、かたみなど仰せらるるがかたじけなければ」とて、取りなんとするをも、ほどなき所なれば、この男、聞きふしたり。
 

 鳥鳴きぬれば、急ぎ立ちて、この女のし置きたるもの食ひなどして、馬に鞍置き、引き出だして、乗せんとするほどに、「人の命しらねば、また拝み奉らぬやうもぞある」とて、旅装束しながら、手洗ひて、後ろの堂に参りて、観音を拝み奉らんとて、見奉るに、観音の御肩に、赤き物かかりたり。
 あやしと思ひて見れば、この女に取らせし袴なりけり。こはいかに、この女と思ひつるは、さは、この観音の、せさせ給ふなりけりと思ふに、涙の、雨雫と降りて、忍ぶとすれど、伏しまろび泣くけしきを、男聞きつけて、あやしと思ひて、走り来て、「何事ぞ」と問ふに、泣くさま、おぼろけならず。
 「いかなることのあるぞ」とて、見まはすに、観音の御肩に赤き袴かかりたり。これを見るに、「いかなることにかあらん」とて、ありさまを問へば、この女、思ひもかけず来て、しつるありさまを、こまかに語りて、「それにとらすと思ひつる袴の、この観音の御肩にかかりたるぞ」といほいもやらず、声を立てて泣けば、男も、空寝して聞きしに、女に取らせつる袴にこそあんなれと思ふが悲しくて、おなじやうに泣く。郎等どもも、物の心知りたるは、手をすり泣きけり。かくて、たて納め奉りて、美濃へ越えにけり。
 

 その後、思ひかはして、また横目することなくてすみければ、子ども生みつづけなどして、この敦賀にも、つねに来通ひて、観音に返す返すつかうまつりけり。
 ありし女は、「さる者やある」とて、近く遠く尋させけれども、さらにさる女なかりけり。それより後、またおとづるることもなかりければ、ひとへに、この観音のせさせ給へるなりけり。
 この男女、たがひに七八十になるまで栄えて、男子、女子生みなどして、死の別れにぞ別れにける。
 

宝志和尚 宇治拾遺物語
巻第九
9-3 (108)
越前敦賀の女
くうすけ