古文解釈の基本理論

    古典の改め
古文の解釈
和歌総覧

 

 古文読解の理論は、現状些末な文法分類しか存在せず、「女もしてみむ」で貫之が女を装った・源氏と枕の最後「とぞ本に」をと写本にとするような、本文の文脈完全無視で、ひっくり返るような本末転倒が通説とされ、前者は大真面目に生徒に教化しているので、ここで骨太の理論を構築し、それらを斥ける。土佐の冒頭、源氏と枕の最後は些末な解釈でも何でもないが、それがこの有様ということが現状の読解水準を象徴している。理系は論理的で文系は非論理という前者の論評は、数理と論理を混同し文字式xの象徴性を解せない国では当を得ている。掛ける書式は数式でも省略可能だが文字に限り、それは基本、解くためにある。

 

 
目次
解釈とは:意味を通すこと。抽象を具体化すること。
「思ひ上がり」のように自明な言葉を置き換えるのは誤解か曲解。
それ自体意味不明で、文脈に根拠がない説(明)は、解釈ではない。
文脈解釈(事実認定。及び論理的思考力:文意をよく通すこと)
事実と評価の区別
 緻密に峻別できるのが玄人。素人ほど一面的権威的で区別困難。
 これが正しい・事実だという発言や記述で事実にはならない。
 事実なら多角的に符号し、認定解釈に無理矛盾は基本生じない。
 無理が次々に生じる(業平)認定は、事実ではなく誤認(定)。
本末転倒(背理)させない
 本意・大意が最上位。ここを取り違えると悉く曲解になる。
 大本の基本(伊勢物語)と、末(古今)を取り違えない。
 本か末かは影響力、次に主要人物年代。端的には一般知名度。
 文脈のために文言があり、ミクロの語尾で文脈は決まらない。
 しかしほとんどの人は逆に見る。群盲象を評す例え参照。
文言解釈(狭義の解釈。掛かりを考え、安易に択一しない)
「もて渡る」と「もていく」の対を無視する、これがナンセンス。
・語義と解釈の区別:現代まで通じる第一義的語義が最優先。
・それでは絶対に通らない場合に限り、古今異義に解する。
・外部の場当たり解釈認定を文脈無視で一方的に代入しない。
「しるよし」を領るよしとするこじつけが最典型
対の文言を手掛かりに掛かりを解釈する。古典最重要の読解力
 より多く、より繊細な、絶対確実客観の対を見れるのが実力者。
 主観的なものは対句ではない。客観的な一致が対句。
 表現を一致させながら、その解釈で微妙に意味をずらし
 微妙にずれた表現で、意味を一致させるのが実力者の作法。
 対に気づかない、微妙な違いに気づかないのは、読解力不足。
 定型的に押し通し、文法レベルにおとしめるのが古典的初心者。
 その意味で9割方初心者。それが貫之のいう一人二人の趣旨。
 古典の肝心は文法レベルの意味不明な暗記ではなく、古歌の心。
 そのナンセンスさを、さもセンスあるかのように説かれる現状。
正しい解釈=正解
 正しい=その通りであること。
 事実と論理と道理に照らし、筋(道)が通っているかで決まる。
 道は人道、高くは天道。その視点がないと通せないのが道理。
誤解と曲解とドグマ
 誤解:思慮に欠けた思い込み。一面的なみなしと正当化。
 曲解:言葉を都合で定義し曲げること。必然的に独善的。
 ドグマ:集団的独善の正当化・箔付け。強迫的で意味不明。

 
 

解釈とは

 
 解釈とは、一見すると通らない意味を通すことで、①文脈解釈と②文言解釈の2つからなる。

 後で詳述するが、一般人から見て、何の問題もなく一見して通せる表現(例えば「はじめより我はと思い上がり」)を解釈・通釈と称してみだりに置き換えてはならない。それを曲解という。

 

 解釈するを略し、解するという。

 解釈する文言のみに「」をつけることが作法。この文言は問題となる最小限に絞る。解釈・引用ということを示す他、単なる強調のために「」をつけてはならない。この作法を守っていると、それなりのレベルの(専門的な)書き手と想定して見る。
 「解釈」を文言解釈すると、解とは分解、釈とは情況に即した説明。まとめると、字義に基づき、当該文脈にふさわしい意味にすることである。
 

 解釈するまでもなく意味が通っている言葉を、解釈や通釈・訳・意訳と称して置き換えることは誤りであり、文意を誤解している。
 例えば、源氏冒頭の「思ひ上がり」のような自明な文言は、置き換えたり丸めたりして骨抜きにしてはならない。それは読者の越権行為で、言葉を曲げる曲解という。この言葉の意味が文脈上で自明ではないなら解釈以前の国語力の問題。
 解釈は、物事の多義性・重層性を前提にしている高等教育以上のレベルの概念なので、その意義を整理する必要があるだろう。現状は何でもありの無法状態。しかしそれは誰もその問題を言い出したことがないからで、何となくで解釈と言っているからである。
 

 不随する概念として説明を、略して説ともいい、学者の説明を学説という。学者とは主に大学教員水準以上の研究者である(一般的傾向として博士水準になると論述も権威主義的ではなく考えられたものになり、博士と書名でアピールしているのは、自分は信頼できると表明している趣旨)。

 

 学説がほぼ一致して採用しあるいは一般世間に通用する説を通説といい、比較多数を多数説、影響力がある学者の説を有力説という。通説だから正しい、少数説だからといって正しくないということには、論理上ならない。
 極めて特別な、その時代を代表する第一人者の説は、一人でも通説になることがある。古文の世界では、源氏の著者の説「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」。これは著者の一人認識で、貴族社会の認識ではない(現在に至るまで、竹取にそこまでの高い文学評をする学者は女性以外見たことはない)。

 

 解釈が通説化すれば一般的な定義にもなるが、そうなったとしてもそれは事実ではなく、あくまで一つの解釈・見解・評価であり、異なる見方、それ以上に優れた見解もありえる。解釈の当否は、時代を超えた人類普遍の正義に照らして、常に吟味されるべきものである。しかし積み上げられてきた普遍の理想、自由・公平といった哲学を否定する言動もとりあげないと不公平であるという説(例えば戦前特定国の思想や政策の美化)がしばしば提起されるが、それらのもたらした論理の帰結の安易な美化正当化を、真っ当な識別をもって排斥すべきものである。

 

 真っ当とは、真実正当という道徳概念である。正当とは、正しく当を得ていること、正しくその通りであることだが、これは事実と道理の2つからなる。ある論者が正しいという時、事実と道理(人道)に照らして判断しなければならない。事実といいつつ評価(貢献したのは事実・世界的に評価されたのは事実)しか言わない見解はそれ自体で誤っている(事実に基づかない思い込み)。真っ当な見解の特徴は、多角的事実に即していること。こうあるべきという内容を、まず自分で実践していること。
 

文脈解釈

 

 文脈解釈とは、一見すると通らない・不明瞭な文章の意味を通すことである。
 後述の文言解釈と異なり、事実認定ともいう。いわば物事の解釈。一般的な意味のロジック(論理)とも言える。
 この文脈の解釈を取り違えると、文言解釈がそれに従って全ておかしくなるので説明しよう(逆に言えば、文言解釈は常に文脈解釈に従ってするもので、文言だけ末尾の活用や接続だけ取り上げて当否を論じる説明は、たとえ教本にあっても論理的に誤り)。
 

事実と評価の区別

 

 文脈解釈は、事実認定レベルの解釈であり、この際、事実と評価を区別しなくてはならない。
 評価のみを根拠とするのは誤り。事実の根拠に欠けるために、根拠がないという。
 例えば、かな文字は女文字などと言われ、かなは女が用いていたと漫然と解されているが、それには事実(記録上)の根拠を示さなければならない。この文脈がもちだされるのは土佐日記冒頭だが、初のかな和歌集・905年の古今集の歌数上位20人中、女性は2人(小町と伊勢の御)であり、935年頃の土佐日記の時点で、かな文字を書くのは女といえるほどの記録(事実)はない。かな物語の祖とされる竹取も女性を話題にしつつ文体は女性という根拠がない。つまり平安初期の時点では、貫之が漢字を「男文字」というのに対比し(漢=男)、女らしい文字、表音通りで女にも扱いやすい文字と見るべきである。
 
 ちなみに、万葉の諸々の女性の歌は、冒頭の代作の連続や古今の薄い構成も合わせて考えると、表記通りではなく基本的に人麻呂の作と見ることが順当(源氏物語の歌が紫一人の手からなるように)。家持部分は知らない。知らないが、家持は万葉全体でも各部でも後日の付加であり、それまでの無名基調と自分の羅列のギャップ、家持付加部分で四季の配分が乱れることからも、家持は編纂者ではなく占奪者と解する。この家持を編纂者ということが本末転倒の典型。万葉が本で、末が家持付加部分。
 

本末転倒(背理)させない

 

 また、解釈は基本的により大きな文脈に従い、それ自体で意味を持たない些末な語尾(付属語とその活用)を強調し、そこから文脈を定義してはならない。これを本末転倒、背理、言葉尻をとらえる、あるいは群盲象を評すという。
 例えば、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」。この「すなる」「するなり」を断定伝聞どのように解しても、貫之は男であり、冒頭「木工權頭貫之」という極めて特徴ある署名も本によってあり、直後の「解由など取りて」からも男の文脈しかなく、女を装っているという極めて特殊な文脈は存在しない。「女もしてみむ」とは、男もしているから女もしてみようという勧誘(啓蒙)の意味でしかない。つまり女を装った(仮託した)という説は、「女もしてみむ」だけ見て女を装ったと決めつけた近視眼的解釈で誤解。文脈に根拠がない。そこだけ見て女を装ったと言っている。それで貫之も男目線から抜けきれなかったなどと言うが、初めから女目線ではない。装ったと思えるのは読解力の問題もあるし、従来の言説を無条件で真に受ける態度が過ぎるといえる。
 

 上記の区別が何もできていない例が、伊勢の昔男業平みなし認定。古今の業平認定が記録として存在することは事実だが、それが内容真実の事実という確証はない。それを証明するには、外部の記録との多角的な裏付けが必要である。一般的に古今の認定が一応信用できるとしても、重大な疑義・諸々の事実との不整合が露見した場合、無条件にその認定に基づくことはできない。そして古今の業平認定は、古今上突出した分量と詞書を誇り、かつ全て伊勢物語と同じ歌で、無視できる内容ではない。
 古今の認定は、伊勢を丸ごと在五日記とみなしたことによる誤認定。だから業平の歌は何一つ実態(諸々の記録)と整合しない。伊勢の昔男が、業平という特有の文脈は何一つない。皆無。昔男は文脈上明らかに著者の一人称目線で(だから日記という呼称がある)、業平は在五とされて他人目線で描かれているが、それは古今の認定を維持する都合で無視している。だから源氏物語絵合で在五が物語ではなく伊勢物語と定義された。
 

 この古今の業平認定と伊勢物語の昔男の認定のように、文脈に欠いた断片的な一事(古今の認定)のみをもって、厚い文脈をもった他の全て(伊勢や源氏)を無視し、古今ではなく伊勢の不手際とみなし続けるようなことは、事実認定の態度として誤り。
 このように勅撰集を絶対視する態度こそ社会にはびこる権威主義で、無謬性の誤謬。しかし勅撰集でも、二条の后と小町に近く彼女らの完全オリジナルの詞書を唯一複数持つ文屋は黙殺する。
 このように従来の見立てにそう一部のみを絶対視し、それに沿わない一連の事情を悉く無視して、原文の文言を曲げ続けるようなことはしてはならない。
 

文言解釈

 

 文言解釈とは、抽象的な文言を当該文脈において具体化することで、①文脈(特に対の表現)と、②一般的な語義に従う。
 

 ①文脈上の根拠を何ら示さない・示そうとしない態度の注釈、一般的な語義から全く離れた当て字などは(例えば「領る」)、それ自体で誤っている。

 ②文脈解釈と次元が異なり、通常の文言用法の枠内から外れることは許されない。
 

対の文言

 

 古文の文言解釈で特に注意することは、対の文言がある場合、その用法・対照に従うこと。
 例えば、「朝ごと夕ごとに見る竹の中」「竹をとるによごとに」という場合、朝夕を無視して「よ」に節などという、一般ではない当て字をしてはならない。

 また例えば「ありはらのなりひらは、そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。
 ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし」。この対照を無視して、身に負わないとするのは100%誤り。匂わない。言葉巧みなのに匂わせないということ。誰より持っているのにミセないで地味にしている。根拠がないと文意が真逆になる。
 

 また文脈の上の必然性なく、限定解釈してはならない。
 例えば、「その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、 三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」。この「ゐた」が何の説明もなく「座っていた」のことだとされるが誤り。字義でも文脈でも座っていた必然がない。むしろ人などいないはずの所にいたのであるから存在の意味でしかない。座っていたでなければおかしいという文脈でのみ、座っていたとなる。このドグマを、他作品にみだりに適用して、当時の用法などと言っている。

 もう一つの例としては、伊勢初段の「しるよし」に「領る」が通常当てられるが、伊勢全体に領地所有の根拠は皆無であり、文脈上知る由(訳あってという意味)でしかない(奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり)。他の用例として出される徒然草236段(しだのなにがしとかやしる所なれば)の文脈も、不知(なにがし)と対照させているので知る由でしかありえない。それなのに「領る」などとするのは、昔男は大和の筒井の田舎出身で身は卑しく宮仕えに出た(筒井筒・梓弓・さらぬ別れ)という伊勢で貫徹した文脈を完全に無視し、昔男を業平で貴族と解しているからであり、それでこのように文言解釈が珍妙になって歪み、さらにそれが他作品にもそれが及ぼされて正当化される例。これをドグマという(後述)。
 

正しい解釈=正解

 
 

 正しいとは、その通り(right)であること。
 正しい(その通り)には、事実と道理(普遍的価値=人道+論理)の2つのレベルがある。だから事実その通りであっても、人道に反する論理は、究極的には誤り。ちなみに人道とは、天道即ち摂理に服する概念で人間至上主義のことではない。というのが人を超えた理である。理は人が定めるものではなく、認識するだけ。
 

 正解とは、言葉を素直に、無理なくその通りに解すること。例えば、ヤバいの由来は厄場とかではなく夜這い(興奮か非難かは人による)。
 これらの正しさは学者の評価(解釈)では決まらない。言葉が事実と符合し、素直な用法で意味が素直に通っている、道理にかなっているかで決まる。
 

 権威ある・公権力に近い学者の説で正しさか決まるという考え方が、権威主義、権威による論証といい、論もない断定をドグマという。いずれも論理的・人道的に誤りである。
 なお、学説・通説が必ずしも正しくないとはいえ、一般人だから正しいということにはならない。正しいとは、あくまでその通りであること。それは大体その論理展開自体によって明らかになる。
 

誤解と曲解とドグマ

 
 
 誤った解釈(評価)を誤解といい、自らの取りたい結論に合わせて一般的な言葉を曲げることを曲解という。おおよそ、誤解が文脈読解に対応し、文言解釈が曲解に対応する。
 あやまりとは、上記論理に反していることで(事実と評価を区別せず、根拠がなく、本末転倒させ、文言を曲げる)、背理ともいう。
 背理は、狭義には本末転倒のことで(一部の些末から大意を定義し、不都合なことは無視する)、これが誤りの中核である。
 

 誤解の例は、昔男が在五とみなすことであり、貫之が女を装っているというものである。

 曲解の例は、募ったが募集していない、けぢめ見せぬ心が大らかに愛する心、思い上がりが自信があるなど。
 

 誤解や曲解を正当化するために、文脈の根拠を示さず無視して断定することを正当化あるいはドグマという。「ゐる」が座っている、「しるよし」が領る、「よごと」が節ごとなど。慣用句化していない珍妙な当て字はドグマ。辞書と教科書に載せてもドグマ。なぜなら論理上根拠がないからである。