万葉集の編纂者=人麻呂と赤人。家持は後付け

目次 万葉集
編纂者
万葉集=万侶(人麻呂)集
全体の配置

 
 万葉集は、柿本人麻呂とその没後の山部赤人の選歌集(1~4、6~16。5巻憶良)。
 一般には、17~20巻で主体となる家持の編纂とされるが、本末転倒で誤り。
 それをここで証明する。
 

目次
現状の理解(家持説)の問題
万葉集=安万侶集=人麻呂集
編纂者たる配置
歌の配置
人麻呂(1-4巻)
憶良(5巻)
赤人(6-16巻)
家持(17-20巻)

 


 

 

現状の理解(家持説)の問題

 
 
 まず参考までに、現状の大方の認識を総合したと思われる説明を提示しよう。これにより家持編纂説の問題点とその背景を示す。
 (家持で問題があるから人麻呂と赤人なのではない。長くなるので興味に応じて次の万葉集=安万侶集=人麻呂集を参照されたい)
 

 「『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。」

 「契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」など)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16と17の間で分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。」(wikipedia/万葉集
 

 前段は概ね妥当だろう。
 しかし最有力とあるが、これは優勢というより通説とできない状態を表していると思う。その象徴が冒頭の表現。説自体は圧倒的に受け入れられている。
 教科書や学者的には「未詳」や「家持が何らかの形でかかわった」などという表現になるが、巷の参考書などでは、ほぼ留保なく家持が編纂者とされる。
 つまり前者が家持と出すことにより、後者に刷り込まれ、その細かい意味が理解されていない。そうした刷り込みこそ家持編纂説が流布し続ける理由と思う。
 伊勢の業平主人公説と全く同様。細かい根拠は関係ない。多く言われているからそうみなしている。しかしその根拠の理論的実態はこうである。追従の国。
 

 そしていきなり「最終的にまとめられた」とされているが、まとめたとは何のことを言っているのだろう。どう見ても付け足しまくっただけ。
 だから8巻で四季の配分が乱れている(夏に家持が多く付け足し、春とほぼ同数になる。47:46)。
 かたや無名が支配的で付け足せない10巻では夏は春の半分以下、こちらが本来(125:59。8巻でも家持影響部分を除けば、25:8。古今も同様。134:34)。
 

 また勅撰説、これが真っ先にくることが、古典解釈の極めて問題ある態度を象徴している。
 このようにまず公の配下にしようとする解釈態度が、頑なに家持編纂にする説の背景といえる。
 つまり明示ない限り、無名の卑官の作品にはしたくない(卑官は前には出れない。だから事実上認めない)。認めれば面子がつぶれる。これが未開集団の発想(公は閉鎖的な朝廷。パブリック=民と結びつかない・公開ではない公。貴族皇族)。実力など関係ない。権力でどうでもできると思う。だからヨイショ記録を持ち出し、それを根拠に上流貴族のものにしたがる(そういう風潮を断固戒めたのが貫之の仮名序)。
 そういう思い込みの典型が、伊勢を業平の歌とみなし続け、どんなに無理が生じても古今の業平認定を奉じ、伊勢が常に業平を非難してもその度に言葉を曲げて伊勢の誤りや勘違いとみなすこと。古今の業平認定を正面から誤りとする説は皆無だろう。出典となりうる書物は伊勢以外に確認されてもいないのに。
 これは論理の次元の問題ではなく、認識の問題。
 

 橘諸兄(=皇族)説などはかませだろうが、万葉記述上にその根拠たる特別性を全く見出せない。最高実力者を無視してあげる時点でナンセンス。
 この説も上記の文脈で説明できる。公の権力秩序の絶対視。それを覆されると色々保てなくなる。
 この点、紫や清少納言は権力秩序の完全埒外、しかもフィクションや随筆なので、どれだけ上げても問題ない。それで揺るがされないから。だから伊勢竹取の解釈が揺るがされる部分は欠落させる。扱わなければそれでいい。自分達の解釈を注として当然の答えのように補えばいい。
 不都合なことは認めない。公にとって都合が悪い検証はしない、正当化のための検証なら認める。それ以外の個人の独自研究は認めない・関係ない。査読がないとでも言っておけばいい。つまり自分達が認めなければいい。それがこの国の(公の)伝統的な基本姿勢。
 

 そして後段のように16巻で切れる説が提示されているにもかかわらず、家持の影響を全体に波及させようとし続け、編纂に関し人麻呂と赤人の名が不自然なまでに出ないことが、万葉解釈の最大の問題。
 人麻呂と安万侶が編集ですらなく関与の可能性とされ、かたや家持などを編纂扱いする人が圧倒的多数。なぜか。上記の理由である。公万世。しかし万葉はそのような人物に相応の歌集だろうか。そして一般は、万葉と人麻呂をも公万世と、そう見ているのである。だったら一見して意味がとりがたい万葉1の歌は何か。なぜ一番大事な先頭から無名の民と交わる歌にして、わが大君は神にしないのか? 答えは一つ。それは一番(=大事)ではないから。
 

 この国を代表する歌集の撰者の貫之に歌聖とされた人を軽んじる。歌の神ともされる特別な二人を軽んじる。
 今日海外の一般の人々にも知られるほどの百人一首を撰した定家に、別格の配置を作られた二人を軽んじる。
 

 実績がない人の論評より、その分野の歴史的実力者の論評が優先するのは当然のこと。そしてその両者の知見を履がえすに足りるめざましい見解は何もない。だから前段の一番最初の表現になっている。まして貫之も定家も高度に学者的態度を有し、そして何よりいずれも自身で最高レベルの歌集を撰した存在である。にもかかわらず、その先達の見解を軽んじる。それが古の道を辿ろうとする態度だろうか。いや、軽んじているというより、その意味がわかってない。
 

 貫之は、古今の業平認定(つまり当時から今まで続く圧倒的通説)を配置により否定した。
 文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平は恋三で敏行(義弟)により連続を崩す。
 これに意味を見れないのは歌の完全素人。しかしこのような指摘は皆無だろう。
 そしてここでも、万葉同様の構図が出現する。
 伊勢物語の象徴の一人、二条の后に仕えた男(伊勢95段)、それを裏づける完全オリジナルの二つの歌と、東下りの証拠(三河行き)を古今にもつ文屋。
 それが著者の候補にあげられることは一度もなく、「在五」で「けぢめ見せぬ心」(63段)としているのに、著者は業平を思慕した人物と驚天動地の言説で、著者候補として貴族皇族がこれでもかと思いつきで羅列される。しまいに著者複数説まで言い出された。もはや確信的。
 だからこのような古典成立の分析は、論理考証の次元ではなく、物事をありのまま認識できるかの問題が根本にある。
 

 あらゆる事実に無理なく即し、説明が通らない所を安易に曲げない。(例:最終的にとりまとめた)
 これは最初に与えられた答えを絶対視することに由来するだろう。刷込み。意識の埒外にある原理を認めない(それを自分に留保しない)とそうなる。
 だから正解や通説とされることはまず基本的に留保する。通っていないなら、そういうものだとせず自分の頭で検証する。それが知性ある者の基本的な態度。
 それがほぼ皆無だから、大きな方向転換(革命)やブレイクスルーがない。与えられた枠組みの中でのみ考え動く。その外は全く考えない。総合できない。
 
 

万葉集=安万侶集=人麻呂集

 
 
 人麻呂は古事記編纂の太安万侶。万侶=人麻呂(字形)。万侶集で万葉集。卑官、歌物語、相応の影響力、没723と724(安万侶の死で活動停止)。
 これが名前の王道解釈。ただし表向きは貫之の解釈「万のコトの葉」でよい。名前を伏せるのがポリシーだから(1の歌)。だからクサグサの歌から始まる。
 葉を歌に例えた説、万葉は万代説、なんのかかりもない。何よりその表現自体がナンセンス。そういう説明は根拠を検討するまでもなく妥当しない。
 

 家持は全体と各巻に後付けしただけで、万葉冒頭と中核の性質(無名・簡潔さ)と全く相容れない。
 山柿の門(柿本人麻呂と山部赤人、つまり赤人は人麻呂の弟子)は辿らず、と17巻でいきなり自称してすらいる(3969題詞)。
 人麻呂のシンプルさを継承した赤人、この二人のみ貫之と定家に別格扱いされている。その精神と相容れない家持は万葉の編纂者と言えず、むしろ簒奪者。
 

 万葉・古今・新古今、この三つが様々な教科書において、確実にワンセットで紹介される特別な歌集である。
 その古今・新古今を編纂した最高の実力者、最高の敬意を払われる貫之と定家が、万葉で評価しているのは人麻呂と赤人であり、家持ではない。
 貫之は(万葉時代で)人麻呂のみ例外として古今に採用し、仮名序では人麻呂と赤人のみ言及している。
 定家は百人一首3・4の配置でサンシ(山柿)の門をまず立てて(1・2の歌はこの両者の精神を体現した作品)、家持は6で万葉に存在しない無名の猿丸以下。
 そして共に憶良は出さない。妥当である。
 

 彼ら(貫之・定家)がこのように扱った根拠を提示しよう。歌の表現の巧拙という評価が分かれうる次元の話ではない。彼らは配置を見ている。
 彼ら二人は、歌と人の配置の意味を知るひとりふたり。人麻呂と赤人以外では、彼ら以外いない。だから彼らが関与した作品は別格なのである。
 

 特に貫之の仮名序での赤人評は、万葉における二人の堅固な配置を受けている。
 「人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける」
 ここでの「かたく」とは、人麻呂歌集をまず先に厚く固めて、続けて、自身を無名で圧倒的な厚みで配置する赤人の配置のこと(7、10~12巻)。
 さらに家持の付加により四季の配分等が乱されても、そんなことではこの盤石の配置は揺るがないという意味でもある(圧倒的無名の花鳥風月、10巻)。
 このような花鳥風月こそ赤人の象徴であり、それを厚くかつシンプルに、しかし先に人麻呂歌集を立てうる人は「山柿の門」とされる赤人の他にありえない。
 

 憶良は先行する人麻呂を完全に無視し、かつ極めて冗長な題詞を羅列する独自路線に走っているので論外なのである(家持の記述も同旨)。
 その冗長な詞書が突如連続出現する憶良主体の5巻、しかも歌ですらない題詞から令和がとられたことは象徴的。しかも男達の花見宴会の歌。
 宴歌は、憶良と家持の特徴である。宴歌と題詞にある歌117首のうち、85首が17巻以降(72.6%)。
 1巻では一番末尾の一首のみ、次に出てくるのが3巻の憶良の一首、次が6巻。つまり人麻呂は宴会での歌を最下等に見て極力排除している。
 歌は繊細な心をあらわす芸術作品なのだから(少なくとも誰よりそういう挟持がある)、当然のこと。
 しかしあえてそこからとっているのである。これが現状の一般の(公の)理解。それをよく象徴している。
 
 

編纂者たる配置


 
 歌集には、配置・歌の選定によって全体に精神的影響を及ぼす編纂者たる配置があり、これは単に数の多さだけで判断されるものではない。
 それを万葉に適用すれば、人麻呂とそれを受けた赤人の歌集で家持は後付けと見れるわけだが、ここではこの編纂者たる配置を具体的に説明しよう。
 

 17巻以降は一般に家持私選集のように目されていると思われるが、その根拠となるのが、全体で最も目立って厚い連続配置だろう。

 17巻以降はそれが目立つから家持の編纂、さらに最後の巻をまとめたから万葉全体まで、とそう言われる訳である(それ以外に家持編纂の根拠がない)。
 
 しかし、家持は家名有名を高らかに歌う人物なので(※)、全体的にこれみよがしで目につくのであり(19巻は冒頭から55首家持連続)、控える人が編纂すれば、当然目立たなくなる。(※20/4465:祖の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫の伴)
 

 17巻以外の、より繊細なレベルで見ても、冒頭・中核の連続配置、重要人物との近接配置がある。それが古今の貫之同様の編纂の配置である。
 そしてそのような配置をもつのは、人麻呂、赤人、憶良、家持の4名だけである。
 (連続する女性は、人麻呂や家持等とやりとりした相手で主体とは見れない。また笠金村等も目立って連続はする所もあるが、全体としては一貫せず、それらの連続がある所には、上記4者のそれ以上の連続が必ずある)
 

 そして後2者(憶良、家持)の配置と題詞は、それまで支配的だった構成(1~4巻、6~16巻)と全く相容れず、かつ巻も短い(5巻、17~20巻)。
 題詞は日記調で冗長で、配置も一首ごと別人で錯綜する部分があり、4巻までの人麻呂のシンプルさと真逆である。
 つまりこの2者は万葉の本質と相容れない。万葉は万侶集なので。
 万葉全体の構造でみれば、人麻呂が支配的配置において先頭であり、肝心・中核は、圧倒的な人麻呂歌集と無名(赤人)の歌である。
 

 さらに人麻呂が立てた大雑把な歌分類の項目立ても、この両者(憶良、家持)が主体の巻には実質存在しない。
 憶良が5巻で雑歌のみ(8巻の春夏秋冬があるが、これは春夏を担当する赤人の先導。同じ春夏秋冬の10巻との対比でもそう言える)、家持に至っては皆無。
 つまりこの両者は、アカデミックに整理する態度ではなく思いつきレベル(ひたすら分類すればいいというものでもないが)。
 

 またいくら後半~末尾で連続しても、完成していた物への付け足しなら、編纂の配置といえないのは当然のこと。
 加えて後半は、配置的に良い意味を持たない(下位)。
 

 ただし最重要の結論を先に出さない場合の例外的配置、結論=トリ=ボスの場合は別である。
 だからこそ、16巻末尾に厚い憶良や乞食者がいるのであり、16巻こそが本来の万葉の最後である。というのに相応しい配置である。
 素朴に見れば、憶良は赤人の兄弟子である。そうでないと、5巻でいきなり主体となり、構成が明らかに人麻呂とずれている憶良を最後に立てる理由がない。
 乞食者は古事記を記した人麻呂=安万侶=稗田アレ=槐本=柿本(9/1715)の歌。乞食が長歌2首など残しようがない。(因みに1716は憶良)
 誰がそれを聞いて残したのか。乞食のつぶやきを採録でもしたのか。だから表記通りの意味ではない。
 
 つまりこれらは実は赤人の目上を立てた配置。一番最後「怕物歌」は、恐ろしい者(ボス・ラスボス)という配置と見れる。
 「怕」はおそれ(ここでは畏怖)の意味の字で、今は亡き先達を敬って追悼した歌。
 「天にあるや」「沖つ国(=彼岸)」「人魂の」の三首。
 最後の人魂は槐本(人麻呂)の魂である。それ以外のストーリーはありえない。これ以上によく通る筋がない。実力者達が認める実力通りに。
 
 だからこの後に堂々と付け足せるセンスは、到底考えられない。
 配置でいえば下の下。最低。万葉最後の三首家持。ここに含みはない。
 何の含みもなく、前面に出すのが家持であるから。
 
 

歌の配置


  
 歌の配置は、人麻呂が1~4巻を編纂し、赤人が6~16巻を編纂し、家持は17巻以降及び、付加が可能な巻に付け足した。
 17巻以降が家持主体の歌集と目されることと対比し、人麻呂と赤人がそう言われないのは、自分は無名にし(赤人)、名称を抽象化し控える(人麻呂)からである。
 

 4巻以降、基本的に端的な人麻呂認定はほぼなくなり、基本的に人麻呂(歌)集となる。
 つまり古事記を編纂し終え(712年)、その後いわば続編として万葉集を編纂し(万葉2は古事記下巻直後の天皇)、4巻を終えて没した(723年)。
 先頭を雄略にしたのは、古事記の文脈(モモシキ=神の顕現により、自身を神と思う天皇を戒めた)もあるが、古事記最後の推古は帝紀のみで物語はない事、女性を最初にすれば色々まずかろう(残せない可能性がある)、そんな所と思う。
 

 配置を見るときは、まず先頭とその周辺、中核(肝心)を見る。そこに特徴的な配置があるか。前後を無意味に切り離すのではなく筋を通して見る。
 頭と中核と、その他各部は同列ではない。人体と一緒である。そこが命。先頭が精神(解釈の方向性)、中核こそ肝心(全体を動かす者)である。
 頭をおされば、後はその通りになる。あたかもヘッダーの内容が全てに波及するように。
 それを根本から履がえすことは下位では不可能(局所的に否定することはできるが=3969題詞)。正統の後継者、上位の実力のみそれが可能なのである。
 物理的な頭が大事なのではなく、それを動かす心・動機が肝心。それを司る精神。精神論が幼稚なら、その世界は超えない。
 感覚や暗記で論理は体系的に組み立てられない。その際たるものが配置である。だから誰も読めない。単なる時代順や数の多さとしか読めない。
 
 

人麻呂(1-4巻)

第一巻 配置(84首)
 ここでは中核の厚い人麻呂に注目されたい。このような一見して目につく支配的配置が編纂者の配置である(ただし冒頭と中核に限る。それ以降はしようと思えば付け足せるため)。76-80の配置は、1-2と相俟ってより端的に古事記を受けており、この無名も人麻呂=安万侶である。また恐らく高市黒人は赤人の別名。だから柿★の直後にいる。このような配置は他にもある。9巻参照。
雑歌(84首)
1
雄略◇ 
2
舒明◇ 
3
中皇命
間人老
4
中皇命
間人老
5
軍王
 
6
軍王
 
7
額田王 
8
額田王 
9
額田王 
10
中皇命
間人皇女
11
中皇命
間人皇女
12
中皇命
間人皇女
13
中大兄
天智◇
14
中大兄
天智◇
15
中大兄
天智◇
16
額田王 
17
額田王 
18
額田王 
19
井戸王 
20
額田王 
21
大海人
天武◇
22
吹芡刀自
23
時人
 
24
麻続王 
25
大海人
天武◇
26
大海人
天武◇
27
大海人
天武◇
28
持統◇ 
29
柿★
 
30
柿★
 
31
柿★
 
32
高市黒人
33
高市黒人
34
川島皇子
35
阿閇皇女
36
柿★
 
37
柿★
 
38
柿★
 
39
柿★
 
40
柿★
 
41
柿★
 
42
柿★
 
43
人麻呂妻
44
石上麻呂
45
柿★
 
46
柿★
 
47
柿★
 
48
柿★
 
49
柿★
 
50
役民
 
51
志貴皇子
52
未詳
 
53
未詳
 
54
坂門人足
55
調首淡海
56
春日蔵首老
57
長忌寸意吉麻呂
58
高市黒人
59
誉謝女王
60
長皇子 
61
舎人娘子
62
春日老 
63
山上憶良
64
志貴皇子
65
長皇子 
66
置始東人
67
高安大嶋
68
身人部王
69
清江娘子
70
高市黒人
71
忍坂部乙麻呂
72
藤原宇合
73
長皇子 
74
文武◇ 
75
長屋王 
76
元明◇ 
77
御名部皇女 
78
元明◇ 
79
未詳
 
80
未詳
 
81
長田王
 
82
長田王
 
83
長田王
 
84
長皇子
 
 
第ニ巻 配置(85~234:150首)
相聞(56)・挽歌(94)
相聞(56首)
        85
磐姫
 
86
磐姫
 
87
磐姫
 
88
磐姫
 
89
古歌
 
90
衣通王古事記89
91
天智◇ 
92
鏡女王 
93
鏡女王 
94
内大臣藤原卿
95
内大臣藤原卿
96
久米禅師
97
石川郎女
98
石川郎女
99
久米禅師
100
久米禅師
 
 
101
大伴安麻呂
102
巨勢郎女
103
天武◇ 
104
藤原夫人
105
大伯皇女
106
大伯皇女
107
大津皇子
108
石川郎女
109
大津皇子
110
草壁皇子
111
弓削皇子
112
額田王 
113
額田王 
114
但馬皇女
115
但馬皇女
116
但馬皇女
117
舎人皇子
118
舎人皇子
119
弓削皇子
120
弓削皇子
121
弓削皇子
122
弓削皇子
123
三方沙弥
124
園生羽女
125
三方沙弥
126
石川女郎
127
大伴田主
128
石川女郎
129
石川女郎
130
長皇子 
131
柿★
132
柿★
133
柿★
134
柿★
135
柿★
136
柿★
137
柿★
138
柿★
139
柿★
140
柿★
挽歌(94首)
141
有間皇子
142
有間皇子
143
長意吉麻呂
144
長意吉麻呂
145
山上憶良
146
柿◆
 
147
倭皇后 
148
倭皇后 
149
倭皇后 
150
婦人
 
151
額田王 
152
舎人吉年
153
倭皇后 
154
石川夫人
155
額田王 
156
高市皇子
157
高市皇子
158
高市皇子
159
持統◇ 
160
持統◇ 
161
持統◇ 
162
持統◇ 
163
大伯皇女
164
大伯皇女
165
大伯皇女
166
大伯皇女
167
柿★
 
168
柿★
 
169
柿★
 
170
柿★
 
171
舎人
172
舎人
173
舎人
174
舎人
175
舎人
176
舎人
177
舎人
178
舎人
179
舎人
180
舎人
181
舎人
182
舎人
183
舎人
184
舎人
185
舎人
186
舎人
187
舎人
188
舎人
189
舎人
190
舎人
191
舎人
192
舎人
193
舎人
194
柿★
195
柿★
196
柿★
197
柿★
198
柿★
199
柿★
200
柿★
 
 
201
柿★
 
202
桧隈女王
203
置始東人
204
置始東人
205
置始東人
206
置始東人
207
柿★
 
208
柿★
 
209
柿★
 
210
柿★
 
211
柿★
212
柿★
213
柿★
214
柿★
215
柿★
216
柿★
217
柿★
218
柿★
219
柿★
220
柿★
221
柿★
 
222
柿★
 
223
柿★
 
224
妻依羅娘子
225
妻依羅娘子
226
丹比真人
227
丹比真人
228
河邊宮人
229
河邊宮人
230
笠金村 
231
笠金村 
232
笠金村 
233
笠金村?
234
笠金村?
           
 
第三巻 配置(235~483:249首)
雑歌(155)・譬喩歌(25)・挽歌(69)
雑歌(155首)
        235
柿★
236
持統
237
志斐嫗
238
長忌寸奥麻呂
239
長忌寸奥麻呂
240
柿★
241
柿★
242
弓削皇子
243
春日王
244
弓削皇子
柿◆
245
長田王
246
長田王
247
石川宮麻呂
248
長田王
249
柿★
250
柿★
251
柿★
252
柿★
253
柿★
254
柿★
255
柿★
256
柿★
257
鴨君足人
258
鴨君足人
259
鴨君足人
260
鴨君足人
261
柿★
262
柿★
263
刑部垂麻呂
264
柿★
265
長忌寸奥麻呂
266
柿★
267
志貴皇子
268
長屋王
269
阿倍女郎
270
高市黒人
271
高市黒人
272
高市黒人
273
高市黒人
274
高市黒人
275
高市黒人
276
高市黒人
277
高市黒人
278
石川少郎
279
高市黒人
280
高市黒人
281
高市黒人妻
282
春日蔵首老
283
高市黒人
284
春日蔵首老
285
丹比笠麻呂
286
春日蔵首老
287
石上卿 
288
穂積老
289
間人大浦
290
間人大浦
291
小田事勢能山
292
角麻呂
293
角麻呂
294
角麻呂
295
角麻呂
296
田口益人大夫
297
田口益人大夫
298
弁基
299
大伴旅人
300
長屋王
 
 
301
長屋王
302
阿倍広庭
303
柿★
304
柿★
305
高市黒人
306
安貴王
307
博通法師
308
博通法師
309
博通法師
310
門部王
311
按作村主益人
312
藤原宇合
313
土理宣令
314
波多小足
315
大伴旅人
316
大伴旅人
317
赤☆
318
赤☆
319
高橋虫麻呂
320
高橋虫麻呂
321
高橋虫麻呂
322
赤☆
323
赤☆
324
赤☆
325
赤☆
326
門部王
327
或娘子
328
宰少貳小野老
329
大伴四綱
330
大伴四綱
331
大伴卿=旅人
332
大伴卿
333
大伴卿
334
大伴卿
335
大伴卿
336
沙弥満誓
337
山上憶良
338
大宰帥大伴卿
339
大宰帥大伴卿
340
大宰帥大伴卿
341
大宰帥大伴卿
342
大宰帥大伴卿
343
大宰帥大伴卿
344
大宰帥大伴卿
345
大宰帥大伴卿
346
大宰帥大伴卿
347
大宰帥大伴卿
348
大宰帥大伴卿
349
大宰帥大伴卿
350
大宰帥大伴卿
351
沙弥満誓
352
若湯座王
353
釈通観
354
日置少老
355
生石村主真人
356
上古麻呂
357
赤☆
358
赤☆
359
赤☆
360
赤☆
361
赤☆
362
赤☆
363
赤☆
364
笠金村
365
笠金村
366
笠金村
367
笠金村
368
石上大夫
369
石上大夫
370
阿倍広庭
371
門部王
372
赤☆
373
赤☆
374
石上乙麻呂
375
湯原王
376
湯原王
377
湯原王
378
赤☆
379
大伴坂上郎女
380
大伴坂上郎女
381
筑紫娘子
382
丹比真人國人
383
丹比真人國人
384
赤☆
385
仙柘枝
386
仙柘枝
387
仙柘枝
388
389
 
譬喩歌(25首)
  390
紀皇女
391
沙弥満誓
392
大伴百代
393
沙弥満誓
394
余明軍
395
笠郎女
396
笠郎女
397
笠郎女
398
藤原八束
399
藤原八束
400
大伴駿河麻呂
 
 
401
大伴坂上郎女
402
大伴坂上郎女
403
404
娘子
405
佐伯赤麻呂
406
娘子
407
大伴駿河麻呂
408
409
大伴駿河麻呂
410
大伴坂上郎女
411
大伴坂上郎女
412
市原王
413
大網公人
414
 
挽歌(69首)
  415
聖徳太子
416
大津皇子
417
手持女王
418
手持女王
419
手持女王
420
丹生王
421
丹生王
422
丹生王
423
山前王
柿★
424
山前王
425
山前王
426
柿★
427
刑部垂麻呂
428
柿★
429
柿★
430
柿★
431
赤☆
432
赤☆
433
赤☆
434
河邊宮人
435
河邊宮人
436
河邊宮人
437
大宰帥大伴卿
438
大宰帥大伴卿
439
大宰帥大伴卿
440
大宰帥大伴卿
441
倉橋部女王
442
膳部王
443
大伴三中
444
大伴三中
445
大伴三中
446
大宰帥大伴卿
447
大宰帥大伴卿
448
大宰帥大伴卿
449
大宰帥大伴卿
450
大宰帥大伴卿
451
大宰帥大伴卿
452
大宰帥大伴卿
453
大宰帥大伴卿
454
余明軍
455
余明軍
456
余明軍
457
余明軍
458
余明軍
459
余明軍
460
大伴坂上郎女
461
大伴坂上郎女
462
463
大伴書持
464
465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
高橋
482
高橋
483
高橋
             
 
第四巻 配置(484~792:309首)
 ここで末尾に家持が大量に出現するが、3巻末尾に予兆があった。4巻までが特別な人麻呂歌集=万侶集で原万葉集だから、4巻の末尾に大量に家持が付加されていることは、現在の万葉の構図を完璧なまでに投影している。つまり元々の万葉は4巻までで、年代順に整理して家持が最後にいるのではない。付け足してそうなっただけ。でなければ冒頭のサン・シの巻に入りこんで自分を羅列しつつ、17巻以降で人麻呂を完全無視することはありえない。つまり家持はそういう人物。下のものは俺らのもの。それがこの国の貴族・公の嗜みである。だからノーブレスオブリージュに対応する言葉が形だけでもないのである。金と権力しか興味がない。統治を語っても動機はそこにある貧国。
相聞(309首)
      484
難波天皇妹
485
崗本◇ 
486
崗本◇ 
487
崗本◇ 
488
額田王 
489
鏡王女 
490
吹芡刀自
491
吹芡刀自
492
舎人千年
493
田部忌寸櫟子
494
田部忌寸櫟子
495
田部忌寸櫟子
496
柿★
 
497
柿★
 
498
柿★
 
499
柿★
 
500
碁檀越妻
 
 
501
柿★
 
502
柿★
 
503
柿★
 
504
柿★
 
505
安倍女郎
506
安倍女郎
507
駿河婇女
508
三方沙弥
509
丹比真人笠麻呂
510
丹比真人笠麻呂
511
當麻麻呂大夫妻
512
草嬢
 
513
志貴皇子
514
阿倍女郎
515
中臣東人
516
阿倍女郎
517
大将軍大伴卿
518
石川郎女
519
大伴女郎
520
大伴女郎
521
常陸娘子
522
京職藤原大夫
523
京職藤原大夫
524
京職藤原大夫
525
坂上郎女
526
坂上郎女
527
坂上郎女
528
坂上郎女
529
大伴坂上郎女
530
◇:聖武 
140首・中略
671

 
672
安倍蟲麻呂
673
大伴坂上郎女
674
大伴坂上郎女
675
中臣女郎
676
中臣女郎
677
中臣女郎
678
中臣女郎
679
中臣女郎
680
681
682
683
大伴坂上郎女
684
大伴坂上郎女
685
大伴坂上郎女
686
大伴坂上郎女
687
大伴坂上郎女
688
大伴坂上郎女
689
大伴坂上郎女
690
大伴三依
691
692
693
大伴千室
694
廣河女王
695
廣河女王
696
石川廣成
697
大伴像見
698
大伴像見
699
大伴像見
700
 
 
701
河内百枝娘子
702
河内百枝娘子
703
巫部麻蘇娘子
704
巫部麻蘇娘子
705
706
童女
 
707
粟田女娘子
708
粟田女娘子
709
粟田女娘子
710
安都扉娘子
711
丹波大女娘子
712
丹波大女娘子
713
丹波大女娘子
714
715
716
717
718
719
720
721
大伴坂上郎女
722
723
724
大伴坂上郎女
725
大伴坂上郎女
726
大伴坂上郎女
727
728
729
大伴坂上大嬢
730
大伴坂上大嬢
731
大伴坂上大嬢
732
733
734
735
大伴坂上大嬢
736
737
大伴坂上大嬢
738
大伴坂上大嬢
739
740
741
742
743
744
745
746
747
748
749
750
751
752
753
754
755
756
大伴田村之大嬢
757
大伴田村之大嬢
758
大伴田村之大嬢
759
大伴田村之大嬢
760
大伴坂上郎女
761
大伴坂上郎女
762
紀女郎 
763
紀女郎 
764
紀女郎 
765
766
767
768
769
770
771
772
773
774
775
776
紀女郎
777
778
779
780
781
782
紀女郎 
783
784
785
786
787
788
789
790
791
藤原久須麻呂
792
藤原久須麻呂
               
 

憶良(5巻)

 

 5巻になり、見た瞬間に憶良が主体であることがわかる(これまでの人麻呂同様の配置にあり、加えて、人麻呂が一首もなくなる)。
 またこれまでの配置の傾向と異なる(中核がごちゃつく=815は花見宴会の歌。宴歌は1巻で最低の配置にある)。

 この巻は「山柿之門」(3969題詞)の山の一人、山上憶良が人麻呂の死後その歌集を乗っ取った。そういう万葉全体の配置。
 令和とあえてこの5巻から引用した発想もこれ。万葉集の内実などどうでもいい。その名前さえあれば何でもいい。
 花見の会で紹介できるようなのがいいですねでそうなったか、余裕の花見宴会に統治の象徴性を見出したかのかもしれない。
 

 このような暴挙を受け、この巻以降もう一人の山の山部赤人がそれを押し留め、中核に人麻呂歌集を厚く配置する。
 山に山上憶良の意味はないならそれでいい。確かに実質はそうである。しかし5巻でいきなり憶良が主体になる説明はこれしかありえない。
 だから一般の見解により憶良は破門されている。というのも、貫之も定家も完全に無視しているからである。
 万葉集は万侶集、人麻呂集なのに私物化したから。古事記の太安万侶。安万侶こそ万葉の柿本人麻呂の本名。
 万侶=人麻呂(形)。卑官、歌物語、相応の影響力、没723と724。よって、万葉の編纂者は人麻呂及び、その精神を受けた赤人のみである。
 

 したがって、5巻は万葉の精神と相容れない。
 当然、家持はもっと相容れない。人麻呂を直接否定し(3969題詞)、自身は冒頭にみだりに入り込みながら、17巻以降人麻呂を完全排除しているから。
 万葉集は古事記の安万侶集。万葉1・2で古事記の続編性を示し、2巻冒頭で古事記(衣通姫の歌)を引用し、16巻最後に乞食者がいる(赤人による追悼)。
 それを特別視しているのが、貫之の仮名序である。それを受けて和歌三神(人麻呂・赤人・衣通姫)。
 

赤人(6-16巻)

 
 6巻から16巻は、人麻呂を立てた赤人の編纂と解する。
 冒頭6巻のみ赤人の微かながら、唯一確かな厚みをもつ編纂の配置、
 そのような配置に見られる謙抑的性格と一致する、7巻・10巻以降に代表される(万葉最大の特徴とも言える)圧倒的厚みの無名の配置、
 6と16という対の数字、
 そして古事記でも重んじられた8の倍数で終わること、
 これは古事記を編纂した安万侶(人麻呂)に忠実であったということである。だから16巻末尾に乞食者がいる。
 これは古事記を象徴する安万侶(人麻呂)に当てているだけで、以下に示す一貫した配置から、下げている表現ではない。一番下だが、サインの意味である。
 

 6巻で赤人の厚い配置が初めて表れる。
 冒頭三者(笠金村・車持千年・赤人)が入り乱れるが、その中でも赤人のみ10首連続であること、要所での配置、万葉全体の流れからして、何らかのパワーバランス(忖度)や関与はあったにせよ、この巻から赤人主体と見れる。末尾の家持が付け足しであることは当然の配置。直前の5巻がそうなっていないのは、憶良が勝手に大伴を立てたからとも言える。ここではまだ赤人の影響は確かなものではないが、以降の流れで確実に決まる。
 
 7巻は、一見して従来と異なる。冒頭が圧倒的無名。しかし先頭1首は人麻呂歌集(象徴的なのが、人麻呂歌集と並ぶ無名の伊勢随行歌。9巻冒頭参照)。
 雑歌・譬喩歌という前後半で、前半は無名を基本に散発的に人麻呂歌集。後半は、古集・人麻呂歌集・無名をそれぞれ厚く配置する。
 雑歌では、本当の不知や自分を織り交ぜているフシがあるが、後段の譬喩歌に入ったら、古歌・人麻呂歌集・無名と厚く固められており、この末尾の無名は赤人と解される。その根拠がそれに続く8巻の配置である。
 
 8巻では、春夏秋冬という新たな分類が出現し、これを人麻呂の基本分類(雑歌・相聞)と掛け合わせる。この人麻呂と分類を重んじる姿勢がまず一つの赤人の根拠。さらに春夏は赤人、秋冬を憶良が担当。7巻の古歌との対比で先人は含めないとしたと思われる。配置こそ秋冬が厚いが、これは憶良を形式上重んじた赤人の配慮と解される。しかし配置の上では全体の流れとあいまって赤人が上。ここで夏が家持の異様な厚みによって春とほぼ同値になることは家持の歌の理解のなさを表している。
 なお、ここで家持による付け足しにより、四季の配分が崩れることは現状の理解の問題点で述べた(夏に家持が多く付け足し、春とほぼ同数になる。47:46。かたや無名が支配的で付け足せない10巻では夏は春の半分以下、こちらが本来(125:59)。8巻でも家持影響部分を除けば、25:8。古今も同様。134:34)。
 
 9巻は、人麻呂歌集が自然を詠んだものを主体とする。
 先頭が1巻と同じ雄略、冒頭に701年の随行歌の無名が連続、続けて人麻呂歌集。つまり帝へ随行し歌を詠んだのが人麻呂の役割。常設か特別な任かは不明。
 ここの中核に、槐本(柿★)、山上(憶良)、春日(蔵首老)、高市(黒人)、春日、元仁(柿◆)という呼び捨ての配置が連続しており、山柿の門を表していると思われる。つまり1巻でも触れたように黒人が赤人であり、元仁(もとひと)は人麻呂。これらの連続は要所でしばしばある。となると問題は春日蔵首老だが、これも人麻呂ではないだろうか。弁基という別名がクサい。そもそも別名がある時点でクサい。これは稗田のアレ同様、自分での卑下である。だからスサノオがくさいのをまいたり、その報いでオオケツ姫の尻から出されたものを食らわされたりするのである。でなければそんな神話があるかと。
 なお、山柿(サンシ)の門を、百人一首で3・4の配置(人麻呂・赤人)に当てて特別扱いしていることは概要でも述べた。
 

 10巻は、赤人の真骨頂。圧倒的な分量で全て人麻呂歌集と無名の歌。8巻で先行させた春夏秋冬の分類において、人麻呂歌集と花鳥風月の歌を厚く並べる。
 このような風景描写こそ、赤人の歌風そのもの。この巻だけ宙に浮いてあれば別だが、前後の流れからしてもこのような配置を作りうるのは、赤人以外ない。そこまでする動機と能力が、彼以外ない。
 このようにまず人麻呂を立て次に無名で並べる配置をして、貫之の仮名序の赤人評がある。
 「人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける」
 だから貫之もこのように見た。
 

 11巻は、10巻同様、全て人麻呂歌集と無名の歌。古今相聞往来歌類上と題し、これまでにない新たな分類で両者の構図を対比する。
 つまり、旋頭歌、正述心緒:ただにこころを(心緒)述ぶ、寄物陳思:物に寄せて思ひをのぶ、問答、譬喩の5分類。
 先頭の旋頭歌のみ人麻呂歌集の分類で、末尾の譬喩のみ無名の歌がもつ。よってこの配置も人麻呂を立てる赤人によるものである。
 

 12巻は古今相聞往来歌類下。11巻同様、全て人麻呂歌集と無名の歌。
 分類では正述心緒、寄物陳思が共通。人麻呂のみ羇旅發思、無名のみ悲別歌・問答歌をもつ。
 つまり人麻呂が旅をして、赤人がそれを聞いて記したという構成である。それ以外に読みようがない。意味を見ようとするならば。
 いわば、芭蕉と曾良のような関係性。ちなみに曾良は伊勢で藩士をした後、古事記の研究をし、その後、芭蕉に会ったという。
 さらに曾良は惣五郎とも言い、名字も変遷している。
 

 13巻では、人麻呂の分類が総ざらいされるが(雜歌・相聞・問答・譬喩歌・挽歌)、人麻呂歌集という記述はほぼない。ほぼ無名。
 しかし後半の問答は、11~12巻初出で赤人主体の分類と思われるため、この巻は赤人による、人麻呂と赤人の問答集と見れる。
 それで古事記91の歌があるわけで、3253(人麻呂歌集)・3263(古事記91)というピンポイントでパラレルの配置から、人麻呂が安万侶と認知していた。その流れで16巻末尾の乞食者があるわけである。ちなみに古事記89の歌が万葉90にあり、ここでの古事記91も偶然ではない。意図している。
 末尾に調使首が1首、防人妻が若干あるが、素朴に見れば前者は人麻呂。上述の春日蔵首老ともかけて。使い走り(われわれ)のオサという意味かと思う。
 

 14巻では、東歌と防人歌という題が登場する。中身はほぼ無名でわずかに人麻呂歌集。
 その中で、相聞・譬喩歌・雜歌・挽歌という万葉4巻までの分類を忠実に使用する。
 よって、これまでの流れを総合すれば(特に12巻)、人麻呂が諸国に随行して旅に出て(羇旅發思)、赤人がそれを受けて聞いた歌(問答)である。
 つまり出所は人麻呂だが不明でもある。「或本歌曰」とあるもの以外はどこかの本によったのではない。それらは左注が基本なのでそれを翻案したと見れる。
 実際に歌われた一字一句というより、その国の風土・人々の印象・特徴を反映して詠まれたものと思う。
 つまり芭蕉の奥の細道が、あったそのままではなく多少脚色されているとされることと同様である。やはり人麻呂と赤人は、芭蕉と曽良のようなもの。
 

 15巻では、7巻後半のような構成で厚い古集から始まり、しかし同時に左注で人麻呂歌集と対比させ、冒頭の最後を人麻呂と認定する端的な歌でしめくくる。
 端的な人麻呂認定は、4巻より後はほとんどないので、これが連続することは、特別な配慮というか終わりを暗示させる。末尾に具体名も出現し始める。
 冒頭にある古歌にはさまれた「秦間満(はたのはしたまろ)」とは、まず人麻呂の別名称。太安万侶と端的にリンクしている。
 中核の無名部分に、大使・大判官という知性を感じさせる役職が散発することが特徴。帝に近い卑官なら高度の教養があるだろう。だから卑官なのに宮中の嗜みの代名詞である歌が上手いとされているのである。
 貴族の誰より上手くないとそう言われる理由が何一つない。むしろ貴族達にとって目障りな存在。だからこそ家持の狼藉があるし、頭がゆるいのになぜか和歌が上手いという業平主人公説がまかりとっている。歌を元より知らないと伊勢物語が他人目線で評しているにもかかわらず(伊勢101段)。
 

 16巻は、有由縁并雜歌と題され、ここで赤人の巻が終わる。
 顕著な特徴がいくつもあるが、それらはいずれも俗世的なのものではない。それが赤人の特徴。
 冒頭は娘子(さくらこ)の歌物語から始まり、続いて有名な竹取翁の物語。これを竹取物語が念頭に置いていることは当然。
 中核に長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)というこれまた謎の名前があるが、これも人麻呂の可能性が高くなる。もともと怪しい配置ではあった。
 終盤に憶良が10首連続、これは先輩を一応立てたという皮肉(立てているが下の配置である。それより前に家持が2首だけ入り込んでいるが、ここは17巻を付け足すにふまえ、特に家持が意図した付加と思われる)。
 末尾の乞食者2首は古事記にかけた人麻呂=安万侶の歌であることは上述した(13巻参照)。万葉集なので万侶のサインを出し、最後に敬具(怕物歌三首)。
 「怕」はおそれ(多い)の意味の字で、先達を敬った歌。「天にあるや」「沖つ国(=彼岸)」「人魂の」の三首。つまり人麻呂の追悼と鎮魂の歌である。
 
 

家持(17-20巻)

 
 家持の配置は、特に見るべきものもなく、載せると長くなるので、興味があれば別ページの17巻以降の配置図を参照されたい。
 色々並べているが、結局大伴と家持を出したいということはわかる。19巻に至ってはとんでもないことになっている(154首中、家持104首=67.5%)。
 20巻に至っては、ごちゃついて目も当てられない。そんな中でも何とか自分を出したいことはわかる。それで自分で終わらせる。
 

 これは一体何なのだろう。なぜこれがまかり通って、編纂などとされるのだろう。とんでもないこと。しかしそれが最有力という。愕然とする。
 手当たり次第付け足して(8巻の四季が家持により乱れることは上述)、万葉を最終的にとりまとめたなどとされるのだから、万葉の編纂も随分楽勝である。
 つまり万葉をその程度にしか見ていない。だからそう見れる。
 しかし大多数の人々はむしろ家持に近いのだろう。そういう人には古来の歌の実力が何なのかは関係ない。それっぽい歌がありさえすればいい。
 
 万葉を築いてきた精神に反し、冗長で、自分をみだりに羅列し、人麻呂を完全に無視し、山柿の門を辿っていないと自称した時点で、編纂者ではありえない。
 数と肩書で押し切る。最高の実力者の評価も関係ない。
 
 古の理解は本質的に数の問題ではない。正しさは多数決では決まらない。社会の圧倒的多数が高度に洗練された社会ならともかく。
 だから人類普遍の哲学的示唆を与えてきた人々は社会の異端であった。