枕草子82段 頭の中将のすずろなるそら言

御仏名の 枕草子
上巻下
82段
頭の中将の
かへる年の

(旧)大系:82段
新大系:78段、新編全集:78段
(以上全て三巻本系列本。しかし後二本の構成は2/3が一致せず、混乱を招くので、三巻本理論の根本たる『(旧)大系』に準拠すべきと思う)
(旧)全集=能因本:86段
 


 
 頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて、いみじういひおとし、「何しに人とほめけむ」など、殿上にていみじうなむ宣ふ、と聞くにもはづかしけれど、まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてむとわらひてあるに、黒戸の前などわたるにも、声などする折は、袖をふたぎてつゆ見おこせず、いみじうにくみ給へば、ともかうもいはず、見も入れですぐすに、
 二月つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌にこもりて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物やいひやらまし』となむ宣ふ」と、人々語れど、「よにあらじ」などいらへてあるに、日一日下にゐくらして、参り給へれば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。
 

 長押の下に火近く取り寄せて、さしつどひて扁をぞつく。
 「あなうれし。とくおはせ」など、見つけていへど、すさまじき心地して、なにしにのぼりつらむとおぼゆ。
 炭櫃のもとにゐたれば、そこにまたあまたゐて、物などいふに、「なにがし候ふ」と問はすれば、主殿司なりけり。
 「ただここもとに、人づてならで申すべきこと」などいへば、さし出でて問ふに、「これ、頭の殿の奉らせ給ふ。御返りごととく」といふ。
 

 いみじくにくみ給ふに、いかなる文ならむと思へど、ただ今いそぎ見るべきにもあらねば、「往ね。いまきこえむ」とて、ふところにひき入れて入りぬ。
 なほ人の物いふ聞きなどする、すなはちたち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来』となむ仰せらるる。とくとく」といふが、あやしう、、いせの物語なりやとて見れば、青き薄様に、いときよげに書き給へり。
 心ときめきしつるさまにもあらざりけり。
 

♪4
  蘭省花時錦帳下
〔※蘭省花 時の錦の 帳の下〕
 

と書きて、「末はいかに、いかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく、責めまどはせば、ただその奥に、炭櫃に消えたる炭のあるして、
 

♪4-2
 草のいほりを たれかたづねむ
 

と書きつけて、とらせつれど、また返りごともいはず。
 

 みな寝て、つとめて、いととく局に下りたれば、源中将の声にて、「ここに、草の庵やある」と、おどろおどろしくいへば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台ともとめ給はましかば、いらへてまし」といふ。
 「あなうれし。下にありけるよ。上にたづねむとしつるを」とて、よべありしやう、
 「頭の中将の宿直所に、少し人々しきかぎり、六位まであつまりて、よろづの人の上、昔今と語り出でていひしついでに、『なほこの者、むげに絶えはてて後こそ、さすがにえあらね。もしいひ出づることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、今宵あしともよしともさだめきりてやみなむかし』とて、みないひあはせたりしことを、
 『ただ今は見るまじとて入りぬ』と、主殿司がいひしかば、また追ひ返して、『ただ袖をとらへて、東西せさせず乞ひとりて、持て来。さらずは、文を返しとれ』といましめて、さばかり降る雨のさかりにやりたるに、いととく帰りたりき。
 『これ』とて、さし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、みな寄りて見るに、『いみじき人を。なほえこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本つけてやらむ。源中将つけよ』など、夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、行く先も必ずかたり伝ふべきことなり、などなむ、みな定めし」など、いみじうかたはらいたきまでいひ聞かせて、
 「御名をば、今は草の庵となむつけたる」とて、いそぎ立ち給ひぬれば、
 「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、くちをしかなれ」といふほどに、
 修理の亮則光「いみじきよろこび申しになむ、上にやとて参りたりつる」といへば、
 「なんぞ。司召なども聞こえぬを、何になり給へるぞ」と問へば、
 「いな、まことにいみじう嬉しきことの、よべ侍りしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目なることなかりき」とて、はじめありけることども、中将の語り給ひつる、おなじことをいひて、
 「『ただ、この返りごとにしたがひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将の宣へば、あるかぎりかうようしてやり給ひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。
 持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことにわろからむは、せうとのためにもわるかるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来。これ聞け』と宣ひしかば、下心地はいとうれしけれど、『さやうの方に、さらにえ候ふまじき身になむ』と申ししかば、『言くはへよ、聞き知れとにはあらず。ただ、人に語れとて聞かするぞ』と宣ひしなむ、すこしくちをしきせうとのおぼえに侍りしかども、本つけこころみるに、いふべきやうなし。
 『ことに、また、これが返しをやすべき』などいひあはせ、『わるしといはれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。これは、身のためも人の御ためも、よろこびには侍らずや。司召に少々の司得て侍らむは、何ともおぼゆまじくなむ」といへば、げにあまたして、さることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、これになむ、胸つぶれておぼえし。
 このいもうと、せうとといふことは、上までみな知ろしめし、殿上にも、司の名をばいはで、せうととぞつけられたる。
 

 物語などしてゐたるほどに、「まづ」と召したれば、参りたるに、このことおほせられむとなりけり。
 上わたらせ給ひて、語り聞こえさせ給ひて、をのこどもみな、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましく、何のいはせけるにかとおぼえしか。
 

 さてのちぞ、袖の几帳などとり捨てて、思ひなほり給ふめりし。