原文 | 書き下し |
現代語訳 (独自) |
---|---|---|
子曰 | 子曰く、 | 孔子が言うには、 |
溫故而知新 | 故ふるきを温たづねて新あたらしきを知しる、 | 「古の教えを守り、新しいことを知る、 |
可以爲師矣 | 以もつて師しと為なす(△る)可べし。 | これをもって師とすべきである」 |
本章は熟語「温故知新」の由来となった段で、この熟語の意味は一般に「昔の事をたずね求めて、そこから新しい知識・見解を導くこと」と理解されている。
趣旨としては、旧来の知識の現実への応用、敷衍、既存の知識ばかりに囚われず変化に対応せよ、あたりだろう(淘汰されないで残ってきたのが故事で、淘汰されないとは、結果的に新しい変化に対応・アジャスト・適応し続けてきたという意味)。
そして本章にはこれに続いて「可以爲師矣」があり、それと一体で理解する必要がある。
下村湖人訳は「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある」としているが、多少の問題提起をしたい。
「可以為師」は、下村訳のように人としての教師とその資格を認める意味に解するのが通説だが、孔子は求める理想が人類史でも容易に並ぶ者がないほど高く(子曰く、仁に当たっては師に讓らず:15-35)、一般論で師の資格を認める方向にはいかないと思う。
つまりこの世の人の教えは大概当てにならないから、淘汰されて残ってきた故事に師事しながらも、東洋的習わしの暗記的反復ではなく、新しいことも知るという両輪を説き、この一般的な方針・ポリシーを師とせよとしたもので、人としての教師像を説いたものではないと解した。
このような文脈から、「師為」を師たるべし、なるべしという区別ではなく、師となすべしとした。
とはいえ、それが孔子の原意に近いだろうという意味で、情報共有が早い現代では、段階を進めてそういう人物が教師であるべきと捉えても問題ないだろう。