源氏物語 20帖 朝顔:あらすじ・目次・原文対訳

薄雲 源氏物語
第一部
第20帖
朝顔
乙女

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 朝顔のあらすじ

 光源氏32歳の秋から冬の話。

 藤壺の死去と同じ頃、源氏の叔父である桃園式部卿宮が死去したので、その娘、朝顔は賀茂斎院を退いて邸にこもっていた。若い頃から朝顔に執着していた源氏は、朝顔と同居する叔母女五の宮の見舞いにかこつけ頻繁に桃園邸を訪ね、紫の上を不安にさせる。朝顔も源氏に好意を抱いていたが、源氏と深い仲になれば、六条御息所と同じく不幸になろうと恐れて源氏を拒んだ。

 朝顔への思いを諦めた源氏は、雪の夜、紫の上をなぐさめつつ、これまでの女性のことを話して過去を振り返る。その夜源氏の夢に藤壺があらわれ、罪が知れて苦しんでいると言って源氏を恨んだ。翌日、源氏は藤壺のために密かに供養を行い、来世では共にと願った。

(以上Wikipedia朝顔(源氏物語)より。色づけは本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#朝顔(13首:別ページ)
主要登場人物
 
第20帖 朝顔
 光る源氏の内大臣時代
 三十二歳の晩秋九月から冬までの物語
 
第一章 朝顔姫君の物語
 昔の恋の再燃
 第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問
 第二段 朝顔姫君と対話
 第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう
 第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う
 
第二章 朝顔姫君の物語
 老いてなお旧りせぬ好色心
 第一段 朝顔姫君訪問の道中
 第二段 宮邸に到着して門を入る
 第三段 宮邸で源典侍と出会う
 第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす
 第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む
 
第三章 紫の君の物語
 冬の雪の夜の孤影
 第一段 紫の君、嫉妬す
 第二段 夜の庭の雪まろばし
 第三段 源氏、往古の女性を語る
 第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ
 第五段 源氏、藤壺を供養す
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十二歳
呼称:大臣
冷泉帝(れいぜいてい)
桐壺帝の第十皇子(実は光る源氏の子)
呼称:内裏の上・内裏・主上
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の正妻
呼称:対の上・二条院・女君・君
朝顔の姫君(あさがおのひめぎみ)
式部卿宮の姫君
呼称:斎院・前斎院・宮
女五の宮(おんなごのみや)
桐壺院の妹宮
呼称:桃園の宮・女五の宮・宮
源典侍(げんないしのすけ)
呼称:源典侍・祖母殿

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
  朝顔
 
 

第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃

 
 

第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問

 
1  斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。
 大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。
 宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。
 いと口惜しと思しわたる。
 
 斎院は、父宮の御服喪のために退下なさったのである。
 源氏の大臣は、例によって、いったん思い初めたことは諦めないご性癖で、お見舞いなどたいそう頻繁に差し上げなさる。
 姫宮は、かつて困ったことをお思い出しになると、お返事も気を許して差し上げなさらない。
 たいそう残念だとお思い続けていらっしゃる。
 
 
2  長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。
 故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。
 同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。
 ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。
 
 九月になって、桃園宮邸にお移りになったのを聞いて、叔母の女五の宮がそこにいらっしゃるので、その方のお見舞にかこつけて参上なさる。
 故父院が、この内親王方を特別に大切にお思い申し上げていらっしゃったので、今でも親しくそれからそれへと交際なさっていらっしゃるようである。
 同じ寝殿の西と東とにお住みになっていらっしゃるのであった。
 早くも荒廃してしまった心地がして、しみじみともの寂しげな感じである。
 
3  宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。
 いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。
 年長におはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。
 
 叔母宮が、ご対面なさって、お話を申し上げなさる。
 たいそうお年を召したご様子で、とかく咳をしがちでいらっしゃる。
 姉上におあたりになるが、故大殿の三の宮は、申し分なく若々しいご様子なのに、それにひきかえ、お声もつやがなく、ごつごつとした感じでいらっしゃるのは、そうした人柄なのである。
 
4  「院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる」  「院の上が、お崩れあそばして後、いろいろと心細く思われまして、年をとるにつれて、ひどく涙がちに過ごしてきましたが、この宮までがこのように先立たれましたので、ますます生きているのか死んでいるのか分からないような状態で、この世に生き永らえておりましたところ、このようにお見舞いに立ち寄りくださったので、物思いも忘れられそうな気がします」
5  と聞こえたまふ。  とお礼を申し上げになる。
 
 
6  「かしこくも古りたまへるかな」と思へど、うちかしこまりて、  「恐れ多くもお年を召されたものだ」と思うが、かしこまって、
7  「院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」  「院がお崩れあそばしてから後は、さまざまなことにつけて、在世当時のようではございませんで、身におぼえのない罪に当たりまして、見知らない世界に流浪しましたが、幸運にも、朝廷からお召しくださいましてからは、また忙しく暇もない状態で、ここ数年は、参上して昔のお話だけでも申し上げたり承ったりできなかったのを、ずっと気にかけ続けてまいりました」
8  など聞こえたまふを、  などと申し上げなさると、
9  「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」  「とてもとても驚くほどの、どれをとってみても定めない世の中を、同じような状態で過ごしてまいりました寿命の長いことの恨めしく思われることが多くございますが、こうして政界にご復帰なさったお喜びを、あの時代を拝見したままで死んでしまったら、どんなにか残念であったであろうかと思われます」
10  と、うちわななきたまひて、  と、声をお震わせになって、
11  「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。
 童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。
 内裏の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人びと聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ」
 「まことに美しくご成人なさいましたね。
 子どもでいらっしゃったころに、初めてお目にかかった時、真実にこんなにも美しい人がお生まれになったと驚かずにはいられませんでしたが、時々お目にかかるたびに、不吉なまでに思われました。
 今上の帝が、とてもよく似ていらっしゃると人々が申しますが、いくら何でも見劣りあそばすだろうと、推察いたします」
12  と、長々と聞こえたまへば、  と、くどくどと申し上げなさるので、
13  「ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな」と、をかしく思す。
 
 「ことさらに面と向かって人は褒めないものを」と、おかしくお思いになる。
 
14  「山賤になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。
 内裏の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。
 あやしき御推し量りになむ」
 「田舎者になって、ひどく元気をなくしておりました年月の後は、すっかり衰えてしまいましたものを。
 今上の御容貌は、昔の世にも並ぶ方がいないのではいかと、世に類いないお方と拝見しております。
 変なご推察です」
15  と聞こえたまふ。
 
 と申し上げなさる。
 
16  「時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。
 今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ」
 「時々お目にかかれましたら、長い寿命がますます延びそうでございます。
 今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きもみな消えてしまった感じがします」
17  とても、また泣いたまふ。  と言っては、またお泣きになる。
 
 
18  「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。
 この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか」
 「三の宮が羨ましく、しかるべきご縁ができて、親しくお目にかかることがおできになれるのを、羨ましく思います。
 こちらのお亡くなりになった宮も、そのように言って後悔なさる折々がありました」
19  とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。
 
 とおっしゃるので、少し耳がおとまりになる。
 
20  「さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。
 皆さし放たせたまひて」
 「そういうふうにも、親しくお付き合いさせていただけたならば、今も嬉しいことでございましたでしょうに。
 すっかり見限りなさいまして」
21  と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。  と、恨めしそうに様子ぶって申し上げなさる。
 
 
 

第二段 朝顔姫君と対話

 
22  あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、  あちらのお前の方に目をおやりになると、うら枯れた前栽の風情も格別に見渡されて、静かに物思いに耽っていらっしゃるらしいご様子やご器量も、たいそうお目にかかりたくしみじみと思われて、我慢することがおできになれず、
23  「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」  「このようにお伺いした機会を逃しては無愛想になりますから、あちらへのお見舞いも申し上げなくてはなりませんでした」
24  とて、やがて簀子より渡りたまふ。
 
 と言って、そのまま簀子からお渡りになる。
 
25  暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。
 簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。
 
 暗くなってきた時分ではあるが、鈍色の御簾に黒い御几帳の透き影がしみじみと見え、追い風が優美に吹き通して、風情は申し分ない。
 簀子では不都合なので、南の廂の間にお入れ申し上げる。
 
 
26  宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。  宣旨が対面して、ご挨拶はお伝え申し上げる。
 
27  「今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。
 神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」
 「今さら、若者扱いの感じがします御簾の前ですね。
 神さびるほど古い年月の年功も数えられますので、今は御簾の内への出入りもお許しいただけるものと期待しておりましたが」
28  とて、飽かず思したり。
 
 と言って、物足りなくお思いでいらっしゃる。
 
29  「ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」  「今までのことはみな夢と思われ、今、夢から覚めてはかない気がするのかと、はっきりと分別しかねておりますが、その年功などは、静かに考えさせていただきましょう」
30  と、聞こえ出だしたまへり。
 「げにこそ定めがたき世なれ」と、はかなきことにつけても思し続けらる。
 
 とお答え申し上げさせなさった。
 「なるほど無常な世である」と、ちょっとしたことにつけても自然とお思い続けられる。
 
 

309
 「人知れず 神の許しを 待ちし間に
 ここらつれなき 世を過ぐすかな
 「誰にも知られず賀茂の神のお許しを待っていた間に
  長年つらい世を過ごしてきたことよ
 
31  今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。
 なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。
 いかで片端をだに」
 今は、どのような神の戒めにか、かこつけなさろうとするのでしょう。
 総じて、世の中に厄介なことまでがございました後、いろいろとつらい思いをするところがございました。
 せめてその一部なりとも」
32  と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。
 さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。
 
 と、たって申し上げなさる、そのお心づかいなども昔よりもう一段と優美さまでが増していらっしゃった。
 その一方で、とてもたいそうお年も召していらっしゃるが、ご身分には相応しくないようである。
 
 

310
 「なべて世の あはればかりを 問ふからに
 誓ひしことと 神やいさめむ」
 「一通りのお見舞いの挨拶をするだけでも
  誓ったことに背くと賀茂の神がお戒めになるでしょう」
 
33  とあれば、  とあるので、
34  「あな、心憂。
 その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」
 「ああ、情けない。
 あの当時の罪は、みな科戸の風にまかせて吹き払ってしまったのに」
35  とのたまふ愛敬も、こよなし。
 
 とおっしゃる魅力も、この上ない。
 
 
36  「みそぎを、神は、いかがはべりけむ」  「その罪を払う禊を、神はどのようにお聞き届けたのでございましょうか」
37  など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。
 世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。
 
 などと、ちょっとしたことを申し上げるのも、まじめな話、とても気が気でない。
 結婚しようとなさらないご態度は、年月とともに強く、ますます引っ込み思案におなりになって、お返事もなさらないのを、困ったことと拝するようである。
 
38  「好き好きしきやうになりぬるを」  「好色めいたふうになってしまって」
39  など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。
 
 などと、深く嘆息してお立ちになる。
 
40  「齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。
 世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」
 「年をとると、臆面もなくなるものですね。
 世に類ないやつれた姿を、この今は、と御覧くださいとだけでも申し上げられるほどにも、扱って下さったでしょうか」
41  とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。
 
 とおっしゃって、お出になった、その後は、うるさいまでに、例によってお噂申し上げていた。
 
 
42  おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。
 
 ただでさえも空は風情があるころなので、木の葉の散る音につけても、過ぎ去った過去のしみじみとした情感が甦ってきて、その当時の嬉しかったり悲しかったりにつけ、深くお見えになったお気持ちのほどを、お思い出し申し上げなさる。
 
 
 

第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう

 
43  心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。
 とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。
 枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。
 
 お気持ちの収まらないままお帰りになったので、以前にもまして夜も眠れずにお思い続けになる。
 早く御格子を上げさせなさって、朝霧を眺めなさる。
 枯れたいくつもの花の中に、朝顔があちこちにはいまつわって、あるかなきかに花をつけて、色艶も格別に変わっているのを、折らせなさってお贈りになる。
 
44  「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。
 されど、
 「きっぱりとしたおあしらいに、体裁の悪い感じがいたしまして、後ろ姿もますますどのように御覧になったかと、悔しくて……。
 けれども、
 

311
 見し折の つゆ忘られぬ 朝顔の
 花の盛りは 過ぎやしぬらむ
  昔拝見したあなたがどうしても忘れられません
  その朝顔の花は盛りを過ぎてしまったのでしょうか
 
45  年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」  長年思い続けてきた苦労も、気の毒だとぐらいには、いくな何でもご理解いただけるだろうかと、一方では期待しつつ……」
46  など聞こえたまへり。
 おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、
 などと申し上げなさった。
 穏やかなお手紙の風情なので、「返事をせずに気をもませるのも、心ないことか」とお思いになって、女房たちも御硯を調えて、お勧め申し上げるので、
 

312
 「秋果てて 霧の籬に むすぼほれ
 あるかなきかに 移る朝顔
 「秋は終わって霧の立ち込める垣根にしぼんで
  今にも枯れそうな朝顔の花のようなわたしです
 
47  似つかはしき御よそへにつけても、露けく」  似つかわしいお喩えにつけても、涙がこぼれて……」
48  とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。
 青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。
 人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。
 
 とばかりあるのは、何のおもしろいこともないが、どういうわけか、手放しがたく御覧になっていらっしゃるようである。
 青鈍色の紙に柔らかな墨跡は、たいそう趣深く見えるようだ。
 ご身分や、筆跡などによってとりつくろわれて、その時は何の難もないこともいざもっともらしく伝えるとなると、事実を誤り伝えることがあるようなので、ここは勝手にとりつくろって書くようなので、変なところも多くなってしまった。
 
49  立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじくて思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。
 
 昔に帰って、今さら若々しい恋文書きなども似つかわしくないこととお思いになるが、やはりこのように昔から離れぬでもないご様子でありながら、不本意なままに過ぎてしまったことを思いながら、とてもお諦めになることができず、若返って、真剣になって文を差し上げなさる。
 
 
 

第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う

 
50  東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。
 
 東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せ呼び寄せしてはご相談なさる。
 
51 さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、 宮に伺候する女房たちで、それほどでない身分の男にさえ、すぐになびいてしまいそうな者は、間違いも起こしかねないほど、君をお褒め申し上げるが、宮はその昔でさえきっぱりとお考えにもならなかったのに、
52 今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、 今となっては、昔以上に、どちらも色恋に相応しくないお年やご身分であるので、
53 「はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ」など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、 「ちょっとした木や草につけてのお返事などの、折々の興趣を見過さずにいるのも、軽率だと受け取られようか」などと、人の噂を憚り憚りなさっては、心をうちとけなさるご様子もないので、
54 古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。
 
昔のままで同じようなお気持ちを、世間の女性とは違って珍しくまた妬ましくもお思い申し上げなさる。
 
 
55  世の中に漏り聞こえて、  世間に噂が漏れ聞こえて、
56  「前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。
 似げなからぬ御あはひならむ」
 「前斎院を、熱心にお便りを差し上げなさるので、女五の宮なども結構にお思いのようです。
 似つかわしくなくもないお間柄でしょう」
57  など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、  などと言っていたのを、対の上は伝え聞きなさって、暫くの間は、
58  「さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」  「いくら何でも、もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」
59  と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、  とお思いになっていらっしゃったが、さっそく気をつけて御覧になると、お振る舞いなども、これまでとは違ってうつけたようなのも情けなくて、
60  「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。
 年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと」
 「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだわと、同じ皇族の血筋でいらっしゃるが、声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、お心などが移ってしまったら、みっともないことになるわ。
 長年のご寵愛などは、わたしに立ち並ぶ者もなく、ずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは……」
61  など、人知れず思し嘆かる。
 
 などと、人知れず嘆かずにはいらっしゃれない。
 
 
62  「かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ」  「すっかりお見限りになることはないとしても、幼少のころから親しんでこられた長年の情愛は、軽々しいお扱いになるのだろう」
63  など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。
 
 など、あれこれと思い乱れなさるが、それほどでもないことなら嫉妬などもご愛嬌に申し上げなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない。
 
64  端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、  端近くに物思いに耽りがちで、宮中にお泊まりになることが多くなり、仕事と言えば、お手紙をお書きになることばかりで、
65  「げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。
 けしきをだにかすめたまへかし」
 「なるほど世間の噂は嘘ではないようだ。
 せめてほんの一言でもおっしゃってくださればよいのに」
66  と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。  と、いやなお方だとばかりお思い申し上げていらっしゃる。
 
 
 

第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心

 
 

第一段 朝顔姫君訪問の道中

 
67  夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。
 雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。
 さすがに、まかり申しはた、聞こえたまふ。
 
 ある夕方、神事なども停止となって物寂しいので、することもない思いに耐えかねて、五の宮にいつものお伺いをなさる。
 雪がちょっとちらついて風情ある黄昏時に、優しい感じに着馴れたお召し物に、ますます香をたきしめなさって、念入りにおめかしして一日をお過ごしになったので、ますますなびきやすい人はどんなにかと見えた。
 それはそれとして、お出かけのご挨拶はご挨拶として、申し上げなさる。
 
68  「女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ」  「女五の宮がご病気でいらっしゃるというのを、お見舞い申し上げようと思いまして」
69  とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、  と言って、軽く膝をおつきになるが、振り向きもなさらず、若君をあやして、さりげなくいらっしゃる、その横顔がただならぬ様子なので、
70  「あやしく、御けしきの変はれるべきころかな。
 罪もなしや。
 塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」
 「不思議と、ご機嫌の悪くなったこのごろですね。
 罪もありませんね。
 『塩焼き衣のように、あまりなれなれしくなって行くと』、珍しくなくお思いかと思って、家を空けていましたが、またどのようにお考えになってか」
71  など聞こえたまへば、  などと申し上げなさると、
72  「馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ」  「『馴じんで行くと間遠になる』というのは、おっしゃるとおり、いやなことが多いものですね」
73  とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。
 
 とだけ言って、顔をそむけて臥せっていらっしゃるのは、そのまま見捨ててお出かけになるのも、気も進まないが、宮にお手紙を差し上げてしまっていたので、お出かけになった。
 
74  「かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ」  「このようなこともある夫婦仲だったのに、安心しきって過ごしてきたことだわ」
75  と思ひ続けて、臥したまへり。
 鈍びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、
 とお思い続けて、臥せっていらっしゃる。
 鈍色めいたお召し物であるが、色合いが重なって、かえって好ましく見えて、雪の光にたいそう優美なお姿を御覧になって、
76  「まことに離れまさりたまはば」  「ほんとうに心がますます離れて行ってしまわれたならば」
77  と、忍びあへず思さる。
 
 と、堪えきれないお気持ちになる。
 
 
78  御前など忍びやかなる限りして、  御前駆なども内々の人ばかりで、
79  「内裏より他の歩きは、もの憂きほどになりにけりや。
 桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ」
 「宮中以外の外出は、億劫になってしまったよ。
 桃園宮が心細い様子でいらっしゃっるのも、式部卿宮に長年お任せ申し上げていたが、これからはお頼りにしますなどとおっしゃるのも、もっともなことで、お気の毒なので」
80  など、人びとにものたまひなせど、  などと、女房たちにもつくろっておっしゃるが、
81  「いでや。
 御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる」
 「さあどんなものでしょう。
 ご好色心が変わらないのは、惜しい玉の瑕のようです」
82  「軽々しきことも出で来なむ」  「よからぬ事がきっと起こるでしょう」
83  など、つぶやきあへり。  などと、呟き合っていた。
 
 
 

第二段 宮邸に到着して門を入る

 
84  宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。
 
 宮邸では、北面にある人が多く出入りするご門は、お入りになるのも軽率なようなので、西にあるのが重々しい正門なので、供人を入れさせなさって、宮の御方にご案内を乞うと、「今日はまさかお越しになるまい」とお思いでいたので、驚いて門を開けさせなさる。
 
 
85  御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。
 これより他の男はたなきなるべし。
 ごほごほと引きて、
 御門番が寒そうな様子であわてて出てきたが、すぐには開けられない。
 この人以外の男性はいないのであろう。
 ごろごろと引いて、
86  「錠のいといたく銹びにければ、開かず」  「錠がひどく錆びついてしまっているので、開かない」
87  と愁ふるを、あはれと聞こし召す。
 
 と困っているのを、しみじみとお聞きになる。
 
88  「昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。
 かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ」と、思し知らるる。
 口ずさびに、
 「昨日今日のこととお思いになっていたうちに、はや三年も昔になってしまった世の中だ。
 このような世を見ながら、仮の宿を捨てることもできず、木や草の花にも心をときめかせるとは」と、つくづくと感じられる。
 口ずさみに、
 

313
 「いつのまに 蓬がもとと むすぼほれ
 雪降る里と 荒れし垣根ぞ」
 「いつの間にこの邸は蓬が生い茂り
  雪に埋もれたふる里となってしまったのだろう」
 
89  やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。  やや暫くして、無理やり引っ張り開けて、お入りになる。
 
 
 

第三段 宮邸で源典侍と出会う

 
90  宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、  宮の御方に、例によってお話申し上げなさると、宮は昔の事をとりとめもなく話し出しはじめて、はてもなくお続きになるが、君はご関心もなく眠いが、宮もまたあくびをなさって、
91  「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」  「宵のうちから眠くなっていましたので、終いまでお話もできません」
92  とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。
 
 とおっしゃる、間もなく鼾とかいう聞き知らない音がするので、これさいわいとお立ちになろうとすると、また一人、たいそう年寄くさい咳払いをして近寄ってまいる者がいる。
 
93  「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。
 院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」
 「恐れながら、ご存じでいらっしゃろうと心頼みにしておりましたのに、生きている者の一人としてお認めくださらないので……。
 故院の上様は、わたしを祖母殿と仰せになってお笑いあそばしました」
94  など、名のり出づるにぞ、思し出づる。
 
 などと、名乗り出したので、お思い出しになった。
 
 
95  源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。
 
 源典侍と言った人は、尼になって、この宮のお弟子として勤行していると聞いていたが、今まで生きていようとはお確かめ知りにならなかったので、あきれる思いをなさった。
 
96  「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。
 親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」
 「その当時のことは、みな昔話になってゆきますが、遠い昔を思い出すと心細くなりますが、なつかしく嬉しいお声ですね。
 あの『親がいなくて臥せっている旅人』と思って、お世話してください」
97  とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。
 
 と言って、物に寄りかかっていらっしゃる君のご様子に、ますます昔のことを思い出して、相変わらずなまめかしいしなをつくって、たいそうすぼんだ口の恰好のように想像される声だが、それでもやはり、甘ったるい言い方で戯れかかろうと今でも思っている。
 
98  「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。
 「今しも来たる老いのやうに」など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。
 
 「言い続けてきたうちに」などとお申し上げかけてくるのは、こちらの顔の赤くなる思いがする。
 「今急に老人になったような物言いだ」などと苦笑されるが、また一方で、これも哀れである。
 
99  「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。
 入道の宮などの御齢よ。
 あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」
 「その女盛りのころに、寵愛を競い合いなさった女御や更衣も、ある方はお亡くなりになり、またある方は見るかげもなく、はかないこの世に落ちぶれていらっしゃる方もあるようだ。
 入道の宮などの御寿命の短さよ。
 あきれるばかりの世の中の無常に、年からいっても余命残り少なそうで、心構えなども、頼りなさそうに見えた人が生き残って、静かに勤行をして過ごしていたのは、やはりすべて定めない世のありさまなのだ」
100  と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。
 
 とお思いになると、その何となくしみじみとした君のご様子を、心のときめくことかと誤解してはしゃぐ。
 
 

314
 「年経れど この契りこそ 忘られね
 親の親とか 言ひし一言」
 「何年たってもあなたとのご縁が忘れられません
  親の親――わたしはあなたの祖母、とかおっしゃった一言がございますもの」
 
101  と聞こゆれば、疎ましくて、  と申し上げるので、気味が悪くて、
 

315
 「身を変へて 後も待ち見よ この世にて
 親を忘るる ためしありやと
 「来世に生まれ変わった後まで待って見てください
  この世で子が親を忘れる例があるかどうかと
 
102  頼もしき契りぞや。
 今のどかにぞ、聞こえさすべき」
 頼もしいご縁ですね。
 いずれゆっくりと、お話し申し上げましょう」
103  とて、立ちたまひぬ。  とおっしゃって、お立ちになった。
 
 
 

第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす

 
104  西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。
 月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。
 
 西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように思われるのもどうかと、一間、二間は下ろしてない。
 月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜の様子である。
 
105  「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。
 今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
 「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いた」とお思い出されなさって、おかしくなった。
 今宵はたいそう真剣にお話なさって、
106  「一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」  「せめて一言、『憎い』などとでも人伝てではなく直におっしゃっていただければ、思いあきらめるきっかけにもしましょう」
107  と、おり立ちて責めきこえたまへど、  と、身を入れて強くお訴えになるが、
108  「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」  「昔、自分も相手も若くて、過ちが許されたころでさえ、亡き父宮などが好感を持っていらっしゃったのを、やはりとんでもなく気がひけることだとお思い申して終わったのに、晩年になり、盛りも過ぎ、似つかわしくない今頃になって、そうした一言をお聞かせするのも気恥ずかしいことだろう」
109  と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。
 
 とお思いになって、まったく動じようとしないお気持ちなので、「あきれるほどに、つらい」とお思い申し上げなさる。
 
 
110  さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。
 夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
 そうかといって、不体裁に突き放してというのではない取次ぎのお返事などが、かえってじれることである。
 夜もたいそう更けてゆくにつれ、風の具合が激しくなって、ほんとうにもの心細く思われるので、体裁よいところでお拭いになって、
 

316
 「つれなさを 昔に懲りぬ 心こそ
 人のつらきに 添へてつらけれ
 「昔のつれない仕打ちに懲りもしないわたしの心までが
  あなたがつらく思う心に加わってつらく思われるのです
 
111  心づからの」  自然とどうしようもございません」
112  とのたまひすさぶるを、  と口に上るままにおっしゃると、
113  「げに」  「ほんとうに」
114  「かたはらいたし」  「見ていて気が気でありませんわ」
115  と、人びと、例の、聞こゆ。
 
 と、女房たちは、例によって、姫宮に申し上げる。
 
 

317
 「あらためて 何かは見えむ 人のうへに
 かかりと聞きし 心変はりを
 「今さらどうして気持ちを変えたりしましょう
  他人ではそのようなことがあると聞きました心変わりを
 
116  昔に変はることは、ならはず」  昔と変わることは、今もできません」
117  など聞こえたまへり。  などとお答え申し上げなさった。
 
 
 

第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む

 
118  いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、  何とも言いようがなくて、とても真剣に恨み言を申し上げなさってお帰りになるのも、たいそう若々しい感じがなさるので、
119  「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。
 ゆめゆめ。
 いさら川などもなれなれしや」
 「ひどくこう、世の中のもの笑いになってしまいそうな有様を、お漏らしなさるなよ。
 きっときっと。
 『いさら川』の、さあ知りませんね、などと言うのも馴れ馴れしいですね」
120  とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。
 人びとも、
 とおっしゃって、しきりにひそひそ話しかけていらっしゃるが、何のお話であろうか。
 女房たちも、
121  「あな、かたじけな。
 あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」
 「何とも、もったいない。
 どうしてむやみにつれないお仕打ちをなさるのでしょう」
122  「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。
 心苦しう」
 「軽々しく無体なこととはお見えにならない態度なのに。
 お気の毒な」
123  と言ふ。  と言う。
 
 
124  げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、  なるほど、君のお人柄の素晴らしいのも、慕わしいのも、お分かりにならないのではないが、
125  「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。
 
 「ものの情理をわきまえた人のように見ていただいたとしても、世間一般の人がお褒め申すのとひとしなみに思われるだろう。
 
126 かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」 また一方では、至らぬ心のほどもきっとお見通しになるに違いなく、気のひけるほど立派なお方なのだから」
127 と思せば、 とお思いになると、
128 「なつかしからむ情けも、いとあいなし。
 よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御応へ、はしたなからで過ぐしてむ。
 
「親しそうな気持ちをお見せしても、何にもならない。
 さし障りのないお返事などは、引き続き御無沙汰にならないくらいに差し上げなさって、人を介してのお返事、失礼のないようにしていこう。
 
129 年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」 長年、仏事に無縁であった罪が消えるように仏道の勤行をしよう」
130 とは思し立てど、 とは決意はなさるが、
131 「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。
 
「急にこのようなご関係を、断ち切ったようにするのも、かえって思わせぶりに見えもし聞こえもして、人が噂しはしまいか」と、世間の人の口さがないのをご存知なので、一方では、伺候する女房たちにもお気を許しにならず、たいそうご用心なさりながら、だんだんとご勤行一途になって行かれる。
 
 
132  御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。
 
 姫宮のご兄弟の君達は多数いらっしゃるが、同腹ではないので、まったく疎遠で、宮邸の中がたいそうさびれて行くにつれて、あのような立派な方が熱心にご求愛なさるので、一同そろってお味方申すのも、誰の思いも同じと見える。
 
 
 

第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影

 
 

第一段 紫の君、嫉妬す

 
133  大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、  源氏の大臣は、やみくもにご執心というわけではないが、つれない態度が腹立たしいので、このまま負けて終わるのも悔しく、なるほどそれは、確かにご自身の人品や世の評判は格別で申し分なく、物事の道理を深くわきまえ、世間の人々のそれぞれの生き方の違いも広くお知りになって、昔よりも経験を多く積んでいらっしゃるので、今さらのお浮気事も一方では世間の非難をお分りになりながらも、
134  「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。
 いかにせむ」
 「このまま空しく引き下がってしまっては、ますます物笑いとなるであろう。
 どうしたらよいものか」
135  と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。
 忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。
 
 と、お心が騒いで、二条院にはお帰りにならない夜々がお続きになるのを、女君は、『冗談でなく恋しい』とばかりお思いになる。
 こらえていらっしゃるが、どうして涙のこぼれる時がないであろうか。
 
136  「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」  「不思議にいつもと違ったご様子が、理解できませんね」
137  とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。
 
 とおっしゃって、お髪をかき撫でながら、おいたわしいと思っていらっしゃる様子も、絵に描きたいようなお間柄である。
 
 
138  「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。
 このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。
 おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」
 「入道の宮がお亡くなりになって後、主上がとてもお寂しそうにばかりしていらっしゃるのも、おいたわしく拝見していますし、太政大臣もいらっしゃらないので、政治を見譲る人がいない忙しさです。
 このごろの家に帰らないことを、今までになかったことのようにお恨みになるのも、もっともなことで、お気の毒ですが、今はいくら何でも、安心にお思いなさい。
 おとならしくおなりになったようですが、まだ深いお考えもなく、わたしの心もまだお分りにならないようでいらっしゃるのが、かわいらしい」
139  など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。
 
 などとおっしゃって、涙でもつれている女君の額髪をおつくろいになるが、ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。
 
140  「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」  「とてもひどく子どもっぽくしていらっしゃるのは、誰がおしつけ申したことでしょう」
141  とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。
 
 と言って、「無常の世に、こうまで隔てられるのもつまらないことだ」と、一方では物思いに耽っていらっしゃる。
 
 
142  「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。
 それは、いともて離れたることぞよ。
 おのづから見たまひてむ。
 昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。
 うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」
 「斎院にとりとめのない文を差し上げたのを、もしや誤解なさっていることがありませんか。
 それは大変な見当違いのことですよ。
 自然とお分かりになるでしょう。
 あの方は昔からまったくよそよそしいお気持ちなので、もの寂しい時々に、恋文めいたものを差し上げて困らせたところ、あちらも所在なくお過ごしのところなので、まれに返事などなさるが、本気ではないので、こういうことですと、不平をこぼさなければならないようなことでしょうか。
 不安なことは何もあるまいと、お思い直しなさい」
143  など、日一日慰めきこえたまふ。  などと、一日中お慰め申し上げなさる。
 
 
 

第二段 夜の庭の雪まろばし

 
144  雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。
 
 雪がたいそう降り積もった上に、今もちらちらと降って、松と竹との違いがおもしろく見える夕暮に、君のご容貌も一段と光り輝いて見える。
 
145  「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。
 すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」
 「季節折々につけても、人が心を惹かれるらしい花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の冴えた月に雪の光が照り映えた空こそ、妙に、色のない世界ですが、身に染みて感じられ、この世の外のことまで思いやられて、おもしろさもあわれさも、尽くされる季節です。
 興醒めな例としてとして言った人の考えのなんと浅いことよ」
146  とて、御簾巻き上げさせたまふ。
 
 とおっしゃって、御簾を巻き上げさせなさる。
 
 
147  月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
 
 月は隈なく照らして、白一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、遣水もひどく咽び泣くように流れて、池の氷もぞっとするほど身に染みる感じなので、童女を下ろして雪まろばしをおさせになる。
 
148  をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。
 
 かわいらしげな姿やお髪の恰好が月の光に映えて、大柄の物馴れた童女が色とりどりの衵をしどけなく着て、袴の帯もゆったりした寝間着姿、その優美なうえに、衵の裾より長い髪の末が、白い雪を背景にしていっそう引き立っているのは、たいそう鮮明な感じである。
 
149  小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。
 
 小さい童女は、子どもらしく喜んで走りまわって、扇なども落として、気を許しているのがかわいらしい。
 
150  いと多うまろばさらむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。
 かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。
 
 たいそう大きく丸めようと欲張るが、転がすことができなくなって困っているようである。
 またある童女たちは、東の縁先に出ていて、もどかしげに笑っている。
 
 
 

第三段 源氏、往古の女性を語る

 
151  「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。
 何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。
 
 「先年、中宮の御前に雪の山をお作りになったのは、世間で昔からよく行われてきたことですが、やはり珍しい趣向を凝らしてちょっとした遊び事をもなさったものでしたよ。
 どのような折々につけても、残念でたまたない思いですね。
 
152  いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。
 
 とても隔てを置いていらして、詳しいご様子は拝したことはございませんでしたが、宮中生活の中で、心安い相談相手としては、お考えくださいました。
 
153  うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。
 世にまた、さばかりのたぐひありなむや。
 
 ご信頼申し上げて、あれこれと何か事のある時には、どのようなこともご相談申し上げましたが、表面には巧者らしいところはお見せにならなかったが、十分で、申し分なく、ちょっとしたことでも格別になさったものでした。
 この世にまたあれほどの方がありましょうか。
 
154  やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。
 
 しとやかでいらっしゃる一面、奥深い嗜みのあるところは、又となくいらっしゃったが、あなたこそは、そうはいっても、紫の縁で、たいして違っていらっしゃらないようですが、少しこうるさいところがあって、利発さの勝っているのが、困りますね。
 
155  前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。
 さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」
 ところで、前斎院のご性質はまた格別に見えます。
 心寂しい時に、何か用事がなくても便りをしあって、自分も気を使わずにはいられないお方は、ただこのお一方だけが、世にお残りでしょうか」
156  とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
 
157  「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。
 浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」
 女君が「尚侍は、利発で奥ゆかしいところは、どなたよりも優れていらっしゃるでしょう。
 軽率な方面などは、無縁なお方でいらしたのに、不思議なことでしたね」
158  とのたまへば、  とおっしゃると、
159  「さかし。
 なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。
 さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。
 まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。
 人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」
 「そうですね。
 優美で器量のよい女性の例としては、やはり引き合いに出さなければならない方ですね。
 そう思うと、お気の毒で悔やまれることが多いのですね。
 まして、浮気っぽい好色な人は、年をとるにつれて、どんなにか後悔されることが多いことでしょう。
 誰よりもはるかにおとなしいと思っていましたわたしでさえですから」
160  など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことににも、涙すこしは落したまひつ。
 
 などと、お口になさって、尚侍の君の御事にも、涙を少しはお落としなった。
 
 
161  「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。
 いふかひなき際の人はまだ見ず。
 人は、すぐれたるは、かたき世なりや。
 
 「あの、人数にも入らないほどさげすんでいらっしゃる山里の女は、身分にはやや過ぎて物の道理をわきまえているようですが、他の人とは同列に扱えない人ですから、気位を高くもっているのも、見ないようにしております。
 お話にもならない身分の人はまだ知りません。
 人というものは、すぐれた人というのはめったにいないものですね。
 
162  東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。
 さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。
 今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」
 東の院に寂しく暮らしている人の気立ては、昔に変わらず可憐なものがあります。
 あのようにはとてもできないものですが。
 その方面につけての気立てのよさで、世話するようになって以来、同じように夫婦仲を遠慮深げな態度で過ごしてきましたよ。
 今ではもう、互いに別れられそうになく、心からいとしいと思っております」
163  など、昔今の御物語に夜更けゆく。  などと、昔の話や今の話などに夜が更けてゆく。
 
 
 

第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ

 
164  月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。
 女君、
 月がますます澄んで、静かで趣がある。
 女君が、
 

318
 「氷閉ぢ 石間の水は 行きなやみ
 空澄む月の 影ぞ流るる」
 「氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねているが
  空に澄む月の光はとどこおりなく西へ流れて行く」
 
165  外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。
 髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。
 鴛鴦のうち鳴きたるに、
 と、外の方を御覧になって少し姿勢を傾けていらっしゃる様子、それは似る者がないほどかわいらしげである。
 髪の具合や顔立ちが恋い慕い申し上げている方の面影のようにふと思われて素晴らしいので、少しは他に分けていらっしゃったご寵愛もあらためて君の上にお加えになることであろう。
 鴛鴦がちょっと鳴いたので、
 

319
 「かきつめて 昔恋しき 雪もよに
 あはれを添ふる 鴛鴦の浮寝か」
 「何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に
  いっそうしみじみと思い出させる鴛鴦の鳴き声であることよ」
 
166  入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつる、いみじく恨みたまへる御けしきにて、  お入りになっても、藤壺の宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、
167  「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」  「漏らさないとおっしゃったが、つらい噂は隠れなかったので、恥ずかしく苦しい目に遭うにつけ、つらい」
168  とのたまふ。
 御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
 とおっしゃる。
 お返事を申し上げているとお思いになった時、ものに襲われるような気がして、女君が、
169  「こは、など、かくは」  「これは、どうなさいました、このように」
170  とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。
 今も、いみじく濡らし添へたまふ。
 
 とおっしゃったことに、目が覚めて、ひどく残念で胸の置きどころもなく騒ぐので、じっと抑えて涙までも流していたのであった。
 今もなお、ひどくお濡らし加えになっていらっしゃる。
 
171  女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。  女君がどうしたことかとお思いになるので、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。
 
 

320
 「とけて寝ぬ 寝覚さびしき 冬の夜に
 むすぼほれつる 夢の短さ」
 「安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に
  見た夢の何とも短かかったことよ」
 
 

第五段 源氏、藤壺を供養す

 
172  なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。
 
 かえって物足りなく、悲しいとお思いになって、朝早くお起きになって、それとはなくして、あちこちの寺々に御誦経などをおさせになる。
 
173  「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。
 行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」
 「苦しい目にお遭いになっていると、お怨みになったが、きっとそのようにお恨みになってのことなのだろう。
 勤行をなさり、さまざまに罪障を軽くなさったご様子でありながら、自分との一件でこの世の罪障をおすすぎになれなかったのだろう」
174  と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、  と、ものの道理を深くおたどりになると、ひどく悲しくて、
175  「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも代はりきこえばや」  「どのような方法をしてでも、誰も知る人のいない冥界にいらっしゃるのをお見舞い申し上げて、その罪にも代わって差し上げたい」
176  など、つくづくと思す。  などと、つくづくとお思いになる。
 
 
177  「かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人とがめきこえつべし。
 内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」
 「あのお方のために、特別に何かの法要をなさるのは、世間の人が不審に思い申そう。
 主上におかれても、良心の呵責にお悟りになるかもしれない」
178  と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。
 「同じ蓮に」とこそは、
 と、気がねなさるので、阿弥陀仏を心に浮かべてお念じ申し上げなさる。
 「宮と同じ蓮の上に」と思って、
 

321
 「亡き人を 慕ふ心に まかせても
 影見ぬ三つの 瀬にや惑はむ」
 「亡くなった方を恋慕う心にまかせてお尋ねしても
  その姿も見えない三途の川のほとりで迷うことであろうか」
 
179  と思すぞ、憂かりけるとや。  とお思いになるのは、つらい思いであったとか。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 寿則多辱(荘子-天地)(戻)  
  出典2 恋せじと御禊は神もうけずかと人を忘るる罪深くして(源氏釈所引、出典未詳)  
  恋せじと御手洗河にせし御禊神はうけずもなりにけるかな(古今集恋一-五〇一 読人しらず)(戻)  
  出典3 君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典4 須磨の浦の塩焼き衣馴れ行けば憂き頼みこそなりまさりけり(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典5 馴れ行けば憂き世なればや須磨の海人の塩焼衣まどほなるらむ(新古今集恋三-一二一〇 徽子女王)(戻)  
  出典6 しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし(拾遺集哀傷-一三五〇 聖徳太子)(戻)  
  出典7 身を憂しと言ひ来しほどに今日はまた人の上とも嘆くべきかな(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典8 親の親と思はましかば問ひてまし我が子の子には(拾遺集雑下-五四五 源重之母)(戻)  
  出典9 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺集恋三-七五〇 藤原道雅)(戻)  
  出典10 恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてわづらふ(中務集-二四九)(戻)  
  出典11 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答へよ我が名洩すな(古今集墨滅歌-一一〇八 読人しらず)(戻)  
  出典12 ありぬやと試みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず)(戻)  
  出典13 春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は(拾遺集雑下-五〇九 紀貫之)(戻)  
  出典14 遺愛寺鐘*枕聴 香鑪峯雪撥簾看(白氏文集巻十六、*=埼-土,+欠<右>)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 立ち返り--たちか(か/$か)へり(戻)  
  校訂2 やうにや」と--やうに(に/+や<朱>)と(戻)  
  校訂3 似つかはしき--につら(ら/$か)はしき(戻)  
  校訂4 書き紛らはし--かき(き/+まき)らはし(戻)  
  校訂5 宣旨--せむ(む/$)し(戻)  
  校訂6 前斎院を--前斎院(院/+を<朱>)(戻)  
  校訂7 御けしきの--御けしきの(の/+の$<朱>)(戻)  
  校訂8 たまひて--たま(ま/+ひ)て(戻)  
  校訂9 三年--みそ(そ/$<朱>)とせ(戻)  
  校訂10 出づる--いつ(つ/+る)(戻)  
  校訂11 ほほ笑まれ--をほ(をほ/$ほゝ)ゑまれ(戻)  
  校訂12 心ばへ--こ(こ/+こ)ろはへ(戻)  
  校訂13 光りあひて--ひかり△(△/#)あひ(ひ/+て)(戻)  
  校訂14 げに--け(け/+に)(戻)  
  校訂15 御あだけ--御仇(仇/$あたけ)(戻)  
  校訂16 とて--と(と/+て)(戻)  
  校訂17 心苦しう--心くる(る/+し<朱>)う(戻)  
  校訂18 なむや--*なむ(戻)  
  校訂19 うつくしげ--うつ(つ/+く<朱>)しけ(戻)  
  校訂20 すすい--すゝ(ゝ/$す<朱>)い(戻)  
  校訂21 代はりきこえ--かはりき(き/$)きこえ(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。