古今集の詞書定量分析:伊勢物語の支配的影響

目次 古今和歌集
詞書の分析
仮名序

DOI: https://doi.org/10.5281/zenodo.18849890

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 本稿は、古今和歌集(以下、古今集あるいは単に古今という)の詞書を集計して視覚化し、検証可能な多角的事実(一次史料群の記述)の根拠に基づき、古今集と伊勢物語との関係を分析する。

 

表1:歌単体詞書数ランキング
伊勢物語該当個所 古今
人定
字数 乖離率 歌番
1 23段:筒井筒 昔男嫁 不知 298 18.63 994
2 9段:東下り 昔男 (業) 252 15.75 411
3   仲麿 182 11.38 406
4 4段:西の対 昔男 (業) 146 9.13 747
5 83段:小野 昔男 (業) 135 8.44 970
6   敏行 133 8.31 874
7 9段:東下り 昔男 (業) 124 7.75 410
8 5段:関守 昔男 (業) 123 7.69 632
9   有輔 122 7.63 853
10   遍昭 117 7.31 847
11 84段:さらぬ別れ 昔男 (業) 107 6.69 900
12   閑院 105 6.56 857
13 82段:渚の院 馬頭:業 (業) 101 6.31 418
14   貫之 97 6.06 42
15   不知 94 5.88 412
16   遍昭 91 5.69 248
17 82段:渚の院 馬頭:業 (業) 91 5.69 884
18 107段:身を知る雨 有常 (業) 89 5.56 705
19   滋春 87 5.44 862
20   興風 85 5.31 745
21   不知 84 5.25 375
22   不知 84 5.25 973
23   伊勢 81 5.06 920
24 48段:人待たむ里 昔男 (業) 78 4.88 969
25   文屋 77 4.81 8
26 69段:狩の使 斎宮 不知 75 4.69 645
27   今道 75 4.69 870
28   兼輔 71 4.44 417
29   静子 71 4.44 930
30   近院 69 4.31 848
  30中伊勢物語率40% 全体 16  /平均  

 

表2:保有歌数・詞書文字数・1首当たり詞書
歌合計順   詞書合計順   詞書率
名前 詞書   名前 詞書 詞率   名前 詞率
貫之 100 1802   貫之 1802 18.0   (業) 53.5
躬恒 58 1045   (業) 1604 53.5   文屋 32.6
友則 45 692   躬恒 1045 18.0   遍昭 30.2
素性 44 937   素性 937 21.3   滋春 25.7
忠岑 35 517   友則 692 15.4   敏行 23.4
(業) 30 1604   忠岑 517 14.8   興風 22.5
伊勢 23 397   遍昭 514 30.2   素性 21.3
敏行 19 445   敏行 445 23.4   18.5
小町 18 179   伊勢 397 17.3   貫之 18.0
遍昭 17 514   興風 382 22.5   躬恒 18.0
興風 17 382   深養 280 17.5   深養 17.5
深養 16 280   小町 179 9.9   伊勢 17.3
元方 14 104   文屋 163 32.6   貞文 16.4
千里 10 149   滋春 154 25.7   友則 15.4
貞文 9 148   千里 149 14.9   千里 14.9
是則 7 99   貞文 148 16.4   忠岑 14.8
滋春 6 154   111 18.5   是則 14.1
6 111   元方 104 7.4   兼覧 10.6
宗于 6 50   是則 99 14.1   小町 9.9
文屋 5 163   兼覧 53 10.6   宗于 8.3
兼覧 5 53   宗于 50 8.3   元方 7.4

 

(業):古今の明示的な業平認定。全30首。
しかしこれは伊勢物語(昔男の物語)を丸ごと業平原歌集とみなしたことによる理論的根拠に欠く政治的誤認定。昔男は文屋。13位と17位にある物語上業平と描写される歌も文屋の翻案。

乖離倍率:全体平均の何倍の詞書を有するか

詞書率:その歌人一首あたりの平均詞書数


集計ベースは、日文研:和歌データベース – 古今集(https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i001.html)のテキストデータによる。
 

第1. 分析のポイント

 

1. 古今の伊勢物語収録歌:詞書上位の異常集中と1位の無名女性

 

(1) 古今は伊勢物語を丸ごと業平歌集とみなし認定:権威バイアス

 
・古今の詞書は実質がない「題しらす」も含め全1111首に付与され、全体平均約16字
・古今の詞書の上位30位中(上位3%未満)、伊勢物語に収録される歌は12首で40%を占める
・そのうち業平認定10首、ただし伊勢物語で業平と確定できるのはうち2首のみ(後述(3)参照)
・それ以外は伊勢物語の「むかし男」(以下単に「昔男」)あるいは無記述を業平とみなしている
・古今の業平認定は勅撰という権威により、以下で論証するように、貴族社会の体制秩序のため伊勢物語(当時無名の昔男の物語)を丸ごと業平歌集とみなしたもので理論的根拠はない
(社会的構築主義的再物語化:socially constructed reframing/政治的リフレーミング:political reframing/権威バイアス:authority bias)

(2) 伊勢物語の本文登場人物と帝は一貫して800年代で905年の古今前

 
・後述の第2.2 (2)のように905年成立の古今に対し、伊勢物語の登場人物特に帝は一貫して800年代に位置づけられる
(内部年代整合性:internal chronological consistency)
・これら内部記述の整合性を完全に無視し、後述2.(3)のように段階増補として後撰集以後の950前後としたり、紫式部時代までの大幅な段階増補がされたと言われ始めたのは、伊勢物語それ自体の問題ではなく、上述(1)のように伊勢に依拠して安易にみなされた古今の業平認定の過ちを認めずその認定を維持するため、伊勢物語の記述を解体して後世のものとする要請があったからに他ならない
(動機づけられた推論:motivated reasoning/循環論法:circular reasoning)
・伊勢物語に一点だけ、定家本系においても源順という後撰集時代の人物が39段末尾に注記されるが(至は順が祖父なり。みこの本意なし)、
これは本文で描かれた源至の孫が順という本文描写に全く関係なく著者の知見とかかわりなく外部的に書き込めるレベルの注記であり、これは後撰時代に注記めかして書き込み、本文と混同させ、あわよくば後代において古今以後に成立をずらさせる意図があったものといわざるをえない
(後代挿入:later interpolation/本文汚染:textual contamination)
・こうした態度は後撰集が古今の業平認定を維持するため、業平死後が確定する伊勢物語114段の昔男に当然の如く業平の兄の行平と人定した態度と一致する
(権威バイアス:authority bias/確証バイアス:confirmation bias)
・さらに後述(4)における古今「ちはやふる」の詞書とも軌を一にする態度であり、陰謀といった安易なレベルではなく、先例たる最上位公文書・勅撰集の認定を維持しようとする強力な官僚的動機があったとして説明がつく
(制度的自己正当化:institutional self‑legitimation)

(3) 古今の業平認定は伊勢物語以外に独立した文献の根拠をもたない

 
・古今の明示的な業平認定は30首、その全てが伊勢物語に含まれる歌しかない
(一次史料単一性:single‑source attestation/資料的偏在:evidentiary concentration)
・裏返せば、業平には伊勢物語から独立した歌が何一つ存在しない
(独立根拠の欠如:lack of independent attestation/依拠性の偏り:source dependence)
・なお、古今のちはやふる屏風歌(古今294)については(6)で後述

(4) 伊勢物語は古今から独立した独自の網羅的記述を持つ

 
・伊勢物語101段では著者の体験談として業平(原文中は「あるじ(段構成上行平)のはらから」)はもとより歌を知らないので詠もうとしなかったが、強いて詠ませたならば次のようであったとして、業平の歌も全て著者の翻案ということを示している(もとより歌のことは知らざりければすまひけれど、強ひてよませければかくなむ)
(内部証拠:internal evidence/独立証言:independent attestation/反証的証言:counter‑attestation)
・学説はこの101段で業平が歌をもとより知らないとされた表現について、謙遜や筆致の揺れなどと語義を無視する方向で解釈している
(語義無視:semantic disregard/文脈抑圧:contextual suppression/方法論的歪曲:methodological distortion)

・このように伊勢物語後半から登場する業平を徹底して否定する一般常識から導き出せない独立した記述を、古今の業平認定に断固として影響させないため後述2.(3)の段階増補説が提示されているのであって、伊勢物語の内部記述が年代的に整合しないのではない。
古今の業平認定と整合しないから、伊勢物語の成立を古今の都合で一方的に後らせている
(外部前提優先の年代操作:chronological manipulation driven by external presuppositions/独立史料の無視:disregard of independent attestation/方法論的逆転:methodological inversion)

・伊勢物語の後半63段「在五…けぢめ見せぬ心」以降の全ての段で著者は業平を非難しているが(後述(7))、これは無名の著者の文屋が業平とみなされて反論したと見る他に合理的解釈は存在しない
(内部証拠の優越:primacy of internal evidence)
・これに対し学説は、二条の后に近侍した文屋を著者想定から断固排除し、作品を徹底して解体することで対応してきた
(外部前提優先の解釈:external‑presupposition‑driven reading/選択的無視:selective neglect/体系的解体:systematic deconstruction)

(5) 古今詞書10位内の歌に伊勢物語で業平された歌はない:昔男の歌

 
・古今の詞書上位10位に入る伊勢物語の歌で、伊勢物語において業平と記述される歌は存在しない
・古今詞書10位中の業平認定5首は、伊勢物語の昔男に業平を一方的に代入した認定にすぎない
(行為主体の置換:agent substitution)
・伊勢物語で業平と人定可能な歌は古今詞書13位・17位と、伊勢物語の歌としての詞書順位として連続しており、これは貫之による意図的な調整配置と解す(後述3.参照)
・古今の業平認定は、現状の一般認識のように内実とかかわらず社会的に前提とされた結論であり、これを貫之一人で覆すことは不可能であり、影響が及ぼせる限りで配置により対抗したといえる
・なお古今の業平認定の歌に、伊勢物語と異なる業平原歌集は確認されていない(後述(10)のようにここまでの長大な詞書が勅撰に収録されながらあえて未確認の原歌集を想定することは不合理
(選択的無視:selective neglect)

(6) ちはやふる屏風歌(古今294):古今と相容れない伊勢物語の業平非難歌を封じるための業平認定とポジティブ文脈の一方的断定

 
・業平の歌で伊勢物語に即さない唯一の例外が、著名な「ちはやふる神世もきかす竜田河唐紅に水くくるとは」(古今秋下294)
・この詞書(二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる)のみ伊勢物語と異なり、二条の后の前での業平自身の屏風歌とされる
・しかしこれは先行する直前の素性293と完全同一の詞書であり、素性に後らせる配置からも、詞書が完全に同一ということからも、ここにオリジナル性はないという貫之の配置表現と解すのが妥当
・他方で伊勢物語106段の当該歌は、二条の后も屏風も登場しない、昔男が業平に激怒し詠んだ歌(ただしその段単体だけでは読解できず、著者一連の業平徹底非難の流れから必然この読解になる)

・伊勢物語の著者と業平が相容れない、この致命的な文脈について、貴族社会側は原典をなぞることを放棄し、原典の一連の文脈と切り離し、伊勢物語を象徴し連想させる二条の后を安易に登場させ、かつ主体を業平と断定し、枕詞の語義(神の荒ぶり)と全く無関係に文脈反転した風流あるいは賀歌的とする一方的断定により、オリジナル性付与を企図した
(文脈切断:contextual severance/象徴的上書き:symbolic overwriting/行為主体の置換:agent substitution/語義無視:semantic disregard/意味の反転解釈:interpretive reversal)
・こうした語義、字義、配置、文脈を完全に無視し局所的に当て付けることが、古今の業平認定と、それを維持するために提出され続ける学説の特徴
(文献誤読:textual misreading/文脈無視:contextual disregard/選択的解釈:selective interpretation)
・つまり古今採録以前に伊勢物語(昔男の物語)総体として業平の歌集とみなすという結論が決まっていたのであり、この見立ては伊勢物語の伝統的な一般認識と異ならない
(目的論的読解:teleological reading/動機づけられた解釈:motivated interpretation)
・古今は業平と二条の后を結び付け、かつ安直に歌詞を詞書に取り込みながら一般的な伊勢物語理解を強調したもので、以下で示す社会的要請による苦肉の捏造の一貫と解する他ない
・一貫して密接かつ多角的に相互補完する伊勢物語と古今の文屋部分の記述を覆し、この1点の自己完結した記述をもって古今の業平部分をオリジナルと見ることは、書証の解釈として論理的に不可能である
(例外の過大一般化:overgeneralization from an exception/チェリーピッキング:cherry-picking/動機づけられた推論:motivated reasoning)

(7) 伊勢物語は二条の后に仕えた文屋の物語:業平認定とは相容れない

 
・伊勢物語は在五を主観の昔男と明確に区別して第三者として描き、かつ業平死後の仁和帝を114段で出し昔男を描く
・しかも業平初出つまり在五初出の63段は在五の「けぢめ見せぬ心」という非難した主題
・しかし学説は「在五」を蔑称でなく当時から普通の通称と、当該文脈と無関係に後世の認識と本末転倒させて断定し、「けぢめ見せぬ心」を「分け隔てしない心」という賞賛とするように業平関連文言を次々に全力で曲げていく
(語義無視:semantic disregard/文脈抑圧:contextual suppression/意味の反転解釈:interpretive reversal)
・これらは事実・本文に基づく解釈ではなく、古今の認定に沿って一方的に断定していく作業
(外部前提優先の解釈:external‑presupposition‑driven reading)
・伊勢物語における昔男は、一次史料を総合し、二条の后に近侍した文屋ということはあらゆる角度から証明可能
・文屋は古今で二条の后を含む完全オリジナルかつ個人的文脈を有する詞書を2つ有する唯一の歌人(春上8、物名445。後述第3,1.参照。他の業平と素性は二条の后の要求がなく勝手に詠んだもの)
・伊勢物語において業平は二条の后に因縁をつけることしかしておらず(76段・99段)、業平の描写はこうした人格破綻言動とそれに対する著者の憤りで一貫している(業平初出63段から106段まで)
・二条の后に縫殿の女官管理職として近侍した昔男たる文屋が様々な話を自分目線で記録した、それが古今目録の文屋の経歴とも一致する一貫した昔男の物語
(内部証拠:internal evidence/独立証言:independent attestation)
・しかし素性不明で宮中事情の暴露告発的な昔男の物語は、貴族社会の要請で品行が破綻した貴族社会の末端構成員・業平の物語とみなされてきた
(政治的リフレーミング:political reframing/認知的不協和の回避:avoidance of cognitive dissonance)

(8) 源氏物語の在五否定の伊勢物語の定義と学説による選択的無視・排除

 
・こうした定説に対し源氏物語は、その業平定義の内実のなさを否定するため伊勢物語と定義した。業平が物語という定義では業平性を争えないためである
(物語的再定義:narrative redefinition/意味の再枠組み化:semantic reframing)
・伊勢物語の定義について学説は、伊勢の御が関与したか、伊勢斎宮との物語が象徴的であるか未詳などとしているが、肝心の源氏物語において「業平が名」「在五中将の名」に対し、業平の名で伊勢の海の深き心をおとしめるなと「乱りがはしく」議論され「伊勢物語」と定義された強力な根拠を無視している
(選択的無視:selective neglect)
・在五物語性を否定するための定義と流布すれば従来の業平ありきの賞賛立論が無意味化するから
(認知的不協和の回避:avoidance of cognitive dissonance)
・学説が源氏物語の記述を題名論と切り離していることは、後述2(3)の引用で示す段階増補説からも言える。つまりあえて伊勢物語を紫式部の活動期の11世紀以後まで後らせ大幅な段階増補を想定しているが、この無秩序な想定は源氏物語の議論を意図的に業平認定に影響がないように周辺化させて取り込んだものといえる
(選択的排除:selective exclusion/戦略的周辺化:strategic marginalization/隠れた取り込み:covert incorporation/二重基準的操作:double‑standard maneuver)

(9) 業平原歌集という仮想仮説の連鎖による正当化・バイアス

 
・一方的に業平と結びつけることが困難になった学説は業平と不可分に扱われてきた伊勢物語と別に、あえて未確認の業平原歌集を想定しだしたが、それすら根拠を出せず業平の死後のものとしている
(仮想補助仮説:ad hoc hypothesis/制度的自己正当化:institutional self‑legitimation)
・学説は権威主義的発想に基づき内実の欠落を軽視し、正当化のため推論を重ね立論してきた
(認知的閉鎖:cognitive closure/動機づけられた推論:motivated reasoning/無意識のバイアス:unconscious bias/権威バイアス:authority bias)

(10) 貫之の業平否定:筒井筒の無名女性詞書1位と文屋の詞書率事実上1位

 
・古今詞書上位10位中(上位1%未満)、伊勢物語6首で、偶然では説明できない非ランダムな集中を示す
(a highly non‑random concentration unlikely to arise by chance)
・さらに詞書上位10位中半分の5首が業平認定で、この業平偏重は自然分布からの顕著な逸脱を示す
(a marked departure from expected distribution)
・にもかかわらず詞書1位は支配的業平認定ではなく筒井筒の無名女の歌であるところ、古今の女性の歌は、全体で1割、詞書上位30位中4首、20位中1首のみで、偶然分布からの明確な逸脱を示す
(a clear departure from expected frequency)
・名のある女性(小町・伊勢の御)ですらなく無名の田舎女性の歌に支配的な業平関連詞書を上回らせるに足る根拠は、最上位公文書たる勅撰歌集への収録として明確かつ強力な出典がなければ合理的に説明しえないが、学説曰くその出典は未詳
(伊勢物語の選択的無視:selective neglect/動機づけられた推論:motivated reasoning)
・この有名無名の最上位の反転配置は、貫之が、詞書率自然分布における最上位に文屋を据え、伊勢物語(当時は昔男物語)の著者として扱い、その証拠として二条の后への近侍と東下りの根拠となる三河行きの詞書を付与し(古今8, 938)、業平の最上位性を意図的に否定したと解する他に合理的説明はできない
(an intentional editorial intervention, i.e., an inference to the best explanation)
 

2. 背景分析:業平認定の実態のなさを押し通すための古今と学説

 

(1) 貴族社会の要請・体制秩序維持としての業平物語化

 
・上述1(2)のように当時から二条の后関連の宮中の中枢事情を暴露するような内容で影響力をもった無名の昔男物語を、実態と無関係に業平物語と強力に定義する社会的要請があった
(社会的構築主義的再物語化:socially constructed reframing/選択的強調:selective emphasis)
 

(2) 擬制根拠の喪失・事実との混同・制度的維持バイアス

 
・実態と無関係であるから「みなされてきた」という擬制が伊勢物語論とセットで用いられる。
・しかし「みなす」とは類型的根拠がある場合に成立するもので、このケースの場合、古今の認定がそれに当たるが、それは一般論として成立しても、明らかに例外的な扱いで偏重した古今の業平認定に伊勢物語以外の文献上の根拠が一切確認できない。すなわち、当初から伊勢物語自体を、中身とかかわりなく漫然と伝聞に基づき総体的に業平物語とみなしたという昔から現代に至るまでのごく自然な一般認識に基づいた認定と解することに何の困難もないが、その業平物語認定を文献理論的に維持できなくなった以上、古今の業平認定を維持する理論的根拠、つまり伊勢物語の主人公・昔男を業平と「みなす」理論的根拠は失われた
(根拠なき擬制:baseless presumption)
・学説は古今の「みなし」認定の新たな根拠となる理論的空白を埋める立論を展開し続けてきたが、そこで維持対象とされる業平擬制認定自体に本来実態がないという論理構造に無自覚で、権威主義的認識で当然視してきた擬制を事実と混同している
(擬制と事実の混同:conflation of fiction and fact/虚構の事実化:factualization of fiction/カテゴリー錯誤:category mistake/理論的空白の補填:gap‑filling reasoning/制度的自己正当化:institutional self‑legitimation/理論的つぎはぎ:theoretical patchwork)
 

(3) 伝聞連鎖・仮想仮説・循環論法による伊勢物語段階論の虚構構築

 
・業平認定は、根拠を示さない古今の業平認定とそれを当然視して派生した人定のみに依拠し、それ以外の実態および諸記録に一切基づかないみなし認定で、伊勢物語を古今後に回す立論は全て、結論ありきの権威主義的な循環論法
(権威バイアス:authority bias/循環論法:circular reasoning)
・上述1(2)のように伊勢物語にかえて想定される業平原歌集も、一切確認されず推測展開されるのみ(仮想補助仮説:ad hoc hypothesis)
・上述1(3)のように最上位公文書たる勅撰歌集の古今において逸脱偏重した詞書を有しながら、現存しない業平原歌集を想定する推定は合理的根拠に基づくものではない
(動機づけられた推論:motivated reasoning)
・歴史上和歌の教典として天皇等に別格の影響力があり続け、本文記述も帝も古今前で一貫する伊勢物語の原典性を、学説はあえて否定し古今の成立に後らせ、不明の著者複数で後撰集後、果ては紫式部時代までの段階増補とされるに至った(「業平の死没(880)後、原『業平集』の成立が推定され、『古今集』や原『伊勢物語』はそれを資料としたとみられる。その原『伊勢物語』はほぼ業平の歌だけからなると推定され、10世紀末ごろの伝本でも50段たらずの小規模な物語であったらしい。11世紀以後に大幅な増補が行われて現在の形態に至る。」「増補者についてはまったく不明である。」『日大百科全書』「伊勢物語 」の項、鈴木日出男。こうして伝聞に伝聞を重ね断定するのが伊勢物語論・日本古典理論の典型)
(伝聞依存的推論:hearsay‑based reasoning/伝聞連鎖:hearsay chain/憶測的再構築:speculative reconstruction/集団的確証バイアス:collective confirmation bias)
・こうした有力説の動向は、伊勢物語が在五初出の63段以降、業平を徹底非難していることを、古今の認定に関与させないために繰り出された立論という他ない。特に一切写本の根拠なく50段で区切る推測は明確にその証拠
(物語的整合性バイアス:narrative coherence bias/政治的再物語化:political reframing/制度的動機づけ:institutionally motivated reasoning/循環論法:circular reasoning)
 

3. 詞書率から導かれる自然分布における詞書率最上位の文屋


(1) 文屋8・貫之9の配置:貫之による人麻呂と赤人の構図

 
・文屋が自然な分布における詞書上限値で、以下に示すことからも貫之が古今で最も重んじた人物
・古今で最初の詞書が文屋8であること、それ自体でその重要性を象徴している
・かつ文屋8の直下につく貫之9で、人麻呂の下を固める赤人の構図(仮名序)を象徴している
・歌番号100番未満で詞書上位30以内にランクインしているのは文屋と貫之のみ
・文屋の詞書率は皇族の遍照(桓武天皇の孫)を上回り(なお業平は平城天皇の孫)、ここまで厚く書く動機がある撰者は、上記の配置上の根拠がある貫之のみ

(2) 文屋と小町との表裏一体性:詞書率・古今938

 
・小町は歌の収録数に比して有意に詞書率が低く、それは収録数に比し最上位の文屋と対をなす
・小町針という逸話と官位不明であることから小町は縫殿所属の卑官
・古今938で唯一小町に受け容れられた記録が文屋にある
・したがって文屋と小町は一体として活動しており、文屋が作詞、小町が歌手としてその歌を発表していたと見るべきもの

(3) 巻先頭連続配置で業平を否定:従来の枠組みでは認識不可能

 
・文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行により連続を崩す
・秋は和歌で最も重視される巻、恋は前半の四季と対で配置される後半筆頭の重要巻
・文屋・小町いずれも秋下・恋二と、2巻目に当たる巻で、両者の隠れた表裏一体性と特別性を示す
・技巧を示す物名の先頭配置の敏行により、恋二の小町に後れる恋三の業平の先頭を崩させる
・これは当然上述してきた貫之による配置という他に説明し得ない
・この配置を認識できた歴代学説は存在しない。この配置を認めると貫之が業平を重視してきたという定説のメタな視点に欠けた皮相的理解、古今の業平認定の根拠、その元々の大元にあった伊勢物語の著者論がドミノ倒し的に揺らぐからである
(構造的盲目:structural blindness/パターン否認:pattern denial/意味の過小評価:underestimation of significance/構造的無関心:structural indifference/認知的不協和の回避:avoidance of cognitive dissonance)

(4) 補:貫之の仮名序の六歌仙評:貴族社会の目を意識した評

 
・一般的に貫之は六歌仙を全員酷評したとされるが、それはいわば貴族社会仕様書通りの皮相的読み
・貫之は構造的に文屋と小町を別格扱いしているのであり、これを無視した読解は成り立たない
・文屋の「ことばゝたくみにてそのさまみにおはず」は身に負わない・不相応と解されるが、先行の業平の「ことばたらずしぼめるはなのいろなくてにほひのこれる」という明確な対の構成によれば、詞は巧だがそれを匂わせない(匂はず)、技巧を一般人には気づかせないほど巧みと解するのが歌的な読解で、身に負わないとするのは歌の心つまり技巧の基本(対句と掛詞)を知らない素人の読解
・貫之が身分がない人麻呂と赤人を立てられたのは、時代が異なり利害関係親族がいなかったから

 

第3. 文屋の詞書最上位性の多角的根拠とその反動的抑圧

 

1. 伊勢物語は文屋の作品で、他人(業平)の歌も全て文屋の翻案

 

ここで詞書率の実質から見て、本来的に業平と認定された昔男は業平であり、また古今に収録された伊勢物語の歌は全て文屋の歌である。詳しくは伊勢物語論で証明するが、ここでは古今の詞書と伊勢物語との関連を示す。

(1) 二条の后の唯一完全オリジナルの詞書を有するのは文屋のみ

 

第一に、古今において伊勢物語を象徴する二条の后の歌の詞書をもつ者は、文屋2首(春上8、物名445)、業平2首(秋下294、雑上871)、素性法師1首(秋下293)のみである。

文屋2首の詞書は以下の通り。
8:二条のきさきのとう宮のみやすんところときこえける時、正月三日おまへにめしておほせことあるあひたに、日はてりながら雪のかしらにふりかかりけるをよませ給ひける
445:二条の后春宮のみやすん所と申しける時に、めとにけつり花させりけるをよませたまひける
以上はいずれも完全に伊勢物語から独立した内容、かついずれも二条の后から要求されて詠んだことになっている。

(2) 素性と業平の二条の后の詞書は明確に文屋と書き分けられ配置でも後

 

他方で業平と素性の詞書は、二条の后に要請されておらず勝手に詠んだことが明確に書き分けられ、かつ登場するのは文屋の8の後、445の後である。

293・294(素性・業平):二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
871(業平):二条のきさきのまた東宮のみやすんところと申しける時に、おほはらのにまうてたまひける日よめる
業平294の屏風歌は、先行する直前の素性293と完全同一 of 詞書でオリジナル性はないということを貫之が配置で示したもの(第1.1(6)参照)。
業平871も伊勢物語76段のそのままの内容。伊勢物語中においても業平が詠んだことになっているが(近衛府にさぶらひける翁:これだけでは不明だが、人定の仕方で段をさかのぼれば在五中将に行き着く)、それすら物語全体を通すと文屋の翻案と確実に言える。
なぜなら伊勢物語101段で著者によれば業平は「もとより歌のことは知らざりければすまひけれど、強ひてよませければかくなむ(もとより歌を知らないので詠もうとしなかったが、強いて詠ませたならば次のようであった)」としているからである(第1.1(4)参照)。
伊勢物語は在五初出以降一貫して非難しており、これを業平の謙遜という解釈は古今の業平前提ありきの循環論解釈で成立しないことも上述してきた。(循環論法:circular reasoning/外部前提優先の解釈:external‑presupposition‑driven reading/方法論的逆転:methodological inversion)

(3) 文屋代表歌と伊勢物語象徴歌の符合:時代的特徴ではなく個人的特徴

 

「吹くからに秋の草木のしをるれは むへ山かせをあらしといふらむ」(古今250)
この百人一首22に採録されている歌は、文屋の代表歌とされるが、この歌の評価も一般に見下されたもので、「山+風=嵐」というだけの(下らない)歌、果ては息子朝康の作の可能性があると言いがかりレベルの解体の試みが展開される(体系的解体:systematic deconstruction/外部前提優先の解釈:external‑presupposition‑driven reading) 。

他方、伊勢物語63段で「在五」が詠んだと描写される(これが著者の翻案であることは(2)で上述)
「百歳(ももとせ)に一歳(ひととせ)たらぬつくも髪 われを恋ふらしおもかげに見ゆ」という句がある。
これを通説は、百歳に一歳足らぬ九十九とし極端に老いた状態の比喩とするが、これはそういう感覚レベルの表現ではなく、「百」から「一」を引いて「白」、そこに和風の「つくも」に掛けて、風雅にゴマかして白髪とした。

そして白髪を揶揄する歌は、文屋のもう1つの代表歌
「春の日のひかりにあたる我なれと かしらの雪となるそわひしき」(古今8)と完全に符合する。
つまりこれが白髪の風雅なゴマかしのもう1つの例である。

白髪の風雅表現の歌は当時普通で、重要歌で頻出という根拠があるか、いやない。
そもそも文字の意味も表面的にしか見れていない現状で。

2. 文屋のあらゆる想定からの徹底排除と意図的おとしめ

 

文屋に対する現状の一般評価は、その古今の記述の実態に即した解釈ではなく、伊勢物語=業平物語という外部前提を守るための体系的排斥として一貫している(詳しくは伊勢物語論で述べるが、象徴例として、体制貴族側の公任が選出した三十六歌仙から除外)。
そうして古今 938で唯一明示的に示された小町と文屋との仲、しかも懇意とする内容なのに、後世で六歌仙を描いた外部作品ではそれと真逆にし、意図的に小町に受け容れられない構図にし、その多くが主人公的な業平に対し、周辺の道化的役回りに設定している。

古今における六歌仙評においても業平認定の特別性ばかりが一方的に強調され、文屋と小町の別格配置および詞書構造は一切認識されていない。古今の読解が一面的で恣意的に過ぎる。
(選択的無視:selective neglect/体系的排除:systematic exclusion)
文屋の中心性は意図的に認識・分析対象から外され、その空白にはめ込むものとして業平像が一方的にあてがわれ、一方的に賛美され偶像化してきた。
(肯定的錯覚:positive illusion/理想化投影:idealized projection/選択的増幅:selective amplification)
文屋の低評価は、文献による評価によるものではなく、制度的・権威バイアスによる構造的抑圧に他ならない。
(動機づけられた推論:motivated reasoning/構造的周縁化:structural marginalization)

こうした一方的で権威主義的な抑圧的解釈と、古今の業平認定の根拠のなさに頑なに向き合わず伊勢物語をこれでもかこれでもかと徹底解体して議論が進んだとみなす思想は、軌を一にしている。