古今集の詞書分析:伊勢物語の支配的影響

目次 古今和歌集
詞書の分析
仮名序

 
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 表1歌単体詞書ランキング
 

 表2:保有歌数・詞書文字数・1首当たり詞書割合
 

 ここでは古今集の詞書を集計して視覚化し、揺るがない事実の根拠に基づき、古今集と伊勢物語との関係を分析する。
 伊勢物語の歌の詞書を左注扱いするものもあるが、それは貫之が土佐でも重んじた仲麻呂の歌との連続性を無視している(特に羇旅の配置)。古今と後撰の後に回すことと同様の場当たり的ご都合認定。それでは無名女の筒井筒が古今最長にされることも説明できない。「沖つ白波龍田山」は仲麻呂の歌同様、万葉以来の定型フレーズ、本歌取り。伊勢は一般に古今や後饌の歌を引用しまくった作品とされるが、伊勢は万葉すら直接引用していない。伊勢の登場人物は一貫して800年代、冒頭二条の后、敏行が終盤に若者として描かれ、存命表記の仁和帝が最後の帝。880年~886年頃の成立と見て何の問題もない。それをあえて著者複数・段階増補などと、専ら外部の事情で作品の一体性を破壊することを言い出したのは、当時からその圧倒的突出性を認められず、頭のとんだ業平のものと定義して安心し、著者無名性をいいことに古今と後撰の認定で好き勝手に解体したからである。それらは全て何らの内実も伴わない業平認定を自明の前提とし、その実態のなさを正当化し維持するための言説。そうした無茶苦茶な業平認定に全力で対抗したのが貫之の配置(後述)。個別では筒井筒。

 

表1:歌単体詞書数ランキング
伊勢該当個所 名前 字数 乖離率 歌番
1 23段:筒井筒 不知 298 18.63 994
2 9段:東下り (業) 252 15.75 411
3   仲麿 182 11.38 406
4 4段:西の対 (業) 146 9.13 747
5 83段:小野 (業) 135 8.44 970
6   敏行 133 8.31 874
7 9段:東下り (業) 124 7.75 410
8 5段:関守 (業) 123 7.69 632
9   有輔 122 7.63 853
10   遍昭 117 7.31 847
11 84段:さらぬ別れ (業) 107 6.69 900
12   閑院 105 6.56 857
13 82段:渚の院 (業) 101 6.31 418
14   貫之 97 6.06 42
15   不知 94 5.88 412
16   遍昭 91 5.69 248
17 82段:渚の院 (業) 91 5.69 884
18 107段:身を知る雨 (業) 89 5.56 705
19   滋春 87 5.44 862
20   興風 85 5.31 745
21   不知 84 5.25 375
22   不知 84 5.25 973
23   伊勢 81 5.06 920
24 48段:人待たむ里 (業) 78 4.88 969
25   文屋 77 4.81 8
26 69段:狩の使 不知 75 4.69 645
27   今道 75 4.69 870
28   兼輔 71 4.44 417
29   静子 71 4.44 930
30   近院 69 4.31 848
  伊勢率=40% 全体 16  /平均  

 

表2:保有歌数・詞書文字数・1首当たり詞書
歌合計順   詞書合計順   詞書率
名前 詞書   名前 詞書 詞率   名前 詞率
貫之 100 1802   貫之 1802 18.0   (業) 53.5
躬恒 58 1045   (業) 1604 53.5   文屋 32.6
友則 45 692   躬恒 1045 18.0   遍昭 30.2
素性 44 937   素性 937 21.3   滋春 25.7
忠岑 35 517   友則 692 15.4   敏行 23.4
(業) 30 1604   忠岑 517 14.8   興風 22.5
伊勢 23 397   遍昭 514 30.2   素性 21.3
敏行 19 445   敏行 445 23.4   18.5
小町 18 179   伊勢 397 17.3   貫之 18.0
遍昭 17 514   興風 382 22.5   躬恒 18.0
興風 17 382   深養 280 17.5   深養 17.5
深養 16 280   小町 179 9.9   伊勢 17.3
元方 14 104   文屋 163 32.6   貞文 16.4
千里 10 149   滋春 154 25.7   友則 15.4
貞文 9 148   千里 149 14.9   千里 14.9
是則 7 99   貞文 148 16.4   忠岑 14.8
宗于 6 50   111 18.5   是則 14.1
6 111   元方 104 7.4   兼覧 10.6
滋春 6 154   是則 99 14.1   小町 9.9
文屋 5 163   兼覧 53 10.6   宗于 8.3
兼覧 5 53   宗于 50 8.3   元方 7.4

 


 

 古今詞書上位5首(1筒井筒 2東下り 3仲麻呂 4西の対 5小野の雪)は、明確に古今以前の書物、つまり伊勢の参照を示している。

 貫之の土佐日記で仲麻呂の歌、伊勢の渚の院の歌も参照することから、これらは100%確実に貫之による配置である(いずれも特に解釈が問題となる内容)。
 

 一般に伊勢が段階的な増補を経て後撰集後の950年頃に成立したなどとされるが、その一貫した800年代の登場人物の具体的描写を無視し、無理にでも古今後に回されるのは、伊勢を古今前とすると細部を無視して伊勢を丸ごと業平日記とみなした古今の業平認定が崩れ(だから在五の日記という呼称があり、学者レベルでも業平の著作とみなしていた)、業平認定が維持できなくなるから以外にない。後撰集後にするのは、業平没後が確定する伊勢114段の歌の業平認定の不都合性を糊塗する場当たり的行平認定に従わせ、伊勢の筋を徹底的に無意味化させ(初段の狩衣の裾との掛かりを無視)、公の誤解を正当化するためである。

 加えて一連の圧倒的業平認定の上にある、それと絶対相容れない田舎の幼馴染の筒井筒の歌、仲麻呂同様の古歌の本歌取りを古今最長の詞書にするのは、伊勢が頭が悪いと評判の業平のものではないという貫之の絶対の意志表明と、貴族社会一般の業平認定の拒絶を示している。宮中の勅撰和歌集なのに無名の田舎女の歌が突出した詞書最長。この流れで出典が伊勢でないというのは無理。伊勢が古今以降の寄せ集めというのも無理。古今が参照した根拠は山ほどあり、伊勢が古今を引用しまくる動機も根拠も何もない。伊勢は万葉すら直接引用は一度もしていない。よって伊勢が古今を引用したのではなく、古今が伊勢を引用した。それこそが古今の本分。古今は撰者の書き下ろしでもない限り、根本的にオリジナルではない。寄せ集めの歌集である。

 貫之は業平を重んじたという学者もいるが、重んじたのは伊勢で業平ではない。貫之は明確に業平を否定している(文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平を恋三で敏行により連続を崩す)。この分野選定と人選に意味を見れないのは、和歌の完全素人としても異論はないだろう。古今最初の長文の詞書はその名に掛けた古今8の文屋で、古今9の貫之が人麻呂の下を固める赤人の配置。

 文屋と小町の反転した関係から、小町は文屋の歌手で、縫殿の同僚(小町針)。だから狩衣や唐衣を読む。大和物語の「苔の衣」という小町のエピソードで、小町に言い寄る歌を詠んだ遍照に会いに行こうとすると、なぜか遍照が逃げたのは、小町と一緒にいて歌を詠んだのが文屋だったから、としか解しようがない。小町と親しかった客観的な記録があるのは文屋のみ。小町には和歌を詠む内実はない。だから彼女だけが多作者の中で有意に詞書が少ないのである。それを丁度反転させた存在が文屋。

 一つにカドが立つから彼女に出してもらったと。だからろくな掛かりも読めない素人に文屋の歌は嘲笑されてすらいる。山風で嵐をばかにするから、在五を「けぢめ見せぬ心」とした伊勢63段の「百歳に一歳たらぬつくも髪」が白髪ともわからない。百から一引いて白。これが文屋が著者という一つの証拠。

  伊勢は全て文屋の歌。他人の歌とされても文屋の翻案(伊勢101段。行平のはらからは歌をもとより知らないが、強いて読ませればこのような歌であったという記述)。よって伊勢初段の源融の歌(陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに)も、伊勢14段・15段の陸奥の国としのぶ山を記した著者(文屋)の代作である(記述から陸奥に赴任した縁での代作)。加えて唯一二条の后の完全オリジナルの2つの詞書、文屋の三河への東下りをいう小町の詞書、いくらでもある。

 業平にはせいぜい素性と全く同じ屏風一枚。何の独自要素もない。自称すれば何とでも言えるレベルの内容。

 伊勢63段の在五こと業平の初出は古今53と63。これだけなら弱いが、上述の一連の配置を合わせると伊勢63段に掛けた根拠には十分なるだろう。業平の配置に最大限の注意が払われないことなどありえない。ありえると思うのは和歌を知らない素人。いや、初心者というところだろうか。
 

 なお、伊勢を古今の後回しにするために、業平認定に問題となる詞書を後付けの「左注」とする説があるが曲解で誤り。詞書は左にはない。このように業平認定を維持するために、他の全て(伊勢の記述・古今の詞書)をねじまげ、右にあるものすら平然と左とみなしはじめるのが、業平認定とそれを盲信する人々の一貫したスタイルである。これが右も左もわからない。一連一体の記述を断片化してねじまげない。それは事実に即していないということである。少なくとも土佐日記で引用される仲麻呂と同様の厚みをもつ上位三首・上位五首を別々のものと解する要素は何もない。上位三首の東下りと筒井筒の歌は、仲麻呂の歌と一連一体をなしているのだから(東下りは羇旅巻冒頭から人麻呂の歌を挟んで接続・筒井筒は本歌取り)。ごく素直に見て伊勢は古今以前に全て成立していた。そう見ないで、複数人による段階増補だ、詞書を左注だなどと言い出すのは、全て業平認定を維持するためであり、その業平に認定に事実上の根拠はないから、そのように錯綜することになっている。何より伊勢の筋の解釈があまりに支離滅裂で男として姑息で卑劣すぎる(初段や筒井筒)。それが業平を讃える世界観の限界。「けぢめ見せぬ心」の在五の描写で、それで主人公の面影とか(どこが?)、それを思慕した人物が書いて、古今を一つ残らずあますところなく引用したとか、理知的とされる貫之が古今の圧倒的配置を作り、紫が「伊勢の海の深き心」とすると思える。
 
 こうして伊勢は徹頭徹尾文屋の作であり、その人生と符号させ、880~886年頃のリリース(存命中の仁和帝=光孝天皇をいう114段参照)と見れば、その影響を明らかに受けた伊勢の御の大和物語(初段)も、亭子院(宇多帝。光孝の次代)をメインとする記述年代通り、900~930年頃の成立とすることができる。つまり土佐日記と同世代でこれが相応というもの。紫は「伊勢、貫之」と並べている。伊勢を業平のものとするから全てがおかしくなる。

 古今一般の学者たちはともかく、少なくとも貫之と紫は業平を絶対に認めていない。だから中将は無名の主人公のライバルで、絵合で絵を買いあさり、主人公自筆の絵日記に中将陣営が負け、主人公がついた伊勢斎宮陣営が勝利する(ちはらぶるの屏風の揶揄。在五が物語性の否定で伊勢物語)。