プロフィール

  

 六歌仙の文屋の康秀と同じ名前。
 法務博士。
 文屋は判事。さらに縫殿という後宮女官担当。このような経歴ある歌人は一人だけ。
 その知見と境遇を継承していると思ってほしい。


 昔はそういう経歴が普通だったとかいう根拠はなく、二条の后にも公に歌を提供し、小町とも応答した公式記録がある唯一の特殊性を殊更無視し、果ては卑しい道化として積極的に嘲笑し、二条の后を真っ先に間近な目線で行動を描写した伊勢物語の著者想定で、当初の馬鹿げた業平日記・業平歌集説を維持できなくなっても断固黙殺し続け、業平の呼称文献初出の伊勢63段「在五」以降、全ての業平登場段の業平への非難の文言を63段「けぢめ見せぬ心」を筆頭に「分け隔てしない心」と全力で曲げ(ここが日本のかな和歌理論の根本にある空虚な偶像・曲解・急所。つまり根本的に一方的なこじつけレベル)、著者はおばかで淫奔と評判の業平を思慕したと論理のかけらもない妄想を展開し続け、辻褄合わなくなると著者は複数とし適当な貴族を羅列し続けている所に、権威主義的で非学問的(問いが独善的)、いわば最も根深いこの国の典型的な思考様式の病理がある(自分達が集団で間違うと思わない。むしろ集団だから正解と思う。西洋化部分は多少の担保はあるにしても、それ以外は大政翼賛会のシュプレヒコールレベル。なぜなら批判的検討をそれらの秩序を乱す言いがかりとみなすから)。
 そもそも「在五」を蔑称と解せない・認められない時点で、半ば公知の皮肉で構成される京的含み・当てつけをたれる資格も素養も本来ない。机の勉強ばかりで生きた・総合的な文脈がわからない、そうした近視眼的な的外れ分析、辻褄合わせを学問的と思い、その目的は真理探究でなく内国的縄張り維持。神話信仰も自国の秩序維持の単なる方便。それが真理と思う世界観。これがヒト知覚中心で世界が構成されて回っていると思う、天動説的な根本で知的に傲慢な世界観。
 
 事実に多角的に即し、誰も説明できなかったことに無理なく筋を通すのが学問で、想像で事実を定義し言われたままごり押しひねり出すなら馬でもできる。

 

 文屋姓は極少数、宮城・神奈川・岡山・北海道・東京の順に居るとされるが、私はこの全てに住んだことがある(なお、父方が鳥取、母方が青森)。とはいえ「文屋」は公式な姓ではなくペンネーム的な呼称として用いていたと思うが…。文屋は文琳という別名(つまりペンネーム)を用いていたとされるが、それを日本語向けにしたものと思う。文琳は漢文用の名。

 

 生まれが岡山県奈義町(そこの裏山を那岐山といい、古事記の最初の男女の男・イザナギの那岐神社がある)、主な出身地が北海道。
 実家は春光という所で、嵐山も近くにあった(春・光・嵐・山いずれも文屋の和歌を象徴。古今8,百人一首22)、家も高校も6条で川が近い(六条河原は、京の源融の屋敷があった源氏本家・総本山の如き象徴的なところで、狩衣の歌(伊勢初段→古今・百人一首)を源融に請われ文屋が提供した。伊勢81段。歌の実績がない源融に歌を繰る才能などない。そういう外形的な根拠がない。縫殿の文屋には東下りの唐衣など衣の歌を詠む根拠がある。学説はそうした有機的つながりを無視して、権威主義的に当てつけまくっているに過ぎない)。
 実家の前の通りは井上靖通りという公園通りで(私は全国めぐったが、この通りは春夏秋冬のセクションに分けられており全国、いや世界的に非常にレベルが高い遊歩道と思う。リンク先は国交省で国が整備していると思うと納得だがどういう経緯でそこまで整備されたのかは謎)、現在は東京・靖国神社辺りで、住まいの横は靖国通り。ちなみに文筆家の井上靖は軍医の子で、生まれが旭川だったというに過ぎない。とはいえその境遇は私に少し似てなくもないかもしれない。

 

 上の画像のアシタカという青年は、大体の私のイメージのようなものだが、彼は東と北の間から出て来たエミシの一族で、最終的にタタラバに行き着き、タタラバのモデルは島根県雲南市(出雲の隣)とか言われている。アシタカはタタラバで女性達の仕事場を見学して加わったりしていた。文屋の職掌もこんな感じだったといえるだろう。

 

 こうした観点から、竹取物語と伊勢物語が文屋の作というのは私の面白仮説ではなく、多角的証拠で盤石に証明できる100%絶対の事実。

 伊勢物語は業平を主人公としたものとする、自分で古文を読めない人達にいつまでも参照し続けられる空虚な定説は、空が回って見えるからという自分達中心の天動説のように、根本が集団的思い込みで構成されており、諸々の事実にも、何より伊勢物語の文言に基づくものでも一切ない。

 

 今も昔も、古文など誰も自分では読めない。学者も含め従来の解説に基づいて読めたことにしている。これにより貫之は古今仮名序で、古の事も歌の心をも知る者は一人二人とした。学者は良くて古の事しか知らず心がわからない。大方の歌人は古に通じる理解力(高度に知的な集中力)が足りないので、古の歌の心がわからない。
 ここに含まれる歌人は、人麻呂・赤人・文屋・貫之・紫式部・定家・末代含めれば芭蕉のみ。これらは古の心を全うするために生きた者達。
 私はこれらのスポークスマンのようなもので、彼らが書いた大意は見れば分かる。配置が解る。象徴表現の意味が解る。学説の過ちは見た瞬間にわかる。訳出の苦労は相当と思うが、文字起こしから訳まで通すこと自体が無理。一次産業の人達に最高級クラシックホテルの料理を作らせる位無理。
 このサイトで厚く論じている所ほど、上の者達の強い意を受けていると思ってほしい。それより巷の解説が納得できるならそれで構わない。人には知覚が及ぶ限度というのがある。

 

 業平を象徴する「在五」、その大元の文献、伊勢物語63段で著者が「在五」に対し「けぢめ見せぬ心」とした一般の淫奔評通りの非難を、一致した通説は「分け隔てしない心」と全力で曲げる、この姑息で滑稽な曲解が、学説が業平業平と挙げるかな和歌理論大元にある空虚な実態。
 和歌のわけのわからなさは一般読者の理解力不足より、学説が何も理解していないのに理解したことにし、文言を自分達本位で捻じ曲げて定義してきたことによるところが大きい。
 黒船に脅かされGHQに何度も添削されることもなく自分達本位の立論にふけり続け、その知性を担う立場になった人々もその空虚さを認められず、その頭の悪さを総じて古典作品のせいにしてきた(一部の学説の諫めはあるものの散発的であってないようなもの)。こうした態度をもって、古を知的な要とする英米を中心とした占領軍が日本を六歳児と評して何の不思議もない。奈良時代の九九早見表が発見され、我が国は当時から凄かったとかいうのがその一例。一般の反応を取り上げるのはアンフェアかもしれないが、こうしたしょうもないレベルを基準にした反応は、古文における教育者達の反応と全く軌を一にしていると思う。

 

 狩衣、唐衣(女物の衣)など伊勢物語を象徴する縫殿関連の歌詞、その後宮勤めを裏付けるように二条の后に近侍し歌を提供した唯一かつ確実な記録、東下りの三河に赴任した記録、こうした記録を多角的に積み重ねれば、伊勢物語著者は文屋しかない。他の著者や業平の歌と想定すること自体が、伊勢物語で元方のはらから(つまり繰り返される文脈上業平以外ありえない)はもとより歌は詠めないとしているように無理だが、専ら自分達の面子の都合で、前時代的で頭の悪いみなし認定を正当化し続け、事実に基づかないのは物語の方(虚構が織り交ぜられた、次第に仮託から離れた)と、著者に責任転嫁する方向で立論がされ続けてきた。
 

 私は大学どころか30代後半(2019年)まで古文にも和歌にも興味はなかったが、六階の六つの席の職場に小野さんという方が来た頃(日中が小野さんの席で、夕方から私で同じ席。小野さんの最寄りは越谷、私は市ヶ谷)、竹取と伊勢を読み、原文を見たまま意味が解り、成立背景もわかった。

 

 六歌仙唯一の女性が小野小町。彼女は見た目が先で有名になったのではない。貴族全盛を象徴する平安時代に、女性でしかも身元不詳なのに、なぜか古今の和歌上位だから有名になったのであり、美人というのはその訳のわからなさを埋める後づけに過ぎない(古今で上位20人中女子は2人、伊勢の御息所と小町のみ。平安初期に仮名文字は女性文字という根拠などなく、古今だけでもそういう根拠はない。土佐日記の「女もしてみむ」で貫之が女を装ったとする定説はそういう思い込みを注入したあらゆる事実に反した循環論法)。
 そして小町の歌は文屋の作詞ということは、縫殿という特殊な文屋の経歴、小町が断固男を拒んだ小町針という逸話、古今の秋下恋二で巻先頭連続という両者表裏一体の配置、小町が返事した相手は文屋のみ(古今938)であることから、盤石に証明できる(先頭連続は他は物名の敏行のみ、業平は恋三で敏行に先頭を崩される。ページフッター部研究概要参照)。
 これらは文屋8・9貫之と文屋を立て最初に詞書を付し、物知らぬ世間の業平上げに断固対抗した貫之の配置という他ないが、学説は伝統的に文屋を軽視してきたため、こうした配置を認知できない。

 これらは何かの参考文献をヒントにして考えたのではなく、竹取から読み始めて一年ほどで自分で古今の原文データを整理し理解した。学説が見たまま意味をとれてないのもわかる。

 
 自分達で決めれば何でも正しくできると思う、これが無法で古くは末法(普遍の法・摂理の無理解)。
 自分達の理屈が世界を支配していると思い込む、これが公頂点主義教育の認識の構造的限界。
 摂理を考えたこともない人の論理と理論は、根本が自分達本位で当てつけた理屈に過ぎない。