平家物語 灌頂巻 女院死去 原文

六道之沙汰
異:六道
平家物語
灌頂巻
女院死去
にょいんしきょ
異:六道
正節:御往生
平家物語 終  

 
 さるほどに寂光院の鐘の声、今日も暮れぬと打ち知られ、夕陽西に傾けば、御名残惜しうは思しけれども、御涙を押さへて、還御ならせ給ひけり。女院は今さら古を思し召し出ださせ給ひて、忍びあへぬ御涙に袖のしがらみせきあへさせ給はず。
 遥かに御覧じ送らせ給ひて、還御もやうやう延びさせ給ひければ、御本尊に向かひ奉り、「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と泣く泣く祈らせ給ひけり。
 昔は東に向かはせ給ひて、「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算千秋万歳」と申させ給ひしに、今は引きかへて、西に向かひ手を合はせ、「過去聖霊一仏浄土へ」と祈らせ給ふこそ悲しけれ。御寝所の障子にかうぞ遊ばされける。 
 

♪104
 このごろは いつ習ひてか わが心
  大宮人の 恋しかるらん 

 

♪105
 いにしへも 夢になりにし 事なれば
  柴のあみ戸も ひさしからじな

 
 御幸の御供に候はれける、徳大寺の左大将実定公、御庵室の柱に書きつけられけるとかや。 
 

♪106
 いにしへは 月にたとへし 君なれど
  その光なき 深山辺の里

 
 来し方行く末の事ども思し召し続けて、御涙にむせばせ給ふ。折しも山ほととぎすの音づれければ、女院、
 

♪107
 いざさらば 涙くらべん ほととぎす
  我もうき世に 音をのみぞ泣く

 
 そもそも壇浦にて、生きながら捕はれし人々は、大路を渡して首を刎ねられ、妻子に離れて遠流せらる。
 池大納言のほかは、一人も命を生けられず、都に置かず。されど四十四人の女房達の御事は、沙汰にも及ばざりしかば、親類に従ひ、所縁についてぞおはしける。上は玉の簾の中までも風静かなる家もなく、下は柴の枢のもとまでも、塵をさまれる宿もなし。枕を並べし妹背も、雲居のよそにぞなりはつる。
 養ひたてし親子も、行き方知らず別れけり。忍ぶ思ひは尽きせねども、歎きながらもさてこそ過ごされけれ。
 これはただ入道相国、一天四海を掌に握つて、上は一人をも恐れず、下は万民をも顧みず、死罪、流刑思ふ様に行ひ、世をも人をも憚られざりしが致す所なり。父祖の罪業は子孫に報ふといふ事疑ひなしとぞ見えたりける。
 

 かくて年月を過ごさせ給ふほどに、女院御心地ならず渡らせ給ひしかば、中尊の御手の五色の糸をひかへつつ、「南無西方極楽世界教主弥陀如来、必ず引摂し給へ」とて、御念仏ありしかば、大納言佐の局、阿波内侍、左右に候ひて、今を限りの悲しさに、声も惜しまず泣き叫ぶ。御念仏の声、やうやう弱らせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室に満ち、音楽空に聞こゆ。
 限りある御事なれば、建久二年二月の中旬に、一期遂に終はらせ給ひけり。
 きさいの宮の御位より片時も離れ参らせずして候ひなれ給ひしかば、御臨終の御時、別れ路に迷ひしもやる方なくぞおぼえける。この女房達は、昔の草のゆかりも果てて、寄る方もなき身なれども、折々の御仏事営み給ふぞあはれなる。遂にかの人々は、竜女が正覚の跡を追ひ、韋提希夫人のごとくに、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。
 

六道之沙汰
異:六道
平家物語
灌頂巻
女院死去
にょいんしきょ
異:六道
正節:御往生
平家物語 終