源氏物語 8帖 花宴:あらすじ・目次・原文対訳

紅葉賀 源氏物語
第一部
第8帖
花宴

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 花宴(はなのえん)のあらすじ

 如月に紫宸殿で催された桜花の宴で、光源氏頭中将らと共に漢詩を作り舞を披露した。宴の後、朧月夜に誘われふと入り込んだ弘徽殿で、源氏は廊下から聞こえる歌に耳を澄ます。
 照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に似るものぞなき
 源氏はその歌を詠んでいた若い姫君と出逢い契りを交わす。素性も知らぬままに扇を取り交わして別れた姫君こそ、東宮への入内が決まっている右大臣の六の君(朧月夜)だった。

 一月後、右大臣家の藤花の宴に招かれた源氏は装いを凝らして訪れた。 右大臣にかなり呑まされ、酔いを醒ますためその場を離れた源氏。偶然通りかかったところで、御簾のうちにいる六の君を発見。歌を詠みかけるが(催馬楽「石川」)、事情を知らない六の君の姉妹たちは「おかしな高麗人がいるものね」と訝しがる。ついに見つけ出した、源氏はさりげなく姫君の手を握った

(以上Wikipedia花宴より。色づけは本ページ) 

 この朧月夜は、様々な事情とあいまって以下の伊勢69段(狩の使)の伊勢斎宮との夜を連想させるもの。
 「月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて我が寝る所に率ていり」
 扇を取り交わして別れたこと(扇ばかりをしるしに取り換へて出でたまひぬ)は、69段で別れ際に斎宮から出した盃に対応(夜やうやう明けなむとするほどに、女方よりいだすさかづきの皿に歌を書きていだしたり)。

 

目次
和歌抜粋内訳#花宴(8首:別ページ)
主要登場人物
 
第8帖 花宴(はなのえん)
 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語
 第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴
 第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う
 第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる
 第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲
 第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
十八歳から十九歳 参議兼近衛中将
呼称:源氏の君・宰相中将・男君・君
頭中将(とうのちゅうじょう)
葵の上の兄
呼称:中将
桐壺帝(きりつぼのみかど)
光る源氏の父
呼称:帝・主上
弘徽殿女御(こうきでんのにょうご)
桐壺帝の女御、東宮の母
呼称:春宮の女御・女御
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
桐壺帝の后、光る源氏の継母
呼称:藤壺・中宮・后
葵の上(あおいのうえ)
光る源氏の正妻
呼称:大殿
朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)
右大臣の娘、弘徽殿女御の妹
呼称:有明の君・六の君

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(明融臨模本
現代語訳
(渋谷栄一)
  花宴(はなのえん)
 
   朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語
 
 

第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴

 
1  如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。
 后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。
 弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。
 
 如月の二十日過ぎに、南殿の桜の宴をお催しあそばす。
 中宮と、春宮の御座所を、玉座の左右に設けて、お二方が参上なさる。
 弘徽殿の女御は、中宮がこのようにお座りになるのを、機会あるごとに不愉快にお思いになるが、見物だけはお見過ごしできないで、参上なさる。
 
2  日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆、探韻賜はりて文つくりたまふ。
 宰相中将、「春といふ文字賜はれり」と、のたまふ声さへ、例の、人に異なり。
 次に頭中将、人の目移しも、ただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものものしくすぐれたり。
 さての人びとは、皆臆しがちに鼻白める多かり。
 地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに、恥づかしく、はるばると曇りなき庭に立ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。
 年老いたる博士どもの、なりあやしくやつれて、例馴れたるも、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。
 
 その日はとてもよく晴れて、空の様子や、鳥の声も、気持ちよさそうな折に、親王たちや、上達部をはじめとして、その道の人々は皆、韻字を戴いて詩をお作りになる。
 源氏の宰相中将の、「春という文字を戴きました」と、おっしゃる声までが、例によって、他の人とは格別である。
 次に頭中将は、その目で次に見られるのも、どう思われるかと不安のようだが、とても好ましく落ち着いて、声の上げ方など、堂々として立派である。
 その他の人々は、皆気後れしておどおどした様子の者が多かった。
 地下の人は、それ以上に、帝、春宮の御学問が素晴らしく優れていらっしゃる上に、このような作文の道に優れた人々が多くいられるころなので、気後れがして、広々と晴の庭に立つ時は、恰好が悪くて、簡単なことであるが、大儀そうである。
 高齢の博士どもの、姿恰好が見すぼらしく貧相だが、場馴れているのも、しみじみと、あれこれ御覧になるのは、興趣あることであった。
 
3  楽どもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。
 やうやう入り日になるほど、春の鴬囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀の折、思し出でられて、春宮、かざし賜はせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちてのどかに袖返すところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。
 左大臣、恨めしさも忘れて、涙落したまふ。
 
 舞楽類などは、改めて言うまでもなく万端御準備あそばしていた。
 だんだん入日になるころ、「春鴬囀」という舞が、とても興趣深く見えるので、源氏の君の御紅葉の賀の折を、自然とお思い出されて、春宮が、挿頭を御下賜になって、しきりに御所望なさるので、お断りし難くて、立ち上ってゆっくりと袖を返すところを一さしお真似事のようにお舞いになると、当然似るものがなく素晴らしく見える。
 左大臣は、恨めしさも忘れて、涙を落としなさる。
 
4  「頭中将、いづら。遅し」  「頭中将は、どこか。早くせよ」
5  とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと、心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣賜はりて、いとめづらしきことに人思へり。
 上達部皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。
 文など講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、句ごとに誦じののしる。
 博士どもの心にも、いみじう思へり。
 
 との仰せなので、「柳花苑」という舞を、この人はもう少し念入りに舞ったが、このようなこともあろうかと、心づもりをしていたのであろうか、まことに興趣深いので、御衣を御下賜になって、実に稀なことだと人は思った。
 上達部は皆順序もなくお舞いになるが、夜に入ってからは、特に巧拙の区別もつかない。
 詩を読み上げる時にも、源氏の君の御作を、講師も読み切れず、句毎に読み上げては誉めそやす。
 博士どもの心中にも、非常に優れた詩であると認めていた。
 
6  かうやうの折にも、まづこの君を光にしたまへれば、帝もいかでかおろかに思されむ。
 中宮、御目のとまるにつけて、「春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂し」とぞ、みづから思し返されける。
 
 このような時でも、まずこの君を一座の光にしていらっしゃるので、帝もどうしておろそかにお思いでいられようか。
 中宮は、お目が止まるにつけ、「春宮の女御が無性にお憎みになっているらしいのも不思議だ、自分がこのように心配するのも情けない」と、自身お思い直さずにはいらっしゃれないのであった。
 
 

101
「おほかたに 花の姿を 見ましかば
 つゆも心の おかれましやは」
 「何の関係もなく花のように美しいお姿を拝するのであったなら
  少しも気兼ねなどいらなかろうものを」
 
7  御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ。
 
 御心中でお詠みになった歌が、どうして世間に洩れ出てしまったのだろうか。
 
 
 

第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う

 
8  夜いたう更けてなむ、事果てける。
 
 夜もたいそう更けて御宴は終わったのであった。
 
9  上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえたまひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壺わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。
 
 上達部はそれぞれ退出し、中宮、春宮も還御あそばしたので、静かになったころに、月がとても明るくさし出て美しいので、源氏の君は、酔心地に見過ごし難くお思いになったので、「殿上の宿直の人々も寝んでいて、このように思いもかけない時に、もしや都合のよい機会もあろうか」と、藤壺周辺を、無性に人目を忍んであちこち窺ったが、手引を頼むはずの戸口も閉まっているので、溜息をついて、なおもこのままでは気がすまず、弘徽殿の細殿にお立ち寄りになると、三の口が開いている。
 
10  女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。
 奥の枢戸も開きて、人音もせず。
 
 女御は、上の御局にそのまま参上なさったので、人気の少ない感じである。
 奥の枢戸も開いていて、人のいる音もしない。
 
11  「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら上りて覗きたまふ。
 人は皆寝たるべし。
 いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、
 「このような無用心から、男女の過ちは起こるものだ」と思って、そっと上ってお覗きになる。
 女房たちは皆眠っているのだろう。
 とても若々しく美しい声で、並の身分とは思えない女が、
12  「朧月夜に似るものぞなき」  「朧月夜に似るものはない」
13  とうち誦じて、こなたざまには来るものか。
 いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。
 女、恐ろしと思へるけしきにて、
 と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。
 とても嬉しくなって、とっさに袖をお捉えになる。
 女は、怖がっている様子で、
14 「あな、むくつけ。
 こは、誰そ」とのたまへど、
 「あら、嫌ですわ。
 これは、どなたですか」とおっしゃるが、
15 「何か、疎ましき」とて、  「どうして、嫌ですか」と言って、
 

102
 「深き夜の あはれを知るも 入る月の
 おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ」
 「趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも
  前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます」
 
16  とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。
 あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。
 わななくわななく、
 と詠んで、そっと抱き下ろして、戸は閉めてしまった。
 あまりの意外さに驚きあきれている様子が、とても親しみやすくかわいらしい感じである。
 怖さに震えながら、
17  「ここに、人」  「ここに、人が」
18  と、のたまへど、  と、おっしゃるが、
19  「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。
 ただ、忍びてこそ」
 「わたしは、誰からも許されているので、人を呼んでも、何ということありませんよ。
 ただ、じっとしていなさい」
20  とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。
 わびしと思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。
 酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。
 
 とおっしゃる声で、この君であったのだと理解して、少しほっとするのであった。
 やりきれないと思う一方で、物のあわれを知らない強情な女とは見られまい、と思っている。
 酔心地がいつもと違っていたからであろうか、手放すのは残念に思われるし、女も若くなよやかで、強情な性質も持ち合わせてないのであろう。
 
21  らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。
 女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。
 
 かわいらしいと御覧になっていらっしゃるうちに、間もなく明るくなって行ったので、気が急かれる。
 女は、男以上にいろいろと思い悩んでいる様子である。
 
22  「なほ、名のりしたまへ。
 いかでか、聞こゆべき。
 かうてやみなむとは、さりとも思されじ」
 「やはり、お名前をおっしゃってください。
 どのようして、お便りを差し上げられましょうか。
 こうして終わろうとは、いくら何でもお思いではあるまい」
23  とのたまへば、  とおっしゃると、
 

103
 「憂き身世に やがて消えなば 尋ねても
 草の原をば 問はじとや思ふ」
 「不幸せな身のまま名前を明かさないでこの世から死んでしまったなら
  野末の草の原まで尋ねて来ては下さらないのかと思います」
 
24  と言ふさま、艶になまめきたり。
 
 と詠む態度、優艶で魅力的である。
 
25  「ことわりや。
 聞こえ違へたる文字かな」とて、
 「ごもっともだ。
 申し損ねた言葉でしたね」と言って、
 

104
 「いづれぞと 露のやどりを 分かむまに
 小笹が原に 風もこそ吹け
 「どなたであろうかと家を探しているうちに
  世間に噂が立ってだめになってしまうといけないと思いまして
 
26  わづらはしく思すことならずは、何かつつまむ。
 もし、すかいたまふか」
 ご迷惑にお思いでなかったら、何の遠慮がいりましょうか。
 ひょっとして、おだましになるのですか」
27  とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り換へて、出でたまひぬ。
 
 とも言い終わらないうちに、女房たちが起き出して、上の御局に参上したり下がって来たりする様子が、騒がしくなってきたので、まことに仕方なくて、扇だけを証拠として交換し合って、お出になった。
 
28  桐壺には、人びと多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、  桐壺には、女房が大勢仕えていて、目を覚ましている者もいるので、このような朝帰りを、
29  「さも、たゆみなき御忍びありきかな」  「何とも、ご熱心なお忍び歩きですこと」
30  とつきしろひつつ、そら寝をぞしあへる。
 入りたまひて臥したまへれど、寝入られず。
 
 と突つき合いながら、空寝をしあっていた。
 お入りになって横になられたが、眠ることができない。
 
31  「をかしかりつる人のさまかな。
 女御の御おとうとたちにこそはあらめ。
 まだ世に馴れぬは、五、六の君ならむかし。
 帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よしと聞きしか。
 なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし。
 六は春宮にたてまつらむとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな。
 わづらはしう、尋ねむほどもまぎらはし、さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを、いかなれば、言通はすべきさまを教へずなりぬらむ」
 「美しい人であったなあ。
 女御の御妹君であろう。
 まだうぶなところから、五の君か六の君であろう。
 帥宮の北の方や、頭中将が気にいっていない四の君などは、美人だと聞いていたが。
 かえってその人たちであったら、もう少し味わいがあったろうに。
 六の君は春宮に入内させようと心づもりをしておられるから、気の毒なことであるなあ。
 厄介なことだ、尋ねることもなかなか難しい、あのまま終わりにしようとは思っていない様子であったが、どうしたことで、便りを通わす方法を教えずじまいにしたのだろう」
32  など、よろづに思ふも、心のとまるなるべし。
 かうやうなるにつけても、まづ、「かのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはや」と、ありがたう思ひ比べられたまふ。
 
 などと、いろいろと気にかかるのも、心惹かれるところがあるのだろう。
 このようなことにつけても、まずは、「あの方の周辺の有様が、どこよりも奥まっているな」と、世にも珍しくご比較せずにはいらっしゃれない。
 
 
 

第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる

 
33  その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ。
 箏の琴仕うまつりたまふ。
 昨日のことよりも、なまめかしうおもしろし。
 藤壺は、暁に参う上りたまひにけり。
 「かの有明、出でやしぬらむ」と、心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良清、惟光をつけて、うかがはせたまひければ、御前よりまかでたまひけるほどに、
 その日は後宴の催しがあって、忙しく一日中お過ごしになった。
 箏の琴をお務めになる。
 昨日の御宴よりも、優美に興趣が感じられる。
 藤壺は、暁にお上りになったのであった。
 「あの有明の女君は、退出してしまうのではなかろうか」と、心も上の空で、何事につけても手抜かりのない良清や惟光に命じて、見張りをさせておかれたところ、御前から退出なさった時に、
34  「ただ今、北の陣より、かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかり出づる。
 御方々の里人はべりつるなかに、四位の少将、右中弁など急ぎ出でて、送りしはべりつるや、弘徽殿の御あかれならむと見たまへつる。
 けしうはあらぬけはひどもしるくて、車三つばかりはべりつ」
 「たった今、北の陣から、あらかじめ物蔭に隠れて立ててたった車どもが退出しました。
 御方々の実家の人がございました中で、四位少将や右中弁などが急いで出てきて、送って行きましたのは、弘徽殿方のご退出であろうと拝見しました。
 ご立派な方が乗っている様子がはっきり窺えて、車が三台ほどでございました」
35  と聞こゆるにも、胸うちつぶれたまふ。
 
 とご報告申し上げるにつけても、胸がどきっとなさる。
 
36  「いかにして、いづれと知らむ。
 父大臣など聞きて、ことごとしうもてなさむも、いかにぞや。
 まだ、人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし。
 さりとて、知らであらむ、はた、いと口惜しかるべければ、いかにせまし」と、思しわづらひて、つくづくとながめ臥したまへり。
 
 「どのようにして、どの君と確かめ得ようか。
 父大臣などが聞き知って、大げさに婿扱いされるのも、どんなものか。
 まだ、相手の様子をよく見定めないうちは、厄介なことだろう。
 そうかと言って、確かめないでいるのも、それまた、誠に残念なことだろうから、どうしたらよいものか」と、ご思案に余って、ぼんやりと物思いに耽り横になっていらっしゃった。
 
37  「姫君、いかにつれづれならむ。
 日ごろになれば、屈してやあらむ」と、らうたく思しやる。
 かのしるしの扇は、桜襲ねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。
 「草の原をば」と言ひしさまのみ、心にかかりたまへば、
 「対の姫君は、どんなに寂しがっているだろう。
 逢わないで何日にもなっているから、ふさぎこんでいるだろうか」と、いじらしくお思いやりなさる。
 あの証拠の扇は、桜襲の色で、色の濃い片面に霞んでいる月を描いて、水に映している図柄は、よくあるものだが、人柄も奥ゆかしく使い馴らしている。
 「草の原を尋ねてくださらないか」と詠んだ姿ばかりが、お心にかかりになさるので、
 

105
 「世に知らぬ 心地こそすれ 有明の
 月のゆくへを 空にまがへて」
 「今までに味わったことのない気がする
  有明の月の行方を途中で見失ってしまって」
 
38  と書きつけたまひて、置きたまへり。
 
 と扇にお書きつけになって、取って置きなさった。
 
 
 

第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲

 
39  「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ、こしらへむと思して、二条院へおはしぬ。
 見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬づきらうらうじき心ばへ、いとことなり。
 飽かぬところなう、わが御心のままに教へなさむ、と思すにかなひぬべし。
 男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ。
 
 「大殿にも久しく御無沙汰してしまったなあ」とお思いになるが、若君も気がかりなので、慰めようとお思いになって、二条院へお出かけになった。
 見るたびごとにとてもかわいらしく成長して、魅力的で利発な気立て、まことに格別である。
 不足なところがなく、ご自分の思いのままに教えよう、とお思いになっていたのに、きっと叶うにちがいない。
 男手のお教えなので、多少世間馴れしたところがあるかも知れない、と思う点が不安である。
 
40  日ごろの御物語、御琴など教へ暮らして出でたまふを、例のと、口惜しう思せど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひまつはさず。
 
 この数日来のお話やお琴などを教えて一日過ごしてお出かけになるのを、いつものと、残念にお思いになるが、今ではとてもよく躾けられて、むやみに後を追ったりしない。
 
41  大殿には、例の、ふとも対面したまはず。
 つれづれとよろづ思しめぐらされて、箏の御琴まさぐりて、
 大殿では、女君は例によって、直ぐにはお会いなさらない。
 所在なくいろいろとお考え廻らされて、箏のお琴を手すさびに弾いて、
42  「やはらかに寝る夜はなくて」  「心地好く寝られる夜がなくて」
43  とうたひたまふ。
 大臣渡りたまひて、一日の興ありしこと、聞こえたまふ。
 
 とお謡いになる。
 大臣が渡っていらして、先日の御宴の趣深かったこと、お話し申し上げなさる。
 
44  「ここらの齢にて、明王の御代、四代をなむ見はべりぬれど、このたびのやうに、文ども警策に、舞、楽、物の音どもととのほりて、齢延ぶることなむはべらざりつる。
 道々のものの上手ども多かるころほひ、詳しうしろしめし、ととのへさせたまへるけなり。
 翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし」
 「この高齢で、明王の御世を、四代にわたって見て参りましたが、今度のように作文類が優れていて、舞や、楽、楽器の音色が整っていて、寿命の延びる思いをしたことはありませんでした。
 それぞれ専門の道の名人が多いこのころに、お詳しく精通していらして、お揃えあそばしたからです。
 わたくしごとき老人も、ついつい舞い出してしまいそうな心地が致しました」
45  と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
46  「ことにととのへ行ふこともはべらず。
 ただ公事に、そしうなる物の師どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。
 よろづのことよりは、「柳花苑」、まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに、まして「さかゆく春」に立ち出でさせたまへらましかば、世の面目にやはべらまし」
 「特別に整えたわけではございません。
 ただお役目として、優れた音楽の師たちをあちこちから捜したまでのことです。
 何はさておき、「柳花苑」は、本当に後代の例ともなるにちがいなく拝見しましたが、まして、「栄えゆく御代の春」に倣って舞い出されたら、どんなにか一世の名誉だったでしょうに」
47  と聞こえたまふ。
 
 とお答え申し上げになる。
 
48  弁、中将など参りあひて、高欄に背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ、いとおもしろし。
 
 左中弁や、頭中将の君なども来合わせて、高欄に背中を寄り掛らせて、めいめいが楽器の音を調えて合奏なさる、まことに素晴らしい。
 
 
 

第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴

 
49  かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて、いともの嘆かしうながめたまふ。
 春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、いとわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生の二十余日、右の大殿の弓の結に、上達部、親王たち多く集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。
 
 あの有明の君は、夢のようにはかなかった逢瀬をお思い出しになって、とても物嘆かしくて物思いに沈んでいらっしゃる。
 春宮には、卯月ころに入内とご予定になっていたので、とてもたまらなく悩んでいらっしゃったが、男君も、お捜しになるにも手がかりがないわけではないが、どの姫君とも分からず、特に好ましく思っておられないご一族に関係するのも、体裁の悪いと思い悩んでいらっしゃるところに、弥生の二十日過ぎに、右の大殿の弓の結があり、上達部や、親王方が、大勢お集まりになって、引き続いて藤の花の宴をなさる。
 
50  花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、二木ぞいとおもしろき。
 新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。
 はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。
 
 桜の花盛りはもう過ぎてしまったが、「他のが散りってしまった後に」と、教えられたのであろうか、遅れて咲く桜、二本がとても美しい。
 新しくお造りになった御殿を、姫宮たちの御裳着の儀式の日に、磨き飾り立ててある。
 派手好みでいらっしゃるご家風のようで、すべて当世風に洒落た行き方になさっている。
 
51  源氏の君にも、一日、内裏にて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なしと思して、御子の四位少将をたてまつりたまふ。
 
 源氏の君にも、先日、宮中でお会いした折に、ご案内申し上げなさったが、おいでにならないのでは、残念なので、折角の催しも見栄えがしない、とお思いになって、ご子息の四位少将をお迎えに差し上げなさる。
 
 

106
 「わが宿の 花しなべての 色ならば
 何かはさらに 君を待たまし」
 「わたしの邸の藤の花が世間一般の色をしているのなら
  どうしてあなたをお待ち致しましょうか」
 
52  内裏におはするほどにて、主上に奏したまふ。
 
 宮中においでの時なので、お上に奏上なさる。
 
53  「したり顔なりや」と笑はせたまひて、  「得意顔だね」と、お笑いあそばして、
54  「わざとあめるを、早うものせよかし。
 女御子たちなども、生ひ出づるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」
 「わざわざお迎えがあるようだから、早くお行きになるのがよい。
 女御子たちも成長なさっている所だから、赤の他人とは思っていまいよ」
55  などのたまはす。
 御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。
 
 などと仰せになる。
 御装束などお整えになって、たいそう日が暮れたころ、待ち兼ねられて、お着きになる。
 
56  桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。
 皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。
 花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。
 
 桜襲の唐織りのお直衣、葡萄染の下襲、裾をとても長く引いて。
 参会者は皆袍を着ているところに、しゃれた大君姿の優美な様子で、丁重に迎えられてお入りになるお姿は、なるほどまことに格別である。
 花の美しさも圧倒されて、かえって興醒ましである。
 
57  遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、紛れ立ちたまひぬ。
 
 管弦の遊びなどもとても興趣深くなさって、夜が少し更けていくころに、源氏の君は、たいそう酔って苦しいように見せかけなさって、人目につかぬよう座をお立ちになった。
 
58  寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。
 東の戸口におはして、寄りゐたまへり。
 藤はこなたの妻にあたりてあれば、御格子ども上げわたして、人びと出でゐたり。
 袖口など、踏歌の折おぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずと、まづ藤壺わたり思し出でらる。
 
 寝殿に、女一の宮、女三の宮とがいらっしゃる。
 その東の戸口にいらっしゃって、寄り掛かってお座りになった。
 藤の花はこちらの隅にあったので、御格子を一面に上げわたして、女房たちが端に出て座っていた。
 袖口などは、踏歌の時に似て、わざとらしく出しているのを、似つかわしくないと、まずは藤壺周辺の奥ゆかしさを思い出さずにはいらっしゃれない。
 
59  「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。
 かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」
 「苦しいところに、とてもひどく勧められて、困っております。
 恐縮ですが、この辺の物蔭にでも隠させてください」
60  とて、妻戸の御簾を引き着たまへば、  と言って、妻戸の御簾を引き被りなさると、
61  「あな、わづらはし。
 よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」
 「あら、困りますわ。
 身分の賎しい人なら、高貴な縁者を頼って来るとは聞いておりますが」
62  と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。
 
 と言う様子を御覧になると、重々しくはないが、並の若い女房たちではなく、上品で風情ある様子がはっきりと分かる。
 
63  そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。
 さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、
 空薫物を、とても煙たく薫らせて、衣ずれの音も、とても派手な感じにわざと振る舞って、心憎く奥ゆかしい雰囲気は欠けて、当世風な派手好みのお邸で、高貴な御方々が御見物なさるというので、こちらの戸口は座をお占めになっているのだろう。
 そうしてはいけないことなのだが、やはり興味をお惹かれになって、「どの姫君であったのだろうか」と、胸をどきどきさせて、
64  「扇を取られて、からきめを見る」  「扇を取られて、辛い目を見ました」
65  と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。
 
 と、わざとのんびりとした声で言って、近寄ってお座りになった。
 
66  「あやしくも、さま変へける高麗人かな」  「妙な、変わった高麗人ですね」
67  といらふるは、心知らぬにやあらむ。
 いらへはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳越しに手をとらへて、
 と答えるのは、事情を知らない人であろう。
 返事はしないで、わずかに時々、溜息をついている様子のする方に寄り掛かって、几帳越しに、手を捉えて、
 

107
 「梓弓 いるさの山に 惑ふかな
 ほの見し月の 影や見ゆると
 「月の入るいるさの山の周辺でうろうろと迷っています
  かすかに見かけた有明の月をまた見ることができようかと
 
68  何ゆゑか」  なぜでしょうか」
69  と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。
 
 と、当て推量におっしゃるのを、堪えきれないのであろう。
 
 

108
 「心いる 方ならませば 弓張の
 月なき空に 迷はましやは」
 「本当に深くご執心でいらっしゃれば
  たとえ月が出ていなくても迷うことがありましょうか」
 
70  と言ふ声、ただそれなり。
 いとうれしきものから。
 
 と言う声は、まさにその人のである。
 とても嬉しいのだが……。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(新古今集春上-五五 大江千里)(戻)  
  出典2 貫河の瀬々の やはら手枕 やはらかに 寝る夜はなくて 親離くる夫 親離くる夫は ましてるはし しかさらば 矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば 線鞋の 細底を買へ さし履きて 表裳とり着て 宮路かよはむ(催馬楽-貫河)(戻)  
  出典3 翁とてわびやはをらむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ(続日本後紀巻十二-三)(戻)  
  出典4 見る人もなき山里の桜花他の散りなむ後ぞ咲かまし(古今集春上-六八 伊勢)(戻)  
  出典5 石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔する いかなる 帯ぞ 縹の帯の 中はたいれたるか かやるか あやるか 中はいれたるか(催馬楽-石川)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 わびしとお--わひしとお(わひしとお/$)わひしと(戻)  
  校訂2 夜--(/+夜)(戻)  
  校訂3 あめるを--あめ(め/+る)を(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。