伊勢物語 29段:花の賀 あらすじ・原文・現代語訳

第28段
あふご形見
伊勢物語
第一部
第29段
花の賀
第30段
はつかなり

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、東宮(春宮)の女御のお方の花の賀(お花見会)に、召し預けられたので(代読=代作せよと呼ばれたので、そこで歌を詠んだ)。

 花に飽かぬ なげきはいつも せしかども 今日のこよひに 似る時はなし
 

 花に飽きないかという嘆きは、いつもするけども、今日今宵に 似る時はない 
 →この儚い美しさよ。それが忘れられないから、花を見ることはやめられない。
 

 というのは建前(仕事はした)。
 

 今日と今宵とかけて、今今しいとかけ、似るときなしで一度きりと解く。
 その心は(本心は)、このようによう詠んだげるのは、一度きりよ。
 

 飽きぬ=アカン、嘆き=ホントいや。(こういう暗示は万葉以来の伝統)
 だからそういう、ようわからん人達の宴会は、著者は苦手なの(27段)。
 詠みたいなら自分らで詠んで。詠めないなら、勉強すればいいじゃない。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第29段 花の賀
   
 むかし、
春宮の女御の御方の
花の賀に、
 むかし
春宮の女御の御方の
花の賀に、
 ニ條后の
春宮のみやす所と申ける時の御かたの
花の宴に。
  めしあづけられたりけるに、 めしあづけられたりけるに めしあげられたりけるに。
      肥後のすけなりける人。
       

62
 花に飽かぬ
 なげきはいつも
 せしかども
 花にあかぬ
 なげきはいつも
 せしかども
 花にあかぬ
 歎はいつも
 せしか共
  今日のこよひに
  似る時はなし
  けふのこよひに
  ゝる時はなし
  けふの今宵に
  しく物そなき
  (しくをりはなき一本)
       
       とよみてたてまつれり。
   

現代語訳

 
 

むかし、
春宮の女御の御方の花の賀に、めしあづけられたりけるに
 
 花に飽かぬ なげきはいつも せしかども
 今日のこよひに 似る時はなし

 
 
むかし、
 

春宮の女御の御方の
 
 ※これを一般には、二条の后:高子と解するが違うだろう。
 なぜなら、
 高子なら二条の后と明示されるし、また、嫁入り前のときは
 「二条の后の、 まだ春宮の御息所と申しける時」(76段)という趣旨の一連のフレーズで表現される(3段等)。
 他方で、
 「二条の后の、いとこの女御の御もとに」(6段)と女御とは明確に区別した表現がある。
 しかるに、
 ここでの「女御の御方」は「女御の御もと」と完璧に符合するから、二条の后ではないと解すべき。
 こう見ることで、最後の今宵一度だけ=これっきり、という解釈とも整合する。
 
 

花の賀に、
 
 →花に合わせて催す祝いの儀。お花見。花をあてにした特別な宴会。
 直接咲いているのをめでるほか、
 屋内で生けたものをめでることもしただろう。
 今宵とあることと(外を見るのに相応しくない)
 この歌の解釈(これきり)が、それを暗示している(切り花)。
 

めしあづけ(△あげ)られたりけるに
 召し上げられ、歌の代読を任された時に。
 
 ※召し上げ+預けと掛けた言葉。
 このように一体化した言葉は、この物語ではままある。

 召し上げ
 召集、仕事で呼ばれること。
 

 預け
 関係させるという解釈があるが、
 字義通り、頼み+委ねるという意味に解すべき。
 つまりこの言葉で、歌の代読(代詠)のため呼ばれたのだと、明確に表現している。
 

 代読しているから、それを象徴させ、冒頭にいつもの「男」を出していない。
 塗籠では(肥後のすけなりける人)と補うが、
 根拠の薄い表記の揺らぎの多さ、東下りの段のような歌の勝手な挿入からも、多分違うと思う。
 普通に「むかし、男」が歌ったもの。
 

 召し上げられているから、貴族の業平ではない。
 何度も出てくるように、主人公は宮仕えで忙しくする(田舎出身の)男。
 そう見ないから、あちこちで矛盾する。それを著者のせいにするなんて。あまりに失礼ではないのか。古典の始祖に対して。
 
 

花に飽かぬ
 花に飽きないかと
 

なげきはいつも
 嘆きはいつも
 

せしかども
 するけども
 

今日のこよひに
 今日の今宵に
 

似る時はなし
 似る時はない(一回だけね)
 

 その心は、「直接には言えんけど、こうして詠むのは、一回こっきり」
 こっきり=これきり。あ~これ切花ね。
 

 それを包んで、みやびな表現に昇華する。
 歌の水準は、人格の成熟度による。