古事記 墨江中王の反乱・放火~原文対訳

宮と系譜 古事記
下巻②
17代 履中天皇
墨江中王の反乱
當岐麻道の歌
原文 書き下し
(武田祐吉)
現代語訳
(武田祐吉)

大殿子守中の放火(大殿籠り×履中)

     
本坐
難波宮之時。
 もと
難波の宮にましましし時に、
 はじめ
難波の宮においでになつた時に、
坐大嘗而。 大嘗おほにへにいまして、 大嘗の祭を遊ばされて、
爲豐明之時。 豐の明あかりしたまふ時に、  
於大御酒
宇良宜而。
大御酒に
うらげて、
御酒みきに
お浮かれになつて、
大御寢也。 大御寢おほみねましき。 お寢やすみなさいました。
     
爾其弟
墨江中王。
ここにその弟
墨江すみのえの中つ王、
ここにスミノエノ
ナカツ王が
欲取天皇以。 天皇を取りまつらむとして、 惡い心を起して、
火著大殿。 大殿に火を著けたり。 大殿に火をつけました。
     

阿知直(アチチ)による救出

     
於是
倭漢直之祖。
ここに
倭やまとの漢あやの直あたへの祖、
この時に
大和の漢あやの直あたえの祖先の
阿知直。 阿知あちの直、 アチの直あたえが、
盜出而。 盜み出でて、 天皇をひそかに盜み出して、
乘御馬。 御馬に乘せまつりて、 お馬にお乘せ申し上げて
令幸於倭。 倭やまとにいでまさしめき。 大和にお連れ申し上げました。
     
故到于
多遲比野而。
かれ
多遲比野たぢひのに到りて、
そこで河内の
タヂヒ野においでになつて、
寤詔
此間者何處。
寤めまして詔りたまはく、
「此處ここは何處いづくぞ」
と詔りたまひき。
目がお寤さめになつて
「此處は何處だ」
と仰せられましたから、
爾阿知直白。 ここに阿知の直白さく、 アチの直が申しますには、
墨江中王。 「墨江の中つ王、 「スミノエノナカツ王が
火著大殿。 大殿に火を著けたまへり。 大殿に火をつけましたので
故率
逃於倭。
かれ率ゐまつりて、
倭に逃のがるるなり」
とまをしき。
お連れ申して
大和に逃げて行くのです」
と申しました。
     

多遲比野・ねむねむの歌~チッ屏風も持ってこいよ

     
爾天皇歌曰。 ここに天皇歌よみしたまひしく、 そこで天皇がお歌いになつた御歌、
     
多遲比怒邇 丹比野たぢひのに タヂヒ野で
泥牟登斯理勢婆 寢むと知りせば、 寢ようと知つたなら
多都碁母母 防壁たつごもも 屏風をも
母知弖許麻志母能 持ちて來ましもの。 持つて來たものを。
泥牟登斯理勢婆 寢むと知りせば。 寢ようと知つたなら。
     

波邇賦坂・陽炎の歌~あれ燃えてるのウチじゃん?

     
到於
波邇賦坂。
 波邇賦
はにふ坂に到りまして、
 ハニフ坂においでになつて、
望見難波宮。 難波の宮を見放さけたまひしかば、 難波の宮を遠望なさいましたところ、
其火猶炳。 その火なほ炳もえたり。 火がまだ燃えておりました。
爾天皇亦歌曰。 ここにまた歌よみしたまひしく、 そこでお歌いになつた御歌、
     
波邇布邪迦 波邇布はにふ坂 ハニフ坂に
和賀多知美禮婆 吾が立ち見れば、 わたしが立つて見れば、
迦藝漏肥能 かぎろひの  
毛由流伊幣牟良 燃ゆる家群むら、 盛んに燃える家々は
都麻賀伊幣能阿多理 妻つまが家いへのあたり。 妻が家のあたりだ。
宮と系譜 古事記
下巻②
17代 履中天皇
墨江中王の反乱
當岐麻道の歌