伊勢物語 85段:目離れせぬ雪 あらすじ・原文・現代語訳

第84段
さらぬ別れ
伊勢物語
第三部
第85段
目離れせぬ雪
第86段
おのがさまざま

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  わらは 宮仕へ 
 
  おほみきたまひ 雪こぼす 
 
  御ぞぬぎて 
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 83段から続き、坊頭になった惟喬親王の話。
 正月に惟喬邸に色んな親王達が集まってきたが、著者にはこの状況が凄くサムいので早く離れたいという暗語を歌った。
 すると惟喬が着ていた服をかけてきて、いや違うがなという話。
 

 思へども 身をしわけねば めかれせぬ 雪のつもるぞ わが心なる
 
 思っても、言うにいえないその気持ち、「むかし男」が「わが心」にかけて歌います。チャララ~♪
 
 え~、身を(し)わけねば離されずを、けして放してくれないとかけ、消えない雪のつもる寒空と解く。
 その心は、すげー白けて超サムい。はよかえしてーな。
 
 あ、ごめんね、イントロいらなかった?
 え、服脱いでくれた? いやそうじゃないって。これ、親王の超マジなボケね。配慮しているようだけど、言葉の含みを理解できてないのね。
 チミの服などいりません。とは言えないんだなこれが。
 
 ~
  
 遊び心がない、んなわけない。有常が出てくる段では、常に著者とボケあってるので(38段、恋といふ)。
 遊びがない人は危ない。ハンドルと同じ。遊びばかりで真剣になれないのはバ○だけども。
 
 理屈を超えた主従? なんですそれは。
 81-83段の描写の流れで、面倒な要請・仕事で、やむをえず行ってるって何でわからんの。
 あ、一応著者は業平ではないので。82段で業平(馬頭)の歌に真っ向からつっこむ、突如出現する人なので。じゃなきゃ誰なんだって話。
 それに著者と業平は明らかに主客を区別して書いている。「むかし男」は表記だけ別でも、著者と同一人物なのは明らか。
 
 渚の院なんて、81段からの流れでつき合わされているだけ。歌も詠めない人に、歌要員で駆り出されているだけ。
 仕える相手が、ブラブラ遊んで酒飲んでるだけの坊。
 そういう人のおもりが、美しい主従関係? 
 

 いや、理解を超えて、説明を放り投げただけじゃない。
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第85段 目離れせぬ雪
   
 むかし、男ありけり。  むかし、おとこありけり。  昔おとこ有けり。
  わらはより仕うまつりける君、 わらはよりつかうまつりけるきみ、 わらはよりつかうまつりける君。
  御ぐしおろし給うてけり。 御ぐしおろしたまうてけり。 御ぐしおろし給ふてけり。
  正月にはかならずまうでけり。 む月にはかならずまうでけり。 もとの心うしなはじとて。
む月にはかならずまうでけり。
  おほやけの宮仕へしければ、 おほやけの宮づかへしければ、 おほやけの宮づかへしければ。
  常にはえまうでず。 つねにはえまうでず。 しば〴〵もえまいらざりけれど。
  されど、もとの心うしなはで されど、もとの心うしなはで 心ざしばかりはかはらざりければ
  まうでけるになむありける。 まうでけるになむありける。 まうでたるに。
       
  むかし仕うまつり人、 むかしつかうまつりし人、 また昔つかうまつりし人の
  俗なる、禅師なる、 ぞくなる、ぜんじなる、 ぞくなる。ほうしなる。
  あまたまゐり集まりて、 あまたまいりあつまりて、 まいりあつまりて。
  正月なればことだつとて、 む月なれば事だつとて、 む月なれば。ことたべ[たつイ]とて
  おほみきたまひけり。 おほみきたまひけり。 おほにぶき[みきイ]たまひけり。
  雪こぼすがごと降りて、 ゆきこぼすがごとふりて、 雪こぼすがごとくふりて。
  ひねもすにやまず。 ひねもすにやまず。 日ねもすにやまず。
       
  みな人ゑひて、 みな人ゑひて、 みな人ゑひて。
  雪に降り籠めるられたり 雪にふりこめられたり、 雪にふりこめられたる
  といふを題にて、うたありけり。 といふを題にて、うたありけり。 を題にて。歌よまんといふに。
       

155
 思へども
 身をしわけねばめかれせぬ
 おもへども
 身をしわけねばめかれせぬ
 思へとも
 身をしわけねはめはかれぬ
  雪のつもるぞ
  わが心なる
  ゆきのつもるぞ
  わが心なる
  雪のつもるそ
  我心なる
       
  とよめりければ、 とよめりければ、 とよめりければ。
  親王いといたうあはれがり給うて、 みこいといたうあはれがりたまうて、 みこいといたう哀がりて。
  御ぞぬぎて給へけり。 御ぞぬぎてたまへりけり。 御ぞぬぎて給へりけり。
   

現代語訳

 
 

わらは

 

むかし、男ありけり。
わらはより仕うまつりける君、御ぐしおろし給うてけり。

 
 
むかし男ありけり
 むかし男がいた。
 

わらはより仕うまつりける君
 子供の頃から仕えていた君が
 

御ぐしおろし給うてけり
 髪をおろしなさった。
 
 前々段の83段「御髪おろし」、本段末尾「親王」の記載から
 「君」とは、惟喬親王(844-897≒53歳)
 前段で著者の母が、著者を「君」としたことともかけて、多義的に用いている。
 
 「わらはより仕うまつり」とは、惟喬がまだ子供の大体850年代頃から宮仕えをしていたという意味。
 小さい頃からよく知っているという意味だが、これは忠誠云々ではなく、大きくなっても坊かよ、成長せんなと言う皮肉。
 この親王に専属で仕える(子分になる)理由などない。二条の宮と、親王の宮とをかけている。
 著者が後宮で女官の面倒見も担当していた、その含みもあるだろう(縫殿の六歌仙)。
 
 だから「むかし男」は業平ではない。
 この男が著者ということは自明で、それ以外に解しようがないのであるが、
 83段で馬頭(業平)のことを「この馬頭」と表現していたから、というのは、ほんの一例。
 馬頭とは役職の呼称というより、それにかけた罵り言葉。ばか。そういう人物評でしょう。いや、幸せに役職名ってことにしといて。
 
 なぜ著者と「むかし男」を分離させる解釈が出現したかというと、
 当初は業平を著者とみなしていたが、それは成り立ちえなくなったので(つまり読解レベルが多少進歩した)、苦し紛れで戦線を後退させた。
 だから本当はその時点で業平を主人公とみなす前提は崩れたのだが、それに誰も気づかない。まだ目先のことしか見えていないので。
 自分達のよってたっている前提を不断に検討し、厳しく吟味することができないのよな。
 
 戦時中、絶対無理なのに引き返せなくなったのと同じ。
 賢いのに状況でやむをえなかった、のではない。もともと馬頭で視野が狭いから、ありえない見立てを立て続けた。
 そして周囲はそれには理由があるはずなんだと、これまた考えもなく盲信する。これを馬頭と意わずして何という。
 どこかにある業平の歌集、そんなものはないが、とりあえず取り繕うため言わなければならない。
 
 そのような、事実に全く基づかない話を堂々と唱えられる発想に驚きを禁じえない。そういやその時の大将も坊なんだよな。和歌も詠んだらしいが。
 自分らの面子はともかく、伊勢の著者の面子はどうなる。なぜか粘着してきて、馬頭とみなし続け、汚され続ける屈辱。
 1000年以上前の著者にどれだけ失礼なんだよ。散々憶測でもてあそんで。長幼の序を弁えない。困れば著者のこじつけなどという。ありえんだろ。
 
 

宮仕へ

 

正月にはかならずまうでけり。
おほやけの宮仕へしければ、常にはえまうでず。
されど、もとの心うしなはでまうでけるになむありける。

 
 
正月にはかならずまうでけり
 正月には必ず参上していた。
 
 ここに出てこない馬頭への当てつけ。
 

おほやけの宮仕へしければ
 公(朝廷へ)の宮仕えをしていたので、
 

 ここでは私的な宮仕えと対比。
 つまり宮=親王(童)の相手。子守。大人でも子供。
 

常にはえまうでず
 常にではなかったが。
 
 必ずとしつつ直後に常にではないという。これは前々段を受けた皮肉。仕事だ公だと一々いうことも同じ。
 つまり親王や貴族達が、全然仕事してない当てつけ。この人達の宮仕えとは自分勝手に遊んでいることだと。
 

されどもとの心うしなはで
 されども、元の心は失わないで
 

まうでけるになむありける
 参上したのであった。
 
 ここでもクドクド言を左右にしているが、これは、83段で親王が禄をやるといったが、そのことを完全に忘れていることを言っている。
 83段ではそのことも期待し「雪いとたかし」の中、「しひて」正月に言ったが、親王は完全に忘れていて、著者はそれで泣く泣く帰った。
 
 「宮仕え」を、宮(親王)に仕えることにもかけて、「もとの心」としているが皮肉。
 俺は子供の遊びに散々つき合わされたんだから(82段)、「君」も忘れてはいまいな、あの時の言葉という意味。
 だから最後によくわからん着物でオチてるんですよ。わかります? ギャグだからね。
 何でもかんでも、ああこの身が~とか、ベルバラかよ。まあ宮中にはかかってるわな。
 
 遊び呆けて大人をただ使うだけの偉そうな放蕩(82段・83段)に、ああ~もっとお仕えできれば、とかア○ですか。建前だって。
 適当な夢想もそのへんにして。
 「狩は懇にもせで酒をのみ飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり」(82段)、こんなのに? この趣旨の記述で一貫してるからね?
 
 「御送りして、とくいなむと思ふに、おほきみたまひ禄賜はむとて、つかはさざりけり」(83段)
 仕えたことに何にも報いない(評価しない=簡単に忘れる)、見る目ない主君にどうして常に仕えたいと思うわけ? マゾ? いや無能。その発想。
 
 

おほみきたまひ

 

むかし仕うまつり人、俗なる、禅師なる、あまたまゐり集まりて、
正月なればことだつとて、おほみきたまひけり。

 
 
むかし仕うまつり人
 昔仕えていた人
 
 (つまり今はもう仕えていない)
 

俗なる禅師なる
 
 禅師とは、高僧のことだが、この物語でこの言葉は「山科の宮」(78段)のこと。
 その人物の描写は特になかったが、家を派手に面白く造っていた。
 そしてこれは81段(塩釜)でやはり家をおもしろく造っていた六条の河原の左大臣(親王)と同じ。
 そこでも「夜ひと夜(一晩中)、酒のみし遊びて」。
 

 したがって、この物語の記述の作法に従えば、
 「俗なる」とは河原左大臣のことで、
 「禅師なる」とは山科の宮のこと。
 

 つまり結局、身内の集会。この人達の「仕える」ってそういう意味。
 一応コレタカは天皇の長男なんでね。もうその目はないようなので「昔仕えて(遊び相手になって)」いた。
 

あまたまゐり集まりて
 沢山参上して集まり
 

正月なればことだつとて
 正月だから特別だと言って
 

 ことだつ 【事立つ】
 :いつもと違った特別のことをする。
 

おほみきたまひけり
 おみき(お酒)をたまわった。
 

 おほみき 【大御酒】
 :天皇が飲む酒の尊敬語。ここでは親王がいうには不相応に大袈裟な酒。
 
 いや酒振る舞うの、いつも自分らでやってるだろ!
 そのかわり人には、普段から酒もってこいですよ? ありえんだろ。これはそういう表現。
 「親王ののたまひける、交野を狩りて天の河のほとりにいたる題にて、歌よみて杯はさせ」(82段。のたまうってそういう意味)
 
 特別な酒という意味でもない。
 なぜなら83段で、「おほきみたまひ禄賜はむとて」発言をしているから。普通の遊びでの話。
 つまりこの言葉の符合は確実に意図している。
 
 となると、著者が続く「禄賜はむ」として意識している内容が、以降の話になるわけだ。
 
 

雪こぼす

 

雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。
みな人ゑひて、雪に降り籠めるられたり
といふを題にて、うたありけり。

 
 
雪こぼすがごと降りて
 雪があふれんばかりに降って
 

 こぼす:あふれさせる。
 
 本来に水に用いるが、めっちゃサムい(白ける)わ~をみやびに例えた、高等表現。
 あふれんばかりのサムい(退屈な)人々。
 これこれ、マロはこのまえおもしろい庭園をしつらえたでおじゃるよ♪ さすがマロ、噂に聞こえるみやびどすなあ♪ こんな感じでしょ多分。
 

ひねもすにやまず
 一日中ふりやまず
 

 ひねもす【終日】
 :一日中。朝から晩まで。
 

みな人ゑひて
 みな人も酔って(寄ってきて)
 

雪に降り籠めるられたり
 雪が降って閉じ込められた
(白ける人々に取り囲まれた)
 

といふを題にてうたありけり
 という体の題で歌を歌う。
 
 「ありけり」として、突如そこにあったようにして、主体を意図的に明示していないので、
 こういう時は確実に著者。題及び内容からもそう。
 みな人って言っているのに、誰がとも言ってないのに、突如おんぞを給わったのは誰なの。どのように解してそうなるのよ。なんとなく? 
 ここではいいんだけど、そういうなんとなく運転だからあちこちで事故になるわけ。そして誰もそれに気づいていない。
 
 

御ぞぬぎて

 

思へども 身をしわけねばめかれせぬ
 雪のつもるぞ わが心なる
 
とよめりければ、
親王いといたうあはれがり給うて、御ぞぬぎて給へけり。

 
 
思へども 身をしわけねば めかれせぬ
 (帰りたい、と)思っても 身でも分けねば 離してくれんか
 

 めかれ【目離れ】
 :目が離れること。会わないでいること。疎遠になること。
 

雪のつもるぞ わが心なる
 雪がつもるような 私の心よ
 

とよめりければ
 

親王いといたうあはれがり給うて
 親王がとても「あはれ」がって
 

御ぞぬぎて給へけり
 着物を脱いでかけてくれた。
 
 どうだ、暖かくなったろう?(ニヤ、ワシ歌の心わかってるもんね) ってちがうわ~い!! やっぱばかや。
 がきっちょの着たぬくい服なんていらんわ。何が贈物に服はよくあるだよ。んなもんねーよ。少なくともこの物語ではありません。
 いや、自分の着ている服脱いで贈るって、ありえないほど気持ち悪い無礼だからね? 何勘違いしているの。44段の馬の餞でもそうだけど。
 
 だから白けすぎてサムいって。そういう心よ?
 サムい人達は、え、もしかして自分ってサムい?って思えんからサムいのよな。
 
 常におそばに仕えたいと思っている? いやいやいや、気持ち悪! 根拠は? まさか最初の口上そう捉えた? 前々段見てないの?
 83段で「御送りして、とくいなむと思ふ」、
 さっさと帰ろうと思うのに、親王がそれを引き留めてきた(≒つかはさざりけり)ってあるじゃない。あれなんだったの。
 このような記述がありつつ、いやそうではないと見る根拠はなんなの? それが当然だから? でもそれは著者の気持ちではないよな。
 ほんと目の前だけで文脈見ないよな。視野を広くして全体像を意識してな。部分は全体の配置の下で意味をもつ。群盲象をってあるでしょ。まさにそれ。
 
 こういう人達って、京風の皮肉を、まじで受け止めるタイプの人達ですか?
 ずいぶん頑張ってますな~、やった褒められた!って子供かよ。文脈文脈。文字通りで通る文脈なら、それでいいけどさあ。違うでしょうが。
 いやでもこういう相手は親王だからね、主君たるならこれくらいわかれよ、下々の言えぬ心を察せよと思って言っているわけ。
 主君がオレの心を忖度せーよってアホですか。
 諌める言葉を立場の弱い相手(ここでは幼稚な親王)を思いやってセーブするのと、立場が上の俺様に阿れ・こびへつらえとは全然違います。
 
 立場が下の人にこういうことは言わない。もうちっとわかりやすく優しく言う。
 でもわからない人は、苦心して言っても、わからないんだよな。謙虚に聞く耳もてるか、それが全て。
 なんで自分達はできてる・知ってるって思うかなあ。圧倒的に足りてないところばかりじゃない。そう思わないから、そこで成長がとまる。