伊勢物語 4段:西の対 あらすじ・原文・現代語訳

第3段
ひじき藻
伊勢物語
第一部
第4段
西の対
第5段
関守

 
 前段から続き、二条の后に仕える昔男(95段。文屋)が、幼い二条の后(いと若き頃・6段)と共に、今は亡き、東の五条のいとこの家(西の対)に行く。
 幼女は面影うせた部屋にうち泣き(涙し)、床をしいた所で、昔男が同じ月でも違う月の歌を詠み聞かせる(95段での后への物語・彦星の歌と同じ構図)。
 主を寝かせ男は泣く泣く帰る。おれ(ウチ)も泣きたい。おれもゆっくり寝かせて(一緒にとは言わんけど。泣きを入れる)。→次段の「うちも寝ななむ」。
 →「あるじゆえしてけり」。え、マジ? いや寝るだけよ。しかしナキとか寝るとか眠りにつくは多義的なんですね。え、本気ではないが志深い人???
 業平? ナニそれ。マジでなんなんだよそれは。古今747の認定は誤り。業平認定は全て誤り。伊勢を業平日記と一方的にみなしたのっとりで占奪で辱め。
 一般(貴族)の業平認定に対し、貫之は配置で対抗している。文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平は恋三で敏行により連続を崩す
 この人選と分野選定に意味を見れないのは素人。という貫之の絶対の意志(古今8・9)。伊勢は在五を全否定している(けぢめ見せぬ心;63段101段)。
 業平は歌を知らない。自分では満足に詠めもしない。それが77段の安祥寺。そうした人物を装い引用しまくる動機がない。万葉すら直接引用しないのにだ。
 そうした伊勢の記述を一切無視し、一貫し記述年代が後の古今に一方的に基づき業平の歌と言い張ることは、ひとえに伊勢への徹底した陵辱。=69段の見立
 
 
 目次
 
あらすじ(大意)
 

原文対照 
 

現代語訳(逐語解説)
 

 東の五条の西の対に住む人
 (二条の后のいとこ。6段)
 →寝殿造の西側=貴族のマンション
 

 それをほいにはあらで志深かりける人
 (二条の后)
 本意にはあらで=街外れにいることが
 志深=主(幼い頃の后)を立てる表現。
 
×その人との恋に本気ではないが志深い人
 →それ自体、志深くない。
 本気でないのに家に行き泊まって泣く
 完全に意味不明。
 そして業平に深い記述など何一つない。
 女に対してつきまとう記述しかない。
 物語最長段がその内容。65段(在原なりける男)。
 

 正月ばかりにほかにかくれ
(西の対の人。お隠れ=没)
 

 ありどころ(墓所)
 

 なほうし(憂し。二条の后が)
 
 睦月の梅の花ざかり(みやびな故人の思い出)
 
 去年を恋ひていき(二条の后が。3段~6段)
 
 うち泣(ふと涙。二条の后が)
 
 あばらなる板敷 
 荒れ果て→× そんな所に泊まらない。
 寝殿造が一人亡くなっただけで荒れない。
 
 あばら屋と対比しよく拭(葺)かれていない
 →かつてほど、よく手入れされていない
 綺麗だが前のようにみやび=小綺麗ではない
 故人の乙な小物類がなくなりさみしくなった。
 

 月のかたぶくまでふせてり
 →お休みになる(寝る)のみやびな言い方
 
×本気ではないのに振られた恋人の家で泣く男説
 →ルナティック(=異常)
 こうしたストーカー気質は業平説の宿命。
 在原なりける男→女につきまとい流される(65段
 
月やあらぬ
 春や昔の春ならぬ
 わが身は一つもとの身にして
 →正月と睦月、同じ月でも違う月。
 moonは同じでもmonthは違う。
 同じ部屋(room)でも前の部屋じゃない。
 
 ほのぼの・泣く泣く(昔男)
 夜明け前に泣く泣く仕方なく帰る昔男。仕事がある。
 それが「二条の后に仕うまつる男」(95段)。縫殿の文屋。
 ウチも寝たいですってね。それが次の関守の歌。
 もう永眠でいいよ。だれも報いんし。
 徹底的にバカみたいな話に汚されて。はー泣きたい。
 何でもかんでも脊髄反射で色恋ってありえないでしょうが。どこがみやびなの。ただの淫奔でしょうが。そしてそれは読者らの世界観だから。
 いや世界観のレベル、違うよね? これで認められないってありうるの? ありえないよ…。これがおかしであわれ。京の精神わかる? わからんか。
 
 

あらすじ

 
 
 昔、東五条の西の対で正月に隠れた(永眠した)人がいた(二条の后のいとこ。6段)。
 
 (昔男=文屋=二条の后に仕うまつる男(95段)は、二条の后の付き添いでお見舞いに行っていたが(3段))
 (二条の后は)墓参りなども、憂しと思い行けなかった。
 
 (二条の后は)やっと年明けの睦月の梅の花ざかりに去年を恋い、
 その屋敷に行き、あっちこっち行って見て(立ちて見、ゐて見、見れど=女の子の様子)、
 去年に似るべくもあらず。
 
 つまり家の主=いとこが亡くなって、そこまでみやびじゃなくなった。さびしくなった。
 梅の花を出しているのは、そういうのを用いて、小奇麗に(みやびに)していたという意味。
 荒れ果ててなどはいない。そこで寝ているから。
 とある大后の屋敷で、将来の二条の后とそのお付を泊めるほどの寝殿造、物理的には当然綺麗。しかしさびしくなった。
 
 つづくあばらなるも、葺かれていない屋根と掛けよく拭かれていないという意味。しかし汚いという意味ではない。
 超手入れが行き届いてピカピカしていたが、そこまでではなくなったという意味。
 がらーんとしてさびしくなった。そして気持ちも寂しくなった。
 
 同じ部屋なのに、もう前の部屋じゃないね。色々なくなっちゃって、寂しいね。
 
 そうして(二条の后が)うち泣き、
 あばらなる板敷き(?)の所に月が傾くまで伏せり(つまり普通に寝て)、
 
 (昔男が)去年を思い出して歌を詠む(子守唄)。
 
 

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
 わが身は一つもとの身にして
 
 
 その心はなんでしょうか?
 

 同じ月といっても同じ月ではない(正月と睦月)
 春といっても昔の春ではない

 わたしの(あるじ=二条の后の)身は一つもとの身なのに。つってね。そういう歌です。
 いや、正月と睦月わざわざいうてるがな。何となくなわけあるかよ。ヒントだよヒント。
 
 歌だからね。
 わたしの体は~いうたら、聞いている方も自分のこととして想像するのが歌でしょ?
 
 いや、むかし男の歌は、基本直接聞かせる相手いるからね。
 歌は聞きたいいう相手がいてナンボだからね。そこらのとっとポエム太郎じゃないから。
 これもポエムじゃなくて解釈しているだけだから。
 それに古の歌は、字面から誰にでもわかるもんじゃないから。その含みを考えることに意味があるから。誰でもわかるなら解釈という言葉は存在しないから。
 そして解釈は字義・文面上の根拠に即して通るように説明することで、好き勝手な妄想を展開することではないから。
 
 今見えてる月は前と同じなのに
 今は前と同じ月ではないってね。
 

 つまり物理的な月と時の月を掛けている。ムーンとマンスや。でもマンは見せないからムーンだけでいけるねん。
 つーことで彼女は月姫ってことにしよう。18指定。
 それがこの歌の一つのポイントですね。
 
 他のポイントはなんだよって。春ね。指定しとるし。
 
 大人になったら、春は春でも、青春や、巡るならぬ回る春があるのです。それを商売にする者らもいるのです。春だからアキない。
 え…そうなの…? どういう世界? いや世を統治するたる者、下賤の世界も知らんといかんのです。
 いや、女をこまして「けぢめ見せぬ心」とされる在五の話(63段)より繊細でみやびでしょ。世の有様を説いている。
 男の話は泣いたら次は笑い話くるから。それに男は95段でも二条の后に物語してるからね。
 

 「月やあらぬ」は疑問でも反語でもない。ただの否定。
 同じ月ではないのは自明だから疑問にする意味がない。いわんや反語。あ、いってもうた。
 しかし忌みの意味がとれないと自明ではないわけね。
 
 しかし「ほかにかくれにけり」が、まんま他に隠れるってどうよ。隠れるは死の隠語でしょ。
 子どものかくれんぼのレベルじゃないんだから。そんな用法はいやしくも古典にはねーだろ。
 
 あ、次の段にわらべの穴がある? いや冗談ですよ。
 だから隠れたらやばいって。夜這い話にされたから。え、やばいってよばいのこと? マジ? マジでしょ。いつやるの? そのやるかよって。
 いや、実際やったらやばいだろ? それがよばい。文字も完璧にかかってるじゃない。厄場ってなんだよ。
 それが普通だったとかいっても、そういうびっくりな○ンキーの世界を普通と見るかどうかだよね。まあ、互いにハッピーならいいんでないの。
 
 最後の泣く泣くも、うち泣くに掛けたウイットね。
 
 だから正月と睦月とかいう区別がある時は、ちゃんと注意してください。興味があればだけど。
 あれれ~おかしいな~? なんとなくかな~じゃないからね。○ナン君みたいに、高度に意図され、かつ人の死を前提に考えてね。
 なんでみんな超簡単にスルーすっかな。しゃべってるけど眠ってる小五郎か。
 だから在五で主人公。「けぢめ見せぬ心」の在五で。こっちは中五郎。いや在五郎? なんかまざってっけど。結局小中ね。
 
 すると毛利のおじさん、体は大人で頭脳は小五? おそるべし。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第四段 西の対 西の對の女
   
   むかし、ひんがしの五条に、  むかし、ひむがしの五条に、  昔東五條に。
大后の宮おはしましける、 おほきさいの宮おはしましける おほきさいの宮のおはしましける
  西の対に住む人ありけり。 にしのたいに、すむ人ありけり。 西の對にすむ人ありけり。
       
  それをほいにはあらで、 それをほいにはあらで、 それをほいにはあらでゆきとぶらふ人。
  こころざし深かりける人、 心ざしふかゝりける人、 こゝろざしふかゝりけるを。
  ゆきとぶらひけるを、 ゆきとぶらひけるを、  
  正月の十日ばかりのほどに、 む月の十日許のほどに、 む月の十日あまり。
  ほかにかくれにけり。 ほかにかくれにけり。 ほかにかくれにけり。
       
  ありどころは聞けど、 ありどころはきけど、 ありどころはきけど。
  人のいき通ふべき所にも 人のいきかよふべき所にも 人のいきよるべきところにも
  あらざりければ、 あらざりければ、 あらざりければ。
  なほうしと思ひつゝなむありける。 なをうしとおもひつゝなむ有ける。 なをうしとおもひつゝなんありける。
       
  またの年の睦月に 又の年のむ月に、 又のとしのむ月に。
  梅の花ざかりに、 むめのはなざかりに、 梅花さかりなるに。
  去年を恋ひていきて、 こぞをこひていきて、 こぞを思ひて
  立ちて見、ゐて見、見れど たちて見、ゐて見ゝれど、 かのにしのたいにいきて見れど。
  去年に似るべくもあらず。 こぞにゝるべくもあらず。 こぞににるベうもあらず。
  うち泣て、あばらなる板敷に、  あばらなるいたじきに  あばらなるいたじきに。
  月のかたぶくまでふせてりて、 月のかたぶくまでふせりて、 月のかたむくまでふせりて。
  去年を思ひいでてよめる。 こぞを思いでゝよめる。 こぞをこひて讀る。
       
♪5  月やあらぬ
 春や昔の春ならぬ
 月やあらぬ
 はるやむかしのはるならぬ
 月やあらぬ
 春や昔の春ならぬ
  わが身は一つ
  もとの身にして
  わが身ひとつは
  もとの身にして
  わか身一つは
  もとのみにして
       
  とよみて、 とよみて、 とよみて。
  夜のほのぼのと明くるに、 よのほのぼのとあくるに、 ほの〴〵とあくるに。
  泣く泣くかへりにけり。 なくなくかへりにけり。 なく〳〵かへりにけり。
   

 ※塗籠の描写は、全て男目線で通せるよう描写を改変している。
 正月と睦月の違いも無視。というか著者の記述でなく別にする意味が全くない。かつ本段の歌は月の歌で、これに意味がないことはありえない。
 前後の段の繊細な掛かりを完全に無視し、都合の悪い描写は頻繁に丸ごと落とす。
 この段だけからもわかる定家本の絶対的な信頼性。在五をけぢめ見せぬ心と非難する63段・65段からも塗米系が本筋ということはありえない。
 塗籠は業平を本筋にしようとするが全体の構造上絶対無理。だから欠落させるどころか移動させる。なんの無理もなければそんなことをする必要はない。
 
 
 

現代語訳

 

東の五条の西の対に住む人

むかし、ひんがしの五条に、大后の宮おはしましける、西の対に住む人ありけり。
それをほいにはあらで、こころざし深かりける人、ゆきとぶらひけるを、
正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。

 
むかし、ひんがしの五条に
 昔、東の五条に
 
大后の宮おはしましける、西の対に住む人ありけり
 大后の宮がおわせられる(屋敷の)その西のたいに住む人がいた。
 

おほきさき【大后・太后】
①皇后。②先帝の皇后。皇太后。
 

にしのたい【西の対】
寝殿造りで主殿の西側にある対の屋。
女性の住まいに用いられるとされる。
 

 大后の宮が誰かというのは文面上は不明。この記述で特定しているかもしれないが。詳しい人はわかるかもしれない。
 西の対に住む人は、二条の后のいとこの女御。これは6段末尾から確実。二条の后ではない。3~6段は構成から一続きの内容。
 

それが本意ではなく志深かりける人

 
それをほいにはあらで
 それが本意ではなくて
 
 いとこの女御が街外れにいることが。
 

こころざし深かりける人
 志深かった人が
 
 これは二条の后。
 3~6段の内容から「人」は二条の后。
 「二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時」。
 
 こころざしは、上記の本意。
 その人のことを本気ではないが志深い人などというのは、それ自体で志深くはない。
 業平と言いたいのだろうがありえない。そういう滅茶苦茶さを押し通すのが業平説。
 

ゆきとぶらひけるを
 行ってお見舞いしていた所、
 
 3段と5段の内容。
 

正月ばかりほかにかくれ

 
 正月の十日ばかりのほどに
 正月の十日ばかりの頃に
 

ほかにかくれにけり
 他(の世界)に隠れてしまった。
 

 チョーっとまって。
 隠れたって、まさか物理的に隠れた(引っ越した)とか、ハイド化して156cmになったと思う人いるわけ? なわけない。
 隠れた(お隠れになる)は死んだを包んだ言葉でしょ? 常識の範疇でしょ? 
 古語というレベルじゃない。源氏もそう用いているがな。
 
 「ほか」というのも、それをさらにぼかしているだけだからね。
 他だから物理的な他所って、おーいまじかよー涙、マジなのかよー。マジなんだなこれがー。その次元じゃねーよ涙 やべーだろー涙
 とこしえ(常世)という古語知ってる? 知ってる? 夢と現って知ってる? うつしよ(現世)って知ってる? うつしみって知ってる?
 何をうつしているか知ってる? 時空を超えた永遠の夢の世界のイメージをだよ。それがこの物理世界だからね。ま夢も希望もない俗物にはわかるまいよ。
 現代の人々が認めるか認めないかにかかわらず、これが古の理解ですから。だからimageにはage(古・昔)って入っているがな。偶然じゃねーよ。マジ。
 
 

ありどころ

ありどころは聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、
なほうしと思ひつゝなむありける。

 
ありどころは聞けど
 居所は聞いていたが、
 

人のいき通ふべき所にもあらざりければ
 人の行き通うべき所でもなかったので、
 
 つまり墓所。
 したがって、ここの説明と後述の行き先は違う。
 つまり死んだとする前提がないと全ておかしくなる。
 

なほうし


なほうしと思ひつゝなむありける
 なお憂しと思いながら参らずにいたのであった。
 
 思い出すのが辛い。二条の后、物憂い。
 男の心情ではない。ここで昔男は主体ではないから。ただの黒子。
 
 

睦月の梅の花ざかり

またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、
立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。

 
またの年の睦月に梅の花ざかりに
 またの年の一月に、梅の花盛りに
 
 2月中旬から3月上旬。
 
 雪の内に春はきにけりうくひすの こほれる涙今やとくらむ(古今4・二条のきさき)
 梅かえにきゐるうくひすはるかけて なけともいまた雪はふりつつ(古今5・よみ人しらす=文屋)
 
 この二条の后の一首だけの歌は確実に本段を暗示している。うぐいすは梅とセット。
 この場面を受けてその気持ちを歌う歌を彼女が詠んで文屋がこなれさせたか、文屋の作。
 彼女に歌を読むのは古今8の文屋=「二条の后に仕うまつる男」(95段)しかいない。それが古今9の貫之の意図。
 
 古今7の先の太政大臣は二条の后の兄=5段・6段の堀川大臣で、その堀川大臣に歌を詠む記述が97段・98段(梅の造り枝)にある。
 つまり昔男=文屋は、文徳帝にも(69段)、藤原兄妹にも取り立てられた。卑官なのに異様としかいえない。それでその話が頭のゆるい業平の話にされた。
 それが源氏の以下の文脈。
 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
 はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
 

去年を恋ひていき

 
去年を恋ひていきて
 去年を恋いて行って、
 
 恋ってあるから男女の恋? チョまてまて。
 こいてるのは去年だよ去年。懐かしむの意味。脊髄反射的にその恋じゃない。
 
 それにこれは昔男ではないから。
 冒頭で昔男を明示していない時は、別の主体のことを表わす時。自分が駒になっている場合。
 だからここでの主体は、3段でいう(幼い)二条の后。
 
 つまり以下の行動は、その幼い二条の后の描写。
 

立ちて見、ゐて見、見れど
 立ち見、行って見、(そうやって色々)見れど
 
 ゐて=行って×去て
 
 あれれ? あれあれ? ここにあったあれは? そんな感じ。
 

去年に似るべくもあらず
 去年に似るべくもない。
 
 さみしくなってしまっている。
 
 

うち泣

うち泣て、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせてりて、去年を思ひいでてよめる。

 
うち泣て
 ふと涙して
 

 うちなく【打ち泣く】
 ふっと涙をこぼす。泣く。声をあげて泣く。
 ここで声を上げて泣くのはない。
 
 これも二条の后。上述。
 男がそんな簡単に泣かない。
 

あばらなる板敷

 

あばらなる板敷に
 ちゃんと拭かれていない板敷の床に
 
 ちゃんと葺かれないあばら屋(根)に掛けている。
 

月のかたぶくまでふせてりて
 月がかたむくまで伏せって
 
 つまり普通に寝かせてもらって。ここも二条の后。
 つまり、人はいる。
 いやしくも京の寝殿造りでっせ。西の対の人が一人なくって、荒れ果てるわけないでしょうが。
 つまりね、その亡くなったいとこさんは、超綺麗好きで、マメで、色々華やかなのを配置していたのね。
 

去年を思ひいでてよめる
 去年を思い出して詠める。
 
 ここでやっと昔男。
 つまり二条の后を寝床につかせて歌を詠む。
 ねーんねんコロり、ってえ?こわない? まあ寝るってのは軽く死ぬのと同じだからね。夢の世界が常世だからね。
 
 后は歌なんて詠めないよ。つか普通は誰も詠めないでしょうが。和歌を詠むのは、極めて特殊な能力でしょ。
 貴族の教養? 違うよ。歌えないよ。詠めないし読めないよ。
 そういう人達の歌は基本代作の歌人によるものだから。今で言う演説を作文させるのと同じ。超賢くないと自分の言葉で古の詞を操るなど無理でしょうが。
 そもそも詞を知らない。古の言葉は一般に生きているだけじゃ知りようがない言葉だもの。自分で読めないと(受け売りだと)、どうしたって操れないの。
 それを自分の頭でそこそこ読めたのが、この国の歴史上、三十人弱ってことね。しかしその中でも重みは同一ではないから。
 
 

月やあらぬ

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身は一つもとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。

 
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
 
 同じ月といっても同じ月ではない(正月と睦月)
 春といっても昔の春ではない
 
 ぬは疑問でも反語でもなく否定。
 自明なことは疑問にするまでもない。
 反語は相手への問いかけなので同様。
 命は大事か? そんな質問をする意味が通常ありえないように。反語などもっとありえない。
 
 正月と睦月としているのだから、そこは読者に問うている所ではない。違いは見ればわかる。
 同じ月なのに違う月でおかしいね、その心を味わうための表現。
 
 古語での「ぬ」は多義的。
 ただの択一ではない。含みを持たせて「ぬ」にしている。
 

わが身は一つ もとの身にして
 
 わたしの身は一つ、元の身なのに。
 見えている月も同じ月のはずなのに。
 なぜ前と同じ月ではないんですかね。
 
 つまり物理的な月と時の月を対比させている。
 それがま、この歌の一つのポイントですね。
 

ほのぼの・泣く泣く

 
とよみて、夜のほのぼのと明くるに
 と詠んで、夜がほのぼのと明けてくる頃、
 

 ほのぼの:ほのかに・ほんの少し。
 
泣く泣くかへりにけり
 泣く泣く(名残惜しいが、致しかたなく)帰ったのであった。
 
 いやちょっとまって、早すぎない? 姫はそんなに早起きすんの?
 だから帰ったのは、昔男だけね。仕事あるって。
 おーい、いつ寝ているんだよ! それが次の関守の歌やねん。
 
 この泣く泣くも物理的に泣いているわけではない、というのがポイントですね。
 つまり実際に泣いているわけではない。
 ひるがえって、先のうち泣きは二条の后である。そして二条の后は昼帰るのである。いいご身分だよな~。
 おれも寝たいっすーそれで泣く泣く。ミサワ的な寝てない自慢じゃないから。男は寝るのすごい好きだから。え、その寝る? まあどっちも一緒でしょ。
 

 和歌は文章とは違うからね、難しいよね。
 文章の延長にあるけどね。文章の究極形が和歌だから。
 だから正月と睦月、そういう一文字一文字に意味があるんだって。そこに意味を見れないのなら、少ない文字数で深く読むなどできないでしょ。
 逆にいえば、普通の文章の作法(マナー)を理解してないから、和歌の理解がトンチンカンなの。
 作法とはなにか? 古来の文脈を最大限リスペクトすること。シンプルにすること。柔軟に解釈すること。通用する語義に即し、独善的に解釈しないこと。
 
 業平の歌とかいうそれ自体が独善的な貶め。63段で「けぢめ見せぬ心」とした在五の歌とし、あるいはそれを思慕する人物などというのが究極の辱め。
 伊勢の冒涜。