伊勢物語 33段:こもり江 あらすじ・原文・現代語訳

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  菟原(むばら) 
 
 ♂みちくるしほ ♀舟さす棹  
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、今の芦屋辺り(津の国、菟原の郡)に通っている女がいた。
 

※何で通っているかは示していない。これは、15段『しのぶ山』同様(「なでふ事なき人のめに通ひけるに」)。
 「菟原」とは、万葉において娘子・壮士とかかる言葉であるから(万葉集09/1809 -1811)、男は仕事で行っている。
 仕事とは、前々段からの流れで、男が女物(31段)の、反物(32段)の仕立てに行っていた(33・本段)ということ。
 つまり男は、縫殿の六歌仙。
 
 通う=夜這い系と反射的にみるのは違う。
 ここでしのぶ山の「陸奥の国」と「津の国」を対比させ、それに加え「菟原」と記したのには意味がある。
 つまり、女のことは何とも思っていない(15段)。そして、男は仕事でいっている(壮士)。
 

 さてさて、この度この女のもとに行けば、又も来るとは思っていない(名残惜しくしている)様子である。
 (つまり仕立て終わった。塗籠はここで「女が恨んで」とするが、改変しないように。)
 

 そこで男が、無視するわけにもいかんので、こう言う。

 芦辺より みち来るしほの いやましに 君に心を 思ひますかな
 芦屋辺りに 来る道にみた 潮の満ち引き 君の心は 何の駆け引き?(私の心は、イヤましまし)
 

 女がこれに返し

 こもり江に 思ふ心を いかでかは 舟さす棹の さして知るべき
 かくして(このように) 思う心が どうなのか あのサオさして 確かめてみて♪
 

 んん…? 全然隠してないけど? それにそういうのイヤやって言ったつもりなのに。
 それで田舎人のことにては、よしやあしやと。
 
 よしやあしや:さすが芦屋の女の子や、歌の素養あるわ(良しやアシヤ=ボケ)、
 しかしこんな誘いは、釣りでしょ(ヨッシャ、悪しや=ツッコミ・つつもたせ?)。
 

 「田舎人」とは、このようなあられもない(野暮な)表現を揶揄している。
 基本、人には使わない表現だが、あまりに露骨だったということ。それが上述した15段の「さるさがなきエビス心」と符合。

 加えて、ここでの冒頭の「かよひける女、このたびいきては、又は来じと思へる気色なれば」が、
 15段冒頭の「なでふ事なき人のめに通ひけるに、あやしうさやうにて」とパラレル。
 つまり、すごい怪しかった(あやし≒悪しや)。
 

 そして、この釣りっぽい話が、次段の「つれなかりける人」(つれなかった人)につながる。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第33段 こもり江
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  昔男。
  津の国、菟原の郡に つのくに、むばらのこほりに 津のくにむばらのこほりに
  かよひける女、 かよひける女、 すみける女にかよひける。
  このたびいきては、 このたびいきては 此たびかへりなば。
  又は来じと思へる気色なれば、 又はこじと思へるけしきなれば、 又はよもこじと思へるけしきをみて。
  男、 おとこ、 女のうらみければ。
       

66
 芦辺より
 みち来るしほのいやましに
 あしべより
 みちくるしほのいやましに
 あしま(へ一本)より
 みちくる汐のいやましに
  君に心を
  思ひますかな
  きみに心を
  思ますかな
  君に心を
  思ひます哉
       
  返し、 返し、  女返し。
       

67
 こもり江に
 思ふ心をいかでかは
 こもり江に
 思ふ心をいかでかは
 こもり江に
 思ふ心をいかてかは
  舟さす棹の
  さして知るべき
  舟さすさほの
  さしてしるべき
  舟さす掉の
  さしてしるへき
       
  田舎人のことにては、よしやあしや。 ゐなか人の事にては、よしやあしや。 いなかの人のことにてはいかゞ。
   

現代語訳

 
 

菟原

 

むかし、男、
津の国、菟原の郡にかよひける女、
このたびいきては、又は来じと思へる気色なれば、

 
 
むかし、男、
 むかし、男が
 

津の国、菟原(むばら)の郡に
 摂津国、今の兵庫県芦屋市辺りに(→後述の芦辺)
 

 菟原とは、万葉で娘子(おとめ)と壮士(おとこ)にかかる言葉(万葉集09/1809 -1811)。
 そして壮士とは、ナンパ男のことではない。仕事熱心な男。
 したがって、以下の「かよひける」は、女目的の訪問ではない。
 

かよひける女、
 通っていた女の所に
(物語の流れで見れば仕事で。服の仕事で。男の縫殿での仕事(六歌仙の一人)。
 →前々段で女所(局)、前段で機織(をだまき)、それで反物という流れ。
 一つ覚えで、あっちこっちの女に通うと見るのは、全くみやびではない)
 

このたびいきては、
 この度行って、
 

又は(△よも)来じと思へる気色(けしき)なれば、
 又は来ないな思っている様子であったので、
 
(おそらく特別な仕立てが終わった。
 だって芦屋とは裕福なところなんでしょう。
 であれば、宮中の反物を求めても不思議ではない。
 そうして通っていて、なにやらおかしい素振りを見せた女)
 
 

みちくるしほ

 

男、
 
芦辺より みち来るしほの いやましに
 君に心を 思ひますかな

 
 
男、(△女のうらみければ)
 
 (塗籠本は勝手に恨みを設定しているが、勝手に改造しないように。安易。)
 
 

芦辺より
 芦辺にと
 
(この「より」は原因・理由)
 

みち来るしほの いやましに
 道来る途中でみてきた 潮がイヤでも満ちるように
 

君に心を
 あなたを心に
 

思ひますかな
 思います…ほうがいいの?
 
(でもその心は、イヤです)
 
 

舟さす棹

 

返し、
 
こもり江に 思ふ心を いかでかは
 舟さす棹の さして知るべき
 
田舎人のことにては、よしやあしや。

 
返し、
 女がこれに返し、
 
 

こもり江に
 隠れた入江に(なぞらえて)
 
(隠れた陰の部分。濡れたしげみ)
 

思ふ心をいかでかは
 思う心がどうであるかは、
 

舟さす棹の
 あのサオを
 

さして知るべき
 さして確かめてみて♪
 
 …
 

田舎人のことにては、よしやあしや。
 あらあら、なんなのこれ。
 

 随分ぶっこんできた。
 「棹」とは、操(みさお)をタテるという文脈とかかるアレ(竿の暗語)。
 しかし暗示としては、ダイレクトすぎて野暮とかかるわけ。その意味で田舎。
 野暮用とは、ちょっとした「仕事の話」のこと。だから女で通っていない。
 

 「田舎人」という表現は、きついので基本的は自分のことと解釈する。
 しかし、露骨な場合(エビスさんのような場合)には相手にも使う。
 

 「舟」とは、小さい乗り物だが、女の子を象徴。
 乗って操縦してほしい。操をほしいまま(縦)にと。

 つまりこの子の家は、恐らく船主的な家。
 そこら辺、船もってるらしいじゃない。
 

 釣りとか、つつもたせ的な感じとか、それがどう関係するのかは、わからない。
 

 まあ、この話は、ここらへんにしときましょう。
 いや、現代の芦屋のことではないから。昔の話。
 今は大分違うんでない。聞いたことしかないので、よくわからないけど。
 

 歴史の一資料ということで。