平家物語 巻第五 福原院宣:概要と原文

文覚被流 平家物語
巻第五
福原院宣
ふくはらいんぜん
富士川

〔概要〕
 
 文覚は伊勢から31日かけて伊豆に流された後、同じく流され者の頼朝を訪れて語り合う。文覚は、頼朝ほど将軍の相を持った人はないので、早く日本国を従えよと言うが、頼朝はそう思わない。父義朝の髑髏というものを見せても、頼朝が勅勘なければ無理という。すると文覚は3日で福原(神戸)に行き、平氏追討の院宣を受けて8日目に伊豆に帰ってきた。頼朝はこの院宣を胸にかけて戦ったという。

 


 
 当国の住人、近藤四郎国高に仰せて、名古屋が奥にぞ住まひける。兵衛佐殿へも常は参つて、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。
 

 ある時文覚、兵衛佐殿へ申しけるは、「平家には小松の大臣殿こそ、果報もめでたく、心も剛に、はかりごとも勝れてましまししか。平家の運命の末になるやらん、去年の八月薨ぜられぬ。今は源平の中には、わ殿ほど将軍の相持つたる人はなし。早々謀叛起こいて、日本国随へ給へ」と言ひければ、
 兵衛佐殿、「思ひも寄らぬ事を宣ふ聖の御房かな。我はこれ池の禅尼に助けられ奉たれば、その恩を報ぜんがために、毎日法華経一部転読するよりほかは他事なし」とぞ宣へば、
 文覚重ねて、「『天の与ふるを取らざれば却つてその咎を受く、時至つて行はざれば却つてその殃を受く』といふ本文あり。かやうに申せば、御辺の心をもかなびかんとて、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。御辺のために、志の深い様を見給へ」とて、懐より白い布に包んだる髑髏を一つ取り出だす。
 兵衛佐殿、「あれはいかに」と宣へば、「これこそ御辺の父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋もれて、後世弔ふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あつて、獄守に請ひ、首にかけ、山々寺々修行して、この十余年が間弔ひ奉たれば、今は定めて一劫も浮かび給ひぬらん。されば故頭殿の御ためにも、奉公の者で候ふぞかし」と申されければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父の頭と聞くなつかしさに、まづ涙をぞ流されける。
 

 兵衛佐殿宣ひけるは、「そもそも頼朝勅勘を赦りずして、いかでか謀叛をば起こすべき」と宣へば、文覚、「それ安いほどの事なり。やがて上つて申しゆるし奉らん。」兵衛佐殿笑つて、「我が身も勅勘の身でありながら、人の事申さうど宣ふ聖の御房のあてがひ様こそ大きにまことしからね」と宣へば、
 文覚大きに怒つて、「我が身の咎をゆりうど申さばこそ僻事ならめ、わ殿の事申さうは、なじかは僻事ならん。今の都福原の新都へ上るに、三日に過ぎまじ。院宣伺ふに、一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日八日には過ぎまじ」とて、つき出でぬ。
 名古屋に帰つて、弟子どもには、人に忍んで、伊豆の御山に七日参籠の志ありとてつき出でぬ。げにも三日といふに、福原の新都に上り着いて、前右兵衛督光能卿のもとに、いささかゆかりありければ、それに尋ね行きて、「『伊豆国の流人、前右兵衛佐頼朝こそ勅勘を赦され院宣を賜はらば、八箇国の家人ども催し集めて、平家を滅ぼし、天下をしづめん』と申し候へ。」
 光能卿、「不知とよ、我が身も当時は三官ともにとどめられて、心苦しき折節なり。法皇も押し籠められて渡らせ給へば、いかがあらんずらん。さりながら伺うてこそ見め」とて、この由ひそかに奏聞せられたりければ、法皇大きに御感あつて、やがて院宣をぞ下されける。文覚喜んで首にかけ、また三日といふには、伊豆国へ下り着く。
 

 兵衛佐殿はこの聖の御房のなまじひなる事申し出でて、頼朝またいかなる憂き目にあはんずらんと、思はじ事なう、案じ続けておはしける所に、八日といふ午の刻ばかりに下り着き、「院宣よ」とて奉る。
 兵衛佐殿、院宣と聞くかたじけなさに、俄かに新しき烏帽子、浄衣着、手水うがひをして、院宣を三度拝して披かれけり。

 

 頃の年より以降、平氏王化を蔑如して、政道に憚る事無し。仏法を破滅して、王法を乱らんとす。夫れ我が国は神国なり。宗庿相並んで神徳惟新たなり。故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝猷を傾け、国家を危めんとする者、皆以て敗北せずといふこと無し。然らば則ち、且つうは勅宣の旨趣に守つて、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を退け、譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んで、身を立て家を興すべし。者ば院宣此くのごとし。仍つて執達件のごとし。
  治承四年七月十四日 前右兵衛督光能卿奉
 謹上前右兵衛佐殿へ

 

 とぞ書かれたる。この院宣をば錦の袋に入れて、石橋山の合戦の時も、首にかけられけるとぞ聞こえし。
 

文覚被流 平家物語
巻第五
福原院宣
ふくはらいんぜん
富士川