伊勢物語 93段:高き賤しき あらすじ・原文・現代語訳

第92段
棚なし小舟
伊勢物語
第四部
第93段
たかきいやしき
第94段
紅葉も花も

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  いとになき 思ひわび 世のことわり
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし男が、その身賤しく、意図にない人を(思いもかけず)思いかけていた。
 

 少し頼み(望み)がありそうな様子であったか、臥して思い起きて思い、思いわびて詠んだ。
 

 あふなあふな 思ひはすべし なぞへなく 高きいやしき 苦しかりけり
 

 会おうかな、でも会えないな 色々思いはしても (如)何ともしがたく、この思いを何になぞらえることもできない。
 高い賤しいと いと苦しいもの。
 
 むかしもかかることは、世のことわりにやありけむ。
 →昔もこのようなことは、世の理であっただろうか、いやそんなことはありうるはずがないだろう。
 
 ~
  
 歌の心の「なぞ」は疑問にかけた反語。だから全体的に反語。
 だから、ちゃんとしたポリシーがないと簡単に滅茶苦茶な読みになる。
 

 昔話で、身分を越えた純粋な恋・両思いは、家から離れても成就すべしと思うだろう、それを世の理(普遍の道理)という。
 そうとは限らないなどと言っても、著者はそうした方が良いと思っていることは、14段「恋に死なずは」、40段(好けるもの思ひ)で示されている。

 ここでいう賤しとは、「いやしければ、すまふ力なし」(40段)のことを言っている。
 つまり、男は賤しい(地位が低い)ので、男と一緒になれば、好きな女も苦労させてしまうということ(それで貧している女の描写が、41段・紫)。
 

 賤しいので、み曹司(65段)の「在原なりける男」のことではないのは当然。
 

 この段の趣旨は、生活苦を気にすること自体、みやびを旨とする著者にとって本意ではないということ。だから意図になき。
 これは、金金うるさくセコいことを言いたくない、自分を売りまくって露出しない。それで物理的には貧している(質素)。
 でなければ、「いやし」としつつ匿名でここまでの書物を記さない。誰もが自分の生活に必死なのに。だから著者の話は短い。
 

 だから身の丈にあった恋、とかいう凡すぎる文脈ではありえない。
 この物語の心は、みやびを記すこと。
 みやびとは、安直な思いこみと真逆の、些細なことに込められたな繊細な美しさ、それを大切に愛でること。
 それを明らかに意図している(初段60段)。
 

 高貴な人に手が届かなくて辛い? 違います。身分自体はどうでもいい(竹取でも)。

 二条の后も「ただ人」(3段)。まだ皇族でないという意味もあるが、それ以上に人として対等の表現。普通ならまずないだろう。
 天皇も、斎宮の「親」(69段)。学者達はこれを文面に一切ない母親と解するが無理。
 こういう記述は竹取でも同様。「帝の召しての給はんことかしこしとも思はず」。
 

 この段の意味はそういう、どうでもいいことではなく、実際の生活の懸念のことを言っている。
 そういうセコイことを考えざるをえないのが、心苦しい。
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第93段 たかきいやしき
   
 むかし、男、  むかし、おとこ、  昔おとこ。
  身はいやしくて、 身はいやしくて、 身はいやしながら。
  いとになき人を思ひかけたりけり。 いとになき人を思ひかけたりけり。 ふたつなき人を思ひかけたりけり。
  すこし頼みぬべきさまにやありけむ、 すこしたのみぬべきさまにやありけむ、 すこしたのみぬべきさまにやありけん。
  臥して思ひ、起きて思ひ、 ふしておもひ、おきておもひ、 ふしておもひおきて思ひ
  思ひわびてよめる。 思ひわびてよめる。 思ひてよめる。
       

167
 あふなあふな
 思ひはすべし
 なぞへなく
 あふなあふな
 おもひはすべし
 なぞへなく
 あふな〳〵
 思ひはすへし
 なのめ(にけり一本)なく
  高きいやしき
  苦しかりけり
  たかきいやしき
  くるしかりけり
  高き賤き
  苦しかりけり
       
   むかしもかかることは、 むかしもかゝる事は、 むかしもかゝることありけり。
  世のことわりにやありけむ。 世のことはりにや有けむ。 世のことはりにや有けん。
   

現代語訳

 
 

いとになき

 

むかし、男、
身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。

 
 
むかし男
 

身はいやしくて
 身は賤しくて(地位が低くて)
 
 これは84段と全く同じ言葉で、つまり業平ではありえない。
 加えて「むかし男」は田舎出身(23・24段)で、父は「なほ人」(10段)とあり、前半後半の核心部で問題なく一致。
 
 だから別々に成立したなどと言い出しても、業平と相容れないのは揺るがない。無意味。
 
 そしてこういう所は、みな見てみなかったことにする。あーむかし男で恋愛の話だけど、「いやし」だから、これは業平とは関係ない話ですわ。
 しかし、84段(むかし、男ありけり。身はいやしながら)の歌は、古今が認定するから業平の歌なんだとよ。わけわかんねーだろうが。
 説明してみろって。
 
 あ、著者の勘違いのこじつけ? ひでー責任転嫁だな。伊勢は一貫しとるがな。
 いや、だから何で古今がこじつけでないわけ? 根拠は何だよ。業平の歌という根拠をだせよ。
 どう見ても古今が伊勢を参照し、それを業平の歌集と、噂に乗じて勝手にみなしたただけでしょうが。現状も同じでしょ。根拠なんてない。
 古今で1111ある歌で、詞書の長さ圧倒的No.1が筒井筒の、無名の田舎の女の歌だからな(次が東下りの歌)。
 これで素直に圧倒的な伊勢を原典と見ようとすることなく、即座に未確認のソースを想定しようとする時点で、単なる歌集の古今ありきのいびつな解釈。
 古今は本体ではないからな? 参照することがその本分。そして業平と認定された歌は辿れば全て伊勢にある。そして伊勢と並びうる歌集など存在しない。
 
 いっちゃなんだけど、○悪くない? 都合の悪いことは見ない。事実(記述それ自体)と誠実に向き合わない。言葉を無視する。
 その果てが、段階なんとか付け足し論。傍系の本の話してんの? それならご自由に。写本の体をした明らかな注釈本にすぎないのでね。
 しかしそれは本筋ではない。意図的に混同させているなら、悪質だろう。
 

いとになき人を思ひかけたりけり
 意図してない人を(つまり思いがけず)思いかけたのであった。
 
 「いとになき」は、高貴なという意味ではない。文字通り読んで。なぜ勝手に補う。
 たとえ地位が高い人でも、著者はそういうことが高貴とは思っていない(81段・塩釜、82段・渚の院で、ただ酒を飲みまくる親王達の描写)。
 だから書いていないんでしょうが。それを勝手に補うのは物語の筋を破壊している。
 
 思ひかけは、55段「思ひかけたる女」が本体で、認定(言葉の符合)を辿れば、25段の小町に行き着く。
 (それを確定させるため、その段の歌を小町の実名で残した。古今623。その上にある伊勢の歌の業平認定は上述の通り誤り)。
 
 加えて、89段(なき名)で「我よりはまさりたる人を思ひかけて」とあり、
 この「我よりまさり」とは、男の立場の弱さの表現の裏返しなので、ここでの「身はいやし」と完璧に符合する。
 
 

思ひわび

 

すこし頼みぬべきさまにやありけむ、
臥して思ひ、起きて思ひ、思ひわびてよめる。
 
あふなあふな 思ひはすべし なぞへなく
 高きいやしき 苦しかりけり

 
 
すこし頼みぬべきさまにやありけむ
 少しは望みがありそうな様子があっただろうか、
 

 さま 【様】:
 ①ようす。ありさま。状態。
 ②態度。
 ③趣。趣向。
 

臥して思ひ、起きて思ひ
 寝て思い、起きて思い、
 

思ひわびてよめる
 思いあまって(気落ちして)詠んだ。
 
 

あふなあふな 思ひはすべし
 会おうかな会おうかな、いや、会うな会うなと 思いはしても
 
 「あふな」は、おうな(女)にも掛け、女とあふ(と)な。
 この場合の「な」は念押しのな。そうだよな。
 

 すべし
 :当然…しそうだ。▽確信をもった推量。
 

なぞへなく
 (その心を)何になぞらえることもできず
 
 ここは要注意。意味は自明ではない。暗示(複数の掛かり)を明らかに意図している。謎々ね。
 

 なぞ 【何ぞ】:
 ①どうして…か。なぜ…か。疑問
 ②どうして…か、いや…ではない。反語
 

 なぞへ 【準へ・擬へ】
 :なぞらえること。比べること。
 
 なぞらえられないから、そのまま描写している。
 一応説明すると、これらを同時に用いているからね。ここだけではなく、ここを基点にして他にも掛けている。だから中心にあるのだ。
 混同するなとかそういう初歩的なレベルの話ではない。
 

高きいやしき 苦しかりけり
 高いいやしいと 苦しいことよ
 
 立場の違いで、思いを思うにまかせない、ということを投げているのであって、
 身の丈にあった恋がいいなどというのは違う。そんなことは書いてないし、文意に明確に反する。
 
 むしろ状況さえ許せば、身分など著者にとってはどうでもいい。
 それが81段で、親王(皇子)達に上から目線で講義する、地面を張ってきた翁(つまり地下=平民の著者を象徴させている)の構図。
 
 ただ、財力とか生活の時間の余裕とか、そういう類のセコいことは、
 みやびを命とする著者にとっては、気にするだけでも卑しいことなの。
 それが冒頭の「いと」。それと葛藤するような状況が「いとになき」。
 
 だから身分違いの恋とか、そういうことじゃない。
 
 

世のことわり

 

むかしもかかることは、世のことわりにやありけむ。

 
 
むかしもかかることは
 昔もこのようなことは
 

世のことわりにやありけむ
 世の理(道理)であったのだろうか。
 いや、んなわけはない(「なぞ」の反語にかけて)
 
 身分違いでも、純粋に好きあっていれば(卑しい動機ではなく、つまり実家から離れても問題ないと思っていれば)、
 家柄云々言ってくるのを黙らせて成就させてやりたいと思うだろう。
 鬼ばかりの世間ならともかく、普通の昔話なら古今東西そう見るだろう。だからこちらの方が世の理。
 シンデレラあるでしょ、ま、あれば難易度、超簡単な方だけど。
 

 身分違いで上手くいかないのが辛い? 中学生日記かよ。随分安く見られたな。しかしそんな意味ではない。
 まあ、見る人の理解力次第なんでね。
 
 著者は身分などどうでもいい。それは確実。
 それは例えば、二条の后がまだ帝に仕える前「ただ人」であった時、という表現にも表わされる(3段)。
 この人は、藤原の本流(太政大臣)の子だからね。もし普通の人が高子と近ければ、なんちゃら妃殿下が入内前の頃~って、誇らしげに書くだろ。
 その時の「むかし男」は業平? 都合良すぎだろ。何を根拠に区別してるんだよ。
 こういう経緯で、前半の二条の話と後半の伊勢斎宮の話が別々に成立したと言い出すなら、同一人物の物語ではないということになるだろうが。
 だからそういうのはありえないんだって。まともに読めないからって、小手先で何言ってんのかね。
 
 だから男の母は藤原で宮なの(10段84段)。
 つまり宮家だったけど藤原に降嫁し、さらに凡人の父のもとに下った(恐らく後家)、そういう母なの。
 だから親王達とも対等以上で接しているし(もちろん作法は守る)、身分なんてどうでもいいと思う(竹取も同じ。だから帝ですら斎宮の「親」)。
 実に筋が通っているじゃない。
 
 それを、身分違いであきらめろって何だよ。じゃあ著者の父なんなのよ。
 そういう俗世の卑しい、セコいことを気にしなければならないのが心苦しい、そういう内容なの。
 
 なお、著者が非常に慎ましい生活をしていることは、断固匿名であることからも当然(87段では子供が海藻を拾って客に出す描写があった)。
 プライドが捨てられない? そうして簡単に誇りを捨てるのを、畜生にも劣るという。
 しかも著者の誇りは、血筋とかそういう下賤のことじゃない。だから出自属性を極力記していないんでしょうが
 (重複して書いていない。あくまで、田舎出身の地下なのになぜ宮中の中枢の後宮にいられたのか、その根拠・背景を説明をしているに過ぎない)。
 
 著者のプライドは、どんな状況でも、心の豊かさを守ることなの。
 それをこだわるなとかいうのは、人として卑しくなれ、心貧しく常に金に必死になれ、人としての尊厳を捨てろと言っているに等しい。
 
 ま、だから、天賦の憲法(人権)もすぐバカにするのよ。そのくせ、法治主義などと知った口よーきくわ。ほんと都合良いよな。
 読んでないし趣旨・何より守るべき優先順位・序列体系を知りもしないのにな。だからそういう人達は、本来人に値しない。
 人の核心は経済でも統治機構でもなく個の精神。前提である精神(高い志)がなけば、ただのゾンビ。金の亡者。だから世間は鬼ばかり。
 
 どこかにそうじゃない人、いないもんかね。