源氏物語 25帖 蛍:あらすじ・目次・原文対訳

胡蝶 源氏物語
第一部
第25帖
常夏

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 蛍のあらすじ

 光源氏36歳の5月の話。

 五月雨の頃、兵部卿宮【源氏の異母弟】から玉鬘【源氏の養女】に文が届き、源氏はそれに返事を書かせた。喜び勇んで六条院にやってきた兵部卿宮の前で、源氏は几帳の内に蛍を放ち、その光で玉鬘の姿を浮かび上がらせて見せた。予想以上の美しさに心を奪われた兵部卿宮は想いを和歌で訴えるが、玉鬘はつれなくあしらうだけだった。(この逸話から、兵部卿宮は蛍宮、蛍兵部卿宮等と呼ばれる)

 5月5日の節句、玉鬘の下には数多くの薬玉が贈られた。源氏は夏の町で騎射と宴を催し、その晩は花散里【葵の後を受けた妻の一人・玉鬘の後見役】のところに泊まった。

 やがて長雨の季節に入り、物語に熱中する玉鬘に源氏は物語評論を聞かせ、相も変わらず言い寄って玉鬘を困らせていた。その頃玉鬘の実父内大臣【かつての頭中将】も、夢占でかつて夕顔との間にもうけた娘が他人の養女になっているだろうと告げられて、まさか源氏の下にいるとは知らずにその行方を捜していた。

(以上Wikipedia蛍(源氏物語)より。色づけと【】は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#蛍(8首:別ページ)
主要登場人物
 
第25帖 蛍
 光る源氏の太政大臣時代
 三十六歳の五月雨期の物語
 
第一章 玉鬘の物語
 蛍の光によって姿を見られる
 第一段 玉鬘、養父の恋に悩む
 第二段 兵部卿宮、六条院に来訪
 第三段 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る
 第四段 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる
 第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す
 第六段 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す
 
第二章 光る源氏の物語
 夏の町の物語
 第一段 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問
 第二段 六条院馬場殿の騎射
 第三段 源氏、花散里のもとに泊まる
 
第三章 光る源氏の物語
 光る源氏の物語論
 第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中
 第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる
 第三段 源氏、紫の上に物語について述べる
 第四段 源氏、子息夕霧を思う
 第五段 内大臣、娘たちを思う
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
三十六歳
呼称:大臣の君・大臣・殿
夕霧(ゆうぎり)
光る源氏の長男
呼称:中将・中将の君・君
紫の上(むらさきのうえ)
源氏の正妻
呼称:紫の上・上・女君
玉鬘(たまかづら)
内大臣の娘
呼称:対の姫君・姫君・西の対・対の御方・撫子・君・女
内大臣(ないだいじん)
呼称:内の大臣
蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)
呼称:兵部卿宮・宮・親王・君
柏木(かしわぎ)
呼称:右中将
明石御方(あかしのおほんかた)
呼称:明石御方
明石姫君(あかしのひめぎみ)
呼称:姫君
鬚黒大将(ひげくろだいしょう)
呼称:右大将
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)
呼称:中宮
花散里(はなちるさと)
呼称:夏の御方

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンクを参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 

原文対訳

和歌 定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
 
 
 

第一章 玉鬘の物語 蛍の光によって姿を見られる

 
 

第一段 玉鬘、養父の恋に悩む

 
   今はかく重々しきほどに、よろづのどやかに思ししづめたる御ありさまなれば、頼みきこえさせたまへる人びと、さまざまにつけて、皆思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほしくて過ぐしたまふ。
 
 今はこのように重々しい身分ゆえに、何事にももの静かに落ち着いていらっしゃるご様子なので、ご信頼申し上げていらっしゃる方々は、それぞれ身分に応じて、皆思いどおりに落ち着いて、不安もなく、理想的にお過ごしになっている。
 
   対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ。
 かの監が憂かりしさまには、なずらふべきけはひならねど、かかる筋に、かけても人の思ひ寄りきこゆべきことならねば、心ひとつに思しつつ、「様ことに疎まし」と思ひきこえたまふ。
 
 対の姫君だけは、気の毒に、思いもしなかった悩みが加わって、どうしようかしらと困っていらしゃるようである。
 あの監が嫌だった様子とは比べものにならないが、このようなことで、夢にも回りの人々がお気づき申すはずのないことなので、自分の胸一つをお痛めになりながら、「変なことで嫌らしい」とお思い申し上げなさる。
 
   何ごとをも思し知りにたる御齢なれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しくおぼゆ。
 
 どのようなことでもご分別のついているお年頃なので、あれやこれやとお考え合わせになっては、母君がお亡くなりになった無念さを、改めて惜しく悲しく思い出される。
 
   大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、人目を憚りたまひつつ、はかなきことをもえ聞こえたまはず、苦しくも思さるるままに、しげく渡りたまひつつ、御前の人遠く、のどやかなる折は、ただならずけしきばみきこえたまふごとに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらねば、ただ見知らぬさまにもてなしきこえたまふ。
 
 大臣も、お口にいったんお出しになってからは、かえって苦しくお思いになるが、人目を遠慮なさっては、ちょっとした言葉もお話しかけになれず、苦しくお思いになるので、頻繁にお越しになっては、お側に女房などもいなくて、のんびりとした時には、穏やかならぬ言い寄りをなさるたびごとに、胸を痛め痛めしては、はっきりとお拒み申し上げることができないので、ただ素知らぬふりをしてお相手申し上げていらっしゃる。
 
   人ざまのわららかに、気近くものしたまへば、いたくまめだち、心したまへど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見えたまへり。
 
 人柄が明朗で、人なつこくいらっしゃるので、とてもまじめぶって、用心していらっしゃるが、やはりかわいらしく魅力的な感じばかりが目立っていらっしゃる。
 
 
 

第二段 兵部卿宮、六条院に来訪

 
   兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。
 御労のほどはいくばくならぬに、五月雨になりぬる愁へをしたまひて、
 兵部卿宮などは、真剣になってお申し込みなさる。
 お骨折りの日数はそれほどたってないのに、五月雨になってしまった苦情を訴えなさって、
   「すこし気近きほどをだに許したまはば、思ふことをも、片端はるけてしがな」  「もう少しお側近くに上がることだけでもお許し下さるならば、思っていることも、少しは晴らしたいものですね」
   と、聞こえたまへるを、殿御覧じて、  と、申し上げになさるのを、殿が御覧になって、
   「なにかは。
 この君達の好きたまはむは、見所ありなむかし。
 もて離れてな聞こえたまひそ。
 御返り、時々聞こえたまへ」
 「何のかまうことがあろうか。
 この公達が言い寄られるのは、きっと風情があろう。
 そっけないお扱いをなさるな。
 お返事は、時々差し上げなさい」
   とて、教へて書かせたてまつりたまへど、いとどうたておぼえたまへば、「乱り心地悪し」とて、聞こえたまはず。
 
 とおっしゃって、教えてお書かせ申し上げなさるが、ますます不愉快なことに思われなさるので、「気分が悪い」と言って、お書きにならない。
 
   人びとも、ことにやむごとなく寄せ重きなども、をさをさなし。
 ただ、母君の御叔父なりける、宰相ばかりの人の娘にて、心ばせなど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとりたまへる、宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたも大人びたる人なれば、さるべき折々の御返りなど書かせたまへば、召し出でて、言葉などのたまひて書かせたまふ。
 
 女房たちも、特に家柄がよく声望の高い者などもほとんどいない。
 ただ一人、母君の叔父君であった、宰相程度の人の娘で、嗜みなどさほど悪くはなく、世に落ちぶれていたのを、探し出されたのが、宰相の君と言って、筆跡などもまあまあに書いて、だいたいがしっかりした人なので、しかるべき折々のお返事などをお書かせになっていたのを、召し出して、文言などをおっしゃって、お書かせになる。
 
   ものなどのたまふさまを、ゆかしと思すなるべし。
 
 お口説きになる様子を御覧になりたいのであろう。
 
   正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮などは、あはれげに聞こえたまふ時は、すこし見入れたまふ時もありけり。
 何かと思ふにはあらず、「かく心憂き御けしき見ぬわざもがな」と、さすがにされたるところつきて思しけり。
 
 ご本人は、こうした心配事が起こってから後は、この宮などには、しみじみと情のこもったお手紙を差し上げなさる時は、少し心をとめて御覧になる時もあるのだった。
 特に関心があるというのではないが、「このようなつらい殿のお振る舞いを見ないですむ方法がないものか」と、さすがに女らしい風情がまじる思いにもなるのだった。
 
   殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。
 
 殿は、勝手に心ときめかしなさって、宮をお待ち申し上げていらっしゃるのもご存知なくて、まあまあのお返事があるのを珍しく思って、たいそうこっそりといらっしゃった。
 
   妻戸の間に御茵参らせて、御几帳ばかりを隔てにて、近きほどなり。
 
 妻戸の間にお敷物を差し上げて、御几帳だけを間に隔てとした近い場所である。
 
   いといたう心して、空薫物心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見えたまふ。
 宰相の君なども、人の御いらへ聞こえむこともおぼえず、恥づかしくてゐたるを、「埋もれたり」と、ひきつみたまへば、いとわりなし。
 
 とてもたいそう気を配って、空薫物を奥ゆかしく匂わして、世話をやいていらっしゃる様子、親心ではなくて、手に負えないおせっかい者の、それでも親身なお扱いとお見えになる。
 宰相の君なども、お返事をお取り次ぎ申し上げることなども分からず、恥ずかしがっているのを、「引っ込み思案だ」と、おつねりになるので、まこと困りきっている。
 
 
 

第三段 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る

 
   夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶なり。
 うちよりほのめく追風も、いとどしき御匂ひのたち添ひたれば、いと深く薫り満ちて、かねて思ししよりもをかしき御けはひを、心とどめたまひけり。
 
 夕闇のころが過ぎて、はっきりしない空模様も曇りがちで、物思わしげな宮のご様子も、とても優美である。
 内側からほのかに吹いてくる追い風も、さらに優れた殿のお香の匂いが添わっているので、とても深く薫り満ちて、予想なさっていた以上に素晴らしいご様子に、お心を惹かれなさるのだった。
 
   うち出でて、思ふ心のほどをのたまひ続けたる言の葉、おとなおとなしく、ひたぶるに好き好きしくはあらで、いとけはひことなり。
 大臣、いとをかしと、ほの聞きおはす。
 
 お口に出して、思っている心の中をおっしゃり続けるお言葉は、落ち着いていて、一途な好き心からではなく、とても態度が格別である。
 大臣は、とても素晴らしいと、ほのかに聞いていらっしゃる。
 
   姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、宰相の君の御消息伝へに、ゐざり入りたるにつけて、  姫君は、東面の部屋に引っ込んでお寝みになっていらしたのを、宰相の君が宮のお言葉を伝えに、いざり入って行く後についていって、
   「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。
 よろづのこと、さまに従ひてこそめやすけれ。
 ひたぶるに若びたまふべきさまにもあらず。
 この宮たちをさへ、さし放ちたる人伝てに聞こえたまふまじきことなりかし。
 御声こそ惜しみたまふとも、すこし気近くだにこそ」
 「とてもあまりに暑苦しいご応対ぶりです。
 何事も、その場に応じて振る舞うのがよろしいのです。
 むやみに子供っぽくなさってよいお年頃でもありません。
 この宮たちまでを、よそよそしい取り次ぎでお話し申し上げなさってはいけません。
 お返事をしぶりなさるとも、せめてもう少しお近くで」
   など、諌めきこえたまへど、いとわりなくて、ことづけてもはひ入りたまひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋の際なる御几帳のもとに、かたはら臥したまへる。
 
 などと、ご忠告申し上げなさるが、とても困って、注意するのにかこつけて中に入っておいでになりかねないお方なので、どちらにしても身の置き所もないので、そっとにじり出て、母屋との境にある御几帳の側に横になっていらっしゃった。
 
 
 

第四段 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる

 
   何くれと言長き御応へ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、寄りたまひて、御几帳の帷子を一重うちかけたまふにあはせて、さと光るもの。
 紙燭をさし出でたるかとあきれたり。
 
 何やかやと長口舌にお返事を申し上げなさることもなく、ためらっていらっしゃるところに、お近づきになって、御几帳の帷子を一枚お上げになるのに併せて、ぱっと光るものが。
 紙燭を差し出したのかと驚いた。
 
   蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。
 
 螢を薄い物に、この夕方たいそうたくさん包んでおいて、光を隠していらっしゃったのを、何気なく、何かと身辺のお世話をするようにして。
 
   にはかにかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目、いとをかしげなり。
 
 急にこのように明るく光ったので、驚きあきれて、扇をかざした横顔、とても美しい様子である。
 
   「おどろかしき光見えば、宮も覗きたまひなむ。
 わが女と思すばかりのおぼえに、かくまでのたまふなめり。
 人ざま容貌など、いとかくしも具したらむとは、え推し量りたまはじ。
 いとよく好きたまひぬべき心、惑はさむ」
 「驚くほどの光がさしたら、宮もきっとお覗きになるだろう。
 自分の娘だとお考えになるだけのことで、こうまで熱心にご求婚なさるようだ。
 人柄や器量など、ほんとうにこんなにまで整っているとは、さぞお思いでなかろう。
 夢中になってしまうに違いないお心を、悩ましてやろう」
   と、かまへありきたまふなりけり。
 まことのわが姫君をば、かくしも、もて騷ぎたまはじ、うたてある御心なりけり。
 
 と、企んであれこれなさるのだった。
 ほんとうの自分の娘ならば、このようなことをして、大騷ぎをなさるまいに、困ったお心であるよ。
 
   こと方より、やをらすべり出でて、渡りたまひぬ。
 
 別の戸口から、そっと抜け出て、行っておしまいになった。
 
 
 

第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す

 
   宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、すこし気近きけはひするに、御心ときめきせられたまひて、えならぬ羅の帷子の隙より見入れたまへるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見たまふ。
 
 宮は、姫のいらっしゃる所を、あの辺だと推量なさるが、割に近い感じがするので、つい胸がどきどきなさって、なんとも言えないほど素晴らしい羅の帷子の隙間からお覗きになると、柱一間ほど隔てた見通しの所に、このように思いがけない光がちらつくのを、美しいと御覧になる。
 
   ほどもなく紛らはして隠しつ。
 されどほのかなる光、艶なることのつまにもしつべく見ゆ。
 ほのかなれど、そびやかに臥したまへりつる様体のをかしかりつるを、飽かず思して、げに、このこと御心にしみにけり。
 
 間もなく見えないように取り隠した。
 けれどもほのかな光は、風流な恋のきっかけにもなりそうに見える。
 かすかであるが、すらりとした身を横にしていらっしゃる姿が美しかったのを、心残りにお思いになって、なるほど、この趣向はお心に深くとまったのであった。
 

372
 「鳴く声も 聞こえぬ虫の 思ひだに
 人の消つには 消ゆるものかは
 「鳴く声も聞こえない螢の火でさえ
  人が消そうとして消えるものでしょうか
 
   思ひ知りたまひぬや」  ご存知いただけたでしょうか」
   と聞こえたまふ。
 かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたれば、疾きばかりをぞ。
 
 と申し上げなさる。
 このような場合のお返事を、思案し過ぎるのも素直でないので、早いだけを取柄に。
 

373
 「声はせで 身をのみ焦がす 蛍こそ
 言ふよりまさる 思ひなるらめ」
 「声には出さずひたすら身を焦がしている螢の方が
  口に出すよりもっと深い思いでいるでしょう」
 
   など、はかなく聞こえなして、御みづからは引き入りたまひにければ、いとはるかにもてなしたまふ愁はしさを、いみじく怨みきこえたまふ。
 
 などと、さりげなくお答え申して、ご自身はお入りになってしまったので、とても疎々しくおあしらいなさるつらさを、ひどくお恨み申し上げなさる。
 
   好き好きしきやうなれば、ゐたまひも明かさで、軒の雫も苦しさに、濡れ濡れ夜深く出でたまひぬ。
 時鳥などかならずうち鳴きけむかし。
 うるさければこそ聞きも止めね。
 
 好色がましいようなので、そのまま夜をお明かしにならず、軒の雫も苦しいので、濡れながらまだ暗いうちにお出になった。
 ほととぎすなどもきっと鳴いたことであろう。
 わずらわしいので耳も留めなかった。
 
   「御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似たてまつりたまへり」と、人びともめできこえけり。
 昨夜、いと女親だちてつくろひたまひし御けはひを、うちうちは知らで、「あはれにかたじけなし」と皆言ふ。
 
 「ご様子などの優美さは、とてもよく大臣の君にお似申していらっしゃる」と、女房たちもお褒め申し上げるのであった。
 昨夜、すっかり母親のようにお世話やきなさったご様子を、内情は知らないで、「しみじみとありがたい」と女房一同は言う。
 
 
 

第六段 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す

 
   姫君は、かくさすがなる御けしきを、  姫君は、このようなうわべは親のようにつくろうご様子を、
   「わがみづからの憂さぞかし。
 親などに知られたてまつり、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。
 人に似ぬありさまこそ、つひに世語りにやならむ」
 「自分自身の不運なのだ。
 親などに娘と知っていただき、人並みに大切にされた状態で、このようなご寵愛をいただくのなら、どうしてひどく不似合いということがあろうか。
 普通ではない境遇は、しまいには世の語り草となるのではないかしら」
   と、起き臥し思しなやむ。
 さるは、「まことにゆかしげなきさまにはもてなし果てじ」と、大臣は思しけり。
 なほ、さる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくや思ひきこえたまへる、ことに触れつつ、ただならず聞こえ動かしなどしたまへど、やむごとなき方の、およびなくわづらはしさに、おり立ちあらはし聞こえ寄りたまはぬを、この君は、人の御さまも、気近く今めきたるに、おのづから思ひ忍びがたきに、折々、人見たてまつりつけば疑ひ負ひぬべき御もてなしなどは、うち交じるわざなれど、ありがたく思し返しつつ、さすがなる御仲なりけり。
 
 と、寝ても起きてもお悩みになる。
 一方では、「ほんとに世間にありふれたような悪い扱いにしてしまうまい」と、大臣はお思いになるのだった。
 が、やはり、そのような困ったご性癖があるので、中宮などにも、とてもきれいにお思い申し上げていられようか、何かにつけては、穏やかならぬ申しようで気を引いてみたりなどなさるが、高貴なご身分で、及びもつかない事面倒なので、身を入れてお口説き申すことはなさらないが、この姫君は、お人柄も、親しみやすく現代的なので、つい気持ちが抑えがたくて、時々、人が拝見したらきっと疑いを持たれるにちがいないお振る舞いなどは、あることはあるが、他人が真似のできないくらいよく思い返し思い返しては、危なっかしい仲なのであった。
 
 
 

第二章 光る源氏の物語 夏の町の物語

 
 

第一段 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問

 
   五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。
 
 五日には、馬場殿にお出ましになった機会に、お越しになった。
 
   「いかにぞや。
 宮は夜や更かしたまひし。
 いたくも馴らしきこえじ。
 わづらはしき気添ひたまへる人ぞや。
 人の心破り、ものの過ちすまじき人は、かたくこそありけれ」
 「どうでしたか。
 宮は夜更けまでいらっしゃいましたか。
 あまりお近づけ申さないように。
 やっかいなお癖がおありの方ですよ。
 女の心を傷つけたり、何かの間違いをしないような男は、めったにいないものですよ」
   など、活けみ殺しみ戒めおはする御さま、尽きせず若くきよげに見えたまふ。
 艶も色もこぼるばかりなる御衣に、直衣はかなく重なれるあはひも、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色も変へぬ文目も、今日はめづらかに、をかしくおぼゆる薫りなども、「思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまかな」と姫君思す。
 
 などと、誉めたりけなしたりしながら注意していらっしゃるご様子は、どこまでも若々しく美しくお見えになる。
 光沢も色彩もこぼれるほどの御衣に、お直衣が無造作に重ね着されている色合いも、どこに普通と違う美しさがあるのであろうか、この世の人が染め出したものとも見えず、普通の直衣の色模様も、今日は特に珍しく見事に見え、素晴らしく思われる薫りなども、「物思いがなければ、どんなに素晴らしく思われるにちがいないお姿だろう」と姫君はお思いになる。
 
   宮より御文あり。
 白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。
 見るほどこそをかしけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。
 
 宮からお手紙がある。
 白い薄様で、ご筆跡はとても優雅にお書きになっていらっしゃる。
 見ていた時には素晴らしかったが、こう口にすると、たいしたことはないものだ。
 

374
 「今日さへや 引く人もなき 水隠れに
 生ふる菖蒲の 根のみ泣かれむ」
 「今日までも引く人もない水の中に隠れて生えている菖蒲の根のように
  相手にされないわたしはただ声を上げて泣くだけなのでしょうか」
 
   例にも引き出でつべき根に結びつけたまへれば、「今日の御返り」などそそのかしおきて、出でたまひぬ。
 これかれも、「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかが思しけむ、
 話題にもなりそうな長い菖蒲の根に文を結んでいらっしゃったので、「今日のお返事を」などとお勧めしておいて、お出になった。
 誰彼も「やはり、ご返事を」と申し上げるので、ご自身どう思われたであろうか、

375
 「あらはれて いとど浅くも 見ゆるかな
 菖蒲もわかず 泣かれける根の
 「きれいに見せていただきましてますます浅く見えました
  わけもなく泣かれるとおっしゃるあなたのお気持ちは
 
   若々しく」  お年に似合わないこと」
   とばかり、ほのかにぞあめる。
 「手を今すこしゆゑづけたらば」と、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬことと見たまひけむかし。
 
 とだけ、薄墨で書いてあるようである。
 「筆跡がもう少し立派だったら」と、宮は風流好みのお心から、少しもの足りないことと御覧になったことであろうよ。
 
   薬玉など、えならぬさまにて、所々より多かり。
 思し沈みつる年ごろの名残なき御ありさまにて、心ゆるびたまふことも多かるに、「同じくは、人の疵つくばかりのことなくてもやみにしがな」と、いかが思さざらむ。
 
 薬玉などを、実に趣向を凝らして、あちこちから多くあった。
 おつらい思いをして来た長年の苦労もすっかりなくなったお暮らしぶりで、お気持ちにゆとりのおできになることも多かったので、「同じことなら、あちらが傷つくようなことのないようにして終わりにしたいものだ」と、どうしてお思いにならないことがあろうか。
 
 
 

第二段 六条院馬場殿の騎射

 
   殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、  殿は、東の御方にもお立ち寄りになって、
   「中将の、今日の司の手結ひのついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。
 まだ明きほどに来なむものぞ。
 あやしく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たちの聞きつけて、訪らひものしたまへば、おのづからことことしくなむあるを、用意したまへ」
「中将が、今日の左近衛府の競射の折に、男たちを引き連れて来るようなことを言っていたが、そのおつもりでいて下さい。
 まだ明るいうちにきっと来るでしょうよ。
 不思議と、こちらでは目立たないようにする内輪の催しも、この親王たちが聞きつけて、見物にいらっしゃるので、自然と大げさになりますから、お心づもりなさい」
   など聞こえたまふ。
 
 などと申し上げなさる。
 
   馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。
 
 馬場の御殿は、こちらの渡廊から見渡す距離もさほど遠くない。
 
   「若き人びと、渡殿の戸開けて物見よや。
 左の司に、いとよしある官人多かるころなり。
 少々の殿上人に劣るまじ」
 「若い女房たち、渡殿の戸を開けて見物をしなさいよ。
 左近衛府に、たいそう素晴らしい官人が多い時だ。
 なまじっかの殿上人には負けまい」
   とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。
 
 とおっしゃるので、見物することをとても興味深く思っていた。
 
   対の御方よりも、童女など、物見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかに掛けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立てわたし、童、下仕へなどさまよふ。
 菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。
 
 対の御方からも、童女など、見物にやって来て、渡廊の戸口に御簾を青々と懸け渡して、当世風の裾濃の御几帳をいくつも立て並べ、童女や下仕などがあちこちしている。
 菖蒲襲の袙、二藍の羅の汗衫を着ている童女は、西の対のであろう。
 
   好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり。
 
 感じのいい物馴れた者ばかり四人、下仕え人は、楝の裾濃の裳、撫子の若葉色をした唐衣で、いずれも端午の日の装いである。
 
   こなたのは、濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、おのおの挑み顔なるもてなし、見所あり。
 
 こちらの童女は、濃い単衣襲に、撫子襲の汗衫などをおっとりと着て、それぞれが競い合っている振る舞い、見ていておもしろい。
 
   若やかなる殿上人などは、目をたててけしきばむ。
 未の時に、馬場の御殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひたり。
 手結ひの公事にはさま変りて、次将たちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。
 
 若い殿上人などは、目をつけては流し目を送る。
 未の刻に、馬場殿にお出になると、なるほど親王たちがお集まりになっていた。
 競技も公式のそれとは趣が異なって、中将少将たちが連れ立って参加して、風変りに派手な趣向を凝らして、一日中お遊びになる。
 
   女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞ、をかしかりける。
 
 女性には、何も分からないことであるが、舎人連中までが優美な装束を着飾って、懸命に競技をしている姿などを見るのはおもしろいことであった。
 
   南の町も通して、はるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。
 「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てて、何事も見えずなり果てぬ。
 舎人どもの禄、品々賜はる。
 いたく更けて、人びと皆あかれたまひぬ。
 
 南の町まで通して、ずっと続いているので、あちらでもこのような若い女房たちは見ていた。
 「打毬楽」「落蹲」などを奏でて、勝ち負けに大騒ぎをするのも、夜になってしまって、何も見えなくなってしまった。
 舎人連中が禄を、位階に応じてに頂戴する。
 たいそう夜が更けてから、人々は皆お帰りになった。
 
 
 

第三段 源氏、花散里のもとに泊まる

 
   大臣は、こなたに大殿籠もりぬ。
 物語など聞こえたまひて、
 大臣は、こちらでお寝みになった。
 お話などを申し上げなさって、
   「兵部卿宮の、人よりはこよなくものしたまふかな。
 容貌などはすぐれねど、用意けしきなど、よしあり、愛敬づきたる君なり。
 忍びて見たまひつや。
 よしといへど、なほこそあれ」
 「兵部卿宮が、誰よりも格別に優れていらっしゃいますね。
 容貌などはそれほどでもないが、心配りや態度などが優雅で、魅力的なお方です。
 こっそりと御覧になりましたか。
 立派だと言うが、まだ物足りないところがあるね」
   とのたまふ。
 
 とおっしゃる。
 
   「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたまひける。
 年ごろ、かく折過ぐさず渡り、睦びきこえたまふと聞きはべれど、昔の内裏わたりにてほの見たてまつりしのち、おぼつかなしかし。
 いとよくこそ、容貌などねびまさりたまひにけれ。
 帥の親王よくものしたまふめれど、けはひ劣りて、大君けしきにぞものしたまひける」
 「弟君ではいらっしゃいますが、大人びてお見えになりました。
 ここ何年か、このように機会あるごとにおいでになっては、お親しみ申し上げなさっていらっしゃるとうかがっておりますが、昔の宮中あたりでちらっと拝見してから後、よくわかりません。
 たいそうご立派に、ご容貌など成長なさいました。
 帥の親王が素晴らしくいらっしゃるようですが、感じが劣って、王族程度でいらっしゃいました」
   とのたまへば、「ふと見知りたまひにけり」と思せど、ほほ笑みて、なほあるを、良しとも悪しともかけたまはず。
 
 とおっしゃるので、「一目でお見抜きだ」とお思いになるが、にっこりして、その他の人々については、良いとも悪いとも批評なさらない。
 
   人の上を難つけ、落としめざまのこと言ふ人をば、いとほしきものにしたまへば、  人のことに欠点を見つけ、非難するような人を、困った者だと思っていらっしゃるので、
   「右大将などをだに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある。
 近きよすがにて見むは、飽かぬことにやあらむ」
 「右大将などをさえ、立派な人だと言っているようだが、何のたいしたことがあろうか。
 婿として見たら、きっと物足りないことであろう」
   と、見たまへど、言に表はしてものたまはず。
 
 と、お思いだが、口に出してはおっしゃらない。
 
   今はただおほかたの御睦びにて、御座なども異々にて大殿籠もる。
 「などてかく離れそめしぞ」と、殿は苦しがりたまふ。
 おほかた、何やかやともそばみきこえたまはで、年ごろかく折ふしにつけたる御遊びどもを、人伝てに見聞きたまひけるに、今日めづらしかりつることばかりをぞ、この町のおぼえきらきらしと思したる。
 
 今はただ一通りのご夫婦仲で、お寝床なども別々にお寝みになる。
 「どうしてこのよう疎々しい仲になってしまったのだろう」と、殿は苦痛にお思いになる。
 だいたい、何のかのと嫉妬申し上げなさらず、長年このような折節につけた遊び事を、人づてにお聞きになっていらっしゃったのだが、今日は珍しくこちらであったことだけで、自分の町の晴れがましい名誉とお思いでいらっしゃった。
 

376
 「その駒も すさめぬ草と 名に立てる
 汀の菖蒲 今日や引きつる」
 「馬も食べない草として有名な水際の菖蒲のようなわたしを
  今日は節句なので、引き立てて下さったのでしょうか」
 
   とおほどかに聞こえたまふ。
 何ばかりのことにもあらねど、あはれと思したり。
 
 とおっとりと申し上げなさる。
 たいしたことではないが、しみじみとお感じになった。
 

377
 「鳰鳥に 影をならぶる 若駒は
 いつか菖蒲に 引き別るべき」
 「鳰鳥のようにいつも一緒にいる若駒のわたしは
  いつ菖蒲のあなたに別れたりしましょうか」
 
   あいだちなき御ことどもなりや。
 
 遠慮のないお二人の歌であること。
 
   「朝夕の隔てあるやうなれど、かくて見たてまつるは、心やすくこそあれ」  「いつも離れているようですが、こうしてお目にかかりますのは、心が休まります」
   戯れごとなれど、のどやかにおはする人ざまなれば、静まりて聞こえなしたまふ。
 
 と、冗談を言うが、のんびりとしていらっしゃるお人柄なので、しんみりとした口ぶりで申し上げなさる。
 
   床をば譲りきこえたまひて、御几帳引き隔てて大殿籠もる。
 気近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋に、思ひ離れ果てきこえたまへれば、あながちにも聞こえたまはず。
 
 御帳台はお譲り申し上げなさって、御几帳を隔ててお寝みになる。
 共寝をするというようなことを、たいそう似つかわしくないことと、すっかりお諦め申していらっしゃるので、無理にお誘い申し上げなさらない。
 
 
 

第三章 光る源氏の物語 光る源氏の物語論

 
 

第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中

 
   長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。
 明石の御方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の御方にたてまつりたまふ。
 
 長雨が例年よりもひどく降って、晴れる間もなく所在ないので、御方々は、絵や物語などを遊び事にして、毎日お暮らしになっていらっしゃる。
 明石の御方は、そのようなことも優雅な趣向を凝らして仕立てなさって、姫君の御方に差し上げなさる。
 
   西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読みいとなみおはす。
 つきなからぬ若人あまたあり。
 さまざまにめづらかなる人の上などを、真にや偽りにや、言ひ集めたるなかにも、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と見たまふ。
 
 西の対では、まして珍しく思われなさることの遊び事なので、毎日写したり読んだりしていらっしゃる。
 そのうってつけの若い女房たちが大勢いる。
 いろいろと珍しい人の身の上などを、本当のことか嘘のことかと、たくさんある物語の中でも、「自分の身の上と同じようなのはなかった」と御覧になる。
 
   『住吉』の姫君の、さしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。
 
 『住吉物語』の姫君が、物語中での評判もさることながら、現実での評判もやはり格別のようだが、主計頭が、もう少しで奪うところであったことなどを、あの監の恐しさと思い比べて御覧になる。
 
   殿も、こなたかなたにかかるものどもの散りつつ、御目に離れねば、  殿も、あちらこちらでこのような絵物語が散らかっていて、お目につくので、
   「あな、むつかし。
 女こそ、ものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。
 ここらのなかに、真はいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書きたまふよ」
 「ああ、困ったものだ。
 女性というものは、面倒がりもせず、人にだまされようとして生まれついたものですね。
 たくさんの中にも真実は少ないだろうに、そうとは知りながら、このようなつまらない話にうつつをぬかし、だまされなさって、蒸し暑い五月雨の、髪の乱れるのも気にしないで、お写しになることよ」
   とて、笑ひたまふものから、また、  と言って、お笑いになる一方で、また、
   「かかる世の古言ならでは、げに、何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。
 さても、この偽りどものなかに、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。
 
 「このような古物語でなくては、なるほど、どうして気の紛らしようのない退屈さを慰めることができようか。
 それにしても、この虚構の物語の中に、なるほどそうもあろうかと人情を見せ、もっともらしく書き綴ったのは、それはそれで、たわいもないこととは知りながらも、無性に興をそそられて、かわいらしい姫君が物思いに沈んでいるのを見ると、何程か心引かれるものです。
 
   また、いとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。
 
 また、けっしてありそうにないことだと思いながらも、大げさに誇張して書いてあるところに目を見張る思いがして、落ち着いて再び聞く時には、憎らしく思うが、とっさには面白いところなどがきっとあるのでしょう。
 
   このころ、幼き人の女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふものの世にあるべきかな。
 虚言をよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」
 最近、幼い姫が女房などに時々読ませているのを立ち聞きすると、何と口のうまい者がいるものですね。
 根も葉もない嘘をつき馴れた者の口から言い出すのだろうと思われますが、そうではないありませんか」
   とのたまへば、  とおっしゃると、
   「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。
 ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」
 「おっしゃるとおり、嘘をつくことに馴れた人は、いろいろとそのようにご想像なさるでしょう。
 ただどうしても真実のことと思われるのです」
   とて、硯をおしやりたまへば、  と言って、硯を押しやりなさるので、
   「こちなくも聞こえ落としてけるかな。
 神代より世にあることを、記しおきけるななり。
 『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。
 これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
 「失礼にもけなしてしまいましたね。
 神代から世の中にあることを、書き記したものだそうだ。
 『日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎません。
 物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」
   とて、笑ひたまふ。
 
 と言って、お笑いになる。
 
 
 

第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる

 
   「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。
 善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
 
 「誰それの話といって、事実どおりに物語ることはありません。
 善いことも悪いことも、この世に生きている人のことで、見飽きず、聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事柄を、心の中に籠めておくことができず、語り伝え初めたものです。
 善いように言おうとするあまりには、善いことばかりを選び出して、読者におもねろうとしては、また悪いことでありそうにもないことを書き連ねているのは、皆それぞれのことで、この世の他のことではないのですよ。
 
   人の朝廷の才、作りやう変はる、同じ大和の国のことなれば、昔今のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける。
 
 異朝の作品は、記述のしかたが変わっているが、同じ日本の国のことなので、昔と今との相違がありましょうし、深いものと浅いものとの違いがありましょうが、一途に作り話だと言い切ってしまうのも、実情にそぐわないことです。
 
   仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。
 『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。
 
 仏教で、まことに立派なお心で説きおかれた御法文も、方便ということがあって、分からない者は、あちこちで矛盾するという疑問を持つに違いありません。
 『方等経』の中に多いが、詮じつめていくと、同一の主旨に落ち着いて、菩提と煩悩との相違とは、物語の、善人と悪人との相違程度に過ぎません。
 
   よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」  よく解釈すれば、全て何事も無駄でないことはなくなってしまうものですね」
   と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
 
 と、物語を実にことさらに大したもののようにおっしゃった。
 
   「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。
 いみじく気遠きものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。
 いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせむ」
 「ところで、このような昔物語の中に、わたしのような律儀な愚か者の物語はありませんか。
 ひどく親しみにくい物語の姫君も、あなたのお心のように冷淡で、そらとぼけている人はまたとありますまいな。
 さあ、二人の仲を世にも珍しい物語にして、世間に語り伝えさせましょう」
   と、さし寄りて聞こえたまへば、顔を引き入れて、  と、近づいて申し上げなさるので、顔を引き入れて、
   「さらずとも、かく珍かなることは、世語りにこそはなりはべりぬべかめれ」  「そうでなくても、このように珍しいことは、世間の噂になってしまいそうなことでございます」
   とのたまへば、  とおっしゃるので、
   「珍かにやおぼえたまふ。
 げにこそ、またなき心地すれ」
 「珍しくお思いですか。
 なるほど、またとない気持ちがします」
   とて、寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。
 
 と言って、寄り添っていらっしゃる態度は、たいそうふざけている。
 

378
 「思ひあまり 昔の跡を 訪ぬれど
 親に背ける 子ぞたぐひなき
 「思いあまって昔の本を捜してみましたが
  親に背いた子供の例はありませんでしたよ
 
   不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」  親不孝なのは、仏の道でも厳しく戒めています」
   とのたまへど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、いみじく怨みたまへば、からうして、  とおっしゃるが、顔もお上げにならないので、お髪を撫でながら、ひどくお恨みなさるので、やっとのことで、

379
 「古き跡を 訪ぬれどげに なかりけり
 この世にかかる 親の心は」
 「昔の本を捜して読んでみましたが、おっしゃるとおり
  ありませんでした。
 この世にこのような親心の人は」
 
   と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れたまはず。
 
 とお申し上げなさるにつけても、気恥ずかしいので、そうひどくもお戯れにならない。
 
   かくして、いかなるべき御ありさまならむ。
 
 こうして、どうなって行くお二方の仲なのであろう。
 
 
 

第三段 源氏、紫の上に物語について述べる

 
   紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、物語は捨てがたく思したり。
 『くまのの物語』の絵にてあるを、
 紫の上も、姫君のご注文にかこつけて、物語は捨てがたく思っていらっしゃった。
 『くまのの物語』の絵の箇所を、
   「いとよく描きたる絵かな」  「とてもよく描いた絵だわ」
   とて御覧ず。
 小さき女君の、何心もなくて昼寝したまへるところを、昔のありさま思し出でて、女君は見たまふ。
 
 と御覧になる。
 小さい女君が、あどけなく昼寝をしていらっしゃる所を、昔の様子をご回想なさって、女君は御覧になる。
 
   「かかる童どちだに、いかにされたりけり。
 まろこそ、なほ例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」
 「このような子供どうしでさえ、なんとませたことなのでしょう。
 わたしなど、やはり語り草になるほど、気の長さは誰にも負けませんね」
   と聞こえ出でたまへり。
 げに、たぐひ多からぬことどもは、好み集めたまへりけりかし。
 
 と申し上げなさる。
 なるほど、世間に例の多くない恋愛を、数々なさってこられたことよ。
 
   「姫君の御前にて、この世馴れたる物語など、な読み聞かせたまひそ。
 みそか心つきたるものの娘などは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけりと、見馴れたまはむぞ、ゆゆしきや」
 「姫君の御前で、この色恋沙汰の物語など、読み聞かせなさいますな。
 秘め事をする物語の娘などは、おもしろいと思わぬまでも、このようなことが世間にはあるのものだと、当たり前のように思われるのが、困ったことなのですよ」
   とのたまふも、こよなしと、対の御方聞きたまはば、心置きたまひつべくなむ。
 
 とおっしゃるにつけても、格段に違うと、対の御方がお聞きになったら、きっとひがまれよう。
 
   上、  紫の上は、
   「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。
 『宇津保』の藤原君の女こそ、いと重りかにはかばかしき人にて、過ちなかめれど、すくよかに言ひ出でたることもしわざも、女しきところなかめるぞ、一様なめる」
 「軽率な物語の人の物真似の類は、見ていてもたまりません。
 『宇津保物語』の藤原の君の娘は、とても思慮深くしっかりした人で、間違いはないようですが、そっけない返事もそぶりも、女性らしいところがないようなのが、同じようですね」
   とのたまへば、  と、おっしゃると、
   「うつつの人も、さぞあるべかめる。
 人びとしく立てたる趣きことにて、よきほどにかまへぬや。
 よしなからぬ親の、心とどめて生ほしたてたる人の、子めかしきを生けるしるしにて、後れたること多かるは、何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそ、いとほしけれ。
 
 「実際の人も、そういうもののようです。
 一人前にそれぞれ主義主張を異にして、加減というものを知りません。
 悪くはない親が、気をつかって育てた娘が、無邪気さだけがただ一つのとりえで、劣ったところが多いのは、いったいどんなふうにして育ててきたのかと、親の育て方までが想像されるのは、気の毒です。
 
   げに、さいへど、その人のけはひよと見えたるは、かひあり、おもだたしかし。
 言葉の限りまばゆくほめおきたるに、し出でたるわざ、言ひ出でたることのなかに、げにと見え聞こゆることなき、いと見劣りするわざなり。
 
 なるほど、そうは言っても、身分にふさわしい感じがすると思えるのは、育てがいもあり、名誉なことです。
 口をきわめて気恥ずかしいほど誉めていたのに、しでかしたことや、口に出した言葉の中に、なるほどと見えたり聞こえたりすることがないのは、まことに見劣りがするものです。
 
   すべて、善からぬ人に、いかで人ほめさせじ」  だいたい、つまらない人には、どうか娘を誉めさせたくないものです」
   など、ただ「この姫君の、点つかれたまふまじく」と、よろづに思しのたまふ。
 
 などと、ひたすら「この姫君が非難されないように」と、あれやこれやといろいろ考えておっしゃる。
 
   継母の腹ぎたなき昔物語も多かるを、このころ、「心見えに心づきなし」と思せば、いみじく選りつつなむ、書きととのへさせ、絵などにも描かせたまひける。
 
 継母の意地悪な昔物語も多いが、最近は、「心が見透かされ底意地悪い」と思われなさるので、厳しく選んでは選んでは、清書させたり、絵などにもお描かせなさるのだった。
 
 
 

第四段 源氏、子息夕霧を思う

 
   中将の君を、こなたには気遠くもてなしきこえたまへれど、姫君の御方には、さしもさし放ちきこえたまはずならはしたまふ。
 
 中将の君を、こちらにはお近づけ申さないようにしていらっしゃったが、姫君の御方には、そんなにも遠ざけ申しなさらず、親しくさせていらっしゃる。
 
   「わが世のほどは、とてもかくても同じことなれど、なからむ世を思ひやるに、なほ見つき、思ひしみぬることどもこそ、取り分きてはおぼゆべけれ」  「自分が生きている間は、どちらにせよ同じことだが、死んだ後を想像すると、やはり平生から、馴染んでおいた方が、格別親しく思内側われるに違いない」
   とて、南面の御簾の内は許したまへり。
 台盤所、女房のなかは許したまはず。
 あまたおはせぬ御仲らひにて、いとやむごとなくかしづききこえたまへり。
 
 と考えて、南面の御簾の内側に入ることはお許しになっていた。
 台盤所、女房の中はお許しにならない。
 何人もいらっしゃらないお子たちの間柄なので、とても大切にお世話申し上げていらっしゃった。
 
   おほかたの心もちゐなども、いとものものしく、まめやかにものしたまふ君なれば、うしろやすく思し譲れり。
 まだいはけたる御雛遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人の、もろともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、雛の殿の宮仕へ、いとよくしたまひて、折々にうちしほたれたまひけり。
 
 だいたいの性格なども、たいそう慎重で、真面目でいらっしゃる君なので、安心してお任せになっていらっしゃった。
 まだ幼いお人形遊びなどの様子が見えるので、あの人が、一緒に遊んで過ごした昔の月日が、真先に思い出されるので、人形の殿の宮仕を、とても熱心になさりながら、時々は涙ぐんでいらっしゃるのであった。
 
   さもありぬべきあたりには、はかなしごとものたまひ触るるはあまたあれど、頼みかくべくもしなさず。
 さる方になどかは見ざらむと、心とまりぬべきをも、強ひてなほざりごとにしなして、なほ「かの、緑の袖を見え直してしがな」と思ふ心のみぞ、やむごとなき節にはとまりける。
 
 そうしてもよさそうなあたりには、軽い気持ちで言い寄ったりなさる女は大勢いるが、望みを懸けてくるようには仕向けない。
 愛人にしてもよさそうだと、思い寄られそうな女も、無理に一時の浮気沙汰にして、やはり「あの、緑の袖よと馬鹿にされたのを見返してやりたいものだ」と思う気持ちだけが、重大事として忘れられないのであった。
 
   あながちになどかかづらひまどはば、倒ふるる方に許したまひもしつべかめれど、「つらしと思ひし折々、いかで人にもことわらせたてまつらむ」と思ひおきし、忘れがたくて、正身ばかりには、おろかならぬあはれを尽くし見せて、おほかたには焦られ思へらず。
 
 無理にでも何とかつきまとったならば、根負けしてお許しになるかも知れないが、「つらいと思った折々のことを、何とか内大臣にもお分りになっていただこう」と考えていたこと、忘れられないので、ご本人に対してだけは、並々ならぬ愛情の限りを表して、表面では恋い焦がれているようには見せない。
 
   兄の君達なども、なまねたしなどのみ思ふこと多かり。
 対の姫君の御ありさまを、右中将は、いと深く思ひしみて、言ひ寄るたよりもいとはかなければ、この君をぞかこち寄りけれど、
 ご兄弟の公達なども、小憎らしいなどとばかり思う事が多かった。
 対の姫君のご様子を、右中将は、たいそう深く思いつめて、言い寄る手引きもたいそう頼りなかったので、この中将の君に泣きついて来たが、
   「人の上にては、もどかしきわざなりけり」  「他人事となると、感心できないことですね」
   と、つれなく応へてぞものしたまひける。
 昔の父大臣たちの御仲らひに似たり。
 
 と素っ気なく答えていらっしゃるのだった。
 その昔の父大臣たちの御仲に似ていた。
 
 
 

第五段 内大臣、娘たちを思う

 
   内の大臣は、御子ども腹々いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ、人柄に従ひつつ、心にまかせたるやうなるおぼえ、御勢にて、皆なし立てたまふ。
 女はあまたもおはせぬを、女御も、かく思ししことのとどこほりたまひ、姫君も、かくこと違ふさまにてものしたまへば、いと口惜しと思す。
 
 内大臣は、お子様方が夫人たちに大勢いたが、その母方の血筋の良さや、子供の性質に応じて、思いどおりのような世間の声望や、御権勢に任せて、皆一人前に引き立てなさる。
 女の子はたくさんはいないが、女御も、あのようにご期待していたこともうまくゆかず、姫君も、またあのように思惑と違うようなことでいらっしゃるので、とても残念だとお思いになる。
 
   かの撫子を忘れたまはず、ものの折にも語り出でたまひしことなれば、  あの撫子のことがお忘れになれず、何かのついでにもお口になさったことなので、
   「いかになりにけむ。
 ものはかなかりける親の心に引かれて、らうたげなりし人を、行方知らずなりにたること。
 すべて女子といはむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。
 さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。
 とてもかくても、聞こえ出で来ば」
 「どうなったのだろう。
 頼りない親の心のままに、かわいらしかった子を、行く方不明にしてしまったことよ。
 だいたい女の子というものは、どんなことがあっても目を放してはならないものであった。
 勝手に自分の子供と名乗って、みじめな境遇でさまよっているのだろうか。
 どのような恰好でいるにせよ、噂が聞こえて来たならば」
   と、あはれに思しわたる。
 君達にも、
 と、しみじみとずっと思い続けていらっしゃる。
 ご子息たちにも、
   「もし、さやうなる名のりする人あらば、耳とどめよ。
 心のすさびにまかせて、さるまじきことも多かりしなかに、これは、いとしか、おしなべての際にも思はざりし人の、はかなきもの倦むじをして、かく少なかりけるもののくさはひ一つを、失ひたることの口惜しきこと」
 「もし、そのように名乗り出る人があったら、聞き逃すな。
 気紛れから、感心できない女性関係も多かった中で、あの人は、とても並々の愛人程度とは思われなかった人で、ちょっとした愛想づかしをして、このように少なかった娘一人を、行方不明にしてしまったことの残念なことよ」
   と、常にのたまひ出づ。
 中ごろなどはさしもあらず、うち忘れたまひけるを、人の、さまざまにつけて、女子かしづきたまへるたぐひどもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く、本意なく思すなりけり。
 
 と、いつもお口に出される。
 ひところなどは、そんなにでもなく、ついお忘れになっていたが、他人が、さまざまに娘を大切になさっている例が多いので、ご自分のお思いどおりにならないのが、とても情けなく、残念にお思いになるのであった。
 
   夢見たまひて、いとよく合はする者召して、合はせたまひけるに、  夢を御覧になって、たいそうよく占う者を召して、夢の意味をお解かせになったところ、
   「もし、年ごろ御心に知られたまはぬ御子を、人のものになして、聞こしめし出づることや」  「もしや、長年あなた様に知られずにいらっしゃるお子様を、他人の子として、お耳にあそばすことはございませんか」
   と聞こえたりければ、  と申し上げたので、
   「女子の人の子になることは、をさをさなしかし。
 いかなることにかあらむ」
 「女の子が他人の養女となることは、めったにないことだ。
 どのようなことだろうか」
   など、このころぞ、思しのたまふべかめる。
 
 などと、このころになって、お考えになったりおっしゃっているようである。
 
 
 

【出典】

 
  出典1 神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな(信明集-五六)侘びつつも頼む月日はあるものを五月雨にさへなりにけるかな(花鳥余情所引-出典未詳)(戻)  
  出典2 眺めつつ我が思ふことは日暮らしに軒の雫の絶ゆる世もなし(新古今集雑下-一八〇一 具平親王)(戻)  
  出典3 五月雨に物思ひ居ればほととぎす夜深く鳴きていづち行くらむ(古今集夏-一五三 紀友則)(戻)  
  出典4 水隠れて生ふる五月のあやめ草長きためしに人は引かなむ(続古今集夏-二二九 紀貫之)(戻)  
  出典5 香を求めて訪ふ人あるをあやめ草あやしく駒のすさめざりける(後拾遺集夏-二一〇 恵慶)(戻)  
  出典6 若駒と今日に逢ひくるあやめ草おひおくるるや負くるなるらむ(頼基集-三〇)(戻)  
  出典7 ほととぎすをち返り鳴けうなゐ子がうち垂れ髪の五月雨の空(拾遺集夏-一一六 凡河内躬恒)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 思ふには--おもふに(に/+は)(戻)  
  校訂2 思しし--おほし(し/+し)(戻)  
  校訂3 ねぢけ--*ねちき(戻)  
  校訂4 聞こえ--き(き/+こ)え(戻)  
  校訂5 根に--(/+ね)に(戻)  
  校訂6 こなたのは--こなたの(の/+は<朱>)(戻)  
  校訂7 いと--(/+いと)(戻)  
  校訂8 そらおぼめき--そ(そ/+ら)おほめき(戻)  
  校訂9 ことも--(/+事も<朱>)(戻)  
  校訂10 このころ--(/+此比<朱>)(戻)  
  校訂11 御勢--(/+御<朱>)いきほひ(戻)  
  校訂12 なりに--なり(り/+に)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。