伊勢物語 24段:梓弓 あらすじ・原文・現代語訳

第23段
筒井筒
伊勢物語
第一部
第24段
梓弓
第25段
逢はで寝る

 
 目次
 

あらすじ(大意)
 
 解説
 →筒井筒からの続き。
 筒井(大和)から宮仕えに出る
 
 さるべき筋の宮仕え by源氏

 →本段。
 
 弓矢と文屋(梓×文屋=子の朝康)
 →子がいた。勤め先は女所(94段)=縫殿
 
 やまとなでしこ(投影)
 トヤマから一人の男をさがし上京する、
 貧乏が死ぬほど嫌いな娘の恋物語。
 結局見つけた貧しく誰より賢い男。
 そして結ばれる。
 
 
原文
 

現代語訳(逐語解説)
 

 ①今宵あはむ 
 (帰らない男。今宵と婚約したら今夜来た)
 

 ②梓弓:万葉の枕詞。神技の具(神器)。
 とかけて婚姻・信義則を考える。
 
 ♪新枕 
 改める。三年待って残念だけど
 
 ♪♂ま弓つき弓
 自ら身を引くと掛け、弓を引くと解く
 その心はまつきあり。俺は待っている。
 
 ♪引けど引かねど 
 やはり一緒と追い駆ける
 

 ③いたづらになり
 =ばかなこと
 
  清水のある所=きよみず
 
  およびの血
 

 死因:しみず・きよみずに掛け、みずから果てた。

 および(指)の血:ダイイングメッセージ。
 幸せにするために別れていたのに…。
 
 

あらすじ

 
 
 この段は前段、筒井筒から引き続く内容。一体として見なければならない。
 冒頭で「田舎」というのはこの二段しかなく、かつ内容も連動している。
 それを無視して別々に見るのは、極めてナンセンスかつ伊勢を冒涜している(筒井筒で妻が生活に困って、男が通った先が他の女と見るように)。
 しかしそれも意図がある。伊勢を徹底的に分断解体し無意味化させるという(所詮下衆の色好み物語)。記述無視で業平の話と言い張るのはその一環。
 

 さて、本段の概要はこうである。
 

 筒井筒で幼馴染と契り交わした、筒井(大和)の田舎の若夫婦、嫁の親がなくなり(生活が困難になり)、別れを惜しんで、男が宮仕えに出た(徒歩で)。
 三年たつと離婚事由(失踪原因)になるのでギリギリ家に戻ると、家には入れられないという。枕を新しいのに変えるといわれた(婚約してたら今夜きた)。
 男は衝撃を受けながら、三年も独りにしておいた女の寂しさを思い(それだけ愛し合っていた)、俺は待っているからと仄めかし、引き下がるしかなかった。
 そうしたら、女が後日男を追いかけてきて、道中(清水)で果てた。
 女にとってはどっちにせよ、信義を損なってしまった(しまう)からである。
 
 女が他の男と婚約したのは、もう会えない(戻らない)と思ったからだが、男が俺は待ってると言ったのは、女にとっては当てつけだったのかもしれないな。
 しかし男にとっては当てつけである。君以外いないと言われて契った幼馴染。三年で帰ってこなくなると思われるとは思わなかった(しかし勤め先は女所)。
 最期の「いたずらになりにけり」は、バカなことをして(無駄死に)という意味。しかしバカにしたのでも呆れたのでもない。
 例えば、ほんとバカだなと抱いて泣くのと同じ愛情表現。しかし互いにどうしようもなかった…。たまには帰れだ? 徒歩10時間と下の仕事なめとんのか。
 こういう一見突き放したことを、つい言ってしまうのが筒井筒の二人。でも発言対象は違うので。女も会いたかったけど、合わせる顔がなかった。多分。
 
 以上。
 
 

解説

 
 
 「清水(し水)のある所」で、なぜ清水が湧いている所になるのか。そこで死ぬなど意味不明。
 
 自ら死んだに掛けた、きよみずに決まってる。
 どうでもいい所ではすぐずらして、こういう所は少しも融通きかさない。
 そういうのを著者のせいにするのはどうなのか。
 
 定家本で清水とある以上、原文は99%「清水」。
 それ以外の写本の方が当を得ていた試しは一つもない。いや、まあ一つ位はあるか。
 この段はまだ公(帝や貴族)の話題から離れているからそこまでではないが、微妙な部分は単純に変えられていることがわかるはず。
 

 千年以上もこうだから、業平が主人公とか、伊勢の記述上絶対ありえないことが言える。
 業平は在五で初出、けぢめ見せぬ心(63段)、後宮で女に拒絶されてもつきまとい笑われ陳情され流され(65段)、元より歌は知らない(101段)。無理。
 伊勢を読めず伊勢を語る。公の都合で主従を逆転させ、伊勢を乗っ取って、伊勢が後だと記述を無視して言い張る。
 

 男はなぜあっさりひきさがった? 男の中では解決した? なわけない。前段で簡単に他の女に乗り換えて通った? 正気の沙汰ではない。
 媚びないのが男の意地で男の命なの。プライドなの。プライドない? 貴族は男の憧れ? そうですか。しかしそんな憧れは昔男にはない。
 幼馴染とやっと結ばれたのに、そんなすぐ終わったと思えるの。あ、別の話? 違うよ? そら東下りも妻を偲んだ歌も、業平の気まぐれ遠足のポエムだわ。
 なぜ文脈見れんの。つなぎ読みってなに? 文脈って言葉知らん? もう最悪中身は読めんでもいいよ、先頭にある言葉だよ。田舎だよ田舎。
 それもわからんなら、古典にゃ百年はえーよ。百年前でもチャンバラにもいたらねえ。
 
 とりあえず100年間ROMっとけって死語ですか? リードオンリー。最初は読むだけ。それが近道だって。よーわからんのに書き出すからおかしくなる。
 頭からっぽなのにテストばっかして。だから夢つめこめなくなるじゃん。だから夢も希望もビジョンも何もない国。金しか頭にない、奴隷狩りの貧しい国。
 用意された答えを覚えて、条件で吐き出す。それはパブロフ的処理で思考とは本質的に違う。だからその訓練で鐘ならしてるんでしょ? あ、違った?
 一生、懸命に従って金と糧を得るための人生。それで生きる意味何? 金と老後の安泰が夢? そいつはめでたい。有り難く思え? ね、そうでしょう。
 人の本質は機械的処理ではない。上が与えた枠組み・理論付けを超えさせない。だからブレイクスルーがないし、前提の当否から考えられない。追従だけ。
 
 どうすんの業平説。みんなのっかっちゃったじゃない。だから無理筋なのに無理に正当化し続けるしかないんでしょ。わかってるでしょ。絶対無理だって。
 でもそれを認めるのが、人として真っ当なあり方でしょ。伊勢の著者の尊厳はどうなるわけ? どうでもいいわけ? あまりにひどい。人としてない。
 あからさまな63段・65段すら直視せず、真偽不明に持ち込もうとする。自分達が通せない筋を著者のせいにする。極めて不誠実。それがこの国の文化か?
 伊勢の著者を複数人などと徹底して分断破壊。その態度だけでない。見れないからそんなことが言える。初段と114段の狩衣の裾のリンクも見れない。
 良心があるなら、まずは63段の在五を「けぢめ見せぬ心」ということの解釈から。この段は試験紙。その見方・答え方で人間性がわかる。
 

 問:伊勢63段の「けぢめ見せぬ心」について、文脈と語義に即し説明せよ。
 100字以内で結論と理由を簡潔に示せば足りる。この部分に高等な解釈など必要ない。800字以上は必要ない。長さは肝心ではない。
 高等な解釈というのも、その段の「百歳に一歳たらぬつくも髪」とは、百から一抜いて白髪(年寄り)の暗示のようなレベルのこと。
 しかしこれは誰も読めてないから、この問いを出す資格はあるだろう。つか誰か読めたの? いたら在五が主人公という認定がまかり通ったりしない。
 全く取り違えたことを延々書いても意味がない。たとえ業平賛美を1000年間展開しても、「けぢめ見せぬ心」は業平を非難した言葉であるに劣る。
 
 実態ないことをいくら通説化させても既成事実化できない。塗籠のような積極的改変も無意味。それを伊勢は証明した。大意は害えない。
 
 

さるべき筋の宮仕え by源氏

 
 なぜ著者は本段のようなプライベートな内容を語れるのか。著者の話だから。伊勢の話は全部そう。
 世間話は全て第三者がからむ事件タイプの伝聞類型。著者の体験か、伝聞かは、明確に区別できる。
 判事で縫殿の文屋。だから法律の話にからめている。これも伊勢全体に通じていること。
 その知性があって歌心もあるから、源氏でも「伊勢の海(ほど)の深き心」とされている。
 
 「宮仕へは、さるべき筋にて、上も下も思ひ及び出で立つこそ心高きことなれ」(源氏『行幸』)。源氏では宮仕へが多用されるが、含みがある。
 「さるべき筋」は、この伊勢24段のこと。ニュースなどで見る意味だが(さるべき筋において)、あえて言いかえれば「かつて語られたように」。
 一般にこれを帝の恩寵を期待しなどとされるが、語義から無理。これは古語の意味ということを超えて、古典の理解にかかっている。それが古の理解。
 京の貴族が出で立つとは言わないし、上流貴族は宮仕えとも言わない。だから上も下も。心高きは伊勢の深き心と対置。
 つまり源氏は伊勢の昔男がモデル。だからライバルが頭中将。伊勢物語の論争で在五中将を否定することからも確実。しかし一般はその文脈は見れない。
 
 ここで果てた筒井筒=梓弓の女は、源氏では最初の幼な妻・葵。
 葵もすぐ死ぬ。その次にくるのが紫。色かつ上がつくのはこの二人しかいない。特別な存在。
 葵との間に夕霧という一人っ子がいるが、これが朝康。だから目立たない扱いで、源氏の死後、世間にもてはやされた中将の系譜の薫の話にうもれてしまう。
 

 源氏の最初「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 これは源氏の母・桐壺の境遇だが、これは女所(縫殿)にいた文屋の境遇を象徴させている。だから対象を明示していない。すぐれては才能にかかる言葉。
 時めきは誰もが認めたという意味。それを帝の寵愛としか見れないのが実力ない人達。権威にのるしかない人達。実力で重用されたし下級役人なのに歌仙。
 「はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ」。これが、伊勢が色好みの話で業平の話とされた背景。
 伊勢と聞けば口をついて業平業平いう人達は、当時から確実にそう言っていた人達。文屋の歌をまるで読めないのにけなす。その背景がこれ(宿世)。
 

 それで、この段もどこかの貴族の夢想話と見るわけだが、あまりに酷い。
 細かい整合性など知ったこっちゃない。所詮物語、自分らの無理解も著者のせい。

 田舎の男女をここまで語る動機がないし、業平など入る余地もない。全く読めないからそう見れる。
 しかし一部の者達は、この田舎わたりの男、宮仕えに出て田舎に戻った男すら業平と見る。伊勢というだけで。どこまで滅茶苦茶。
 

 しかし筒井筒は千年残った幼馴染との恋物語。簡単には終わらない。汚されたまま終わらない。
 一矢報いる。還矢が本。人の矢ではないので一矢でOK。
 
 

弓矢と文屋

 
 梓弓と文屋を合わせ、子の朝康(archer)。男女には子どももいた(94段「紅葉も花も」=散るもの。23段と24段の中間で出した手紙の話)。
 弓矢はセットで「引けど引かねど昔より」。その「心は(ふりにしより)君に寄りにしものを」。
 アーチャーの名づけ親、アルケー(始源)。これが源氏でいう「出で来はじめの祖」。アーチャーの父親が放つ起源弾。
 

 ふりにしの reignと掛けて 見よと解く
 神のしるしの rainbow
 

 愛を失うと思う、その悲しみは辛い。
 しかし愛は不滅。だから愛は永遠にかかる(love forever)。
 だからこうして残り続ける(everlasting. eve=24)。
 果てなく続く物語(never-ending)。
 

 え、MISIA? え、Everything?  あなたの戸を叩いた? 傷ついて開くドアもある?
 不器用だから上手く言葉にできなくて? いや上手いよ。凄くよく出来てる。ミコだね。マイヤじゃなくてMISIAです。え、舞弥は武器?
 なんていってもわからないでしょ。つまりこの梓弓の神秘の掛かりを認められないでしょ。これが本来の神がかり。
 つまりMISIAのこの11と12の歌には、23段の筒井の妻=梓弓の子の心情が投影されている(対称。Oneを加えて24)。だから現世をうつしよという。
 うつすのは常世の実態。つまり夢(Vision)の世界が永遠かつ実体で、現世はその投影(Projection)。
 
 

やまとなでしこ

 
 やまとなでしこは、この国古来の女性。
 現代では、トヤマ(ヤマト)の女性。姓は神の。一応、筒井は大和である。筒井というのは筒井筒の地名のことである。近鉄の駅名である。
 彼女は幼少時の貧乏がトラウマ。死ぬほど嫌い(それで死んだ)。たった一人の男をさがし、上京した気の強い娘。美貌というが正直普通。
 こう見ないと彼女が「やまとなでしこ」たる要素が何一つない。あるのはただ一つ、古からの大和の女との掛かり。そしてそれこそが最重要。
 
 そのさがしに行った男は、家族の借金のために働く、貧しい身なりの男で、空虚な貴族のパーティーに紛れこむ、パ○ピーでは全くはかれない知的な男。
 それがMISIAの「誰にもはかれやしない」。伊勢竹取の著者を凡ははかれないというのは、紫の口癖でもある。それが「伊勢の海の深き心」。
 「かくや姫のこの世の濁りにも穢れず、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし……げに及ばぬことなれば、誰も知りがたし」
 なおここで女としているのは、男にすると本に残せないからである。
 
 話を戻し、女が貧乏が大嫌いなのは、大好きな男が都に仕事にいってしまったから。それで別れざるをえなかったから。
 そして男も女に意地をはるし、女も好きなのに意地をはる。男が一緒になれないといっても、嫌いだからではない。
 

 「今夜はたった一人の人にめぐり逢えたような気がする」というしょうもないのが殺し文句とは、会えずに果てた裏返し。その続きなので、めぐり逢う。
 歌で「星を廻し続け」られるというのは神=天道のみ。天のロード(LORD)。「my way」。神道の由来。一番最初の天之中主。神々の祖。
 
 「あなたが本当に生まれ変わったなら、今頃ニューヨーク行きの飛行機に乗っているでしょ」
 と真理子に言われ、またしても男を追いかけニューヨーク(新しい都=古の主の導きの地)に一人飛んで行ったエアードリームの神の桜子。
 
 そして謎のアイテム、カメレオン。
 桜子は荷物とカメレオン、そして欧介の葉書を持って部屋を出た。
 

 大学まで行って、カメレオンを欧介に渡し桜子は去ろうとした(ここでの大学は王子にかけプリンストンと見る。ボストンではない意味でニューヨーク)。
 欧介はカメレオンを桜子に投げる。「持っていてください。もう逃げません」(いや逃げてねーよ。誇りを守って自分の道を行っただけだから)
 
 以下Wikipediaカメレオンより。

 遥か遠い昔、まだ人間の運命が決められていなかった頃、天と地を支配する最高神が、カメレオンとトカゲを呼び、「神の言葉」を地上の人間に伝えるように命じた。
 カメレオンには、人間に「お前達は永遠に生きることが出来る」と伝えるように。
 トカゲには、人間に「お前達は必ず死が訪れる」と伝えるように。
 カメレオンとトカゲは、神の使いとして地上の人間に「神の言葉」を伝えるべく出発したが、途中でカメレオンは寄り道をしてしまった。…
 —アフリカの先住民族「ズールー族」に伝わる神話より

 これで認められないならもうだめだわ。世も末じゃない。もう終わり。終わりでいい。
 それともトカゲとカメレオンのせいか。
 一つ確実なことがある。この国に信仰はない。特に統治の権力者達。その金しか考えられない卑しさで参拝とかされると神域が髄まで穢れる。
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第24段 梓弓
   
 むかし、男かた田舎に住みけり。  昔、おとこ、かたゐなかにすみけり。  昔男。かたいなかにすみけり。
  男宮仕へしにとて、 おとこ、宮づかへしにとて、 おとこ宮づかへしにとて。
  別れ惜しみてゆきにけるまゝに、 わかれおしみてゆきにけるまゝに わかれおしみてゆきにけるまゝに。
  三とせ来ざりければ、 三とせこざりければ、 みとせこざりければ。
  待ちわびたるけるに、 まちわびたりけるに、 まちわたりけるに。
  いとねむごろにいひける人に、 いとねむごろにいひける人に、 いとねんごろにいひける人に。
  今宵あはむとちぎりたりけるに、 こよひあはむとちぎりたりけるを、 こよひあはんとちぎりたりけるに。
  この男きたりけり。 このおとこきたりけり。 この男きたりけり。
  この戸あけ給へとたゝきけれど、 このとあけたまへとたゝきけれど、 この戶あけたまへと。たゝきければ。
  あけで、歌をなむよみていだしたりける。 あけで、うたをなむよみていだしたりける。 あけてなんうたをよみていだしたりける。
 

52
 あらたまの
 年の三年を待ちわびて
 あらたまの
 としの三とせをまちわびて
 あら玉の
 年のみとせを待わひて
  新枕すれ
  たゞ今宵こそ
  たゞこよひこそ
  にゐまくらすれ
  たゝ今小宵社
  新枕すれ
 
  といひだしたりければ、 といひいだしたりければ、  といひいだしたりければ。おとこ。
 

53
 梓弓
 ま弓つき弓年を経て
 あづさゆみ
 まゆみつきゆみとしをへて
 梓弓
 まゆみ槻弓としをへて
  わがせしがごと
  うるはしみよせ
  わがせしがごと
  うるはしみせよ
  我せしかこと
  うるはしみせよ
 
  といひて、いなむとしければ、女、 といひて、いなむとしければ、女、 といひて。いなんとすれば。うらみて女。
 

54
 梓弓
 引けど引かねど昔より
 あづさゆみ
 ひけどひかねどむかしより
 あつさ弓
 ひけとひかねと昔より
  心は君に
  寄りにしものを
  心はきみに
  よりにしものを
  心はきみに
  よりにしものを
 
  といひけれど、男かへりにけり。 といひけれど、おとこかへりにけり。 といひけれど。男かへりにけり。
  女いとかなしくて、 女いとかなしくて、 女いとかなしうて。
  後にたちて追ひゆけど、 しりにたちてをひゆけど、 しりにたちてをひけれど。
  え追ひつかで、 えをひつかで、 えをひつかで。
  清水のある所にふしにけり。 し水のある所にふしにけり。 し水のある所にふしにけり。
  そこなりける岩に、 そこなりけるいはに、 そこなる岩に。
  およびの血して、書きつける およびのちしてかきつけゝる をよびのちしてかきつけゝり
 

55
 あひ思はで
 離れぬる人をとゞめかね
 あひおもはで
 かれぬる人をとゞめかね
 あひ思はて
 かれぬる人をとゝめかね
  わが身は今ぞ
  消え果てぬめる
  わが身はいまぞ
  きえはてぬめる
  我身は今そ
  消果ぬめる
 
  書きて、そこにいたづらになりにけり。 かきて、そこにいたづらになりにけり。 かきて。いたづらになりにけり。
   

現代語訳

 
 

今宵あはむ

 

むかし、男かた田舎に住みけり。
男宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるまゝに、三とせ来ざりければ、
待ちわびたるけるに、いとねむごろにいひける人に、今宵あはむとちぎりたりけるに、
この男きたりけり。

 
むかし、男かた田舎に住みけり。
 むかし、男が片田舎に住んでいた。
 
(これは、「むかし、 田舎わたらひしける人の子ども」という前段とのつながりを示している。
 冒頭に「田舎」が入るのは、物語中、この2つの段のみであるから、確実に意図している。)
 

男宮仕へしにとて、
 男が宮仕えをしにいくと言って、
(つまり前段で女の子を置いて家を離れたのは、このためだったと明示してる)
 

別れ惜しみてゆきにけるまゝに、
 別れを惜しんで行ったまま、
(つまり、女の子を嫌いになって離れたのではないと明示している)
 

三とせ来ざりければ、
 三年家に戻ってこなかったので、
 
(三年帰らなければ離婚とされる法律を受けた記述とされる。
 子のありなしで年数が区別され、
 この年数で子の有無を仄めかしているようにも思える)
 

待ちわびたるけるに、
(女は男の帰りを)待ちわびていたが、
 

いとねむごろにいひける人に、
 とても親しく言ってきた人に、
 

 ねんごろ 【懇】
 ①親しくなること。
 ②男女が情を通じること。
 

今宵あはむとちぎりたりけるに、
 今夜逢おうと契りを立てていたところ、
 

 あう【逢ふ・合ふ】
 :結婚する、一つになる。
 

  ちぎり 【契り】
 :約束。特に男女の約束(一つになる約束)。
 

この男きたりけり。
 この男(夫)が帰ってきた。
 
※これは、タイミングが悪いということではなく、それがタイムリミットだと分かっていたから。
 著者(男=六歌仙の一人)の仕事の一つに、判事というのがある。
 普通の人は法律の知識など知らない、ましてこの時代。だから間接的な証拠として示しているともいえる。
 

 伊勢の著者は見当がついていないのは承知の通り(業平とはされていない。説明がつかないから)。
 しかしこの男とみれば、物語の全ての記述がよく通る。合作などと無理をいう必要もない。
 そしてこの男には、三河に赴任した客観的な記録もあり、東下りの段で三河に行った男(つまり主人公)というに、なんの差し支えもない。
 古今での詞書(8,445)も二条の后に近いことを裏づけている。このような詞書が二つあり、しかも伊勢から完全に独立しているのは、この男(文屋)のみ。
 

 このように、業平主人公説のような矛盾はなく、確実かつ一貫した根拠がある。
 著者と主人公を無理に別々に見ているのは、業平では説明できなくなったから。
 
 伊勢を記すほどの実力を秘めていたから、単なる無名の役人でも、六歌仙と称されている。
 貴族や皇族、坊主や旧豪族のような後ろ盾もなく、わけもなく歌仙と称されるわけがない。
 小町は文屋と縫殿でつながりがある(小町針のエピソード。男を断固拒絶する話。これが竹取の話)。
 
 

梓弓

 

新枕

 

この戸あけ給へ、とたゝきけれど、あけで、歌をなむよみていだしたりける。
 
あらたまの 年の三年を 待ちわびて
 新枕すれ たゞ今宵こそ


※この女の子の歌は、この歌も続く歌も万葉を参照している。前段でも同じ。
 つまり同一人物。つまり筒井筒の続きということ。もっといえば、20段から連続している。
 

あらたまの 年の三年を 待ちわびて 新枕すれ たゞ今宵こそ(伊勢)

あらたまの 年の五年  しきたへの 手枕まかず 紐解かず万葉集18/4113
 

 しきたえ【敷栲・敷妙】
 ①寝所に敷く布。
 ②枕の異名。
 

 →特に重要な要素は、かぶっていない所。
 つまり「待ちわびて」と「ただ今宵こそ」と「紐解かず」。
 
 
この戸あけ給へとたゝきけれど、
 (男が)この戸を開けておくれと叩いたが、
 

あけで、歌をなむよみていだしたりける。
 (女は)開けないで、歌を詠んで出した。
 

あらたまの

 あらたま【粗玉・新玉・荒玉・璞】
 :まだ磨いていない玉。
 

 →その意味は文脈による。
 ここでは万葉の趣旨と合わせて読む。
 
 まず新玉は新枕とかけている枕詞。
 この枕(夜のこと)に続けて万葉の内容を導く。→「紐解かず」(開けないで)
 この「紐」は、着物・下着の紐の含み。
 

 みがいていない→汚いから、そのままでは見せられない。
 

年の三年を待ちわびて
 三年もの年を待ちわびて
 

新枕すれ
 新しい枕にするが
 

たゞ今宵こそ
 それは今夜だけだったのに(これまでずっと待っていたのに)

 ただ
 【直】ちょうど。
 【唯・只】わずかに。たった。(限定)
 

 婚約したら、今夜来たと…。
  
 

ま弓つき弓

 

といひだしたりければ、
 
梓弓 ま弓つき弓 年を経て
 わがせしがごと うるはしみよせ
 
といひて、いなむとしければ、

 
 
といひだしたりければ、
 と言って、歌を出してやれば(男がこれに返し)
 
 

梓弓
 

 梓弓:梓巫女 (あずさみこ) が用いる小さな弓。

 (梓巫女:特定の神社に属せず各地を渡り歩いて託宣を行っていた巫女。神器→信義。

  →前段「田舎わたらひしける人の子ども」
  +「ふりわけ神もかたすぎぬ きみならずして たれかあ(上・合)ぐべき」(わたしの髪をまとめてくれるのはあなただけ。だからこその最後))
 

ま弓つき弓 年を経て
 真弓槻弓、年を経ても
 

 三年(残念)にかけ三連続で韻を踏み、
 さらに自ら身を引くとかけ、弓を引くと解く(弓は引くもの。字形に注目)。
 その心は、真+槻(まつき)あり。待っている。
 年を経ても待っている。
 (わたしがこの機会を年を経て待ちわびていたように)
 

わがせしがごと
(だからその時になれば)私がしてきたこと(≒仕事の話・都の土産話)を
 
→わが+せし+が+ごと
 

 これを「今まで私が愛したようにその男を愛しなさい」などと解するのは、人情として、まして筒井筒で、この人だけと契った間柄では想定しがたい。
 一般の訳では、筒井筒においてすら、別の女をいとも簡単にこさえたとみるわけだが、そういう薄情さで、女が泣いて死に至る経緯が全く意味不明。
 

 それにひきかえ、上記のように解すれば「宮仕え」の意味も拾えるし、「しがごと」でかかりも良い。
 そして、男は好きな子には物語をして聞かせるのがならわし(95段・彦星等)だから、このように、仕事の話(つまりこの物語)と解する他ない。
 

うるはしみよせ(△みせよ)
 麗しく見せてあげよう。
(とても美しい話を聞かせてみせよう。)
 

 みよせ:みよっさ(一緒にみよう。親しみこめて。状況を重くしないように)。
 「みせよ」だと指図にも捉えられかねないので、そうしない。
 でなければ、一つの写本でも「みよせ」になる理由がない。
 

 うるはし 【麗し・美し・愛し】
 ①壮大で美しい。(田舎と都を対比させ)
 ②親密。
 ③色鮮やか。
 ④まちがいない。→確実に。絶対に。
 
(こういう説明は、伊勢物語のような物語を表す表現として不足はないだろう。
 どこぞの貴族のみだりな淫奔話に謎の大らかさを感じるように見れば違うのかもしれないが、しかしそれはあまりに酷い。名誉は回復される必要がある。)
 
 

といひて、いなむとしければ、
 と言って、去ろうとしたら、
 
 

引けど引かねど

 

女、
 
梓弓 引けど引かねど 昔より
 心は君に 寄りにしものを
 
といひけれど、男かへりにけり。

 
※ここでも万葉から。

梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に 寄りにしものを(伊勢)

梓弓 末のたづきは知らねども 心は君に 寄りにしものを万葉集12/2985②

梓弓 引きみ緩へみ思ひみて すでに心は 寄りにしものを万葉集12/2986
 

 →ここでの特有の要素は「昔より」。その心は、「寄り」と合わさり、ヨリ(縒り)を戻したい。

 「縒り」とは、糸をねじりからませることで、「縒りを戻す」は絡ませたものを元に戻すこと。
 
 
女、
 女がこれに返し、
 

梓弓
 
※ここでは男の枕詞に合わせているから、やはり枕は変えないと。
 これは22段で一緒に寝ていた時の、千夜一夜の歌と同じ。
 

引けど引かねど
 引こうが引かまいが
 
(二人とも身を引こうが引かまいが常に一緒。
 弓矢がセットで一つでは意味がないように。)
 
 そして上述した六歌仙の男の名前は「や」から始まる。
 その男の子は朝康という。
 「あずさ」と「やすひで」の子だから「あさやす」。そう見るとよく通る。
 だからその子にも歌の素養があったと。
 

昔より

 昔とは、古という意味を含む。それを丸めた言い方。
 その証拠が、上述した千夜一夜の歌の後にくる「いにしへよりもあはれにてなむ通ひける。」
 それが単なる懐古の言葉ではないことは、この物語の実績の通り。古を知っているから古典になる。ただ時間が立っても古典にはならない。
 

心は君に
 

寄りにしものを
 寄(り添)っていたものを。
(幼馴染であるように。だから筒井筒のこと。)
 

といひけれど、男かへりにけり。
 と言ったが、(その声は届かなかったのか、心の距離が遠かったのか)男は帰ってしまった。
 
(男の心としては、帰るべき家には、女が約束していた他の男がいたわけだから、その場にいてもしょうがない。
 それにここまで言ってくれるなら、後日改めて仕切りなおせると思った。それが甘かったわけだが。
 だから筒井筒の最後で謝っている。「すまずなりにけり」)
 
 

いたづらになり

 

清水のある所

 

女いとかなしくて、後にたちて追ひゆけど、え追ひつかで、
清水のある所にふしにけり。

 
女いとかなしくて、
 女はとても悲しくて、
 

後にたちて追ひゆけど、
 後から立って(男を)追いかけて行ったが、
 

え追ひつかで、
 追いつけないで、(行方が良くわからず)
 

清水(し水)のある所にふしにけり
 きよみずのある所に伏せてしまった。
 

 「ふし」を不死とかけて、心の中では死なない。それに本当の意味でも。
 それが「いにしへよりもあはれにてなむ通ひける」(22段)とか「昔より心は君に寄りにし」とかいう意味。 
 

 清水の元々の表記は「し水」と思われるが、
 これは直後の血文字からも、「きよみず」のある所と読む。そう見ないと、突如血が出てくる意味が通らない。
 舞台から飛び降りたから、血が流れる。
 

 清水にいるのは、男を追い駆け京に行ったから。
 みずからしを選んだと掛けて、しみず。
 そこはそういう象徴の地。血はその表れ。
 
 
 

およびの血

 

そこなりける岩に、およびの血して、書きつける。
 
あひ思はで 離れぬる人を とゞめかね
 わが身は今ぞ 消え果てぬめる
 
書きて、そこにいたづらになりにけり。

 
そこなりける岩に、
 そこにあった岩に、
 
 そこ+なり+ける
 とし「そこにあり」としないのは、
 害い(そこない)と、亡くなったと掛けている。
 

およびの血して、書きつける。
 指の血をもって、書きつけた。
  

 および 【指】
 :指(ゆび)。おゆび。
  

※しかし、飛び降りた後で書けるはずもないので、これは書いて残した遺書、ダイイングメッセージ。
 推理漫画では、指で血文字で遺志を遺すのがお決まり。その象徴表現。

 

あひ思はで
(まさか)会えると思わず、
 

離れぬる人を とゞめかね
 離れる人を 止めかねて
 

わが身は今ぞ
 我が身は今
 

消え果てぬめる
 消え果てる
 
 「ぬめる」は、強調というより、ただ語数を整えている。
 この状況で…?と言っても、著者の翻案に決まっているが、この子は基本的に頑張って整える。それが「沖つ白波」の歌。
 万葉から離れ、極めてシンプルな内容。それだけに素朴な自分の言葉。
 

(▲と)書きて、そこにいたづらになりにけり
 と書いて、そこでむなしく果ててしまった。
 

 徒(いたずらに)
 :むだに・むなしくと、無益の意を表わす。
 
 

 参考:憲法24条。
 「婚姻は合意のみに基づき、相互の協力により維持されなければならない」
 つまり女が好きな人と一緒になるのが一番という。カネの心配なく。
 民法の不動の権威が我妻栄ということとも合わせて配剤。