宇治拾遺物語:頼時が胡人見たる事

清見原天皇 宇治拾遺物語
巻第十五
15-2 (187)
胡人見たる
賀茂祭の帰り

 
 これも今は昔、胡国といふは、唐よりも遙かに北と聞くを、「陸奥の地に続きたるにやあらん」とて、宗任法師とて筑紫にありしが、語り侍りけるなり。
 

 この宗任が父は頼時とて、陸奥の夷にて、おほやけに随ひ奉らずとて、攻めんとせられけるほどに、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過ぐさずと思へども、責をのみ蒙れば、晴るくべき方なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて、有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随ふ人の限りを、みな率て渡して住まん」と言ひて、まづ舟一つを整へて、それに乗りて行きたりける人々、頼時、廚川の二郎、鳥海の三郎、さてはまた、睦ましき郎等ども二十人ばかり、食物、酒など多く入れて、舟を出してければ、いくばくも走らぬほどに、見渡しなりければ、渡りけり。
 

 左右は遙なる葦原ぞありける。
 大なる川の湊を見つけて、その湊にさし入れにけり。
 「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。
 「陸に上りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上りざまに、七日まで上りにけり。
 それがただ同じやうなりければ、「あさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上りけれども、人のけはひもせざりけり。
 

 三十日ばかり上りけるに、地の響くやうにしければ、いかなる事のあるにかと恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方を覗きて見ければ、胡人とて、絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結ひたるが、馬に乗り連れて、うち出でたり。
 「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出で来にけり。
 

 川原のはたに集り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入りて渡りけるほどに、千騎ばかりやあらんとぞ見えわたる。
 これが足音の響にて、遙かに聞こえけるなりけり。
 徒の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、ただ徒渡する所なめりと見けり。
 三十日ばかり上りつるに、一所も瀬なかりしに川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれと見て、人過ぎて後にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。
 馬筏を作りて泳がせけるに、徒人はそれに取りつきて渡りけるなるべし。
 

 なほ上るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。
 さていくばくもなくてぞ、頼時は失せにける。
 されば胡国と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。
 

清見原天皇 宇治拾遺物語
巻第十五
15-2 (187)
胡人見たる
賀茂祭の帰り