源氏物語 9帖 葵:あらすじ・目次・原文対訳

花宴 源氏物語
第一部
第9帖
賢木

 
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 
 

 葵のあらすじ

 桐壺帝が譲位し、源氏の兄の朱雀帝が即位する。藤壺中宮の若宮が東宮【実は源氏と藤壺の子】となり、源氏は東宮の後見人となる。また、六条御息所と前東宮の娘(後の秋好中宮)が斎宮となった。

 賀茂祭(祭、4月 (旧暦)の中の酉の日)の御禊(賀茂斎院が加茂川の河原で禊する)の日、源氏も供奉のため参列する。その姿を見ようと身分を隠して見物していた六条御息所の一行は、同じくその当時懐妊して体調が悪く気晴らしに見物に来ていた源氏の正妻・の上の一行と、見物の場所をめぐっての車争いを起こす。葵の上の一行の権勢にまかせた乱暴によって六条御息所の牛車は破損、御息所は見物人であふれる一条大路で恥をかかされてしまう。大臣の娘で元東宮妃である御息所にとってこれは耐え難い屈辱で、彼女は葵の上を深く恨んだ。役目を終え、左大臣邸に行った源氏は、事の一部始終を聞かされ驚愕。御息所の屋敷へ謝罪に向かうが、門前払いされた。

 勅使の役目を終え、久々の休日。源氏はの君を伴い、賀茂祭へ。相変わらずの混雑振りに、惟光は牛車を停める場所を探すのに難儀していたが、そこへ手招きする別の牛車が。場所を譲ってくれた礼を言おうと、顔を覗き込んだら、車の主は源典侍だった。がっくりする源氏。祭を見物しながら、紫の君に「(葵の上のお産で)しばらく、二条東院には帰れない」と告げると、紫の君に「子供じゃないんだから、淋しいのくらい我慢します。ちゃんと看病して、さしあげて。」と自分を気遣う姿に、目を見張る源氏【青部分は原文に見当たらない】

 その後葵の上は、病の床についてしまう。それは六条御息所の生霊の仕業だった。源氏も苦しむ葵の上に付き添ったが、看病中に御息所の生霊を目撃してしまい愕然とする。8月の中ごろに葵の上は難産のすえ男子(夕霧)を出産するが、数日後の秋の司召の夜に容体が急変し亡くなった。同じ頃。御息所は、いく度髪を洗っても衣を変えても、自身の体に染み付いた魔除けの芥子の香りが消えないことに、愕然としていた。女房からの知らせで、葵の上の訃報を知り、青ざめる。 火葬と葬儀は8月20日過ぎに行われた。

 葵の上の四十九日が済んだ後、源氏は夕霧の養育を左大臣家に託した。源氏は二条院に戻り、美しく成長した紫の君と密かに結婚する。突然のこと【?】に紫の上は衝撃を受けてすっかりふさぎこみ口をきこうともしなかったが【?】、源氏はこれを機に【??】彼女の素性を父兵部卿宮と世間に公表することにした。

(以上Wikipedia葵(源氏物語)より。色づけと【】は本ページ)
 
目次
和歌抜粋内訳#葵(24首:別ページ)
主要登場人物
 
第9帖 葵(あおい)
 光る源氏の
 二十二歳春から二十三歳正月まで
 近衛大将時代の物語
 
第一章 六条御息所の物語
 御禊見物の車争いの物語
 第一段 朱雀帝即位後の光る源氏
 第二段 新斎院御禊の見物
 第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物
 
第二章 葵の上の物語
 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
 第一段 車争い後の六条御息所
 第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う
 第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する
 第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る
 第五段 葵の上、男子を出産
 第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する
 第七段 葵の上の葬送とその後
 第八段 三位中将と故人を追慕する
 第九段 源氏、左大臣邸を辞去する
 
第三章 紫の君の物語
 新手枕の物語
 第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす
 第二段 結婚の儀式の夜
 第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り
 出典
 校訂
 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
二十二歳から二十三歳 参議兼近衛右大将
呼称:大将の君・大将・大将殿・男君
頭中将(とうのちゅうじょう)
葵の上の兄
呼称:三位中将・中将の君・中
桐壺帝(きりつぼのみかど)
光る源氏の父
呼称:院・帝
弘徽殿女御(こうきでんのにょうご)
桐壷帝の女御、東宮の母
呼称:今后・后
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
桐壷帝の后、光る源氏の継母
呼称:后の宮・中宮
葵の上(あおいのうえ)
光る源氏の正妻
呼称:大殿・殿・姫君
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)
光る源氏の愛人
呼称:御息所・女
紫の上(むらさきのうえ)
光る源氏の妻
呼称:姫君・二条の君・対の姫君・女君
朧月夜の君(おぼろづきよのきみ)
弘徽殿女御の妹
呼称:御匣殿、右大臣の娘
朝顔の姫君(あさがおのひめぎみ)
式部卿宮の娘、光る源氏の恋人の一人
呼称:姫君・朝顔の宮

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(大島本
現代語訳
(渋谷栄一)
 
 
 

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語

 
 

第一段 朱雀帝即位後の光る源氏

 
1  世の中かはりて後、よろづもの憂く思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ、報いにや、なほ我につれなき人の御心を、尽きせずのみ思し嘆く。
 
 御代替わりがあって後、何事につけ億劫にお思いになり、その上にご身分の高さも加わってか、軽率なお忍び歩きも遠慮されて、あちらでもこちらでも、ご訪問のない嘆きを重ねていらっしゃる、その罰であろうか、相変わらず自分に無情なお方のお心を、どこまでもお嘆きになっていらっしゃる。
 
2  今は、ましてひまなう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。
 折ふしに従ひては、御遊びなどを好ましう、世の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでたし。
 ただ、春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。
 御後見のなきを、うしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものから、うれしと思す。
 
 今では、以前にも増してぴったりと、臣下の夫婦のようにお側においであそばすのを、新皇太后は不愉快にお思いなのか、宮中にばかり伺候していらっしゃるので、院の御所では競い合う者もなく気楽そうである。
 折々につけては、管弦の御遊などを興趣深く、世の評判になるほどに繰り返しお催しあそばして、現在のご生活のほうがかえって結構である。
 ただ、春宮のことだけをとても恋しく思い申し上げあそばす。
 ご後見役のいないのを、気がかりにお思い申されて、源氏の大将の君に万事ご依頼申し上げあそばされるにつけても、大将の君は気の咎める思いがする一方で、嬉しいとお思いになる。
 
3  まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、「幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし」と、かねてより思しけり。
 
 それはそうと、あの六条御息所のご息女の前坊の姫宮が、斎宮にお決まりになったので、大将のご愛情もまことに頼りないので、「幼いありさまに託けて下ってしまおうかしら」と、前々からお考えになっているのだった。
 
4  院にも、かかることなむと、聞こし召して、  院におかれても、このような事情があると、お耳にあそばして、
5  「故宮のいとやむごとなく思し、時めかしたまひしものを、軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。
 斎宮をも、この御子たちの列になむ思へば、いづかたにつけても、おろかならざらむこそよからめ。
 心のすさびにまかせて、かく好色わざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」
 「故宮がたいそう重々しくお思いおかれ、ご寵愛なさったのに、軽々しく並の女性と同じように扱っているそうなのが、気の毒なことだ。
 斎宮をも、わが皇女たちと同じように思っているのだから、どちらの縁からいっても疎略にしないのがよかろう。
 気まぐれにまかせて、このような浮気をするのは、まことに世間の非難を受けるにちがいない事である」
6  など、御けしき悪しければ、わが御心地にも、げにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。
 
 などと、御機嫌悪いので、ご自分でも、仰せのとおりだと思わずにはいられないので、恐縮して控えていらっしゃる。
 
7  「人のため、恥ぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負ひそ」  「相手にとって、恥となるようなことはせず、どの夫人をも波風が立たないように処遇して、女人の恨みを受けてはならぬぞ」
8  とのたまはするにも、「けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時」と、恐ろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。
 
 と仰せられるにつけても、「不届きな大それた不埒さをお聞きつけあそばした時には」と恐ろしいので、恐縮して退出なさった。
 
9  また、かく院にも聞こし召し、のたまはするに、人の御名も、わがためも、好色がましういとほしきに、いとどやむごとなく、心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだ表はれては、わざともてなしきこえたまはず。
 
 また一方、このように院におかれてもお耳に入れられ、御訓戒あそばされるのにつけ、相手のご名誉のためにも、また自分にとっても、好色がましく困ったことであるので、以前にも増して大切に思い、気の毒にお思い申し上げていられるが、まだ表面立っては、特別にお扱い申し上げなさらない。
 
10  女も、似げなき御年のほどを恥づかしう思して、心とけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、院に聞こし召し入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、いみじう思し嘆きけり。
 
 女君も、不釣り合いなお年のほどを恥ずかしくお思いになって、気をお許しにならない様子なので、それに遠慮しているような態度をとって、それが院のお耳にお入りあそばし、世間の人も知らない者がなくなってしまったのを、深くもないご愛情のほどを、ひどくお嘆きになるのだった。
 
11  かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、「いかで、人に似じ」と深う思せば、はかなきさまなりし御返りなども、をさをさなし。
 さりとて、人憎く、はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを、君も、「なほことなり」と思しわたる。
 
 このようなことをお聞きになるにつけても、朝顔の姫君は、「何としても、人の二の舞は演じまい」と固く決心なさっているので、ちょっとしたお返事なども、ほとんどない。
 そうかといって、憎らしく体裁悪い思いをさせなさらないご様子を、大将の君も、「やはり格別である」と思い続けていらっしゃる。
 
12  大殿には、かくのみ定めなき御心を、心づきなしと思せど、あまりつつまぬ御けしきの、いふかひなければにやあらむ、深うも怨じきこえたまはず。
 心苦しきさまの御心地に悩みたまひて、もの心細げに思いたり。
 めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。
 誰れも誰れもうれしきものから、ゆゆしう思して、さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ。
 かやうなるほどに、いとど御心のいとまなくて、思しおこたるとはなけれど、とだえ多かるべし。
 
 大殿邸では、このようにばかり当てにならないお心を、気にくわないとお思いになるが、あまり大っぴらなご態度が、言っても始まらないと思ってであろうか、深くもお恨み申し上げることはなさらない。
 苦しい気分に悩みなさって、何となく心細く思っていらっしゃる。
 君はこのご懐妊を珍しく愛しくお思い申し上げになる。
 どなたもどなたも嬉しいことと思う一方で、不吉にもお思いになって、さまざまな御物忌みをおさせ申し上げなさる。
 このような時、ますますお心の余裕がなくなって、お忘れになるというのではないが、自然とご無沙汰が多いにちがいないであろう。
 
 
 

第二段 新斎院御禊の見物

 
13  そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。
 帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋ことになりたまふを、いと苦しう思したれど、こと宮たちのさるべきおはせず。
 儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。
 祭のほど、限りある公事に添ふこと多く、見所こよなし。
 人からと見えたり。
 
 そのころ、斎院も退下なさって、皇太后腹の女三の宮がおなりになった。
 父帝と母大后とが、特に大切にお思い申し上げていらっしゃる姫宮なので、神にお仕えする身におなりになるのを、まことに辛くおぼし召されたが、他の姫宮たちで適当な方がいらっしゃらない。
 儀式など、規定の神事であるが、盛大な騷ぎである。
 賀茂の祭の時は、規定のある公事に付け加えることが多くあり、この上ない見物である。
 お人柄によると思われた。
 
14  御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。
 とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。
 かねてより、物見車心づかひしけり。
 
 御禊の日は、上達部などが、規定の人数で供奉なさることになっているが、声望が格別で、美しい人ばかりが、下襲の色や、表袴の紋様、馬の鞍のまで、すべて揃いの支度であった。
 特別の宣旨が下って、大将の君も供奉なさる。
 かねてから、見物のための車が心待ちしているのであった。
 
15  一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり。
 所々の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへ、いみじき見物なり。
 
 一条大路は、隙間なく、恐ろしいくらいざわめいている。
 ほうぼうのお桟敷に、思い思いに趣向を凝らした飾り付けや、女性の袖口までが、大変な見物である。
 
16  大殿には、かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人びと、  大殿におかれては、このようなご外出をめったになさらない上に、ご気分までが悪いので、考えもしなかったが、若い女房たちが、
17  「いでや。
 おのがどちひき忍びて見はべらむこそ、栄なかるべけれ。
 おほよそ人だに、今日の物見には、大将殿をこそは、あやしき山賤さへ見たてまつらむとすなれ。
 遠き国々より、妻子を引き具しつつも参うで来なるを。
 御覧ぜぬは、いとあまりもはべるかな」
 「さあ、どんなものでしょうか。
 わたくしどもだけでひっそり見物するのでは、ぱあっとしないでしょう。
 関係のない人でさえ、今日の見物には、まず大将殿をと、山中に住む賤しい者までが拝見しようと言うことですよ。
 遠い国々から、妻子を引き連れ引き連れして上京して来ると言いますのに。
 御覧にならないのは、あまりなことでございますわ」
18  と言ふを、大宮聞こしめして、  と言うのを、大宮もお聞きあそばして、
19  「御心地もよろしき隙なり。
 さぶらふ人びともさうざうしげなめり」
 「ご気分も少しよろしい折です。
 お仕えしている女房たちもつまらなそうです」
20  とて、にはかにめぐらし仰せたまひて、見たまふ。
 
 と言って、急にお触れを廻しなさって、ご見物なさる。
 
21  日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。
 隙もなう立ちわたりたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。
 よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさするなかに、網代のすこしなれたるが、下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり。
 
 日が高くなってから、お支度も特別なふうでなくお出かけになった。
 隙間もなく立ち混んでいる所に、物々しく引き連ねて場所を探しあぐねる。
 身分の高い女車が多いので、下々の者のいない隙間を見つけて、みな退けさせた中に、網代車で少し使い馴れたのが、下簾の様子などが趣味がよいうえに、とても奥深く乗って、わずかに見える袖口や、裳の裾、汗衫などの衣装の色合が、とても美しくて、わざと質素にしている様子がはっきりと分かる車が、二台ある。
 
22  「これは、さらに、さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず  「この車は、決して、そのように押し退けたりしてよいお車ではありませぬ」
23  と、口ごはくて、手触れさせず。
 いづかたにも、若き者ども酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず
 おとなおとなしき御前の人びとは、「かくな」など言へど、えとどめあへず。
 
 と、言い張って、手を触れさせない。
 どちらの側も、若い供人同士が酔い過ぎて、争っている事なので、制止することができない。
 年輩のご前駆の人々は、「そんなことするな」などと言うが、とても制止することができない。
 
24  斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。
 つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。
 
 斎宮の御母御息所が、何かと悩んでいられる気晴らしにもなろうかと、こっそりとお出かけになっているのであった。
 何気ないふうを装っているが、自然と分かった。
 
25  「さばかりにては、さな言はせそ」  「それくらいの者に、そのような口はきかせぬぞ」
26  「大将殿をぞ、豪家には思ひきこゆらむ」  「大将殿を、笠に着ているつもりなのだろう」
27  など言ふを、その御方の人も混じれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。
 
 などと言うのを、その大将方の供人も混じっているので、気の毒にとは思いながら、仲裁するのも面倒なので、知らない顔をする。
 
28  つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。
 心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。
 榻などもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人悪ろく、くやしう、「何に、来つらむ」と思ふにかひなし。
 物も見で帰らむとしたまへど、通り出でむ隙もなきに、
 とうとう、お車を立ち並べてしまったので、副車の奥の方に押しやられて、何も見えない。
 悔しい気持ちはもとより、このような忍び姿を自分と知られてしまったのが、ひどく悔しいこと、この上ない。
 榻などもみなへし折られて、場違いな車の轂に掛けたので、またとなく体裁が悪く悔しく、「いったい何しに、来たのだろう」と思ってもどうすることもできない。
 見物を止めて帰ろうとなさるが、抜け出る隙間もないでいるところに、
29  「事なりぬ」  「行列が来た」
30  と言へば、さすがに、つらき人の御前渡りの待たるるも、心弱しや。
 「笹の隈」にだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。
 
 と言うので、そうは言っても、恨めしい方のお通り過ぎが自然と待たれるというのも、意志の弱いことよ。
 「笹の隈でわずかに見ることも」できないからか、そっけなくお通り過ぎになるにつけても、かえって物思いの限りを尽くされる。
 
31  げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり。
 大殿のは、しるければ、まめだちて渡りたまふ。
 御供の人びとうちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消たれたるありさま、こよなう思さる
 
 なるほど、いつもより趣向を凝らした幾輌もの車が、自分こそはと競って見せている出衣の下簾の隙間隙間も、何くわぬ顔だが、ほほ笑みながら流し目に目をお止めになる者もいる。
 大殿の車は、それとはっきり分かるので、真面目な顔をしてお通りになる。
 お供の人々もうやうやしく、敬意を表しながら通るのに、すっかり無視されてしまったわが有様を、この上なく堪らなくお思いになる。
 
 

109
 「影をのみ 御手洗川の つれなきに
 身の憂きほどぞ いとど知らるる」
 「今日の御禊にお姿をちらりと見たばかりで
  そのつれなさにかえって我が身の不幸せがますます思い知られる」
 
32  と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌の、「いとどしう出でばえを見ざらましかば」と思さる。
 
 と、思わず涙のこぼれるのを、女房の見る目も体裁が悪いが、目映いばかりのご様子、容貌を、「一層の晴れの場でのお姿を見なかったら……」とお思いになる。
 
33  ほどほどにつけて、装束、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるなかにも、上達部はいとことなるを、一所の御光にはおし消たれためり。
 大将の御仮の随身に、殿上の将監などのすることは常のことにもあらず、めづらしき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり。
 さらぬ御随身どもも、容貌、姿、まばゆくととのへて、世にもてかしづかれたまへるさま、木草もなびかぬはあるまじげなり。
 
 身分に応じて、装束や、供人の様子を、たいそう立派に整えていると見える中でも、上達部はまことに格別であるが、お一方のご立派さには圧倒されたようである。
 大将の臨時の御随身に、殿上人の将監などが務めることは通例ではなく、特別の行幸などの折にあるのだが、今日は右近の蔵人の将監が供奉申している。
 それ以外の御随身どもも、容貌、姿、眩しいくらいに整えて、世間から大切にされていらっしゃるご様子は、木や草も靡かないものはないほどである。
 
34  壺装束などいふ姿にて、女房の卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れまどひつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや、あなにく」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて、額にあてつつ見たてまつりあげたるも。
 をこがましげなる賤の男まで、おのが顔のならむさまをば知らで笑みさかえたり。
 何とも見入れたまふまじき、えせ受領の娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの見物なりける。
 
 壺装束などという姿をして、女房で賤しくない者や、また尼などの世を捨てた者なども、倒れたりふらついたりしながら見物に出て来ているのも、いつもなら、「よせばいいのに、ああみっともない」と思われるのに、今日は無理もないことで、口もとがすぼんで、髪を着込んだ下女どもが、手を合わせて、額に当てながら拝み申し上げているのも……。
 馬鹿面した下男までが、自分の顔がどんな顔になっているのかも考えずに嬉色満面でいる。
 まったくお目を止めになることもないつまらない受領の娘などまでが、精一杯飾り立てた車に乗り、わざとらしく気取っているのが、おもしろいさまざまな見物であった。
 
35  まして、ここかしこにうち忍びて通ひたまふ所々は、人知れずのみ数ならぬ嘆きまさるも、多かり。
 
 まして、あちらこちらのお忍びでお通いになる方々は、人数にも入らない嘆きを募らせる方も多かった。
 
36  式部卿の宮、桟敷にてぞ見たまひける。
 
 式部卿の宮は、桟敷で御覧になった。
 
37  「いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな。
 神などは目もこそとめたまへ」
 「まこと眩しいほどにお美しくなって行かれるご器量よ。
 神などは魅入られるやも」
38  と、ゆゆしく思したり。
 姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、
 と、不吉にお思いになっていた。
 姫君は、数年来お手紙をお寄せ申していらっしゃるお気持ちが世間の男性とは違っているのを、
39  「なのめならむにてだにあり。
 まして、かうしも、いかで」
 「並の男でさえこれだけ深い愛情をお持ちならば。
 ましてや、こんなにも、どうして」
40  と御心とまりけり。
 いとど近くて見えむまでは思しよらず。
 若き人びとは、聞きにくきまでめできこえあへり。
 
 と、お心が惹かれた。
 が、それ以上近づいてお逢いなさろうとまではお考えにならない。
 若い女房たちは、聞き苦しいまでにお褒め申し上げていた。
 
41  祭の日は、大殿にはもの見たまはず。
 大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞こゆる人ありければ、「いといとほしう憂し」と思して、
 祭の日は、大殿家ではご見物をなさらない。
 大将の君は、あのお車の場所争いをそっくりご報告する者があったので、「とても気の毒に情けない」とお思いになって、
42  「なほ、あたら重りかにおはする人の、ものに情けおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしも思さざりけめども、かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御おきてに従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。
 御息所は、心ばせのいと恥づかしく、よしありておはするものを、いかに思し憂じにけむ」
 「やはり、惜しいことに重々しい方でいらっしゃる人が、何事にも情愛に欠けて、無愛想なところがおありになるあまり、ご自身はさほどお思いにならなかったようだが、このような妻妾の間柄では情愛を交わしあうべきだともお思いでないお考え方を引き継いで、下々の者が争いをさせたのであろう。
 御息所は、気立てがとてもこちらが気が引けるほど奥ゆかしく、上品でいらっしゃるのに、どんなに嫌な思いをされたことだろう」
43  と、いとほしくて、参うでたまへりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。
 ことわりとは思しながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。
 
 と、気の毒に思って、お見舞いに参上なさったが、斎宮がまだ元の里邸にいらっしゃるので、神事の憚りを口実にして、気安くお会いなさらない。
 もっともなことだとはお思いになるが、「どうして、こんなにお互いによそよそしくなさらずにいらっしゃればよいものを」と、ついご不満が呟かれる。
 
 
 

第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物

 
44  今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。
 西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。
 
 今日は、二条の院に離れていらっしゃって、祭を見物にお出かけになる。
 西の対にお渡りになって、惟光に車のことをお命じになってある。
 
45  「女房出で立つや」  「女房たちも出かけますか」
46  とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。
 
 とおっしゃって、姫君がとてもかわいらしげにおめかししていらっしゃるのを、ほほ笑みながら拝見なさる。
 
47  「君は、いざたまへ。
 もろともに見むよ」
 「あなたは、さあいらっしゃい。
 一緒に見物しようよ」
48  とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、  と言って、お髪がいつもより美しく見えるので、かき撫でなさって、
49  「久しう削ぎたまはざめるを、今日は、吉き日ならむかし」  「長い間、お切り揃えにならなかったようだが、今日は、日柄も吉いのだろうかな」
50  とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、  と言って、暦の博士をお召しになって、時刻の吉狂を調べさせたりしていらっしゃる間に、
51  「まづ、女房出でね」  「まずは、女房たちから出発だよ」
52  とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。
 いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかに削ぎわたして、浮紋の表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。
 
 と言って、童女の姿態のかわいらしいのを御覧になる。
 とてもかわいらしげな髪の裾を、皆こざっぱりと削いで、浮紋の表の袴に掛かっている様子が、くっきりと見える。
 
53  「君の御髪は、我削がむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。
 いかに生ひやらむとすらむ」
 「あなたのお髪は、わたしが削ごう」と言って、「何と嫌に、たくさんあるのだね。
 どんなに長くおなりになることだろう」
54  と、削ぎわづらひたまふ。
 
 と、削ぐのにお困りになる。
 
55  「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情けなからむ」  「とても髪の長い人も、額髪は少し短めにあるようですのに、少しも後れ毛のないのも、かえって風情がないでしょう」
56  とて、削ぎ果てて、「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と見たてまつる。
 
 と言って、削ぎ終わって、「千尋に」とお祝い言をお申し上げになるのを、少納言は、「何とももったいないことよ」と拝し上げる。
 
 

110
 「はかりなき 千尋の底の 海松ぶさの
 生ひゆくすゑは 我のみぞ見む」
 「限りなく深い海の底に生える海松のように
  豊かに成長してゆく黒髪はわたしだけが見届けよう」
 
57  と聞こえたまへば、  と申し上げなさると、
 

111
 「千尋とも いかでか知らむ 定めなく
 満ち干る潮の のどけからぬに」
 「千尋も深い愛情を誓われてもがどうして分りましょう
  満ちたり干いたり定めない潮のようなあなたですもの」
 
58  と、ものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思す。
 
 と、何かに書きつけていられるご様子は、いかにも物慣れている感じがするが、初々しく美しいのを、素晴らしいとお思いになる。
 
59  今日も、所もなく立ちにけり。
 馬場の御殿のほどに立てわづらひて、
 今日も、物見車が隙間なく立ち並んでいるのであった。
 馬場殿の付近に止めるのに困って、
60  「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」  「上達部たちの車が多くて、何となく騒がしそうな所だな」
61  と、やすらひたまふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、  と、ためらっていらっしゃると、まあまあの女車で、派手に袖口を出している所から、扇を差し出して、供人を招き寄せて、
62  「ここにやは立たせたまはぬ。
 所避りきこえむ」
 「ここにお止めあそばせませんか。
 場所をお譲り申し上げましょう」
63  と聞こえたり。
 「いかなる好色者ならむ」と思されて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、
 と申し上げた。
 「どのような好色な人だろう」とついお思われなさって、場所もなるほど適した所なので、引き寄せさせなさって、
64  「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」  「どのようにしてお取りになった所かと、羨ましくて」
65  とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、  とおっしゃると、風流な桧扇の端を折って、
 

112
 「はかなしや 人のかざせる 葵ゆゑ
 神の許しの 今日を待ちける
 「あら情けなや、他の人と同車なさっているとは
  神の許す今日の機会を待っていましたのに
 
66  注連の内には」  神域のような所には、とても……」
67  とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。
 「あさましう、旧りがたくも今めくかな」と、憎さに、はしたなう、
 とある筆跡をお思い出しになると、あの源典侍なのであった。
 「あきれた、相変わらず風流めかしているなあ」と、憎らしい気がして、無愛想に、
 

113
 「かざしける 心ぞあだに おもほゆる
 八十氏人に なべて逢ふ日を」
 「そのようにおっしゃるあなたの心こそ当てにならないものと思いますよ
  たくさんの人々に誰彼となく靡くものですから」
 
68  女は、「つらし」と思ひきこえけり。
 
 女は、「ひどい」とお思い申し上げるのであった。
 
 

114
 「悔しくも かざしけるかな 名のみして
 人だのめなる 草葉ばかりを」
 「ああ悔しい、葵に逢う日を当てに楽しみにしていたのに
  わたしは期待を抱かせるだけの草葉に過ぎないのですか」
 
69  と聞こゆ。
 人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。
 
 と申し上げる。
 女性と同車しているので、簾をさえお上げにならないのを、妬ましく思う人々が多かった。
 
70  「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。
 誰ならむ。
 乗り並ぶ人、けしうはあらじはや」と、推し量りきこゆ。
 「挑ましからぬ、かざし争ひかな」と、さうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。
 
 「先日のご様子が端麗でご立派であったのに、今日はくだけていらっしゃること。
 誰だろう、一緒に乗っている人は。
 悪くはない人に違いない」と、推量申し上げる。
 「張り合いのない、かざしの歌争いであったな」と、物足りなくお思いになるが、この女のように大して厚かましくない人は、やはり女性が相乗りなさっているのに自然と遠慮されて、ちょっとしたお返事も、気安く申し上げるのも、面映ゆいに違いない。
 
 
 

第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語

 
 

第一段 車争い後の六条御息所

 
71  御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。
 つらき方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。
 さりとて立ち止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも、やすからず、釣する海人の浮けなれや」と、起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ。
 
 御息所は、何かにつけ思い乱れなさることが、ここ数年来よりも多く加わってしまった。
 薄情な方だとすっかりお諦めになったが、今日を最後と振り切ってお下りになるのは、「とても心細いだろうし、世間の人の噂にも、物笑いの種になるだろうこと」とお思いになる。
 それだからといって、京に留まるようなお気持ちになるためには、「あの時のようなこれ以上の恥はないほどに誰もが見下げることであろうのも穏やかでなく、『釣する海人の浮き』のように」と、寝ても起きても悩んでいられるせいか、魂も浮いたようにお感じになられて、お具合が悪くいらっしゃる。
 
72  大将殿には、下りたまはむことを、「もて離れてあるまじきこと」なども、妨げきこえたまはず、  大将殿におかれては、伊勢にお下りになろうとしていることを、「まったくとんでもないことだ」などとも、お引き止め申し上げず、
73  「数ならぬ身を、見ま憂く思し捨てむもことわりなれど、今はなほ、いふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」  「わたしのようなつまらない者を、見るのも嫌だとお思い捨てなさるのもごもっともですが、今はやはりふがいない男でも、最後までお見限りなさらないのが、浅からぬ情愛というものではないでしょうか」
74  と、聞こえかかづらひたまへば、定めかねたまへる御心もや慰むと、立ち出でたまへりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂く思し入れたり。
 
 と、絡んで申し上げなさるので、決めかねていらしたお気持ちも紛れることがあろうかと、お出かけなさった御禊見物の辛い経験から、いっそう、すべての事をとても辛くお思いつめになっていた。
 
75  大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。
 さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。
 
 大殿邸では、姫君が物の怪のようで、ひどく病んでいらっしゃるので、どなたもどなたもお嘆きになっている折とて、お忍び歩きなども不都合な時なので、二条院にも時々にお帰りになるだけである。
 何と言っても、正妻として重んじている点では、特別にお思い申し上げていっしゃったお方が、おめでたまでがお加わりになったお悩みなので、おいたわしいこととお嘆きになって、御修法や何やかやと、ご自分のお部屋で、多く行わせなさる。
 
76  もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。
 いみじき験者どもにも従はず、執念きけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。
 
 物の怪や生霊などというものがたくさん現われ出てきて、いろいろと名乗りを上げる中で、憑坐にも一向に移らず、ただご本人のお身体にぴったりと憑いた状態で、特に大変にお悩ませ申すこともないが、その一方で、暫しの間も離れることのないのが一つある。
 すぐれた験者どもにも調伏されず、しつこい様子は並の物の怪ではない、と見えた。
 
77  大将の君の御通ひ所、ここかしこと思し当つるに、  大将の君のお通いになっている所、あちらこちらと見当をつけて御覧になるに、
78  「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨みの心も深からめ」  「あの御息所、二条の君などだけは、並々のご寵愛の方ではないようだから、恨みの気持ちもきっと深いだろう」
79  とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえ当つることもなし。
 もののけとても、わざと深き御かたきと聞こゆるもなし。
 過ぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。
 ただつくづくと、音をのみ泣きたまひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思しあわてたり。
 
 とささやいて、占師に占わせなさるが、特にお当て申すこともない。
 物の怪といっても、特別に深いお敵と申す人もいない。
 亡くなったおん乳母のような人、もしくは親の血筋に代々祟り続けてきた怨霊が、弱みにつけこんで現れ出たものなど、大したものではないのがばらばらに出て来る。
 たださめざめと声を上げてお泣きになるばかりで、時々は胸をせき上げせき上げては、ひどく堪え難そうにもだえていられるので、どのようにおなりになるのかと、不吉に悲しく思いおうろたえになっていた。
 
80  院よりも、御とぶらひ隙なく、御祈りのことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。
 
 院からも、お見舞いがひっきりなしにあり、御祈祷のことまでお心づかいあそばされることの恐れ多いことにつけても、ますます惜しく思われるご様子の方である。
 
81  世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思さる。
 年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。
 
 世間の人々がみな惜しみ申し上げているのをお聞きになるにつけても、御息所はおもしろからずお思いになる。
 ここ数年来はとてもこのようなことはなかった張り合うお心を、ちょっとした車の場所取り争いで、御息所のお気持ちに怨念が生じてしまったのを、あちらの殿では、そこまでとはお気づきにならないのであった。
 
 
 

第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う

 
82  かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほかに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。
 大将殿聞きたまひて、いかなる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。
 
 このようなお悩みのせいで、お加減が、やはり普段のようではなくばかりお感じになるので、別の御殿にお移りになって、御修法などをおさせになる。
 大将殿はお聞きになって、どのようなお加減でいられるのかと、おいたわしく、お気持ちを引き立てなさってお見舞いにいらっしゃった。
 
83  例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。
 心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、憂へきこえたまふ。
 
 いつもと違った仮のご宿所なので、たいそうお忍びでいらっしゃる。
 心ならずもご無沙汰していることなど、許してもらえるよう詫び言をこまごまと申し上げなさって、患っていらっしゃる妻君のご事情についても、お分かりいただけるよう訴え申される。
 
84  「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。
 よろづを思しのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」
 「自分ではそれほども心配しておりませんが、親たちがとても大変な心配のなさりようなのが気の毒で、そのような時が過ぎてからと存じておりましたもので。
 万事おおらかにお許しいただけるお気持ちならば、まこと嬉しいのですが」
85  など、語らひきこえたまふ。
 常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわりに、あはれに見たてまつりたまふ。
 
 などと、こまごまとお話し申し上げなさる。
 いつもよりも痛々しげなご様子を、無理もないことと、しみじみ哀れに拝見なさる。
 
86  うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむことは思し返さる。
 
 打ち解けぬまま迎えた明け方に、お帰りになるお姿の美しさにつけても、やはり振り切って別れることは、考え直さずにはいらっしゃれない。
 
87  「やむごとなき方に、いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば、一つ方に思ししづまりたまひなむを、かやうに待ちきこえつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと」  「正妻の方に、ますますご愛情がお増しになるに違いないおめでたが生じたので、お一方の所に納まってしまわれるに違いないのを、このようにお待ち申しお待ち申しているのも、物思いも尽くし果ててしまうに違いないこと……。」
88  なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに、御文ばかりぞ、暮れつ方ある。
 
 かえって物思いを新たになさっていたところに、後朝の文だけが、夕方にある。
 
89  「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」  「ここ数日来、少し回復して来たようであった病人が、急にとてもひどく苦しそうに見えましたので、どうしても目を放すことができませんで」
90  とあるを、「例のことつけ」と、見たまふものから、  とあるのを、「例によって言い訳を」と、御覧になるものの、
 

115
 「袖濡るる 恋路とかつは 知りながら
 おりたつ田子の みづからぞ憂き
 「袖を濡らす恋路とは分かっていながら
  そうなってしまうわが身の疎ましいことよ
 
91  『山の井の水』もことわりに」  『山の井の水』も、もっともなことです」
92  とぞある。
 「御手は、なほここらの人のなかにすぐれたりかし」と見たまひつつ、「いかにぞやもある世かな。
 心も容貌も、とりどりに捨つべくもなく、また思ひ定むべきもなきを」苦しう思さる。
 御返り、いと暗うなりにたれど、
 とある。
 「ご筆跡は、やはり数多い女性の中でも抜きん出ている」と御覧になりながら、「どうしてこうも思うようにならないのかなあ。
 気立ても容貌も、それぞれに捨ててよいものでなく、その反面これぞと思える人もいないことだ……」。
 と、苦しくお思いになる。
 お返事は、たいそう暗くなってしまったが、
93  「袖のみ濡るるや、いかに。
 深からぬ御ことになむ。
 
 「袖ばかり濡れるとは、どうしたことで。
 愛情がお深くないこと。
 
 

116
 浅みにや 人はおりたつ わが方は
 身もそぼつまで 深き恋路を
  袖が濡れるとは浅い所にお立ちだからでしょう
  わたしは全身ずぶ濡れになるほど深い泥(こひじ)――恋路に立っております
 
94  おぼろけにてや、この御返りを、みづから聞こえさせぬ」  並大抵の気持ちで、このお返事を、直接に訴え申し上げずにいられましょうか」
95  などあり。
 
 などとある。
 
 
 

第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する

 
96  大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひたまふ。
 「この御生きすだま、故父大臣の御霊など言ふものあり」と聞きたまふにつけて、思しつづくれば、
 大殿邸では、御物の怪がひどく起こって、大変にお苦しみになる。
 御息所は、自分の生霊や、亡き父大臣の死霊だなどと言う人がいる、とお聞きになるにつけても、あれこれ考え続けなさると、
97  「身一つの憂き嘆きよりほかに、人を悪しかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」  「我が身一人の不運を嘆いているより他には、他人を悪くなれと呪う気持ちなどはないのだが、悩み事があると抜け出て行くという魂は、このようなことなのだろうか」
98  と思し知らるることもあり。
 
 と、お気づきになるふしもある。
 
99  年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。
 
 この数年来、何かと物思いの限りを尽くしてきたが、こんなにも苦しい思いをしたことはなかったのに、ちょっとした事の折に、相手がわたしを無視し、蔑ろにした態度をとった御禊の日の後からは、あの一件によって抜け出るようになった魂が、鎮まりそうもなく思われるせいか、少しうとうととなさる夢には、あの姫君と思われる人の、たいそう清浄にしている所に行って、あちこち引き掻き廻し、普段とは違い、猛々しく激しい乱暴な心が出てきて、荒々しく叩くのなどが現れなさることが、度重なったのだ。
 
100  「あな、心憂や。
 げに、身を捨ててや、往にけむ」と、うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば、「さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなり」と思すに、いと名だたしう、
 「ああ、何と忌まわしいことか。
 なるほど、魂が身体を抜け出して出て行ったのだろう」と、正気を失ったように思われなさる時が度々あるので、「何でもないことでさえも、他人の事では、よいような噂は立てないのが世間の常なので、ましてこのことは、何とでも噂を立てられる絶好の種だ」とお思いになると、ひどく評判になりそうで、
101  「ひたすら世に亡くなりて、後に怨み残すは世の常のことなり。
 それだに、人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、さる疎ましきことを言ひつけらるる宿世の憂きこと。
 すべて、つれなき人にいかで心もかけきこえじ」
 「もう亡くなってしまって、後に怨みを残すのは世間にもあることだ。
 それでさえ、人の身の上については、罪深く忌まわしいのに、生きている身でありながら、そのような忌まわしいことを、噂される因縁の辛いことよ。
 もう一切、薄情な方には決して心をお掛け申すまい」
102  と思し返せど、思ふもものをなり。
 
 とお考え直しになるが、『思うまいと思うのも物を思う』のである。
 
 
 

第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る

 
103  斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて、この秋入りたまふ。
 九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ、ふたたびの御祓へのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩みたまふを、宮人、いみじき大事にて、御祈りなど、さまざま仕うまつる。
 
 斎宮は、去年内裏にお入りになるはずであったが、さまざまに差し障ることがあって、この秋にお入りになる。
 九月には、そのまま野の宮にお移りになる予定なので、二度目の御禊の準備を、引き続いて行うはずのところが、母御息所がまるで妙にぼうっとして、物思いに沈んで悩んでいらっしゃるのを、斎宮寮の官人たちは、ひどく重大視して、御祈祷などを、あれこれと致す。
 
104  おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐしたまふ。
 大将殿も、常にとぶらひきこえたまへど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげなり。
 
 ひどく苦しいという様子ではなく、どこが特に悪いということもなくて、月日をお過ごしになる。
 大将殿も欠かさずお見舞い申し上げなさるが、さらに大切な方がひどく患っていられるので、お気持ちの余裕がないようである。
 
105  まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。
 さすがに、いみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、
 まだその時期ではないと、誰も彼もが油断していられたところ、急に産気づかれてお苦しみになるので、これまで以上の御祈祷の有りったけを尽くしておさせになるが、例の執念深い物の怪が一つだけ全然動かず、霊験あらたかな験者どもは、珍しいことだと困惑する。
 とはいっても、手きびしく調伏されて、いたいたしげに泣き苦しんで、
106  「すこしゆるべたまへや。
 大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。
 
 「少し緩めてください。
 大将殿に申し上げるべき事がある」とおっしゃる。
 
107  「さればよ。
 あるやうあらむ」
 「やはりそうであったか。
 何かわけがあるのだろう」
108  とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。
 むげに限りのさまにものしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮もすこし退きたまへり。
 加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみじう尊し。
 
 と言って、近くの御几帳の側にお入れ申し上げた。
 とてももうだめかと思われるような容態でいられるので、ご遺言申し上げて置きたいことでもあるのだろうかと思って、左大臣も母宮も少しお下がりになった。
 加持の僧どもは、声を低めて法華経を読んでいるのが、たいそう尊い。
 
109  御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつらむに心乱れぬべし。
 まして惜しう悲しう思す、ことわりなり。
 白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「かうてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。
 御手をとらへて、
 御几帳の帷子を引き上げて拝見なさると、とても美しいお姿で、お腹はたいそう大きくて臥していられる様子は、他人であっても、拝見しては心動かさずにはいられないであろう。
 まして惜しく悲しくお思いになるのは、もっともである。
 白いお召物に、色合いがとてもくっきりとして、髪がとても長くて豊かなのを、引き結んで横に添えてあるのも、「こうあってこそかわいらしげで優美な点が加わり美しいのだなあ」と見える。
 お手を取って、
110  「あな、いみじ。
 心憂きめを見せたまふかな」
 「ああ、ひどい。
 辛い思いをおさせになるとは」
111  とて、ものも聞こえたまはず泣きたまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえたまふに、涙のこぼるるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。
 
 と言って、何も申し上げられずにお泣きになると、女君はいつもはとても煩わしく気が引けて近づきがたいまなざしなのに、とても苦しそうに見上げて、じっとお見つめ申していらっしゃると、涙がこぼれ出て来る様子を、男君が御覧になっては、どうして情愛を浅く思うであろうか。
 
112  あまりいたう泣きたまへば、「心苦しき親たちの御ことを思し、また、かく見たまふにつけて、口惜しうおぼえたまふにや」と思して、  あまりひどくお泣きになるので、「気の毒なご両親のことをご心配され、また、このように御覧になるにつけても、残念にお思いになってのことだろうか」とお思いになって、
113  「何ごとも、いとかうな思し入れそ。
 さりともけしうはおはせじ。
 いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。
 大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」
 「何事につけても、ひどくこんなに思いつめなさるな。
 いくら何でも大したことはありません。
 万が一のことがあっても、夫婦は必ず逢えるとのことですから、きっとお逢いできましょう。
 また父の大臣殿や母宮さまなども、深い親子の縁のある間柄は、転生を重ねても切れないとのことですから、きっとお逢いできる時があるとご安心なさい」
114  と、慰めたまふに、  と、お慰めになると、
115  「いで、あらずや。
 身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。
 かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
 「いえ、そういうことではありません。
 身体がとても苦しいので、少し休めて下さいと申そうと思ってなのです。
 このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いする人の魂は、なるほど抜け出るものだったのですね」
116  と、なつかしげに言ひて、  と、親しげに言って、
 

117
 「嘆きわび 空に乱るる わが魂を
 結びとどめよ したがへのつま」
 「悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
  結び留めてください、下前の褄を結んで」
 
117  とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。
 「いとあやし」と思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。
 あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。
 「あな、心憂」と思されて、
 とおっしゃる声や、雰囲気が、この姫君ではなく、うって変わっていらっしゃった。
 「たいそう変だ」とお考えめぐらすと、まったく、あの御息所その人なのであった。
 あきれて、人が何かと噂をするのを、下々の者たちが言い出したことも、聞くに耐えないとお思いになって、無視していられたが、目の前にまざまざと、「本当に、このようなこともあったのだ」と、気味悪くなった。
 「ああ、嫌な」と思わずにはいらっしゃれず、
118  「かくのたまへど、誰とこそ知らね。
 たしかにのたまへ」
 「そのようにおっしゃるが、誰とも分からぬ。
 はっきりと名乗りなさい」
119  とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。
 人々近う参るも、かたはらいたう思さる。
 
 とおっしゃると、まったく、その方そっくりのご様子なので、あきれはてるという言い方では平凡である。
 女房たちがお側近くに参るのも、気が気ではない。
 
 
 

第五段 葵の上、男子を出産

 
120  すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。
 うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたがりまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。
 
 少しお声も静かになられたので、一時収まったのかと、母宮がお薬湯を持って来させになったので、抱き起こされなさって、間もなくお生まれになった。
 嬉しいとお思いになることこの上もないが、憑坐にお移しになった物の怪どもが、悔しがり大騷ぎする様子が、とても騒々しくて、後産の事も、またとても心配である。
 
121  言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なり果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ、急ぎまかでぬ。
 
 数え切れないほどの願文どもを立てさせなさったからか、無事に後産も終わったので、山の座主や、誰彼といった尊い僧たちが、得意顔に汗を拭いながら、急いで退出した。
 
122  多くの人の心を尽くしつる日ごろの名残、すこしうちやすみて、「今はさりとも」と思す。
 御修法などは、またまた始め添へさせたまへど、まづは、興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。
 
 大勢の人たちが心を尽くした幾日もの看病の後の緊張が、少し解けて、「今はもう大丈夫」とお思いになる。
 御修法などは、再びお始めさせなさるが、差し当たっては、楽しくあり、おめでたいお世話に、皆ほっとしている。
 
123  院をはじめたてまつりて、親王たち、上達部、残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。
 男にてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。
 
 院をお始め申して、親王方や、上達部が、残らず誕生祝いの贈り物類の、珍しく立派なのを、祝いの夜毎に見て大騷ぎをする。
 男の子でさえあったので、そのお祝いの儀式が、盛大で立派である。
 
124  かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。
 「かねては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
 
 あの御息所は、このようなご様子をお聞きになるにつけても、心穏やかでない。
 「以前には、とても危ないとの噂であったのに、安産であったとは」と、お思いになった。
 
125  あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ましう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。
 
 不思議に、自分が自分でないようなご気分を思い辿って御覧になると、お召物なども、すっかり芥子の香が滲み着いている奇妙さに、髪をお洗いになり、お着替えになったりなどして、お試しになるが、依然として前と同じようにばかり臭いがするので、自分の身でさえありながら疎ましく思わずにはいらっしゃれないのに、それ以上に、他人が噂したり思ったりするだろう事など、誰にもおっしゃれるような内容でないので、心一つに収めてお嘆きになっていると、ますます気が変になって行く。
 
126  大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも、心憂く思し出でられつつ、「いとほど経にけるも心苦しう、また気近う見たてまつらむには、いかにぞや。
 うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしう」、よろづに思して、御文ばかりぞありける。
 
 大将殿は、気持ちが少し落ち着きなさって、何とも言いようのなかったあの時の問わず語りを、何度も不愉快にお思い出しになられて、「まこと日数が経ってしまったのも気の毒だし、また身近にお逢いすることは、どうであろうか。
 きっと不愉快に思われようし、相手の方のためにも気の毒だろうし」と、いろいろとお考えになって、お手紙だけがあるのだった。
 
127  いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに、誰も思したれば、ことわりにて、御歩きもなし。
 なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面したまはず。
 若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたる心地して、大臣もうれしういみじと思ひきこえたまへるに、ただ、この御心地おこたり果てたまはぬを、心もとなく思せど、「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかは、さのみは心をも惑はしたまはむ。
 
 ひどくお患いになった方の病後が心配で、気を緩めずに、皆がお思いであったので、それも当然のことなので、お忍び歩きもしない。
 依然としてひどく悩ましそうにばかりなさっているので、普段のようにはまだお会いなさらない。
 若君が空恐ろしいまでにかわいらしくお見えになるお姿を、今から、とても特別にお育て申し上げなさる様子は、並大抵でなく、願い通りの感じがして、岳父大臣も嬉しく幸せにお思い申していられるが、ただ、このご気分がすっかりご回復なさらないのを、ご心配になっているが、「あれほど重く患った後だから」とお思いになって、どうして、それほどご心配ばかりなっていられようか。
 
128  若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを、見たてまつりたまひても、まづ、恋しう思ひ出でられさせたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、  若君のお目もとのかわいらしさなどが、春宮にそっくりお似申していられるのを、拝見なされても、まっ先に、恋しくお思い出しにならずにはいらっしゃれなくて、堪えがたくて、参内なさろうとして、
129  「内裏などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日なむ初立ちしはべるを、すこし気近きほどにて聞こえさせばや。
 あまりおぼつかなき御心の隔てかな」
 「宮中などにもあまり長いこと参っておりませんので、気がかりゆえに、今日初めて外出致しますが、もう少し近い所でお話し申したいものです。
 あまりにも気がかりな他人行儀なお愛想ですから」
130  と、恨みきこえたまへれば、  とお怨み申し上げなさると、
131  「げに、ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを、いたう衰へたまへりと言ひながら、物越にてなどあべきかは」  「仰せのとおりですわ、ただひたすら優美にばかり振る舞うお仲ではございませんが、ひどくおやつれになっていらっしゃるとは申しても、物を隔ててお会いになる間柄ではございませんわ」
132  とて、臥したまへる所に、御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。
 
 と申し上げて、臥せっていらっしゃる所に、お席を近く設けたので、中に入ってお話など申し上げなさる。
 
133  御いらへ、時々聞こえたまふも、なほいと弱げなり。
 されど、むげに亡き人と思ひきこえし御ありさまを思し出づれば、夢の心地して、ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引き返し、つぶつぶとのたまひしことども思し出づるに、心憂ければ、
 お返事を、時々申し上げなさるが、やはりとても弱々しそうである。
 けれど、もう助からない人とお思い申したご様子をお思い出しになると、夢のような気がして、危なかった時の事などをお話し申し上げなさる中でも、あのすっかり息も止まったかのようになったのが、急に人が変わって、ぽつりぽつりと細かにお話し出されたことをお思い出しになると、不愉快に思われるので、
134  「いさや、聞こえまほしきこといと多かれど、まだいとたゆげに思しためればこそ」  「いや、お話し申したいことはとてもたくさんあるが、まだとても大儀そうなご気分でいられるようですから」
135  とて、「御湯参れ」などさへ、扱ひきこえたまふを、いつならひたまひけむと、人びとあはれ がりきこゆ。
 
 とおっしゃって、「お薬湯をお飲みなさい」などとまで、お世話申し上げなさるのを、いつの間にお覚えになったのだろう、と女房たちは感心申し上げる。
 
136  いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。
 御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、「年ごろ、何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ」と、あやしきまでうちまもられたまふ。
 
 まことに美しいお方が、たいそう衰弱しやつれて、生死の境を彷徨っているような感じで臥せっていられるご様子は、とてもいじらしげに痛々しい。
 お髪の一筋の乱れ毛もなく、さらさらと掛かっている枕の辺りは、めったにないくらい素晴らしく見えるので、「何年も、何を物足りないことがあると思っていたのだろう」と、不思議なまでにじっと見つめていずにはいらっしゃれない。
 
137  「院などに参りて、いととうまかでなむ。
 かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。
 あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」
 「院などに参って、すぐに下がって来ましょう。
 このようにして、隔てなくお会い申すことができるならば、嬉しいのですが、母宮がぴったりと付いていらっしゃるので、不躾ではないかしらと遠慮して来ましたのも辛いが、やはりだんだんと気を強くお持ちになって、いつものご座所にお戻りを……。
 あまり幼く甘えていられると、一方では、いつまでもこのようなままでいらっしゃいますよ」
138  など、聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて、見出だして臥したまへり。
 
 などと、申し上げ置きなさって、とても美しく装束をお召しになってお出かけになるのを、いつもよりは目を凝らして、お見送りしながら臥せっていらっしゃった。
 
 
 

第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する

 
139  秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたまひぬ。
 
 秋の司召が行われるはずの評定で、大殿も参内なさるが、ご子息たちも昇進をお望みになる事がいろいろあって、父殿のご身辺をお離れにならないので、皆後に続いてお出かけになった。
 
140  殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひたまふ。
 内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入りたまひぬ。
 足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
 
 殿の内では、人少なでひっそりとしている時に、急にいつものようにお胸をつまらせて、とてもひどくお苦しみになる。
 宮中にお知らせ申し上げなさる間もなく、お亡くなりになってしまった。
 足も地に着かない感じで、皆が皆、退出なさったので、除目の夜ではあったが、このようによんどころのないご支障なので、万事ご破算といったような具合である。
 
141  ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、え請じあへたまはず。
 今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。
 所々の御とぶらひの使など、立ちこみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見えたまふ。
 
 大騒ぎになったのは、夜半頃なので、山の座主や、誰それといった僧都たちも、お迎えになれない。
 いくら何でも、もう大丈夫、と気を緩めていたところに、大変なことになったので、邸の内の人々は、まごついている。
 方々からのご弔問の使者などが、立て込んだが、とても取り次ぎできず、上を下への大騷ぎになって、大変なご悲嘆は、まことに空恐ろしいまでにお見えなさる。
 
142  御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどものあれば、限り、と思し果つるほど、誰も誰もいといみじ。
 
 物の怪が度々お取り憑き申したことをお考えになって、お枕などもそのままにして、二、三日拝見なさったが、だんだんとお変わりになることどもが現れて来たので、もうこれまで、とお諦めになる時は、誰も彼も、本当に悲しい。
 
143  大将殿は、悲しきことに、ことを添へて、世の中をいと憂きものに思し染みぬれば、ただならぬ御あたりの弔ひどもも、心憂しとのみぞ、なべて思さるる。
 院に、思し嘆き、弔ひきこえさせたまふさま、かへりて面立たしげなるを、うれしき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。
 
 大将殿は、悲しい出来事に、物の怪のもう一件が加わって、男女の仲を本当に嫌なものと身にしみて感じられたので、並々ならぬ方々からのご弔問にも、ただ辛いとばかり、何もかも思わずにはいらっしゃれない。
 院におかれても、お悲しみになられ、御弔問申し上げあそばされる様子は、かえって面目を施すことなので、嬉しい気も混じって、父大臣はお涙の乾く間もない。
 
144  人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。
 
 人の申すことに従って、大がかりなご祈祷によって、生き返りなさらないかと、さまざまにあらゆる方法を試み、また一方では傷んで行かれるご様子を見ながらも、なおもお諦め切れずにいられたが、その効もなく何日にもなったので、もはや仕方がないと、鳥辺野にお送り申す時は、ご悲嘆の極み、万端であった。
 
 
 

第七段 葵の上の葬送とその後

 
145  こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこら広き野に所もなし。
 院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所々のも参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。
 大臣はえ立ち上がりたまはず、
 あちらこちらのご葬送の人々や、寺々の念仏僧などで、大変広い野辺に隙間もない。
 院からは今さら申すまでもなく、后の宮、春宮などのご弔問の使者や、その他所々の使者も代わる代わる参って、尽きない悲しみのご弔問を申し上げなさる。
 左大臣は立ち上がることもおできになれず、
146  「かかる齢の末に、若く盛りの子に後れたてまつりて、もごよふこと」  「このようにな晩年に、若くて盛りの娘に先立たれ申して、よろよろと這い回るとは」
147  と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人悲しう見たてまつる。
 
 と恥じ入ってお泣きになるのを、大勢の人々が悲しく拝する。
 
148  夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。
 
 一晩中たいそうな騷ぎの盛大な葬儀だが、まことにはかないご遺骨だけを後に残して、夜明け前早くにお帰りになる。
 
149  常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。
 八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、
 世の常のことだが、人一人くらいか、多くは御覧になっていないからか、譬えようもなくお悲しみになった。
 八月二十日余りの有明の月のころなので、空も風情も情趣深く感じられるところに、父大臣が親心の闇に悲しみに沈んで取り乱していられるご様子を御覧になるのも、ごもっともなことと痛ましいので、空ばかりが自然と眺められなさって、
 

118
 「のぼりぬる 煙はそれと わかねども
 なべて雲居の あはれなるかな」
 「空に上った煙は雲と混ざり合ってそれと区別がつかないが
  おしなべてどの雲もしみじみと眺められることよ」
 
150  殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。
 年ごろの御ありさまを思し出でつつ、
 大殿邸にお帰りになっても、少しもお眠りになれない。
 年来のご様子をお思い出しになりながら、
151  「などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ。
 世を経て、疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる」
 「どうして、最後には自然と分かってくれようと、のんびりと考えて、かりそめの浮気につけても、ひどいと思われ申してしまったのだろう。
 結婚生活中、親しめない気の置けるものと思ったまま、お亡くなりになってしまったことよ」
152  など、悔しきこと多く、思しつづけらるれど、かひなし。
 にばめる御衣たてまつれるも、夢の心地して、「われ先立たましかば、深くぞ染めたまはまし」と、思すさへ、
 などと、悔やまれることが多く、次々とお思い出しにならずにはいらっしゃれないが、効がない。
 鈍色の喪服をお召しになるのも、夢のような気がして、「もし自分が先立ったのならば、色濃くお染めになったろうに」と、お思いになるのまでが、
 

119
 「限りあれば 薄墨衣 浅けれど
 涙ぞ袖を 淵となしける」
 「きまりがあるので薄い色の喪服を着ているが
  涙で袖は淵のように深く悲しみに濡れている」
 
153  とて、念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みたまひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。
 若君を見たてまつりたまふにも、「何に忍ぶの」と、いとど露けけれど、「かかる形見さへなからましかば」と、思し慰む。
 
 と詠んで、念仏読経なさっているご様子は、ますます優美な感じが勝って、お経を声をひそめてお読みになりながら、「法界三昧普賢大士」とお唱えになるのは、勤行慣れした法師よりも殊勝である。
 若君を拝見なさるにつけても、『何を忍ぶよすがに』と、ますます涙がこぼれ出て来たが、「もしもこのような子までがいなかったら」と、気をお紛らしになる。
 
154  宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたまふを、また思し騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。
 
 母宮は沈み込んで、そのまま起き上がりなさらず、命も危なそうにお見えになるので、またお慌てになって、ご祈祷などをおさせになる。
 
155  はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思しかけざりしことなれば、尽きせずいみじうなむ。
 なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる、ましてことわりなり。
 また、類ひおはせぬをだに、さうざうしく思しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり。
 
 とりとめもなく月日が過ぎて行くので、ご法事の準備などをおさせになるのも、思いもなさらなかったことなので、悲しみは尽きず大変である。
 取るに足らない不出来な子供でさえ、人の親はどんなに辛く思うことだろう、まして、この姫君の場合は当然である。
 また、他に姫君がいらっしゃらないのさえ、物足りなくお思いになっていたのに、『袖の上の玉が砕けた』という事よりも残念である。
 
156  大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。
 所々には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。
 
 大将の君は、二条院にさえ、ほんの暫しの間もお行きにならず、しみじみと心深くお嘆きになって、勤行を几帳面になさりなさり、日夜お過ごしになる。
 所々の方々には、お手紙だけを差し上げなさる。
 
157  かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつくしき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。
 憂しと思ひ染みにし世も、なべて厭はしうなりたまひて、「かかるほだしだに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなまし」と思すには、まづ対の姫君の、さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。
 
 あの御息所には、斎宮が左衛門の司にお入りになったので、ますます厳重なご潔斎を理由にして、お手紙も差し上げたりいただたりなさらない。
 嫌なと心底から感じられた世の中も、一切厭わしくなられて、「このような幼い子供さえいなかったなら、念願どおりになれようものを」と、お思いになるにつけては、まずは対の姫君が寂しくしていらっしゃるだろう様子を、ふとお思いやらずにはいらっしゃれない。
 
158  夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直の人びとは近うめぐりてさぶらへど、かたはら寂しくて、「時しもあれ」と寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の、暁方など、忍びがたし。
 
 夜は、御帳台の中に独りでお寝みになると、宿直の女房たちは近くを囲んで伺候しているが、独り寝は寂しくて、『折柄もまことだ』と寝覚めがちなので、声のよい僧ばかりを選んで伺候させていらっしゃる念仏が、暁方など、堪え難い思いである。
 
159  「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。
 「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。
 
 「晩秋の情趣を増して行く風の音が、身にしみて感じられることよ」と、慣れないお独り寝に、明かしかねていらっしゃった朝ぼらけの霧が立ちこめている時に、ある者が、菊の咲きかけた枝に、濃い青鈍色の紙の文を結んで、ちょっと置いて去っていった。
 「優美な感じだ」と思って、御覧になると、御息所のご筆跡である。
 
160  「聞こえぬほどは、思し知るらむや。
 
 「お手紙を差し上げなかった間のことは、お察しいただけましょうか。
 
 

120
 人の世を あはれと聞くも 露けきに
 後るる袖を 思ひこそやれ
  人の世の無常をこの菊の花の聞くにつけ涙がこぼれますが
  先立たれなさってさぞかしお袖を濡らしてとお察しいたします
 
161  ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」  ちょうど今朝の空の模様を見るにつけ、偲びかねまして」
162  とあり。
 「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。
 さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。
 
 とある。
 「いつもよりも優美にお書きになっているなあ」と、やはり下に置きにくく御覧になるものの、「誠意のないご弔問だ」と嫌な気がする。
 そうかといって、お返事を差し上げないのもお気の毒で、ご名誉にも傷がつくことになるに違いない事だと、いろいろとお案じになる。
 
163  「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。
 
 「亡くなった人は、いずれにせよ、そうなるべき運命でいらしたのだろうが、どうしてあのような嫌なことを、まざまざと明瞭に見たり聞いたりしたのだろう」と悔しいのは、ご自分の気持ちながらも、やはりお思い直しになることはできないようである。
 
164  「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、  「斎宮のご潔斎につけても憚り多いことだろうか」などと、長い間お考えあぐねていらっしゃったが、「わざわざ下さった手紙のお返事しないのは、情愛がないのではないか」と思って、紫色の鈍色がかった紙に、
165  「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。
 
 「すっかりご無沙汰いたしましたが、常に心にお掛け申し上げておりながら、喪中の間は、そのようなわけで、お察しいただけようかと存じまして。
 
 

121
 とまる身も 消えしもおなじ 露の世に
 心置くらむ ほどぞはかなき
  生き残った者も死んだ者も同じ露のようにはかない世に
  心の執着を残して置くことはつまらないことです
 
166  かつは思し消ちてよかし。
 御覧ぜずもやとて、誰れにも」
 お互いに執着をお捨てになって下さい。
 御覧いただけないかしらと、どなたにも」
167  と聞こえたまへり。
 
 と差し上げなさった。
 
168  里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたまへるけしきを、心の鬼にしるく見たまひて、「さればよ」と思すも、いといみじ。
 
 里においでになる時だったので、こっそりと御覧になって、ほのめかしておっしゃっている様子を、内心気にとがめていることがあったので、はっきりとご理解なさって、「やはりそうであったのか」とお思いになるにつけ、とても堪らない。
 
169  「なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。
 かやうなる聞こえありて、院にもいかに思さむ。
 故前坊の、同じき御はらからと言ふなかにも、いみじう思ひ交はしきこえさせたまひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば、『その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむ』など、常にのたまはせて、『やがて内裏住みしたまへ』と、たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと」
 「やはり、とてもこの上なく情けない身の上であったよ。
 このような噂が立って、院におかれてもどのようにお考えあそばされよう。
 亡き夫前坊の、同腹のご兄弟という中でも、お互いにたいそう仲好くあそばして、この斎宮のご将来のことをも、こまごまとお頼み申し上げていらっしゃったので、院も『そなたのおん代わりになって、そのままお世話申そう』などと、いつも仰せられて、『そのまま宮中にお住みなさい』と、度々お勧め申し上げあそばしたことだけでも、まことに恐れ多いこと、と考えてもみなかったのに、このように意外にも年がいもなく物思いをして、遂には面目ない評判まで流してしまうに違いないこと」
170  と、思し乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。
 
 と、お悩みになると、やはりいつものような状態でおいでではない。
 
171  さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたること多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、そのころの役になむする」など聞きたまひても、大将の君は、「ことわりぞかし。
 ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。
 もし、世の中に飽き果てて下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがに思されけり。
 
 とはいえ、世間一般のことにつけては、奥ゆかしく趣味の豊かな方としての評判があって、昔から高名でいらしたので、斎宮の野の宮へのお移りの時にも、興趣ある当世風のことを多く考案し出して、「殿上人どもで風流な者などは、朝に夕べに露を分けて訪れるのを、その頃の仕事としている」などとお聞きになっても、大将の君は、「もっともなことだ。
 風雅を解することでは、どこまでも十分備わっていられる方だ。
 もし、愛想をつかされて伊勢にお下りになってしまわれたら、どんなにか寂しいに違いないだろう」と、やはりお思いになるのであった。
 
 
 

第八段 三位中将と故人を追慕する

 
172  御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。
 ならはぬ御つれづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひにはなるめる。
 大将の君は、
 ご法事などが次々と過ぎていったが、正日までは、そのまま引き籠もっていらっしゃる。
 経験したことのない所在なさを、お気の毒に思われなさって、三位の中将は、毎日お部屋に参上なさっては、世間話などを、真面目な話や、また例の好色めいた話などをも申し上げて、お気持ちをお慰め申し上げなさる中で、あの典侍の話は、お笑い種になるようである。
 大将の君は、
173  「あな、いとほしや。
 祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」
 「ああ、お気の毒な。
 おばば殿のことを、ひどく軽蔑なさるな」
174  といさめたまふものから、常にをかしと思したり。
 
 とお諌めになる一方で、いつも面白いと思っていられた。
 
175  かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。
 
 あの十六夜の、はっきりしなかった秋の事件などや、その他の事などの、いといろな浮気話を互いに暴露なさい合うが、しまいには、世の無常を言い言いして、涙をお漏らしになったりするのであった。
 
176  時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣更へして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。
 
 時雨が降ってきて、何となくしみじみとした夕方に、中将の君が、鈍色の直衣や、指貫を、薄い色に衣更えして、まことに男らしくすっきりとして、こちらが気後れするような感じをし参上なさった。
 
177  君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。
 風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、
 源氏の君は、西の妻戸の高欄に寄り掛かって、霜枯れの前栽を御覧になっているところであった。
 風が荒々しく吹き、時雨がさっと降ってきたに時は、涙も雨と競うような心地がして、
178  「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」  「雨となり、雲となってしまったのであろうか、今は分からない」
179  と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、「女にては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。
 
 と、独り言をいって、頬杖を突いていられるお姿を、中将は「もし自分が女であったなら、先立った魂もきっとこの世に留まるであろう」と、色っぽい気持ちで、ついじっと見つめながら、近くにお座りになると、おくつろぎの姿でいられながらも、直衣の入れ紐だけをさし直しなさる。
 
180  これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。
 
 こちらは、中将よりもう少し濃い鈍色の夏のお直衣に、紅色の光沢のある下襲を重ねて、地味なお姿でいらっしゃるのが、かえって見飽きない感じがする。
 
181  中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。
 
 中将も、とても悲しそうなまなざしでぼんやりと見ていらっしゃる。
 
 

122
「雨となり しぐるる空の 浮雲を
 いづれの方と わきて眺めむ
 「妹が時雨となって降る空の浮雲を
  どちらの方向の雲と眺め分けようか
 
182  行方なしや」  行く方も分からないな」
183  と、独り言のやうなるを、  と独り言のようなのを、
 

123
 「見し人の 雨となりにし 雲居さへ
 いとど時雨に かき暮らすころ」
 「妻が雲となり雨となってしまった空までが
  ますます時雨で暗く泣き暮らしている今日この頃だ」
 
184  とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、  とお詠みになるご様子も、浅くない気持ちがはっきりと窺えるので、
185  「あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、あり経たまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひけるなめり」  中将は、「妙にここ数年来は、さほどではなかったご愛情を、院などにおかれても、じっとしてはおれず御教訓あそばし、父の左大臣のご待遇もお気の毒であり、母の大宮のお血筋からいっても、切れないご縁であるなど、どちらからいっても関係が深いので、お捨てになることができずに、何となく気の進まないご様子のままで、今まで過ごして来られたようだと、気の毒に見えたことも時々あったが、ほんとうに、正妻としては、格別にお考え申されていらしたようだ」
186  と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。
 よろづにつけて光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。
 
 と分かると、ますます惜しまれてならない。
 何かにつけて光が消えたような気がして、元気をなくしていた。
 
187  枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、  枯れた下草の中に、龍胆や撫子などが咲き出したのを折らせなさって、中将がお帰りになった後に、若君の御乳母の宰相の君に持たせて、
 

124
 「草枯れの まがきに残る 撫子を
 別れし秋の かたみとぞ見る
 「草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を
  秋に死別れたお方の形見と思って見ています
 
188  にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」  美しさは劣ると御覧になりましょうか」
189  と聞こえたまへり。
 げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。
 宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。
 
 と差し上げなさった。
 なるほど若君の無邪気な微笑み顔はたいそうかわいらしい。
 大宮は、吹く風につけてさえ、木の葉よりも脆いお涙は、それ以上で、手に取ることさえおできになれない。
 
 

125
 「今も見て なかなか袖を 朽たすかな
 垣ほ荒れにし 大和撫子」
 「ただ今見てもかえって袖を涙で濡らしております
  垣根も荒れはてて母親に先立たれてしまった撫子なので」
 
190  なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、「今日のあはれは、さりとも見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。
 絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。
 空の色したる唐の紙に、
 依然として、ひどく所在のない気がするので、朝顔の宮に、今日の物悲しさは、そうはいってもお分りになられるであろうと推察されるお心の方なので、暗くなった時分であるが、お手紙を差し上げなさる。
 たまにしかないが、それが普通になってしまったお便りなので、侍女も気にも止めず御覧に入れる。
 空の色をした唐の紙に、
 

126
 「わきてこの 暮こそ袖は 露けけれ
 もの思ふ秋は あまた経ぬれど
 「とりわけ今日の夕暮れは涙に袖を濡らしております
  今までにも物思いのする秋はたくさん経験してきたのですが
 
191  いつも時雨は」  いつも時雨の頃は」
192  とあり。
 御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、
 とある。
 ご筆跡なども入念にお書きになっているのが、いつもより見栄えがして、「放って置けない時です」と女房も申し上げ、ご自身もそのようにお思いになったので、
193  「大内山を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、  「喪にお籠もり中のご様子を、お察し申し上げながら、とても」とあって、
 

127
 「秋霧に 立ちおくれぬ と聞きしより
 しぐるる空も いかがとぞ思ふ」
 「秋霧の立つころ、先立たれなさったとお聞き致しましたが
  それ以来時雨の季節につけいかほどお悲しみのことかとお察し申し上げます」
 
194  とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。
 
とだけ、かすれた墨跡で、思いなしか奥ゆかしい。
 
195  何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。
 
 どのような事柄につけても、見勝りがするのは難しいのが世の常のようなのに、冷たい人にかえって、お心が惹かれなさるご性質の方なのである。
 
196  「つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。
 なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出で来けり。
 対の姫君を、さは生ほし立てじ」と思す。
 「つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく、「いかが思ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。
 
 「すげないお扱いながらも、しかるべき時節折々の情趣はお見逃しなさらない、こういう間柄こそ、お互いに情愛を最後まで交わし合うことができるものだ。
 やはり、教養があり風流好みで、人目にも付くくらいなのは、よけいな欠点も出て来るものだ。
 対の姫君を、決してそのようには育てまい」とお考えになる。
 「姫君は所在なく恋しく思っていることだろう」と、お忘れになることはないが、まるで母親のない子を、一人残して来ているような気がして、会わない間は、気がかりで、「どのように嫉妬しているだろうか」と心配がないのは、気楽なことであった。
 
197  暮れ果てぬれば、御殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御前にて物語などせさせたまふ。
 
  日がすっかり暮れたので、大殿油を近くに灯させなさって、しかるべき女房たちばかり、御前でお話などをおさせになる。
 
198  中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。
 「あはれなる御心かな」と見たてまつる。
 おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、
 中納言の君というのは、数年来こっそりとご寵愛なさっていたが、この服喪の間は、かえってそのような色めいた相手にもお考えにならない。
 それを「やさしいお心の方だわ」と拝している。
 その他のことでは親しくお話しかけになって、
199  「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。
 いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」
 「こうして、ここ数日は、以前にも増して、誰も彼も他に気を紛らすこともなく、互いに毎日顔を会わせ顔を会わせしていたから、今後いつもこうすることができないのは、恋しいと思わないだろうか。
 まこと悲しいことはしかたがないとして、あれこれと考えめぐらしてみると、悲しくて堪らないことがたくさんあるなあ」
200  とのたまへば、いとどみな泣きて、  とおっしゃると、ますます皆が泣いて、
201  「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思ひたまふるこそ」  「今さら申してもしかたのないおん方の事は、ただ心も真っ暗に閉ざされた心地がいたしますのは、それはそれとして、すっかりお離れになってしまわれると、存じられますことが……」
202  と、聞こえもやらず。
 あはれと見わたしたまひて、
 と、最後まで申し上げきれない。
 かわいそうにとお見渡しになって、
203  「名残なくは、いかがは。
 心浅くも取りなしたまふかな。
 心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。
 命こそはかなけれ」
 「すっかり見限るようなことは、どうしてできようか。
 薄情者とお思いだな。
 気長な人さえいてくれたら、いつかは分かってくださろうものを。
 寿命は無常だからね」
204  とて、灯をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。
 
 とおっしゃって、灯火を眺めていらっしゃる目もとが、濡れていらっしゃるのが、素晴らしい。
 
205  とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、  とりわけかわいがっていらした小さい童女で、両親もいなくて、とても心細く思っているのを、もっともだと御覧になって、
206  「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」  「あてきは、今からはわたしを頼らねばならない人のようだね」
207  とのたまへば、いみじう泣く。
 ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。
 
 とおっしゃると、たいそう泣く。
 小さい衵を誰よりも色濃く染めて、黒い汗衫や、萱草色の袴などを着ているのも、かわいらしい姿である。
 
208  「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものしたまへ。
 見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」
 「故人を忘れない人は、寂しさを我慢してでも、幼君を見捨てないで、お仕えして下さい。
 ご生前の面影もなく、女房たちまでが出て行ってしまったなら、訪ね来るよすがもない思いがますますしようから」
209  など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。
 
 などと、皆に気長く留まることをおっしゃるが、「さあ、ますます間遠になられることだろう」と思うと、ますます心細い。
 
210  大殿は、人びとに、際々ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。
 
 大殿は、女房たちに、身分身分に応じて、ちょっとした趣味的な道具や、また、本当のお形見となるような物などを、改まった形にならないように心づかいして、一同にお配らせになるのであった。
 
 
 

第九段 源氏、左大臣邸を辞去する

 
211  君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。
 御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさぶらふ人びと、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。
 
 君は、こうしてばかり、どうしてぼんやりと日を送っていられようかと思って、院へ参内なさる。
 お車を引き出して、前駆の者などが参上する間に、悲しみを知っているかのような時雨がはらはらと降ってきて、木の葉を散らす風が、急に吹き払って、御前に伺候している女房たちは、何となくとても心細くて、少し乾く間もあった袖が再び湿っぽくなってしまった。
 
212  夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしもとぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。
 
 晩は、そのまま二条の院にお泊まりになる予定とあって、侍所の人々も、あちらでお待ち申し上げようというのであろう、それぞれ出立するので、今日が最後というのではないが、またとなく物悲しい。
 
213  大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。
 宮の御前に御消息聞こえたまへり。
 
 左大臣も大宮も、今日の様子に、悲しみを新たにされる。
 大宮のおん許へお手紙を差し上げなさった。
 
214  「院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。
 あからさまに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」
 「院におかれても御心配あそばされておっしゃられますので、今日参内致します。
 ちょっと外出致しますにつけても、よくぞ今日まで生き永らえて来られたものよと、悲しみに掻き乱されるばかりの気がするので、ご挨拶申し上げるのも、かえって悲しく思われるに違いないので、そちらにはお伺い致しません」
215  とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも聞こえたまはず。
 
 とあるので、ますます大宮は、目もお見えにならず、沈み込んで、お返事も差し上げなされない。
 
216  大臣ぞ、やがて渡りたまへる。
 いと堪へがたげに思して、御袖も引き放ちたまはず。
 見たてまつる人びともいと悲し。
 
 左大臣が、さっそくお越しになった。
 とても我慢できそうになくお悲しみで、お袖から顔をお放しなさらない。
 拝見している女房たちもまことに悲しい。
 
217  大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。
 大臣、久しうためらひたまひて、
 大将の君は、世の中をお思い続けなさること、実にあれこれとあって、お泣になる様子は、しみじみと心深いものがあるが、たいして取り乱したところなく優美でいらっしゃる。
 左大臣は、長いことかかって涙をお抑えになって、
218  「齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院などにも参りはべらぬなり。
 ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。
 いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」
 「年をとると、たいしたことでもないことにつけてさえ、涙もろくなるものでございますのに、まして、涙の乾く間もなくかきくらされている心を、とても鎮めることができませんので、人の目にも、とても取り乱して、気の弱い恰好にきっと見えましょうから、院などにも参内できないのでございます。
 何かのついでには、そのように取りなして奏上なさって下さい。
 いくらもありそうにない年寄の身で、先立たれたのが辛いのでございますよ」
219  と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。
 君も、たびたび鼻うちかみて、
 と無理に抑えておっしゃる様子は、まことに痛々しい。
 君も何度も鼻をかんで、
220  「後れ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。
 院にも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。
 
 「遺されたり先立ったりする老少不定は、世の習いとはよく承知致しておりますものの、直接我が身のこととして感じられます悲しみは、譬えようもないものだと。
 院におかれても、ご様子を奏上致しますれば、きっとお察しあそばされることでしょう」とお答え申し上げになる。
 
221  「さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。
 
 「それでは、時雨も止む間もなさそうでございすから、暮れないうちに」と、お促し申し上げなさる。
 
222  うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。
 
 お見回しなさると、御几帳の後や、襖障子の向こうなどの開け放された所などに、女房たちが三十人ほど一かたまりになっていて、濃い、あるいは薄い鈍色の喪服をそれぞれに着て、一同にひどく心細げにして、涙ぐみながら集まっているのを、とてもかわいそうに、と御覧になる。
 
223  「思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。
 うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。
 げにこそ、心細き夕べにはべれ」
 左大臣は「お見捨てになるはずもない子が残っていらっしゃるので、いくら何でも、何かの機会にはお立ち寄りあそばさないはずがないなどと、自ら慰めておりますが、もっぱら思慮の浅い女房などは、今日を最後の日と、お捨てになった過去の家と悲観して、永遠の別れとなった悲しみよりも、ただちょっと時々親しくお仕えした歳月が跡形もなくなってしまうのを、嘆いているようなのが、もっともに思われます。
 くつろいでいらしたことはございませんでしたが、それでもいつかはと、空頼みしてまいりましたが……。
 なるほど、心細く感じられる夕べでございますね」
224  とても、泣きたまひぬ。
 
 とおっしゃりつつも、お泣きになった。
 
225  「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。
 まことに、いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。
 今御覧じてむ」
 「とても思慮の浅い女房たちの嘆きでございますな。
 仰せのとおり、どうあろうともいずれはと、気長に存じておりました間は、自然とご無沙汰致した時もございましたが、かえって今では、何を心頼みしてご無沙汰ができましょうか。
 いずれお分りになろう」
226  とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。
 
 とおっしゃってお出になるのを、左大臣はお見送り申し上げなさって、お部屋にお入りになると、お飾りをはじめとして、昔のころと変わったところはないが、蝉の脱殻のような心地がなさる。
 
227  御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人びとは、悲しきなかにも、ほほ笑むあるべし。
 あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。
 
 御帳台の前に、お硯などが散らかしてあって、お手習いのお書き捨てになっていたのを拾い上げて、目を絞めて涙を堪えながら御覧になるのを、若い女房たちは、悲しい気持ちでいながらも、ついほほ笑む者もいるのだろう。
 しみじみと心を打つ古人の詩歌が、唐土のも日本のも書き散らし書き散らしてあり、草仮名でも漢字でも、さまざまに珍しい書体で書き交ぜていらっしゃった。
 
228  「かしこの御手や」  「みごとなご筆跡だ」
229  と、空を仰ぎて眺めたまふ。
 よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。
 「旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、
 と、空を仰いでぼんやりとしていらっしゃる。
 他家の人として拝見することになるのが、残念に思われるのであろう。
 「旧き枕故き衾、誰と共にあったか」とあるところに、
 

128
 「なき魂ぞ いとど悲しき 寝し床の
 あくがれがたき 心ならひに」
 「亡くなった人の魂もますます離れがたく悲しく思っていることだろう
  共に寝た床をわたしも離れがたく思うのだから」
 
230  また、「霜の花白し」とある所に、  また、「霜の華白し」とあるところに、
 

129
 「君なくて 塵つもりぬる 常夏の
 露うち払ひ いく夜寝ぬらむ」
 「あなたが亡くなってから塵の積もった床に
  涙を払いながら幾晩独り寝をしたことだろうか」
 
231  一日の花なるべし、枯れて混じれり。
 
 先日の花なのであろう、常夏の花が枯れて混じっていた。
 
232  宮に御覧ぜさせたまひて、  大宮に御覧に入れなさって、
233  「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。
 一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」
 「今さら言ってもしかたのないことはさておいて、このような悲しい逆縁の例は、世間にないことではないと、しいて思いながら、親子の縁も長く続かず、このように心を悲しませるために生まれて来たのであろうかと、かえって辛く、前世の因縁に思いを馳せながら、覚まそうとしていますが、ただ、日が経てば経つほど、恋しさが堪えきれないのと、この大将の君が、今日を限りに他家の人になってしまわれるのが、何とも残念に思わずにはいられません。
 一日、二日もお見えにならず、途絶えがちでいらっしゃったのでさえ、物足りなく胸を痛めておりましたのに、朝夕の光を失っては、どうして生き永らえて行けようか」
234  と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。
 
 と、お声も抑えきれずお泣きになると、御前に控えている年輩の女房などは、とても悲しくて、わっと泣き出すのは、何となく寒々とした夕べの情景である。
 
235  若き人びとは、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、  若い女房たちは、あちこちに集まり合って、お互いに悲しいことを話し合って、
236  「殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」  「殿がお考えになりおっしゃるように、若君をお育て申して、慰めることができようとは思いますが、とても幼いお形見ですこと」
237  とて、おのおの、「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多かり。
 
 と言って、それぞれが、「しばらく里に下がって、また参上しよう」と言う者もいるので、互いに別れを惜しんだりする折、それぞれ物悲しい事が多かった。
 
238  院へ参りたまへれば、  院に参上なさると、
239  「いといたう面痩せにけり。
 精進にて日を経るけにや」
 「とてもひどく面やつれしたな。
 御精進の日々を過ごしたからだろうか」
240  と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。
 
 と、お気の毒に御心配あそばして、御前においてお食事などを差し上げなさって、あれやこれやとお心を配ってお世話申し上げあそばす御様子は、身にしみてもったいない。
 
241  中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。
 命婦の君して、
 中宮の御方に参上なさると、女房たちが、珍しく思ってお目にかかる。
 中宮は命婦の君を通じて、
242  「思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」  「悲しみの尽きないことですが、日が経つにつけてもご心中はいかばかりかと」
243  と、御消息聞こえたまへり。
 
 と、ご挨拶を申し上げあそばした。
 
244  「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、厭はしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ、今日までも」  「無常の世は、一通りは存じておりましたが、身近に体験致しますと、嫌なことが多く思い悩みましたのも、度々のご弔問に慰められまして、今日までどうにか」
245  とて、さらぬ折だにある御けしき取り添へて、いと心苦しげなり。
 無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。
 
 と申し上げて、何でもない時でさえ持っているお悩みを取り重ねて、とてもおいたわしそうである。
 無紋の袍のお召物に、鈍色の御下襲、巻纓をなされた喪服のお姿は、華やかな時よりも、優美さが勝っていらっしゃった。
 
246  春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。
 
 春宮にも、久しく参上致さなかった気がかりさなどを、お申し上げになって、夜が更けてからご退出なさる。
 
 
 

第三章 紫の君の物語 新手枕の物語

 
 

第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす

 
247  二条院には、方々払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。
 上臈ども皆参う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。
 
 二条院では、あちらこちら掃き立て磨き立てて、男も女も、お待ち申し上げていた。
 上臈の女房たちは、皆参上して、我も我もと美しく着飾り、化粧しているのを御覧になるにつけても、あの左大臣家の女房たちが居並んで沈んでいた様子を、しみじみかわいそうに思い出されずにはいらっしゃれない。
 
248  御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。
 衣更への御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへて、「少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。
 
 お召物を着替えなさって、西の対にお渡りになった。
 衣更えした部屋のご装飾も、明るくすっきりと見えて、美しい若い女房や童女などの、身なりや、姿が好ましく整えてあって、「少納言の采配は、行き届かないところがなく、奥ゆかしい」と御覧になる。
 
249  姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。
 
 姫君は、とてもかわいらしく身繕いしていらっしゃる。
 
250  「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」  「久しくお目にかからなかったうちに、とても驚くほど大人らしくなられましたね」
251  とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて笑ひたまへる御さま、飽かぬところなし。
 
 とおっしゃって、小さい御几帳の帷子を引き上げて拝見なさると、顔を横に向けて微笑んでいらっしゃるお姿は、何とも申し分ない。
 
252  「火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違ふところなくなりゆくかな」  「火影に照らされた横顔や、頭の恰好などは、まったく、あの心を尽くしてお慕い申し上げている方に、少しも違うところなく成長されていくことだなあ」
253  と見たまふに、いとうれし。
 
 と御覧になると、とても嬉しい。
 
254  近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、  お近くに寄りなさって、久しく会わず気がかりでいた間のことなどをお話し申し上げになって、
255  「日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて、参り来む。
 今は、とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」
 「最近のお話を、ゆっくりと申し上げたいが、縁起が悪く思われますので、しばらく他の部屋で休んでから、また参りましょう。
 今日からは、いつでもお会いできましょうから、うるさくまでお思いになるでしょう」
256  と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思ひきこゆ。
 「やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、憎き心なるや。
 
 と、こまやかにお話し申し上げなさるのを、少納言は嬉しいと聞く一方で、やはり不安に思い申し上げる。
 「高貴なお忍びの方々が大勢いらっしゃるので、またやっかいな方が代わって現れなさるかも知れない」と思うのも、憎らしい気の廻しようであるよ。
 
257  御方に渡りたまひて、中将の君といふ、御足など参りすさびて、大殿籠もりぬ。
 
 ご自分のお部屋にお渡りになって、中将の君という女房に、お足などを気楽に揉ませなさって、お寝みになった。
 
258  朝には、若君の御もとに御文たてまつりたまふ。
 あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。
 
 翌朝には、若君のおん許にお手紙を差し上げなさる。
 しみじみとしたお返事を御覧になるにつけても、尽きない悲しい思いがするばかりである。
 
259  いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなられて、思しも立たれず。
 
 とても所在なく物思いに耽りがちだが、何でもないお忍び歩きも億劫にお思いになって、ご決断がつかない。
 
260  姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。
 
 姫君が、何事につけ理想的にすっかりご成長なさって、とても素晴らしくばかりに見えなさるのを、もう良い年頃だと、やはり、しいて御覧になっているので、それを匂わすようなことなどを、時々お試みなさるが、まったくお分りにならないご様子である。
 
261  つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。
 
 所在ないままに、ただこちらで碁を打ったり、偏継ぎなどをしたりして、毎日お暮らしになると、気性が利発で好感がもて、ちょっとした遊びの中にもかわいらしいところをお見せになるので、念頭に置かれなかった年月は、ただそのようなかわいらしさばかりはあったが、抑えることができなくなって、気の毒だけれど、どういうことだったのだろうか、周囲の者がお見分け申せる間柄ではないのだが、男君は早くお起きになって、女君は一向にお起きにならない朝があった。
 
262  人びと、「いかなれば、かくおはしますならむ。
 御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。
 
 女房たちは、「どうして、こうしていらっしゃるのだろうかしら。
 ご気分がすぐれないのだろうか」と、お見上げ申して嘆くが、君はご自分の部屋に帰りになろうとなさって、お硯箱を、御帳台の内に差し入れて出て行かれた。
 
263  人まにからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。
 何心もなく、ひき開けて見たまへば、
 人のいない間にやっと頭を上げなさると、結んだ手紙が、おん枕元にある。
 何気なく開いて御覧になると、
 

130
 「あやなくも 隔てけるかな 夜をかさね
 さすがに馴れし 夜の衣を」
 「どうして長い間何でもない間柄でいたのでしょう
  幾夜も幾夜も馴れ親しんで来た仲なのに」
 
264  と、書きすさびたまへるやうなり。
 「かかる御心おはすらむ」とは、かけても思し寄らざりしかば、
 と、お書き流しになっているようである。
 「このようなお心がおありだろう」とは、まったくお思いになってもみなかったので、
265  「などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」  「どうしてこう嫌なお心を、疑いもせず頼もしいものとお思い申し上げていたのだろう」
266  と、あさましう思さる。
 
 と、悔しい思いがなさる。
 
267  昼つかた、渡りたまひて、  昼ころ、西の対にお渡りになって、
268  「悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。
 今日は、碁も打たで、さうざうしや」
 「ご気分がお悪いようですが、どんな具合ですか。
 今日は、碁も打たなくて、張り合いがないですね」
269  とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。
 人びとは退きつつさぶらへば、寄りたまひて、
 とおっしゃって、御帳台の中をお覗きになると、ますますお召物を引き被って臥せっていらっしゃる。
 女房たちは退いて控えているので、お側にお寄りになって、
270  「など、かくいぶせき御もてなしぞ。
 思ひのほかに心憂くこそおはしけれな。
 人もいかにあやしと思ふらむ」
 「どうして、こう気づまりな態度をなさるの。
 意外にも冷たい方でいらっしゃいますね。
 皆がどうしたのかと変に思うでしょう」
271  とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。
 
 とおっしゃって、お衾を引き剥ぎなさると、汗でびっしょりになって、額髪もひどく濡れていらっしゃった。
 
272  「あな、うたて。
 これはいとゆゆしきわざぞよ」
 「ああ、嫌な。
 これはとても大変なことですよ」
273  とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。
 
 とおっしゃって、いろいろと慰めすかし申し上げなさるが、本当にとても辛い、とお思いになって、一言もお返事をなさらない。
 
274  「よしよし。
 さらに見えたてまつらじ。
 いと恥づかし」
 「よしよし。
 もう決して致しますまい。
 とても恥ずかしい」
275  など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、「若の御ありさまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰めきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。
 
 などとお怨みになって、お硯箱を開けて御覧になるが、何もないので、「なんと子供っぽいご様子か」と、かわいらしくお思い申し上げなさって、一日中、御帳台の中に居続けなさって、お慰め申し上げなさるが、その打ち解けないご様子が、ますますかわいらしい感じである。
 
 
 

第二段 結婚の儀式の夜

 
276  その夜さり、亥の子餅参らせたり。
 かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を召して、
 その晩、亥の子餅を御前に差し上げた。
 こうした喪中の折なので、大げさにはせずに、こちらの姫君のもとにだけ美しい桧破籠などぐらいを、様々な色の趣向を凝らして持参したのを御覧になって、源氏の君は、南面にお出になって、惟光を呼んで、
277  「この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。
 今日は忌ま忌ましき日なりけり」
 「この餅は、このように数多くあふれるほどにはしないで、明日の暮れに参上させよ。
 今日は日柄が吉くない日であった」
278  と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。
 惟光、たしかにも承らで、
 と、ほほ笑んでおっしゃるご様子から、機転の働く者なので、ふと気がついた。
 惟光は、詳しいことも承らずに、
279  「げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。
 さても、子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」
 「なるほど、おめでたいお祝いは、吉日を選んでお召し上がりになるべきでしょう。
 ところで子の子の餅はいくつお作り申しましょう」
280  と、まめだちて申せば、  と、真面目に申すので、
281  「三つが一つかにてもあらむかし」  「三分の一ぐらいでよいだろう」
282  とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。
 「もの馴れのさまや」と君は思す。
 人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。
 
 とおっしゃるので、すっかり呑み込んで、立ち去った。
 「物馴れた男よ」と、君はお思いになる。
 惟光は誰にも言わないで、手作りと言ったふうに実家で作っていたのだった。
 
283  君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも、いとをかしくて、「年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざりけり。
 人の心こそうたてあるものはあれ。
 今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。
 
 君は、ご機嫌をとりかねなさって、今初めて盗んで来た人のような感じがするのも、とても興趣が湧いて、「数年来かわいいとお思い申していたのは、片端にも当たらないくらいだ。
 人の心というものは得手勝手なものだなあ。
 今では一晩離れるのさえ堪らない気がするに違いないことよ」と思わずにはいらっしゃれない。
 
284  のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり。
 「少納言はおとなしくて、恥づかしくや思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、娘の弁といふを呼び出でて、
 お命じになった餅は、こっそりと、たいそう夜が更けてから持って参った。
 「少納言は大人なので、姫君が恥ずかしくお思いになるだろうか」と、思慮深く配慮して、少納言の娘の弁という者を呼び出して、
285  「これ、忍びて参らせたまへ」  「これをこっそりと、差し上げなさい」
286  とて、香壺の筥を一つ、さし入れたり。
 
 と言って、香壺の箱を一具、差し入れた。
 
287  「たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。
 あな、かしこ。
 あだにな」
 「確かに、お枕元に差し上げなければならない祝いの物でございます。
 ああ、勿体ない。
 あだや疎かに」
288  と言へば、「あやし」と思へど、  と言うと、「おかしいわ」と思うが、
289  「あだなることは、まだならはぬものを」  「あだなどということは、まだ知りませんのに」
290  とて、取れば、  と言って、受け取ると、
291  「まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。
 よも混じりはべらじ」
 「本当に、今はそのような言葉はお避けなさい。
 決して使うことはあるまいが」
292  と言ふ。
 若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。
 
 と言う。
 若い女房なので、事情も深く悟らないので、持って参って、お枕元の御几帳の下から差し入れたのを、源氏の君が、例によって餅の意味をお聞かせ申し上げなさるのであろう。
 
293  人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人びと、思ひ合はすることどもありける。
 御皿どもなど、いつのまにかし出でけむ。
 花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。
 
 女房たちは知り得ずにいたが、翌朝、この箱を下げさせなさったので、側近の女房たちだけは、合点の行くことがあったのだった。
 お皿類なども、いつの間に準備したのだろうか、花足はとても立派で、餅の様子も、格別にとても素晴らしく仕立ててあった。
 
294  少納言は、「いと、かうしもや」とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。
 
 少納言は、「とてもまあ、これほどまでも」とお思い申し上げたが、身にしみてもったいなく、行き届かない所のない君のお心配りに、何よりもまず涙が思わずこぼれた。
 
295  「さても、うちうちにのたまはせよな。
 かの人も、いかに思ひつらむ」
 「それにしてもまあ、内々にでもおっしゃって下さればよいものを。
 あの人も、何と思ったのだろう」
296  と、ささめきあへり。  と、ひそひそ囁き合っていた。
297  かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、「あやしの心や」と、我ながら思さる。
 通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と、思しわづらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみもてなしたまひて、
 それから後は、内裏にも院にも、ちょっとご参内なさる折でさえ、落ち着いていられず、女君の面影が浮かんで恋しいので、「妙な気持ちだな」と、自分でもお思いになられる。
 お通いになっていた方々からは、お恨み言を申し上げなさったりなどするので、お気の毒にとお思いになる方もあるが、新妻がいじらしくて、『一夜たりとも間を置いたりできようか』と、つい気がかりに思わずにはいらっしゃれないので、とても億劫に思われて、悩ましそうにばかり振る舞いなさって、
298  「世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」  「世の中がとても嫌に思えるこの時期を過ぎてから、どなたにもお目にかかりましょう」
299  とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。
 
 とばかりお返事をなさりなさりして、お過ごしになる。
 
300  今后は、御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、  弘徽殿の今后は、妹の御匣殿がなおもこの大将にばかり心を寄せていらっしゃるのを、
301  「げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあらむに、などか口惜しからむ」  「なるほどやはり、あのように重々しかった方もお亡くなりになったようだから、そうなったとしても、どうして残念なことがあろうか」
302  など、大臣のたまふに、「いと憎し」と、思ひきこえたまひて、  などと、右大臣はおっしゃるのを、「とても憎い」と、お思い申し上げになって、
303  「宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」  「宮仕えを、重々しくお勤め続けなさるだけでも、どうして悪いことがあろうか」
304  と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。
 
 と、ご入内をおさせ申すことを熱心に画策なさる。
 
305  君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、  源氏の君も、この女君を並々の方とは思っていらっしゃらなかったので、残念だとはお思いになるが、目下は他の女性にお心を分ける間もなくて、
306  「何かは、かばかり短かめる世に。
 かくて思ひ定まりなむ。
 人の怨みも負ふまじかりけり」
 「どうして、それでよいではないか。
 こんなに短い一生なのに。
 このまま落ち着くことしよう。
 女人の恨みを負べきでないことだ」
307  と、いとど危ふく思し懲りにたり。
 
 と、ますます案じられ懲り懲りになっていらっしゃった。
 
308  「かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし。
 年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほかには思し放たず。
 
 「あの御息所は、とてもお気の毒だが、生涯の伴侶としてお頼り申し上げるには、きっと気の置けることだろう。
 今までのように大目に見て下さるならば、しかるべき折々に何かとお話しを交わす相手として相応しいだろう」などと、そう言っても、見限ってしまおうとはなさらない。
 
309  「この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。
 父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとありがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて、「年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、
 「この姫君を、今まで世間の人も誰とも存じ上げないのも、身分がないようだ。
 父宮にお知らせ申そう」と、お考えになって、御裳着のお祝いを、人に広くお知らせにはならないが、並々でなく立派にご準備なさるお心づかいなどは、いかにも類のないくらいだが、女君は、すっかりお疎み申されて、「今まで万事ご信頼申して、おまつわり申し上げていたのは、我ながら浅はかな考えであったわ」と、悔しくばかりお思いになって、はっきりとも顔をお見合わせ申し上げようとはなさらず、ご冗談を申し上げになっても、苦しくやりきれない気持ちにお思い沈んで、以前とはすっかり変わられたご様子を、かわいらしくもいじらしくもお思いになって、
310  「年ごろ、思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの、心憂きこと」と、怨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。
 
 「今まで、お愛し申してきた甲斐もなく、『打ち解けて下さらない』お心が、何とも辛いこと」と、お恨み申していられるうちに、年も改まった。
 
 
 

第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り

 
311  朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。
 それより大殿にまかでたまへり。
 大臣、新しき年ともいはず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。
 
 元日には、例年のように、院の御所に参賀なさってから、内裏や、春宮などにも参賀に上がられる。
 そこから大殿邸に退出なさった。
 左大臣は、新年の祝いもせず、大宮を相手に亡き娘の事柄をお話し出しなさって、物寂しく悲しいと思っていられるところに、ますます、このようにまで源氏の君がお越しになられたのにつけても、気を強くお持ちになるが、堪えきれず悲しくお思いになった。
 
312  御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。
 立ち出でて、御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍びあへず。
 
 源氏の君はお年を加えられたせいか、堂々たる風格までがお加わりになって、以前よりもことに、お綺麗にお見えになる。
 立ち上がって出られて、故人のお部屋にお入りになると、女房たちも珍しく拝見申し上げて、悲しみを堪えることができない。
 
313  若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするも、あはれなり。
 まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、「人もこそ見たてまつりとがむれ」と見たまふ。
 
 若君を拝見なさると、すっかり大きく成長して、にこにこしていらっしゃるのも、しみじみと胸を打つ。
 目もと、口つきが、まったく春宮と同じご様子でいらっしゃるので、「人が見て不審にお思い申すかも知れない」と御覧になる。
 
314  御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし掛けられたるに、女のが並ばぬこそ、栄なくさうざうしく栄なけれ。
 
 お部屋の装飾なども昔に変わらず、御衣掛のご装束なども、いつものようにして掛けてあるが、女君のご装束が並んでないのが、見栄えがしないで寂しい。
 
315  宮の御消息にて、  大宮からのご挨拶として、
316  「今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」  「今日は、たいそう堪えておりますが、このようにお越し下さいましたので、かえって……」
317  など聞こえたまひて、  などとお申し上げになって、
318  「昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、なほやつれさせたまへ」  「今まで通りの習わしで新調しましたご衣装も、ここ幾月は、ますます涙に霞んで、色合いも映えなく御覧になられましょうかと存じますが、今日だけは、やはり粗末な物ですが、お召し下さいませ」
319  とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたまへり。
 かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざまも、世の常ならず、心ことなるを、かひなくやはとて、着替へたまふ。
 来ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。
 御返りに、
 と言って、たいそう丹精こめてお作りになったご衣装類を、またさらに差し上げになさった。
 必ず今日お召しになるように、とお考えになった御下襲は、色合いも織り方も、この世の物とは思われず、格別な品物なので、ご厚意を無にしてはと思って、お召し替えになる。
 もし来なかったら、さぞかし残念にお思いであったろう、とおいたわしい。
 お返事には、
320  「春や来ぬるとも、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。
 
 「春が来たかとも、まずは御覧になっていただくつもりで、参上致しましたが、思い出さずにはいられない事柄が多くて、とても十分に申し上げられません。
 
 

131
 あまた年 今日改めし 色衣
 着ては涙ぞ ふる心地する
  何年来も元日毎に参っては着替えをしてきた晴着だが
  それを着ると今日は涙がこぼれる思いがする
 
321  えこそ思ひたまへしづめね」  どうしても抑えることができません」
322  と聞こえたまへり。
 御返り、
 と、お申し上げなさった。
 お返歌は、
 

132
 「新しき 年ともいはず ふるものは
 ふりぬる人の 涙なりけり」
 「新年になったとは申しても降りそそぐものは
  年古りた母の涙でございます」
 
323  おろかなるべきことにぞあらぬや。  並々な悲しみではないのであったことよ。
 
 

【出典】

 
  出典1 我を思ふ人を思はぬ報いにや我が思ふ人の我を思はぬ(古今集雑体-一〇四一 読人しらず)(戻)  
  出典2 笹の隈桧隈川に駒とめてしばし水かへ影だに見む(古今集大歌所御歌-一〇八〇 ひるめの歌)(戻)  
  出典3 伊勢の海に釣する海人の浮けなれや心一つを定めかねつる(古今集恋一-五〇九 読人しらず)(戻)  
  出典4 悔しくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水(古今六帖二-九八七)(戻)  
  出典5 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る(後拾遺集神祇-一一六二 和泉式部)(戻)  
  出典6 身を捨てて行きやしにけむ思ふより外なる物は心なりけり(古今集雑下-九七七 凡河内躬恒)(戻)  
  出典7 思はじと思ふも物を思ふなり言はじと言ふもこれも言ふなり(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典8 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひにけるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)  
  出典9 大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ(古今集恋四-七四三 酒井人真)(戻)  
  出典10 結びおきし形見の子だになかりせば何に忍の草を摘ままし(後撰集雑二-一一八七 兼忠が母の乳母)(戻)  
  出典11 時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを(古今集哀傷-八九三 壬生忠岑)(戻)  
  出典12 旦為朝雲 暮為行雨(文選十九-五六 高唐賦 宋玉)相逢相笑尽如夢 為雨為雲今不知(劉夢得外集一-有所嗟)(戻)  
  出典13 あな恋し今も見てしが山賤の垣ほに咲ける大和撫子(古今集恋四-六九五 読人しらず)(戻)  
  出典14 神無月いつも時雨は降りしかどかく袖くたす折はなかりき(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典15 白雲の九重に立つ峰なれば大内山といふにぞありける(新勅撰集雑四-一二六五 藤原兼輔)(戻)  
  出典16 みなれ木の見慣れそなれて離れなば恋しからむや恋しからじや(源氏釈所引、出典未詳)(戻)  
  出典17 末の露もとの滴や世の中の後れ先立つためしなるらむ(新古今集哀傷-七五七 僧正遍昭)(戻)  
  出典18 鴛鴦瓦冷霜花重 旧枕故衾誰与共(白氏文集十二-五九六 長恨歌)(戻)  
  出典19 塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝る常夏の花(古今集夏-一六七 凡河内躬恒)(戻)  
  出典20 若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎からなくに(古今六帖五-二七四九)(戻)  
  出典21 み狩する雁羽の小野の楢柴の馴れはまさらで恋ひぞまされる(新古今集恋一-一〇五〇 柿本人麿)(戻)  
  出典22 新しく明くる年をば百年の春の初めと鴬ぞ鳴く(古今六帖一-一六)(戻)  
 
 

【校訂】

 
  備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△  
  校訂1 后腹の--きさきはし(し/$ら<朱>)の(戻)  
  校訂2 よき--(/+よき<朱>)(戻)  
  校訂3 いづかたにも--いつかた(た/+に)も(戻)  
  校訂4 さばかりにては--さはかりて(て/$にて)は(戻)  
  校訂5 いとど--いと(と/+と<朱>)(戻)  
  校訂6 いと--(/+いと)(戻)  
  校訂7 べかめるも--へかめに(に/$る<朱>)(戻)  
  校訂8 あるまじき--あるし(し/$)ましき(戻)  
  校訂9 聞こえ--きこゆ(ゆ/$え<朱>)(戻)  
  校訂10 待ち--(/+待<朱>)(戻)  
  校訂11 名たたしう--なたら(ら/$た<朱>)しう(戻)  
  校訂12 いみじう--(/+いみしう<朱>)(戻)  
  校訂13 退き--し(し/+り<朱>)そき(戻)  
  校訂14 言ふ--*ゆふ(戻)  
  校訂15 出づる--いへ(へ/$つ<朱>)る(戻)  
  校訂16 試み--心え(え/$み<朱>)(戻)  
  校訂17 今から--いまかう(う/$ら<朱>)(戻)  
  校訂18 さのみ--さ(さ/$さ<朱>)(戻)  
  校訂19 まもられ--まも(も/+ら<朱>)れ(戻)  
  校訂20 あまり--あま(ま/$ま<朱>)り(戻)  
  校訂21 瀬--を(を/$せ<朱>)(戻)  
  校訂22 損なはれ--そこな(な/+は<朱>)れ(戻)  
  校訂23 はかなう--はら(ら/$か<朱>)なう(戻)  
  校訂24 知るらむ--し(し/+る<朱>)らむ(戻)  
  校訂25 させ--さ(さ/$さ<朱>)(戻)  
  校訂26 扱はむ--あつる(つる/$つか<朱>)はむ(戻)  
  校訂27 ふり捨て--ふま(ま/$<朱>)りすて(戻)  
  校訂28 いたかり--いあ(あ/$たか<朱>)り(戻)  
  校訂29 さるべき--さるへ(へ/+き<朱>)(戻)  
  校訂30 果て--(/+は)て(戻)  
  校訂31 通り--とおる(る/$り<朱>)(戻)  
  校訂32 見え--見(見/+え)(戻)  
  校訂33 若君--我(我/#わか)君(戻)  
  校訂34 おのがじし--(/+を)のかしゝ(戻)  
  校訂35 面痩せ--おもひ(ひ/$<朱>)やせ(戻)  
  校訂36 さらぬ--さな(な/$<朱>)らぬ(戻)  
  校訂37 うちそばみ--うち(ち/+そ)はみ(戻)  
  校訂38 笑ひ--は(は/$わ)らひ(戻)  
  校訂39 ただ--たし(し/$た<朱>)(戻)  
  校訂40 御もとに--御とも(御/+も<朱>、も/$<朱>)に(戻)  
  校訂41 渡り--に(に/$わ<朱>)たり(戻)  
  校訂42 退きつつ--しりそきて(て/$)(戻)  
  校訂43 心憂く--心(心/+う)く(戻)  
  校訂44 御皿--御さえ(え/$ら<朱>)(戻)  
  校訂45 ささめき--さら(ら/$さ<朱>)めき(戻)  
  校訂46 短かめる--*みし△め(し/+か<朱>)(戻)  
 

 
 ※(以下は当サイトによる)大島本は、定家本の書写。
 書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。