源氏物語 5帖 若紫:あらすじ・目次・原文対訳

夕顔 源氏物語
第一部
第5帖
若紫
末摘花

  
 本ページは、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏物語の世界』(目次構成・登場人物・原文・訳文)を参照引用している(全文使用許可あり)。
 ここでは、その原文と現代語訳のページの内容を統合し、レイアウトを整えた。速やかな理解に資すると思うが、詳しい趣旨は上記リンク参照。
 

 若紫のあらすじ

 光源氏18歳3月から冬10月の話。

 瘧(おこり、マラリア)を病んで加持(かじ)のために北山を訪れた源氏は、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上。10歳ほど)を垣間見た。少女の大伯父の僧都によると彼女は藤壺の兄兵部卿宮の娘で、父の正妻による圧力を気に病んだ母が早くに亡くなった後、祖母の北山の尼君(40歳ほど)の元で育てられ10余年たったという。源氏は少女の後見を申し出たが、結婚相手とするにはあまりに少女が幼いため、尼君は本気にしなかった。

 4月、病で藤壺(23歳)が里下がりし、源氏は藤壺の侍女王命婦の手引きで再会を果たした。その後藤壺は源氏の文も拒み続けたが、既に藤壺は源氏の子を妊娠していた。

 一方、北山の尼君はその後少女と共に都に戻っていた。晩秋源氏は見舞いに訪れるが、尼君はそれから間もなく亡くなってしまう。身寄りのなくなった少女を、源氏は父兵部卿宮に先んじて自らの邸二条院に連れ帰り、恋しい藤壺の身代わりに理想的な女性に育てようと考えるのだった。

(以上Wikipedia若紫より。色づけは本ページ。なお本文中に若紫は出てこない)
 
目次
和歌抜粋内訳#若紫(25首:別ページ)
主要登場人物
 
第5帖 若紫
 光る源氏の十八歳
 春三月晦日から冬十月までの物語
 
第一章 紫上の物語
 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
 第一段 三月晦日、加持祈祷のため北山に出向く
 第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす
 第三段 源氏、若紫の君を発見す
 第四段 若紫の君の素性を聞く
 第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京
 第六段 内裏と左大臣邸に参る
 第七段 北山へ手紙を贈る
 
第二章 藤壺の物語
 夏の密通と妊娠の苦悩物語
 第一段 夏四月の短夜の密通事件
 第二段 妊娠三月となる
 第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る
 
第三章 紫上の物語(2)
 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
 第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る
 第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々
 第三段 源氏、紫の君を盗み取る
 定家注釈
 校訂付記
 

 

主要登場人物

 

光る源氏(ひかるげんじ)
十八歳 参議兼近衛中将
呼称:君・源氏の中将・光る源氏・源氏の君・中将の君・男君
藤壺の宮(ふじつぼのみや)
父桐壺帝の妃、光る源氏の継母
呼称:宮・女宮
紫の上(むらさきのうえ)
兵部卿宮の娘、藤壺宮の姪
呼称:若草・若君・初草・君
尼君(あまぎみ)
紫の上の祖母
呼称:尼・北の方・祖母上・故尼君
僧都(そうず)
紫の上の祖母の兄
呼称:なにがし僧都・僧都
王命婦(おうみょうぶ)
藤壺宮の女房
呼称:命婦の君・命婦
左大臣(さだいじん)
源氏の岳父
呼称:大殿・大臣
葵の上(あおいのうえ)
源氏の正妻
呼称:女君
頭中将(とうのちゅうじょう)
葵の上の兄
呼称:頭中将
兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)
紫の上の父
呼称:親王・宮・父宮
惟光(これみつ)
源氏の乳母子
呼称:惟光・大夫
良清(よしきよ)
呼称:播磨守の子

 
 以上の内容は、全て以下の原文のリンク先参照。文面はそのままで表記を若干整えた。
 
 
 
 

原文対訳

  定家本
(原本
現代語訳
(渋谷栄一)
  若紫
 
 

第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語

 
 

第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く

 
1  瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、しるしなくて、あまたたびおこりたまひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人はべる。
 去年の夏も世におこりて、人びとまじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひ、あまたはべりき。
 ししこらかしつる時はうたてはべるを、とくこそ試みさせたまはめ」など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、「老いかがまりて、室の外にもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。
 いと忍びてものせむ」とのたまひて、御供にむつましき四、五人ばかりして、まだ暁におはす。
 
 瘧病みをお患いになって、いろいろと呪術や加持などして差し上げなさるが、効果がなくて、何度も発作がお起こりになったので、ある人が、「北山にある、何寺とかいう所に、すぐれた行者がございます。
 去年の夏も世間に流行して、人々がまじないあぐねたのを、たちどころに治した例が、多数ございました。
 こじらせてしまうと厄介でございますから、早くお試しあそばすとよいでしょう」などと申し上げるので、呼びにおやりになったところ、「老い曲がって、室の外にも外出いたしません」と申したので、「しかたない。
 ごく内密に行こう」とおっしゃって、お供に親しい者四、五人ほど連れて、まだ夜明け前にお出かけになる。
 
2  やや深う入る所なりけり。
 三月のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。
 山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、所狭き御身にて、めづらしう思されけり。
 
 やや山深く入った所なのであった。
 三月の晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまっていた。
 山の桜はまだ盛りで、入って行かれるにつれて、霞のかかった景色も趣深く見えるので、このような山歩きもご経験なく、窮屈なご身分なので、珍しく思われなさった。
 
3  寺のさまもいとあはれなり。
 峰高く、深き岩の中にぞ、聖入りゐたりける。
 登りたまひて、誰とも知らせたまはず、いといたうやつれたまへれど、しるき御さまなれば、
 寺の有様も実にしんみりと趣深い。
 峰高く、深い岩屋の中に、聖は入っているのだった。
 お登りになって、誰とも知らせなさらず、とてもひどく粗末な身なりをしていらっしゃるが、はっきり誰それと分かるご風采なので、
4  〔聖〕「あな、かしこや。
 一日、召しはべりしにや、おはしますらむ。
 今は、この世のことを思ひたまへねば、験方の行ひも捨て忘れて(校訂01)はべるを、いかで、かうおはしましつらむ」
 〔聖〕「ああ、恐れ多いことよ。
 先日、お召しになった方で、いらっしゃいましょうか。
 今は、現世のことを考えておりませんので、修験の方法も忘れておりますのに、どうして、このようにお越しあそばしたのでしょうか」
5  と、おどろき騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。
 いと尊き大徳なりけり。
 さるべきもの作りて、すかせたてまつる。
 加持など参るほど、日高くさし上がりぬ。
 
 と、驚き慌てて、にっこりしながら拝する。
 まことに立派な大徳なのであった。
 しかるべき薬を作って、お呑ませ申す。
 加持などして差し上げるうちに、日が高くなった。
 
 
 

第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす

 
6  すこし立ち出でつつ見渡したまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる、ただこのつづら折の下に、同じ小柴なれど、うるはしくし渡して、清げなる屋、廊など続けて、木立いとよしあるは、  少し外に出て見渡しなさると、高い所なので、あちこちに、いくつもの僧坊がはっきりと見下ろされる、ちょうどこのつづら折の道の下に、同じような小柴垣であるが、きちんと結いめぐらして、こざっぱりとした建物に、渡廊などを建てつなげて、木立がとても風情あるのは、
7  〔源氏〕「何人の住むにか」  〔源氏〕「どのような人が住んでいるのか」
8  と問ひたまへば、御供なる人、  とお尋ねになると、お供の者が、
9  〔供人〕「これなむ、なにがし僧都の、この二年籠もりはべる方にはべるなる」  〔供人〕「これが、何とかいう僧都が、ここ二年間籠もっております所だそうでございます」
10  〔源氏〕「心恥づかしき人住むなる所にこそあなれ。
 あやしうも、あまりやつしけるかな。
 聞きもこそすれ」などのたまふ。
 
 〔源氏〕「気おくれするほど立派な人が住んでいるという所だな。
 何とも、あまりに粗末な身なりであったなあ。
 聞きつけられたら困るな」などとおっしゃる。
 
11  清げなる童など、あまた出で来て、閼伽たてまつり、花折りなどするも、あらはに見ゆ。
 
 美しそうな童女などが、大勢出て来て、閼伽棚に水をお供えしたり、花を手折ったりなどするのも、はっきりと見える。
 
12  〔供人〕「かしこに、女こそありけれ」  〔供人〕「あそこに、女がいるぞ」
13  〔供人〕「僧都は、よも、さやうには、据ゑたまはじを」  〔供人〕「僧都は、まさか、そのようには、囲って置かれるまいに」
14  〔供人〕「いかなる人ならむ」  〔供人〕「どのような女だろう」
15  と口々言ふ。
 下りて覗くもあり。
 
 と口々に言う。
 下りて行って覗く者もいる。
 
16  〔供人〕「をかしげなる女子ども、若き人、童女なむ見ゆる」と言ふ。
 
 〔供人〕「きれいな女の子たちや、若い女房、童女が見える」と言う。
 
17  君は、行ひしたまひ(校訂02)つつ、日たくるままに、いかならむと思したるを、  源氏の君は、勤行なさりながら、日盛りになるにつれて、どうだろうかとご心配なさるのを、
18  〔聖〕「とかう紛らはさせたまて、思し入れぬなむ、よくはべる」  〔聖〕「何かとお気を紛らわしあそばして、お気になさらないのが、よろしゅうございます」
19  と聞こゆれば、後への山に立ち出でて、京の方を見たまふ。
 はるかに霞みわたりて、四方の梢、そこはかとなう煙りわたれるほど、
 と申し上げるので、後方の山に立ち出でて、京の方角を御覧になる。
 遠くまで霞がかかっていて、四方の梢がどことなく霞んで見える具合を、
20  〔源氏〕「絵にいとよくも似たるかな。
 かかる所に住む人、心に思ひ残すことは、あらじかし」とのたまへば、
 〔源氏〕「絵にとてもよく似ているなあ。
 このような所に住む人は、心に思い残すことは、きっとないだろう」とおっしゃると、
21  〔供人〕「これは、いと浅くはべり。
 人の国などにはべる海、山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに、御絵いみじうまさらせたまはむ。
 富士の山、なにがしの嶽」
 〔供人〕「これは、まことに平凡でございます。
 地方などにございます海や、山の景色などを御覧あそばされましたならば、どんなにか、お絵も素晴らしくご上達あそばしましょう。
 富士の山、何々の嶽……」
22  など、語りきこゆるもあり。
 また西国のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづに紛らはしきこゆ。
 
 などと、お話し申し上げる者もいる。
 また、西国の美しい浦々や、海岸辺りについて話し続ける者もいて、何かとお気を紛らわし申し上げる。
 
23  〔良清〕「近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほことにはべれ。
 何の至り深き隈はなけれど、ただ、海の面を見わたしたるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびか(付箋①)なる所にはべる。
 
 〔良清〕「近い所では、播磨国の明石の浦が、やはり格別でございます。
 どこといって奥深い趣はないが、ただ、海の方を見渡しているところが、不思議と他の海岸とは違って、ゆったりと広々した所でございます。
 
24  かの国の前の守、新発意の、女かしづきたる家、いといたしかし。
 大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、交じらひもせず、近衛の中将を捨てて、申し賜はれりける司なれど、かの国の人にも、すこしあなづられて、『何の面目にてか、また都にも帰らむ』と言ひて、頭も下ろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住みもせで、さる海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの国のうちに、さも、人の籠もりゐぬべき所々はありながら、深き里は、人離れ、心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは、心をやれる住まひになむはべる。
 
 あの国の前国司で、出家したての人が、娘を大切に育てている家は、まことにたいしたものです。
 大臣の後裔で、出世もできたはずの人なのですが、たいそうな変わり者で、人づき合いをせず、近衛の中将を捨てて、申し出て頂戴した官職ですが、あの国の人にも少し馬鹿にされて、『何の面目があって、再び都に帰られようか』と言って、剃髪してしまったのでございますが、少し奥まった山中生活もしないで、そのような海岸に出ているのは、間違っているようですが、なるほど、あの国の中に、そのように、人が籠もるにふさわしい所々は方々にありますが、深い山里は、人気もなく、もの寂しく、若い妻子がきっと心細がるにちがいないため、また一方では、気晴らしのできる住まいでございます。
 
25  先つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま、見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそ、所得ぬやうなりけれ、そこらはるかに、いかめしう占めて造れるさま、さは言へど、国の司にてし置きけることなれば、残りの齢、ゆたかに経べき心構へも、二なくしたりけり。
 後の世の勤めも、いとよくして、なかなか法師まさりしたる人になむはべりける」と申せば、
 最近、下向いたしました機会に、様子を拝見するために立ち寄ってみましたところ、都でこそ不遇のようでしたが、はなはだ広々と、豪勢に占有して造っている様子は、そうは言っても、国司として造っておいたことなので、余生を豊かに過ごせる準備も、またとなくしているのでした。
 後世の勤行も、まことによく勤めて、かえって出家して人品が上がった人でございました」と申し上げると、
26  〔源氏〕「さて、その女は」と、問ひたまふ。
 
 〔源氏〕「ところで、その娘は」と、お尋ねになる。
 
27  〔良清〕「けしうはあらず。
 容貌、心ばへなどはべるなり。
 代々の国の司など、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。
 〔入道〕『我が身の、かくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。
 もし、我に後れて、その志とげず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね』と、常に遺言しおきてはべるなる」
 〔良清〕「悪くはありません。
 器量や、気立てなども結構だということでございます。
 代々の国司などが、格別懇ろな態度で、結婚の申し込みをするようですが、全然承知しません。
 〔入道〕『自分の身が、このようにむなしく落ちぶれているのさえ無念なのに……、子はこの娘一人だけだが、特別に考えているのだ。
 もし、わたしに先立たれて、その素志を遂げられず、わたしの願っていた運命と違ったならば、海に投げ入ってしまえ』と、常々遺言をしているそうでございます」
28  と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。
 人びと、
 と申し上げると、源氏の君もおもしろい話だとお聞きになる。
 供人たちは、
29  〔供人〕「海龍王の后になるべきいつき女ななり」  〔供人〕「きっと海龍王の后になるような大切な娘なのだろう」
30  〔供人〕「心高さ、苦しや」とて笑ふ。
 
 〔供人〕「気位いの高いことも、困ったものだね」と言って笑う。
 
31  かく言ふは、播磨守の子の、蔵人より、今年、かうぶり得たるなりけり。
 
 このように話すのは、播磨守の子で、六位蔵人から、今年、五位に叙された者なのであった。
 
32  〔供人〕「いと好きたる者なれば、かの入道の遺言、破りつべき心はあらむかし」  〔供人〕「大層な好色者だから、あの入道の遺言を、きっと破ってしまおうという気なのだろうよ」
33  〔供人〕「さて、たたずみ寄るならむ」  〔供人〕「それで、うろうろと近づくのだろう」
34  と言ひあへり。
 
 と言い合っている。
 
35  〔供人〕「いで、なにしに、さ言ふとも、田舎びたらむ。
 幼くよりさる所に生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」
 〔供人〕「いやはや、そうは言っても、田舎びているだろう。
 幼い時からそのような所に成長して、古めかしい親にばかり教育されていたのでは」
36  〔供人〕「母こそ、ゆゑあるべけれ。
 よき若人、童など、都のやむごとなき所々より、類(校訂03)にふれて尋ねとりて、まばゆくこそ、もてなすなれ」
 〔供人〕「母親は、きっと由緒ある家の出なのだろう。
 美しい若い女房や、童女などを、都の高貴な家々から、縁故を頼って探し集めて、眩しいほどに、お育てしているそうだ」
37  〔供人〕「情けなき人、なりて行かば、さて心安くてしも、え置きたらじをや」  〔供人〕「心ない人が、国司になって赴任して行ったら、そんなふうに安心なども、していられないのでは」
38  など言ふもあり。
 君、
 などと言う者もいる。
 源氏の君は、
39  〔源氏〕「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。
 底のみるめも(自筆本奥入01・奥入01・付箋②)、ものむつかしう」
 〔源氏〕「どのような考えがあって、海の底まで深く思い込んでいるのだろうか。
 海底の人の「みるめ」も、何となく見苦しい」
40  などのたまひて、ただならず思したり。
 かやうにても、なべてならず、もてひがみたる(校訂04)こと、好みたまふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見たてまつる。
 
 などとおっしゃって、少なからず関心をお持ちになっている。
 このような話でも、普通以上に、一風変わったことを、お好みになるご性格なので、お耳を傾けられるのだろう、と拝見する。
 
41  〔供人〕「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。
 はや、帰らせたまひなむ」
 〔供人〕「暮れかけてきましたが、ご発作がおこりあそばさなくなったようでございます。
 早う、お帰りあそばされるのがよいでしょう」
42  とあるを、大徳、  と言うのを、大徳は、
43  〔聖〕「御もののけなど、加はれるさまにおはしましけるを、今宵は、なほ静かに加持など参りて、出でさせたまへ」と申す。
 
 〔聖〕「おん物の怪などが、憑いている様子でいらっしゃいましたが、今夜は、やはり静かに加持などをなさって、お帰りあそばされませ」と申し上げる。
 
44  「さもあること」と、皆人申す。
 君も、かかる旅寝も慣らひたまはねば、さすがにをかしくて、
 「それも、もっともなこと」と、供人皆が申し上げる。
 源氏の君も、このような旅寝もご経験ないことなので、何と言っても興味があって、
45  〔源氏〕「さらば暁に」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「それでは、翌朝に」とおっしゃる。
 
 
 

第三段 源氏、若紫の君を発見す

 
46  人なくて、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ。
 人びとは帰したまひて、惟光朝臣と覗きたまへば、ただこの西面にしも、仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。
 簾すこし上げて、花たてまつるめり。
 中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。
 四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見たまふ。
 
 人もいなくて、何もすることがないので、夕暮のたいそう霞みわたっているのに紛れて、あの小柴垣の付近にお立ち出でになる。
 供人はお帰しになって、惟光朝臣とお覗きになると、ちょうどこの西面に、仏を安置申して勤行している、尼なのであった。
 簾を少し上げて、花を供えているようである。
 中央の柱に寄り添って座って、脇息の上にお経を置いて、とても大儀そうに読経している尼君は、普通の人とは見えない。
 四十過ぎくらいで、とても色白で上品で、痩せてはいるが、頬はふっくらとして、目もとのぐあいや、髪がきれいに切り揃えられている端も、かえって長いのよりも、この上なく新鮮な感じだなあ、と感心して御覧になる。
 
47  清げなる大人二人ばかり、さて童女ぞ出で入り遊ぶ。
 中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに、似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。
 髪は扇を広げたるやうに、ゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
 
 小綺麗な女房が二人ほど、他には童女が出たり入ったりして遊んでいる。
 その中に、十歳くらいかと見えて、白い袿の上に、山吹襲などの、糊気の落ちた表着を着て、駆けてきた女の子は、大勢見えた子供とは比べものにならず、たいそう将来性が見えて、かわいらしげな顔だちである。
 髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔はとても赤く手でこすって立っている。
 
48  〔尼君〕「何ごとぞや。
 童女と腹立ちたまへるか」
 〔尼君〕「どうしたのですか。
 童女とけんかをなさったのですか」
49  とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。
 
 と言って、尼君が見上げた顔に、少し似ているところがあるので、「その子どもなのだろう」と御覧になる。
 
50  〔紫君〕「雀の子を犬君が逃がしつる。
 伏籠のうちに、籠めたりつるものを(校訂05)」
 〔紫君〕「雀の子を、犬君が、逃がしちゃったの。
 伏籠の中に、閉じ籠めておいたのに」
51  とて、いと口惜しと思へり。
 このゐたる大人、
 と言って、とても残念がっている。
 そこに座っていた女房が、
52  〔少納言乳母〕「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。
 いづ方へかまかりぬる。
 いとをかしう、やうやうなりつるものを。
 烏などもこそ見つくれ」
 〔少納言乳母〕「いつもの、うっかり者が、そのようなことをして、責められるとは、ほんと困ったことね。
 どの方向へ飛んで行ってしまいましたか。
 とてもかわいらしく、だんだんなってきましたものを。
 烏などが見つけたら大変だわ」
53  とて、立ちて行く。
 髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。
 少納言の乳母とそ、人言ふめるは、この子の後見なるべし。
 
 と言って、立って行く。
 髪はゆったりととても長く、見苦しくない女のようである。
 少納言の乳母と、皆が呼んでいるらしい人は、この子のご後見役なのだろう。
 
54  尼君、  尼君が、
55  「いで、あな幼や。
 言ふかひなうものしたまふかな。
 おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。
 罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。
 
 「何とまあ、幼いことよ。
 聞き分けもなくいらっしゃることね。
 わたしが、このように、今日明日にも思われる寿命を、何ともお考えにならず、雀を追いかけていらっしゃることよ。
 罪を得ることですよと、いつも申し上げていますのに、情けなく」と言って、「こちらへ、いらっしゃい」と言うと、ちょこんと座った。
 
56  つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。
 「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。
 さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるゝなりけり」と、思ふにも涙ぞ落つる。
 
 顔つきがとてもかわいらしげで、眉のあたりがほんのりとして、子供っぽく掻き上げた額つきや、髪の生え際は、大変にかわいらしい。
 「成長して行くさまが楽しみな人だなあ」と、お目がとまりなさる。
 それと言うのも、「限りなく心を尽くし申し上げている方に、とてもよく似ているので、目が引きつけられるのだ」と、思うにつけても涙が落ちる。
 
57  尼君、髪をかき撫でつつ、  尼君が、髪をかき撫でながら、
58  〔尼君〕「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。
 いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。
 かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。
 故姫君は、十ばかりにて、殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしかし。
 ただ今、おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」
 〔尼君〕「梳くことをお嫌がりになるが、美しい御髪ですね。
 とても子供っぽくいらっしゃることが、かわいそうで心配です。
 これくらいの年になれば、とてもこんなでない人もありますものを。
 亡くなった母君は、十歳程で父殿に先立たれなさった時、たいそう物事の分別を弁えていらっしゃいましたよ。
 この今、わたしがお残し申して逝ってしまったら、どのように暮らして行かれるおつもりなのでしょう」
59  とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。
 幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。
 
 と言って、たいそう泣くのを御覧になると、何ということもなく悲しい。
 子供心にも、やはりじっと見つめて、伏し目になってうつむいているところに、こぼれかかった髪が、つやつやとして素晴らしく見える。
 
 

45
 〔尼君〕
 「生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を
 おくらす露ぞ 消えむそらなき」
 〔尼君〕
「これからどこでどう育って行くのかも分からない若草のようなあなたを
  残してゆく露のようにはかないわたしは死ぬに死ねない思いです」
 
60  またゐたる大人、「げに」と、うち泣きて、  もう一人の座っている女房が、「本当に」と、涙ぐんで、
 

46
 〔少納言乳母〕
 「初草の 生ひ行く末も 知らぬまに
 いかでか露の 消えむとすらむ」
 〔少納言乳母〕
「初草のように若い姫君のご成長も御覧にならないうちに
 どうして尼君様は先立たれるようなことをお考えになるのでしょう」
 
61  と聞こゆるほどに、僧都、あなたより来て、  と申し上げているところに、僧都が、あちらから来て、
62  〔僧都〕「こなたはあらはにやはべらむ。
 今日しも、端におはしましけるかな。
 この上の聖の方に、源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまうけるを、ただ今なむ、聞きつけはべる。
 いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもまでざりける」とのたまへば、
 〔僧都〕「ここは人目につくのではないでしょうか。
 今日に限って、端近にいらっしゃいますね。
 この上の聖の坊に、源氏中将が瘧病の加持にいらっしゃったのを、たった今、聞きつけました。
 ひどくお忍びでいらっしゃったので、存じませんで、ここにおりながら、お見舞いにも上がりませんでした」とおっしゃると、
63  「あないみじや。
 いとあやしきさまを、人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。
 
 「まあ大変。
 とても見苦しい様子を、誰か見たでしょうかしら」と言って、簾を下ろしてしまった。
 
64  〔僧都〕「この世に、ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに、見たてまつりたまはむや。
 世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる、人の御ありさまなり。
 いで、御消息聞こえむ」
 〔僧都〕「世間で、大評判でいらっしゃる光源氏を、この機会に、拝見なさいませんか。
 俗世を捨てた法師の気持ちにも、たいそう世俗の憂えを忘れ、寿命が延びる、ご様子の方です。
 どれ、ご挨拶を申し上げよう」
65  とて、立つ音すれば、帰りたまひぬ。
 
 と言って、立ち上がる音がするので、お帰りになった。
 
 
 

第四段 若紫の君の素性を聞く

 
66  〔源氏〕「あはれなる人を見つるかな。
 かかれば、この好き者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。
 たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」と、をかしう思す。
 「さても、いとうつくしかりつる稚児かな。
 何人ならむ。
 かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。
 
 〔源氏〕「しみじみと心惹かれる人を見たなあ。
 これだから、この好色な連中は、このような忍び歩きばかりをして、よく意外な人を見つけるのだな。
 まれに外出しただけでも、このように思いがけないことに出会うことよ」と、興味深くお思いになる。
 「それにしても、とてもかわいかった少女であるよ。
 どのような人であろう。
 あのお方の代わりとして、毎日の慰めに見たいものだ」という考えが、強く起こった。
 
67  うち臥したまへるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。
 ほどなき所なれば、君もやがて聞きたまふ。
 
 横になっていらっしゃると、僧都のお弟子が、惟光を呼び出させる。
 狭い所なので、源氏の君もそのままお聞きになる。
 
68  〔僧都〕「過りおはしましけるよし、ただ今なむ、人申すに、おどろきながら、さぶらべきを、なにがしこの寺に籠もりはべりとは、しろしめしながら、忍びさせたまへるを、憂はしく思ひたまへてなむ。
 草の御むしろも、この坊にこそ、設けはべるべけれ。
 いと本意なきこと」と申したまへり。
 
 〔僧都〕「お立ち寄りあそばしていらっしゃることを、たった今、人が申したので、聞いてすぐに、ご挨拶に伺うべきところを、拙僧がこの寺におりますことを、ご存知でいらっしゃりながらも、お忍びでいらしていることを、お恨みに存じまして。
 旅のお宿も、拙僧の坊でお支度致しますべきでしたのに。
 残念至極なことです」と申し上げなさった。
 
69  〔源氏〕「いぬる十余日のほどより、瘧病にわづらひはべるを、度重なりて、堪へがたく(校訂06)はべりつれば、人の教へのままに、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうやうなる人の験あらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりは、いとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。
 今、そなたにも」とのたまへり。
 
 〔源氏〕「去る十何日のころから、瘧病を患っておりましたが、度重なって我慢できませんので、人の勧めに従って、急遽訪ねて参りましたが、このような方が効験を現さない時は、世間体の悪いことになるにちがいないのも、普通の人の場合以上に、お気の毒と遠慮致しまして、ごく内密に参ったのです。
 今、そちらへも」とおっしゃった。
 
70  すなはち、僧都参りたまへり。
 法師なれど、いと心恥づかしく、人柄もやむごとなく、世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまを、はしたなう思す。
 かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて、〔僧都〕「同じ柴の庵なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、せちに聞こえたまへば、かの、まだ見ぬ人びとに、ことことしう言ひ聞かせつるを、つつましう思せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて、おはしぬ。
 
 折り返し、僧都が参上なさった。
 法師であるが、とても気がおけて、人品も重々しく、世間からもご信頼されていらっしゃる方なので、軽々しいお姿を、きまり悪くお思いになる。
 このように山籠りしていらっしゃる間のお話などを申し上げなさって、〔僧都〕「同じ草庵ですが、少し涼しい遣水の流れも御覧に入れましょう」と、熱心にお勧め申し上げなさるので、あの、まだ自分を見ていない人々に、大げさに吹聴していたのを、気恥ずかしくお思いになるが、かわいらしかった有様も気になって、おいでになった。
 
71  げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなしたまへり。
 月もなきころなれば、遣水に篝火ともし、灯籠などにも参りたり。
 南面いと清げにしつらひたまへり。
 そらだきもの、いと心にくく薫り出で、名香の香など匂ひみちたるに、君の御追風、いとことなれば、内の人びとも心づかひすべかめり。
 
 なるほど、とても格別に風流を凝らして、同じ木や草も格別に植えていらっしゃった。
 月もないころなので、遣水に篝火を照らし、灯籠などにも火を灯してある。
 南面はとてもこざっぱりと整えていらっしゃる。
 空薫物が、たいそう奥ゆかしく薫って来て、名香の香などが、匂い満ちているところに、源氏の君のおん追い風が、とても格別なので、奥の人々も気を使っている様子である。
 
72  僧都、世の常なき御物語、後の世のことなど聞こえ知らせたまふ。
 我が罪のほど恐ろしう、「あぢきなきことに心をしめて、生ける限り、これを思ひ悩むべきなめり。
 まして後の世のいみじかべき」。
 思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影、心にかかりて恋しければ、
 僧都は、この世の無常のお話や、来世の話などを説いてお聞かせ申し上げなさる。
 ご自分の罪障の深さが恐ろしく、「どうにもならないほど酷いことに心を奪われて、一生涯、このことを思い悩み続けなければならないようだ。
 まして来世は大変なことになるにちがいない……」。
 と、お考え続けて、このような出家生活もしたいと思われる一方では、昼間の面影が、心にかかって恋しいので、
73  〔源氏〕「ここにものしたまふは、誰れにか。
 尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな。
 今日なむ、思ひあはせつる」
 〔源氏〕「ここにおいでの方は、どなたですか。
 お尋ね申したい夢を拝見しましたよ。
 今日、思い当たりました」
74  と聞こえたまへば、うち笑ひて、  と申し上げなさると、にっこり笑って、
75  〔僧都〕「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。
 尋ねさせたまひても、御心劣りせさせたまひぬべし。
 故按察使大納言は、世になくて久しくなりはべりぬれば、えしろしめさじかし。
 その北の方なむ、なにがしが(校訂07)妹にはべる。
 かの按察使かくれて後、世を背きてはべるが、このごろ、わづらふことはべるにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠もりてものしはべるなり」と聞こえたまふ。
 
 〔僧都〕「唐突な夢のお話というものでございますな。
 お知りあそばされても、きっとがっかりあそばされることでございましょう。
 故按察使大納言は、亡くなってから久しくなりましたので、ご存知ありますまい。
 その北の方が拙僧の妹でございます。
 あの按察使が亡くなって後、出家しておりましたが、最近、患うことがございましたため、こうして京にも出ずにおりますので、それを頼り所として山籠りしているのでございます」と申し上げなさる。
 
76  〔源氏〕「かの大納言の御女、ものしたまふと聞きたまへしは。
 好き好きしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」と、推しのたまへば、
 〔源氏〕「あの大納言のご息女が、おいでになると伺っておりましたのは。
 好色めいた気持ちからではなく、真面目に申し上げるのです」と、当て推量におっしゃると、
77  〔僧都〕「女ただ一人はべりし。
 亡せて、この十余年にやなりはべりぬらむ。
 故大納言、内裏にたてまつらむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくもものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君、一人もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵部卿宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、本の北の方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、亡くなりはべりにし。
 物思ひに病づくものと、目に近く見たまへし」
 〔僧都〕「娘がただ一人おりました。
 亡くなって、ここ十何年になりましょうか。
 故大納言は、入内させようなどと、大変大切に育てていましたが、その本願のようにもなりませず、亡くなってしまいましたので、ただこの尼君が、一人で苦労して育てておりましたうちに、誰が手引をしたものか、兵部卿宮が、こっそり通って来られるようになったのですが、本妻の北の方が、ご身分の高い人であったりして、気苦労が多くて、明け暮れ物思いに悩んで、亡くなってしまいました。
 物思いから病気になるものだと、目の当たりに拝見致しました次第です」
78  など申したまふ。
 「さらば、その子なりけり」と思しあはせつ。
 「親王の御筋にて、かの人にもかよひきこえたるにや」と、いとどあはれに見まほし。
 「人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のままに教へ生ほし立てて見ばや」と思す。
 
 などとお申し上げなさる。
 「それでは、その人の子であったのだ」とご理解なさった。
 「親王のお血筋なので、あのお方にもお似通い申しているのであろうか」と、ますます心惹かれて世話をしたい。
 「人柄も上品でかわいらしくて、なまじの小ざかしいところもなく、一緒に暮らして、自分の理想通りに育ててみたいものよ」とお思いになる。
 
79  〔源氏〕「いとあはれにものしたまふことかな。
 それは、とどめたまふ形見もなきか」
 〔源氏〕「とてもお気の毒なことでいらっしゃいますね。
 その方には、後に遺して行かれた人はいないのですか」
80  と、幼かりつる行方の、なほ確かに知らまほしくて、問ひたまへば、  と、幼なかった子の素性が、もっとはっきりと知りたくて、お尋ねになると、
81  〔僧都〕「亡くなりはべりしほどにこそ、はべりしか。
 それも、女にてぞ。
 それにつけて物思ひのもよほしになむ、齢の末に、思ひたまへ嘆きはべるめる」と聞こえたまふ。
 
 〔僧都〕「亡くなりますころに、生まれました。
 それも、女の子で。
 それにつけても心配の種として、余命少ない年に、思い悩んでおりますようでございます」と申し上げなさる。
 
82  「さればよ」と思さる。
 
 〔源氏〕「やはりそうであったか」とお思いになる。
 
83  〔源氏〕「あやしきことなれど、幼き御後見に思すべく、聞こえたまひてむや。
 思ふ心ありて、行きかかづらふ方もはべりながら、世に心の染まぬにやあらむ、独り住みにてのみなむ。
 まだ似げなきほどと、常の人に思しなずらへて、はしたなくや」などのたまへば、
 〔源氏〕「変な話ですが、その少女のご後見とお思い下さるよう、お話し申し上げていただけませんか。
 考えるところがあって、通い関わっています所もありますが、本当にしっくりいかないのでしょうか、独り暮らしばかりしています。
 まだ不似合いな年頃だと、世間並の男同様にお考えになっては、体裁が悪いね」などとおっしゃると、
84  〔僧都〕「いとうれしかるべき仰せ言(校訂08)なるを、まだむげにいはきなきほどにはべるめれば、たはぶれにても、御覧じがたくや。
 そもそも、女は、人にもてなされて、大人にもなりたまふものななれば、詳しくはえとり申さず、かの祖母に語らひはべりて、聞こえさせむ」
 〔僧都〕「たいそう嬉しいはずの仰せ言ですが、まだいっこうに幼い年頃のようでございますので、ご冗談にも、お世話なさるのは難しいのでは。
 もっとも、女というものは、人に世話されて一人前にもおなりになるものですから、事こまかには申し上げられませんが、あの祖母に相談しまして、お返事申し上げさせましょう」
85  と、すくよかに言ひて、ものごはきさましたまへれば、若き御心に、恥づかしくて、えよくも聞こえたまはず。
 
 と、無愛想に言って、こわごわとした感じでいらっしゃるので、若いお心では恥ずかしくて、上手にお話し申し上げられない。
 
86  〔僧都〕「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。
 初夜、いまだ勤めはべらず。
 過ぐしてさぶらはむ」とて、上りたまひぬ。
 
 〔僧都〕「阿弥陀仏のおいでになるお堂で、勤行のございます時刻です。
 初夜のお勤めを、まだ致しておりません。
 済ませて参りましょう」と言って、お上りになった。
 
87  君は、心地もいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。
 すこしねぶたげなる経の、絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所からものあはれなり。
 まして、思しめぐらすこと多くて、まどろまれたまはず。
 初夜と言ひしかども、夜もいたう更けにけり。
 内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠の脇息に引き鳴らさるる音、ほの聞こえ、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中を、すこし引き開けて、扇を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。
 すこし退きて、
 源氏の君は、気分もとても悩ましいところに、雨が少し降りそそいで、山風が冷やかに吹いてきて、滝壺の水嵩も増して、音が大きく聞こえる。
 少し眠そうな読経が、途絶え途絶えにぞっとするように聞こえるなども、何でもない人も、場所柄しんみりとした気持ちになる。
 まして、いろいろとお考えになることが多くて、お眠りになれない。
 初夜と言ったが、夜もたいそう更けてしまった。
 奥でも、人々の寝ていない様子がよく分かって、とても密かにしているが、数珠の脇息に触れて鳴る音が、かすかに聞こえ、ものやさしくそよめく衣ずれの音を、上品だとお聞きになって、広くなく近いので、外側に立てめぐらしてある屏風の中を、少し引き開けて、扇を打ち鳴らしなさると、意外な気がするようだが、聞こえないふりもできようかと、いざり出て来る人がいるようだ。
 少し後戻りして、
88  「あやし、ひが耳にや」とたどるを、聞きたまひて、  〔少納言乳母〕「おかしいわ、聞き違いかしら」と不審がっているのを、お聞きになって、
89  〔源氏〕「仏の御しるべは、暗きに入りても(奥入02・自筆本奥入02)、さらに違ふまじかなるものを」  〔源氏〕「仏のお導きは、暗い中に入っても、決して間違うはずはありませんが」
90  とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声づかひも、恥づかしけれど、  とおっしゃるお声が、とても若く上品なので、お返事する声づかいも、気がひけるが、
91  〔少納言乳母〕「いかなる方の、御しるべにかは。
 おぼつかなく」と聞こゆ。
 
 〔少納言乳母〕「どのお方への、ご案内でしょうか。
 分かりかねますが」と申し上げる。
 
92  〔源氏〕「げに、うちつけなりとおぼめきたまはむも、道理なれど、  〔源氏〕「なるほど、唐突なことだとご不審になるのも、ごもっともですが、
 

47
 初草の 若葉の上を 見つるより
 旅寝の袖も 露ぞ乾かぬ
  初草のごときうら若き少女を見てからは
  わたしの旅寝の袖は恋しさの涙の露ですっかり濡れております
 
93  と聞こえたまひてむや」とのたまふ。
 
 と申し上げて下さいませんか」とおっしゃる。
 
94  〔少納言乳母〕「さらに、かうやうの御消息、うけたまはりわくべき人も、ものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを。
 誰れにかは」と聞こゆ。
 
 〔少納言乳母〕「まったく、このようなお言葉を、頂戴して分かるはずの人もいらっしゃらない有様は、ご存知でいらっしゃりそうなのに。
 どなたに」と申し上げる。
 
95  〔源氏〕「おのづからさるやうありて聞こゆるならむと思ひなしたまへかし」  〔源氏〕「自然と、しかるべきわけがあって申し上げているのだろうとお考え下さい」
96  とのたまへば、入りて聞こゆ。
 
 とおっしゃるので、奥に行って申し上げる。
 
97  〔尼君〕「あな、今めかし。
 この君や、世づいたるほどにおはするとぞ、思すらむ。
 さるにては、かの『若草』を、いかで聞いたまへることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなれば、情けなしとて、
 〔尼君〕「まあ、華やいだことを。
 この姫君を、年頃でいらっしゃると、お思いなのだろうか。
 それにしては、あの『若草を』と詠んだのを、どうしてご存知でいらっしゃることか」と、あれこれと不思議なので、困惑して、遅くなっては、失礼になると思って、
 

48
 〔尼君〕
 「枕結ふ 今宵ばかりの 露けさを
 深山の苔に 比べざらなむ
 〔尼君〕
「今晩だけの旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって
 深山に住むわたしたちのことを引き合いに出さないでくださいまし
 
98  乾がたうはべるものを」と聞こえたまふ。
 
 乾きそうにございませんのに」とご返歌申し上げなさる。
 
99  〔源氏〕「かうやうの(校訂09)つて(校訂10)なる御消息は、まださらに聞こえ知らず、ならはぬことになむ。
 かたじけなくとも、かかるついでに、まめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれば、尼君、
 〔源氏〕「このような取次を介してのご挨拶は、まだまったく致したことがなく、初めてのことです。
 恐縮ですが、このような機会に、真面目にお話させていただきたいことがあります」と申し上げなさると、尼君は、
100  〔尼君〕「ひがこと聞きたまへるならむ(校訂11)。
 いとむつかしき御けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、
 〔尼君〕「聞き違いをなさっていらっしゃるのでしょう。
 まことに立派なお方に、どのようなことをお返事申せましょう」とおっしゃると、
101  〔女房〕「はしたなうもこそ思せ」と人びと聞こゆ。
 
 「きまりの悪い思いをおさせになってはいけません」と、女房たちが申し上げる。
 
102  〔尼君〕「げに、若やかなる人こそ、うたてもあらめ。
 まめやかにのたまふ、かたじけなし」
 〔尼君〕「なるほど、若い人なら、嫌なことでしょうが、真面目におっしゃっているのは、恐れ多い」
103  とて、ゐざり寄りたまへり。
 
 と言って、いざり寄りなさった。
 
104  〔源氏〕「うちつけに、あさはかなりと、御覧ぜられぬべきついでなれど、心には、さもおぼえはべらねば。
 仏はおのづから」
 〔源氏〕「突然で、軽薄な振る舞いと、きっとお思いになられるにちがいないような場合ですが、わたし自身にはそのように思われませんので。
 仏はもとよりお見通しで」
105  とて、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出でたまはず。
 
 と言ったが、落ち着いていて、気の置ける様子に気後れして、すぐにはお切り出しになれない。
 
106  〔尼君〕「げに、思ひたまへ寄りがたきついでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、いかが」とのたまふ。
 
 〔尼君〕「おっしゃるとおり、思い寄りも致しませぬ機会に、こうまでおっしゃっていただいたり、お話させていただけますのも、どうして浅い縁と申せましょう」とおっしゃる。
 
107  〔源氏〕「あはれにうけたまはる御ありさまを、かの過ぎたまひにけむ御かはりに、思しないてむや。
 言ふかひなきほどの齢にて、むつましかるべき人にも、立ち後れはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ、重ねはべれ。
 同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへと、いと聞こえまほしきを、かかる折、はべりがたくてなむ、思されむところをも憚らず、うち出ではべりぬる」と聞こえたまへば、
 〔源氏〕「お気の毒な身の上と承りましたご境遇を、あのお亡くなりになった方のお代わりと、わたしをお思いになって下さいませんか。
 わたしも幼いころに、かわいがってくれるはずの母親に、先立たれましたので、妙に頼りない有様で、年月を送っております。
 同じような境遇でいらっしゃるというので、お仲間にしていただきたいと、心から申し上げたいのですが、このような機会は、めったにございませんので、どうお思いになられるかもかまわずに、申し出たのでございます」と申し上げなさると、
108  〔尼君〕「いとうれしう思ひたまへぬべきことながら(校訂12)も、聞こしめしひがめたることなどやはべらむと、つつましうなむ。
 あやしき身一つを、頼もし人にする人なむはべれど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じ許さるる方も、はべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」とのたまふ。
 
 〔尼君〕「とても嬉しく存じられるはずのお言葉ですが、お聞き違えていらっしゃることがございませんでしょうかと、遠慮されるのです。
 年寄一人を、頼りにしている孫がございますが、とてもまだ幼い年頃で、大目に見てもらえるところもございませんようなので、お承りおくこともできないのでございます」とおっしゃる。
 
109  〔源氏〕「みな、おぼつかなからずうけたまはるものを、所狭う思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを、御覧ぜよ」  〔源氏〕「すべて、はっきりと承知致しておりますから、窮屈にご遠慮なさらず、深く思っております格別な心のほどを、御覧下さいませ」
110  と聞こえたまへど、「いと似げなきことを、さも知らでのたまふ」と思して、心解けたる御答へもなし。
 僧都おはしぬれば、
 と申し上げなさるが、「まだとても不似合いなことを、そうとも知らないでおっしゃる」とお思いになって、打ち解けたご返事もない。
 僧都がお戻りになったので、
111  〔源氏〕「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。
 
 〔源氏〕「それでは、このように申し出ましたので、もう心丈夫です」と言って、屏風をお閉てになった。
 
112  暁方になりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり。
 
 暁方になったので、法華三昧を勤めるお堂の懺法の声が、山下ろしの風に乗って聞こえて来るのが、とても尊く、滝の音に響き合っていた。
 
 

49
 〔源氏〕
 「吹きまよふ 深山おろしに 夢さめて
 涙もよほす 滝の音かな」
 〔源氏〕
「深山おろしの懺法の声に煩悩の夢が覚めて
 感涙を催す滝の音であることよ」
 

50
 〔僧都〕
 「さしぐみに 袖ぬらしける 山水に
 澄める心は 騒ぎやはする
 〔僧都〕
「不意に来られてお袖を濡らされたという山の水に
 心を澄まして住んでいるわたしは驚きません
 
113  耳馴れはべりにけりや」と聞こえたまふ。  耳慣れてしまったからでしょうか」と申し上げなさる。
 
 

第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京

 
114  明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。
 名も知らぬ木草の花ども、いろいろに散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも紛れ果てぬ。
 
 明けて行く空は、とてもたいそう霞んで、山の鳥たちがどこかしことなく囀り合っている。
 名も知らない木や草の花々が、色とりどりに散り混じり、錦を敷いたと見える所に、鹿があちこちと立ち止まったり歩いたりしているのも、珍しく御覧になると、気分の悪いのもすっかり忘れてしまった。
 
115  聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。
 かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。
 
 聖は、身動きも不自由だが、やっとのことで護身法をして差し上げなさる。
 しわがれた声で、とてもひどく歯の間から洩れて聞きにくいのも、しみじみと年功を積んだようで、陀羅尼を誦していた。
 
116  御迎への人びと参りて、おこたりたまへる喜び聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。
 僧都、見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで堀り出で、いとなみきこえたまふ。
 
 お迎えの人々が参って、ご回復されたお祝いを申し上げ、帝からもお見舞いがある。
 僧都は、見慣れないような果物を、あれこれと、谷の底からまでも取り出して、ご接待申し上げなさる。
 
117  〔僧都〕「今年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじきこと。
 なかなかにも思ひたまへらるべきかな」
 〔僧都〕「今年いっぱいの誓いが固うございまして、お見送りに参上できませぬ次第。
 かえって残念に存じられてなりません」
118  など聞こえたまひて、大御酒参りたまふ。
 
 などと申し上げなさって、お酒を差し上げなさる。
 
119  〔源氏〕「山水に心とまりはべりぬれど、内裏よりもおぼつかながらせたまへるも、かしこければなむ。
 今、この花の折過ぐさず参り来む。
 
 〔源氏〕「山や谷川に心惹かれましたが、帝にご心配あそばされますのも、恐れ多いことですので。
 そのうち、この花の時期を過ごさずに参りましょう。
 
 

51
 宮人に 行きて語らむ 山桜
 風よりさきに 来ても見るべく」
 大宮人に帰って話して聞かせましょう、この山桜の美しいことを
 風の吹き散らす前に来て見るようにと」
 
120  とのたまふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、  とおっしゃる態度や、声づかいまでが、眩しいくらい立派なので、
 

52
 〔僧都〕
 「優曇華の 花待ち得たる 心地して
 深山桜に 目こそ移らね」
 〔僧都〕
「三千年に一度咲くという優曇華の花の
 咲くのにめぐり逢ったような気がして、深山桜には目も移りません」
 
121  と聞こえたまへば、ほほゑみて、〔源氏〕「時ありて、一度開くなるは、かたかなるものを」とのたまふ。
 
 と申し上げなさると、君は微笑みなさって、〔源氏〕「その時節に至って、一度咲くというのは、難しいものですのに」とおっしゃる。
 
122  聖、御土器賜ひて、  聖は、お杯を頂戴して、
 

53
 〔聖〕
 「奥山の 松のとぼそを まれに開けて
 まだ見ぬ花の 顔を見るかな」
 〔聖〕
「奥山の松の扉を珍しく開けましたところ
 まだ見たこともない花のごとく美しいお顔を拝見致しました」
 
123  と、うち泣きて見たてまつる。
 聖、御まもりに、独鈷たてまつる。
 見たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。
 
 と、ちょっと感涙に咽んで君を拝し上げる。
 聖は、ご守護に、独鈷を差し上げる。
 それを御覧になって、僧都は、聖徳太子が百済から得られた金剛子の数珠で、玉の飾りが付いているのを、そのままその国から入れてあった箱で、唐風なのを、透かし編みの袋に入れて、五葉の松の枝に付けて、紺瑠璃の壺々に、お薬類を入れて、藤や桜などに付けて、場所柄に相応しいお贈物類を、捧げて差し上げなさる。
 
124  君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。
 
 源氏の君は、聖をはじめとして、読経をした法師へのお布施類や、用意の品々を、いろいろと京へ取りにやっていたので、その近辺の樵人にまで、相応の品物をお与えになり、御誦経の布施をしてお出立になる。
 
125  内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねびきこえたまへど、  室内に僧都はお入りになって、あの君が申し上げなさったことを、そのままお伝え申し上げなさるが、
126  〔尼君〕「ともかくも、ただ今は、聞こえむかたなし。
 もし、御志あらば、いま四、五年を過ぐしてこそは、ともかくも」とのたまへば、「さなむ」と同じさまにのみあるを、本意なしと思す。
 
 〔尼君〕「何ともこうとも、今すぐには、お返事の申し上げようがありません。
 もし、君にお気持ちがあるならば、もう四、五年たってから、ともかくも」とおっしゃるので、「しかじか」と同じようにばかりあるのを、つまらないとお思いになる。
 
127  御消息、僧都のもとなる小さき童して、  お手紙は、僧都のもとに仕える小さい童にことづけて、
 

54
 〔源氏〕
 「夕まぐれ ほのかに花の 色を見て
 今朝は霞の 立ちぞわづらふ」
 〔源氏〕
「昨日の夕暮時にわずかに美しい花を見ましたので
 今朝は霞の空に立ち去りがたい気がします」
 
128  御返し、  お返事、
 

55
 〔尼君〕
 「まことにや 花のあたりは 立ち憂きと
 霞むる空の 気色をも見む」
 〔尼君〕
「本当に花の辺りを立ち去りにくいのでしょうか
 そのようなことをおっしゃるお気持ちを見たいものです」
 
129  と、よしある手の、いとあてなるを、うち捨て書いたまへり。
 
 と、教養ある筆跡で、とても気品のある書を、無造作にお書きになっている。
 
130  御車にたてまつるほど、大殿より、「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。
 頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、
 お車にお乗りになるころに、左大臣邸から、「どちらへ行くともおっしゃらなくて、お出かけあそばしてしまったこと」と言って、お迎えの供人、ご子息たちなどが大勢参上なさった。
 頭中将、左中弁、その他のご子息もお慕い申して、
131  〔頭中将〕「かうやう(校訂14)の御供は、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましく、おくらせたまへること」と恨みきこえて、「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、立ち帰り(校訂15)はべらむは、飽かぬわざかな」とのたまふ。
 
 〔頭中将〕「このようなお供には、お仕え申しましょうと、存じておりましたのに、あまりにも、お置き去りあそばして」とお怨み申して、「とても美しい桜の花の下に、しばしの間も足を止めずに、引き返しますのは、もの足りない気がしますね」とおっしゃる。
 
132  岩隠れの苔の上に並みゐて、土器参る。
 落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。
 頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。
 弁の君、扇、はかなううち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや(奥入03・自筆本奥入03)」と歌ふ。
 人よりは異なる君達を、源氏の君、いといたううち悩みて、岩に(校訂16)寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。
 例の、篳篥吹く随身、笙の笛持たせたる好き者などあり。
 
 岩蔭の苔の上に並び座って、お杯事を差し上げる。
 落ちて来る水の様子など、風情のある滝のほとりである。
 頭中将は、懐にしていた横笛を取り出して、吹き澄ましている。
 弁の君は、扇を軽く打ち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と謡う。
 普通の人よりは優れた公達であるが、源氏の君の、とても苦しそうにして、岩に寄り掛かっておいでになるのは、またとなく不吉なまでに美しいご様子に、他の何人にも目移りしそうにないのであった。
 いつものように、篳篥を吹く随身や、笙の笛を持たせている風流人などもいる。
 
133  僧都、琴をみづから持て参りて、  僧都は、七絃琴を自分で持って参って、
134  〔僧都〕「これ、ただ御手一つあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」  〔僧都〕「これで、ちょっとひと弾きあそばして、同じことなら、山の鳥をも驚かしてやりましょう」
135  と切に聞こえたまへば、  と熱心にご所望申し上げなさるので、
136  〔源氏〕「乱り心地、いと堪へがたきものを」と聞こえたまへど、け憎からずかき鳴らして、皆立ちたまひぬ。
 
 〔源氏〕「気分が悪いので、とてもできませんのに」とお答え申されるが、ことに無愛想にはならない程度に琴を掻き鳴らして、一行はお立ちになった。
 
137  飽かず口惜しと、言ふかひなき法師、童べも、涙を落としあへり。
 まして、内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、「この世のものともおぼえたまはず」と聞こえあへり。
 僧都も、
 名残惜しく残念だと、取るに足りない法師や、童子たちも、涙を落とし合っていた。
 彼ら以上に、室内では、年老いた尼君たちなどは、まだこのようにお美しい方の姿を見たことがなかったので、「この世の人とは思われなさらない」とお噂申し上げ合っていた。
 僧都も、
138  〔僧都〕「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日の本の末の世に生まれたまへらむと見るに、いとなむ悲しき」とて、目おしのごひたまふ。
 
 〔僧都〕「ああ、どのような因縁で、このような美しいお姿でもって、まことにむさ苦しい日本国の末世にお生まれになったのであろうと思うと、まことに悲しい」と言って、目を押し拭いなさる。
 
139  この若君、幼な心地に、「めでたき人かな」と見たまひて、  この若君は、子供心に、「素晴らしい人だわ」と御覧になって、
140  〔紫君〕「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。
 
 〔紫君〕「父宮のお姿よりも、優れていらっしゃいますわ」などとおっしゃる。
 
141  〔少納言乳母〕「さらば、かの人の御子になりて、おはしませよ」  〔少納言乳母〕「それでは、あの方のお子様におなりあそばせな」
142  と聞こゆれば、うちうなづきて、「いとようありなむ」と思したり。
 雛遊びにも、絵描いたまふにも、「源氏の君」と作り出でて、きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。
 と申し上げると、こっくりと頷いて、「とてもすてきなことだわ」とお思いになっている。
 お人形遊びにも、お絵描きなさるにも、「源氏の君」と作り出して、美しい衣装を着せ、お世話なさる。
 
 

第六段 内裏と左大臣邸に参る

 
143  君は、まづ内裏に参りたまひて、日ごろの御物語など聞こえたまふ。
 「いといたう衰へにけり」とて、ゆゆしと思し召したり。
 聖の尊かりけることなど、問はせたまふ。
 詳しく奏したまへば、
 源氏の君は、まず内裏に参内なさって、ここ数日来のお話などを申し上げなさる。
 「とてもひどくお痩せになってしまったものよ」とおっしゃって、ご心配あそばした。
 聖の霊験あらたかであったことなどを、お尋ねあそばす。
 詳しく奏上なさると、
144  〔帝〕「阿闍梨などにもなるべき者にこそあなれ。
 行ひの労は積もりて、朝廷にしろしめされざりけること」と、労たがりのたまはせけり。
 
 〔帝〕「阿闍梨などにも任ぜられてもよい人であったのだな。
 修行の功績は大きいのに、朝廷からは知られておられなかったことよ」と、大事にして上げたく仰せられるのであった。
 
145  大殿、参りあひたまひて、  大殿が、参内なさっておられて、
146  〔左大臣〕「御迎へにもと、思ひたまへつれど、忍びたる御歩きに、いかがと思ひ憚りてなむ。
 のどやかに一、二日うち休みたまへ」とて、「やがて、御送り仕うまつらむ」と申したまへば、さしも思さねど、引かされてまかでたまふ。
 
 〔左大臣〕「お迎えにもと、存じておりましたが、お忍びのご外出なので、どんなものかと遠慮して。
 のんびりと、一、二日、お休みなさい」と言って、「このまま、お供致しましょう」と申し上げなさるので、そうしたいとはお思いにならないが、連れられてご退出なさる。
 
147  我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りて、たてまつれり。
 もてかしづききこえたまへる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。
 
 ご自分のお車にお乗せ申し上げなさって、自分は遠慮して下に乗り、お席をお譲りになった。
 大切にお世話申し上げなさるお気持ちの有り難いことを、やはり申し訳なく思われるのであった。
 
148  殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しく見たまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをととのへたまへり。
 
 大殿邸でも、おいであそばすだろうとご用意なさって、久しくお見えにならなかった間に、ますます玉の台のように磨き上げ飾り立て、用意万端ご準備なさっていた。
 
149  女君、例の、はひ隠れて、とみにも出でたまはぬを、大臣、切に聞こえたまひて、からうして渡りたまへり。
 ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、し据ゑられて、うちみじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへば、思ふこともうちかすめ、山路の物語をも聞こえむ、言ふかひありて、をかしういらへたまはばこそ、あはれならめ、世には心も解けず、うとく恥づかしきものに思して、年のかさなるに添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく(校訂17)、思はずに、
 女君は、例によって、物蔭に隠れて、すぐには出ていらっしゃらないのを、父大臣が、強くご催促申し上げなさって、やっと出ていらっしゃった。
 まるで絵に描いた姫君のように、かしずき座らされて、ちょっと身体をお動かしになることも難しく、きちんと行儀よく座っていらっしゃるので、心の中の思いを話したり、北山行きの話をもお聞かせしたりするにも、話のしがいがあって、興味をもってお返事をなさって下さろうものなら、情愛もわこうが、まったく少しも打ち解けず、源氏の君をよそよそしく気づまりな相手だとお思いになって、年月を重ねるにつれて、お気持ちの隔たりが増さるのを、とても辛く、心外なので、
150  〔源氏〕「時々は、世の常なる御気色を見ばや。
 堪へがたうわづらひはべりしをも、いかがとだに、問うたまはぬこそ、めづらしからぬことなれど、なほうらめしう」
 〔源氏〕「時々は、世間並みの妻らしいご様子を見たいですね。
 私がひどく苦しんでおりました時にも、せめてどうですかとだけでも、お見舞い下さらないのは、今に始まったことではありませんが、やはり残念で」
151  と聞こえたまふ。
 からうして、
 と申し上げなさる。
 ようやくのことで、
152  〔葵上〕「問はぬは、つらきもの(自筆本奥入04・付箋④)にやあらむ」  〔葵上〕「『尋ねないのは、辛いものなの』でしょうか」
153  と、後目に見おこせたまへるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御容貌なり。
 
 と、流し目に御覧になっている目もとは、とても気後れがしそうで、気品高くかわいらしげなご容貌である。
 
154  〔源氏〕「まれまれは、あさましの御ことや。
 訪はぬ、など言ふ際は、異にこそはべるなれ。
 心憂くも、のたまひなすかな。
 世とともにはしたなき御もてなしを、もし、思し直る折もやと、とざまかうさまに試みきこゆるほど、いとど思し疎むなめりかし。
 よしや、命だに(自筆本奥入05・付箋⑤)」
 〔源氏〕「たまさかにおっしゃるかと思えば、心外なお言葉ですね。
 『訪ねない』、などという間柄は、他人が使う言葉でございましょう。
 嫌なふうにおっしゃいますね。
 いつまでたっても変わらない体裁の悪い思いをさせるお振る舞いを、もしや、お考え直しになるときもあろうかと、あれやこれやとお試し申しているうちに、ますますお疎んじなられたようですね。
 仕方ない、『長生きさえしたら』」
155  とて、夜の御座に入りたまひぬ。
 女君、ふとも入りたまはず。
 聞こえわづらひたまひて、うち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること多かり。
 
 と言って、夜のご寝所にお入りになった。
 女君は、すぐにもお入りにならず、お誘い申しあぐねなさって、溜息をつきながら横になっていらっしゃるものの、何となくおもしろくないのであろうか、眠そうなふりをなさって、あれやこれやと夫婦仲を思い悩まれることが多かった。
 
156  この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを、〔源氏〕「似げないほどと思へりしも、道理ぞかし。
 言ひ寄りがたきことにもあるかな。
 いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて、明け暮れの慰めに見む。
 兵部卿宮は、いとあてになまめい(校訂18)たまへれど、匂ひやかになどもあらぬを、いかで、かの一族におぼえたまふらむ。
 ひとつ后腹なればにや(校訂19)」など思す。
 ゆかりいとむつましきに、いかでかと、深うおぼゆ。
 この若草の君が成長していく間がやはり気にかかるので、〔源氏〕「まだ相応しくない年頃と思っているのも、もっともだ。
 申し込みにくいものだなあ。
 何とか手段を講じて、ほんの気楽に、迎え取って、毎日の慰めとして一緒に暮らしたい。
 父兵部卿宮は、とても上品で優美でいらっしゃるが、つややかなお美しさはないのに、どうして、あの一族に似ていらっしゃるのだろう。
 同じお后様からのお生まれだからであろうか」などとお考えになる。
 血縁がとても親しく感じられて、何とかしてと、深く思われる。
 
 

第七段 北山へ手紙を贈る

 
157  またの日、御文たてまつれたまへり。
 僧都にほのめかしたまふべし。
 尼上には、
 翌日、お手紙を差し上げなさった。
 僧都にもそれとなくお書きになったのであろう。
 尼上には、
158  〔源氏〕「もて離れたりし御気色のつつましさに、思ひたまふるさまをも、えあらはし果てはべらずなりにしをなむ。
 かばかり聞こゆるにても、おしなべたらぬ志のほどを御覧じ知らば、いかにうれしう」
 〔源氏〕「取り合って下さらなかったご様子に気がひけますので、思っておりますことをも、十分に申せずじまいになりましたことを。
 これほどに申し上げておりますことにつけても、並々ならぬ気持ちのほどを、お察しいただけましたら、どんなに嬉しいことでしょうか」
159  などあり。
 中に、小さく引き結びて、
 などと書いてある。
 その中に、小さく結んで、
 

56
 〔源氏〕
 「面影は 身をも離れず 山桜
 心の限り とめて来しかど
 〔源氏〕
「あなたの山桜のように美しい面影はわたしの身から離れません
 心のすべてをそちらに置いて来たのですが
 
160  夜の間の風も、うしろめたくなむ」  『夜の間に吹く風が心配で』と思われまして」
161  とあり。
 御手などはさるものにて、ただはかなうおし包みたまへるさまも、さだすぎたる御目どもには、目もあやにこのましう見ゆ。
 
 と書いてある。
 ご筆跡などはさすがに素晴らしくて、ほんの無造作にお包みになった様子も、年配の人々のお目には、眩しいほどに好ましく見える。
 
162  〔尼君〕「あな、かたはらいたや。
 いかが聞こえむ」と、思しわづらふ。
 
 〔尼君〕「まあ、困ったこと。
 どのようにお返事申し上げましょう」と、お困りになる。
 
163  〔尼君〕「ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせむかたなくなむ。
 まだ「難波津」をだに、はかばかしう続けはべらざめれば、かひなくなむ。
 さても、
 〔尼君〕「行きがかりのお話は、ご冗談ごとと存じられましたが、わざわざお手紙を頂戴いたしましたのに、お返事の申し上げようがなくて。
 まだ『難波津』をさえ、満足に書き続けませんようなので、お話になりません。
 それにしても、
 

57
 嵐吹く 尾の上の 桜散らぬ間を
 心とめける ほどのはかなさ
 激しい山風が吹いて散ってしまう峰の桜に
 その散る前にお気持ちを寄せられたような頼りなさに思われます
 
164  いとどうしろめたう」  ますます気がかりでございまして」
165  とあり。
 僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二、三日ありて、惟光をぞたてまつれたまふ。
 
 とある。
 僧都のお返事も同じようなので、残念に思って、二、三日たって、惟光を差し向けなさる。
 
166  〔源氏〕「少納言の乳母と言ふ人あべし。
 尋ねて、詳しう語らへ」などのたまひ知らす。
 「さも、かからぬ隈なき御心かな。
 さばかりいはけなげなりしけはひを」と、まほならねども、見しほどを思ひやるもをかし。
 
 〔源氏〕「少納言の乳母という人がいるはずだ。
 その人を尋ねて、詳しく相談せよ」などとお言い含めなさる。
 「何とも、どのようなことにもご関心を寄せられる好き心だなあ。
 あれほど子供じみた様子であったのに」と、はっきりとではないが、少女を見た時のことを思い出すとおかしい。
 
167  わざと、かう御文あるを、僧都もかしこまり聞こえたまふ。
 少納言に消息して会ひたり。
 詳しく、思しのたまふさま、おほかたの御ありさまなど語る。
 言葉多かる人にて、つきづきしう言ひ続くれど、「いとわりなき御ほどを、いかに思すにか」と、ゆゆしうなむ、誰も誰も思しける。
 
 わざわざ、このようにお手紙があるので、僧都も恐縮の由を申し上げなさる。
 少納言の乳母に申し入れて面会した。
 詳しく、君のお考えになっておっしゃっるご様子や、日頃のご様子などを話す。
 多弁な人なので、もっともらしくいろいろ話し続けるが、「とても無理なお年なのに、どのようにお考えなのか」と、大変心配なことと、どなたもどなたもお思いになるのであった。
 
168  御文にも、いとねむごろに書いたまひて、例の、中に、「かの御放ち書きなむ、なほ見たまへまほしき」とて、  お手紙にも、とても心こめてお書きになって、例によって、その中に、「あの一字一字にお書きなのを、やはり拝見したいのです」とあって、
 

58
 〔源氏〕
 「あさか山 浅くも人を 思はぬに
 など山の井の かけ離るらむ」
 〔源氏〕
「浅香山のように浅い気持ちで思っているのではないのに
 どうして山の井に影が宿らないようにわたしからかけ離れていらっしゃるのでしょう」
 
169  御返し、  お返事は、
 

59
 〔尼君〕
 「汲み初めて くやしと聞きし 山の井の
 浅きながらや 影を見るべき」
 〔尼君〕
「うっかり薄情な人と契りを結んで後悔したと聞きました浅い山の井のような
 浅いお心のままではどうして孫娘を差し上げられましょう」
 
170  惟光も同じことを聞こゆ。
 
 惟光も同じ趣旨のご報告を申し上げる。
 
171  〔少納言乳母〕「このわづらひたまふこと、よろしくは、このごろ過ぐして、京の殿に渡りたまてなむ、聞こえさすべき」とあるを、心もとなう思す。
 
 〔少納言乳母〕「尼君のご病気が多少回復したら、しばらくここで過ごして、京のお邸にお帰りになってから、改めてお返事を申し上げましょう」とあるのを、待ち遠しくお思いになる。
 
 
 

第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語

 
 

第一段 夏四月の短夜の密通事件

 
172  藤壺の宮、悩みたまふことありて、まかでたまへり。
 主上の、おぼつかながり、嘆ききこえたまふ御気色も、いといとほしう見たてまつりながら、かかる折だにと、心もあくがれ惑ひて、何処にも何処にも、まうでたまはず、内裏にても里にても、昼はつれづれと眺め暮らして、暮るれば、王命婦を責め歩きたまふ。
 
 藤壺の宮に、ご不例の事があって、ご退出された。
 主上が、お気をもまれ、ご心配申し上げていらっしゃるご様子も、まことにおいたわしく拝見しながらも、せめてこのような機会にもと、魂も浮かれ出て、どこにもかしこにもお出かけにならず、内裏にいても里邸にいても、昼間は所在なくぼうっと物思いに沈んで、夕暮れになると、王命婦にあれこれとおせがみになる。
 
173  いかがはたばかりけむ、いとわりなくて、見たてまつるほどさへ、現とはおぼえぬぞ、わびしきや。
 宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむと深う思したるに、いと憂くて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させたまはぬを、「などか、なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ」と、つらうさへぞ思さるる。
 何ごとをかは聞こえ尽くしたまはむ。
 くらぶの山に宿りも(奥入04・自筆本奥入06、13)取らまほしげなれど、あやにくなる短か夜にて、あさましう、なかなかなり。
 
 どのように手引したのだろうか、とても無理算段して、お逢い申している間さえ、現実とは思われないのは、辛いことであるよ。
 宮も、思いもしなかった出来事をお思い出しになるだけでも、生涯忘れることのできないお悩みの種なので、せめてそれきりで終わりにしたいと深く決心されていたのに、とても情けなくて、ひどく辛そうなご様子でありながらも、優しくいじらしくて、そうかといって馴れ馴れしくはなく、奥ゆかしく気品のある御物腰などが、やはり普通の女人とは違っていらっしゃるのを、「どうして、わずかの欠点すら少しも混じっていらっしゃらなかったのだろう」と、辛くまで思わずにはいらっしゃれない。
 どのようなことをお話し申し上げきれようか。
 鞍馬の山に泊まりたいところだが、あいにくの短か夜なので、情けなく、かえって辛い逢瀬である。
 
 

60
 〔源氏〕
 「見てもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに
 やがて紛るる 我が身ともがな」
 〔源氏〕
「お逢いしても再び逢うことの難しい夢のようなこの世なので
 夢の中にそのまま消えてしまいとうございます」
 
174  と、むせかへりたまふ(校訂20)さまも、さすがにいみじければ、  と、涙にひどくむせんでいられるご様子も、何と言ってもお気の毒なので、
 

61
 〔藤壺〕
 「世語りに 人や伝へむ たぐひなく
 憂き身を覚めぬ 夢になしても」
 〔藤壺〕
「世間の語り草として語り伝えるのではないでしょうか、
 この上なく辛い身の上を覚めることのない夢の中のこととしても」
 
175  思し乱れたるさまも、いと道理にかたじけなし。
 命婦の君ぞ、御直衣などは、かき集め持て来たる。
 
 お悩みになっている様子も、まことに道理で恐れ多い。
 命婦の君が、お直衣などは、取り集めて持って来たが……。
 
176  殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ。
 御文なども、例の、御覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらも、つらういみじう思しほれて、内裏へも参らで、二、三日籠もりおはすれば、また、「いかなるにか」と、御心動かせたまふべかめるも、恐ろしうのみおぼえたまふ。
 
 お邸にお帰りになって、泣き臥してお過ごしになった。
 お手紙なども、例によって、御覧にならない旨ばかりなので、いつものことながらも、全く茫然自失とされて、内裏にも参内せず、二、三日閉じ籠もっていらっしゃるので、「また、どうかしたのだろうか」と、ご心配あそばされるにちがいないようなのも、恐ろしいばかりに思われなさる。
 
 
 

第二段 妊娠三月となる

 
177  宮も、なほいと心憂き身なりけりと、思し嘆くに、悩ましさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使、しきれど、思しも立たず。
 
 藤壺宮も、やはり実に情けないわが身であったと、お嘆きになると、ご気分の悪さもお加わりになって、早く参内なさるようにとの御勅使が、しきりに来るが、ご決心もつかない。
 
178  まことに、御心地、例のやうにもおはしまさぬは、いかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心憂く、「いかならむ」とのみ思し乱る。
 
 本当に、ご気分が、普段のようにおいであそばさないのは、どうしたことかと、密かにお思い当たることもあったので、情けなく、「どうなることだろうか」とばかりお悩みになる。
 
179  暑きほどは、いとど起きも上がりたまはず。
 三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人びと見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど、心憂し。
 人は思ひ寄らぬことなれば、「この月まで、奏せさせたまはざりけること」と、驚ききこゆ。
 我が御心一つには、しるう思しわくこともありけり。
 
 暑いころは、ますます起き上がりもなさらない。
 三か月におなりになると、とてもよく分かるようになって、女房たちもそれとお気付き申すにつけ、思いもかけないご宿縁のほどが、恨めしい。
 他の人たちは、思いもよらないことなので、「この月まで、ご奏上あそばされなかったこと」と、意外なことにお思い申し上げる。
 ご自身一人には、はっきりとお分かりになる節もあるのであった。
 
180  御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何事の御気色をも、しるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらねば、なほ逃れがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。
 
 お湯殿などにも身近にお仕え申し上げて、どのようなご様子もはっきり存じ上げている、おん乳母子の弁や、命婦などは、変だと思うが、お互いに話題にすべきことではないので、やはり逃れられなかったご運命を、命婦は驚きあきれたことと思う。
 
181  内裏には、御物の怪の紛れにて、とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。
 見る人もさのみ思ひけり。
 いとどあはれに限りなう思されて、御使などの隙なきも、そら恐ろしう、ものを思すこと、隙なし。
 
 帝に対しては、おん物の怪のせいで、すぐにはご兆候がなくあそばしたように奏上したのであろう。
 周囲の人もそうとばかり思っていた。
 ますますこの上なく愛しくお思いあそばして、御勅使などがひっきりなしにあるにつけても、空恐ろしく、物思いの休まる時もない。
 
182  中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、合はする者を召して、問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり。
 
 源氏中将の君も、ただごとではない異様な夢を御覧になって、夢解きをする者を召して、お尋ねさせなさると、及びもつかないような思いもかけない方面のことを判断したのであった。
 
183  〔占者〕「その中に、違ひ目ありて、慎しませたまふべきことなむはべる」  〔占者〕「その中に、順調に行かないところがあって、お身を慎みあそばさなければならないことがございます」
184  と言ふに、わづらはしくおぼえて、  と言うので、面倒に思われて、
185  〔源氏〕「みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり。
 この夢合ふまで、また人にまねぶな」
 〔源氏〕「自分の夢ではない、他の方の夢を申すのだ。
 この夢が現実となるまで、誰にも話してはならぬ」
186  とのたまひて、心のうちには、「いかなることならむ」と思しわたるに、この女宮の御こと聞きたまひて、「もしさるやうもや」と、思し合はせたまふに、いとどしく(校訂21)いみじき言の葉尽くしきこえたまへど、命婦も思ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたばかるべきかたなし。
 はかなき一行の御返りのたまさかなりしも、絶え果てにたり。
 
 とおっしゃって、心中では、「どのようなことなのだろう」とお考えめぐらしていると、この女宮のご懐妊のことをお聞きになって、「あの夢はもしやそのようなことか」と、お考え合わせになると、ますます熱心に言葉のあらん限りを尽くして申し上げなさるが、命婦も考えると、まことに恐ろしく、難儀な気持ちが増してきて、まったく逢瀬を手立てする方法がない。
 ほんの一行のお返事がまれにはあったのも、すっかり絶えはててしまった。
 
 
 

第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る

 
187  七月になりてぞ、参りたまひける。
 めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほど限りなし。
 すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ、面痩せたまへる、はた、げに似るものなくめでたし。
 
 七月になって、宮は参内なさった。
 喜ばしい事で感動深くて、以前にも増す御寵愛ぶりはこの上もない。
 少しふっくらとおなりになって、ちょっと悩ましげに、面痩せしていらっしゃるのは、それはそれでまた、なるほど比類なく素晴らしい。
 
188  例の、明け暮れ、こなたにのみおはしまして、御遊びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君も暇なく召しまつはしつつ、御琴、笛など、さまざまに仕うまつらせたまふ。
 いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づる折々、宮も、さすがなる事どもを多く思し続けけり。
 
 例によって、明け暮れ、帝はこちらにばかりお出ましになって、管弦の御遊もだんだん興の乗る季節なので、源氏の君も暇のないくらいお側にたびたびお召しになって、お琴や、笛など、いろいろと君にご下命あそばす。
 つとめてお隠しになっているが、我慢できない気持ちが外に現れ出てしまう折々は、藤壺宮も、さすがに忘れられない事どもをあれこれとお思い悩み続けていらっしゃるのであった。
 
 
 

第三章 紫上の物語(2)  若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語

 
 
 

第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る

 
189  かの山寺の人は、よろしくなりて出でたまひにけり。
 京の住処尋ねて、時々の御消息などあり。
 同じさまにのみあるも道理なるうちに、この月ごろは、ありしにまさる物思ひに、異事なくて過ぎゆく。
 
 あの山寺の人は、少しよくなって下山なされたのであった。
 京のお住まいを尋ねて、時々お手紙などがある。
 同じような返事ばかりであるのももっともであるが、ここ何か月は、以前にも増す物思いによって、他の事を思う間もなくて過ぎて行く。
 
190  秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。
 月のをかしき夜、忍びたる所に、からうして思ひ立ちたまへるを、時雨めいてうちそそく。
 おはする所は、六条京極わたりにて、内裏よりなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の木立、いともの古りて、木暗く見えたるあり。
 例の御供に離れぬ惟光なむ、
 秋の終わりころ、とても物寂しくてお嘆きになる。
 月の美しい夜に、お忍びの家に、やっとのことでお思い立ちになると、時雨めいてさっと降りそそぐ。
 おいでになる先は、六条京極辺りで、内裏からなので、少し遠い感じがしていると、荒れた邸で木立がとても年代を経て鬱蒼と見えるのがある。
 いつものお供を欠かさない惟光が、
191  〔惟光〕「故按察使大納言の家にはべり。
 一日、もののたよりに、とぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひにたれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」と聞こゆれば、
 〔惟光〕「故按察大納言の家でございます。
 先日、ちょっとしたついでに、立ち寄りましたところ、あの尼上は、ひどくご衰弱されていらっしゃるので、どうして良いか分からないでいる、と申しておりました」と申し上げると、
192  〔源氏〕「あはれのことや。
 とぶらふべかりけるを。
 などか、さなむとものせざりし。
 入りて消息せよ」
 〔源氏〕「お気の毒なことよ。
 お見舞いすべきであったのに。
 どうして、そうと教えなかったのか。
 入って行って、挨拶をせよ」
193  とのたまへば、人入れて案内せさす。
 わざとかう立ち寄りたまへることと、言はせたれば、入りて、
 とおっしゃるので、惟光は供人を入れて案内を乞わせる。
 わざわざこのようにお立ち寄りになった旨を言わせたので、入って行って、
194  〔供人〕「かく、御とぶらひになむ、おはしましたる」と言ふに、おどろきて、  〔供人〕「このように、殿がお見舞いにいらっしゃいました」と言うと、驚いて、
195  〔女房〕「いとかたはらいたきことかな。
 この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ」
 〔女房〕「とても困ったことですわ。
 ここ数日、ひどくご衰弱あそばされましたので、お目にかかることなどはとてもできそうにありません」
196  と言へども、帰したてまつらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて、入れたてまつる。
 
 とは言っても、お帰し申すのも恐れ多いということで、南の廂の間を片づけて、お入れ申し上げる。
 
197  〔女房〕「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。
 ゆくりなう、もの深き御座所になむ」
 〔女房〕「たいそうむさ苦しい所でございますが、せめてお礼だけでもとのことで。
 何の用意もなく、鬱陶しいご座所で恐縮です」
198  と聞こゆ。
 げに、かかる所は、例に違ひて思さる。
 
 と申し上げる。
 なるほどこのような所は、普通とは違っているとお思いになる。
 
199  〔源氏〕「常に思ひたまへ立ちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりてなむ。
 悩ませたまふこと、重くとも、うけたまはらざりけるおぼつかなさ」など聞こえたまふ。
 
 〔源氏〕「常にお見舞いにと存じながら、すげないお返事ばかりあそばされますので、遠慮いたされまして。
 ご病気でいらっしゃることが、重いこととも存じませんでしたもどかしさを」などと申し上げなさる。
 
200  〔尼君〕「乱り心地は、いつともなくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじけなく、立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。
 のたまはすることの筋、たまさかにも思し召し変はらぬやうはべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならず数まへさせたまへ。
 いみじう心細げに見たまへ置くなむ、願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき」など聞こえたまへり。
 
 〔尼君〕「気分のすぐれませんことは、いつも変わらずでございますが、いよいよの際となりまして、まことにもったいなくも、お立ち寄りいただきましたのに、自分自身でお礼申し上げられませんことが……。
 仰せられますお話の旨は、万一にもお気持ちが変わらないようでございましたら、このような頑是ない時期が過ぎましてから、きっとお目をかけて下さいませ。
 ひどく頼りない身の上のまま残して逝きますのが、願っております仏道の妨げに存ぜずにはいられません」などと、申し上げなさった。
 
201  いと近ければ、心細げなる御声、絶え絶え聞こえて、  すぐに近いところなので、不安そうなお声が途切れ途切れに聞こえて、
202  〔尼君〕「いと、かたじけなきわざにもはべるかな。
 この君だに、かしこまりも聞こえたまつべき(校訂22)ほどならましかば」
 〔尼君〕「まことに、もったいないことでございます。
 せめてこの姫君が、お礼を申し上げなされるお年でありましたならよいのに」
203  とのたまふ。
 あはれに聞きたまひて、
 とおっしゃる。
 しみじみとお聞きになって、
204  〔源氏〕「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、かう好き好きしきさまを、見えたてまつらむ。
 いかなる契りにか、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あやしきまで、この世のことにはおぼえはべらぬ」などのたまひて、「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声、いかで」とのたまへば、
 〔源氏〕「どうして、浅く思っております気持ちから、このような好色めいた態度をお見せ申し上げましょうか。
 どのような前世からの因縁によってか、初めてお目にかかった時から、愛しくお思い申しているのも、不思議なまでに、この世の縁だけとは思われません」などとおっしゃって、「いつも甲斐ない思いばかりしていますので、あのかわいらしくいらっしゃるお一声を、ぜひとも」とおっしゃると、
205  〔女房〕「いでや、よろづ思し知らぬさまに、大殿籠もり入りて」  〔女房〕「いやはや、何もご存知ないさまで、ぐっすりお眠りになっていらっしゃって」
206  など聞こゆる折しも、あなたより来る音して、  などと申し上げている、ちょうどその時、あちらの方からやって来る足音がして、
207  〔紫君〕「上こそ、この寺にありし源氏の君こそ、おはしたなれ。
 など、見たまはぬ」
 〔紫君〕「祖母上さま、先日の寺にいらした源氏の君さまが、いらっしゃっているそうですね。
 どうして、お会いさらないの」
208  とのたまふを、人びと、いとかたはらいたしと思ひて、「あなかま」と聞こゆ。
 
 とおっしゃるのを、女房たちは、とても具合悪く思って、「お静かに」と、お制止申し上げる。
 
209  〔紫君〕「いさ、『見しかば、心地の悪しさ、なぐさみき』と、のたまひしかばぞかし」  〔紫君〕「あら、だって、『会ったら気分の悪いのも良くなった』とおっしゃったからよ」
210  と、かしこきこと聞こえたりと、思してのたまふ。
 
 と、利口なことを申し上げたとお思いになっておっしゃる。
 
211  いとをかしと聞いたまへど、人びとの苦しと思ひたれば、聞かぬやうにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえ置きたまひて、帰りたまひぬ。
 〔源氏〕「げに、言ふかひなのけはひや。
 さりとも、いとよう教へてむ」と思す。
 
 とてもおもしろいとお聞きになるが、女房たちが困っているので、聞かないようにして、行き届いたお見舞いを申しおかれて、お帰りになった。
 〔源氏〕「なるほど、まるで子供っぽいご様子だ。
 けれども、よく教育しよう」とお思いになる。
 
212  またの日も、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。
 例の、小さくて、
 翌日も、とても誠実なお見舞いを差し上げなさる。
 いつものように、小さく結んで、
 

62
 〔源氏〕
 「いはけなき 鶴の一声 聞きしより
 葦間になづむ 舟ぞえならぬ
 〔源氏〕
「かわいい鶴の一声を聞いてから
 葦の間を行き悩む舟はただならぬ思いをしています
 
213  同じ人にや(奥入05・自筆本奥入07)」  『同じ人を慕い続けている』わたしです」
214  と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、「やがて御手本に」と、人びと聞こゆ。
 少納言ぞ聞こえたる。
 
 と、殊更にかわいらしくお書きになっているのも、たいそう見事なので、「そのままお手本に」と、女房たちは申し上げる。
 少納言の乳母がお返事申し上げた。
 
215  〔少納言乳母〕「問はせたまへるは、今日をも過ぐしがたげなるさまにて、山寺にまかりわたるほどにて。
 かう問はせたまへるかしこまりは、この世ならでも、聞こえさせむ」
 〔少納言乳母〕「お見舞いいただきました方は、今日一日も危いような容体なので、山寺に移るところでございまして。
 このようなお見舞いをいただきましたお礼は、あの世からでも、お返事をさせていただきましょう」
216  とあり。
 いとあはれと思す。
 
 とある。
 とてもお気の毒に、とお思いになる。
 
217  秋の夕べは、まして、心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて、あながちなるゆかりも尋ねまほしき心まさりたまふなるべし。
 「消えむ空なき」とありし夕べ思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむと、さすがにあやふし。
 秋の夕暮れは、常にも増して、心の休まる間もなく、恋い焦がれているお方のことに思いが集中して、無理にでもその方のゆかりの人を尋ね取りたい気持ちもお募りなさるのであろう。
 尼君が「死にきれない」と詠んだ夕暮れを自然とお思い出しになられて、恋しく思っても、また、実際に逢ってみたら見劣りがしないだろうかと、やはり不安である。
 

63
 〔源氏〕
 「手に摘みて いつしかも見む 紫の
 根にかよひける 野辺の若草」
 〔源氏〕
「手に摘んで早く見たいものだ
 紫草にゆかりのある野辺の若草を」
 
 

第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々

 
218  十月に朱雀院の行幸あるべし。
 舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなども、その方につきづきしきは、みな選らせたまへれば、親王達、大臣よりはじめて、とりどりの才ども習ひたまふ、いとまなし。
 
 神無月に朱雀院への行幸が予定されている。
 舞人などを、高貴な家柄のご子息や、上達部、殿上人たちなどの、その方面で相応しい人々は、皆お選びあそばされたので、親王たちや、大臣をはじめとして、それぞれ伎芸を練習をなさる、その暇がない。
 
219  山里人にも、久しく訪れたまはざりけるを、思し出でて、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返り事のみあり(校訂23)。
 
 山里の人にも、久しくご無沙汰なさっていたのを、お思い出しになって、わざわざお遣わしになったところ、僧都の返事だけがある。
 
220  〔僧都〕「立ちぬる月の二十日のほどになむ、つひに空しく見たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」  〔僧都〕「先月の二十日ごろに、とうとうご臨終をお見届けいたしまして、人の世の宿命だが、悲しく存じられます」
221  などあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、「うしろめたげに思へりし人もいかならむ。
 幼きほどに、恋ひやすらむ。
 故御息所に後れたてまつりし」など、はかばかしからねど、思ひ出でて、浅からずとぶらひたまへり。
 少納言、ゆゑなからず御返りなど聞こえたり。
 
 などとあるのを御覧になると、世の中の無常をしみじみと思われて、「心配していた人もどうしているだろう。
 子供心にも、尼君を恋い慕っているだろうか。
 わたしも亡き母御息所に先立たれた頃には……」などと、はっきりとではないが、思い出して、丁重にお弔いなさった。
 少納言の乳母が、心得のあるご返礼などを申し上げた。
 
222  「忌みなど過ぎて京の殿になむ」と聞きたまへば、ほど経て、みづから、のどかなる夜おはしたり。
 いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人恐ろしからむと見ゆ。
 例の所に入れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞こえ続くるに、あいなう、御袖もただならず。
 
 「忌みなどが明けて京の邸に戻られた」と、お聞きになったので、暫くしてから、ご自身で、のんびりとした夜にお出かけになった。
 まことにぞっとするくらい荒れた所で、人気も少ないので、どんなに小さい子には怖いことだろうと思われる。
 いつもの所にお通し申して、少納言の乳母が、ご臨終の有様などを、漏らし泣きしながらお話申し上げると、他人事ながら、お袖も涙でつい濡れる。
 
223  〔少納言乳母〕「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、〔尼君〕『故姫君の、いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに稚児ならぬ齢の、まだはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、あなづらはしき人にてや、交じりたまはむ』など、過ぎたまひぬるも、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」と聞こゆ。
 
 〔少納言乳母〕「父兵部卿宮邸にお引き取り申し上げようとの事でございますようですが、〔尼君〕『亡き姫君が、北の方をとても情愛のない嫌な人とお思い申していらしたのに、まったく子供というほどでもないお年頃で、まだ、しっかりと人の意向を聞き分けることもおできになれない、中途半端なお年頃で、大勢いらっしゃるという中で、軽んじられる子として、お過ごしになるのではないか』などと、お亡くなりになった尼上も、始終ご心配されていらしたこと、明白なことが多くございましたので、このようにもったいないかりそめのお言葉は、後々のご配慮までもご推察申さずに、とても嬉しく存ぜずにはいられない時ではございますが、全く相応しい年頃でいらっしゃらないし、お年のわりには幼くていらっしゃいますので、とても見ていられない状態でございます」と申し上げる。
 
224  〔源氏〕「何か、かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを、つつみたまふらむ。
 その言ふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、心ながら思ひ知られける。
 なほ、人伝てならで、聞こえ知らせばや。
 
 〔源氏〕「どうして、このように繰り返して申し上げている気持ちを、気兼ねなさるのでしょう。
 その幼いお考えの様子が、かわいく愛しくお見えになるのも、宿縁が特別なものと、わたしの心には自然と思われてくるのです。
 やはり、人を介してではなく、直接お伝え申し上げたい。
 
 

64
  〔源氏〕
 あしわかの 浦に(自筆本奥入11・付箋⑥)みるめは かたくとも
 こは立ちながら かへる波(校訂24)かは
  〔源氏〕
 若君にお目にかかることは難しかろうとも
 和歌の浦の波のようにこのまま立ち帰ることはしません
 
225  めざましからむ」とのたまへば、  失礼でしょう」とおっしゃると、
226  〔少納言乳母〕「げにこそ、いとかしこけれ」とて、  〔少納言乳母〕「なるほど、恐れ多いこと」と言って、
 

65
 〔少納言乳母〕
 「寄る波の 心も知らで わかの浦に
 玉藻なびかむ ほどぞ浮きたる
 〔少納言乳母〕
「和歌の浦に寄せる波に身を任せる玉藻のように
 相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです
 
227  わりなきこと」  困りますこと」
228  と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。
 「なぞ恋ひざらむ(奥入06・08・自筆本奥入08、12)」と、うち誦じたまへるを、身にしみて若き人びと思へり。
 
 と申し上げる態度がもの馴れているので、すこし大目に見る気になられる。
 「どうして恋わずにいられようか」と、口ずさみなさるのを、ぞくぞくして若い女房たちは感じ入っていた。
 
229  君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊び(校訂25)がたきどもの、  姫君は、祖母上をお慕い申されて泣き臥していらっしゃったが、お遊び相手たちが、
230  〔女童〕「直衣着たる(校訂26)人のおはする、宮のおはしますなめり」  〔女童〕「直衣を着ている方がいらっしゃってるのは、父宮さまがおいであそばしたのらしいわ」
231  と聞こゆれば、起き出でたまひて、  と申し上げると、起き出しなさって、
232  〔紫君〕「少納言よ。
 直衣着たりつらむは、いづら、宮のおはするか」
 〔紫君〕「少納言や。
 直衣を着ているという方は、どちらに、父宮がいらしたの」
233  とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。
 
 と言って、近づいて来るお声が、とてもかわいらしい。
 
234  〔源氏〕「宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず。
 こち」
 〔源氏〕「宮さまではありませんが、必ずしも関係ない人ではありません。
 こちらへ」
235  とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、悪しう言ひてけりと思して、乳母にさし寄りて、  とおっしゃると、あの素晴らしかったお方だと、子供心にも聞き分けて、まずいことを言ってしまったとお思いになって、乳母の側に寄って、
236  〔紫君〕「いざかし、ねぶたきに」とのたまへば、  〔紫君〕「ねえ、行きましょうよ。
 眠いから」とおっしゃるので、
237  〔源氏〕「今さらに、など忍びたまふらむ。
 この膝の上に大殿籠もれよ。
 今すこし寄りたまへ」
 〔源氏〕「今さら、どうして逃げ隠れなさるのでしょう。
 わたしの膝の上でお寝みなさいませ。
 もう少し近くへいらっしゃい」
238  とのたまへば、乳母の、  とおっしゃると、乳母が、
239  〔少納言乳母〕「さればこそ。
 かう世づかぬ御ほどにてなむ」
 〔少納言乳母〕「これですから。
 このようにまだ頑是ないお年頃でして」
240  とて、押し寄せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入れて、探りたまへれば、なよよかなる御衣に、髪はつやつやとかかりて、末のふさやかに、探りつけられたる、いとうつくしう思ひやらる。
 手をとらへたまへれば、うたて例ならぬ人の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、
 と言って、押しやり申したところ、無心にお座りになったので、几帳の中にお手を差し入れてお探りになると、柔らかなお召物の上に、髪がつやつやと掛かって、末の方までふさふさしているのが、とてもかわいらしく想像される。
 お手を捉えなさると、気味の悪いよその人が、このように近くにいらっしゃるのは、恐ろしくなって、
241  〔紫君〕「寝なむ、と言ふものを」  〔紫君〕「寝よう、と言っているのに」
242  とて、強ひて引き入りたまふにつきて、すべり入りて、  と言って、無理に奥に入って行きなさるのに後から付いて、御簾の内側にするすると入って、
243  〔源氏〕「今は、まろぞ思ふべき人。
 な疎みたまひそ」
 〔源氏〕「今は、わたしがお世話して上げる人ですよ。
 お嫌いにならないでね」
244  とのたまふ。
 乳母、
 とおっしゃる。
 乳母が、
245  〔少納言乳母〕「いで、あなうたてや。
 ゆゆしうもはべるかな。
 聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを」とて、苦しげに思ひたれば、
 〔少納言乳母〕「あら、まあ嫌でございますわ。
 あまりのなさりようでございますわ。
 いくらお話申し上げあそばしても、何の甲斐もございませんでしょうに」といって、つらそうに困っているので、
246  〔源氏〕「さりとも、かかる御ほどを、いかがはあらむ。
 なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほどを、見果てたまへ」とのたまふ。
 
 〔源氏〕「いくらなんでも、このようなお年の方を、どうしましようか。
 やはり、ただ世間に類ないほどのわたしの愛情を、お見届けください」とおっしゃる。
 
247  霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。
 
 霰が降り荒れて、恐ろしい夜の様子である。
 
248  〔源氏〕「いかで、かう人少なに心細うて、過ぐしたまふらむ」  〔源氏〕「どうして、このような少人数な所で、頼りなく過ごしていらっしゃれようか」
249  と、うち泣いたまひて、いと見棄てがたきほどなれば、  と思うと、ついお泣きになって、とても見捨てては帰りにくい有様なので、
250  〔源氏〕「御格子参りね。
 もの恐ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。
 人びと、近うさぶらはれよかし」
 〔源氏〕「御格子を下ろしなさい。
 何となく恐そうな夜の感じのようですから、宿直人となってお勤めしましょう。
 女房たち、近くに参りなさい」
251  とて、いと馴れ顔に御帳のうちに入りたまへば、あやしう思ひのほかにもと、あきれて、誰も誰もゐたり。
 乳母は、うしろめたなうわりなしと思へど、荒ましう聞こえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。
 
 と言って、とても物馴れた態度で御帳の内側にお入りになるので、奇妙な思いも寄らないことをと、あっけにとられて、一同茫然としている。
 乳母は、心配で困ったことだと思うが、事を荒立て申すべき場合でないので、嘆息しながら見守っていた。
 
252  若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばかりを押しくくみて、わが御心地も、かつはうたておぼえたまへど、あはれにうち語らひたまひて、  若君は、とても恐ろしく、どうなるのだろうと自然と震えて、とてもかわいらしいお肌も、ぞくぞくと粟立つ感じがなさるのを、源氏の君はいじらしく思われて、肌着だけで包み込んで、ご自分ながらも、一方では変なお気持ちがなさるが、しみじみとお話なさって、
253  〔源氏〕「いざ、たまへよ。
 をかしき絵など多く、雛遊びなどする所に」
 〔源氏〕「さあ、いらっしゃいよ。
 美しい絵などが多く、お人形遊びなどする所に」
254  と、心につくべきことをのたまふけはひの、いとなつかしきを、幼き心地にも、いといたう怖ぢず、さすがに、むつかしう(校訂27)寝も入らずおぼえて、身じろき臥したまへり。
 
 と、気に入りそうなことをおっしゃる様子が、とても優しいので、子供心にも、そう大して物怖じせず、とは言っても、気味悪くて眠れなく思われて、もじもじして横になっていらっしゃった。
 
255  夜一夜、風吹き荒るるに、  一晩中、風が吹き荒れているので、
256  〔女房〕「げに、かう、おはせざらましかば、いかに心細からまし」  〔女房〕「ほんとうに、このように、お越し下さらなかったら、どんなに心細かったことでしょう」
257  〔女房〕「同じくは、よろしきほどにおはしまさましかば」  〔女房〕「同じことなら、お似合いの年でおいであそばしたら、よかったものを」
258  とささめきあへり。
 乳母は、うしろめたさに、いと近うさぶらふ。
 風すこし吹きやみたるに、夜深う出でたまふも、ことあり顔なりや。
 
 とささやき合っている。
 少納言の乳母は、心配で、すぐ近くに控えている。
 風が少し吹き止んだので、夜の深いうちにお帰りになるのも、いかにもわけありそうな朝帰りであるよ。
 
259  〔源氏〕「いとあはれに見たてまつる御ありさまを、今はまして、片時の間もおぼつかなかるべし。
 明け暮れ眺めはべる所に、渡したてまつらむ。
 かくてのみは、いかが。
 もの怖ぢしたまはざりけり」とのたまへば、
 〔源氏〕「とてもお気の毒にお見受け致しましたご様子を、今では以前にもまして、片時の間も見なくては気がかりでならないでしょう。
 毎日物思いをして暮らしている所に、お迎え申し上げましょう。
 こうしてばかりいては、どんなものでしょうか。
 姫君はお恐がりにはならなかった」とおっしゃると、
260  〔少納言乳母〕「宮も御迎へになど、聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐしてや、など思うたまふる」と聞こゆれば、  〔少納言乳母〕「父宮もお迎えになどと、申していらっしゃるようですが、故尼君の四十九日忌が過ぎてからか、などと存じます」と申し上げると、
261  〔源氏〕「頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ、疎うおぼえたまはめ。
 今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしは、まさりぬべくなむ」
 〔源氏〕「頼りになる血筋ではあるが、ずっと別々に暮らして来られた方は、他人同様に、疎々しくお思いでしょう。
 今夜初めてお会いしたが、わたしの深い愛情は、父宮様以上でしょう」
262  とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて、出でたまひぬ。
 
 と言って、かき撫でかき撫でして、後髪を引かれる思いでお出になった。
 
263  いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。
 いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて、門うちたたかせたまへど、聞きつくる人なし。
 かひなくて、御供に声ある人して、歌はせたまふ。
 
 ひどく霧の立ちこめた空もいつもとは違った風情であるうえに、霜は真白に降りて、本当の恋であったら興趣あるはずなのに、何か物足りなく思っていらっしゃる。
 たいそう忍んでお通いになる方への道筋であったのをお思い出しになって、門を叩かせなさるが、聞きつける人もいない。
 しかたなくて、お供の中で声の良い者に歌わせなさる。
 
 

66
 〔源氏〕
 「朝ぼらけ 霧立つ空の まよひにも
 行き過ぎがたき 妹が門かな」
 〔源氏〕
「曙に霧が立ちこめた空模様につけても
 素通りし難い貴女の家の前ですね」
 
264  と、二返りばかり(校訂28)歌ひたるに、よしある下仕へを出だして、  と、二返ほど歌わせたところ、心得ある下仕え人を出して、
 

67
 〔女〕
「立ちとまり 霧のまがきの 過ぎうくは
 草のとざしに(自筆本奥入14・付箋⑧)さはりしもせじ」
 〔女〕
「霧の立ちこめた家の前を通り過ぎ難いとおっしゃるならば
 生い茂った草が門を閉ざしたことぐらい何でもないでしょうに」
 
265  と言ひかけて、入りぬ。
 また人も出で来ねば、帰るも情けなけれど、明けゆく空もはしたなくて、殿へおはしぬ。
 
 と詠みかけて、入ってしまった。
 他に誰も出て来ないので、帰るのも風情がないが、空が明るくなって行くのも体裁が悪いので、邸へお帰りになった。
 
266  をかしかりつる人のなごり恋しく、独り笑み(校訂29)しつつ臥したまへり。
 日高う大殿籠もり起きて、文やりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うち置きつつ、すさびゐたまへり。
 をかしき絵などをやりたまふ。
 
 かわいらしかった方の面影が恋しく、独り微笑みながらお臥せりになった。
 日が高くなってからお起きになって、手紙を書いておやりになる時、書くはずの言葉も普通と違うので、筆を書いては置き書いては置きと、気の向くままにお書きになっている。
 美しい絵などをお届けなさる。
 
267  かしこには、今日しも、宮わたりたまへり。
 年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なに寂しければ、見わたしたまひて、
 あちらでは、ちょうど今日、父宮がおいでになった。
 ここ数年来以上にすっかり荒れ行き、広く古めかしくなった邸が、ますます人数が少なくなって寂しいので、ぐるっと御覧になって、
268  〔兵部卿宮〕「かかる所には、いかでか、しばしも、幼き人の過ぐしたまはむ(校訂30)。
 なほ、かしこに渡したてまつりてむ。
 何の所狭きほどにもあらず。
 乳母は、曹司などして、さぶらひなむ。
 君は、若き人びとなどあれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ」などのたまふ。
 
 〔兵部卿宮〕「このような所には、どうして、少しの間でも、幼い子供がお過しになれよう。
 やはり、あちらにお引き取り申し上げよう。
 けっして窮屈な所ではない。
 乳母には、部屋をもらって、仕えればよい。
 姫君は、若い子たちがいるので、一緒に遊んで、とても仲良くやって行けよう」などとおっしゃる。
 
269  近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、「をかしの御匂ひや。
 御衣はいと萎えて」と、心苦しげに思いたり。
 
 近くにお呼び寄せになると、あの源氏の君のおん移り香が、たいそうよい匂いに深く染み着いていらっしゃるので、「いい匂いだ。
 お召し物はすっかりくたびれているが」と、お気の毒にお思いになった。
 
270  〔兵部卿宮〕「年ごろも、あつしく、さだ過ぎたまへる人に添ひたまへる。
 かしこにわたりて、見ならしたまへなど、ものせしを。
 あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを。
 かかる折にしも、ものしたまはむも、心苦しう」などのたまへば、
 〔兵部卿宮〕「これまでは、病気がちのお年寄と一緒においでになっていたが……。
 あちらに引っ越して、お馴染みなさいなどと、言っていましたのに。
 変にお疎んじなさって、妻もおもしろからぬようでいましたが。
 このような時に移って来られるのも、おかわいそうに」などとおっしゃると、
271  〔少納言乳母〕「何かは。
 心細くとも、しばしは、かくておはしましなむ。
 すこしものの心思し知りなむに、わたらせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。
 
 〔少納言乳母〕「いえどう致しまして。
 心細くても、今暫くはこうしておいであそばしましょう。
 もう少し物の道理がお分かりになりましたら、お移りあそばされることが、良うございましょう」と申し上げる。
 
272  〔少納言乳母〕「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものもきこしめさず」  〔少納言乳母〕「夜昼となくお慕い申し上げなさって、ちょっとした物もお召し上がりになりません」
273  とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ。
 
 と申して、なるほど、とてもひどく面痩せなさっているが、まことに上品でかわいらしく、かえって美しくお見えになる。
 
274  〔兵部卿宮〕「何か、さしも思す。
 今は、世に亡き人の御ことは、かひなし。
 おのれあれば」
 〔兵部卿宮〕「どうして、そんなにお悲しみなさる。
 今は、もうこの世にいない方のことは、しかたがありません。
 わたしがついているので」
275  など語らひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと思いて、泣いたまへば、宮、うち泣きたまひて、  などとお話申し上げなさって、日が暮れるとお帰りあそばすのを、とても心細いとお思いになって、お泣きになると、宮も、もらい泣きなさって、
276  〔兵部卿宮〕「いとかう、思ひな入りたまひそ。
 今日明日、渡したてまつらむ」など、返す返すこしらへおきて、出でたまひぬ。
 
 〔兵部卿宮〕「けっして、そんなにご心配なさるな。
 今日明日のうちに、お移し申そう」などと、繰り返しなだめすかして、お帰りになった。
 
277  なごりも慰めがたう泣きゐたまへり。
 行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ごろ、立ち離るる折なう、まつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず。
 昼は、さても紛らはしたまふを、夕暮となれば、いみじく屈したまへば、かくては、いかでか過ごしたまはむと、慰めわびて、乳母も泣きあへり。
 
 その後の寂しさも慰めようがなく泣き沈んでいらっしゃった。
 将来の身の上のことなどはお分りにならず、ただ長年、離れることなく一緒にいて、今はお亡くなりになってしまったと、お思いになるのが悲しくて、子供心であるが、胸がいっぱいにふさがって、いつものようにもお遊びはなさらない。
 昼間はどうにかお紛らわしになるが、夕暮時になると、ひどくおふさぎこみなさるので、これでは、どのようにお過ごしになられようかと、慰めあぐねて、乳母たちも一緒に泣いていた。
 
278  君の御もとよりは、惟光をたてまつれたまへり。
 
 源氏の君のお邸からは、惟光をお差し向けなさった。
 
279  〔源氏〕「参り来べきを、内裏より召あればなむ。
 心苦しう見たてまつりしも、しづ心なく」とて、宿直人たてまつれたまへり。
 
 〔源氏〕「私自身が参るべきところ、帝からお召しがありまして。
 お気の毒に拝見致しましたのにつけても、気がかりで」と伝えて、宿直人を差し向けなさった。
 
280  〔女房〕「あぢきなうもあるかな。
 戯れにても、もののはじめに、この御ことよ」
 〔女房〕「情けないことですわ。
 ご冗談にも、結婚の最初からして、このようなお事とは」
281  〔女房〕「宮、聞こし召しつけば、さぶらふ人びとの、おろかなるにぞさいなまむ」  〔女房〕「宮さまが、お耳にされたら、お仕えする者の落度として、叱られましょう」
282  〔女房〕「あなかしこ。
 もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな」
 〔女房〕「ああ、大変だわ。
 何かのついでに、父宮にうっかりお口にあそばされますな」
283  など言ふも、それをば何とも思したらぬぞ、あさましきや。
 
 などと言うにつけても、そのことを何ともお分りでいらっしゃらないのは、困ったことであるよ。
 
284  少納言は、惟光に、あはれなる物語どもして、  少納言の乳母は、惟光に、気の毒な身の上話をいろいろとして、
285  〔少納言乳母〕「あり経て後や、さるべき御宿世、逃れきこえたまはぬやうもあらむ。
 ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひ寄るかたなう乱れはべる。
 今日も、宮渡らせたまひて、『うしろやすく仕うまつれ。
 心幼くもてなしきこゆな』とのたまはせつるも、いとわづらはしう、ただなるよりは、かかる御好き事も、思ひ出でられはべりつる」
 〔少納言乳母〕「これから先いつか、ご一緒になるようなご縁から、お逃れ申されないものかも知れません。
 ただ今は、まったく不釣り合いなお話と拝察致しておりますが、不思議にご熱心に思ってくださり、またおっしゃってくださいますのを、どのようなお気持ちからかと、判断つかないで悩んでおります。
 今日も、父宮さまがお越しあそばして、『安心の行くように仕えなさい。
 うっかりしたことは致すな』と仰せられたのも、とても厄介で、なんでもなかった時より、このような好色めいたことも、改めて気になるのでございましたこと」
286  など言ひて、「この人もことあり顔にや思はむ」など、あいなければ、いたう嘆かしげにも言ひなさず。
 大夫も、「いかなることにかあらむ」と、心得がたう思ふ。
 
 などと言って、「この人も何か特別の関係があったように思うだろうか」など思われるのも、不本意なので、ひどく悲しんでいるようには言わない。
 惟光大夫も、「どのような事なのだろう」と、ふに落ちなく思う。
 
287  参りて、ありさまなど聞こえければ、あはれに思しやらるれど、さて通ひたまはむも、さすがにすずろなる心地して、「軽々しうもてひがめたると、人もや漏り聞かむ」など、つつましければ、「ただ迎へてむ」と思す。
 
 帰参して、様子などをご報告すると、しみじみと思いをお馳せになるが、先夜のようにお通いなさるのも、やはり落ち着かない心地がして、「軽率な風変わりなことをしていると、世間の人が聞き知るかも知れない」などと、遠慮されるので、「いっそ迎えてしまおう」とお考えになる。
 
288  御文は、たびたびたてまつれたまふ。
 暮るれば、例の大夫をぞたてまつれたまふ。
 「障はる事どものありて、え参り来ぬを、おろかにや」などあり。
 
 お手紙は、頻繁に差し上げなさる。
 暮れると、いつものように惟光大夫をお差し向けなさる。
 「差し障りがあって参れませんのを、不熱心なとでも」などと、伝言がある。
 
289  〔少納言乳母〕「宮より、明日にはかに、御迎へにと、のたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ。
 年ごろの蓬生(校訂31)を離れなむも、さすがに心細く、さぶらふ人びとも思ひ乱れて」
 〔少納言乳母〕「父宮さまから、明日急にお迎えにと、仰せがありましたので、気ぜわしくて。
 長年住みなれた蓬生の宿を離れますのも、何と言っても心細く、お仕えする女房たちも思い乱れておりまして」
290  と、言少なに言ひて、をさをさあへしらはず、もの縫ひ、いとなむけはひなど、しるければ、参りぬ。
 
 と、言葉数少なに言って、ろくにお相手もせずに、繕い物をする様子が、はっきり分かるので、帰参した。
 
 
 

第三段 源氏、紫の君を盗み取る

 
291  君は大殿におはしけるに、例の、女君、とみにも対面したまはず。
 ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすががきて、「常陸には田をこそ作れ(奥入07・自筆本奥入09)」といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたまへり。
 
 源氏の君は左大臣邸においでになったが、例によって、女君は、すぐにはお会いなさらない。
 君は何となくおもしろくなくお思いになって、和琴を即興に掻き鳴らして、「常陸では田を作っている」という歌を、声はとても優艶に、口ずさんでおいでになっていた。
 
292  参りたれば、召し寄せて、ありさま問ひたまふ。
 しかしかなど聞こゆれば、口惜しう思して、「かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむも、好き好きしかるべし。
 幼き人を盗み出でたりと、もどきおひなむ。
 そのさきに、しばし、人にも口固めて、渡してむ」と思して、
 参上したので、呼び寄せて様子をお尋ねになる。
 「これこれしかじかです」と申し上げるので、残念にお思いになって、「あの父宮邸に移ってしまったら、わざわざ迎え取ることも好色めいたことであろう。
 子供を盗み出したと、きっと非難されるだろう。
 その前に、暫くの間、女房の口を封じさせて、連れて来てしまおう」とお考えになって、
293  〔源氏〕「暁、かしこにものせむ。
 車の装束さながら。
 随身一人二人仰せおきたれ」とのたまふ。
 うけたまはりて立ちぬ。
 
 〔源氏〕「早朝に、あちらに行こう。
 車の準備はそのままに。
 随身を一、二名を申し付けておけ」とおっしゃる。
 承知して下がった。
 
294  君、「いかにせまし。
 聞こえありて、好きがましきやうなるべきこと。
 人のほどだに、ものを思ひ知り、女の心交はしけることと、推し測られぬべくは、世の常なり。
 父宮の、尋ね出でたまひつらむも、はしたなう、すずろなるべきを」と、思し乱るれど、さて、外してむはいと口惜しかべければ、まだ夜深う出でたまふ。
 
 源氏の君は、「どうしようか。
 噂が広がって、好色めいたことになりそうな事よ。
 せめて相手の年齢だけでも、物の分別ができ、女が情を通じてのことだと、想像されるようなのは、世間一般にもある事だ。
 もし父宮がお探し出された場合も、体裁が悪く、格好もつかないことになるだろうから」と、お悩みになるが、さて、この機会を逃したら大変後悔することになるにちがいないので、まだ夜の深いうちにお出になる。
 
295  女君、例のしぶしぶに、心もとけずものしたまふ。
 
 女君は、いつものように気が進まない様子で、かしこまった感じでいらっしゃる。
 
296  〔源氏〕「かしこに、いとせちに見るべきことのはべるを、思ひたまへ出でて、立ちかへり参り来なむ」とて、出でたまへば、さぶらふ人びとも知らざりけり。
 わが御方にて、御直衣などはたてまつる。
 惟光ばかりを、馬に乗せておはしぬ。
 
 〔源氏〕「あちらに、どうしても処理しなければならない事がございますのを、思い出しまして、すぐに戻って来ます」と言って、お出になるので、お側の女房たちも知らないのであった。
 ご自分のお部屋の方で、お直衣などはお召しになる。
 惟光だけを、馬に乗せてお出掛けになった。
 
297  門、うちたたかせたまへば、心知らぬ者の開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、大夫、妻戸を鳴らして、しはぶけば、少納言、聞き知りて、出で来たり。
 
 門を、打ち叩かせなさると、何も事情を知らない者が開けたので、お車を静かに引き入れさせて、惟光大夫が、妻戸を叩いて、合図の咳払いをすると、少納言の乳母が、察して、出て来た。
 
298  〔惟光〕「ここに、おはします」と言へば、  〔惟光〕「ここに、おいでになっています」と言うと、
299  〔少納言乳母〕「幼き人は、御殿籠もりてなむ。
 などか、いと夜深うは、出でさせたまへる」と、もののたよりと思ひて言ふ。
 
 〔少納言乳母〕「若君は、お寝みになっております。
 どうして、こんな暗いうちに、お出あそばしたのでしょうか」と、どこかからの帰りがけと思って言う。
 
300  〔源氏〕「宮へ渡らせたまふべかなるを、そのさきに聞こえ置かむとてなむ」とのたまへば、  〔源氏〕「父宮邸にお移りあそばすそうですが、その前にお話し申し上げておきたいと思って参りました」とおっしゃると、
301  〔少納言乳母〕「何ごとにかはべらむ。
 いかにはかばかしき御答へ、聞こえさせたまはむ」
 〔少納言乳母〕「どのようなことでございましょうか。
 どんなにしっかりしたお返事ができましょう」
302  とて、うち笑ひてゐたり。
 君、入りたまへば、いとかたはらいたく、
 と言って、ちょっと笑った。
 源氏の君が、お入りになると、とても困って、
303  〔少納言乳母〕「うちとけて、あやしき古人どもの、はべるに」と聞こえさす。
 
 〔少納言乳母〕「気を許して、見苦しい年寄たちが、寝ておりますので」と申し上げかける。
 
304  〔源氏〕「まだ、おどろいたまはじな。
 いで、御目覚ましきこえむ。
 かかる朝霧を知らでは、寝るものか」
 〔源氏〕「まだ、お目覚めではありますまいね。
 どれ、お目をお覚まし申しましょう。
 このような素晴らしい朝霧を知らないで、寝ていてよいものですか」
305  とて、入りたまへば、「や」とも、え聞こえず。
 
 とおっしゃって、ご寝所にお入りになるので、「もし」とも、お止めできない。
 
306  君は、何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたると、寝おびれて思したり。
 
 紫の君は、何も知らないで眠っていらっしゃったが、源氏の君が抱いてお起こしなさるので、目を覚まして、父宮がお迎えにいらっしゃったと、寝惚けてお思いになった。
 
307  御髪かき繕ひなどしたまひて、  お髪を掻き繕いなどなさって、
308  〔源氏〕「いざ、たまへ。
 宮の御使にて、参り来つるぞ」
 〔源氏〕「さあ、いらっしゃい。
 父宮さまのお使いとして、参ったのですよ」
309  とのたまふに、「あらざりけり」と、あきれて、恐ろしと思ひたれば、  とおっしゃる声に、「違う人だったわ」と、びっくりして、恐いと思っているので、
310  〔源氏〕「あな、心憂。
 まろも同じ人ぞ」
 〔源氏〕「ああ、嫌な。
 わたしも同じ人ですよ」
311  とて、かき抱きて出でたまへば、大夫、少納言など、「こは、いかに」と聞こゆ。
 
 と言って、抱いてお出なさるので、惟光大夫や少納言の乳母などは、「これは、どうなさいますか」と申し上げる。
 
312  〔源氏〕「ここには、常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心やすき所にと聞こえしを、心憂く、渡りたまふべかなれば、まして聞こえがたかべければ。
 人一人、参られよかし」
 〔源氏〕「ここには、常に参れないのが気がかりなので、気楽な所にと申し上げたが、残念なことに、宮邸にお移りになるそうなので、ますますお話し申し上げにくくなるだろうから。
 誰か一人付いて参られよ」
313  とのたまへば、心あわたたしくて、  とおっしゃるので、気がせかれて、
314  〔少納言乳母〕「今日は、いと便なくなむはべるべき。
 宮の渡らせたまはむには、いかさまにか聞こえやらむ。
 おのづから、ほど経て、さべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さぶらふ人びと苦しうはべるべし」と聞こゆれば、
 〔少納言乳母〕「今日は、まことに都合が悪うございましょう。
 父宮さまがお越しあそばした時には、どのようにお答え申し上げましょう。
 自然と、年月をへて、そうなられるご縁でいらっしゃれば、ともかくなられましょうが、何とも考える暇もない急な事でございますので、お仕えする者たちもきっと困りましょう」と申し上げると、
315  〔源氏〕「よし、後にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせたまへば、あさましう、いかさまにと思ひあへり。
 
 〔源氏〕「よし、後からでも女房たちは参ればよかろう」と言って、お車を寄せさせなさるので、驚きあきれて、どうしたらよいものかと困り合っていた。
 
316  若君も、あやしと思して泣いたまふ。
 少納言、とどめきこえむかたなければ、昨夜縫ひし御衣どもひきさげて、自らもよろしき衣、着かへて、乗りぬ。
 
 若君も、変な事だとお思いになってお泣きになる。
 少納言の乳母は、お止め申し上げるすべもないので、昨夜縫ったご衣装類をひっさげて、自分も適当な着物に着替えて、車に乗った。
 
317  二条の院は近ければ、まだ明うもならぬほどにおはして、西の対に、御車寄せて下りたまふ。
 若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。
 
 二条院は近いので、まだ明るくならないうちにお着きになって、西の対に、お車を寄せてお下りになる。
 若君を、とても軽々と抱いてお下ろしになる。
 
318  少納言、  少納言の乳母が、
319  〔少納言乳母〕「なほ、いと夢の心地しはべるを、いかにしはべるべきことにか」と、やすらへば、  〔少納言乳母〕「やはり、まるで夢のような心地がしますが、どういたしましたらよいことなのでしょうか」と、ためらっているので、
320  〔源氏〕「そは、心ななり。
 御自ら渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送りせむかし」
 〔源氏〕「それはあなたの考え次第でしょう。
 ご本人はお移し申し上げてしまったのだから、帰ろうと思うなら、送ってやろうよ」
321  とのたまふに、笑ひて下りぬ。
 にはかに、あさましう、胸も静かならず。
 「宮の思しのたまはむこと、いかになり果てたまふべき御ありさまにか、とてもかくても、頼もしき人びとに、後れたまへるが、いみじさ」と思ふに、涙の止まらぬを、さすがにゆゆしければ(校訂32)、念じゐたり。
 
 とおっしゃるので、苦が笑いして下りた。
 急な事で、驚きあきれて、心臓がどきどきする。
 「父宮さまがお叱りになられることや、どうおなりになる姫君のお身の上だろうか、とにもかくにも、身内の方々に先立たれたことが本当にお気の毒」と思うと、涙が止まらないのを、何と言っても不吉なので、じっと堪えていた。
 
322  こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。
 惟光召して、御帳、御屏風など、あたりあたり仕立てさせたまふ。
 御几帳の帷子引き下ろし、御座など、ただひき繕ふばかりにてあれば、東の対に、御宿直物、召しに遣はして、大殿籠もりぬ。
 
 こちらはご使用にならない対の屋なので、御帳などもないのであった。
 惟光を呼んで、御帳や、御屏風など、ここかしこに整えさせなさる。
 御几帳の帷子を引き下ろし、ご座所など、ちょっと整えるだけで使えるので、東の対に、お寝具類などを取り寄せに人をやって、お寝みになった。
 
323  若君、いとむくつけく、いかにすることならむと、ふるはれたまへど、さすがに声立てても、え泣きたまはず。
 
 若君は、とても気味悪くて、どうなさる気だろうと、ぶるぶると震えずにはいらっしゃれないが、やはり声を出して、お泣きになれない。
 
324  〔紫君〕「少納言がもとに寝む」  〔紫君〕「少納言の所で寝たい」
325  とのたまふ声、いと若し。
 
 とおっしゃる声は、まことに幼い感じである。
 
326  〔源氏〕「今は、さは、大殿籠もるまじきぞよ」  〔源氏〕「今からは、もうそのようには、お寝みになるものではありませんよ」
327  と教へきこえたまへば、いとわびしくて、泣き臥したまへり。
 乳母はうちも臥されず、ものもおぼえず、起きゐたり。
 
 とお教え申し上げなさると、とても悲しくて、泣きながら横におなりになった。
 少納言の乳母は横になる気もせず、何も考えられず、起きていた。
 
328  明けゆくままに、見わたせば、御殿の造りざま、しつらひざま、さらにも言はず、庭の砂子も、玉を重ねたらむやうに見えて、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなたには女などもさぶらはざりけり。
 け疎き客人などの、参る折節の方なりければ、男どもぞ、御簾の外にありける。
 
 夜が明けて行くにつれて、見渡すと、御殿の造り様や、調度類の様子は、改めて言うまでもなく、庭の白砂も宝石を重ね敷いたように見えて、光り輝くような感じなので、乳母はきまり悪い感じでいたが、こちらの対には女房なども仕えていないのであった。
 たまのお客などが参った折に使う部屋だったので、男たちが御簾の外に仕えているのであった。
 
329  かく、人迎へたまへりと、聞く人、「誰れならむ。
 おぼろけにはあらじ」と、ささめく。
 御手水、御粥など、こなたに参る。
 日高う、寝起きたまひて、
 このように、女人をお迎えになったと、聞いた女房は、「誰であろうか。
 並大抵の人ではあるまい」と、ひそひそ噂する。
 御手水や、お粥などを、こちらの対に持って上がる。
 日が高くなってから、源氏の君はお起きになって、
330  〔源氏〕「人なくて、悪しかめるを、さるべき人びと、夕づけてこそは、迎へさせたまはめ」  〔源氏〕「女房がいなくて、不便であろうから、しかるべき女房たちを、夕方になってから、お迎えなさるとよいだろう」
331  とのたまひて、対に、童女召しにつかはす。
 「小さき限り、ことさらに参れ」とありければ、いとをかしげにて、四人参りたり。
 
 とおっしゃって、東の対に童女を呼びに人をやる。
 「小さい子たちだけ、特に参れ」とあったので、とてもかわいらしい格好して、四人が参った。
 
332  君は、御衣にまとはれて、臥したまへるを、せめて起こして、  若君は、お召物にくるまって、臥せっていらっしゃったのを、無理に起こして、
333  〔源氏〕「かう、心憂く、なおはせそ。
 すずろなる人は、かうはありなむや。
 女は心柔らかなるなむよき」
 〔源氏〕「こんなふうに、お嫌がりなさいますな。
 関係のない人は、このように親切にしましょうか。
 女性というものは、気持ちの素直なのが良いのです」
334  など(校訂33)、今より教へきこえたまふ。
 
 などと、今からお教え申し上げなさる。
 
335  御容貌は、さし離れて見しよりも、いみじう清らにて、なつかしううち語らひつつ、をかしき絵、遊びものども、取りに遣はして、見せたてまつり、御心につくことどもをしたまふ。
 
 ご容貌は、遠くから見ていた時よりも、美しいので、優しくお話をなさりながら、興趣ある絵や、遊び道具類を取りにやって、お見せ申し上げ、お気に入ることどもをなさる。
 
336  やうやう起きゐて見たまふに、鈍色のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつくしきに、我もうち笑まれて見たまふ。
 
 だんだん起き出して御覧になるが、鈍色の色濃い喪服の、ちょっと柔らかくなったのを着て、無心に微笑んでいらっしゃるのが、とてもかわいらしいので、ご自身もつい微笑んで御覧になる。
 
337  東の対に渡りたまへるに、立ち出でて、庭の木立、池の方など、覗きたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、見も知らぬ、四位、五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ、「げに、をかしき所かな」と思す。
 御屏風どもなど、いとをかしき絵を見つつ、慰めておはするも、はかなしや。
 
 東の対にお渡りになったので、端に出て行って、庭の木立や、池の方などを、お覗きになると、霜枯れの前栽が絵に描いたように美しくて、見たこともない四位や五位の人々の服装が色とりどりに入り混じって、ひっきりなしに出入りしていて、「なるほど、素晴らしい所だわ」と、お思いになる。
 御屏風類などの、とても素晴らしい絵を見ては、機嫌を良くしていらっしゃるのも、あどけないことよ。
 
338  君は、二、三日、内裏へも参りたまはで、この人をなつけ語らひきこえたまふ。
 やがて本にと思すにや、手習、絵などさまざまに書きつつ、見せたてまつりたまふ。
 いみじうをかしげに書き集めたまへり。
 「武蔵野と言へばかこたれぬ(自筆本奥入10・付箋⑦)」と、紫の紙に書いたまへる墨つきの、いとことなるを取りて見ゐたまへり。
 すこし小さくて、
 源氏の君は、二、三日、宮中へも参内なさらず、この人を手懐けようとお相手申し上げなさる。
 そのまま手本にとのお考えからか、手習いや、お絵描きなど、いろいろと書いたり描いたりしては、御覧に入れなさる。
 とても素晴らしくお書き集めになった。
 「武蔵野と言うとつい文句を言いたくなってしまう」と、紫色の紙にお書きになった墨の具合が、とても格別なのを取って御覧になっていらっしゃった。
 少し小さい文字で、
 

68
 〔源氏〕
 「ねは見ねど あはれとぞ思ふ 武蔵野の
 露分けわぶる 草のゆかりを」
 〔源氏〕
「まだ一緒に寝てはみませんが愛しく思われます
 武蔵野の露に難儀する紫のゆかりのあなたを」
 
339  とあり。
 
 とある。
 
340  〔源氏〕「いで、君も書いたまへ」とあれば、  〔源氏〕「さあ、あなたもお書きなさい」と言うと、
341  〔紫君〕「まだ、ようは書かず」  〔紫君〕「まだ、うまく書けません」
342  とて、見上げたまへるが、何心なく、うつくしげなれば、うちほほ笑みて、  と言って、顔を見上げていらっしゃるのが、無邪気でかわいらしいので、つい微笑まれて、
343  〔源氏〕「よからねど、むげに書かぬこそ、悪ろけれ。
 教へきこえむかし」
 〔源氏〕「うまくなくても、まったく書かないのは良くありません。
 お教え申し上げましょうね」
344  とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへるさまの幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。
 「書きそこなひつ」と、恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、
 とおっしゃると、ちょっと横を向いてお書きになる手つきや、筆をお持ちになる様子があどけないのも、かわいらしくてたまらないので、我ながら不思議だとお思いになる。
 「書き損ってしまった」と、恥ずかしがってお隠しになるのを、無理に御覧になると、
 

69
 〔紫君〕
 「かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな
 いかなる草の ゆかりなるらむ」
 〔紫君〕
「恨み言を言われる理由が分かりません
 わたしはどのような方のゆかりなのでしょう」
 
345  と、若けれど、生ひ先見えて、ふくよかに書いたまへり。
 故尼君のにぞ似たりける。
 「今めかしき手本、習はば、いとよう書いたまひてむ」と見たまふ。
 
 と、とても幼稚だが、将来の成長が思いやられて、ふっくらとお書きになっている。
 亡くなった尼君の筆跡に似ているのであった。
 「当世風の手本を習ったならば、とても良くお書きになるだろう」と御覧になる。
 
346  雛など、わざと屋ども作り続けて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり。
 
 お人形なども、特別に御殿をいくつも造り並べて、一緒に遊んでは、この上ない憂さ晴らしの相手である。
 
347  かのとまりにし人びと、宮渡りたまひて、尋ねきこえたまひけるに、聞こえやる方なくてぞ、わびあへりける。
 「しばし、人に知らせじ」と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口固めやりたり。
 ただ、「行方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる」とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、「故尼君も、かしこに渡りたまはむことを、いとものしと、思したりしことなれば、乳母の、いとさし過ぐしたる心ばせのあまり、おいらかに(校訂34)渡さむを、便なし、などは言はで、心にまかせ、率てはふらかしつるなめり」と、泣く泣く帰りたまひぬ。
 「もし、聞き出でたてまつらば、告げよ」とのたまふも、わづらはしく。
 僧都の御もとにも、尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、あたらしかりし御容貌など、恋しく悲しと思す。
 
 あの残った女房たちは、兵部卿宮がお越しになって、お尋ね申し上げなさったが、お答え申し上げるすべもなくて、困り合っているのであった。
 「暫くの間、他人には聞かせまい」と源氏の君もおっしゃるし、少納言の乳母もそう考えていることなので、固く口止めさせていた。
 ただ、「行く方も知らせず、少納言の乳母がお連れしてお隠し申したことで」とばかりお答え申し上げるので、宮もしょうがないとお思いになって、「亡くなった尼君も、あちらに姫君がお移りになることを、とても嫌だとお思いであったことなので、乳母が非常に出過ぎた考えから、すんなりとお移りになることを不都合だ、などとは言わないで、自分の一存で連れ出してどこかへやってしまったのだろう」と、泣く泣くお帰りになった。
 「もし、消息をお聞きつけ申したら、知らせなさい」とおっしゃる言葉も、厄介で。
 僧都のお所にも、お尋ね申し上げなさるが、はっきりせず、惜しいほどであったご器量など、恋しく悲しいとお思いになる。
 
348  北の方も、母君を憎しと、思ひきこえたまひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに違ひぬるは、口惜しう思しけり。
 
 北の方も、その母親を憎いとお思い申し上げなさっていた感情も消えて、自分の思いどおりにできようとお思いになっていた当てが外れたのは、残念にお思いになるのであった。
 
349  やうやう人参り集りぬ。
 御遊びがたきの童女、稚児ども、いとめづらかに、今めかしき御ありさまどもなれば、思ふことなくて遊びあへり。
 
 次第に女房たちが参上して来た。
 お遊び相手の童女や、幼子たちも、とても珍しく当世風なご様子なので、何の屈託もなくて遊び合っていた。
 
350  君は、男君のおはせずなどして、さうざうしき夕暮などばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、宮をばことに思ひ出できこえたまはず。
 もとより見ならひきこえたまはで、ならひたまへれば、今はただこの後の親を、いみじう睦びまつはしきこえたまふ。
 ものよりおはすれば、まづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りゐて、いささか疎く恥づかしとも思ひたらず。
 さるかたに、いみじうらうたきわざなりけり。
 
 若君は、男君がおいでにならなかったりして、寂しい夕暮時などだけは、尼君をお思い出し申し上げなさって、つい涙ぐみなどなさるが、父宮は特にお思い出し申し上げなさらない。
 最初からご一緒ではなく過ごしていらっしゃったので、今ではすっかりこの後の親を、たいそう馴れお親しみ申し上げていらっしゃる。
 外出からお帰りになると、まっさきにお出迎えして、親しくお話をなさって、お懐の中に入って、少しも嫌がったり恥ずかしいとは思っていない。
 そうしたことでは、ひどくかわいらしい振る舞いなのであった。
 
351  さかしう心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地も、すこし違ふふしも、出で来やと、心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、いとをかしきもてあそびなり。
 女など、はた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに、臥し起きなどは、えしもすまじきを、これは、いとさまかはりたる、かしづきぐさなりと、思いためり。
 
 小賢しい智恵がつき、何かとうっとうしい関係となってしまうと、自分の気持ちと多少ぴったりしない点も出て来たのかしらと、心を置かれて、相手も嫉妬しがちになり、意外なもめ事が自然と出て来るものなのに、まことにかわいい遊び相手である。
 自分の娘などでも、これほどの年になったら、気安く振る舞ったり、一緒に寝起きなどは、とてもできないものだろうに、この人は、とても風変わりな大切な娘であると、お思いのようである。
 
 
 

【定家注釈】

 
   定家本「若紫」巻末の「奥入」と本文中の付箋を掲載した。
 出典を記したが、本文は一部異なるところがある。
 
 
 
     伊行  
  奥入01 海人の住む底のみるめも恥づかしく磯に生ひたるわかめをぞ刈る(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入02 従冥入於冥 法華経(法華経・化城喩品、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入03 葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の 西なるや 榎の葉井に 白璧沈くや 真白璧沈くや おおしとど おしとど しかしてば 国ぞ栄むや 我家ぞ 富せむや おおしとど としとんど おおしとど としとんど(催馬楽「葛城」、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入04 墨染の暗部の山に入る人はたどるたどるぞ帰るべらなり(後撰集832、源氏釈・自筆本奥入)
     此の哥、鞍馬の山なり。
 惣て此哥の心に更に叶はず。
 くらぶの山の本哥は尤も事の故有るか。
 未だ勘へ出さず 
 
  奥入05 港入りの葦分け小舟障り多み同じ人にや恋ひむと思ひし(古今集732、源氏釈・自筆本奥入)
     「此哥の上句、又如何」 
 
  奥入06 人知れぬ身は急げども年をへてなど越えがたき逢坂の山(後撰集731、源氏釈・自筆本奥入)  
  奥入07 風俗常陸哥
     常陸には 田をこそ作れ たれをかね 山を越え 野を越え 君があまた来ませる(風俗歌「常陸」、源氏釈・自筆本奥入)
 
  奥入08 なぞこひざらむ 未だ勘へず  
  奥入09 ゆほびかに
     み吉野の大川水のゆほびかにあらぬものから波の立つらむ(古今六帖1527) 
 
 
  付箋① み吉野の大川水のゆほびかにあらぬものから波の立つらむ(古今六帖1527)  
  付箋② 海人の住む底のみるめも恥づかしく磯に生ひたるわかめをぞ刈る(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋③ いづこにか宿りとならん朝日子のさすや岡辺の玉笹のうへ(古今六帖269*「帚木」竄入)  
  付箋④ 君をいかで思はむ人に忘らせて問はぬは辛きものと知らせむ(出典未詳、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋⑤ 命だに心に叶ふものならば何かは人を恨みしもせむ(古今集387、自筆本奥入)  
  付箋⑥ あしわかの浦に来寄する白波の知らじな君は我思ふとも(古今六帖2543、自筆本奥入)  
  付箋⑦ 知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ(古今六帖3507、源氏釈・自筆本奥入)  
  付箋⑧ 千早振る神の忌垣も越ゆる身は草のとざしも何か障らむ(古今六帖1377、自筆本奥入)  
 
 

【校訂付記】

 
   定家本「若紫」の本文訂正跡を掲出した。
 訂正方法は、ミセケチ、補入、朱筆による削除、擦り消し重ね書き、なぞり補正等である。
 書写中の訂正と後からの訂正とがあるが、すべて本文一筆の訂正と認められる。
 
 
 
  校訂01 忘れて--わすら(ら$)れて(「ら」をミセケチにする)   
  校訂02 たまひ--堂(□&堂)まひ(「□」を擦り消し重ねて「堂」と書く)  
  校訂03 類--累(+い)(「い」を補入)  
  校訂04 ひがみたる--ひ可み多る(□&る)(「□」を擦り消し重ねて「る」と書く)  
  校訂05 ものを--物(+ヲ)(「ヲ」を補入)  
  校訂06 堪へがたく--堂可(可#〈朱〉へ可多く(「可」を朱筆で削除)  
  校訂07 なにがしが--な尓(+可、可&か)し(し&し)可(「可」を補入しその上に重ねて「か」となぞる、「し」」の上に重ねて「し」をなぞる、墨色が異なる、後からの補訂か)  
  校訂08 仰せ言--お1ほ勢(+こと)(「こと」を補入)  
  校訂09 かうやうの--可(+う)やうの(「う」を補入)  
  校訂10 つて--つい(い#〈朱〉て(「い」を朱筆で削除)  
  校訂11 ならむ--なら(ら&ら)む(「ら」の上に「ら」をなぞる)  
  校訂12 ながら--な2可ら(ら&ら))(「ら」の上に「ら」となぞる)  
  校訂13 開けて--□□□(摩滅して判読不能、他本に拠った)  
  校訂14 かうやう--可(+う)やう(「う」を補入)  
  校訂15 立ち帰り--多ち可へり(□&り)(「□」を擦り消し重ねて「り」と書く)  
  校訂16 岩に--い者に(「に」の上に「に」となぞる)  
  校訂17 くるしく--くる(□□&くる)しく(「□□」を擦り消し重ねて「くる」と書く)  
  校訂18 なまめい--な2(+ま)免めい(「ま」を補入)  
  校訂19 なればにや--な2れハ(+尓)や(「尓」を補入)  
  校訂20 むせかへりたまふ--むせ可へり堂(□□&り堂)まふ(「□□」を擦り消し重ねて「り堂」と書く)  
  校訂21 いとどしく--いと(+と)しく(「と」を補入)  
  校訂22 たまつべき--堂ま徒へれき(「□」を擦り消して重ねて「き」と書く)  
  校訂23 のみあり--のみ(+あり)(「あり」を補入、墨色やや薄し、後からの補入か)  
  校訂24 なみ--(+な2)み(「な2」を補入)  
  校訂25 遊び--あ(+そ2)ひ(「そ2」を補入)  
  校訂26 着たる--き多まへ(まへ$)る(「まへ」をミセケチにする)  
  校訂27 むつかしう--(+むつ可しう)(「むつ可しう」と補入)  
  校訂28 ばかり--者(+可)り(「可」を補入)  
  校訂29 独り笑み--ひとりゑ(+ミ)(「ミ」を補入)  
  校訂30 たまはむ--多ま□む(「□」摩滅して判読不能、他本に拠った)  
  校訂31 よもきふ--よ(□&よ)もきふ(「□」を擦り消し重ねて「よ」と書く)  
  校訂32 ゆゆしければ--ゆゝし遣(□&遣)れハ(「□」を擦り消し重ねて「遣」と書く)  
  校訂33 など--(+な2)と(「な2」を補入)  
  校訂34 おいらかに--(+お1)ひら可に(「お1」を補入)  
 

 
 ※(引用は上記まで)定家本の書写の信頼度は、大島本<明融(臨模)本<定家自筆本、とされている。
 定家本「若紫」(『定家本源氏物語 若紫』八木書店 2020年3月)を底本とした とのこと。