伊勢物語 41段:紫 あらすじ・原文・現代語訳

第40段
すける思ひ
伊勢物語
第二部
第41段
第42段
誰が通ひ路

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  女はらから 上の衣 
 
  賎しき業 いと清らか
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 昔、ある二人の姉妹がいた。
 一人は身分の低い貧しい男をもち、一人は「あてなる男」をもっていた。
 

 なお、この物語における「あてなる男」は、16段の紀有常のみ(これは107段からも確実。「あて」は高貴)。
 男を「もち」とは、姉妹は時の最高権力者・藤原の右大臣の娘だったから(有常の妻がそう)。
 

 さて、ここでは、身分の低い(賤しい)方の妻になった方の話。
 年のみそかに、男の大事な上着を自分で洗っていた所、過って肩を破いてしまった(力過多)。
 あ~しょうもないとおのれの無力さを嘆き、私は力になれないワ~と泣いていた。
 
 実家に買ってもらえとかいうのは違います。嫁ぎ先と日取りの意味。大晦日に洗濯などありえない。この日くらい、ゆっくりしたいだろう。
 つまり前段の文脈(好きな相手より親をとった)を適用すれば、この女は、親を無視して男をとったのである。実家とはその時点で縁を切った。
 あからさまにそれを意図した流れ。
 

 これをかの=流石な(天下の:39段。ここでは親しみを込めて冗談風に:38段)「あてなる男」が聞きつけて
 (恐らく妻から聞いた。そして彼の妻はそういう貧しいことは大嫌い。16段)、
 とても心苦しく思い、その人の心に相応しいようにと「いと清らかなる録衫(後述)の上の衣」を見繕って送ろうといって。
 

 紫の 色濃き時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける
 
 武蔵野の心なるべし
 

 となるわけだが、この意味をどう見る。文面を表面だけ見るなら全く意味不明。恋愛事情をおりまぜて読めた風にしても、それは違う。
 この歌は「女によみてやる」のような、いつもの指定がないのだから、女への歌ではない。何よりこのような内容を送ってどういう意味がある。
 つまりこの歌は、38段にもあるような有常と友人とのやりとり。友人とは、著者=「むかし男」。そしてこれは業平などではない。
 

 歌の心にある「めもはる」とは、服を張ったこととかけ、値が張る。
 というのも著者は縫殿の人。「ふくからに」の人。縫殿は後宮で高級服を作る場所。だから有常が服を見繕う話をもちかけている。
 そして「ふくからに」の秋の草木にかかり「野なる草木」。ここではそれは本意ではなく、山を補い、後は野となれ山となれ。
 だから武蔵野の心(義姉のために一肌脱いで、いよっ男前、カッコいいね~)と言っている。
 
 武蔵とかけるのは、13段武蔵鐙で、女の尻にしかれ足蹴にされる、さすがの有常とかけている。
 また、52段の飾り粽も、同様に端午の節句に掛けた二人の内容。
 
 この段との着物の贈物の関連で、16段では有常に「天の羽衣」を送ったという話がある(これは竹取物語を贈ったという暗語)。
 だからこの物語でも、服(唐衣)やら、生地(信夫摺)やら、桑子(=蚕)やら、糸巻(倭文のをだまき)やらの話が出てくる。

 「録衫」とは、その業界「賤しい業」で通じた特殊用語とみるべき。意味は、とても上品な下地。
 賤しい業とは、表面的にそう見られているということで、それを意図していないのはこの段の趣旨と同じ。
 

 最後の武蔵野の「心」とは、13段の武蔵鐙での「さすが(刺鉄)→流石」にかけているのもあるが、それが全てではない。
 この歌は(業平の作として)古今868に収録されるが、その歌を受け武蔵野の心を詠んだのが古今867。つまりここでのやりとりが、868→867。
 「紫の ひともとゆゑに むさしのの 草はみなから あはれとそ見る」(古今867)
 これは伊勢が古今を参照したという意味ではない。もしそうならこの歌も引用しなければおかしい。
 

 そしてこのような掛かりを一切無視する、古今868の業平認定は誤り。
 何より伊勢は業平を断固拒絶しているし、古今が伊勢より先だという根拠がない。物語の内容は悉く870年代に収まっている。
 そして、このような文面に即した認定が業平説には一切皆無。伊勢を悉く無視し軽んじる。そうでありながら、名声は伊勢のみに基づくという都合のよさ。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第41段 紫 上のきぬ
   
 むかし、女はらからふたりありけり。  昔、女はらからふたりありけり。  昔女はらからふたり有けり。
  ひとりはいやしき男の貧しき、 ひとりはいやしきおとこのまづしき、 ひとりはいやしき男のまづしき。
  ひとりはあてなる男もちたりけり。 ひとりはあてなるおとこもたりけり。 ひとりはあてなる男のとくあるもちたりけり。
       
  いやしき男もたる、 いやしきおとこもたる、 そのいやしきおとこもちたる。
  師走のつごもりに しはすのつごもりに、 しはすのつごもりに。
  上の衣を洗ひて、手づから張りけり。 うへのきぬをあらひてゝづからはりけり。 うへのきぬをあらひて。手づからはりけり。
  志はいたしけれど、 心ざしはいたしけれど、 心ざしはいたしけれども。
  さる賎しき業も慣はざりければ、 さるいやしきわざもならはざりければ、 いまださるわざもならはざりければ。
  上の衣の肩を張り破りてけり。 うへのきぬのかたをはりやりてけり。 うへのきぬのかたをはりさきてけり。
  せむ方もなくてたゞ泣きに泣きけり。 せむかたもなくて、たゞなきになきけり。 せんかたもなくて。なきにのみなきけり。
       
  これを、かのあてなる男聞きて、 これをかのあてなるおとこきゝて、 これをかのあてなる男きゝて。
  いと心苦しかりければ、 いと心ぐるしかりければ、 いと心ぐるしかりければ。
  いと清らかなる録衫の上の衣を いときよらなるろうさうのうへのきぬを、 いときよげなりける四位のうへのきぬ。
  見出でてやるとて、 見いでゝやるとて、 たゞかた時に見いでて。
       

78
 紫の
 色濃き時はめもはるに
 むらさきの
 いろこき時はめもはるに
 紫の
 色こき時はめもはるに
  野なる草木ぞ
  わかれざりける
  のなるくさ木ぞ
  わかれざりける
  野なる草木そ
  わかれさりける
       
  武蔵野の心なるべし。 むさしのゝ心なるべし。 むさし野の心なるべし。
   

現代語訳

 
 

女はらから

 

むかし、女はらからふたりありけり。
ひとりはいやしき男の貧しき、ひとりはあてなる男もちたりけり。

 
 
むかし女はらからふたりありけり
 昔、女姉妹が二人いた。
 
 はらから:兄弟姉妹。
 この言葉は、生母を同じくする(同じ腹)という説明がされるが、ここではそのように用いていない。
 このように記述の表面的な意味をずらして、その本意(その趣旨・精神性)を示そうとするところは、この物語の最大の特徴。

 本段においては、
 暗い状況を持ち出し、賤しい(身分の低い)情況を描くが、
 それを厭わない心は、美しい(素晴らしく・清らか・高貴)といっている。
 

ひとりはいやしき男の貧しき
 一人は、身分の低い貧しい男を
 
 (賤しいと貧しいを、あえて区別している。つまり位が高くても心が賤しい・貧しい人がいるという間接表現)
 

ひとりはあてなる男もちたりけり
 一人は家柄も良く上品な男を持っていた。
 
 ここでは区別していないので、位もあるし、心も豊かだと言っている。
 しかしメインは心の方。それは上述の通りだし、2段をはじめ、16段でも示される。
 

 あて(貴)
 身分・家柄が高い。上品(→慎ましいこと。金にものいわせないこと)。
 この貴の意味で「あて」とあてられた男は、16段の紀有常しか出てきていない。
 

 もちたりけり:
 男を持っていたというのは、女姉妹の家の方が位が高かったからである。当然、特別な例外という表現。
 加えて有常の妻は、藤原の出(内麻呂・右大臣)。そして尻にしかれて(13段)、逃げられた(16段)。
 

 ここで、内麻呂の系譜を見ると、
 女子は三人いるが、そのうち、ここで描かれる女性は「藤原恵須子」ということになりそうである。
 

 なお、ここに業平は関係ない。この段(清らかな心)とも、この物語の趣旨(忍ぶこと)とも、一切相容れない放蕩であるから(65段参照)。
 古今は誤認定。古今ではなく伊勢が先。その一部だけ見て全体を日記のようにみなし、その認定を個別の話にまで波及させただけ。だから各所で矛盾する。
 何より、陰で控えて、服の手入れとか、手づから洗って破っても、それらを清らかと見て重んじるような性格と見られていますか。これは貴族的ですか。
 そして、貴族でもなく、服を司る縫殿(つまり二条の後宮辺り)にいた男が六歌仙にいる。
 
 

上の衣

 

いやしき男もたる、
師走のつごもりに、上の衣を洗ひて、手づから張りけり。

 
 
いやしき男もたる
 卑しい男を持っていた方の女が、
 

師走のつごもりに
 年末の月末に、
 

 (かかりからこのように解釈する。これが根拠のある解釈)
 

 つごもり 【晦日・晦】:
 ①月の最後の日。みそか。
 ②月末。
 

上の衣を洗ひて手づから張りけり
 男の上着を手ずから洗って、手ずから干していた。
 

 上の衣
 正服(一張羅)の表衣。
 

 張り:
 一張羅(と物干し竿)に掛けた表現。洗って干すことを張るとは普通では言わない。
 

 (細かい点では、女はらからと、狩の衣で初段とリンクしている。ただし表現だけ)
 

 ※右大臣(今で言う総理)の娘であれば、まず考えられない行為。現代でも一張羅はまずクリーニングに出す。
 しかし、こういう人として実のあるへり下り=忍ぶ心は、16段の有常の境遇と対照的で、著者の重んじる心。初段もそう。だから後の記述につながる。
 このことからも、ただボンボンの業平は全く関係ない。65段で、御曹司、人を見るのも知らで(女方にのぼり)、みな人聞きてわらひとあるように。
 
 

賎しき業

 

志はいたしけれど、
さる賎しき業も慣はざりければ、上の衣の肩を張り破りてけり。
せむ方もなくてたゞ泣きに泣きけり。

 
志はいたしけれど
 志しは、素晴らしく見上げたものだけど
 

 いたし【甚し・痛し】:
 →すばらしい。感にたえない。
 ①痛い(物心両面で)
 ②はなはだしい・ひどい・見ていられない

 ここでは、これらの要素を全てまとめて素晴らしいといっている。痛みに堪えてよくがんばったというあれ。ただ偉そうなのは何も素晴らしくない。
 

さる賎しき業も慣はざりければ
 このように卑しい所業(低い身分の人達がする仕事)には慣れていなかったので、
 

上の衣の肩を張り破りてけり
 上着の肩が張って破けてしまった。
(張り方が上手くいかなかった。
 生地が脆くなっていたか、力が強すぎたか、乾いていないのに竿を通すときに引っかかったか)
 

せむ方もなくてたゞ泣きに泣きけり
 致し方なく、ただ泣きに泣いた。
 

 せむ
 ここでは、せ(する)+む(意志)。
 しよう=致そうとすること。ただし、こういう表現は多義的ということに注意。文脈によることは当然。
 

 せむ方もなく
 致し方なく。自分ではどうしようもなく。
 

 泣きに泣き:
 泣く泣く=致し方なく、とかけた表現。
 つまり、形式表現(泣く泣く)と、その趣旨=心(致し方なく)を同時に示している。
 このことの趣旨は、冒頭上述した通り。
 
 

いと清らか

 

これを、かのあてなる男聞きて、いと心苦しかりければ、
いと清らかなる録衫の上の衣を見出でてやるとて、
 
紫の 色濃き時は めもはるに
 野なる草木ぞ わかれざりける
 
武蔵野の心なるべし。

 

 ※この歌は、古今集に収録され、かつその前後は伊勢の歌で固められている。
 しかるに前後の歌は読み人知らずなので、いずれも伊勢の(匿名の)著者が残したものと解すべき。参考にしたのではなく、同じ趣旨の歌。
 伊勢が古今を参考にしたのではない。逆。ここまでの影響力で残り、緻密に体系化しているのに、ツギハギと見るのは道理に反しているし、何より失礼。
 

 紫の ひともとゆゑに むさしのの 草はみなから あはれとそ見る古今867

 紫の 色こき時は めもはるに 野なる草木そ わかれさりける本段・古今868
 

 この歌に「愛しい妻とあなたは同じ」とかいう文脈を読み込むのは無理。文字から離れすぎている。妻を愛した記述もない。まして16段は真逆の内容。
 和歌は安易に文字から離れてはいけない。それは解釈ではなく勝手な想像。文字に即して意味がとれないなら経験が足りない。表現のせいではない。
 そこらの文章ならともかく、これは伊勢物語。一字一句意味があると見なければ。だから読み甲斐があるのに。自分達の目線でおとしめるのは失礼。
 
 
これをかのあてなる男聞きて
 これをかの高貴な男が聞いて、
 

 (かの男→冒頭の男→有常。「かの」とは流石のという意味もある。
 13段の武蔵鐙で「さすが(刺鉄)」にかけて、妻に軽んじられる男とリンク。つまり有常。
 だから、古今をちまちま参照したとかそういう話ではない。ただし、万葉は要所に絞って女の子の歌として参照している。24段等)
 

いと心苦しかりければ
 とても心苦しかったので、
 

いと清らかなる録衫(▲ろうさう・△四位)の上の衣を
 とても清らかな単衣(ひとえ=衫)を用いた上の衣を
 

 いと清らかなる:
 有常の妻の言動と対比させている。もちろん姉妹という対比もある。
 が、心苦しいはともかく、貴族からみれば賤しいことを清らかというのは、こういう背景がある。
 手づからすることを清らかというのなら、その口で貴族的な(全部他人まかせで遊んで偉そうにする)生活をよしとできる精神であるはずがない。
 

 録衫(ろうさう)
 贈物用の(立派な)下地・生地、というような意味と思われる。録(しる・す)+衫(ころも・はだぎ)。
 これは恐らく縫殿での業界用語だろう。著者の職場の。だから服にまつわる話が多い。「ふくからに」。
 記録の録と衫(ひとえ)にかけ、一重にあなたのたまものと、録から禄(ロク=ご褒美)を導く。立派だねえ、と。
 送るのは、縁(エン=間接的つながり)があるから。
 記述が全ての本でぶれでいるのだから、解釈が難しかったということ。塗籠の「四位」は、業平から推定したのだろう。よって見当違い。
 したがって単に緑色という意味ではない。緑色だったのかもしれないが、それはただ表面的な意味。その心は上記の意味。
 

見出でてやるとて
 見繕って送ってあげようといって
 

※ここで続くお決まりの言葉(女によんでやる、などの言葉)がないことは注意。こういうことには全て意味がある。
 つまり、着物を送るその女に、この歌を送ったのではない。著者に送ってきた。それなりの服を見繕ってくれと。
 さらにいえば、上の二つの古今の歌はこの二人の歌と見れる。つまりここでの有常の歌に返した歌が「むさしのの…あはれとぞ見る」の歌。
 それが古今に収録されているのは、著者の仕込み(25段の小町の歌も同様)。
 
 

紫の
 
 妻先と対比
 

色濃き時は
 
 濃口とかけ、醤油=むらさき。濃い紫がささっているのがいいかな。
 

めもはるに
 
 さしむらで刺身とかけ、値(目)も張るだろうが、
 

野なる草木ぞ
 
 あとは野となれ山となれ。
 (どうにでもなれ。この解釈は前々段の歌「いとあはれ…我知らずな」とかかり根拠はある。何よりこう見ないと通らない)
 

わかれざりける
 
 君ならわかってくれるよな。そういうことして、俺の妻とわかれたっていいもん(16段)。
 

 ざりける:ぞ(強調)の変形+けり
 →したって構わない。一見しないように見えることだけど、しても構わない(ぞ)。
 

 あ、あと、「時」と「あと知らない」とかけ、時知らず=秋鮭=酒の肴。
 こんど、この話をアテにして飲もうや(→冒頭の「あてなる男」)。
 
 

武蔵野の心なるべし
 
 ~
 
 参考:(返し)
 紫の ひともとゆゑに むさしのの 草はみなから あはれとそ見る古今867