伊勢物語 90段:桜花 あらすじ・原文・現代語訳

第89段
なき名
伊勢物語
第三部
第90段
桜花
第91段
惜しめども

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
  ものごしに ねにほふ 女方と男 
 
 
 
 

あらすじ

 
 
 むかし、思うにまかせない人のことを思いかけていれば、
 あはれと思ったのか、「さらばあすものごしにても」と言って、限りなく嬉しく、また疑わしくもあったので
 面白く咲く桜につけて

 桜花 けふこそかくに ねにほふとも あな頼みがた あすの夜のこと
 という心栄えもあるだろう。
 
 ~
 
 ここでは終始一貫、男女の別及び、主体は明示されない。
 つまりどちらの意味も持たせている。それが男女ではなく「人」としている意味。それは34段(つれなかりける人)でも同様だった。
 これは単にぼかしているというより、双方どちらも思っている内容という意味。それが掛詞の王道の用法。
 何でもかんでも言葉を当てても、それは掛かりではない。意味がない、意味が通らない・意味不明なことを、ナンセンスという。
 

 さて語句を順次解説しよう。
 

 まず「つれなき」は冷淡という意味ではない。
 初出の33段こもり江から一貫して、釣れないにかけ、思うにまかせないという意味。
 そして34段では、どちらにとっても思い通りにならない人、という意味で使っていた。それが「思ひわたり」という言葉に表わされる。
 「わたり」とはいったりきたり、つまり疎通のことなので、「思ひわたり」は、意思疎通を表わしている。
 

 「いかで」というのは、続く「ものごしにでも」という内容で、これだけでは自明ではない「疑はし」い内容。
 

 「さらばあすものごしにても」というのは、
 普通に見れば、(簾など)物越しにでも会おうかということになるが(それで「かぎりなくうれし」)、しかしこの時点で不自然。
 まず会おうと直接言っていない。次に先頭の言葉が「さらば」である。
 さらに、ものごしにではない関係を示唆して、意図的に距離を置いている表現とも見れる。
 このような思案が「疑はし」。
 

 そして「おもしろかりける桜につけて」という、
 伊勢における「おもしろ」とは、文字通り面白・おかしいという意味で(滑稽の意味が強い)、風流という意味では本来ない。78段(山科の宮)。
 だからここでは、ふざけているようにして(重くならないように)、相手の意志を確かめようとすること、またそのような思案の滑稽さを表わす。
 
 ただ、滑稽でも相手の意志を確かめようとすること、繊細な方法で察しようとすること、それが著者にとっての心栄え。
 風に吹き流される桜のように、軽い方法で確認しようかなどと、あれこれ思う。
 

 だから、「むかし」とくれば、書いてなくても直ちに男とみなし、
 「つれない」だから、男が女につめたくされて一喜一憂しているなどという、腐った男か中学生のような見立ては、全く陳腐でナンセンス。
 いつもとの変化を全く無視している。しかもこの変化は、細かいものではない。「むかし男」は伊勢のシンボル。
 

 桜花 けふこそかくに ねにほふとも あな頼みがた あすの夜のこと
 

 桜はすぐに散ってしまう春。今日こそと思っても、明日はもうどうかわからない。
 ああ頼み難い、明日の夜のこと。つまりここでも、それぞれが思案している内容。
 
 単純に明日の夜に散ってしまう、それで終わりな訳はない。それなら、明日に加えて「夜」としている意味がない。
 会うことは、夜のことも考えているのか。(寝にほふ≒根本とかけ、ほんとに寝る? と破格でことさらに強調)
 「夜のこと」自体が強めの暗示なので、寝るなどと続けるわけにはいかないが、それを桜につけてぼやかしている(しかし無視される)。
 

 なんて聞くのも、送るのも野暮。もし相手にその気がなかったら、ただ滑稽なだけ。
 だから「あな頼みがた」という言い訳をしている。
 

 歌を贈ったなどと、どこにも書いていないし、何より末尾が「といふ心ばへもあるべし」とだけして、しめている。
 だからそれを贈ったなどすると、あえて書いていない著者の繊細な文脈が破壊される。ここではまだましだけども。
 
 初段から今までも全部そうだった。初段なんて見るに耐えない支離滅裂な解釈が、当然のように流布している。
 初々しい昔男が、出先で見かけた姉妹を、見るなりはしたないと思い、心乱された! と歌を渡すんだとさ。完全にオッサンの発想。ありえない。
 その段の最後にある「かくいちはやきみやびをなむしける」を読んでも、全く何も感じない。これがみやび? はい??
 そもそも、はしたないとは、心惑わせた自分(男)を戒めた話だからな。だから着物のハシタを自分でなくしている。
 
 心の惑いを奥に秘めて忍ぶ心、大切な相手を悲しませないように困らせないように、できるだけ喜ばせたい。
 それが著者にとってのみやび。
 そんなこと1ミリも考えてないじゃない。みやびのみの字もわかってない。よく見れって。
 ま、学者の人達って、普通はみやびじゃないでしょ。昔男と同じような恋愛体験しているような人いないでしょ。
 あまり真に受けちゃだめよ。
 
 ただねえ、無地でシンプルな服を好む人は発想が近いかな。
 柄物・派手な色物・ブランド全開ほど、相容れない。
 男は徹底して無名で身分を出していないだろ。
 
 派手なことを、伊勢では「えびすごゝろ」(15段)という。エビスさん派手でしょ。洗練されていないという意味。
 だから京の服も、控えめ・薄味なんでないの。でも強烈な自分をもっていることも、一緒だわな。だからこそ包んでいる。
 
 
 
 

原文

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第90段 桜花
   
 むかし、  むかし、  昔。
  つれなき人をいかでと思ひわたりければ、 つれなき人をいかでと思ひわたりければ、 つれなき人をいかでと思ひ。
  あはれとや思ひけむ、 あはれとや思ひけむ、 戀わたりければ。哀とや思ひけん。
  さらばあすものごしにても さらばあすものごしにても、 さらばあす物ごしにてものばかりをいはん
  といへりけるを、 といへりけるを、 といへりけるを。
  かぎりなくうれしく、 かぎりなくうれしく、 かぎりなくうれしながら。
  また疑はしければ、 又うたがはしかりければ、 またうたがはしかりければ。
  おもしろかりける桜につけて、 おもしろかりけるさくらにつけて、 面白かりける櫻につけて。
       

164
 桜花
 けふこそかくにねにほふとも
 さくらばな
 けふこそかくもにほふらめ
 櫻花
 けふこそかくも匂ふとも
  あな頼みがた
  あすの夜のこと
  あなたのみがた
  あすのよのこと
  あな賴みかた
  あすのよのこと
       
  といふ心ばへもあるべし。 といふ心ばへもあるべし。 といふ心ばへあるらし。
   

現代語訳

 
 

ものごしに

 

むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、
あはれとや思ひけむ、
さらばあすものごしにても、といへりけるを、

 
 
むかし
 
 (「男」がない。この時点で特に注意)
 

つれなき人を
 思うにまかせなかった人を
 
 つれないとは、この物語では冷淡という意味ではない。
 釣れないに掛けて、思うにまかせないという意味(33段・こもり江、34段・つれなかりける人)。
 そこでの文脈は、男女どちらにとっても思うにませないという意味だった。だから「人」。
 

いかでと思ひわたりければ
 今どうしているかと、思いあっていたところ
 

あはれとや思ひけむ
 あはれと思ったか
 
 ここでも、なお主体は明示していない。
 
 「あはれ」とは、思わせぶりな言葉。
 多義的な言葉で、これだけで意味は確定できない。前の思ひと掛けてかませの言葉。
 

さらばあすものごしにても
 であれば明日物越しにでも
 

といへりけるを
 と言ったのを
 
 (普通に見れば女性の発言とも思えるが、なお不明。
 さらに直接会おうとも言っていない。加えて冒頭が「さらば」)
 
 

ねにほふ

 

かぎりなくうれしく、また疑はしければ、
おもしろかりける桜につけて、
 
桜花 けふこそかくに ねにほふとも
 あな頼みがた あすの夜のこと
 
といふ心ばへもあるべし。

 
 
かぎりなくうれしく
 この上なく嬉しく
 

また疑はしければ
 しかしまだ同時に疑わしかったので
 
 (上述のように、直接「会う」とは言っていないし、「さらば」とあるので、万一もある)
 

おもしろかりける桜につけて
 面白く咲いていた桜につけて
 
 サクラは演技も意味する(17段。「あだなりと 名にこそたてれ桜花」)。
 

桜花 けふこそかくに ねにほふとも
 桜花 今日こそこのように 根本とも(にかけてホントにトモ寝?)
 

あな頼みがた あすの夜のこと
 ああ頼み難い 明日の夜のこと
 
 (ここを見れば、何となく女性の歌)
 

といふ心ばへもあるべし
 という心栄えもあるだろう。
 
 このように、夜のことかと一々確認しようとする時点で、在五のように自明のものとはしていない(63段)。それが69段の内容でもあった。
 だから、女+通う・会う=寝るという発想は、伊勢では成り立たない。在五=在原なりける男(65段)はそうでも、むかし男は違う。
 通うのは通う、会うなら会う。勝手に事情を付け足さないように。他の話では知らんが、伊勢ではこうだ。
 そういう発想は、主人公が業平、伊勢の歌は業平の歌なんだというこじつけ(古今)に基づく。
 著者は脳内が卑しい凡人ではない、たとえ貧しくても、みやびが命の人。貴族だの領地だの、一切書いてない思い込みにはめて著者を決め付けないように。
 
 思い込みとは、別に難しい盲点などではない。
 63段で「在五」が、白髪(つくもかみ)と罵倒し、それを嘆いて寝ていた女を「あはれと思ひて、その夜は寝」て、
 「この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめみせぬ心なむありける」と非難されながら、
 この「けぢめみせぬ心」を、わけ隔てなく・大らかに愛する心なのだなあ、などとしてしまう、言葉をあからさまにねじまげる態度、見て見ぬふりのこと。
 
 
 

女方と男

 
 
 本段では、様々な男女の要素が混在している。
 
 「つれなき」は、「つれなかりける女」で小町。
 

 「ものごし」は、二条の后(95段)。「女いとしのびて、ものごしに逢ひにけり。物語などして、男」
 

 この物語と掛け、伊勢斎宮(69段)「女もはた、いと逢はじとも思へらず。されど人目しげければ逢はず」

 「かぎりなくうれし」は、69段で斎宮が夜、男の部屋に訪ねて来て「男いとうれしくて、我が寝る所に率ていり」とかけている。

 最後に夜のことと強調しているのは、男が斎宮に「あはむ」と言ったが、物語をしてしまい、結局寝ずに帰ってしまったことを意識している。
 (原因はそれだけではなく、なぜか一緒に来た童が大きかったが)
 

 この点、小町は、「あひがたき女にあひて、物語などするほどに、鶏の鳴きければ」(53段)というのがある。
 あひがたきとは、「かた時去らずあひ思ひけるを、人の国へいきけるを、いとあはれと思ひて別れにけり」という46段を受けている。
 

 以上のこと全てを、男が振り返り、会おうとは、そういう気持ちがあるのか確かめた方がいいのか、しかし聞きづらいなと。
 つまり小町とは、清純にかどうかは分からないが、朝まで物語をして過ごしたが、
 後の斎宮の反応を見れば、そのような事態は女性にとってはショックだったと。そういうことに、男は年をくって気づいた。
 

 「つれなき」で思うにまかせないという意味は、
 女にとっても、男を思うにまかせないよな、どちらにとっても、夜のことなどとは言いづらいよな、と。
 だから主体を書いていない。
 

 つれなくされて、応じられて喜び、しかしなお不安という、中学生日記のような内容ではない。
 全部バラバラなら、99%「むかし」から始める意味が全くない。
 

 「男」は伊勢で最も重要な単語。それがないのに当然のように補う時点でナンセンス。この物語の趣旨・命を完全に無視している。
 そして上記の不安云々の解釈は、実に女々しい。別にそういう男がいても構わないが、それは伊勢の「むかし男」ではない。
 女からのアプローチがなく男から女のもとにはいかない。それが「むかし男」のポリシー。
 だから斎宮も、二条の后も、自分から男のもとに来ている。