伊勢物語の登場人物

全体
あらすじ
伊勢物語
総論
登場人物
   

 
 目次
 

むかし男(文屋。大和の筒井出身で宮仕えに出た=20~24段・94段、二条の后に仕うまつる男=95段。縫殿だから服(狩衣・唐衣)の歌を詠む。
 在五を一貫して非難するが、話を全て乗っ取られた悲喜劇の主人公。伊勢の記述で業平の歌とか思慕とかいうのは良くてタチの悪いギャグ。悪く言えば悪夢。101段で歌をもとより知らないとするだけでも業平に歌仙の内実はない。歌仙は伊勢ありき。でないと何の名もない卑官がそう称される根拠はない。

 
 

女達 
 

・後宮
 
 二条の后(藤原高子。幼少時から男の主。彼女の話は全て側にいた昔男の回想。中将が人前で寄ってきた小塩山・ひをりの日も、源至同様の滑稽な話。つまり昔男は彼女の車によく同乗していた。普通に見れば、異様にひいきされた側近(暇つぶしの相手)。それが文屋の古今の詞書にも出る)

 
 小町(縫殿の同僚。根拠:小町針。女友達:9段・109段、44段・46段。文屋の歌の歌手。根拠:古今上位層で詞書の有意な少なさ+文屋との三河行の詞書)

 
 御達なりける人(年配の女房。今でいうお局)
 
 (宮→降嫁→藤原→文屋という下降人生。10段・84段。その縁で卑官ながら後宮と藤原高子に仕えたと見れる)

 

・恋愛関係
 
 梓弓(23段筒井の妻。24段と94段(妻の話)で対。20~24段は大和・田舎・宮仕えで一続き。122段井出の玉水は筒井の井戸・24段の清水に掛けた)
 
 陸奥の女(吾妻=東下りの果ての路傍の女性。14段・15段・115段。14・15の陸奥の国・しのぶ山、この体験が初段の陸奥の歌の由来・着想である)
 
 伊勢斎宮(初見で夫婦並みにもてなし盃をくれた。69段で初出、後半のメインヒロイン)
 
 斎宮のわらはべ(69段の斎宮との夜の密会についてきた謎の子=斎宮の妹。だから喜んで部屋に入れた。どうでもいいなら70段でも出てこない)
 
 

男達名前に注意
 

・友人知人
 
 有常(紀。友情。伊勢での友は小町か有常。最初に実名でメインで描いた親友=アルジュナ。クリシュナ:ハーレムで女達の世話をした神)
 
 常行(藤原。大将だが歌弟子。77段・安祥寺。芦屋の貧しい家に遊びにくる87段・布引の滝)
 
 敏行(藤原。107段のみ。内記=有望な青年。有常娘=将来の妻を呼びに来たが、娘を装った有常と文通し一紀一有。108段で有常は娘に泣かれた)

 

・在原 
 
 業平(在五・けぢめ見せぬ心:63段、在原なりける男:65段、もとより歌のことは知らざり:101段、あだなる心・きたなげさよ:103段。他非難多数)
 
 行平(常に業平とセットかつ実名で登場する兄。79段101段。この符号を無視する114段の行平認定はありえない。業平在原性維持目的の苦肉の捏造)
 
 

 親王達 
 
  
 
 
 

むかし男

 
 
 文屋
 
 著者。「二条の后に仕うまつる男」(95段)。後宮(縫殿)に仕える男。
 

 二条の后の服を見繕い付き添い外出して、そばで歌を詠んでいたら(3段4段)、騒ぎになって(5段)、男との駆け落ちだと噂が立った(6段)。
 それで物語と歌を悉く乗っ取られる。悲劇の主人公。
 

 縫殿は服の製造の他、女官人事も担当していたという。
 そこで後宮の建物名を出し(後涼殿・梅壷)、何度も女方内部の目線で描き、かつ服の話で始まるのである(狩衣・信夫摺・唐衣・しずのをだまき=糸巻)。
 

 伊勢は業平の話ではない。在五は初出の63段で否定している(けぢめ見せぬ心)。以降全ての登場段でも同様。
 当然だが、在五は五男の意味である。「子三人」の「三郎」の流れで「在五」。五位の中将ではない。そう言わないと勝手に定義して説明するのがある。
 
 65段では「在原なりける男」を物語最長の分量をもって非難する。これだけでも主人公というのは絶対無理。
 なぜ在原を冠する唯一の段なのに、主人公論議で真っ先にとりあげず、完全スルーされるのだろう。
 
 業平と認定されたのは、上流貴族社会に属さない卑官の歌物語が、圧倒的に後宮で流布したことが認められない人々の貶めによる(源氏冒頭と完全同旨)。
 だから業平は頭は軽いが、歌は中々だなというように褒めているようで小ばかにされるのである。
 というか業平のものとする時点で最悪の侮辱。だから何度も抵抗したが完全に無視され、主人公には業平の面影があるなどとされる驚天動地の読解力。
 だから文屋が、実力が何もない人々から小ばかにされ嘲笑されてすらいるのは、その時以来の宿世であり、著者を主人公と分離させることからはじめとし、段階的に何者かの手で増補を重ねたとか、著者複数だとか、業平死後の114段だけ突如行平の歌にしたり、しかも全く実力の知れない後撰以後の者の歌が冒頭の11段にあるなどと、帝の描写にある時代の流れは終始一貫している伊勢の内容を、外部の認定で一方的に破壊して、なおその公の認定に毛先の疑問をもたず、それで良しとするのは、この流れである。
 
 

女達

 

後宮

 

二条の后

 
 著者が仕える人。恋愛関係ではない。
 その公の関係が古今4・8(二条の后・文屋)の近さと、文屋だけ唯一もつ完全オリジナルの内容の二条の后の二つの詞書(古今8・445)。
 
 名は明かされないが、一般に藤原高子(842-910年)とされる。
 年齢的に著者より一回り下。
 
 二条の后は当時通用していた一般名称ではなく、伊勢特有の固有名称。この通称では特定しようがない。
 古今の「二条のきさき」は伊勢を受けているにすぎない。古今は主要な登場人物の年代(905)だけでも伊勢(850~886)の先ではない。
 古今が先というのは古今の業平認定を維持する目的しかない。だから伊勢の記述を容易に曲げる。その典型が在五のけぢめ見せぬ心。
 
 伊勢で名前が明示される女性は、39段の「崇子」「多賀幾子」のみで、これはいずれも高子を暗示している。
 
 登場段は有名な西の対・関守(3~6段)。
 そして4段と同様の構図の95段。主人公が夜、后に歌物語を詠んで聞かせる。
 続く96~97段では、女のせうと・堀河大臣という5~6段に対応する言葉も出てくる。
 したがって95段は一般が見るように、その段だけ出現した二条の后に仕うまつる男が、同じく后に仕える女に言い寄る男の話ではない。
 それでは筋が全く通らない。二条の后を出す意味が全くない。ただのかませで出す名称ではない。
 
 基本的に車とセットで登場。そして業平などに言い寄られる。
 39段(源の至)・76段(小塩の山)・99段(ひをりの日)。
 39段で車内部の事情を描写しているのは、男が女に仕えていたから以外ない。
 そんな事情は世間や宮中に流布などしないし、女の表情などの描写は伝聞で書ける内容でもない。
 というより記述の一貫性を無視して、何とかそう見ようとする方が無理。
 
 源氏物語では「車争い」というイベントがあり、六条御息所という伊勢斎宮(梅壺)の母と、葵という源氏の幼な妻が悶着を起こす描写がある。
 この六条御息所はまず二条の后を受けており、葵は後述の梓弓。
 
 

小町

 
 小野小町(生没不明)。
 縫殿にいた著者(文屋)の同僚。それで小町は歌仙とされている。だから彼女の歌の説明はほとんどないし、人格も不詳。
 
 名前は明示されないが25段の歌が一般に小町の歌と認知されている。
 この25段を基点にし、言葉を掛けて描写する。
 
 象徴的な表現としては「うるはしき友」(46段)。
 色好みと「知る知る女」(42段・誰が通ひ路)。
 恋愛の歌を歌ったことで色好みとされ、地方に退散した(44段・馬の餞)。
 それが小町針というエピソードと竹取。
 
 恋愛のことを書いたら男に言寄られるだろうというのは、紫式部日記にもある描写。
 
 小町が縫殿にいた根拠は、客観的には小町針という話のみかもしれないが、個人的な事情により、100%確実にそういえる。
 
 

御達なりける人

 
 お局。男に嫌味をいう。171819段
 31段忘れ草100段忘草。「あるやんごとなき人の、御局」
 
 源氏でいう弘徽殿女御(源氏の兄帝の母で、源氏を目の敵にする)。
 100段では弘徽殿に近接する「後涼殿」わたりを歩いている。
 19段の歌(天雲のよそ)が、有常の女(業平の妻)認定されるが誤り。古今でそう認定されたのは、伊勢が当初業平日記とみなされたからである。
 
 

 
 著者の母は、藤原で宮であったという(10段84段)。
 宮から藤原に降嫁し、後家となり文屋になった下降人生。著者が藤原という選択肢はない。
 
 著者が後宮で二条の后(藤原)の近くにいたというのは、こういう背景があるだろう。身元が安全。
 そもそも84段で宮としたのは、「身は卑し」としつつ「二条の后に仕うまつる」などの背景を示すため、やむをえずしたものと思われる。男は自分の出自は基本ぼかす。
 
 長岡の宮原の話(58段)は、この母が長岡にいるとされるので(84段)、そこにまつわると考えられる。
 
 

恋人

 

梓弓(妻)

 
 大和の里・筒井の子(20~23段)。
 幼馴染で結ばれたが、娘の親が亡くなり生活の基盤を失い(つまり貴族ではない)、昔男が生活の糧を得るべく別れを惜しみ宮仕えに行く(24段)。
 それでお別れ。
 
 後日談が94段。子がいたとされる。普通に見れば子は朝康。梓と合わせて。
 
 初段でいう「思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり」の「ふる里」とは、故郷の妻のこと。
 奈良の古里を故郷に掛けている。
 春日で見かけた初見の姉妹に「いとはしたない」と難癖つけるのは尋常ではない。誤り。みやびの要素も全くない。
 
 

陸奥の女

 
 妻が亡くなって東に下り、陸奥に赴任した先で、良い男と声をかけてきた(商売の)女(14段15段)。
 その直後寝る。つまりそういうこと。歩いていてそうやって声をかけるのは、そうだろう。
 このような描写があったのはこの段のみ。
 
 後日談で、都に帰る時二人でお別れ会(115段)。
 「男、都へいなむといふ。この女いと悲しうて、馬のはなむけをだにせむとて」

 ずっと関係が続いていた訳ではなく、飛び飛びで描写している。
 15段と115段、上記の24段と94段というように、数字はリンクしている。
 

 女は男に本気ではない(わりきり)。
 それが15段の「なでふ事なき人のめに通ひけるに」。
 
 しかしこう続く。
 

 あやしうさやうに、あるべき女ともあらず見えければ、
  しのぶ山 しのびて通ふ道もがな
  人の心の奥も見るべく
 女かぎりなくめでたしと思へど、
 さるさがなきえびすごゝろを見ては、いかゞはせむは。
 

 つまり心の奥を見てみるかと言ったら、女はとても喜んだが、大袈裟でわざとらしいので、それも男への習性なのではないかということである。
 
 それでも彼女は男を好きだったと思う。つまりお金で会ってない。
 お金の関係なら、「あやしうさやう(もじもじ)」とか「いと悲しうて」にはならないだろう。え、それも商売? エビスで商売繁盛? 知らんがな。
 
 

伊勢斎宮

 
 69段(狩の使)で初出の帝の娘。
 恬子内親王(848-913年≒65歳)。年齢的に二条の后の6歳下で死没もほぼ同時期。
 
 13歳で伊勢入り(860頃)。
 二人は恐らく870年頃出会った。斎宮が20代で昔男は30後半位か。なぜなら既に帝に認められているから。冒頭のこの使よく労われ発言)。
 
 初見で夫婦のようにもてなしてくれて、夜男の部屋にまでくる(69段)。
 しかし事情があって、その時はうまくいかない。深夜2時頃、まだ何も語っていないのに帰ってしまう。男は訳がわからず嘆く。
 これを読み解くのが玄人。本当に訳がわからないわけがない。推測はついているから事情を省かず書いている。
 おかしな事情は一つしかない。深夜に来た斎宮の前に立ってついてきた謎のわらべ。
 
 その後は、72段「松はつらくもあらなくに」73段「目には見て手にはとられぬ」75段「世にあふことかたき女」。
 
 そうこうして何を思ったか世を思い倦み、尼になり山里に入る(102段)。
 それでも男は祭の機会に会いに行き(104段)、最後まで文のやりとりをする(123124段)、特別な相手。
 
 いわば来世を契った間柄(前の間柄が60段62段)。
 その契りが69段末尾の「江にしあれば」「またあふさかの」という続松の盃。
 契という言葉を出したのは、妻と斎宮についてのみ(21段・112段)。
 妻は過去の契りの結末で、斎宮は次への契り。時空を超えて将来を約束したという所。
 しかしそんな約束をしてもいいのだろうか。
 
 

斎宮のわらはべ

 
 斎宮と年の離れた妹。
 69段と70段のみ出てくる。
 いわば著者と斎宮と三角関係。
 
 斎宮が深夜、男の部屋に来たとき、なぜか斎宮の先に立って来た童。
 男はそれをとても喜んだが、斎宮は何もできないまま帰ってしまう。
 あくまで男女としての相手は斎宮なので、妹は童としている。でも好きは好きだから喜んで部屋に入れている。
 
 そして次の70段の松阪辺りの男の宿場まで、なぜかこの童がついてくる。男の宿に。
 一般の訳は70段の童を地元の子供などとするが、前段の核心部の童と明らかに符合しているのでそれはない。
 
 この点を斎宮が気にする描写が72段
 「むかし男、伊勢の国なりける女、又えあはで、隣の国へいくとて、
 いみじう怨みければ女、
 大淀の松はつらくもあらなくに うらみてのみもかへる波かな」
 
 文中の描写だけでは斎宮の妹というのは明らかではないが、個人的な事情により、確実にそう言える。
 少なくとも、深夜に付人の子どもが斎宮の先に立ってついてきたり、70段にだけ出現したどこかの子どもに話かけると見るよりは自然だろう。
 そうして結局、姉より強く男に会いたがった妹と解するほかない。
 これは初段の美しい姉妹に心乱されて、狩衣の裾にその心をしたため、結局何もアプローチせず、しのんだ話と全く同様の構図。
 
 

男達

 
 

有常

 
 紀有常(815-877年≒62歳)。
 血縁では伊勢斎宮の叔父。紀静子の兄弟。
 著者の親友。物語で最初に実名で出てくる人物(16段)。
 
 零落ぶりを際立たせて描写されるという見立ては誤読。
 有常を足蹴にしていた妻(13段)・藤原の大臣の娘が、並の貴族(?)並の生活させんかいと、尼になるという口実で出て行った。それだけ。
 
 基本的に著者と組んで、ボケとツッコミのお笑い担当。
 典型が38段。思うにまかせないことを恋というのかという著者のボケに、それなら世の中全て恋やがなという。
 著者と組んで、業平惟喬軍団に対決する(82段)。
 
 

常行

 
 藤原常行(ふじわらのときつら。836-875年≒39歳)。
 右大将(右近衛大将)。有常と名前がリンク。著者のそこそこの友達。
 彼の歌に返し、あるいは彼の論評を論評しているので、歌の師弟のような関係と見れる。
 
 77段78段で明示され、いずれの段でも人を集め業平に歌を詠ませるなど、歌に興味がある人物として描かれる。
 78段では山科の宮に行った際、帝に献上した岩がなぜか他人の家にあると言って、業平の岩をそこにもってこさせる。
 
 87段(布引の滝)では、衛府督と部下達が、昔男の家に遊びにくるが、衛府督相当の地位はそれ以前に常行しか明示されなかったので常行。
 一般の訳は87段の「衛府督」を行平とするが、行平は79段で「中納言」101段で「左兵衛督」としているので違う。
 87段の時点で衛府督は常行のみ。
 このような書き分けは、かぶらないようにしている。
 
 それに著者は行平のことは全くよく描いていない。かつニ度とも名前を明示している。
 そうした79段と101段(業平と兄弟と強調している)を無視し、87段で他人風で仲良く行楽というのは筋が全く通らない。
 
 

在原兄弟

 

業平

 
 在五。
 

 63段在五中将この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめみせぬ心なむありける

 65段在原なりける男例の、このみ曹司には、人の見るをも知でのぼりゐければ、この女思ひわびて里へゆく。
 されば、何のよきこととて思ひて、いき通ひければ、みな人聞きてわらひけり。つとめて主殿司の見るに、沓はとりて奥になげ入れてのぼりぬ

 76段近衛府にさぶらひける翁いかが思ひけむ、知らずかし

 77段右馬頭なりける翁、目はたがひながらよみける。…とよみたるけるを、いま見ればよくもあらざり

 78段右馬頭なりける人のをなむ、青き苔をきざみて蒔絵のかたに、この歌をつけて奉りける

 79段これは貞数の親王。時の人、中将の子となむいひける。兄の中納言行平のむすめの腹なり

 82段右馬頭なりける人…時世へて久しくなりにぬれば、 その人の名忘れにけり

 99段女の顔の、下簾よりほのかに見えければ、中将なりける男のよみてやりける

 101段あるじ(行平)のはらから(兄弟)なる…とらへてよませける。もとより歌のことは知らざりければすまひけれど、強ひてよませければ

 103段むかし、男ありけり。いとまめ(真面目)にじちよう(実直)にて、あだなる(不誠実で浮気な)心なかりけり…
 心あやまりやしたりけむ、みこたちの使ひ給ひける人(82段「親王…右馬頭なりける人を常に率て」)をあひいへり…さる歌のきたなげさ

 
 これで「主人公には業平の面影がある」、などということは絶対にありえない。
 
 

行平

 
 
 業平の兄。
 79段と101段にニ度とも実名で登場。業平の名を出さないことの裏返し。
 79段では自分の娘を弟に孕まされた人物と描かれる。上記参照。
 
 114段の歌を後撰集が行平の歌と認定し、それを受けて一般は直ちに行平の歌とみなすが誤り。これは古今の認定と全く同じ構図。
 114段の時点で業平が死んでいるので、整合性がとれなくなったことによるこじつけ認定(捏造)。
 114段と初段とのかかりを全く読めず、狩衣の裾に歌を詠ませたのは、そこに刺繍があったからなどとする。
 
 終始一貫する「むかし男」を、突如そこだけ行平にするなど、読者達のこじつけ以外の何ものでもない。
 物語冒頭では、むかし男は1度2度抽象的に用いられたが(6段・12段)、特定の有名の個人を指す用法としては、一度も用いていない。
 
 

親王達

 
 
 「親王たち」(81段)は、基本酒とセットで描かれる(81~85段)。
 これは放蕩・堕落、そして無知を象徴させている(夜ひと夜、酒のみし遊びて)。
 
 

 
 西院・深草・田村・水尾・仁和(淳和・仁明・文徳・清和・光孝)が登場(53~58代)。
 57代陽成のみ欠落させているのは、高子の子ということもあるだろう(そして問題人物とされる)。
 この物語では、ほぼ専ら人物・時間の特定要素。
 
 最大の意義は、114段の仁和帝(在位:884-887)。
 この帝が登場する時点で業平は死んでいる。
 しかも仁和として唯一生存時の元号名称にしている。
 つまり伊勢は886頃にまとめあげられた(一度に書き上げたのではなく都度リリース)。
 
 こうした区別を無視し、直ちに905年の古今以後、さらに50年後の後撰後と解することは無理。