平家物語 巻第五 富士川:概要と原文

福原院宣 平家物語
巻第五
富士川
ふじがわ
五節之沙汰

〔概要〕
 
 頼朝蜂起を受け、大将平維盛(清盛の嫡孫)・副将忠度(清盛の異母弟)の3万余騎が出発。 忠度は年来通った女房と別れのあづま歌の贈答(古事記以来東歌は吾妻と妻問い・妻乞い・妻恋と掛ける)。(ここで本により高倉院の厳島参詣挿入) 軍勢は遠路で疲弊しつつ静岡の富士川に到着。はやり立つ維盛に侍大将の藤原忠清は当を得た分析で川を前にして兵が揃うまで待つよう言う。そのうち源氏は駿河に勢揃いし、先陣の忠清が常陸源氏佐竹の使いの雑色を捕らえる。すると京の女房に届ける手紙を持っていたので返し(前述の吾妻・妻ごいと対)、戦力を問うと聞いた話で20万という。忠清はこれを聞き、出兵自体遅かったと嘆いた。維盛が東国の案内者の斎藤実盛に戦力を問うと、東西の戦いぶりの違い(東は親子の死も乗り越え戦い、西は親子が死ぬと供養する等)を説き、皆震え上がった。平家軍は水鳥の羽音を源氏襲来と思い退却、翌日源氏20万が富士川に押し寄せ、鬨の声を上げた(富士川の戦い)。
 


 
 さるほどに、福原には公卿詮議あつて、今一日も勢の着かぬ先に、急ぎ討手を下さるべしとて、大将軍には、小松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将には上総守忠清を先として、都合その勢三万余騎、九月十八日に新都を立つて、十九日には旧都に着き、明くる二十日、東国へこそ打つ立たれけれ。
 大将軍小松権亮少将維盛は、生年二十三、容儀帯佩絵に書くとも、筆も及び難し。重代の着背長、唐皮といふ鎧をば、唐櫃に入れて舁かせらる。
 路中は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置き、乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒き馬の太う逞しきに、鋳掛地の鞍を置いて乗り給へり。馬、鞍、鎧、甲、弓、矢、太刀、刀に至るまで、照り輝くほどに出で立たりしかば、目出かりし見物なり。
 

 副将軍薩摩守忠度は、年来ある宮腹の女房のもとへ通はれけるが、ある時おはしたりける夜、この女房の局に、やんごとなき女房客人来たつて、小夜も遥かにふけゆくまで帰り給はず。忠度軒端にやすらひ、扇をあらく使はれければ、この女房、「野もせにすだく虫の音よ」と、優に口ずさみ給へば、忠度扇を使ひやみてぞ帰られける。
 その後おはしたる夜、「何とていつぞや扇をば使ひやみしぞや」と問はれければ、「いさ、かしましなんど聞こえ候ひしほどに、さてこそやがて使ひやみて候ひしか」とぞ申されける。
 その後、この女房のもとより薩摩守のもとへ小袖を一重遺るとて、千里の名残の惜しさに、一首の歌をぞ送られける。 
 

♪41
 あづま路の 草ばを分けん 袖よりも
  たたぬ袂の 露ぞこぼるる

 
 薩摩守の返事に、
 

♪42
 別れ路を 何かなげかん 越えてゆく
  関も昔の あとと思へば

 
 関も昔の跡と詠める事は、先祖平将軍貞盛、将門追討のために、東国へ下向したりし事を思ひ出でて詠みたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえし。
 

 昔は朝敵を平らげんとて、外土へ向かふ将軍は、まづ参内して節刀を賜はる。宸儀南殿に出御して、近衛階下に陣をひき、内弁外弁の公卿参列して、中儀の節会を行はる。大将軍副将軍、各礼儀を正しうして、これを賜はる。承平、天慶の蹤跡も年久しうなつて、なぞらへ難しとて、今度は讃岐守平正盛が、前対馬守源義親追討のために、出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり賜はつて、皮の袋に入れ、雑色が首に懸けさせてぞ下られける。
 古朝敵を滅ぼさんとて、都を出づる将軍は、まづ三つの存知あり。節刀を賜はる日家を忘れ、家を出づる時妻子を忘れ、戦場にして敵に戦ふ時身を忘る。されば今の平氏の大将軍維盛、忠度も、定めてかやうの事をば存知せられたりけん。あはれなりし事どもなり。
 

(ここに本により高倉院の厳島御幸挿入)

 

 各九重の都を立つて、千里の東海へ赴かれける。平らかにして帰り上らん事も、まことに危き有様どもにて、或いは野原の露に宿をかり、或いは高嶺の苔に旅寝をし、山を越え川を重ね、日数経れば、十月十六日には、駿河国清見が関にぞ着き給ふ。都をば三万余騎で出でたれども、路次の兵召し具して、七万余騎とぞ聞こえし。
 前陣は蒲原、富士川に進み、後陣はいまだ手越、宇津の谷に支へたり。
 

 大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清を召して、「維盛が存知には、足柄の山打ち越え、ひろみへ出でて勝負をせん」とはやられけれども、上総守申しけるは、「福原を御立ち候ひし時、入道殿の御諚には、戦をば忠清に任させ給へとこそ仰せられ候ひつれ。伊豆、駿河の勢の参るべきだにもいまだ見え候はず。味方の御勢は七万余騎とは申せども、国々の駆り武者、馬も人も皆責め伏せて候ふ。坂東には草も木も、兵衛佐に随ひつきて候ふなれば、何十万騎か候ふらん。ただ富士川を前に当てて、味方の御勢を待たせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、力及ばでゆらへたり。
 

 さるほどに、兵衛佐頼朝鎌倉を立つて、足柄の山打ち越えて、駿河国黄瀬川にこそ着き給へ。甲斐、信濃の源氏ども、馳せ来たつて一つになる。浮島が原にて勢揃へあり。都合その勢二十万騎とぞ記しける。
 常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使に文持ちて都の方へ上りけるを、平家の侍大将上総守忠清、この文を奪ひ取つて見るに、女房のもとへの文なり。苦しかるまじとて、取らせてんげり。
 「当時鎌倉に源氏の御勢は、いかほどあるぞ」と問ひければ、「下﨟は四五百千までこそ、物の数をば知つて候へ。それより上をば知らぬ候ふ。四五百千より多いやらう、少ないやらうは知り候はず。八日九日の道にはたと続いて、野も山も海も川も、皆武者で候ふ。昨日黄瀬川で人の申し候ひつるは、源氏の御勢二十万騎とこそ申し候ひつれ」と申しければ、
 上総守、「あな心うや。大将軍の御心ののびさせ給ひたるほど、口惜しかりける事はなし。いま一日も先に討手を下させ給ひたらば、大庭兄弟、畠山が一族、などか参らで候ふべき。彼等だに参り候はば、坂東には靡かぬ草木も候ふまじ」と後悔すれども甲斐ぞなき。
 

 大将軍権亮少将維盛、坂東の案内者とて、長井斎藤別当実盛を召して、「やや実盛、汝ほどの射手、八箇国にはいかほどあるぞ」と問ひ給へば、
 斎藤別当あざ笑つて、「さ候へば、君は実盛を大箭と思し召され候ふか。わづかに十三束をこそつかまつり候へ。坂東に大矢と申すぢやうの者の十五束におとつて引くは候はず。弓の強さも、したたかなる者の五六人してはり候ふ。かやうの精兵どもが射候へば、鎧の二三領はたやすうかけず射通し候ふ。大名と申すぢやうの者の、五百騎におとつたるは候はず。馬に乗つて落つる事を知らず、悪所を馳すれど馬を倒さず。戦はまた親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。西国の戦と申すは、すべてその儀候はず。親討たれぬればひき退き、仏事孝養し、忌みあけて寄せ、子討たれぬれば、その思ひ歎きに寄せ候はず。
 兵糧米尽きぬれば、春は田作り、秋は刈り収めて寄せ、夏は暑しと言ひて厭ひ、冬は寒しと嫌ひ候ふ。坂東の戦と申すは、総てその儀候はず。甲斐信濃の源氏ども、案内は知つたり、富士の裾より、からめ手にや参り候はんずらん。かやうに申せば、大将軍の御心を臆せさせ参らせんとて、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。ただし戦は勢にはより候はず。策によるとこそ申し伝へて候へ」と申しければ、これを聞く兵ども、皆震ひわななき合へり。
 

 さるほどに、同じき十月二十四日の卯の刻に、富士川にて、源平の矢合せとぞ定めける。
 

 同じき二十三日の夜に入つて、平家の兵ども、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓らが、戦に恐れて、或いは野に入り山に隠れ、或いは船にとり乗つて、海川に浮かび、営みの火の見えけるを、平家の兵ども、「げにも野も山も海も川も皆武者でありけり。いかがせん」とぞ慌てける。
 

 その夜の夜中ばかり、富士の沼にいくらもありける水鳥どもが、何にかは驚きたりけん、一度にぱつと立ちける羽音の雷、大風などのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「あはや、源氏の大勢の向かうたるは。斎藤別当が申しつるやうに、富士の裾より、からめ手へも定めて回るらん。取り籠められてはかなふまじ。ここを落ちて、尾張川、洲俣を防げや」とて、取る物も取りあへず、我先に我先にとぞ落ち行きける。
 あまりに慌て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、我が馬には人に乗られ、人の馬には我乗り、或いはつないだる馬に乗つて馳すれば杭を廻る事限りなし。その辺近き宿々より、遊君遊君、遊女ども召し集め、遊び酒盛りけるが、或いは頭蹴割られ、或いは腰踏み折られて、をめき叫ぶ事おびたたし。
 

 同じき二十四日の卯の刻に、源氏の勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地もゆるぐばかりに、鬨をぞ三箇度作りける。
 

福原院宣 平家物語
巻第五
富士川
ふじがわ
五節之沙汰