平家物語 巻第五 咸陽宮:概要と原文

朝敵揃 平家物語
巻第五
咸陽宮
かんようきゅう
文覚荒行

〔概要〕
 
 外国の例を尋ねると燕の太子丹の例がある。丹が秦の始皇帝に12年囚われ老母の孝行のため解放を請うと、馬に角が生え、カラスの頭が白くなるまで待てという。しかしそれが起きて解放された。帝は収まらず追討したが、再度の奇跡で丹は生還。しかしその後、丹は始皇帝暗殺を謀り、荊軻秦舞陽を送り込んだが寸前で失敗して滅ぼされた。 今の頼朝もそのようになるでしょうよと色をつけて言う人もいたとか。

 


 
 また異国に先蹤をとぶらふに、燕の太子丹、秦の始皇帝に囚はれ奉て、戒めをかうぶる事十二年、燕丹涙を流して、「我故郷に老母あり。暇を給はつて、いま一度かれを見ん」とぞ歎きける。始皇帝嘲つて、「汝に暇賜ばん事は、馬に角生ひ、烏の頭の白うならんを待つべし」とこそ宣ひけれ。燕丹天に仰ぎ地に臥して、「願はくは馬に角生ひ、烏の頭を白くなしたべ。故郷に帰つて今一度母を見ん」とぞ祈りける。
 かの妙音菩薩は、霊山浄土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顔回は、支那震旦に出でて、忠孝の道を始め給ふ。冥顕の三宝、孝行の心ざしを憐れみ給ふ事なれば、馬に角生ひて宮中に来たり、烏の頭白くなつて、庭前の木に住みけり。始皇帝、烏頭馬角の変に驚き、綸言返らざる事を深く信じて、太子丹を宥めつつ、本国へこそ帰されけれ。
 

 始皇なほ悔しみ給ひて、秦国と燕の境に楚国といふ国あり。大きなる川流れたり。かの川に渡せる橋をば楚国の橋といへり。始皇官軍を遣はして、燕丹が渡らん時、川中の橋を踏まば、落つるやうに認めて、太子丹を渡らせけるほどに、なじかはよかるべき、川中より落ち入りぬ。されどもちつとも水にも溺れず、平地をゆくがごとくにて、向かへの岸に渡り着く。こはいかにと思ひて、後ろを顧みたりければ、亀どもがいくらといふ数も知らず、水の上に浮かれ来て、甲を並べてぞ歩ませたりける。これも孝行の心ざしを、冥顕の憐れみ給ふによつてなり。
 

 燕丹恨みを含みて、始皇帝に従はず。始皇官軍を遣はして、燕丹を滅ぼさるべしと聞こえしかば、燕丹大きに恐れをののき、荊軻といふ強者を語らつて大臣になす。荊軻また田光先生といふ強者を語らふ。先生申しけるは、「君は若く壮んなつし事を知ろしめしてかやうには頼み仰せらるるか。麒麟は千里を飛ぶといへども、老いぬれば駑馬にも劣れり。この身は年老いて、いかにもかなひ候ふまじ。詮ずる所、強者をこそ語らつて参らせめ」とて、すでに出でんとしければ、荊軻、「あなかしこ、この事人に披露すな」と言ひければ、「人に疑はれぬるに過ぎたる恥こそなけれ。この事洩れぬるものならば、まづ我の疑はれなんず」とて、荊軻が門前なる李の木に頭を突き当て、打ち砕きてぞ死ににける。
 

 また樊於期といふ強者あり。これは秦国の者なりしが、始皇のために、親、伯叔、兄弟を滅ぼされて、燕国に逃げ籠る。秦皇四海に宣旨を下し、「樊於期が頭を進ませたらん者には、五百斤の金を与へん」と披露せらる。荊軻、樊於期がもとに行きて、「我聞く、汝が頭五百斤の金に報ぜられたんなり。汝が頭我に貸せ。取つて始皇帝に奉らん。喜んで叡覧を得られん時、剣を抜き胸を刺さんはやすかりなん」と言ひければ、樊於期、天に仰ぎ躍り上がり、大息ついて申しけるは、「我、始皇帝のために父、伯叔、兄弟を滅ぼされて、夜昼これを思ふに、骨髄に徹つて忍び難し。げにも始皇帝討つべからんにおいては、我が頭与へんこと、塵芥よりなほやすかりなん」とて、自ら頭を切つてぞ死ににける。
 

 また秦舞陽といふ強者あり。これも秦国の者なりしが、十三の歳敵を討つて、燕国へ逃げ籠れり。彼が笑んで向かふ時は、みどり児も抱かれ、怒つて向かふ時は、大の男も絶入す。
 

 彼を秦の都の案内者に語ろうて具してゆくに、ある片山の辺に宿したりける夜、その辺近き里に管弦をするを聞いて、調子をもつて本意の事を占ふに、敵の方は水なり、我が方は火なり。さるほどに、天も明けぬ。白虹日を貫いて通らず。「我が本意遂げん事有り難し」とぞ申しける。さりながら帰るべき道にあらねば、秦の都咸陽宮に至りぬ。
 

 燕の指図ならびに樊於期が頭持つて参りたる由を奏聞す。臣下をもつて受け取らんとするに、「全く人伝てには参らせじ。直にこそ参らせめ」と言ひければ、さらばとて節会の儀を調へて、燕の使を召されけり。
 

 咸陽宮は、都のめぐり一万八千三百八十里に積もれり。内裏をば地より三里高く築き上げて、その上にぞ建てたりける。長生殿あり、不老門あり。黄金をもつて日を作り、白銀をもつて月を作れり。真珠の砂、瑠璃の砂、黄金の砂を敷き満てり。四方には、高さ四十丈に鉄の築地を築き、殿の上にも同じう鉄の網をぞ張つたりける。これは冥途の使を入れじとなり。秋は田の面の雁、春は越路へ帰るにも、飛行自在の障りあれば、築地には雁門と名付けて、鉄の門を開けてぞ通しける。
 

 その中に阿房殿とて、始皇の常は行幸なつて政道行はせ給ふ殿あり。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は五丈の幢を立てたるがなほ及ばぬほどなり。上は瑠璃の瓦をもつて葺き、下には金銀にて磨けり。
 

 荊軻は燕の指図を持ち、秦舞陽は樊於期が頭を持つて、玉の階を登り上がる。あまりに内裏のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなと震ひければ、臣下怪しみて、「舞陽謀叛の心あり。刑人をば君の傍らに置かず。君子は刑人に近付かず。近づくはすなはち死を軽んずる道なり」と言へり。荊軻立ち返つて、「舞陽全く謀叛の心なし。ただ田舎の陋しきにのみならつて、皇居に馴れざるが故に心迷惑す」と言へり。その時臣下皆静まりぬ。
 よつて王に近づき奉て、燕の指図並びに樊於期が頭を見参に入るる所に、指図の入りたる櫃の底に、氷のやうなる剣のありけるを、始皇帝御覧じて、やがて逃げんとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引かへ奉り、剣を胸にぞ差し当てたり。今はかうとぞ見えたりける。数万の軍兵、庭上に袖を連ぬといへども、救はんとするに力なし。ただこの君逆臣に犯され給はん事をのみ歎き悲しみ合へりけり。
 

 始皇帝宣はく、「我に暫時の暇を得させよ。最愛の后の琴の音を、今一度聞かん」と宣へば、荊軻しばし犯し奉らず。始皇帝は三千人の后を持ち給へり。その中に花陽夫人とて、勝れたる琴の上手おはしき。およそこの后の琴の音を聞いては、猛きもののふの怒れる心も和らぎ、飛ぶ鳥も落ち、草木も揺るぐばかりなり。況んや今を限りの叡聞に備へんと、泣く泣く弾き給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊軻首をうなだれ、耳を側てて、ほとんど謀臣の心もたゆみにけり。
 后はじめてさらに一曲を奏す。 
 

♪40
 七尺の屏風は高くとも 躍らばなどか越えざらん
 一条の羅綾は強くとも 曳かばなどか絶えざらん

 
 とぞ弾き給ふ。
 荊軻はこれを聞き知らず。始皇帝は聞き知つて、御袖をひつ切り、七尺の屏風を飛び越えて、銅の柱の陰へ逃げ隠れさせ給ひけり。荊軻怒つて、剣を投げかけ奉る。折節御前に番の医師の候ひけるが、薬の袋を投げ合はせたり。剣、薬の袋をかけられながら、口六尺の銅の柱を、半らまでこそ切つたりけれ。荊軻また剣も持たざれば、続いても投げず。王立ち帰つて、我が剣を召し寄せて、荊軻を八つ裂きにこそし給ひけれ。秦舞陽も討たれぬ。始皇やがて官軍を遣はして、燕丹を滅ぼさる。
 

 蒼天許し給はねば、白虹日を貫いて通らず。秦の始皇は逃れて、燕丹遂に滅びにけり。「されば今の頼朝も、さこそはあらんずらめ」と、色代申す人々もありけるとかや。
 

朝敵揃 平家物語
巻第五
咸陽宮
かんようきゅう
文覚荒行